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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第三章    天帝の御世    《紫緋紋綾》

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第三八三話    ゲルマニア沖




「右砲戦用意」


 戦艦〈猟兵リリエンタール〉艦長であるゾンバルト大佐は、双眼鏡越しに艦影を見つめながらも命令を下す。


 聯合艦隊司令長官と総統による背後からの視線と比較すると双眼鏡越しの艦影など取るに足らないが、相手も小型とは言え戦艦である為に油断できない。敵軍の箱庭である海域での戦闘である以上、特定の艦艇の奇襲的運用も想定された。特に水雷艇による奇襲などは最も憂慮すべきである。


 水雷艇は小型である為、島影や夜陰に乗じて接近されても発見が遅れる事が珍しくない。その上、大型艦にも相応の被害を与えられる魚雷が主武装なので尚更警戒する必要がある。隠密性が重視されるので魔導機関ではなく内燃機関を運用している事もあり、魔導探信儀では探知距離が短くなるという点も大きい。


「敵……失礼、相手艦隊からの攻撃があり次第、応射致しますが宜しいでしょうか?」


 見目麗しい総統閣下の御機嫌を伺いながら海戦をするという難事に、ゾンバルト大佐は心労を覚えていた。挙句に遥か雲の上の存在である聯合艦隊司令長官まで隣に立つのだから重責に他ならない。


 麗しの総統閣下は動じない。


「万事、任せるのだ。国家指導者に砲を向ける。許される事ではないのだ」


 断固たる意志に、ゾンバルトは可愛いだけの国家指導者ではないと感心する。表に出ない権力者が用意した帽子の羽飾りではない。


 腕を組み瞑目する聯合艦隊司令長官を一瞥し、ゾンバルトは敬礼を以て了承する。


「友軍航空艦隊が艦隊上空を通過しつつあり。報告の〈第二戦略爆撃航空団〉と思われる」


 見張り員からの報告に、ゾンバルトは空を見上げる。


 低高度と言える高度……戦闘騎が巴戦(近接格闘戦)を行う高度で編隊を形成して飛行する巨大な龍の群れが、嘶きと共に艦隊上空を通過する。


 低高度での飛行は自信の表れとも言えるが、機銃による集中砲火を行う事が容易な箱型編隊と魔導士が同乗する事で生じる高い防御性能は戦闘騎による迎撃を容易ならざるものとさせる。


 尤も、実情として高高度爆撃では命中精度が期待できない事に加え、目標空域に有力な航空戦力が乏しいとの情報を得ての事であった。


「あれの目標は北エスタンジア国境に点在する陸軍基地や兵站施設です。封緘命令として作戦計画書の開示を受けましたが、その第一段階……の極一部のみを実施するとの事です」


 ゾンバルトとしては、そうした説明はヒッパーに任せたいところではあるが、当人は巌の如く黙して語らない。


 宣伝大臣であるヨゼフィーネが驚きの声を上げる。


「宣戦布告もなく、他国を攻撃するというのですか?」


 眉を釣り上げたヨゼフィーネにゾンバルトが応じようとするが、そこはヒッパーが割って入る。


「《北エスタンジア王国》は、事実上、帝国の構成国に等しいですが、今回の攻撃の為、彼の国は《エスタンジア国家社会主義連邦》の領土の一部を不当に占領する武装勢力という扱いになると……貴国がエスタンジア地域の統一国家であると陛下がお認めになられたとも取れますな」


 大国からの推認ほど心強い事はないが、どの道、皇国の一部となるのだからこの際纏めておこうという思惑が透けて見えるので、ヴィルヘルミナとしては無駄がないと思わざるを得ない。


「陛下は宣戦布告なしの攻撃を騒ぐ輩が居るなら、特別軍事作戦とでも言ってやれ、と仰られたらしいですな」


 国益に叶う”外交”を邪魔する者には、無意味で馬鹿げた詭弁で水掛け論でもさせておけ、というのがトウカの言である。


「なに、現時点では他国である北エスタンジアへの爆撃は、貴国への内政干渉にはなりますまい。帝国の構成国を攻撃する。それは今の皇国では何ら法的制約のない話に過ぎないということです。相手次第で理屈など変えればよいという事でしょう」


