第三八話 エグゼターの傭兵
「悪かった。だから泣いてくれるな」
トウカは右手親指でミユキの涙を拭う。
父狐との作戦計画立案を終え、自らに与えられた部屋へと戻ってきたトウカは、泣いているミユキを見つけた。部屋の隅にある毛布の要塞から鼻水を啜る音と、不規則に寄せ集められた布団の隙間から狐耳と尻尾が突き出ていたので、否が応にも視線が引き付けられた。
そして、ようやく顔を出したミユキは、涙と鼻水で無残な姿だった。幸いなことに千年の恋も醒める程ではなかったが。
そんなミユキを見て、トウカの内心が罪悪感で満たされる。
マリアベルがあれほどに強硬な態度を取ると考えていなかったトウカだが、焚き付けた当人がそれを批判することはできない。無論、トウカも嫌味をぶつけたが年の功には勝てず、正論と皮肉の反撃を受けて沈黙せざるを得なかった。
明確な助力をマリアベルに求めた訳ではないが、マリアベルはトウカの思惑を察した。
その上で状況を弄んだ。マリアベルの得意げな表情から、トウカは遊ばれたのだと判断していた。高齢者は若者の恋路に口を挟んで老後の慰みとするのだと諦めるしかない。自然災害の一種だと、トウカは食い下がった。
トウカは流動的な状況であったとはいえ、ミユキを追い詰めた。
予定にはミユキが関わることすらなかったが、シラヌイの弱点でもあるミユキにマリアベルが狙いを絞ったことによりトウカも決断を強いられた。
結果としてトウカはシラヌイの意向に最大限沿う形で、最大限に犠牲を漸減できるように作戦を立案した。実はトウカは甚だ納得はしかねていたが、シラヌイの意向に沿わねばならなくなることを薄々感じていた。
トウカは、現世に自らの生命よりも尊ばねばならないものが存在することを知っている。
最愛の人の為、家族の為、民族自決の為、主君の名誉の為、より良き未来の為、麗しき姫君の為、信ずる大義の為……ヒトの数だけ命を投げ出すに値する理由がある。そして、それを他者が否定することは許されない。例外は、それが自らに害を及ぼし得る可能性が存在する場合であり、トウカの場合はミユキに害が及ぶ可能性と不遇を強いられる可能性を考慮した結果、唯々諾々と従う訳にはいかなかった。
トウカは、効率や能率を重視するが、誇りや忠義など不可視の原動力が時代を動かすという救いようのない事実を知っていた。
種族的な理由に依るシラヌイの決意を翻すことを不可能だとトウカは理解してもいたし、自らが天狐の種族的な理由を理解できないことも承知していた。
結果としてトウカは、マリアベルの言葉を利用した。
マリアベルが主導権を取ろうとしていたことに危機感を抱いたトウカは、主導権を取り返す為にシラヌイの言葉を封殺し、ミユキに厳しい言葉をぶつけた。
後にして思えば夫婦喧嘩の様な出来事によって、マリアベルが主導権を得ようとした動きは流れた。
ミユキへと投げ掛けた言葉は、全ていずれは言わねばならないものだと考えていた為、その点については後悔してはいなかった。無論、場の状況に流された向きがあるので、口にした際は深く考えていた訳ではなかったが。
「私、主様に酷いこと言っちゃいました……戦ってくれって戦場に立ってくれっていうことだったんですよ。それって死ぬかもしれない場所に行ってくれっていう事と同じだったんです。……私は狡い女です」
涙を流すミユキ。
言葉を選べなかった、否、選ばなかった責任が、今このとき訪れた。
トウカは“俺に死ねと言っているのか”と口にしたが、実際のところ戦術規模の敗残など、戦域から離脱してしまえば容易に逃れ得ることができ、第一に戦闘前より敗北が決まっている戦場に無条件で身を置くが如き破滅願望がある訳でもない。
「俺は死なない。撤退の時期を見誤るほど無能ではないし、第一に負けないよう作戦指導も行った。……これで負けるようなら、セリカさんの火炎魔術で当初の作戦を断行する心算だ」
