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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第三章    天帝の御世    《紫緋紋綾》

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第四〇一話    クローベル辺境伯領併合




「そうか、併合政策に同意したか……この規模の乞食をされるとは思わなかったが……予算としては許容範囲に収まるだろう」


 トウカは報告書を見て満足する。


 元より戦闘はないものと考えていたが、遠方への兵力緊急展開の実演という側面がある為、装備は相応のものとなった。今現在も工作機械を空中投下し、簡易飛行場を造成。そこに輸送騎による往還輸送を以て各種物資を積み上げ続けていた。 工作車輛や物資の空中投下の実戦という意義も大きく、報告書には問題点と改善点も添付されている。


 ――それなりに問題は出ているが死者は出ていない。上出来だろう。


 クローベル辺境伯領の併合。


 特使であるエップとクローベル辺境伯ミュゼットの交渉は恙なく進行した。皇国の市井も新聞によって併合を知らされている頃合いである。


「ですが、食糧と医薬品のみの拠出とは……配慮している側面もあるかと思います」クレアは報告書を手に所見を述べる。


 皇国の軍拡と兵器生産の遅延は広く知られている。大規模な生産であり関係者や関係企業も多数存在する都合上、生産状況の完全な隠蔽を図るのは困難であった。部品製造を民間企業に委託している兵器も多く、戦局への影響が大きい特殊な兵器を除いて隠し遂せるものではないと統合参謀本部も認識している。


 皇国側が不足する兵器を供給する事に難色を示すのではないかという懸念と配慮。争点を作らず、現実的な要請だけに留めるべきとの判断。無論、その兵器が皇国軍に向くという懸念を抱かれる危険性(リスク)を問題視した可能性もある。


 トウカも同意するところであるが、同時に抜き差しならぬ状況への対処を重視したという側面が大きいのではないかと見ていた。想像以上に民需品が不足している可能性。


「武器を強請っても辺境伯領の兵力では数も知れている。それならば不足する食糧と医薬品で領民を慰撫して不安と不満を抑えようとの判断だろう。叛乱や周辺貴族との小競り合いは皇国軍に任せればよいと割り切れば正しい判断と言える」


 寧ろ、兵器など与えられると自主防衛の負担が生じるかも知れないと見て自前の軍事力を増強する動きを取らない予定かも知れない。


 トウカとしては共和国軍との戦闘で大部分が消耗している領邦軍を元より頼りにはしておらず、ある程度の戦力の駐留は覚悟している為、それを咎める真似はしない。


 ――だからこその御機嫌窺いなのだろうが。


 御挨拶と御礼に向かう赦しを求められており、トウカは二つ返事で了承した。互いの立場を明確に周囲へと喧伝する機会として好都合である。


「割り切れる者が彼の地に居るという事になります。早々に把握すべきでしょう。或いは、エップ中将であれば既に掴んでいるやも知れません。次の命令に確認を盛り込むべきかと」


「道理だな。主要な人材の御機嫌取りも必要だろう」


 組み込んだ地域の要人に敵意を持たれる事は大きな不利益を齎す。情報入手で現地と比較して大きく劣る中で地域の分断を図られては堪らない。懐柔工作や情報統制をするには、未だ現地勢力への浸透は図れておらず、多数派工作で優位性を確保できている保証はなかった。浸透する時間的余裕などなく、状況に乗じたが故の隙である。


 ――さて、状況が流動的に過ぎて皇国に毒饅頭を食らわせようなどという謀略ではないだろうが……


 後に不安定化工作を試みる動きがある事も想定しなければならない。故に慰撫は過大に為すべきだと言える。


「増援ですが……周囲への影響と確実な防衛を踏まえると一個師団規模が適当かと」


「大隊で構わないと思うが……理由を聞きたい」


 トウカはクレアの戦力投射が想像よりも大規模である事に驚く。誰かの意向在っての事であれば、それを隠すような真似はしないクレアだが、その意図するところが那辺にあるのか確認する必要はあった。


「我が陛下、その一個師団を〈傭兵師団(ランツクネヒト)〉とするのです。これならば共和国が求める連合王国戦線への派遣として強弁できるかと。航空戦力も策源地をクローベル辺境伯領として航空支援を行えば宜しいのです」