 屁理屈と詭弁であるが、北エスタンジアの領土への爆撃である以上、南エスタンジアとしては、精々が国境沿いでの軍事行動は不測の事態を招くと苦言を呈する程度しかできない。


 遺憾の意。 つまり何もしない。


「国境沿いで不測の事態に備えないといけないのだ……国内最大の国境軍集団を国境警備で拘束するということなのだ?」


 そうなると叛乱を起こして首都で居座る面々と、国境軍集団の隷下にある叛意のある部隊も叛乱軍に合流する事は困難になる。敵国が攻めてくるかも知れない、或いは小競り合いが発生するかも知れない中での戦線離脱を行えば正統性も国民支持も失う事になる。


 そもそも、封緘命令として利用すべく作戦計画書が戦闘艦に保管されている時点で、 北エスタンジア侵攻を想定した作戦計画は以前より存在したという事でもある。当然、 ゾンバルトは南エスタンジアの対応次第では、北も南も纏めて軍靴で踏み荒らす作戦計画書もあるだろうと見当を付けていた。


 封緘命令を大量に用意して、情勢次第で即座に戦力投射を行う。


 トウカであれば準備していても不思議ではない。


「これで、国境沿いの部隊は動けないでしょう。後は我々の艦隊を以て総統閣下を首都に凱旋させるのみです」


 ゾンバルトとしては、南エスタンジアの戦力では、それを阻止できないだろうと見ていた。


 沖合に大型戦艦一隻と重巡洋艦四隻を基幹とする艦隊が展開しているのだ。


 単純計算で五個師団程度の規模の火力支援が可能である。


 場合によっては、その火力が首都に叩き付けられる事になる。


 極短時間で首都は灰燼と帰すだろう事は疑いなく、抵抗拠点など艦砲射撃によって容易く粉砕される。


 悠々とヴィルヘルミナは大通りを歩いて国会議事堂(ライヒスターク)への帰還を成し遂げるに違いなかった。


「総統閣下に忠誠を誓っている国防軍部隊が沿岸部に展開しております。我々の出現と同時に首都へと向かうとのこと。合流なさるべきかと思います」


 ヨゼフィーネの忠言に、ヴィルヘルミナが鷹揚に頷く。


 親衛隊ではなく国防軍の部隊が指揮系統から逸脱せず、統率下に在り続けている事は皮肉極まりないが、危機的状況下でも軍内部で相撃を厭わず指揮下に留まり続ける部隊が存在する事は、ヴィルヘルミナの力量と人気を窺わせる。


「どうやら貴国の海軍が旗幟を鮮明にしたようです」


 南エスタンジア海軍艦艇に掲揚される白旗を見たゾンバルトは心底と安堵する。未来の同僚と砲火を交えた事実は後ろ指を刺される過去となりかねない。皇州同盟軍のシュタイエルハウゼン大将の居心地の悪さを、ゾンバルトは容易に察せる。


 南エスタンジア艦隊は機関停止したのか行き足を止めつつある。白旗だけでは降伏とは看做されないとの判断で一般的な対応と言えた。


「移乗するという選択肢もありかと思います」


 ヨゼフィーネの提案にゾンバルトは眉を顰める。


 艦艇乗員全てがヴィルヘルミナ側に理解を示しているか不明瞭な状況では殺害や人質となる危険性を排除できない。


「危険ではないか?」


 ヒッパーの指摘にゾンバルトも賛同する。


 乗員から陸戦隊を組織して、南エスタンジア側の艦艇にヴィルヘルミナと共に乗り込むという手もあるが、閉所戦闘で他国艦艇内での戦闘ともなれば有利な戦闘は期待できない。ましてや海軍艦艇乗員は銃火器を手にした戦闘の訓練も実戦も乏しい。相手に閉所戦闘を想定した戦力を搭乗させていた場合、不利は免れない。


 しかし、ヴィルヘルミナは柔らかな笑みを見せる。


「私は叛乱軍の手に落ちないのだ。その為にこの戦艦の主砲がある……そうなのだ?」


 殺害や人質ともなれば諸共に撃てとの意見。


 ヒッパーは瞠目し、ゾンバルトはヴィルヘルミナが本質的にトウカやマリアベルと同類なのだと顔を顰める。


 果断にして苛烈、 武力を用いるに当たっては徹底的に。


 状況次第ではゾンバルトは大きな面倒を背負わねばならなくなる。


「いいでしょう。我々としては総統閣下の決断を阻む立場にない……陛下も、花嫁の行動に都度、口を挟む様では狭量の誹りを免れん、と仰られた様ですからな」ヒッパーが同意する。