究極的にはベルセリカという圧倒的な切り札がある以上、戦野での独断行動をいかようにも肯定できる。無論、激怒では済まず、トウカとシラヌイの関係は致命的なものとなるが、何かしらの行動を起こされる前に、ベルセリカを殿にミユキの手を引いて逃げ出せばよいとトウカは考えていた。
口にすれば呆れられると考えていたトウカだが、ミユキの悲しみを鎮めることが先決だと判断した。
「でも、でもっ! 好きな人に戦場に行って欲しいなんて……っ!」ミユキの悲痛な嘆き。
トウカは長命種を強大な力を持つ存在だと考えていたが、強大な力に対してそれに匹敵するだけの精神と自我を宿しているとは限らない。その強大な力を制御するに至るだけの時を生きた者ならば兎も角、ミユキに関しては未だ若き仔狐であった。
そして、何よりも長命種にとって死という概念は極めて不鮮明で理解し難いものであった。
人間種と比較しても極めて強靭な身体と、長大な寿命を有するが故に、死は余りにも遠くて実感し難いものであった。
それ故に恐れる。
元来、生物とは自らの理解が及ばないものを真に恐れる。
死に近い人間種と違い、慎ましく平穏に生きていれば一〇〇〇年の時すら生き続けることができる長命種達には理解できず、特に隠れ里に引き籠る者が多い天狐族はその傾向が顕著である。
だが、ミユキは最愛の人が死に近い存在であり、死という事象について深く考える機会を得た天狐の中でも稀有な存在であった。機会を得た正確な時期は、トウカの「俺に死ねと言っているのか」という言葉を聞いたその時であった。
死とは永遠の別れである。
そして自らの言葉が、最愛の人を死へと近づけていたという事実にミユキは愕然とした。自らの言葉が、或いは永遠の別れを意味するものと成り得る可能性に思い当たった為である。
トウカは、ミユキがこれほどまでに落ち込むとは考えていなかった。
人間種であり死が身近であるが故に、正確に死を理解していた、理解している“心算”であるトウカは死を忌避してはいても、ミユキほど過剰に恐れてはいなかった。
トウカは若者だ。
彼の精神学者の“未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに対して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある”という言葉を肯定的に捉えるならば、トウカは年相応の価値観の上に成立していると言える。無論、それを支える膨大な知識を背景とした行動は、同年代の若者とは一線を画したものとなっているが、だからこそ始末に負えない状況を生み出す。
「俺は死なない。少なくともこの大地へと流れ着いただけの理由を世界は俺に求めるはずだ」
ミユキの頭を撫でながら、トウカは確信する。
この世界、或いは皇国へと呼び出された理由が自らを生かすであろうという根拠なき確信を、トウカは何故か抱いていた。死ねないではなく、死なないという理由なき確証をミユキに理解してもらう事は難しく、また納得を得られるものではない。
困ったと、曖昧な笑みを浮かべるトウカを、ミユキは不安げな瞳で見つめる。
「主様は……どっかに行っちゃわないですか?」
「行かない。寧ろ、何処かに行くなら御前も連れてゆく。さぁ、泣くのをやめろ」
トウカは、ミユキの涙を拭う。
顔だけでなく髪や狐耳も乱れているミユキを見てトウカは苦笑する。自らの悲惨な有様に気付いたミユキは、顔を赤くして再び毛布の要塞へと籠城する。
顔を拭いているのか布の擦れる音が響き、鼻をかんでいる音も聞こえる。
「人の毛布で鼻をかむな」
「女の子が身嗜みを整えてるのを見ちゃダメです!」
