第三七六話 枢密院議長と憲兵総監 後篇
「……貴女は、嘗ての自身にそうした想いがあった事すら忘れてしまったのですか?」
彼女もまた燃えるような恋をした過去があるのだ。
そうした悩みはあった筈である。
ヒトは齟齬や遅滞なく分かり合う事が不可能であるが故に。
されど、ベルセリカの見解は違った。
「……忘れた方が良い事もある。忘れ得ぬ事もあるが……御主が何を思うか知った事ではない。なれど、あれの心の傷になる真似はするではない。若さは往々にして要らぬ傷を作る」
心底と出来の悪い近所の子供の無法を咎めるように、ベルセリカは吐き捨てる。そこには理解されぬだろうという諦観も入り混じる。
クレアは、一転して恥ずべき事を口にしたと反省する。
ベルセリカがトウカへの心配在っての意見であるというのであれば、それを非難する事はできない。そして、求め合い、奪い合った経験のあるベルセリカは先達と言えなくもない。そう考え得るだけの何かがあったの見るのが自然である。
「心に留め置きましょう。ハルティカイネン大佐は素直に配慮するとは思えませんが」
クレアの指摘にベルセリカは渋い顔をする。
剣聖にして枢密院議長にして統合参謀本部議長をしても制御不能な陸軍大佐の存在は、クレアに痛快と頭痛を同時に与える。物語で観測するのであれば、これ程に愉快な存在はないが、実在して関与せざるを得ないのであれば話は変わった。
クレアとしても、リシアの心情は理解できる。
焦燥に駆られているというのは容易に察せるものがあり、その原因の一端はクレアにもあった。
「その点を踏まえれば、あれが皇国に居ない事は僥倖であった。これ以上、面倒は増やしとうない」
ベルセリカの言葉に、不覚ながらクレアも頷いてしまった。
エーリカの仇討に加え、怪しい中央貴族を排除する好機とばかりに推定有罪をやらかしかねない危険があった。クレアも政治体制の盤石化の為にそうした手段を排除しないが、リシアの場合は派手にやり過ぎる傾向がある。耳目を集めて敵対派閥の暴発を誘う事に熱中されては事が大きくなり過ぎる。
クレアは椅子に深く腰掛けて瞑目する。
――ですが、国外にいるからと手を打たない方でもない……
リシアは典型的な北部の女である。遺恨を忘れるはずがなく、為せる行動を怠る人物でもない。よって、クレアもベルセリカもリシアの動きを警戒せねばならなかった。
クレアとしては何かをやらかすなら、せめて事前に連絡をして欲しいところであるが、 同時に巻き込まれる懸念も増すので痛し痒しである。流石にもう一度、トウカに迷惑を掛けるという選択肢をクレアは持たない。
トウカはクレアを守る為、他者に異論を挟ませない為、召し上げて後宮に押し込んで籠の鳥としてしまうかも知れない。トウカの統治の手助けをできなくなるのは、クレアにとって望ましくない事態である。
――それ程に求められる……というのは悪い気はしませんが……
トウカがそう求めるのであれば、クレアは笑顔で頷くであろうが、同時に後宮という狭い世界から覗うだけの政戦は味気ないものとなるだろうことは疑いない。クレアが関与できる余地は大きく減少する。規定がある訳ではないが、慣習として側妃や寵姫は独自の政戦への関与を避けるべきとされている。政戦に於ける序列とは異なる天帝の寵愛という序列からの関与が政戦を混乱させかねないからであり、そうした混乱で滅亡した国は歴史的に見ても珍しいものではない。
とは言え、トウカが望む限りに於いて話は変わる。公私混同もまた皇権の一部である。
専制君主ゆえであるが、それ以前に現状でも曖昧な部分は多く、現にクレアは特段の寵愛を受けているが、憲兵総監として要職を担っている。
「そう言えば……今回の一件を踏まえ、天帝陛下は周辺関係に特段の意識を割かれるやも知れません。そうなると、議論すべき点は増加すると思います」
警備体制の強化は勿論であるが、指揮系統の分散を意図して皇国各地への異動という流れも有り得た。皇都やフェルゼンに国家の枢機を担う者達が集中しているのは好ましくないと、トウカが判断する可能性は低くない。要人の行動制限にも繋がる恐れがある為、不満や問題も噴出するだろうとクレアは見ていた。