 既に嫁扱いなのか、とゾンバルトは併合に向けた政治側の動きの速さに驚いたが、同時に周りの乗員のざわめきを咳払いを以て一蹴する。


 一つの国家となる以上、内乱で他国の手を借りたという負い目が生じる事で政治的不均衡が起き得るかも知れないという配慮か、或いは鎮圧時に皇国側が陸上戦力まで投じれば属国化に等しいと見られかねないとの懸念もあるかも知れない。


 ゾンバルトとしては、トウカがかなり神経質になっている事を封緘命令から読み取っていた。


 命令書の一つ、その更に一部を実行せよとの命令だったが、封緘された以上、その命令書の全てに目を通す事は規定上問題はなかった。


 その作戦計画の節々から、トウカが他国の併合に対して、かなり神経質になっている事が窺えたので、ヒッパー共々、意外な一面を見た気がしたので顔を見合わせた記憶がある。


 ヒッパーは、致し方なし、と命令する。


「ゾンバルト大佐、南エスタンジア艦隊に通信を」


 覚悟を決めたのだろう。もし、ヴィルヘルミナが失われるような事があれば、トウカは何をしでかすか分からない。ゾンバルトやヒッパーに軍事的失態がない以上、処罰される事はないであろうが、トウカの災禍が振り撒かれる光景の原因の一端を担うというのは著しく心情を害する案件である。


「はい、内容はいかがしますか?」


 他国海軍艦艇との交信であり、指導者の移乗に関わる話である為、一艦長の職責には余る。


 ヒッパーは暫しの思案を経て告げる。


「花嫁が移乗を望む。貴官に花嫁の扱いの心得は在りや?だ」


「それは……了解しました」


 ちらりとゾンバルトはヴィルヘルミナを見るが無表情であった。ヨゼフィーネは頻りに頷いている。


 通信士が通信室に走る。


 ヒッパーは愉し気である。


 若しかすると南エスタンジア艦隊側の旗艦は、女性の提督や艦長かも知れないのでは?とゾンバルトは考えたが、皇国程に女性将校の比率が多い国家は存在しない。軍務に適した特性を持つ種族が多い国家でもないならばやはり軍隊とは男社会である。


 暫しの間を置いて通信士が昼戦艦橋へと駆け込んでくる。


「返信ですが……」


 困り顔の通信士を、ゾンバルトは、言い給え、と鷹揚に促す。共に被害者だろう?との心情を以ての態度である。


 奇怪な生物を見たかの様な表情に転じた通信士が返信を告げる。


「心配無用。我、遅ればせながら新婚なり」


 ヒッパーの野太い笑声と、ヨゼフィーネの軽やかな哄笑の二重奏。


 昼戦艦橋に詰める将兵も流石に堪え切れずに笑声を零す。


「幸運な事に心得があるそうだ」


「ただの惚気では?」


 ゾンバルトとしては、国難と国益の最前線で冗談を飛ばし合う豪胆に呆れるしかない。可能ならば他の艦艇で励んでいただきたいところであるというのが本音である。つまらぬ理由で砲火を交えて戦死者が出るのは彼にとって不本意であった。


 しかしながら武官の定命。上官の命令とあらば否やない。ましてや相手は聯合艦隊司令長官にして、この総統閣下を送迎する為に臨時編制された艦隊の司令官でもあるのだ。


「移乗準備、陸戦隊を編制だ。分隊規模で良い」


 ゾンバルトとしては、最早、神頼みの領域である。


 艦砲で民間人諸共に敵拠点を吹き飛ばすなどという事は断じて避けたい。


 軍紀上の妥当性ではなく、個人の良心に根差した問題。


 彼は誠に一般的感性を持ち合わせた男性であった。









「ゾンバルト大佐の様な常識人には酷な要求だったのだ」


 ヴィルヘルミナは少しばかりの罪悪感を滲ませる。


 良識ある軍人というのは、どうも相手にしていて居心地の悪さを覚えてしまうというのがヴィルヘルミナの所感であった。責任の所在を明確にしても尚そうした人物は心の内にある良識や良心というものを無視できない。軍高官にはあってもよいが、実戦部隊の指揮官にはあると時に負担となる要素である。上意下達の下で滞なく命令を執行する軍人。