 纏めてしまえ、という話。


 トウカは、成程、と納得する。


 準備が行われている派兵に関し、陸軍兵站局兵站統括部から、これ以上の戦力投射は輸送能力の限界を超えるとの上奏があった事もある。共和国への義理立てによる派兵と飛び地の確保に必要となる戦力投射を纏めるというのは合理的に思える。


「傭兵師団も策源地が近くにあるというのは心強いかと。友邦の土地よりも祖国の土地であるほうが望ましいと考えます。例え、編入直後の土地であっても」


 友邦とは言え他国の土地を後背として戦闘を行うのは躊躇するものであり、場合によって孤立無援となる可能性も捨て切れない。航空戦力も自国領土に展開させるに越した事はなかった。


 とは言え、編入したからと全てが解決する訳ではない。実情として、兵力展開に於ける法的制限を避け得る程度であり、短期的に見れば効果は限定的である。


「部族連邦の街道を拡充してクローベル辺境伯領に接続する必要が出ると思うが、既存の街道があるなら時間は掛からないか」


「はい、正確な日数は申し上げられませんが、どの道、我が国にはクローベル辺境伯領までの交通網が必要です」


 今後の補給と兵力展開を踏まえれば必要である事は疑いなく、その時間と経費を削減できるのは好ましい事である。そして、恐らくは部族連邦も皇国の介入を歓迎するはずであった。介入を連携と言い張り、神州国への牽制に利用する程度の皮算用をするだろう事は疑いない。実際、連合王国分割を踏まえると皇国側としても連携と言えなくもないのだ。


 ――そこまで読む者が居たのなら、思惑に乗せられたという事になるが。


「明日の枢密院で諮るとしよう。無駄な銭を減らせると知れば蔵府が喜んで賛同するだろうが、統治方針では法務と軍が割れるかも知れない」


「軍政を求めるかも知れない、という事でしょうか?」


 トウカは鷹揚に頷く。


 クローベル辺境伯領をクローベル辺境伯領とその家臣団に一任した場合、その統治と領法は皇国のものと掛け離れたものとなり続ける。皇国に併合された以上、国法に沿う様に変更すべきであるが、それには時間を要する上、認識の齟齬を擦り合わせる必要もあれば、恐らく現地の行政は皇国よりも遥かに脆弱である。


 短期間で軍の駐留に耐え得る行政と駐屯地を整えるには軍政を敷くしかない。


 とは言え、皇国陸軍には軍政を敷いた経験が相応にある。内戦でも対帝国戦役でも大軍の展開に合わせて現地では軍政に移行しており円滑な組織運用を図っていた。皇国の場合、各貴族領で異なる領法や規定、交通網の大きな格差がある為、内線戦略下でも大軍の迅速な展開には現地……特に国境付近では軍政を敷く必要性に迫られた。特に現地の貴族領主の横槍を防ぐという意味が大きい。現地の領邦軍が陸軍の指揮下になく、指揮統制上の非効率を是正するという意図もあった。尤も武器や練兵の統一までは、異なる系統の予算である事から実現せず、結局は軍政により領邦軍は指揮下に加えられつつも後方支援……治安維持や輜重線保持が主任務となった。異なる装備と練度、軍制の下で成立した軍隊と戦場で連携するのは容易ではない為である。


 トウカも皇州同盟軍成立に当たっては、そうした軍制上の混乱に大いに気勢と意欲を削がれたものである。


 近代に在っては烏合の衆は何をしても烏合の衆に過ぎない。


 一番、酒量が増えた頃でもある。


 あまりの酷い有様に当時のトウカは身体の不調もあった。トウカは精神的負担(ストレス)があると腹痛に見舞われるなどという繊細な身体ではないが、それでも限度はある。


 今でこそ当人としても、肝臓が痛むのは酒か狐か判断に迷うところである、と冗談など口にしたいところであるが、どの道、異世界に狐を宿主とする寄生虫は存在しない上、ミユキの話題を口にしては一様に困惑するのでその機会はなかった。