毛布の要塞の中からの叱責の声に、トウカは肩を竦めるといそいそと部屋から退散した。
「俺の部屋なんだが」
「ご、御免なさいです」
狐耳と狐尻尾を元気なく垂らして、しゅんとする仔狐。
その姿が可愛すぎて思わず抱きしめたい衝動に駆られるが、不屈の精神で欲望を抑え込むトウカ。特にモフモフした狐耳から目を離せないトウカであるが、同時に恐縮しきっている雰囲気のミユキにそのような無体なことはできない。
二人は、部屋で肩を並べて布団を肩へと掛けていた。
身嗜みを整えたミユキが慌ててトウカを部屋へと引きずり込んだのだが、どうにも寒くて布団を纏って並ぶという状況に陥っていた。慌てていたのか、長命種自慢の膂力で否応なく引っ張られた為、身体の節々の鈍痛に笑みが引き攣ったものの不断の精神で持ち直す。
「御前は本当におっちょこちょいだな。まぁ、そこが可愛い訳だが」
「むぅ……」
納得できないという表情のミユキの腰に手を回し、一層強く引き寄せる。
行動で女性の不満を封殺するなどいよいよ女誑しになってきたではないか、と思わないでもないが、ミユキが悪い夢を見ずに済むというのであれば吝かではない。
「主様……次の戦い、勝てますよね?」
その問いにトウカは瞬時に答えられなかった。
不確定要素があまりにも多く、判断できないというのがトウカの本音であった。特に敵性戦力の正確な数が不明であるという点が致命的であった。幸いにして里へと続く道は狭く、大軍に包囲される可能性や、複数の敵部隊を同時に相手取らねばならない可能性もないとは言え、敵兵力が多ければそれだけ長期戦を強いられての連戦となる。そして、その戦いに天狐達の精神が耐え得るか否かの判断がトウカにはどうしてもつけられなかった。
魔術を使えると言えども民間人であり、術式もまた軍用のものではない。命中精度や精神的負担を踏まえれば遠距離戦闘で全てを済ませられるとはとてもではないが思えない。
必ず近接戦闘に持ち込む必要性が出てくる。
――義父殿が偵察を許可すれば、悩まずに済んだのだが。
戦野での事実上の指揮権を得たとは言え、作戦内容に関してはシラヌイが大いに干渉した。
トウカは、シラヌイに対して心中で呪詛を撒き散らす。
二人の話し合いは盛大に揉めた。掴み合いにならなかったのは、双方共にミユキの仲良くという御願いがあった為であるが、同時に互いの言葉に一理あると考えていた為であもる。
年長の天狐達による浸透偵察もその一つで、意見が完全に分かれて妥協案すら見い出せなかった。
現在、行っている偵察行動をより大胆に、敵勢力圏になりつつある地域まで浸透して敵戦力を正確に把握し、有効な戦術の選択と友軍内での情報の共有によって天狐達の必要以上の不安を払拭すべしとするトウカ。それに対して、シラヌイは決戦前に主戦力の一翼を担うであろう年長の天狐を失う可能性の高い任務に就けるなど以ての外であり、そもそも決戦は避けられず、戦場は極めて限定空間であり、敵の兵力を把握したところで取り得る戦術は多くないと反論した。
どちらの意見も正しい。
トウカの持つ参謀の資質が、不確定要素を潰しておくべきだと叫んでいるが、同時に自らの提案が自身の不安を漸減させる一面も持っていることを理解していた。そして、シラヌイと睨み合っていると、貴様の不安を潰す為に天狐に危険な真似をさせる気か、と言われている気がしたトウカは最終的にその点では折れてしまった。
「勝てる」「嘘です」
間髪入れずに返されたトウカは鼻白む。
ミユキは純真無垢で天真爛漫ではあるが、決して無知蒙昧ではない。トウカよりも長く生きているだけに目端は利く。不満げな顔でトウカを睨むミユキの瞳には探る様な気配があった。
「どうしてそう思う?」
「勝てるなら、直ぐに答えてくれるはずです。それに、こんなに身体を寄せ合っているんですよ。心臓の音だって聞こえちゃいます」