 ヴィルヘルミナは、そうした軍人を望んでいた。


 何せ、婚約破棄を求めて叛乱を起こされた立場である。政治闘争の中での結果であれば納得はできないが理解はできるものの、明らかに支持者の私情の産物であった。控えめに見ても全世界に恥を晒したようなものである。


 熱烈な支持というものが狂騒を似て政局に要らぬ波風を立てた事は度々とあったが、今回は極め付けである。戦死者の棺を神輿代わりに大通りを行進する輩を上回る……類似した面々だろうが、ヴィルヘルミナも今回ばかりは無血でなど済ませられないと覚悟している。


 短艇の座席に腰を下ろしたヴィルヘルミナは、対面で嬉々として拳銃を磨くヨゼフィーネを一瞥して溜息を吐く。


 絶対に処分する気なのだ。


 不仲で意見と政策の合わないレイムを排除できる好機が訪れたとヨゼフィーネは大変に機嫌が良い。合わない人間の典型例の様な二人の立場と関係に苦心するヴィルヘルミナだが、今回ばかりはレイムを庇い切れないとも理解していた。


 叛乱は貫き通す事でしか罪を踏み倒せない。或いは志半ばで斃れるか。


 安易な助命は不和と悪しき先例を残す。次の叛乱の心理的難易度は下がり、政治的混乱の中で武力を用いて現状を打開しようとする動きが生じる可能性を増大させる。実際、偶然性の連続である叛乱から即位という流れを以て国家指導者となったトウカは国内の武装集団の選択と集中に腐心している。指揮系統の複雑と武装集団の乱立は叛意を持つ者に付け入られる公算が高い。皇州同盟軍が、トウカ自身が付け入った余地を再利用される事を懸念しての対応であった。


 ヴィルヘルミナは、それを正しい判断だと考えた。


 自身の統制下にない、或いは指揮系統上、異なる意思が独断で運用できる余地のある状況を放置すべきではない。


 それを今回の叛乱でヴィルヘルミナは痛感した。


 総統就任と防衛戦争で多大な活躍をした事もあって親衛隊に対する改革や解体には及び腰であったが、断行していれば現在の叛乱はなかったかも知れない。


 ――天帝陛下は皇州同盟軍を解体せず、別組織にしつつも役割を分けているのだ。あのようにすれば良かった。


 戦略的効果のある兵器を運用する自身の直轄戦力として皇州同盟軍は再編制されつつある。役割分割をする事で必要性と意味を持たせた。


 類似する職域の組織が二つある場合、あらゆる場面で政争が多発する。成果を演出する為に過激な動きが生じやすく、それは遺恨と資源浪費を増大させた。南エスタンジアに於ける親衛隊と国防軍も、そうした部分に根差している。


 とは言え、過激な支持者(ファン)の私設軍から始まった組織に任せられる事など限られる。退役軍人を招いての戦闘訓練や編制などで軍事組織としては相応の練度だが、纏まった陸上戦力という要素以外に付与できるものはない上、成立の経緯から人員を国防軍に編入する事も困難であった。


 対する州同盟軍は研究開発や公共施設(インフラ)整備なども領域に収めており、他の要素を主体とした再編制が可能である上、北部を領域とした郷土防衛の為の組織であった。北部の防衛という前提が崩れないなら人員を陸軍へと編入する事は説得次第で可能である。現にトウカはそれを為している。


 内戦前も皇州同盟軍成立前も、事実上の独立地域であった皇国北部の防衛が主任務であった為、陸軍とは管轄が重ならなかった事も大きく、それはそれで国家として中央の統制が及ばない地域がある為に問題であるが、少なくとも陸軍と北部地域の武装勢力は棲み分けができていた。


 とは言え、総統就任から改革初期は親衛隊あっての権勢という部分が大きく、ヴィルヘルミナとしても実績から手を付け難く今日まで至った。


 ――(しがらみ)のない天帝陛下……ううん、敵対を許さない姿勢があるから北部貴族は沈黙しているのだ。


 皇城と近衛軍相手に攻城戦を仕掛け、国会議事堂を瓦礫の山に変えた果断に北部貴族は喝采を挙げたというが、実情として彼ら自身もその果断が自身に降り掛かる可能性は常に自覚していた筈である。トウカへの意見が陳情で留まり、致命的な敵対には至らない様に配慮している事はその動きから一目瞭然であった。無論、トウカによる北部開発の為の莫大な投資が強烈な鼻薬となった事は疑いないが、それだけで全てを抑えられる程にヒトという生き物は合理的ではない。