無論、各府から出た不満や問題は枢密院まで報告される事になるので枢密院議長であるベルセリカの負担となるのは明白であった。
要人の警備だけでも派閥争いの色を帯びているので重大な問題であるが、それ以上の問題まで加われば始末に負えない。
現状、クレアも憲兵隊の要人は憲兵隊から抽出した戦力で行っており、フェルゼンや皇都に常駐しているクレアですら一個小隊規模の警護を付けている。機関銃や対戦車擲弾筒まで装備した憲兵まで加わっており、それは宛ら対帝国戦役後の残敵相当をしているかの様な光景であった。
だが、各府では警務府や陸軍府、海軍府に其々が警護を依頼する形になり、各府の関係が表面化する事になった。憲兵隊は基本的に陸軍府の隷下にある為、陸軍府に協力する形となっているが、その命令全てに即応できる戦力を有してはいなかった。
各府はそれを見て、警務府や海軍府に警護を依頼した。
しかし、どちらも重装備の襲撃に対抗するだけの戦力は限られていた。
そうした中で、最も揉めたのは大蔵府と農林水産府である。
どちらも皇州同盟軍に警護を依頼した。
クレアとしても寝耳に水であった。
大蔵府長官のセルアノと、農林水産府長官のレジナルドは共に北部出身である為、その伝手から警護戦力を用意しようとした。
はずであった。
実際、セルアノは警護戦力名目で皇州同盟軍から派遣された歩兵大隊を、未だ大蔵府内で燻る緊縮財政を主張する派閥への威圧に利用し、レジナルドなどは一個歩兵連隊を要求し、それを農業試験を行う試験農場の開墾に転用した。
大問題である。
最も激怒したのは皇州同盟軍である。
官僚の脇腹を銃剣で突き回す事も、土木作業も歩兵の仕事ではないのだから当然である。
皇州同盟軍からの上奏という名の問題提起を受け、流石のトウカも二人を叱責した。セルアノは自前で予算を都合して私兵を雇うと返答し、レジナルドは一緒に開墾したらもう護衛しているに等しいのではないかな?などと言い出す始末であり、クレアやヨエルがトウカに同情する程であった。
そうではない。
警護の必要性を認めたのであって、各府内の仕事に軍事力を動員しろと言った訳ではないが、トウカ自身が情報部を利用して敵対的な商人の排除や、公共施設整備に工兵師団を動員した前科がある事からその叱責は強くはなかった。
部下は上司に似てくるものである。
権力者の間では、北部貴族の悪いところが出たという評価ではなく、トウカに似たのだという評価が一般的である。
「仕事が増えるではないか……あの油断ならぬ狐を呼び戻した方がよいか?」
「シャルンホルスト大佐ですか? それは難しいところですね」
ベルセリカの提案に、クレアは常に隙のない……と当人は思っているネネカの姿を思い起こす。
ネネカは連合王国分割統治の協議の為、協商国に赴いている。
協商国との協議もあるが、トウカが協商国の軍備に疑問を抱いている事もあり、軍事面で明るいネネカが派遣されていた。無論、協議自体は同行する陸軍官僚が協商国の官僚と細部を詰めるであろうが、軍備の確認に関してはネネカが辣腕を振るっている事は間違いない。
少なくとも他国に派遣される程には軍事面での力量があるネネカだが、この派遣に関しては昇進の為の実績作りというトウカの配慮もあるとクレアは見ていた。
トウカは狐に甘い。
とは言え、クレアとしては、ネネカは政治や世間に関しても真っ当な見識を持つ稀有な人物であるので、国家の中枢に存在すると好ましいので、そうした動きを歓迎していた。
――シラユキ殿に懐いているシャルンホルスト大佐を外に出す事に悩んだようですが。
最大の争点が狐に関わる事になるのはトウカらしいが、結果としてシラユキはネネカに異国の土産を強請るだけでしかなかった。海軍に紐付いた新たな友人の存在がネネカだけに執着する事を抑えた形である。
トウカとしては一安心であったが、そうして送り出したネネカを呼び戻すべき局面であるかと言われれば、クレアとしては難しいところであった。
