第三九〇話 二人の戦争
「費用対効果というものは重要よ」
白皙の美貌を持つ一番姫は扇子で口元を隠す事を止め、公明正大が過ぎる妹の頬を閉じた扇子で突く。
装甲列車の貴賓室の一角で緩やかな午後の一時を楽しむ二人の姫。
エカテリーナとリディアであった。
尤も、リディアは姉を相手に居心地の悪さを覚えていた。
二人は巡幸の名目で帝国各地を軍用列車で転々としていた。通信設備も護衛も十分な鋼鉄の箱の中であったが窮屈とは感じていない。それ程の設備がある軍用列車は帝室専用のものであり、地方貴族の鼓舞と影響力を保持するという名目で現在は存分に利用されていた。
「向こうも色々とあったみたいだから、 忘れられない様に大きな花火で愛を示そうと思ったの」
両手を合わせてエカテリーナは愛を謳う。
対照的にリディアはげんなりとしている。
「総統閣下の輿入れに怒っている、 と?」
「あら、男の摘まみ食いを咎めるなんて、私はそんなに狭量ではないわ」
「握る扇子がへし折れそうですよ、 姉上」
扇子がみしみしと悲鳴を上げている光景に、リディアは苦笑するしかない。
素直ではない年相応の姿。嘗ては見なかった光景であり、そんな姉を女の子にしてしまった男の縦横無尽の振る舞いを知ってはリディアも口元が緩む。
「いいじゃない少しくらい……私には文の一つも寄越さないで際どい衣装で民草に愛想を振り撒く女を侍らせるなんて……」
「相手は覇者の類ですよ? それを踏まえれば姉上の態度はかなり狭量では?」
ちらりと机上を見れば、皇国の天帝が南エスタンジアの総統を抱き上げている三面記事が置かれている。リディアはエカテリーナがトウカに纏わる各国の新聞記事を切り抜いて保管している事を知っているが、きっとこの三面記事に関しては総統は綺麗に排除して切り取られるのだろうという確信があった。
「他国の要塞線に穴を空けた程度で存在感を示せるとは思えませんが……」
気になる男の家の呼び鈴を鳴らすかの様に、他国の要塞線に穴を空けるのは全方位に迷惑でしかない。
しかし、エカテリーナは変わらない。政戦両略の姫である。
「馬鹿ね。貴女がもう一度、皇都で暴れるよりも遥かに効果的よ。特に経済面では多大な効果が期待できる。皇国だって影響は免れないわ」
紅茶で口元を湿らせたエカテリーナは勝利を確信している。
要塞線を砕く為の戦略兵器を、この戦果拡大の兵力に乏しい現状で運用するというのは陸軍元帥であるリディアからすると勘弁願いたいものがあった。尤も現状のリディアの陸軍元帥という肩書は実権がないに等しいものでしかなかったが。余りにも負け方が酷いと敗残の将も容易に処分できないという事も有るのか、とリディア自身も驚いたものである。任命責任と関係者への飛び火の規模が甚大であるが故に。
そもそも、帝都空襲の被害と衝撃が大き過ぎた事で皇国本土での敗走など今では話題にもならない。
「戦果拡大の兵力さえあれば、協商国の領土を切り取れたでしょう。それに勝る利益があるとも思えませんが」
農耕に適した気候と資産を蓄えた土地。せめて領土の半分でも切り取れば、帝国は一息吐く事ができる。リディアはそう考えていた。最悪の場合、国内で義勇軍でも募って協商国に押し入るべきかとすらリディアは考えていた。
帝国は農業生産に適した土地を切望している。
「直ぐ奪い返されては意味がないでしょう? 覚悟あらば農地に毒を撒いて市街地を焼夷弾で焼くわ。それに皇国が喜んで武器を売る。泥沼化するのは目に見えているし、勝ち切れないと見れば皇国は焦土作戦をするでしょうね。私ならそうする。航空騎もあるもの」
「結局のところ安定して土地を利用できない、と?」
帝国の躍進を第三国が座視するはずがないというのはリディアにも納得できる話である。協商国の領土で皇国軍や共和国軍が喜んで帝国軍に対して兵力漸減を意図した軍事行動を執るというのは有り得る事であった。他国の領土を焼き討ちする真似を躊躇う人物ではない事は今現在も証明し続けている。
「流石に皇国にも共和国にも大規模な戦力投射の余裕はないでしょう。兵器生産と軍拡に手一杯で南方でも問題を抱えています。それでも足を引っ張る真似は止めない」
部族連邦と干戈を交え、連合王国を巡って策謀している事も帝国は掴んでいた。周辺諸国の外交官や特使の往来が増加している。明らかに複数国家を跨いだ策謀がある。まさか運動会をする訳でもあるまいとは帝国陸軍総司令部でも囁かれていた。
「収奪が精々というところね。それは美しくない」