胸板へと擦り寄ってきたミユキ。
そう言われてしまえば、語彙が如何ほどに多くともトウカとしては返し得る言葉は制限されてしまう。だが、こそばゆい言葉に打たれ弱いのはトウカだけではない。
「それは、こうして可愛い恋人と一緒に身を寄せ合っているからだろうな。詰めが甘いぞ」
ミユキの狐尻尾へと手を伸ばし、もふもふとするトウカ。
対するミユキは、ほんの数瞬だけ気持ちよさそうに目を細めたかと思うと、慌てて紅潮した表情を引き締める。
「それも嘘で、しゅ」
――あ、噛んだ。
更に顔を赤くするミユキに、トウカは曖昧な笑みを浮かべる。声を上げて笑ってしまうと、ミユキが拗ねると思った為である。
「…………………………」
照れているのかミユキは、トウカの胸に顔を埋め、むぅぅぅ、と唸っている。
我慢できずにミユキを強く抱き締める。
ミユキが可愛すぎるからいけないのだ、と内心で自己正当化しつつ狐耳を甘噛みする。ミユキから驚いた気配が伝わってくるが、トウカはもちもちとした感触を楽しむ。その上、尻尾までモフモフしているので、今この瞬間はトウカにとって至高にして至福の一時であった。
そのまま幾ばくかの時が経つ。
夜の帷は既に降りた後であり、二人を照らすのは障子越しに降り注ぐ月光しかない。動くものがない風景は時が止まっているかの様な印象を与え、一体どれ程そうしていたのか判断を狂わせる。
しかし、はぐらかされていたと気付いたミユキは、むむっ、と唸るとトウカを押し退けた。
「誤魔化されないですからねっ!」
ミユキの言葉にトウカは「申し訳ない」と謝罪する。
天真爛漫にして純真無垢なる仔狐は、決して人の思惑を推し量れないほど世間知らずではない。例え、優しくともミユキは疑うことを知ってもいた。或いは、自身が余りにも欺瞞と虚飾に塗れていたが故に疑うという行動を覚えたのかも知れないと、何とも言い難い気持ちがトウカを包む。
「死なないことは約束できる。セリカさんも居るので大丈夫だろう」
嘘である。ベルセリカは、単騎で敵の後衛に突入して敵を混乱させる役目を担っている。後方にベルセリカが布陣すれば敵も容易には撤退できない。
「それよりも、ミユキは約束を破るなよ」
「もし、破ったらどうなっちゃいますか?」
不安そうに尋ねるミユキとトウカは微笑む。
「あの恥ずかしい手配書が北部にばら撒かれるな。可愛い恋人について地方規模で惚気るが?」
「お、鬼ぃ……。私の恥ずかしい過去を晒すなんて酷いです」
精一杯難しい顔をするミユキがまた可愛すぎて大いに困るのだが、もうこれはひたすらにモフモフするしかなかない。無論、地方規模で惚気るという点も冗談ではなかった。寧ろ、大いに惚気てやろうではないかとすら考えている。
「生きて帰ってきます。その時は……」
トウカはミユキを一層、抱き寄せる。
そして、その可憐な唇を奪う。
このままミユキを穢してしまうのは容易いが、それは許されないとトウカは自重する。成り行きで奪ってしまうことが許されるほどミユキは容易い存在ではない。無論、ミユキの柔らかな身体に平常心を保つことは、至難の技であった。しかし、近くにシラヌイがいると考えれば、正にそれは命懸けであると認識できる。その御膝元でミユキを組み敷けば、トウカは諸々の理論と現状を無視して惨殺されるに違いなかった。
こうして、異邦人の忍耐の夜は更けていった。
「やっと、来たのかい。遅いねぇ、全く」
女傭兵は、使えないねばかりに舌打ちする。
かなりの数の傭兵が損耗した状況は、女傭兵にとってあまり嬉しいことではなかった。指揮官ですらなかった女傭兵はその責任を負うべき立場になかったが、傭兵という職業柄指揮官が斃れた後の優先順位がは曖昧であり、厳正な階級がある訳でもないこともあって指揮を執らねばならない可能性も皆無ではない。