「併合した地域で即座に軍政を敷くのは印象が悪いが、共和国と轡を並べるという印象形成の為の傭兵師団の派兵だ。その策源地ともなれば大義名分は立つ」


 対帝国の連携を背後から刺した連合王国への懲罰行動の一環として必要だという主張には理がある。


「併合地に進出して軍政を敷くという経験も得るものが大きいかと」


「手頃な規模で経験を取得できるという事か……異なる文化圏での軍政……陸軍参謀本部も帝国侵攻に於ける占領地維持の演習として有用と判断するだろうな」


 陸軍参謀本部内には既に占領地の軍政を研究する部署が存在しているが、実情として参考となる前例が乏しい為、机上の空論が幅を利かせる余地が大きい現状が続いていた。故に現地住民の慰撫をしつつ輜重線の保持や非正規戦への対処に関わる計画立案に有益であるとトウカは判断する。


「シャルンホルスト大佐が特に手を入れている辺りか……何処かで呼び戻す必要があるが、当初の予定を前倒しするのは面白くないな」


「同意致します、我が陛下。皇国内に不都合があったと協商国に思われるのは良い事ではありません。余裕がないと見られるだけでも外交面では不利益です」


 予定を変更するという事は想定外があったという事でもある。協商国の苦戦を踏まえれば急な予定変更は邪推を招きかねない。余裕のない国家は往々にして悲観的である。急な予定変更は臨機応変と言えば聞こえは良いが、計画性の欠如や想定外を内包する側面もある。


「重大な局面を鑑みてより広範な交渉権を付与した将官と変更する……という筋書きはどうだろうか?」


 急な変更ではあるが、より大きな権限を持つ将官に変更する事で、変更がより積極的な問題解決を目指したものであると見せかけるという意図。


「それは良いかと思いますが、それだけではなく助言者としての力量もある人物を選定し、協商国の軍事的助言に柔軟に対処できるようにすべきかと」


 トウカの提案に、更に要素を付け加えるクレア。


 トウカは、判断が早い、と内心で提案を勘案する。


 問題点はない。寧ろ、変更する将官が一人である必要はなく、二人……或いは将校団でも良いのだ。助言組織として協商国に派遣すると提案すればよく、皇国としても耳目が多ければ得られる情報も多くなる。


「確かに、シャルンホルスト大佐も防衛に関して助言を求められているらしいからな。今後の兵器販売も我が国の供給量に限界がある以上、現時点での必要数を見極める必要もある。協商国側の求める必要数が適正か判断できる者が現地に常駐するのは望ましい事だろう」


 相手国が求める必要数を用意して野放図に購入させて利益を貪るのは皇国としても望むところであるものの、生産量を踏まえるとそれは叶わず、共和国への売却との兼ね合いもある。軍需工場の拡充を急いているものの、銃器類であれば一年、装甲兵器であれば二年の猶予が欲しいところであった。現状でも旧式車輛の売却で当座を凌いでいる現状がある。旧式兵器を生産する工廠もそうした事情がある為、閉鎖して人員を転用する事が出来ず、輸出量を満たすべく生産を継続していた。


「とは言え、リシアもシャルンホルスト大佐も其々に思惑がある様だ。内容を吟味して連携できるようにしたい。総統の、エスタンジアの問題に関しても、だ」


 結局のところ、兵器売却は複数国を跨ぐ謀略の側面があり、兼ね合いや連携の余地がある上、関係国の軍事戦略にも影響する。


「ハルティカイネン大佐にも帰国命令を出される御心算ですか?」


 クレアは賛同しかねるという表情を隠さない。


 自身への好意を隠さない女が近づく事を懸念しているのだろうか?などとトウカは思わない。クレアもヨエルもリシアを本気で遠ざけようとするならば、トウカに気取られるような無様は晒さない。或いは気取られても、合理的であると否定し難い状況を作る筈であった。


 諸々考えた上で、尋ねる言葉は短い。長文には要らぬ感情が乗ると考えた為である。


「不満か?」


「いえ、成果なき儘に帰国の途に就く事を彼女が良しとするか……共和国が一勝負しようとしている中で、面白くなってきたのに、と言い出しそうだと思いまして」


 トウカは一転してうんざりする。


 容易に想像の付く話で合った。そして、トウカの命令に異論を挟み、抵抗するという動きをリシアが取ればその印象は更に悪くなる。非公式であるとはいえ懲罰人事。楽しくなってきたので、このままで御願いしますなどと言わせてしまえば、トウカも庇い難い。トウカとしては悩ましいところであった。