 後悔は意味を為さない。


 主導した者達は悉く首を刎ねねばならない。


 ヴィルヘルミナとしては盟友に死を求めるというのは避けたいところであるが、政治と軍事がそれを許さない。ヨゼフィーネもまた同様である。


 徐々に近づく南エスタンシア海軍で艦隊旗艦を務める装甲艦の威容……大型戦艦である〈剣聖ヴァルトハイム〉型と比較すると慎ましやかな威容を見上げたヴィルヘルミナは甲板上で移乗作業に従事していると思しき水兵達に敬礼する。内火艇に同乗する面々も後に続く。


 水兵達も気付いたのか作業の手を止めて答礼する。


 歓心を買うとはこうした事である。平素からの習慣であり、相手を認識しているという意思表示は好感を与える上で欠かせないものであった。そもそも、これができない政治家は力量以前の問題である。トウカの様に実績だけで諸勢力を圧倒するというのは歴史的に見ても稀有な例であった。


 降ろされた舷梯(タラップ)に内火艇が接する。


 緩衝材越しの振動が足元から伝わり、接舷を伝え、舷梯に待機した水兵と内火艇の水兵の間で(もやい)を用いて内火艇の固縛が始められる。国家が違えども手順は変わらない。


 護衛を務める臨時陸戦隊員が短機関銃を手に、先に舷梯へと飛び移る。緩衝材が舷梯と内火艇の間にあるので飛び越える必要があった。


 ヨゼフィーネが先に舷梯へと飛び移り、ヴィルヘルミナに手を差し出す。


「天帝陛下じゃなくて御免なさいね?」


「いいのだ。こちらこそ先に幸せになって御免なさい」


 肩を竦めて見せるヴィルヘルミナ。


 回りに両国の水兵が居るのだから、もうそれは幸せそうにするしかないが、ヨゼフィーネに対し、暗に御前は婚期を逃しそうだ、と含みを持たせて応じるくらいは許される筈であるとヴィルヘルミナは確信している。


 僅かな感情の揺れをヨゼフィーネの表情に見たヴィルヘルミナは、それに満足して舷梯へと飛び乗る。


 水兵の先導を受け、舷梯を登る。舷は不安定であるが大きな揺れはないく、ゲルマニア沖合は地形上、海が穏やかである為に移乗も容易であった。


 舷梯を登り終えて上甲板に降り立つと、整列した士官達が敬礼を以てヴィルヘルミナを迎える。


 ヴィルヘルミナは士官達に笑顔で答礼しつつも、上部構造物の各所から窺い見ている水兵達にも時折、足を止めて笑顔で手を振る。小さな歓声。ヨゼフィーネも同様に笑顔で手を振っている。


「今なら二人で組んで女優業もできると思うのだ」


「嫌よ、演出するから楽しいのよ。歌って踊って、序でに統治は貴女の役目」


 随分な言い草に、ヴィルヘルミナは今迄国営が大過なく継続できていたのは奇跡の産物だったのだろうと思う。権力への渇望に乏しい事は僥倖であるが、自身の力量を示す場を限定的に考える事は好ましくない。


 そうして艦橋方向へと進み、大将の階級章を付けた中年男性からの最敬礼を受ける。


「大洋艦隊司令長官のリンデガルト大将です。よくぞ御無事で」


「ありがとう、司令長官。貴方も無事で良かったのだ」


 海軍艦艇を押さえるだけの余裕が叛乱軍になかったのか、政治中枢を押さえれば、時間経過と共に賛同するという思惑であったのか、ヴィルヘルミナには分からない。しかしながら有力な艦砲を持つ 装甲艦と叛乱軍が交戦状態に陥り、首都で砲弾が飛び交う状況とならなかったのは僥倖である。


