第三八四話 誤解
「陛下は何故、エスタンジアへの進駐を避けられたのですか?」
口元を左上翅で隠したヨエルの問い掛けに、トウカは返答に窮していた。
南エスタンジアの叛乱騒動に対して本格的な介入を避けるという皇国の判断は、枢密院を介する事無く行われた。無論、制度上それは許される事ではあり、鎮圧の支援に関しての戦力投射に関する規模と手段の議論は別で俎上に上がっている。
市井が騒ぐヴィルヘルミナの容姿に影響を受けた同情などはなく、枢密院では皇国への来訪中を狙った叛乱に対して座視するのは権威に差し障るという意見が大半を占めていた。事実としてトウカとヴィルヘルミナの婚姻政策に対する反発という形である以上、その対応次第では皇国の力量と本気を問われる事態になりかねない。
しかし、本格的な軍事介入には時間を要する。即応性のある陸上部隊を投入するにしても集結と指揮系統、兵站の準備を踏まえると迅速な対応とはならない。
だが、短期間であれば叛乱だが、長期化すればそれは内戦である。政治的不安定を避ける為にも短期間で納める必要があり、皇国は迅速に戦力投射を行わねばならない。
思案の為所であった。
親善訪問の際の第一報を受け、その場でヴィルヘルミナの帰国が決まり、トウカは曖昧ながらも武力進駐の措置は取らない事を伝えたが、ヨエルとしては内戦に発展しても武力進駐で良いのではないかとも考えていた。
商船による経済活動を考えた際、エスタンジア地域を領有している意義が大きいのは確かだが、それ以上に帝国との戦線を押し上げるという成果を喧伝できる事は内政上の特筆すべき点である。
今となっては、帝国の脅威は皇国臣民の誰しもが実感している。
国内世論は評価はしても懸念はしないはずであった。
そして、帝国はエスタンジア地域に戦力投射をする余裕を失っており、 皇国がエスタンジア地域を領有しても大きな脅威とはなり難い。帝国側のエスタンジア地域に面している地域の交通網が極めて脆弱で少数での防御が容易な事も挙げられる。神州国にしても、連合王国へ食指を伸ばす方向への同意をしたならば二正面の轍を踏む決断は取り難い。
近年稀に見るトウカの困り顔。
珍しい事であるし、少し愉快な気持ちになったヨエルだが、ヴィルヘルミナにトウカを振り回す器量がある様に思えて複雑でもあった。
「あの国の制度は異常……いや、史上類を見ない。まぁ、独裁者が人気商売なのは確かだが、人気商売という点をああまで最大化するとは……あれの一言でどこまで荒れるか想像も付かない」
顔を顰めたトウカに、ヨエルも頭に人差し指を当てて考え直す。
先例がない。
トウカは先例に倣う。
先例を踏襲する事を若者の間では忌避する風潮があるが、同時に先例を判断材料として課題解決の糸口とするという点と混同する傾向にもある。トウカは歴史や軍事史という先例を判断材料として重視……偏重しており、そうした風潮とは無縁であった。
皇国では先進的に見えるトウカの政策も、実際のところは異なる世界の政策を基礎としたものが多く、皇国の存在する世界の現状との擦り合わせに苦労していた。 トウカは先進的な国家指導者ではなく、寧ろ国益の最大化の為に無節操に政策を取り入れる。先進的に見えるのは、先例を知らぬ異なる世界の者であるからに過ぎない。
――確かに先例はありませんね。この世界では。
正直なところ、ちょび髭伍長の思想の行き着く際が、弾圧していた民族が不在の世界で天才美少女独裁者(俗称)というのは失笑を禁じ得ないものがある。しかも、当のちょび髭伍長は男色の脅威(超約)に晒された噂が残っていた。恐らく、当人が後世に伝えるべきと考えていたものは名称以外には残っておらず、残したくないものだけが残っている。 歴史は当事者の造るものであるが、先達の想いを何一つ汲み取っていないというのは珍しい。
理想主義は現実主義に漂白され、官僚主義によって是正される。
行き着く先は目新しさに欠ける日常である。
そうでなければ狂騒と混乱によって国家は灰燼と帰すものである。