先の敗走の罪を問われることはない。
女傭兵より上位の傭兵の多くが戦死してしまった為、自らが撤退の指揮を執ったものの、旗下にあった砲兵達は壊滅して重要な火砲戦力を喪失する結果となった。
「どちらにせよ、あの敗走の最中では、気に留める奴すらいやしない、か」
「姉御、あのデカブツは一体……」
自嘲の笑みを浮かべた女傭兵に、身軽な風体の小男が疑問を投げかける。
その気持ちも分からないでもない、と女傭兵は笑う。
笑うと意外と可愛げのある笑みを張り付けたままに、女傭兵は傭兵達が物珍しそうに眺めている物体に飛び乗る。
戦車であった。
皇国陸軍正式採用の主力戦車。二門の固定砲塔に左右の銃眼が特徴の移動する鋼鉄の野獣。前部から触角のように突き出た砲身と、車体後部上面に配置された給気口と機銃座も相まってその風貌は蝸牛に見えなくもない。不格好であるが、その突破力を知る女傭兵にとっては有象無象の傭兵よりも頼もしい援軍であった。
女傭兵――リュミドラ・ケレンスカヤは、戦車の天蓋から傭兵達を見渡す。
年齢、性別、民族、種族、武装、練度……あらゆるモノが不揃いな傭兵達の有様にリュミドラは溜息を零す。
兵数を集めれば勝てるという考えは傭兵に合ったものではない。傭兵は軍の様に勝利や国防という崇高な目標がある訳ではなく、利益こそを最優先する。殺しや恫喝などの非合法手段はあくまでも一手段でしかなく、安全な手段で利益を得られるならばそれに越したことはない。
この危険な仕事を引き受けた傭兵の多くは、質の低い者達ばかりであった。
真に傭兵という生き様を貫く者は、この様な胡散臭い仕事は引き受けないとリュミドラは知っている。現に〈傭兵師団〉と指揮官のグレーゴール・フォン・フルンツベルクは、この依頼を拒絶していた。
「ふん、戦車が五輌かい……しかも、皇国製。一体どうやって集めたんだか」
「軍の集積所から盗んできたんでしょう。食糧もありますぜ!」
戦車の壁面をよじ登ってきた傭兵の言葉にリュミドラは嘲笑を零す。
戦車という兵器が有名になって二〇年足らずだが、近い機構を備えた魔導車輛とも操縦方法は大きく違っている。大陸一魔導技術が発達している魔導国家たる《ヴァリスヘイム皇国》では、公営の組織や軍の機械化部隊などが配備している例が多く、履帯を備えた車輛は一般では異彩を放っていた。例外は冬季に深い雪に覆われる北部の住民程度に過ぎない。
皇国出身の傭兵など少ない現状で、戦車を扱える者は極めて限られる。何処かの国軍で戦車師団や機甲科に所属していた傭兵を纏まった数で揃えることは至難の業と言えた。
「相変わらず頭が足りてないね、アンタは。戦車を分捕るには動かせるヤツも必要なのさ」
「へぇい、近所の馬車とは違うんですかい」
頭を使っているとは思えない返答に、リュミドラは天を仰ぐ。
戦車を前面に押し立てれば大抵の障害は突破力にものを言わせて踏み躙れる。里の防御陣地も戦車砲の前では然したる意味を持たないだろう。魔導障壁だけが障害であるが、五輌の戦車の砲撃に晒されては長時間の持久は不可能に違いない。魔導炉心に裏打ちされた安定的な魔力供給と、機械的に維持される防禦術式でなければ持久は難しい。
「勝利は決まったも同然ってことが分かりゃいいさ」
「そうなんですかい。そりゃ、有り難い。前金は全部スったもんで……」
依頼主の正体は不明だが、前金と後金に分けられた報酬は通常の依頼の十倍以上で、そう易々となくなる金額ではない。下手な博打打ちほど屑はいないとリュミドラは嘆息する。
リュミドラは、即席の駐屯地の端で自らと同様の服装をして佇む傭兵の一団に視線を向ける。統一された戦装束は、傭兵団として集団で活動しているかの様な印象を受けるが、リュミドラは個人での活動のみに留めていた。
