第四一〇話 総統閣下の憂鬱
「平和なのだ」
執務机上の圧倒的書類山脈に背を向けたヴィルヘルミナは、窓越しに穏やかな昼下がりの青空を見上げる。
空には幾つもの編隊が飛行している。
皇国から飛来する戦術爆撃騎の編隊である。
首都上空を時間の区別なく飛来する大編隊に対して国民は早々に慣れつつあったが、軍としては迎撃などできようはずもない規模である為、皇国との国力差を改めて感じると共に、皇国への合流に対して一段と熱心になりつつあった。北エスタンジアの国土に対する爆撃の被害が流布するにつれて大国との国力差を嫌でも痛感せざるを得ず、統合に否定的な者達の中にも変心する者が現れつつある。
南エスタンジア陸軍も首都航空隊を進発させて所属確認を当初は行っていたが、余りにも頻繁に発生する為、航空隊の疲弊が無視できず中断された経緯がある。皇国が一戦域に投射する航空戦力規模ですら南エスタンジアの四〇倍を超えており、此れを監視し、軍は把握するだけの航空騎すら用意できなかった。近々、エスタンジア空域管制司令部の設置が予定されているが、トウカによる”叛乱鎮圧”の動きが性急であった為、後手に回った形である。
ヴィルヘルミナは、そうした航空攻撃を叩き付けられなかった幸運を噛み締める。戦略爆撃騎まで飛来して破滅的な結果も状況次第では有り得たかもしれないのだ。
「こうしている最中にも戦線では熾烈な戦闘が実施されているのだけどね」
宣伝大臣であるヨゼフィーネが実情を指摘するが、ヴィルヘルミナとしては下手をすると国軍最後の見せ場なので奮起しているのだろうと見て口を挟み難い。
ヴィルヘルミナの総統就任以降、北エスタンジアへの攻勢は控えられてきた経緯もあり、軍の活躍の場は限られてきた。経済発展を重視した為であり、北エスタンジア側も経済難から大規模な攻勢は困難であった。政情不安定を鑑みて小競り合いや限定攻勢を選択するに留まっていた事も大きい。帝国が無理に侵攻を試みた過去もあるが、それは結局のところ補給の限界との戦いが主となった。無論、そうした状況も皇国からの派兵により終結を迎えている。
とは言え、北も南も国家単独としては戦線拡大を恐れていたとも言える。国内事情が大規模な戦争に耐えられない。
しかし、トウカが南エスタンジアでの叛乱に対し、北エスタンジアが軍事介入を試みるであろう可能性を排除すべく”予防攻撃”を行う判断をした事で状況は急変する。
トウカの北エスタンジアの重要施設への爆撃は、南エスタンジアの叛乱勢力や旗幟を鮮明にしない部隊を国境線に拘束するという意図もあった。交戦状態となれば敵の国境線に展開した部隊を前に、安易な部隊移動を図る事は敵前逃亡と見られ要らぬ疑念を招く公算が高い。しかしながら、その北エスタンジアへの爆撃の規模は予防攻撃や部隊拘束を意図した規模に留まるものではなかった。
明らかに南エスタンジアによる北エスタンジア侵攻を期待する動きであり、実際に統一が為されるべきだろう、という発言が公式の場でも為されていた。北エスタンジア全域の軍事目標……のみならず、統治関係施設への爆撃も開始されており、それは明らかに国家を破壊する為の攻撃であった。
南エスタンジア陸軍総司令部は北エスタンジアへの攻勢許可をヴィルヘルミナに求め、彼女はこれを許可した。
実情として、国境は不安定であり小競り合いは数知れず、政治的であれ軍事的であれ始末を付けるには軍事的打撃を行うしかなかった。
結果、南エスタンジア軍は北エスタンジア領土を順調に占領しつつある。
無論、これは皇国軍による航空支援の効果が大きい。
司令部も物資集積所も橋梁も鉄道も……軍隊を十全に運用するに当たって必要な施設を手当たり次第に爆撃するのだから、北エスタンジア軍は組織的抵抗が困難で、精々が聯隊規模の抵抗が精々であった。連携不足による誤爆などもあったが、全体として南エスタンジアは北エスタンジアを圧倒しつつある。
後、三日もあれば首都への侵攻も叶う状況である。
「呆気ないものなのだ……今迄の努力が莫迦らしくなるのだ」
圧倒的国力で殴り付ければ解決するという単純な事実。
無論、その国力差を南エスタンジアでは用意できなかった事を悔やむ程、ヴィルヘルミナは隣国を引き離す程の富国強兵が容易ではない事を理解していたが、それでも思う所はある。
長年に渡り突破できなかった戦線が布を割く様に引き裂かれる光景は現実感を欠くものがある。
壁に貼られた戦略図を見れば戦線全体で大きく押し上げている事が分かる。
「まさか、ヒッパー提督まで助力してくれるとは思わなかったのだ……」
帰還の序でにひと暴れするとしましょうぞ、との言葉を残して帰途に就いたかと思えば、北エスタンジア海軍主力を鎧袖一触で粉砕し、沿岸の要衝に艦砲射撃を加えて痛打を浴びせ、未だ北エスタンジア沖合に遊弋している。エスタンジア方面では見かけない大型戦艦を含む艦隊の前には抗する事もできず、北エスタンジア海軍は壊滅状態となった。それにより南エスタンジア海軍は脅威が大幅に減じた事で大胆な作戦行動が容易となった事で商用航路を完全に閉塞する事に成功した。
――皇国は帝国を挑発して艦隊を釣り上げられないかと考えたのかな?