「嵐を呼ぶ女だな……リシアに共和国側の戦線で十分な戦果を挙げる力量があるのか疑義があると見られている。諸々の佐官教育も省いたまま野戦昇進と幸運で大佐まで上り詰めた人物であるというのが一般的評価だ」


「陛下は否定為さらないのですか?」


 クレアは愉しげである。下手な事を言うとリシアに情報漏洩する可能性を鑑みてトウカは慎重に言葉を選択する。単なる風評や風聞の伝達を情報漏洩と騒ぎ立てる心算はないが、リシアもそうであるとは限らない。


「贔屓目在っての評価だと周囲から見られる評価に意味はないだろう。それに共和国軍の計画自体が画餅に過ぎないなら、ただリシアは負債だけを負う事になる。あれが戦場で一人気炎を吐いても戦線自体の敗北は在り得るのだ」


 トウカの懸念はそこにある。


 リシアは運も実力もある野戦指揮官と言える。紫苑色の髪は皇国固有の歴史と伝統に根差した神秘であり、その戦乙女に率いられる兵士は奮起するだろう。それを支える将校も献身的である。そうした経緯に支えられてるからこそリシアは強い。力量以前の他者が決して得られない要素を有している点は特筆すべきものである。


 しかし、共和国では紫苑色の神秘は通じない。


 ただ当人の力量のみで戦線全体に影響のある作戦計画に的確に助言し、成果を挙げねばならない。


 だが、共和国軍は大部分が人間種で構成されており、年若い外観の娘をその通りの実年齢として捉えるのが通例の社会基盤から成立した軍隊である。事実として、リシアは外観と実年齢に大きな乖離がない事もあるが、年若い娘というのは何かと軽視される。外観が評価基準として意味を為さない事が多々ある皇国とは異なり、リシアの助言はその内容に関わらず重視されない、或いは受け入れられない可能性があった。


 対するネネカは幸運に恵まれた。


 重戦略破城槌の集中運用の場に遭遇し、それを迎撃する場面で理解ある将官に助言を求められて実績を出した。しかも、ネネカ自身が輜重や兵力運用の観点からの論文を多く執筆している事から名が知られている。どうしてもトウカに近しい立場であることから名が知られるリシアとはその点が異なる。


 トウカは心配だった。


 意欲は認めるが、リシアの経験は野戦将校としてのものに偏重している。マリアベルもその辺りを察しており過ぎたる立場を与えるべきではないと見ていた過去があった。


 ただ、困った事にリシアは無意識であるが自身の力量を補える人物でもある。


 皇国人の要人は紫苑色の髪を理由にリシアが周囲の推認を得ていると見る者が多いが、トウカは寧ろ周囲の者が気に掛けるのはその人間性に依る所が大きいのではないかと見ていた。



 陛下と同じであの娘は年長者に好かれるのです。想定外や予想外を引き寄せる若者は今後の人生を未来ではなく予定としてしまった年長者には眩しく映りましょう。



 カナリスの言葉である。


 想定外と予想外の連続で敵を殴り続けただけのトウカとしては、そうだろうか?という話であるが、年長者が次々と同意していた光景を見ているので否定し難いものがある。権力者に対する阿諛追従(あゆついしょう)の類にしては内容が血涙滴るものである為、トウカとしても一笑に付す真似はできなかった。


「こうなれば、共和国の戦線の押し上げはリシアにやらせてみるか」


 とは言え、トウカも作戦計画の内容は確認する。


 共和国軍の枢機が戦線をどれだけ押し上げて満足する、程度の案件であればトウカとしては協力など御座なりで良いと考えていた。寧ろ、下手な助力は敗北時の責任問題に進展しかねない。


 既に数多の砲弾で耕された大地を取り合って何の意味があるのか、という話でもある。要衝まで駆け抜けて輜重線の寸断や敵野戦軍の大規模包囲するという明確にして効果のある作戦目標が無ければ協力できない。


 ――まぁ、リシアなら馬鹿な計画なら突き返すだろう。


 相手が共和国軍の将軍達であっても怯む様な女ではない。寧ろ、反骨精神から内心喜んで非を論う事は間違いなかった。


「言える立場ではない事は重々承知しているが、誰も彼もが個性が強い。扱いに困ること甚だしい」


 他国軍と折衝をして最小限の戦力拠出で成果を挙げる様な将帥は居ないのか、という話であるが、トウカであっても他国軍との協力は容易ではない。宥め透かし、時には脅し、或いは言い含めて事を為す事が必要な場面もあるかも知れないが、それを可能とするだけの各種情報を第三国で手元に集めるのは困難と言える。