「その収奪すら必要な状況ですよ。取り繕う段階は疾うに過ぎています」
食糧が相応の規模で手に入るなら為すべきであるというのが、リディアの判断であった。これには苦しい状況の帝国陸軍ですら賛同している。ないならば、あるところから奪うしかない。一度、失敗したから諦めますとはならない。皇国が喧伝する、帝国人は共食いをするのだから食糧などくれてやる必要はない、という主張が冗談の類では済まされなくなるとリディアは懸念していた。敵国の誹謗中傷すら否定できなく情勢になるのは断固として阻止しなければならない。
「他大陸から食糧を購入するわ。その銭をこの騒乱で用立てる」
あくどい事を考えていると、リディアは鼻白む。
「あの拝金主義者の国はね、安全という幻想をあの要塞線で買っているの。その安全を担保に今迄は経済活動に勤しみ、軍事費と戦災を抑えていた……それが二〇〇年近くの常識だった」
非常識な規模の要塞線も二〇〇年近くを経て常識となったが、それが未来永劫続く訳ではない。
歴史は証明している。
「でも、それは今この時、覆される」
エカテリーナは嗤う。
リディアは、経済戦か、と専門外と見て匙を投げる。
「安全は幻想だったという事実を叩き付けられ、多くの企業や資産が逃げ出す事になる……荒い値動きになるでしょうから、貴女の資産も盛大に増えるでしょう」
リディアも資産を協商国に移動させるようにエカテリーナに勧められ、言われるがままに移動させた過去がある。
「協商国には帝国の資産も多いのです。帝国より安全で、拝金主義者は運用できる資金が増えるなら帝国の資産を預かる事を厭わない」
無論、正直に帝国の資産であると明言して預けている訳ではなく、ありとあらゆる手段で経由や迂回、資金洗浄をした資産である銭と聞いてリディアには思い浮かぶものがあった。
「姉上の命令で随分と国内流通の金貨を鋳潰したと聞きます。それが原資ですか? 我が国もここまで落ちぶれたかと嘆いたものですが……」
「そうよ。因みにあれは本物の貨幣だけど、その不足分は皇国の贋金が流通しているので問題は生じないわ」
「贋金! それは拙いのでは? 通貨価値が暴落しますよ!」
経済的に破滅する。流通量次第では真実が露呈した瞬間、帝国経済が即死しかねない。金銭の価値を担保する帝国の正統性にも関わる話である。幾ら元より相応の価値のある貴金属で生産されていても、国家が決めた価値を大きく下回り、貴金属としての価格に劣後すれば臣民は忽ちに鋳潰して売却する事を考えるだろう。そうなれば貨幣経済の終焉である。
「残念ながら皇国の贋金は本物と同等……いえ、それ以上よ。貴金属の含有率は同等で、製造精度は困った事に上回られているわね。それだけに分かるのだけど……耐用年数の過ぎた生産設備で貨幣製造していた負債という事でしょう」
生産精度で贋金に劣るというのは帝国の技術力という面よりも、慢性的財政難の影響で貨幣の生産設備が耐用年数を超えて運用されている事や、その整備費用を圧縮した事に起因する。対する皇国は律義に設備の維持管理と更新をしていた。
「それでは皇国に利益など出ないのでは?」
「馬鹿ね。ただ暴露させるのよ。それだけで帝国それ自体の価値が暴落する」
帝国政府や市場が認識していない本物と同等の貨幣が大量に流通しているのだ、その量だけ市場価値は低下するが、恐慌染みた動きで必要以上に下がることは間違いない。そもそも皇国北部からの贋金流通は相当な期間に渡って行われておりその量は計り知れない。忽ちに貨幣制度は崩壊するだろう。
「皇国はね、帝国に大量の贋金が流通している。統制できない流通量があるという状況を望んでいたのよ。望む時、口先一つで経済に致命傷を与えられる様に」
深謀遠慮と言えるだろう。
主たる目的は来るべき経済破壊を主眼としており、利益を上げる事ではない。原資を回収できる程度なら十分と見ていた可能性もある。
「一応、三角貿易で贋金を用いつつ鉄鋼資源を買い漁る事にも利益は見ていたようね。 私も知っていて乗ったのだけど」
水面下の戦争。
リディアの脳裏をそうした言葉が過った。
「姉上は経済戦争をしていた訳ですか……敵いませんね」
「何を馬鹿な事を。私はしてやられたのよ。金や銀なんて少々珍しい程度の鉱石よ。鋳潰しても多寡が知れている。利益率は大きくないし、三角貿易で吸い取られた鉱物資源の大部分は、あのヴェルテンベルクの工業化に使われていた。その代償を支払ったのは貴女の指揮した侵攻軍よ」
戦争は鉄量によって決する。
その鉄の出所は何処か?