「あれを懐に入れるのは断じて否定すべきだったかも知れないな」
結局のところ統治に於ける変化に急激な進歩はなく、失敗による急激な荒廃ばかりが目立つ。
エスタンジア地域だけに有効な獅子身中の虫である。
現在の皇国全体から見ると人口比と経済力の面で大きな影響力を有する事にはならないが、経済的に見ても軍事的に見ても将来は要衝となるのは明白である。今現在の影響力と比して将来の影響力は増大している公算が高い。
トウカの懸念。
しかも、個人の処遇次第で激発しかねない地域である。ある種、北部より処遇が難しい。
領土拡大に於ける良き先例の実現を逃したくないというトウカの焦燥が目を曇らせたとヨエルは見ていたが、同時にそれはヨエルにとって全くない視点であった。
皇国の経済力が増せば経済的依存せざるを得ない状況を作り出す事は容易であり、エスタンジア地域単体では商用航路の安全確保を十分に行えるだけの艦隊戦力も用意できない。何より、エスタンジア地域は平地が少なく、近年の工業化の結果として農耕に適した土地が減少しており、今以上の人口増加への対応は難しかった。
首輪は十分に付けられる。トウカの不明である。
しかし、ヨエルは尋ねておかねばならない事がある。
「……私を疑っておいででしょうか?」少しだけヨエルは怒っていた。
トウカが返答に窮していたのは自身に対する警戒があったと理解していた為である。
「憲兵総監が均衡を保つべく貴女を皇妃にする可能性に言及していなければ、疑っていただろうな」
二人の狐系種族の女性士官、鋭兵科の兵科章を付けた警護……皇州同盟軍からの護衛を兼ねて派遣され、執務室の扉の両側に立つ彼女達が狐耳を立てる。興味津々という様子であり、要人警護の姿としてはどうかと思わざるを得ないものであった。
――そもそも、武芸に優れる種族でもない……当代ヴェルテンベルク伯との連絡官という側面もあるのでしょうが……
トウカと諸々の手続きをせずに直接、遣り取りをする手段を持つ事で周辺貴族に対して権勢を示そうとしているのだろうと、ヨエルは益々と不機嫌になる。トウカがそうした意図を知らぬはずはなく、それを黙認している事は明白である。
マイカゼには寛容を示すにも関わらず、ヨエルには警戒ばかりを向ける。
無論、亡き恋人の母に対する複雑な感情や、ヴェルテンベルク伯爵領自体が近しい仲であったマリアベルの領地であった経緯も、ヨエルは理解している。不正と不誠実の温床であったヴェルテンベルク領から要らぬ情報が漏洩する事への懸念。マリアベルを取り巻く風聞を守るという意味もあれば、その片棒をトウカ自身が担いだ過去もある。そして何よりもザムエルやリシアを始めとしたヴェルテンベルク領出身の軍人に咎が及ぶ事への懸念。
部下を守るという健気。
トウカの軍人……皇州同盟軍からの支持はそうした部分も大きい。
「あの子、そんな事を……」
邪推も甚だしく、義母を何と考えているのかとヨエルは思わずにはいられない。
家族会議の必要性を強く感じたヨエル。
同時に、クレアが安易にそうした事を当然視して口にした事で、容易く背景が見える様な動きをヨエルがする筈がないという判断をした流れも彼女にとり腹立たしかった。
「総統を娶れども、熾天使まで娶ってしまえば内政は確実に抑えられる。それをしない道理はないと覚悟していたそうだ……正直なところ、俺の力量不足を突き付けられた気がした」
トウカが返答に窮したのは、クレアに要らぬ覚悟をさせてしまったという後悔と恥辱があるという事であった。完全にクレアありきの後悔である。そこにヨエルに対する理解は伴わない。
「己が侍る為に見ず知らずの女を宛がう真似を私がすると? 自ら配当を減じる真似をすると? 自分の力量で望む立場を得る事を諦めると?」
「では、一度たりとも考えていなかったのか? それに一度、皇妃としてから処分してしまえば良いとは考えなかったか?」
何と酷い事を言うのか。それが母方の遺伝子からであるというヨエルの直感。