「爺やは忙しそうだからな。解決を急ぐにしても朋友を探る真似はさせられない……そうなると航空戦力の拠出を餌にして作戦計画に口を挟む事で統制(コントロール)するしかない」


 カナリスは内なる敵を見つける事に注力している。


 トウカとしても無理はさせたくなかった。


 カナリスが言う様な内なる敵を見つけられずとも、不満の多い中央貴族が荒れ狂う情報部を見て軽挙妄動を慎むのであれば採算が合うとトウカが放置している側面もある。ヴァレンシュタイン上級大将暗殺未遂事件解決にある程度の目算があると世間に示さねば権威に差し障る事も事実であった。


「爺やなどと……喜ばれるかも知れませんが……」


「シラユキとあの鬼の娘がそう呼んで喜ぶのだ。俺もそう呼んで喜んで貰うさ」


 報告の為にアルフレア離宮を訪れるカナリスは度々、シラユキ達と顔合わせている。それはもう傍目から見ると孫娘を慈しむ好々爺であり、冷徹な統合情報部部長ではない。トウカはヒトが多面的な生き物であると知るが、余りにも掛け離れている姿には両面宿儺(りょうめんすくな)の類かと苦笑したものである。飛騨の鬼神は二つの顔を持つ。


「有力者に好かれるのはシラユキも同じかも知れんな……リシアと同類相争う様な未来がない事を祈るばかりだ」


 精神性が異なるのでその様な事はないとは思うが、世の中何が起こるか分からないものである。


「しかし、カナリスの世継を作れと言わんばかりの視線には困ったものだがな。シラユキへの面倒見の良さは当て付けではないのか?」


 今、世継などあっても母子共に暗殺の脅威に晒されるだけだろうというのがトウカの見立てである。自身の腕に抱いた者の安全に関する案件に対して無謬性を持ち込む程にトウカは楽観的ではない。


 しかし、それを口にする事はできない。


 防諜上の不備を詰るようなものである。


 要人に対する害意は、防御側よりも攻撃側が有利であるとトウカは心得ており、そうし動きが多発する情勢を作るべきではないと考えているが、当時に急進的に事を為そうとするのであれば避け得ない事でもあると心得ていた。


 トウカのそうした胸中への言及はなく、クレアは臣下として応じる。


「さて、それは私にも何とも……ただ、老いたる武官に思う所が多いのは世の常かと思います。邪険に為さるべきではないかと」


 淡く微笑む姿は讒言に聞こえないが、クレアなりの忠告であるとトウカは心得ている。


「しかし、御前はシラユキには合わないのか? そうした話は聞かないが……」


 面会にはトウカとマイカゼの許可が必要であるが、軍高官は一様にシラユキを可愛がっている。海軍府長官であるエッフェンベルク元帥などはシラユキを、陛下の外部接続式良心などと口にしているが概ね好意的であった。


「今では行方不明ですが、私には妹が居りました。やはり罪悪感があるのでしょうね。ああした娘の笑顔には背中を向けてしまうのです」


 トウカはクレアの過去が北エスタンジアに在る事を思い出す。


 クレアという女性の過去は謎が多い。


 無論、陸軍府人事部の経歴書には記載があるが、それはあくまでも大まかなものであり、個人に降り掛かった出来事などが全て記載されている訳ではない。履歴書であるからこそ簡潔に特筆すべき実績や接点の記載に傾倒しているのは当然であるが、クレアの場合は各行政の記録上でも曖昧である。閉鎖的な北エスタンジアからの亡命者であり、皇国への入国以前の足跡を辿る事が困難である事も大きいが、当人が語らない上、ヨエルの後ろ盾の前に要らぬ探りを入れる者が沈黙を余儀なくされた事もあった。端的に見て神秘の氷妖精である。