 皇国では、皇都擾乱に於いて首都で砲弾が飛び交い、国会を司る建造物が議員諸共に倒壊した。


 相応の実戦部隊を指揮下に収める叛乱者である。


 議会を以て妥当性の欠如を問うなどという馬鹿げた真似をしても、議会諸共に拭き飛ばされるだけである。まさか実戦部隊の協力を取り付ける事もなく叛乱行為に及ぶ悪かな国家指導者など居る筈がない。


 対する現在の南エスタンジアの混迷は幸運に恵まれている。


 今回の叛乱に於いて未だ確認できる被害がない事は奇跡に等しい。


 鮮やかな、と言うには奇妙な点が多岐に渡る為に判断し難いものがあるが、被害がないというのは歴史的に見ても稀有なものである。


 政権が倒れた訳でもなく政府閣僚は拘束されているのみで、叛乱軍の要求は国家指導者の婚約破棄である。無論、皇国側が確実な権力回復を意図して北エスタンジアの国境付近の軍事基地に対して航空攻撃を行っている為、国境で小競り合いが生じている可能性もあったが、南北エスタンジアにとり国境での小競り合いは日常茶飯事であった。互いに国境などなくエスタンジア地域の正当な統治機構は自国であるとの主張から、他国との戦闘ではない、という建前を崩さない。常態的な反乱鎮圧行動下での犠牲という名目。


 リンデガルトは暖かな笑みを以てヴィルヘルミナを迎えるが、そこには疲労の色も見える。艦隊の意思統一に苦心した事は明白であった。或いは、座乗艦内の意思統一ですら苦戦した可能性がある。


 海軍は現実主義的である。


 まさか浮付いた話で暴れる慮外者相手に同意する訳にもいかず、去りとて積極的に干戈を交えるには命令系統が混乱している。政府機能の回復には政府施設の奪還が必要である為、纏まった兵力を有する陸上部隊が必要であるが、海軍では精々が特設陸戦隊である。重装備まで有する親衛隊相手では分が悪く、それを補うには首都への艦砲射撃しかないが、それは後々に禍根を残す。


 ――内戦は終結の仕方が難しいのだ。


 それは皇国の内戦を知る中でヴィルヘルミナが抱いた感想であった。


 寧ろ、トウカは上手く内戦終結に漕ぎ付け、数々の遺恨や問題を見事に逸らしたものであると感心するしかなかった。諸問題は在れども、大前提として帝国が悪いという方向に世論を収束させていくのは見事の一言に尽きた。


 確かに帝国が存在しなければ、不平不満はあれども、北部も危機感と反発による狂信的な軍備拡大を行わなかったであろうし、それを頼りにした武装蜂起も生じなかった公算が高い。帝国からすると言い掛かりにも等しい拡大解釈だが、元より帝国の皇国に対する言い掛かりも甚だ理不尽なものであったが故に、皇国臣民はそうした論理を受け入れた。


 あんなに酷い事をする連中なのだから、これもあいつらの所為に違いない。


 ヒトの性質を突いたり方ではあるが、そこにはヒトという生物に対する不信感が根付いている様にも見受けられる。


 ――あのヒトなら艦砲射撃を命じるのだ。


「総統閣下の帰還が遅れては海軍も決戦が従属か……選択を迫られていた事でしょう」


 リンデガルトの言葉に、ヴィルヘルミナは頷くしかない。客観的に見て事実である。


 叛乱に対して寝耳に水の出来事であった海軍からすると、何一つ準備できていない中で軍港内の停泊艦艇を、可能な限り乗員を収容した上で沖合まで退避させるという選択肢しかなかった事は明白である。拿捕を避け、艦艇を運用可能な乗員を陸地から遠ざけ、艦艇という閉所空間で隔離する。


 外部との意思疎通が行われた場合、海軍内でも激発の恐れがあり、乗員を二分して軍事行動が取れなくなる公算が高い。それ故に水上艦艇という閉所空間を以て乗員を外部から隔離しつつ、艦砲で軍港への侵入を試みる陸上部隊を牽制する。無論、緊急出航であった為、乗艦が間に合わなかった乗員も少なくないであろうが、戦闘艦の運用が不可能な状態に陥るよりは救いがある。