エグゼターの傭兵。
それがリュミドラ達、黒と茶褐色の戦装束に身を包んだ傭兵の正体であった。
《スヴァルーシ統一帝国》と《ローラン共和国》という大国の狭間に位置する《エグゼター朝ランカスター王国》という弱小国は特筆した特徴のない、資源や戦略価値もない土地であった。それ故に強大な両国も緩衝地帯と考えていたことと、併合後の利益より統治体制の移行は面倒が大きいことを問題視して侵攻を企てることもない。国境という名の長大な軍事境界線を減らし、軍事的負担の軽減という意味でも、両国にとって《ランカスター王国》という小国は存続していることこそが最も利益があった。
だが、《ランカスター王国》の国土は痩せていた。
自国の食糧自給率が民草の全ての空腹を満たし得ず、強大な帝国と共和国に挟まれているが故にどちらからも支援を受けることは叶わない。一方の歓心を買えば、もう一方の不興を買う状況であり、両国にとってもランカスターという小国が己の飢餓を満たし、軍備を増強することを懸念したからこそ現状の維持が続いている。
結果、ランカスターの民は飢え、治安が悪化した。
王政を維持し続けたことからも分る通り、国王は奇策で経済維持に成功し、王政すら維持して見せた。
その過程に生まれたのが、エグゼターの傭兵である。
元は皇国北部貴族のタンネンベルク伯爵家が、先王時代の軍備の緩やかな縮小に危機感を抱き、外敵からの護持と対帝国戦での補助戦力の位置付けで創設された〈傭兵師団〉を参考に結成されたのがエグゼター傭兵団であった。
その目的は、大規模な戦闘で国家に雇用されて利益を得ることではない。小国であるが故にともすれば大国の不興を買う可能性の高い国家間の戦争には基本的に参加せず、それは集団で雇われることも少ないという事実を意味してもいた。
金さえ積めばどのような仕事でも請け負ってくれる。それがエグゼター傭兵団に対する一般的な評価であった。
帝国と共和国という大国が現状維持を望んでいるが故に、それ以外の国での行動は然して制限されない。大国の不興を買ってまでランカスターに隔意を示す国は少ない。両国が現状維持を望んでいるという事実は、逆に言えば両国がランカスターの存続を認めているとも取れる。両国の名誉と利益を著しく損なわない限り、有象無象の不満など然したる脅威ではなくなるのだ。
帝国と共和国の不興を買わない依頼であればいかなることでも請け合い、その依頼で受け取った金銭が国庫を潤して民草を養う。
国家規模での傭兵活動。それこそがランカスターの考えた生存と繁栄の術。
殺し、奪い、犯し……あらゆるモノを金銭に変えて、民が飢えに苦しまぬよう遠く異郷の地でエグゼターの傭兵は戦い続ける。奇しくも大陸各地に分散したエグゼターの傭兵達は諜報網としても活躍し、その名声はランカスターの抑止力ともなった。
戦車の天蓋から飛び降りたリュミドラは、同様の戦装束で佇む傭兵達へ歩みを進める。
有象無象の傭兵達は、鋼鉄の野獣とも評される戦車への興味を抑えきれないのか、戦車を操縦していた傭兵を押し退けて装甲や砲身を手で確かめている。傭兵にとっては野砲であっても縁のないものであり、ましてや戦車などは遠い存在でしかない。初見の者も多いだろう。
リュミドラの接近に気付いたエグゼターの傭兵達が一糸乱れぬ動作で敬礼する。
見知った顔もあるが初見の顔もある。集団で雇われることが少ない為、同郷の傭兵であっても見知らぬ者がいても何ら不思議ではない。逆に言えばエグゼターの傭兵達が一堂に会している依頼がどれほどに非常識なものであるか窺い知れる。有名な傭兵などが依頼を蹴ったことは正しい判断と言えた。
傭兵達への依頼は皇国北部での不正規活動……具体的な命令は負っていないが、略奪や襲撃などを神出鬼没に、指示通りに行えという依頼通り傭兵達は無法の限りを尽くしていた。