 トウカは肩を竦める。


「捜索しても良いが?」


 北エスタンジアは近い内に南エスタンジアによって併合され、そしてエスタンジア地域は皇国領土となる。治安維持支援の為、山岳師団と憲兵隊の派遣は準備されており、捜索任務が一つ増える程度は許容できる話であった。情報部も水面下では進出し、南エスタンジア側の情報機関と連繋して帝国の諜報員を排除する手筈となっている。情報面の捜索も追加は可能であった。


 しかし、クレアは首を横に振る。


「……なりません、我が陛下。そこは優しく抱き寄せる場面です。解決策を提示する場面ではないのです」


 身を寄せてきたクレアにトウカは、女心は難しいな、と苦笑する。


 対策を提示する程に即効性のある配慮はないと考えるトウカだが、女性は時に状況の改善よりも心情に寄り添う事を望む事もクレアによって理解しつつあった。クレアが教育したと言っても過言ではない。物覚えの悪い犬になった気分でトウカは気落ちする事頻りであったものの、それを知るべきものだと痛感してもいた。ミユキは怒るだけだが、クレアはこうすべきと対応を提示する。その点は合理的であったと言える。


 クレアとしては妹の話は終わったものであるが、未だ割り切れるものではない。そうしたところだろうと、トウカは当たりを付ける。


「残念だが俺が探すぞ。御前の意見は関係ない」


 断固たる意志でトウカはクレアの妹……親族の捜索を行う心算であった。


「近しい者の親族の所在は明確にせねば、利用されるかも知れない……そういう事ですね?」


「御前の為だ。そう言って欲しかったか?」


 寵愛を欲してもそれを自ら口にするのは恥ずべきことだという意識が強いクレアに対してトウカは配慮する必要がある。願う事があるのであれば口にすればよい。受け入れるか否かは後に判断するが、女心を察してと考えられては困るとトウ力は考えていた。


 ――リシアの様に中央突破を図ろうとするのも困りものだが。


 しかし、クレアは困り顔になる。


 肯定も否定も品位を損なう事になると考えているのかも知れないとトウカは考えたが、それは的外れな推測であった。


「貴方が節を曲げて私の為に私情交じりの勅令を振り翳すというのもときめくものでありますが……揺れず媚びぬ合理性を以て征く貴方にも恋心を抑え切れない私に困っているのです」


 どちらでも喜ばしいとトウカに身体を寄せるクレアは顔を見られたくないのか、トウカの胸板に顔を寄せるだけで彼を見上げる事はなかった。


 トウカは困った。


 そうした困った女だからこそトウカに奇妙な形で寄り添う事を躊躇しないのだろうとの確信を得たトウカ。


 権力は孤独だと嘯く独裁者は歴史上に数多存在したが、性別による権利の差と槍働きに耐え得る身体構造の差を覆し難い地球世界と異なり、この神秘と幻想が渦巻く世界では種族差や魔導資質の差が性差よりも大きく、女性が戦場に立つ事は珍しくなかった。よって権利や権力に対して男性よりも不利な立場に置かれる事はなく、彼女達は皇国でただ権力に寄り添うだけとは限らなかった。権力者を孤独にする程に彼女達は携えるモノが少ない訳でもなければ、男性の後塵を拝する事が文化的妥当性として生活に刻まれている訳でもない。


「これは、もしや惚気というものではないか?」


「当事者間でも惚気は成立するものでしょうか?」


 二人して首を傾げる。


 立場違えども一般市井と異なる感性の二人には不明瞭な話であった。


 不毛な話。


「ところでエスタンジア戦線はどの様な様子でしょうか?」


 統合憲兵総監の立場では戦況に関しての把握は遅れる為、クレアとしては軍事情報の伝達遅延を何よりも嫌うトウカに尋ねる事で疑問を解消しようと考えていた。


「全域で圧倒的優勢だ。ただ、領主貴族が自領でかなりの抵抗を示すらしい。国防には消極的でも領地が危険に晒されると勇敢になるらしいな」


 郷土防衛に意気軒高と言えばそれらしいが、と言い添える事もトウカは忘れない。


 実情としては士気が高くとも領主貴族やその親族の邸宅を手当たり次第に爆撃すると逃げ出す者も少なくない。親類縁者を殺傷して血筋としての弱体化を図る意図もあり、それは南エスタンジアが戦後統治を遅滞なく行う為、北エスタンジアの有力者を可能な限り泉下に送りたいとの意向もあって積極的に実施されていた。