属国に等しい隣国と比較的小規模な艦隊を餌に帝国海軍艦隊を誘引しようとの試みだと容易に想像できるが、ヴィルヘルミナは恐らく帝国海軍が動かないだろうと見ていた。
南大星洋海戦で帝国海軍〈第五辺境艦隊〉は甚大な被害を受け、皇国海軍〈聯合艦隊〉も同様に相当な被害を受けたが、その後の対応は明暗を分けた。
〈聯合艦隊〉は損傷艦艇の修理と喪失艦艇による戦力低下の補充を試みたが、〈第五辺境艦隊〉は修理も補充も儘ならなかった。帝国本土の擾乱甚だしく、軍事費の捻出が困難となる中で海軍戦力よりも陸軍戦力が重視された為である。〈第五辺境艦隊〉の健在な補助艦艇は他大陸との通商航路の警備任務に投じられ、戦闘航海に耐えられないと判断された損傷艦は軍港で係留され、修理の目途すら立っていない状況であった。今現在、他の辺境艦隊を糾合するという話が出ているとは知られているが、それは未だ公表されていない。
南エスタンジアは帝国本土に相当数の間諜を放ってる。
北エスタンジアの背後に帝国が存在し、その意向次第で吹き飛ぶ程度の国力しか有していない事を南エスタンジア政府は良く理解していた。その為、帝国海軍の状況は逐一把握していた。航路封鎖をされれば短期間で経済が干上がる以上、神経質にならざるを得ないという実情もある。
実は帝国への諜報活動の面では南エスタンジアは皇国に優越しているという事情がある。
諜報網構築には長い歳月を要する事もあり、近年になり方針転換をしたばかりの皇国は未だに帝国の内情についての諜報活動の獲得に苦労していた。
「勝利は確実。喜ばしい事じゃない。素直に言祝ぎなさい」
ヨゼフィーネは素直に喜べと口にするが、ヘルミーネとしては突然やってくる戦後に怯えていた。
皇国の助力在っての統一や皇国の影響力の伸長などの心配をする者は多いが、ヴィルヘルミナとしては問題は戦後にこそあると考えていた。異なる政治思想で長年に渡り統治されていた民族を統治する以上、当然と言える。
種族的差異のある者達も住まうが割合として少ない為、種族問題が統治上の大きな懸念点となる公算は低いが、絶対王政の下で過ごした者達の統治をどの様な形にするかという研究は、総統府直轄の民族統合室に於いて為されているものの、それには莫大な予算が必要とされるとの結果が出ていた。教育水準に医療水準、生活水準……民族統合に当たって致命的な格差があり、その格差を知れば不満として噴出する事は疑いなく、その不満を帝国の間諜が扇動する事は確実視されていた。
「戦後の統治をどうするかで頭が痛いのだ。ここまで長期間に渡って異なる国家として歩んでいた事を考えると、何もかもが違う……」
その辺りは歌って踊って解決する問題ではない。
差異を合わせるには大規模な投資が必要となる。北エスタンジア政府や貴族を軒並み押さえて資産を没収したとしても足りるとは思えず、どう考えたところで南エスタンジア政府も予算を拠出しなければならなくなるが、ヴィルヘルミナの見たところそれでも大きく不足していた。そもそも、直近まで敵国であった地域に予算を割く事を南エスタンジア国民が認めるかという点をヴィルヘルミナは懸念していた。
そうした懸念に対し、ヨゼフィーネは複雑に考えない。
「そこは軍政を敷くしかないでしょう? 軍だって帝国の斜陽や皇国との合流を考えたら食い扶持に困るでしょうし、軍政を敷く事で予算が確保できると喜ぶでしょ?」
「全てを与える事は不可能だから分けて統治すると?」
軍事的に統合したにも関わらず、統治を異なる形にする以上、二つの民意……考え方に国民が分断されるという事でもある。
それは、トウカが部族連邦北部の一部を併合するに当たって可能な限り避けようと試みていた節がある点であるとヴィルヘルミナは見抜いていた。
――異なる待遇は不満になるし、対立に繋がるからなのだ。でも、私がそれ以外を見落としている可能性もある。できるなら完全な形で手段は踏襲したい。
現状で大きな問題が起きていない先例があるのだから模倣すればいいという判断である。無論、土地も異なれば住まう者達の実情も異なるが、大いに参考になる事実は変わらず、経済的、文化的格差の面では猶更である。
――とは言え、天帝陛下は狂った額の予算を握っているのだ。
国家存亡の戦争を利用した株式売買の結果であり、侵略を受ける中で冷え込む経済情勢を鑑みて買い支える必要があると判断したという建前を言い放ち、あらゆるモノを担保にして皇国株式を買い漁った。反撃と帝国軍撃滅、その後に続く帝都空襲や諸都市爆撃まで目算が立ち、その時期を把握しているのだから、株式売買は国家規模の八百長である。
挙句に加熱する株式分野に冷や水を浴びせる投げ売りをして資金回収も躊躇しない。 株式投資による予算確保はすれども、国民が金銭遊戯に熱中する動きは好ましくないと見ているのだ。昨今の協商国の混乱を見れば、ヴィルヘルミナもそれを否定できない。
軍政を敷いたところで、それが不要となる状況まで進展させるには多額の予算が必要となる事に変わりはない。
ヴィルヘルミナはそうした点こそが、トウカの目的なのだろうと考えていた。
予算不足を補う為、皇国への従属が強まらざるを得なくなり、流入する皇国資本の影響力を国民は実感せざるを得なくなる。皇国への合流による繁栄を見せ、それが理になると示す意図があるのだ。ヒトは利なくば動かない。対する理は後から用意できる。 利益と道理。
ヒトは前者を本音とし、後者を建前とする。
トウカは本音の部分を満たすべく動いてきたと言える。利益が伴えば建前を叫ぶ者など封殺できるとの確信があるのか、道理の充足は費用対効果に乏しいと考えたのかまでは判断が付かないものの、トウカが実利を優先する傾向にあるのは周知の事実である。