 ――妥当なのだ。


 同時に、もし叛乱最初期に艦砲で国家中枢……国会施設全般をレイム諸共に吹き飛ばしていたら、どうなっていただろうか?ともヴィルヘルミナは思わざるを得ない。


 一切合切が解決していたのではないだろうか?という皮算用。


 何なら不都合な諸々も抹消され、必要な書類の焼失や施設の破壊を根拠に横紙破りを許容できる余地が生じるように持ってゆく事は不可能ではない。それは実にトウカの手法であり非常時の連続による権力集中の典型であった。


 とは言え、心強い独断専行を部下に期待する様では国家指導者失格である。


 その独断専行という刃は何時か自身に向けられる事になる。


「まずは、艦内の居室を」


「いや、それは良いのだ。私は早急に国権を掌握しなければならないのだ」


 可及的速やかに政治中枢をあるべき姿に戻さねなならない。


 遅滞はトウカの失望と本格的な武力介入を招く。


 武力介入によって治安回復ともなれば国家としては不安定と見られ、ヴィルヘルミナの婚約の意味がなくなる。他国の印象と費用を気に掛けて婚約による平和的併合を試みようとしている中、武力介入せざるを得ない余地が生じたならば、そのまま進駐に踏み切るほうが短期間で済み、予算的負担も圧縮できる。国内が叛乱で混乱し、統一的対応が取れない中で治安維持を名目とした進駐ともなれば抵抗勢力も限られる。何より第三国の印象はあまり損なわれない。


 後は段階的に併合へと突き進む。


 民衆の同意を取り付けるというのは経済規模の違いを踏まえると困難ではない。心理的抵抗も北エスタンジアを滅亡させ、エスタンジア統一を持ち出せば大いに減じられるに違いなかった。正直なところヴィルヘルミナが最も警戒しているトウカの動きはそうしたものである。そこにエスタンジアに住まう者の意思は反映されず、流される儘に皇国の一部となる。それをヴィルヘルミナは危うい事だと考えている。


 エスタンジアにとっての不利益や特色が消える政策に対して讒言する有力者や勢力が必要である。トウカがエスタンジアに好意的でも他の有力者……政治家や官僚がそうであるとも限らず、そもそもエスタンジアに対して深く理解している皇国の政治権力者などいない。隣国とはいえ小国である。


 つまり皇国本土では当然の政策でも、エスタンジア地域にとっては負担であるという齟齬も在り得るのだ。ヴィルヘルミナは税制に於けるそうした齟齬を特に危険視している。


 だからこそ、ヴィルヘルミナは皇国で確たる立場を得なければならない。


 エスタンジアは無視できない影響力と重要性を持ち、その理解者にして庇護者としてヴィルヘルミナは、トウカに侍る。それがエスタンジアは最も経済的繁栄を享受できる唯一の道である。


 ヴィルヘルミナはリンデガルト大将に理解を求める。


「北との戦端も開かれたのだ。国政の遅滞は犠牲を増やす。やらねばならない。そう、やらねばならないのだ」


 これは最後の機会。


 トウカはヴィルヘルミナに対して寛容だった。


 寛容でなければ、叛乱勃発と同時にエスタンジア地域経由で帝国が侵攻する可能性を考慮して国境沿いに展開している三個師団が越境。同時に戦略輸送航空団と数個空挺聯隊による首都への空挺降下が実行されていた事は疑いない。地域安定化の大義名分があり、隣国の政治的不安定を許容しつつも、平和的併合を高確率で済ませられると考える程、トウカは夢見がちではない。


 何故、叛乱を自ら鎮圧する機会を与えられたのか?


 それはヴィルヘルミナにも分からない。


 マリアベルの友人であったからか、或いは与り知らぬ国内要因があるのか。


 しかし、逃せぬ好機であることは間違いなかった。


 逃せばただ併合されるだけである。


 叛乱の原因など突き返すとばかりに婚約破棄も有り得た。


 それではエスタンジアは数ある皇国の要衝の一つに留まる事を意味する。


 国家指導者としての結末がその程度でしかないというのは、ヴィルヘルミナには許容できない事であった。多くの者に託されて得た立場で、何とか未来へ繋いだ祖国の命運。それは輝かしいものであって欲しいと、ヴィルヘルミナは願い、そして実現する為に躊躇はない。


「艦隊をゲルマニアへ! 祖国を奪還するのだ!」


 総統の大号令。


 軍人達の敬礼を受け、ヴィルヘルミナは軍装を翻し、ゲルマニアの方角を睨んだ。




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