実は一部は帝国だった。
「それは……そうなんですか?」
「恐らくね。工業化も兵器生産も同時に為すだけの採掘事業の展開は時間的にも金銭的にも負担が大きい。何より、あの土地の特異性を踏まえれば政府に採掘が露呈するのは避けたいと考えたでしょう。去りとて皇国の他地方とは経済的に断絶しているし、やはり政府にも知られてしまう。だから帝国の鉄鋼資源を当てにした」
領地が事実上の独立地域と化しており、三角貿易をした上での海路の輸入ともなれば、領内で使用している工業用の鉄鋼資源の消費量など容易に誤魔化せる。当時は他国との友好を演出したくて堪らない勢力が大きく、まさか他国との輸出入に対して派手に嗅ぎ回る真似をする筈もなく露呈しても非難はし難いだろう。三角貿易には神州国を始めとした第三国も関わるのだ。
その辺りを上手く突いた遣り口と言える。
無論、各種鉄鋼資源に恵まれたヴェルテンベルク領が尚も鉄鋼資源を求めていると予想できなかった事が内戦終結まで露呈しなかった最大の要因と言える。認識の隙を突いたと言える。
三角貿易に製造した贋金が利用されていたが、エカテリーナもそれに気付いたのは随分と後であったという。
「貨幣の更新に協力して貰った上に、少々の御小遣いまで貰ったという所が精々ね……ほんと嫌な女」
エカテリーナは機嫌を損ね、リディアは呆れ返る。
ヴェルテンベルク伯マリアベルは尋常ならざる敵手だった。
帝国は皇国北部への浸透を度々と図ったがヴェルテンベルク伯爵領は人口が多く浸透が容易な筈であるが苛烈に対抗してきた。間諜はかなりの数が暗殺され、シュットガルト湖に浮かぶ事になった。一時期は損傷の激しい遺体の数が増えるだけと浸透は見合わせられた事すらある。最終的には浸透は成ったが、それでも間諜の被害は常態化した。
考えてみれば、そうした相手が帝国に報復を考えない筈がなく、皇国侵攻もヴェルテンベルク伯マリアベルの建設した工廠から生み出した装甲兵器に阻まれた様なものである。リディアは遅ればせながら、皇国に尋常ならざる力量の貴族が居た事を自覚する。
「姉上なら早々に贋金の流通を止められたんじゃないですか? それなら―――」
「駄目よ。流通貨幣の摩耗も喫緊の問題だった。国威に差し障るなんて単純な話では済まないわ。摩耗で刻印が崩れた貨幣の流通が当然になれば誰しもが簡単に贋金造りに精を出すでしょう。そうなればその価値を誰も認めなくなる。帝国は物々交換が主流となり近代国家とは呼べなくなるでしょう」
物々交換でも良い様に思う者が居るかも知れないが、リディアも将官である以上、その問題を理解していた。
価値ある物品が軽量で可搬性に優れるとは限らない。生存に必須の食糧などはその最たるものであり、体積も重量もあるものの工業製品と比較して安価である。物々交換の為に輸送費が加わる上、有機物である食糧は腐敗する。輸送と交換には常に期限が付き纏う。自然と経済圏は縮小し、流通網は先細る。挙句に食糧価格は大幅に上昇する。 上昇した輸送費が加わる上、流通網が縮小する事で売買に於ける機会損失も大きくなるのだ。
貨幣制度は経済規模を拡大させる。
それは、機会の拡大と可搬性の増大に依る所である。
リディアは一人の女性に帝国が首元を締め付けられていた事実を思い知る。
「向こうは思惑通りと喜んでいたかも知れないけど、此方としても貴金属の含有率が同等で製造精度が導入当時のものであるなら、寧ろ貨幣としては使えるので重畳よ。 銀行に戻ってきた劣化した貨幣を潰せば流通量自体は増えない」
国運を賭けた化かし合いだと、リディアは瞠目する。
エカテリーナは呆れ顔。
「貴女、まだ気付かないのかしら……皇国侵攻は贋金の事実を踏み潰しつつ、貨幣生産の設備を手中に収める為の戦争でもあったのよ」
「それは……兵は銭の為に死んだという事ですか?」