「理念に引き摺られ過ぎよ。北エスタンジアの国民だって、重税からは解放されるのだから暫くは浮かれるでしょう。二年から三年は猶予があると思うけど?」
裏を返せば二年から三年で軍政による交流の分断を解く必要があるのだけど、とヨゼフィーネは思案顔。徐々に予算上の問題を認識し始めた様子であった。
莫大な予算であり数分割された程度では南エスタンジアの国力では追い付かないという計算。そうした状況をトウカは望んでいるのだ。
「我が国はエスタンジア統一の悲願を叶えども、予算面で苦しい状況に立つ事になるのだ。つまり、進退窮まれば天帝陛下に頼らざるを得ない」
天帝陛下の庇護の下でのエスタンジア統一という偉業が成し遂げられる。
それはエスタンジアという地域に根付いた思想……という程ではない地域性程度のものが統一という事業により民族性などの独自性や独立心の土壌となる事を抑止したいと考えているのだと、ヴィルヘルミナは読んでいた。
エスタンジアの行く末に対してトウカは懸念している傍証ではないかとヴィルヘルミナは考え、そしてヴィルヘルミナの手に余ると見られているのだと考えていた。
――若しかすると、信用されていないのかも。
或いは皇国からの将来的な独立を意図した暗躍を警戒し、事前にその余地を潰しておこうと一手を講じたというのであれば、ヴィルヘルミナとしては些か気落ちするものがある。
「何とかして信頼して貰わないと」
「そうねえ。胡散臭いと思われたら、頃合いを見てさくっと病死させられかねないものね」
ヴィルヘルミナの信頼への渇望を、ヨゼフィーネは生命に関わる話として見たが、 ヴィルヘルミナとしてそれだけで済むならば救いがあるとすら思えた。
不信感から隔意に繋がれば、エスタンジア地域の経済発展は限定的なものに留まり、 人口流出による弱体化を試みる動きが生じかねない。最近ですら皇国北部への出稼ぎ労働の動きが増加している。
「でも、直接会った限りは悪くない雰囲気だったじゃない? 配慮を示す必要がある状況とはいえ、小国に意志を押し付ける事も為せる立場よ。そう、悪くないのよ」
短時間の会話の限りではそう見えたが、気に入らぬ相手を常日頃から脅し付ける程度の人物であれば、政戦両略などとは評されない。昨今の旭日の如き勢いはその力量に根差したものであり、平素より抜身の軍刀を手にして周囲に無用の警戒を強いる程度の人物であるはずがなかった。
「安易に本心を見せないから問題なの。悪くないなんて、他所様への仮面でしょ?」
「あら、貴女だって総統という仮面と女優という仮面を手にして使い分けているじゃない。陛下ばかりに仮面を取る事を望むのは理不尽じゃない?」
「それは……確かにそうなのだ」
そう言われては反論できないヴィルヘルミナだが、ヴィルヘルミナの仮面を喜んで用意したヨゼフィーネ自身にそうした台詞を口にされるのは釈然としないものがある事もまた事実であった。
だが、そうなるとヴィルヘルミナも個人としてトウカに接する必要がある。天帝陛下とはいえ、相手は家庭を築く相手である。家庭内でも天帝と皇妃という仮面で接し続けるにはヒトの人生は長い。
「うーん、本来の私として陛下に……」
「駄目よ。それは駄目。全てが終わるわ」
ヴィルヘルミナの前向きな意見を遮り、ヨゼフィーネがこの世の終わりの様な表情で吐き捨てる。
「部屋の片付けもできなければ、休日は日がな寝間着で過ごして、挙句にその姿で化粧すらせずに外出する。そんな芋臭い女が貴女の正体よ? 分かっているの?」
ヴィルヘルミナを指差し、嘗ての現実を突き付けるヨゼフィーネ。
実情として、ヴィルヘルミナという少女は自堕落である。ヨゼフィーネに目を付けられて綺麗に演出されているが、実際はヴィルヘルミナ自身そうした衣服を使って自身を着飾るという真似ができない女であった。興味もなく必要もないとすら嘗ては考えており、ヨゼフィーネに説教を受けた過去も数知れず。
「いや、私だって今はちゃんとしているのだ」
「私と侍女に丸投げでしょう? 貴女そもそも最近は休日も軍装じゃない」
女優業を除けば、大抵は国家指導者たる総統の立場として軍装を纏えば良いので一時期よりは毎朝服を選ぶ必要がないと考えていたヴィルヘルミナの胸中を見透かしたかの様なヨゼフィーネの言葉。ヴィルヘルミナとしては反論したいが、同意するところしかない。
そうした中でもヨゼフィーネの舌鋒は緩まない。ヨゼフィーネの方が演説に向いているのではないかと思える光景に、ヴィルヘルミナは執務椅子を半回転して背を向ける。
「第一に、貴女は男と手を繋いだ事もないでしょう? それで狐も龍も貪った陛下の前に出ても良い様にされるだけじゃない」
「手を繋いだ事あるもん。救命講習とか射撃訓練とか……握手会とかもしてるし……」
公務上の必要性という話。
ヨゼフィーネは鼻で笑う。
御前はどうなのだ?と問いたいところであるが、ヴィルヘルミナはヨゼフィーネが如才ない人物だと知っているので反撃しない。実は婚約者が、などと言われては勝ち目がなくなる。
「そもそも、天帝陛下だって……だって……だって?」
振り返ってみれば、トウカはどうなのだろうか?とヴィルヘルミナはトウカの来歴を思い起こす。
「高位種の異性と恋仲になって軍で栄達した後に国家指導者になるとか……充実してるのだ。私と違って高性能で気後れする……」
充実と栄光に彩られた人生にしか見えない。