警護の厳重化に伴う諸問題に対し、均一的な体制作りなどはネネカの得意分野であろうし、下手な横紙破りをする人物でもない。安心して方策を相談できる力量ある人物。
しかし、本来の協議から抜ける形で呼び戻すのは協商国に対して印象が良くない。無論、皇国が揺れている印象を与えかねないという懸念もあった。軍人外交をせねばならないという無理が表面化した形である。専門外なのだから、そうした人材は限られる。去りとて、そうした真似をも為せる人物は基本的に力量ある人物である。頼りにすべき局面は多い。常に不足する人材である。
「枢密院会議に……いえ、内々に話をする場を用意すべきですね。分かりました。私からお話しておきます」
「助かる。枢密院は一々、 話を大きくするから堪らん」
ベルセリカの苦言にクレアは苦笑する。
この場で天帝と極めて近しいクレアを通して極少数での話の場を用意するというのも、政治的に見るとかなりの横紙破りであるが、権威主義や君主制と呼ばれる統治形態に限らずともヒトが統治を行う以上、人間関係ありきの政治は生じるものである。
問題は、それが国益に繋がるか、という点にこそある。
そう考えるクレアもまた力量の信奉者であり、権威主義国の優秀な官僚であった。
その権威主義国の優秀な官僚という側面をも持つ憲兵総監は、枢密院議長の意図が別にあると察していた。
「ところで本日の御用向きはどの様なものでしょうか?」
話の流れを気にするという真っ当な人間らしい事をするベルセリカに、クレアは意外の念を覚えていた。ベルセリカ個人に含むところがある訳ではなく、武芸者とはそうした者が多いという経験則からである。
ベルセリカは困り顔。
直接的な物言いを好む武芸者に合わせたのだと、 クレアは言葉を重ねる。
「今回の一件によって生じた問題の展望をお聞きになられたい、という事ですね?」
統合情報部に尋ねても素直に言うとは思えず、そもそも面子を潰された組織など約定無用の潰し合いをしかねない。注視するのは当然と言え、落としどころを探るのは健全な組織運営である。落としどころを優しくて心配性の皆で用意しようという話であった。
統合情報部の自由裁量に任せていては、現状でさえ確執のある中央貴族との関係が致命的なものになりかねない。
「情報部はどこまでやりおる?」
「さて……陛下であれば、どこまででも、と女心を楽しませて下さるのでしょうが……」
御老体にそれは期待できない、とはクレアは言わない。生き急ぐ老人の迅速なること甚だしい。世の大半の者達の曖昧な想像とは異なり、老獪と生き急ぐという点は相反せず、寧ろ合力する事で力量を大きく底上げする側面がある。巧遅と拙速が両立する。
そうした人物も世の中には存在する。
特に力量ある人物が歳経て経験を獲得するに至ったとなると、クレアも太刀打ちできない場面が多々ある。
最たる相手がカナリスである。
とは言え、クレアは好意的に遇されているので、今迄は争うことはなかった。寧ろ、二人はヴェルテンベルク領邦軍で情報部と憲兵隊を預かる立場であった為、二人三脚で防諜と治安維持を繰り広げていたと言える。同時にマリアベルが叛乱を恐れて治安と情報を担う関係者が近づく事を警戒していた事を察し、二人は最低限の接触に留めていた為、交流が拡大したのは内戦終結後からであった。皇州同盟軍という歪な諸侯軍の編制を常設化する流れから遣り取りが増えざるを得なかったという事情もある。
クレアの思案。
ベルセリカは触れる事を避けていると見たのか、表情は渋い。
「含むところがある訳でも同情がある訳でもありません。ただ、カナリス中将の立場と心情も理解できるのです。口にはなさいませんが、焦燥感があるのでしょう」
クレアとしては統合情報部の状況を憂えていた。
統合情報部は歪な組織編制となっている。
歪とならざるを得なかった、と言うべきであろうが、それを理解できる者は少ない。 クレアの場合、憲兵隊も同じ宿痾を抱えている為に理解が及ぶが、情報部の場合は憲兵隊よりも病巣が深く、組織編制にもその苦悩は見て取れた。
情報部は皇国に無数とある。