銭で食糧を買えるのだから意義はあるが、軍人としてはどうしても反発心を覚える所である。
「心配しないでいいわ。あの戦争、無駄ではなかった。食糧消費を抑える事に成功した上で、我が帝国の外征に積極的な面々を軒並みあの世に転属させる事ができた」
「確かに外征による収奪に積極的な将官が多いとは思っていましたが……そういう意図が……それで我が軍も……一体、その死に……」
リディア直属の〈第三親衛軍〉は壊滅状態となった。
残存兵力も友軍を逃がすべく熾烈な後衛戦闘を継続し、擦り潰されて消えていった。 それでも大規模な包囲殲滅戦となり大部分の師団は逃れられず、将官の大部分も戦死した。
考えてみれば〈第三親衛軍〉以外の部隊では、士官は軒並み外征戦争に積極的だった気がするとリディアは思い返す。それは戦意に等しく、戦意ある者に任せるという姿勢の発露だったと考えていたが実情は異なった。
「想像の五倍の戦死者にして得られた利益は僅少。挙句に帝国南部が爆撃に晒される事になった……貴女の〈第三親衛軍〉もそうした一部ではある」
「為すが儘にさせて、その結果がこれですか? 私も姉上も責任を取るべきではないですか?」
「私も貴女も表面上は皇国侵攻に消極的だった。勿論、私は突破の手段を与えたし、 成算のある策も陸軍の要請に基づいて提出した。貴女は総指揮官として目標を達成できず、侵攻軍の大部分を喪った……それでも、よ。寧ろ、私達二人が存在しなければ、 皇国本土を踏み荒らす事もできなかった」
道理である。
帝国初の快挙であるとも言える。
その代償は絶大なものであったが。
「でも、ここからは私の謀略の時間……そう思ったのだけど、共産主義者が目障りなことこの上ない。あのヒトが余裕を奪おうと手を打ってきたそう思ったのだけど」
エカテリーナの思案。
こうなると眼前のリディアすら見えていない。
「共産主義者に物資や武器弾薬の渡る経路は贋金の経路と重なる……あの女が本当に死んだものか……生きていたら……」
「生きていたら?」
惨たらしく殺すというのか。或いは、トウカとの交渉材料に使うのか。愛が屈折している話である。
「馬鹿ね。首輪付けて共産主義国を成立させるのよ。 私がそれを扱うの」
「赤い女帝に職種変更ですか……帝室の人間とは思えない事を言う……」
危ない加速全開、という様子である。止めるよりも踏み込むというのは中々に出来る事でも成功する事でもないが、エカテリーナには為してしまいそうな力量がある。
「帝室の人間なんで散々に弄ばれた挙句に公開処刑ですよ。諦めてください」
「表に出なければ何とでもなるものよ」
怖い言葉である。政治思想という看板に拘らず、権力それ自体を抱き締める女帝。
「まぁ、実情が分からない儘では動けない……それに協商国との不可侵条約もあるもの」
「協商国相手に不可侵条約ですか!?」
近隣諸国全てを敵国と看做し、対等な関係を拒絶する帝国が不可侵条約とは驚天動地の話である。
つい先程、協商国に対する攻撃計画が開始された事はリディアも知っていたが、同時に不可侵条約の話まで出ているとは知らなかった。
確かに帝国軍には余裕がなく、協商国に外征戦争を仕掛ける余裕はない。実はリディアは協商国戦線に赴任している将軍達に見知った顔が多い。それは子飼いの〈第三親衛軍〉以外の部隊や有能な将軍達を巻き込まない様に配慮した結果である。このリディアの意向にはエカテリーナも協力した。そうした経緯からリディアも手紙で協商国戦線の実情を相応に把握していた。
防衛であれば、隣国の共和国からの増援を含めても十全に対処できるが侵攻する余力はない。だからこそ協商国への攻撃計画である。侵攻計画ではない。
「期限付き、よ。それでもあの要塞線が打ち砕かれた今、安全を担保する他のナニカを見つけるまでの時間を捻出できると協商国は飛び付くでしょうね」