客観的に見れば、トウカの近年の境遇はヴィルヘルミナの考えと相違なかった。それが仕組まれたものであったとして、その様な成功の連続など有り得るだろうかと疑問を呈する程には奇跡的なものである。
「私の入る隙……無いと思うのだ」
見目麗しく、其々にヒトならざる魅力がある。ヴィルヘルミナも妖精の血を引いているらしいが、それは先祖返りで容姿に出たに過ぎず、恐らくは寿命や身体的頑健さもある程度はそれに応じたものとなっているものの、妖精の能力を行使できる訳ではない。それ故にヴィルヘルミナの感性は完全に人間種のそれであった。顔の造形に恵まれて老化し難い程度の感想しか自身に抱いていない。
「狐も龍も居なくなったじゃない。後は妖精と紫芋だけよ」
妖精と紫芋相手なら勝てると踏んでいるヨゼフィーネだが、争うとしてもその矢面に立つのはヴィルヘルミナである。迷惑極まりない。
「妖精のよしみで良くしてくれるかも知れないでしょ? 紫芋なんてただ変色した髪の女じゃない」
妖精同士で徒党を組んで紫芋を焼酎にしてしまえと言いた気なヨゼフィーネだが、ヴィルヘルミナの見解は異なる。
「いや、私の見たところその紫芋……ハルティカイネン少将が一番、油断できないのだ」
他者との遣り取りで常に選択肢に殺害という手段が入っている人物に思える。
軍人や立場関係なく、仕方がないという理由でヒトを殺害できる異質な人物だとヴィルヘルミナはリシアの事を考えていた。
リシアという女性には怪し気な部分が多い。紫苑色の髪が神秘と幻想を皇国では抱かせるが、隣国から見ると傍若無人の輩である。野戦指揮官としての力量はあるかも知れないが、本質的に暴力で物事を進める女性であるとヴィルヘルミナは見ていた。
――単に私が禄でもない逸話に影響を受けているだけかも知れないけど……
「こういう時、レイムなら……」
ヒトを見る目があり、権力構造の狭間に生きる者達の行動を熟知した麗人を思い出し、そしてヴィルヘルミナは口を噤む。去った者に期待はできず、その理由はヴィルヘルミナにある。
「あの女の代わりなら政府閣僚にも居るでしょう? 閣僚や官僚ではなく、ああした輩を重用するのはよしなさい」
不仲であるだけに手厳しい意見であるが、職責と異なる立場の人物を何かにつけて頼る事により親衛隊の権勢が拡大した側面もあるのでヴィルヘルミナとしては弁解できなかった。
「貴女はヒトを頼るのが上手で、その気にさせるのが上手いのよ。気付いていないでしょうけど。そして、あの女は驚いた事に女としてその気になった。こんな馬鹿気た事はそうそうないわ……だから注意の必要はあるけど臆病になる必要はない。いいわね?」
同性に求められて政局沙汰になった事で、権力者達との関係まで消極的になる必要はないというヨゼフィーネの配慮。母親の様ですらあるが、それを口にして以前に頬を抓られた事がある為、ヴィルヘルミナは神妙な顔で何度も頷くに留める。
「先ずは、陛下と個人的に話をする機会が欲しいわね。公務上の遣り取りなんて、あまり役に立たないでしょうし」
「まぁ、公務上の気構えだろうとは思うけど……陛下は公私の境目が曖昧な気もするのだ」
トウカの振る舞いは、そもそも政治的であった。
余が国家なり、とは言わぬものの、平素より公私の境目が曖昧でありながら問題視されていないのは、トウカがそもそも政戦ありきで生活をしている為である。
政戦の為に生まれたかの様な印象すら受けるのは、公務時間が長く、執務の無駄を省く事に偏執的なまでの姿勢を見せている事が大きい。巷では公式行事の大部分を省き、省庁の文章書式を均一化、民間や企業からの苦情や意見の受け入れの大部分を書面による提出に切り替えるという動きに、無駄を極端に嫌う人物であるとの印象が根付きつつあった。
――そこまで文章にするなんて、ちょっとどうかと思うのだ。
確かに意見の齟齬があった際、書面による遺り取りであれば振り返って正確な遣り取りが可能であるし、先の意見を翻す事は難しくなる。何より文章なので口論により感情論が先立つ余地を低減できた。
しかし、突発的な問題や緊急の案件、何よりも弱者の陳情というものは決まって口頭になる傾向がある。弱者は選択肢を用意しても原始的な手段に頼る傾向がある。より良い選択を調査せず、最も原始的で経験のある選択をする傾向にあった。それ故に弱者であり続けるのだが、そうであるならば致し方なく、そうした層は必ず存在する上、国家として切り捨てるという選択肢は取れない。税収と治安上の危機となりかねない。 生活水準向上から取り残される国民が居てはならないのだ。
文章から汲み取れない苦節も無視する事はできない。
トウカは、その辺りも理解しているのか、初代天帝が導入を断念した警務府による交番という仕組みの導入を開始している。全国津々浦々に警務官を常駐させ、細やかな問題に対処するという目的に加え、ヴィルヘルミナはこれを利用し全国で生じている問題の傾向を数値化して分析する心算であろうと見ていた。新設された国家統計庁もその為に用意されたのではないかと睨んでいた。
その辺りの文章は政策資料として開示されており、ヴィルヘルミナも目を通したが、 作成者にトウカの名前しか記されていない事と、夥しい参考文献と引用が印象的であった。
――恐らく個人で立案をしたのだ。ちょっと現実的じゃない。
政策立案を個人で行うというのは明らかに手に余る話であり、素案を作るというのであれば可能だが、トウカの政策は少なくない部分がトウカ個人によって最終決定にまで持ち込まれている様に見えた。内容に複数の官僚組織の意図が感じられず、個人が全てを記しているという印象をヴィルヘルミナは覚えた。普段から何を考えて生きているのだろうとヴィルヘルミナが思う程度には内容を詰めている。