再び立ち塞がるのか。死して尚、邪魔立てする。そもそも本当に死んだのか。
ヨエルは思わず涙する。
「私は、そんな――」
「俺は考えた」
ヨエルの言葉を制し、トウカは断言する。余りにも力強く、そして怒りに満ちている。
「クレアに言われてからだが……最善を見落としていたのかも知れない。アレがマリアベルの友人だからか? 嘗ての世界の残照に関わるからか? それとも恋とやらでもしたのか?」
馬鹿な事だ、とトウカは吐き捨てる。
何が己の目を曇らせたかトウカは酷く気にしている。怯えていると言っても良い。
ヨエルはトウカを非難する事ができなくなってしまう。意識した事ではないだろうが、酷い真似をすると、父親と違って女性を黙らせる事に長けているとヨエルは益々と好きになる。そして、容易く手玉に取られはしないと、トウカを睨む。
その姿すら愛らしい天使であるが、トウカは困った表情を変えない。
「では、若年なれども流行り廃りを知らぬ陛下に熾天使が世の理を教えて差し上げます!」
ヨエルからするとヴィルヘルミナに対する懸念など、トウカの被害妄想の類でしかない。先例が通用する環境は、未来には消え失せるのだ。このままでは困る。
ヨエルは六枚の翅を伸ばす。
「生きた偶像の消費期限など精々が一〇年程度。新しい偶像は次から次に生まれ、 例え今日、人気あれども母数が増えれば人気など分散するものです!」
報道と通信機器の能力が増大する以上、それに応えるべく企画と関係者は増大する。それは多くの女優を必要とし、業界規模もそれに応じて大きくなる。
歌って踊れる女優は時代が進めば増加する上、徒党を組み集団化する。対するヴィルヘルミナは種族として容姿の劣化が遅いと言えど、公務との兼ね合いで今以上に全力で女優業には専念できなくなる。その間に女優は数を増し、活躍の場は広がり好みの多様化も進む。
歌って踊れる総統閣下は元より時代の徒花でしかない。
「そもそも陛下が傷物にするのです! その輝きなど早々に減じます!」
傷物に……誰か一人の女優となって尚、威勢……人気を維持できるものではない、とヨエルは断言する。
穿った見方であるが同時にそれは真理でもある。美しさや業種に必要な技量の劣化という要素ではなく、誰のものではないという輝きを携え、己の時間を己の目指すものの為だけに全力で投じられるという強み。
誰か一人のものとなり、子を為せば忽ちに消えてしまう輝き。向けられるべき愛情や情熱、思考の行き先が分散するのだ。全てを十全に為す事などできない。
ヒトは脆弱で多くを求め過ぎ、そして全てを得られない。
「そういうものか……徒花か……散るからこそ美しい、か……本質がそこにある、と……」
首を傾げつつも、一定の妥当性があると理解を示すトウカ。合理性が過ぎて共感が伴わない様に教育されているというのは斯くも同意を得難いのかと、ヨエルは桜城家の狂信的な教育姿勢に怒りを覚えた。
トウカの思案に、ヨエルはそうした歪な感情の形が軍事国家の歯車の形と同型であると桜城家は疑わなかったのだろうと確信する。事実、今迄の実績はその証明として軍事史の一角を血涙で記した。
「貴女も輝きを失う事を望んでいるというのか?」
トウカに侍るという事は愛する義務と子を為す義務を負うという事である。どちらも伴わない形だけというのは許されない。権威に侍るとはそうした意味である。
ヨエルは、そうではありません、と否定する。
「女は誰か一人の為に輝きたいものなのです。それに気付かぬ不幸も珍しくは在りませんが……」
気付かぬ不幸があれども、代わる幸福を見出せるのならば良いが、ヒトの世は一人で歩むには寂寞に過ぎる。それにいつ気付き、良縁に恵まれるか、というのは幸運の寄らしむるところであった。ヨエルは長きに渡る世の総攬の結果として、そうした答えを得ていた。
「そうは言うが、貴女の言葉が正しいとするならば、宰相という職責が愛され子を為す事で不安定化するのではないか?」