でも、茨の道、とエカテリーナ断言する。
「でも、それは新しい常識の想像よ。それは凄く資金の必要な事業に他ならない。だから貨幣に使用される金銀の需要が増加する」
通貨価値を切り下げで輸出品の競争力を向上させるしかないが、協商国は金銀の産出が比較的少ない。通貨価値の切り下げには通貨の流通量を増大させる為、通貨発行を増加させねばならないが、それには原材料である金銀が必須である。
その不足分を帝国は三角貿易で売買するというエカテリーナ。
しかし、リディアは、そう上手くいくだろうか?と疑問を覚えた。
要塞線の一部を砕いただけで協商国が妥協するというのは、希望的観測に過ぎないのではないだろうか、という疑念。希望的観測の積み重ねによってリディアは皇国侵攻に失敗したという自覚がある。無論、陸軍総司令部が皇国北部で起きた複雑怪奇な状況を考慮して作戦計画を立案できる筈もないと理解してもいたが。
そして、何より贋金という事実がある。
「ですが、今、贋金の存在を言及されても帝国は困難に陥るのではないでしょうか? その先代ヴェルテンベルク伯は亡くなったと聞きますが、贋金を生み出す機構の継承者が居ては機密は途絶えないではありませんか」
機密は何処かで継承する。
意外と途絶えないものであると帝室に連なるリディアは実体験として理解している。
何より、製造拠点が当代ヴェルテンベルク伯マイカゼに引き継がれていては状況は変わらない。
「いいえ、死人に口なし、よ。事が露呈したなら先代ヴェルテンベルク伯の三角貿易に協力する代わりに、高精度の貨幣生産が可能な皇国貴族に協力させたとでも言えばいいでしょう。劣化した貨幣は鋳潰して流通量の制御はできている、と」
三角貿易の真実を思えば確かに一方的なものではなかった。
帝国は贋金という本物新品同然の貨幣を、皇国北部ヴェルテンベルク量は鉄鋼資源を手に入れた。一方的なものではなく協定によるものだと見る事もできる。
ものは言い様である。
「生きている内は、どんな反論でもして見せたでしょうけど、この世の者でなくなった……という事にしたいだけかも知れない彼女は反論できない。そして、彼女はそれを躊躇しないであろうと思わせる実績と言動があった。押し切れるわ」
自信を見せるエカテリーナ。
リディアは、どうだろうか?と思う。それを認めず、許さない相手が皇国には存在する。
「それ、トウカが怒りませんか? 死んだ己の女に罪を被せる。姉上が勝手に冒険するには構いませんが、国家と私まで巻き込まれるのは堪りません」
リディアからすると心底と嫌な話である。もう一度、帝都空襲などという話になれば目も当てられない。防空戦闘に関わる戦訓や技術開発、部隊編制は大いに進んでいるが、帝国は広大であり防護すべき拠点が多い。
実情、帝国の防空網は穴だらけである。
構築の最中にあるのだから当然であるが、長大な国境線を防護するには全く足りない予算と資材、人員の問題もあった。皇国との国境だけではなく、周辺諸国との国境線も防護する必要がある事も大きい。航空母艦の”艦載騎”による帝都空襲があった以上、皇国の航空戦力を望んで呼び込む国家は多いと陸軍総司令部は見ている。リディアも同意見であったし、何より共和国は現にそうした動きを取っていた。
帝国としては今一度、大きな航空攻撃を受けたくはないというのが本音であった。 都市一つが灰燼と帰す様な破滅的な攻撃は余りにも被害が大きい。犠牲者も多く、交通網も破壊され、それは箝口令を意味を為さない規模である。国威も大きく毀損された。
――勇者という防空兵器も一つしかいないとなれば、弱気となるのも頷ける。