実際のところ、トウカの脳裏には祖国の制度とその問題点を知る為、それを皇国に適用するに辺り顕在化する公算が高い問題に合わせて変更を加えているに過ぎなかった。無論、その変更を加えるという点にこそ力量が出るが、それはこの世界の者達が知り得ない話であり、実情として政策実施に当たり当事者となる府庁には事前に問題点の洗い出しの要求が行われる事もあってトウカの負担はヴィルヘルミナが考える程ではない。寧ろ、問題点の洗い出しという名の下問が行われる各府庁関係者の精神的負担がより大きい。
認識の齟齬による過大評価であった。
「そう言えば、外交団が帰国したのだから、陛下の為人について聞けばいいんじゃないかしら? 公務上の遣り取りでも節々に人間性が出るものよ」
「うーん、それはいいけど、定型文が出てくるだけじゃ意味がないのだ」
ヨルドシュテット辺りなどは政府決定に沿う方向性の内容を語るであろうし、政府閣僚を呼び出してもそれは変わらない。
ヒトは今迄の人生で得た色眼鏡を通し世間を俯瞰する。
立場や思想もその色眼鏡には含まれるのだ。
「そうなると随行員辺りが良いわね。とは言え、呼び付けると周囲から要らぬ配慮を耳に吹き込まれるでしょう」
総統閣下が訪れるので、事前に受け答えの事前準備をしましょうと所属組織が当事者を操り人形にする事は目に見えていた。それでは意味がない。定型文ならば、トウカの如く書面で提出させればよいだけの話である。
「これは突然の訪問しかないのだ」
「御忍びでは危険が大きいものね」
ヴィルヘルミナとヨゼフィーネは頷き合う。
祖国統一が近い中、南エスタンジアでは戦後を見据えて各々が動き出していた。
「当官は然して語る程の事は……」
青年士官は直立不動で敬礼する。
北エスタンジアとの戦線に於いて武功在りと鉄十字勲章を叙勲した新任少尉は、中尉への昇進と同時に皇国への外交団の一人として抜擢されたが、それは将来の昇進を見据えた箔付けという意味もあるのだろうと彼は考えていた。
複数の派閥から声が掛かっているものの、彼からすると皇国と合流するのに派閥争いに精を出すのは無駄ではないのかという疑念が拭えず、派閥というものに属する事に乗り気ではなかった。とは言え、退職金は階級と勤続年数で変化するので昇進や勲章は有難く受け取っているが、それも何処かで限界はあるだろうと達観した心情であった。
しかし、眼前では軍装の国家権力がにこやかな笑みで佇んでいた。
先程の握手が大変に柔らかく意識が明後日の方へと戦線離脱を図ろうと試みる。政治的力量を別に政治的勝利を掴むという変化球を為した女性との対面に彼もまた絆されている事を自覚する。
だが、仕方がない。男という生き物なのだ。
美しく可憐な生き物に目を奪われるのは致し方ない。
その貴種が彼へと顔を近付ける。
「フォルカー・アズライヒア中尉、そんな難しい話じゃないのだ。政治とか軍事とか、そうしたものは置いておくとして……印象みたいな……為人の様なものを聞きたいのだ」
凄い柔らかい。良い匂いがする。
背が足りないので背伸びをして顔を近付ける総統閣下に、フォルカーは仰け反りつつも返答に窮して言葉を返せない。
疚しい事があるので、話す内容と身の振り方に思考を巡らせたという事もある。
何処まで知られているか不明であるが、隠し立てしては立場が悪くなる。態々、 総統閣下自身が時間を割いて訪れるのだから、ある程度は情報を掴んでいるのだろうとも察せる。
「実は天帝陛下とは直接、御話をさせていただける機会が御座いまして……と言いますか……」
「言いますか?」
言い難い上に、ヴィルヘルミナの背後のヨゼフィーネの猛禽の如き視線が二の足を踏ませる。
「深夜に連れ出されて懇親会を……」
「公式の場なのだ?」
深夜にそうした場を設けるというのは外交常識から外れた行為であるので奇妙な事だと考えているであろうと見たフォルカーは言葉を続ける。
「いえ、違います。此方の若手を私含め三人程呼び止めてのものでした。個人的なものだと」
「ちょっと待ちなさい。それ、ヨルドシュテット元帥は御存じなのかしら?」ヨゼフィーネが慌てる。
外交団の一部が相手国の国家指導者と勝手に遣り取りする機会を持ったのだから客観的に見て問題しかない。個人的なものだと言われ、ならば問題なしと扱う程に外交というものは軽いものではなかった。
しかし、フォルカーとしては断れる筈もなければ、上司に御伺いを立てる機会もなかったと言わざるを得ないし、口止めまでされたのだから建設的な動きなど取れる筈もなかった。
他国の指揮系統に一時的とはいえ勝手に隷属したと言われれば確かであるが、南エスタンジアとしても不興を買う事が許される相手ではなく、彼自身も合流に当たっては皇国軍に編入されるという事情がある。将来、仰ぎ見る国家指導者の不興など御免蒙るという話であった。それは巻き込まれた他二人の若手将校も同様であった筈である。
「いえ、陛下が上司の許諾は要らん。貴様ら個別に時間を与えられているだろう?と申されまして。上司には、その、可愛い娘の居る店で皇国を勉強してきたとでも言え……と」
結構な御小遣いも頂きました、とは言わない。賄賂という扱いになると厄介であるとの認識からであるが、問題となれば天帝陛下からの施しを現状の政治情勢下で断るのは得策とは思えないと抗弁する事で押し切れるとの自信があった。賄賂ではない。格別の御高配を賜ったのである。