唯一の熾天使である事から天翼議会議長という立場が侵される事はないが、公明正大で慈愛に満ちた熾天使が務める宰相という立場は力量の欠如で失われる類のものである。職責を全うできないと看做されれば、早々に後任が選定される事は疑いない。
だが、女優と宰相を同等に考えるのか、とはヨエルは言わない。それは職業の優劣に根差した感情からではなく、誰か一人の為に輝くという決断を大きく捉えているからである。
そして、公明正大で慈愛に満ちた熾天使という立場を捨てるというのは、女優が人気を喪うよりも影響が大きく、宰相職を喪うよりも尚、大きい。ヨエルは全く気にしないが。
そうした覚悟は、トウカを知った時から出来ているものでしかない。
しかし、そうは言えない。
トウカの前では力量ある熾天使で在りたいのだ。
「……陛下は意地が悪く御座います」
「善良な国家指導者など居ない。意地が悪い、或いは根性が悪いというのは国家指導者の最低限の資質だと思うが」
桜城家らしい原則に基づいた指摘。
トウカの父とは異なる原則であり、トウカの父は寧ろ誠実で真摯であった。そうであるからこそ諸々万事が過ぎて酷烈にも見えたが、トウカは酷烈である事を必要悪だと確信している節がある。それ故に手強い。
「底意地の悪い事を言った心算はない。長年に渡り国母と言うに相応しい立場を担ってきた熾天使が立場を変える影響を図り切れないだけだ」
それ程に大したものだろうかとヨエルは思うが、実情として天帝不在の時代や、歴代天帝を支えて治世を盤石なものとした実績は無数とある。有翼種からの信任も篤く、立場の弱い種族の代弁者とも見られている。
皇妃となる事で、その中立性や公平性が保たれないと見られた場合、その影響は内政に波及しかねない。特に他の公爵の政治権力強化の切っ掛けになる事をトウカが警戒しているのは明白であった。早期に国会の再建をすべしと主張する三人の公爵を頼る政治勢力が表れて強大化する事を懸念している事は疑いなく、現状トウカとヨエルの連携があって否定されている状況である。ヨエルの立場が弱体化する事自体がトウカの権勢を弱くする。
二人が同一の政治勢力と見られる事は単純に政治力が合計する事を意味しない。寧ろ、トウカに与する事で、その政治姿勢や武断主義を疑われ、既存の支持者を喪う可能性が高い。
ヨエルとしても、皇妃となって尚、トウカと異なる政治色を鮮明とする事を望まない。 ヒトという生物は公私を割り切れぬものである。外の対立が持ち込まれ、日刊家庭内の危機というのはヨエルとしては不本意極まりない話であった。何より、夫を支えるべき妻が負担を掛けるのでは本末転倒である。大和撫子という概念をヨエルは理解しており、家庭内でもトウカが休まらない様な振る舞いを内外でする心算はなかった。
政治的に重要だからこそ、トウカはヨエルの扱いに慎重である。
それを理解し、ヨエルは厚く遇されている事に満足感を覚え、同時に女性と扱われていない事に不満を持つ。
「翅を挽いで、ただ一人の女として侍るならば許されるのでしょうか?」
「莫迦な事を。同情で全てを投げ出した女を受け入れる男だと思うのか?」
クレアとの関係を見るに、覚悟を見せれば、それなりの理由を其方が用意してくれるのではないか、という可能性がヨエルの脳裏で鎌首を捧げるが、健気が伴わねば公算が低いとも見ていた。
そうしてトウカの頑なな姿勢に唇を尖らせるヨエル。
トウカは困った顔をするが、同時にヨエルとの会話で得た知見を活かそうと膝を打つ。
「取り合えず、熾天使の翅を捥いで傷物にする話は置くとして……」
乙女の覚悟は横に置かれる。
そして、その覚悟は別の女に強要されるものとなる。
「総統は早々に傷物にするべきだろうな……それはそれは大きな傷を付けてやるとしよう」
残酷な笑みを以て、殺意染みた感情を覗かせるトウカ。
ヨエルは、なんて哀れなのでしょう、と両手を組んで見目麗しい少女の爾後に祈る。
自身がトウカへ教示した事実が発端とは言え、己が願って止まない立場を得る事になる相手に対する慈愛までをも熾天使は持ち合わせていなかった。