 貴族が積極的に殺害される戦争に北エスタンジア王国は慣れていない。


 積極的に前線勤務を行う貴族将校は少なく、有力貴族であれば尚更である。南エスタンジアとの軍事衝突でも貴族の死者は極めて少なかった過去があり、そうした状況で戦線を飛び越えて各領主貴族の領地邸宅を戦術爆撃騎が水平爆撃を実施して女子供関係なく家族や親族を殺害してゆくのは大いに動揺と混乱を巻き起こしている。


 北エスタンジア側からは公式に非難声明が上がってもいるが、皇国は公式見解として軍事行動に際しては帝国に与する国家の人命に配慮する必要性なし、と正式に拒絶している。


「旧態依然とした体制である今だからこそ、政治体制の主体となる階級層全体に対する斬首作戦の機会がある。当然、最終的には皇国が領有する以上、目障りな権力者を残しておくべきではない」


 有力者の血縁を擁立して正統性を謳うというのは貴族の常套手段である。女子供含めて爆撃によって殺害できるのであれば好都合であった。生き残りが存在しても権力の継続をトウカは許す心算がなく、可能な限り排除すべきであるとのトウカの意向あっての爆撃である。合意を経ていないものの、それはヴィルヘルミナも同様であり貴族領地に於いての有力者捕縛に余念がなかった。


「それは良い事です。彼の地に貴族を遺すべきではありません」


 トウカはいつも通りのクレアの清楚華憐な表情に一瞬、影が差す。


 その辺りに遺恨があるのかとトウカは得心する。


 クレアが相応の血縁である事はトウカも察していた。哀れであるという理由だけでヨエルがクレアを養子として迎え入れる筈がなく、避難民に過ぎなかったクレアを世話するだけであるならば天翼議会を通じて何処かの天使系種族に預ければよいだけである。


 クレアの存在が政略上の運用次第では北エスタンジアに相応の一撃を加え得るか、或いは相当の混乱を齎し得るかというところであろうとトウカは見ていた。だからこそ、クレアという手札をヨエルはエスタンジア方面で切らないだろうとも推察できる。


 トウカは滅亡させ、併合するのだ。


 軍事力で直接、殴り付けるという力業をするならば謀略は意味を為さない。戦後統治にクレアを使うという上奏もないならば利用される公算は低かった。


「皇国による殺傷よりも、南エスタンジア軍による権力者狩りが憎悪を集めるだろう。彼の地を深く知らぬ我々が参加しても効果は乏しいが……参加したいか?」


 銃殺隊の指揮や死刑執行書への署名程度ならトウカからしても懐の痛まぬ褒美である。南エスタンジア側も遺恨が分散すると承諾する可能性はあった。トウカは全く以て善意の心算の問い掛けであったが、クレアは苦笑と共に辞退する。


「今は兵を彼の地に派遣するのは控えた方が宜しいかと思います……ですが、帝国南東部を犯そうと試みるのであれば、要地として厳重に抑えねばならないかと……しかし、陛下。 乙女への配慮を屍山血河の権利を以て示すのは感心しません」


 流石のクレアも苦笑と困惑が入り混じる。トウカも口にしてから、些か趣味が悪いかと脳裏を過ったものの、クレアの心情を図るには尋ねておくべきだろうとの判断から訂正はしなかった。


 北エスタンジアへの思い入れがクレアにあるのか。


 祖国を愛する者も居れば、憎悪する者も居る。切っ掛けなど様々であるが、終生変わる事のない決意に対して他者ができる事など少ない。トウカがクレアの姿勢を知りたいと考えるのは当然の事であった。クレアが清楚華憐な笑みの下に想う事を仕舞い込んでいるとトウカは考えていたのだ。


「御前が感心しない感情を内に秘めていたとしても咎めはしない。それが国益に影響を及ぼすならば、良い方向に向かう様に国益と擦り合わせて欲しいとは思うが」


 実情と思惑を一致させてこその政略家である。沈黙のままに陰惨な有様になる事は避けたいというのがトウカの意向であり、クレアは憲兵を統括する立場である。状況次第では要らぬ悪評が立ちかねない。


「御心配には及びません。貴方在っての私ですから。今この時の為ならば、他は取るに足らない事です」


 困った事だ、とトウカは頭を掻く。


 好意を率直に伝える事をクレアは躊躇わなくなった。曰く、貴方は解釈の余地があると悪く受け取る、との事であり、トウカとしては思い当たる節があるので反論し難いものがある。