帝都近郊から動かすにも大きな政治的混乱が発生した事もあり、帝国は殊更に勇者の所在を隠匿していた。所在不明という事は、何処かに居るかも知れないという事である。作戦地域に存在するかも知れないという抑止力。身代わりも複数用いて帝国は勇者の遍在性を他国に認識させようと試みている。
エカテリーナはそうした問題を気にも留めない。
「航空騎は土地を占領できない。そして、彼は帝国南東部を無傷で手に入れたいのか、それ以外の土地への攻撃しか行っていない。離反工作という側面もあるのでしょうけど、だからこそ領土的野心の境界線が見えてしまった」
帝国南東部への戦略爆撃を控えるという事は、帝国南東部への領土的野心があるという事である。いずれ版図に加える土地が荒廃し、住まう民衆が叛意に満ちている状況は好ましくない。寧ろ、航空攻撃を受けない状況を以て帝国南東部の民衆と、それ以外の地域の民衆の対立機運を醸成し、帝国南東部の孤立を誘う事で統治を容易にするという思惑。攻撃を受けないという事は敵国との密約があるのかも知れないという恐怖と猜疑。
分断して統治せよ。
しかし、そうした思惑が最近の戦略爆撃で見えてしまった。
勇者の存在が最近の戦略爆撃を低調なものとさせているが、それでもその意図が見える程度には攻撃目標は露骨であった。
「戦略爆撃は適度に対応しておけば良いのです。どの道、効果的な阻止は叶わないのでしょうから対応に資源を割く事に拘泥するべきではありません。見方を変えるのです。最悪、皇国は侵攻しても帝国南東部を切り取る事が限界と見ている、と。踏み込まれた場合、遅滞防御を行う事を主眼に据えた準備を為し、それ以上の労力を割くべきではない」
エカテリーナは領土の切り売りを躊躇しない。可能か否かではなく、そうせざるを得ない状況に持ち込む力量もある。
戦略爆撃騎の航続距離圏内を見捨てるに等しい発言だが、帝国南東部への戦略爆撃を控えるならば、皇国本土からの攻撃目標はかなり絞られる。無理に航空母艦に大型騎を搭載しての爆撃となると話は変わるが、帝国海軍も無策ではなく、皇国海軍も神州国との関係が悪化している中で航空母艦を長期航海の必要な任務に再び従事させるとは考え難い。未だ稼働状態の航空母艦は一隻に留まる。直近に改装した同型航空母艦の二隻目が就役するという話はあるが、目立った戦果を挙げた艦種故に周辺諸国から常に動向を探られている事もあって帝国もその動向を把握していた。以前と異なり完全な奇襲は難しい。
しかし、リディアはエカテリーナから重要な事から逃げていると、誤魔化されなかった。
「つまり姉上はトウカの憎悪に晒される事は問題にしていない、と」
戦略爆撃の脅威とその限界。
推測は大いに結構。問題はそこではない。
トウカである。
狂える軍国主義者である。
亡き龍姫の亡骸に罵声を浴びせるが如き真似をして沈黙を選択するかと言えば、とてもそうとは思えない。あの何が飛び出すか分からない歩く殺意からどの様な軍事力が飛び出すか把握できるものではない。また新しい戦略兵器を奇襲的に運用されては帝国陸軍総司令部としても防衛に自信が持てないと容易に想像できる話である。
しかし、エカテリーナの見解は異なった。
「莫迦な事を……その様な事は議論にもなりません。彼はあの女の無理無謀を押し通す様を称賛しても、それを秘すべき罪だと憎悪する感性は持ち合わせてはいないのですから」
リディアは酷い言葉を聞いたと憂鬱になる。
トウカであれば、マリアベルの謀略の暴露を喜ぶだろうという屈折した確信。
そう言われると、その様な気がしないでもないリディアとしては、確かにエカテリーナからすると議論に値する内容ではなかったと納得する。的外れな事を口にしたと恥じ入る心情にはなれなかったがエカテリーナは嫋やかに微笑む。
「一先ずは協商国の城壁の呼び鈴を鳴らすとしましょう」
その呼び鈴は練石と鋼鉄の複合物が崩れる音でもあった。