因みにフォルカーを含む三人の内、一人は女性であり、もう一人は男性であった。そのもう一人の男性若手士官はトウカの言葉通り、後に貰った御小遣いを握り締めて可愛い娘の居る店で相互理解を図ってきた様子であるが、流石のフォルカーもその点は口にしない。因みにフォルカーは家族や旧友への土産に利用した。
「それはまた……問題ではあるけど……都合は良いわね」ヨゼフィーネは何とも言えない表情する。
この時、フォルカーは何かしら思い違いがあったのだろうと後悔する。恐らく、天帝陛下との個別での遣り取りは露呈しておらず、別で要件があったという事になる。皆目見当が付かないが、それでも天帝陛下に関わる案件である様に見えた。
「他の二人も呼ぶのだ」
ヴィルヘルミナの命令に警護の兵士が敬礼と共に動き出す。
とは言え、個別で聞く方が良いとヨゼフィーネが言い出した為、フォルカーは近くの会議室に連行される。三人集まれば、口裏を合わせて意見が捻じ曲げられるかも知れないとの判断であろう事は疑いない。そこまで重視すべき情報が自身の記憶の中にあるとは思えないフォルカーとしては眉を始めるしかない。
首都近郊に駐屯地を置く〈第八七歩兵聯隊〉の司令部施設内、その会議室の一つで総統閣下と机越しに対面する事になるとは思わなかったフォルカーは緊張と気恥ずかしさに感情が揺れる。
美しい花には棘があるというが、その誘惑に抗い難くもあり、そしてその毒に即効性がある事は明白であった。
そこはかとなく良い匂いが漂ってくるが、香水かそれとも美しい生き物とはそうしたものなのかフォルカーには判断が付かなかった。そう考える程には同じ生き物とは考え難い魅力と色香がある。
「それで……天帝陛下はどの様なお方だったのだ?」
「そうですね……市井で噂されている様な方ではありませんでした」
これは婚約相手を気にしているのだろうか?とフォルカーは首を傾げる。先の会談は短時間で終わってしまった為、印象悪化を恐れているとも考えられた。外交団の主要人物では忖度した意見しか出ないと考えたのかも知れない。
「それは、どう違うのだ?」
ヴィルヘルミナが好奇心を隠さずに問う。こんな愛らしい生き物に好奇心を向けられる天帝陛下もまた貴種なのだろうな、とフォルカーはトウカの曖昧な笑みを思い起こす。
「不敬を承知で申し上げるなら、酒をよく嗜まれる青年、と言ったところでしょうか。 朗らかでありますし、鷹揚に色々とお答えいただきました」
どちらかと言えば政治の話は乏しく、歴史や風土、文化についての部分が殆どという形であり、フォルカーとしては要衝であるからという理由だけでなく、南エスタンジア自体に興味を持たれている様で誇らしい心情であったし、トウカに好感を抱いた。他者に興味を持つという事は、他者を理解するという努力をしているという事である。
「特に初代総統には並々ならぬ関心があった様子で色々と尋ねられました。是非、御会いしたかった。まぁ、御健在であれば断固として固辞されただろうが、などと申しておられました。初代総統は不明瞭な点も多いですが、天帝陛下は何か御存知の様に感じられます」
フォルカーが最も奇妙だと感じた点である。
親近感というには無乾燥で、興味というには辛辣なそれにフォルカーとしては中々に複雑な心情があるのではないかという印象を抱いた。
「その辺りは……理解できなくもないのだ」
少し元気を無くす総統閣下。
どの点を以て理解できなくもないという発言が出たのか気になる所であるが、背後のヨゼフィーネから殺意が漏れ出ている気がしたフォルカーは慌てる。
「もう一人の士官は総統閣下を絶賛しておいででしたよ」
「そいつは昇格ね。今、決まったわ」
ヨゼフィーネが、分かってるじゃない、とヴィルヘルミナの背後で仁王立ち腕組みの姿で頻りに頷いている。歌唱会で最後列で腕を組み古参であるという雰囲気を出す面々と姿が重なるものがある。女優の幸福を願わないならば愛好者ではない、と断言して歌唱会や写真集の話を仕切りにする僚友にも、トウカの対応はそう不自然なものではなかった。女優業と政治の結合に対しての釈然としない心情だけは隠していなかったものの、他国の者から見れば奇異に映るのは致し方ないので理解を求めても難しいものがある。
僚友の昇格に手を貸した様なものなのだから、後で奢らせようとフォルカーは皮算用をする。
「私のこと、なにか言ってたのだ?」
上目遣いの総統閣下。なんという破壊力。これで政治もできるのだから、それは無敵だろうとフォルカーは背筋を伸ばす。
「愛好者達には申し訳ない事をしたな。天下国家の為とはいえ、こうした形で恨まれるのは新鮮な気分がする。と大層と上機嫌で在らせられました」
フォルカーはトウカに状況を心底と楽しんでいる印象を受けた。軍事強国の指導者としての余裕というものではなく、どちらかと言えば、予想だにしない負の感情を背負う事に諧謔味を覚えている様子である。
「あらゆる感情を受けても進み続ける陛下らしいのだ」
ヴィルヘルミナの発言に、国家指導者だけに好ましからざる感情を向けられる事も多いのだろうと、フォルカーは考える。同時に、そうしたものを意に介さず、それどころか愉しむトウカは正に覇者と呼べるのか も知れないとすら思えた。
同時に、トウカは情もある人物であった。
「寧ろ、天帝陛下は総統閣下を大層と心配為されていましたよ」
これはフォルカーも驚いた事であるが、トウカは結婚というものに一般人らしい懸念を抱いていた。
「貴国から出た提案とはいえ、その身一つで輿入れして国家の橋渡しを試みるというのは並大抵の事ではない。己が身だけではなく、祖国まで売り渡したと捉える者もいるだろう。そうした状況で、遠国で一人過ごしてゆかねばならないのだ。そう仰られていました。皆、虚を突かれた思いでした」