「俺には返せるものがない。至尊の座は寧ろ為すが儘に与える事を許さない」


「十分に与えて頂いています。それに……その様なお気遣いこそが嬉しいのです」


 はにかむ氷妖精。


 良い女なのだろうな、とトウカは思いつつも、何も与えないでは落ち着かないという心情もあった。


「では、旅行はどうだ?」


 トウカは考えていた予定に付け加え得る事は可能だと考え、何時か考えていた国内観光の機運醸成の為の巡幸を利用する事を思い付く。


 贈り物は難しいとの経験則からの判断であり、トウカはクレアやマイカゼに贈った簪で要らぬ騒動が巻き起こった事を忘れていない。


 端的に言えば南エスタンジア側高官達を歓待すべく用意された舞踏会で、マイカゼが簪を天帝陛下から下賜されたと吹聴し、関係誇示を図った。それが材質が異なるだけで同型の簪を身に付けていたクレアに話が飛び火し、何処で聞き付けたかシラユキまでもが簪をトウカに強請る事態となった。挙句に皇州同盟軍で女性将兵に簪を贈る事が俄かに流行しつつあると聞いたトウカは、余裕があるなら軍事演習を追加してやろうか、と考えたものの、こうした話題は反応を示すと燃え上がるものであるので沈黙するしかなかった。


 クレアは困り顔である。


 統合憲兵隊総監としての業務調整に難があるのかと懸念したトウカだが、クレアは異なる不安を抱いていた。


「あまり目立つ真似をしては波風が立ってしまいますから……却って二人の時間が減ってしまう事になるのではないかなって」


「ああ、成程……巡幸を利用しようと考えている。御前と一緒でも警備の都合と言えばよいし、残念であるが二人だけという訳でもない」


 誤解があった、とトウカは言い募る。


 鉄道事業政策の一環である事と、地方普請政策も兼ねており、皇室の印象向上も図りたいという意向もあって随行もそれなりにある為、クレアが増えても目立つことはない。クレアはそれを聞いて得心した様子であるが、同時に明晰な彼女は一つの可能性に思い当たる。


「では、シラユキ嬢も連れて行かれるのですね?」


「ああ、まぁ、そうなるな」


 クレアの境遇を聞く限り、シラユキの姿を見せるのは好ましい事ではないのかも知れないが、巡幸に関してはシラユキを外し難い事情もあった。


 子供の政治利用。これ程に費用対効果に優れるものはないのだ。実施する者は基本的に碌でなしだが安価で高い効果があるのだから為政者側としては使わない手はない。 そうしたものに騙される民衆が少なからず存在するからこそ、いつの時代も民主主義に疑義が生じるのだが、有効であるならば利用して然るべきなのが政治という舞台である。 無論、子供を出汁に曖昧な国防や未来を語る程にトウカは落ちぶれてはいない。子供を理由にせずとも他国を侵略する理由も、経済発展の道筋も語れるのだ。


 シラユキを持ち出すのは、印象良さげに見せるただ一点の為に過ぎない。


 トウカの武断的な印象を和らげるという意図。


 クレアであれば察しているであろうが、これは中々に軽視できない問題でもあった。だからこそ否とは言わないだろうが、要らぬ心労を掛けるのはトウカの本意ではない。


「私は構いませんよ。幼子を避け続けるなどという不明を晒し続ける心算はありませんし……それに……そんな感情は屈折した郷愁に過ぎませんから」


 屈折した郷愁という言葉に、祖国に対する愛憎渦巻く感情があるのだろうと、トウカはそこには触れない。


 代わりに一つ提案をする。


「なら、今からシラユキに会いに行くか」


 良き現在を以て過去など忘れてしまうといい、などとは言えない。狐耳を見るとミユキを思い出すものの、トウカの周囲では警護や文官に狐系種族が増えた為、そうした感情が摩滅している様にも感じていた。その経験を踏まえた上でのトウカの言葉であった。


「電撃戦ですね」


「無論だとも。何時いかなる時も機動的であるべきだ」


 立ち上がり、手を差し出したトウカの手を取るクレア。


 二人は幸福であった。




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