リュミドラは思う。
依頼に現れた人物は特徴が異常な程に少なく影の薄い男であった。しかし、現状で皇国の不安定化を望む国は帝国しか存在しない以上、帝国の手の者と見ることが自然であり、男は間違いなく帝国の諜報部の者であろう。
現状では依頼を受けていない傭兵も、北部諸侯が内戦の為に兵を防衛線に布陣していることに目を付けて北部で狼藉を働いている。或いは、その点も帝国の策の内と取れなくもない。
「集まった傭兵もまともな者なんて居やしない」
襲撃の情報を聞き付けて加わろうとやってきた傭兵団も多い。無論、その様な手合いには野盗や匪賊同然のものも多く、真の傭兵足らんとする〈傭兵師団〉の傭兵などがいれば一悶着起こるだろう。だが、エグゼターの傭兵は誇りなど持ち合わせていない。〈傭兵師団〉とエグゼターの傭兵は欲望以外の為に戦える稀有な傭兵であるが、戦う理由は大きく違う。
方や自らの誇りの為に。
方や故郷の利益の為に。
後者の為に手段すら選ぶことのないエグゼターの傭兵が、名誉や誇りを語って下賎に身を窶した有象無象の傭兵共に語っても然したる効果はなく意味もないのだ。依頼でないにも関わらず、戦場で偽善を振り回す愚をエグゼターの傭兵は犯さない。
「アンタの顔は何処かで見たね。エストランテ僭帝大乱だったかい?」
「いや、同志ケレンスカヤ。俺の名はザハール、トラヤヌスの内戦ですな」
エグゼターの傭兵特有の握り拳での敬礼をして見せた三十路に差し掛かろうかという男――ザハールは、野性味溢れる笑みで、リュミドラの記憶を正す。
エグゼターの傭兵には階級がなく、互いに同志と呼び合う。名の通った者であれば敬意を払われ、リュミドラも傭兵には少ない指揮官としての素質がある事も相まって一目置かれていた。ザハールは、リュミドラの物腰を見て信頼に値する相手だと認識したのか、好意的な笑みを浮かべている。
「しかし、今回の依頼は金払いが良いとはいえ胡散臭い」
戦車を眺めながら皮肉を零すザハール。
リュミドラも黙って頷く。
依頼料だけでなく、戦車を用意できるほどの依頼主……少なくとも国家規模やそれに準ずる規模ということになり、現在の状況を考慮すれば帝国に違いない。だが、エルライン要塞攻略の為の補給線の切断でもなく、民間人に攻撃を加えるという契約内容はリュミドラの理解の範疇を越えた。傭兵の中には皇国の長命種達に恨みを買うことは得策ではないと、辞退した者もいる。或いは、それは正しいのかも知れない。
「金さえ貰えりゃ、私達はそれでいいさ。違うかい?」
既に皇国の地で罪もない者を幾人も斬り捨てている。最早、後戻りはできない。契約が失効し次第、皇国からは即座に立ち去る予定であった。契約期限は天狐族の里の襲撃が終われば失効する。
「肯定ですな。所詮、我らは外道なれば」苦笑と共にザハールは頷く。
既にヒトとしての生を全うすることを諦めた者の笑み。果たして国が悪いのか、時代が悪いのか、歴史が悪いのか、世界が悪いのか……それらを考えるには余りにも流血を他者に強要しすぎた。
後悔と諦観を胸に戦う者……それがエグゼターの傭兵である。
ならばせめて、とリュミドラは大外套を翻し、祖国の方角を見上げる。
「飢えに苦しむ我がランカスターが民の為に」
それだけが救いであり、我らが意志。
ザハールの背後に立つエグゼターの傭兵達も、決意を秘めた顔で頷く。
『飢えに苦しむ我がランカスターが民の為に』
「未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに対して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある。」
精神分析学者ウィルヘルム・シュテーケル