政戦略の冷酷な国家指導者という一般的評価とは随分と異なる懸念が出てきたのだから当然と言える。
会議室に夕日が差し込む。
ヴィルヘルミナの顔に朱が差したのは、夕日によるものか感情の昂ぶりによるものか。
フォルカーも政局ありきで考えていたが、トウカに言われて初めて一人の娘に負わせるには過大なものであると認識した。まさに挺進に他ならず、売国などではない。
「その後、家庭内が張り詰めては落ち着かない、と仰られていましたが……」
それもまた偽らざる本音に見えたが、フォルカーとしても、それは確かに、と思わざるを得ない。為人を互いに知らぬ内に国家の都合で家庭を築かねばならないのだから当人達は大層と大変であると容易に想像できる。今迄は政治や軍事という要素が覆い隠していたが、当事者から懸念を聞けば認識せざるを得ない。
「あら、意外と繊細なのね。いや、違うわね。家庭内に勇敢さなんて持ち込まれても迷惑かしら」
ヨゼフィーネの率直な意見にフォルカーも同意するところである。
そうした懸念をする者であれば、ヴィルヘルミナを手酷く扱わないであろうし、国家指導者としての経験を持つ伴侶などヴィルヘルミナ以外には得られるものではない為、トウカの心情を同じ視線から慮る事のできる人物として上手くやっていけるものではないかとも思えた。そもそも、エスタンジア地域の安定を踏まえれば、夫婦関係の悪化は望ましくないのだが。
「わたし、やっていけるかな?」
誰かに尋ねた訳ではないだろう本音。
フォルカーは答えない。ヨゼフィーネも答えない。
確証が持てないのではなく、こんな愛らしい生き物が不安に揺れている姿に胸を打たれた為である。
「あっ、もう私も一緒に輿入れするわ!」
ヨゼフィーネがヴィルヘルミナを抱き寄せる。
極めて大きな決断を聞いてしまった気がしたフォルカー。慌てて周囲の警護の兵士達……恐らくは叛乱騒動によって立場を追われた代わりの陸軍の女性兵士達に目を向けるが、そちらはそちらで愕然としている。女性でも愛くるしさに狂うというのは理解できるが、その光景にフォルカーは却って冷静さを取り戻す。
「この子は私が生みました!」
母性が暴走している。
フォルカーはこの光景を写真に収めて報道に持ち込めば退職金替わりとなる価格にはなるだろうなと明後日の方向に思考を飛ばす。
「何を莫迦な事を言うのだ。政府閣僚に抜けられると困るし、保護者同伴みたいな誤解をされる発言も困るのだ」
保護者共々奥入れするというのは皇国でも憚られる話であるが、ヴィルヘルミナの言葉に乗る感情を察するに、それは怖いの友人にも付いて来て貰ったみたいで恥ずかしいという様子である。
「一中尉が聞いてはならぬ話があるかと思いますので、当官はここで退席させていただきたいと思いますが……」
「待って欲しい。私は彼を、天帝陛下を知りたいのだ。助けて欲しいのだ」
ヨゼフィーネを押し退けながらも、ヴィルヘルミナは助けて欲しいとフォルカーを呼び止める。
そう言われては退席できない。
国家指導者云々という部分からではなく、女性の恋路に協力できない男性だと見られる事に忌避感を覚えた部分もあった。狭量な男という印象を周囲から感じたくはない。
「こう……陛下はどんな様子だったのだ?」
抽象的な問い掛けだが、為人を知ろうと考えているのならば、確かに尋ねる部分に困る事も理解できた。ましてや相手は複雑な人物である。聞き方次第では実情と異なる答えが返ってくるかも知れないと考えていても不思議ではなかった。
とは言え、フォルカーも何を話せば良いか悩むところであった。
「そうですね……お酒を随分と好まれていました。立場と出会いがなければ伴侶は酒だっただろう、と仰られていましたね」
中々に尖った発言であるが、それが冗談ではないのはトウカと酒守の会話からも窺えた。
「後、煙草は嗜まないそうです。読書しながらゆるりと酒を飲むとか……」
年齢の割に老齢を思わせる生活を送っているとの印象を受けたフォルカーだったが、 そう言われても違和感を覚えない人物でもあった。
ヨゼフィーネは興味深げだったが、ヴィルヘルミナは考え込んでいる。既知の情報であったかも知れない。
「亡き仔狐との遣り取りもありましたね。頻りに外へと連れ出されて困った、と。困った表情をされていましたが、悪くは考えていない。そんな様子に見受けられました。 少し胸に詰まる表情だったので覚えています」
天帝サクラギ・トウカが執務室から外に出る事が少なく、外出は視察などに限られるという話は有名であるが、その手を取って連れ出す様な女性は確かに聞かない。
「外出はせずに読書かぁ……内向的な趣味なのだ」
とは言え、読書というのも政治や経済、軍事などに関するものであろうと想像できるので半ば公務に等しい。或いは、そうした書籍を読み漁り、力量あると看做した筆者を各府の諮問機関に招く為とも考えられる。
しかし、それだけではない。
「最近は恋愛小説に目を通し、意味が分からなかったと仰っておられましたね。出生率増加を踏まえて成婚率を上げたいが、最近の若者はああしたものを望んでいるのか?と」
もっと地に足の付いた生き方をして貰わねば困る、とぼやいていたので全く理解が及ばず困惑したであろう事は疑いない。当人が劇的な恋愛譚を経験しているとの風説があったが、その意識をトウカが持っていない事が窺える。或いはそうした恋愛は身構え、望む者には訪れないのかも知れない。
フォルカーとしては、陛下も最近の若者かと思いますが、という心情であったが、そこで笑うべきか大いに迷ったものである。他二人は笑っていたが、それを見たトウカは、状況次第ということか、と納得した様子であった。
「それは……予想外なのだ。そんなものは参考にならないと思うけど……」
ヴィルヘルミナが眉を薄める。
そうした空想話を真に受けられても困るというのはフォルカーも理解できる。
出生率など経済状況や育児への保障、国内の普遍的価値観、世間の相互扶助の精神の醸成あってのものである。それは正しいものの、しかしながら将来的に趣味や生活姿勢の多様化に伴う出生率低下は、それらでは補いが付かない事をトウカ以外は知らない。 出産に於ける主力となる年代が望む点を把握しなければならないという焦燥の理解者は居ない。
とは言え、気の早い話である事も確かであった。そうした時節は未だ一〇〇年近く先である。
未来を知らぬ者達は、トウカのそうした不安を理解できない。
「不敬ではありますが、当官の印象と致しましては一般的な感性からかけ離れている様に見受けられました。それ故に当代無双と賞されるのかと思いますが……」
歴史上には超人的力量を発揮した者が各分野に時折、存在するものの、そうした人物は得てして当時の世間一般とは異なる感性で生きている。トウカもそうした者達と同様であるとフォルカーは見ていた。
「まぁ、マリィも世間知らずと……当人も世間知らずである事を差し置いて……」
総統閣下の十分に世間知らずであると思いますが、とは思いはすれども口にしないフォルカーだが、ヨゼフィーネは悩ましい表情を隠さない。
「そうした部分はありましたが、基本的には大らかな青年の様に見えますし、エスタンジアには好意的です。特に文化交流はどうしたものがいいかなどとも尋ねられました。 一般的な視点が欲しい、と」
隣の青年士官が、夜の異文化交流が宜しいかと、と真面目に答えていた事は伏せるが、フォルカーも三大欲求に根差した部分への関心は確かに一理ありますので、食文化の交流を図るべきかと、と話を繋いだ記憶があった。
「食文化の面での交流が良いと答えさせていただきました。経済的交流は段階を踏んで行うとの事でしたので」
「あら、経済交流は天帝陛下の胸中では確定次項、と。これは政府も喜ぶ情報でしょうね」
ヨゼフィーネが微笑む姿に、政府が経済発展を心配していたのかとフォルカーは意外の念を覚える。
南エスタンジアは可能な限り戦争を回避しながら国力増進に努め、軍備もそれに応じて拡大するという富国強兵の方針を採用していた。その延長線上に皇国との合流があったと考えていたので、合流後の経済発展に不安があると見える動きを感じていなかった。
「そう言えば、初代総統閣下が何か重要なものを遺していないかとも聞かれました。思想ではなく物質的なものがあるのではないかと気に掛けておられましたね」
超兵器でも警戒しているのか、とフォルカーも首を傾げたものであるが、具体的に明言しないところを見るに漠然とした警戒感なのだろうと見ていた。
フォルカーとしては最早、歴史上の人物となって久しい初代総統に対して警戒感を示すのは神経質が過ぎるのではないかと思えたが、名君には見える脅威があるのかも知れないとも考えて思い当たるものを答えるしかなかった。
「資料館に展示されているもの以外となりますと、当時のレイム家当主の熱烈な恋文の数々くらいしか思い当たる節がないとは、答えさせていただきましたが……」
一同、揃って何とも言えぬ表情をする。
共に中年男性であり、余り想像したくない光景である。
初代総統の名誉の為、展示されなかった関係書類として逆に知名度のある恋文の数々。確かに非公開であるが、大勢に影響を及ぼす様な類のものではない。建国神話に傷は付くかもしれないが。
「ふうん……遺物とか遺産かな?」
「金目のものなら売却して国費の足しにしているところよ」
歴史的価値など知らないと言わんばかりのヨゼフィーネに、フォルカーは、この人なら贋作を作製し、本物は売り飛ばしそうだ、という印象を抱く。実利の人である。
掘り葉掘り尋ねられるが、フォルカーとしては一つの失言が何処かで死を招く気がして心休まらない。
だが、付けば手帳に色々と書き留めているヴィルヘルミナは微笑ましいが、トウカに対する方針の根拠として己の発言が利用されると考えると油断できない。死が手招きしている光景すら幻視する。
「うーん、意外と普通なのだ。覇者の気風とかあるかと思っていたのだ」
ヴィルヘルミナの言葉にフォルカーは、想像よりも普通であるとうのは同意するところであるが、政戦の場に在ればその限りではないのだろうとも思う。それは実績の語る所であり、同時に不必要な場で威を示す者などそうはいないとの考えからであった。
「その、こう申し上げては僭越やも知れませんが……そもそも互いに立場ある身で在りますれば、為せる事は限られているのではないでしょうか?」
市井の恋人達の如く逢引きをしようというのは不可能な身分であるし、警護や公務の都合を踏まえると寧ろ為せる事から探すべき場面である。
「確かにそうね。取り敢えず、引退歌唱会に招待しましょう。本当ならその前に相互理解を図る為に統括者をして貰いたいところなのだけど」
妥協してその辺りでしょう、と言うヨゼフィーネ。
フォルカーは、祖国が良く繁栄を継続できたな、と遠い目をする。
「それは私が個人として何とかするのだ。ヒトの婚約に口を挟まないで欲しいのだ」
心底と迷惑そうなヴィルヘルミナ。平素の関係が窺える会話である。
何時になれば解放されるのだろうか、とフォルカーは頬を引き撃らせた。
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