陸軍や海軍、皇州同盟軍、各府なども一部は自前の情報機関を有している。それらを統合運用する為、統合情報部という上位組織が成立したが、情報部という独自性と独立性、機密性の高い組織が素直に新たな上位者を仰ぐ筈もない。何より、元の組織から独立する訳でもなく、二つの指揮系統に属するという難しい点もあった。憲兵隊の場合、統合憲兵隊司令部の指揮系統が優先される事に思いの他、反発が少なかった為、情報部よりは条件が良かった。
自組織を、自組織の予算と人間関係を持つ者が綱紀粛正できるものか、というトウカの方針であった。自浄作用が強く望まれる組織や分野には専門の憲兵隊が用意され、それらを統合憲兵隊が一括で指揮統率する。
分野を跨いだ問題や犯罪の追及と、憲兵隊間の情報格差是正はある程度は進みつつあった。各憲兵隊も組織の壁に阻まれて摘発の遅延、或いは断念した経験が無数とある。それを踏まえ、強力な上級司令部の成立に否定的という訳でもなかった事も大きい。
対する情報部は組織再編や指揮系統の確立が難航している。
そもそも、組織図自体を機密保持を名目に隠蔽する情報部も存在した。
天帝の強固な支持がああったとしても遅々として進まぬ現状で、統合情報部の失態に等しい案件が起きたのだから、カナリスの焦燥が尋常ではないのは容易に想像できた。 無論、危機的状況を主導して早々に解決。統合情報部の権威を高める事で協力的な雰囲気を醸成するという思惑がないとも言い切れない。
――或いは主導権を確保して、犯人を作り出す為か……
これを機に反撥の意思があると思われる中央貴族の一部に濡れ衣を着せて排除するという事も有り得た。実際、協力者である可能性は十分にあり、貴族や商人から全容解明を図ろうという動きは陸軍情報部や警務府が主体になって行っていた。
対する憲兵隊は少し違う角度から調査を進めている。
合法非合法を問わない兵器輸出の流れからである。
元より、非合法に運用される武器や兵器の摘発は憲兵隊が行うことが多い。警務府は重装備である場合、対応できない為であり、それは内戦と対帝国戦役によって機関銃までもが流通する状況になり、よりその傾向を強くしている。
そして、皇国内では武器弾薬の規格統一が図られる中、余剰となった兵器を輸出している事もある。
それは相当な規模であり、共和国や部族連邦、協商国が主な売却先であった。特に部族連邦は軍の近代化の為、かなりの兵器を輸入しており、神州国を刺激する事を恐れて、或いは一つでも多くの兵器を獲得しようと非合法の輸入も行っている。
有力な兵器を複数運用したのだから出所を追跡するのは真っ当な方法である。
各勢力が独自に兵器開発と生産をする非合理がトウカの即位以前まで罷り通っていた皇国では、雑多にして特殊な事情を持つ兵器が際限なく存在した。
造幣局が自前の兵力を持ち、自前で開発した小銃で武装している国家である。部門所轄主義の壁も多く、警務府では立ち入れない組織や機密も多い。
本来は情報部が探るべき場面だが、現在の統合情報部はヒトの流れを中心に調査を進めている。明らかに叛服常無い中央貴族や商人を目標に据えた動きであり、容疑者として特に怪しい人物から辿ろうと試みていた。
あまりに乱暴であるが、同時に事件の規模を思えば、有力な人物の影響や資金なく起こせる事件でもないので無関係とも考え難い。
目指す解決が違うからこそであるが、カナリスの政略に結び付けようとしている姿勢は、本当の全容解明の機会を逃す可能性もあるので、そこはクレアが補う心算であった。
――陛下に求められたという理由が大きいですが。
トウカは真実を求めている。
政略は後から合わせる、という自信と自負を感じる言葉に、クレアは不覚にも心躍らせた記憶がある。
兎にも角にも、クレアは真実を知らねばならない。
統合情報部の様に、表面だけを知り、政敵を排除できる情報だけを掻い摘んで利用する……かも知れない方針ではないのだ。
ベルセリカには事件を取り巻く各組織の思惑が見えていない。寧ろ、見えている者など極一部である。クルワッハ公やヴィトニル公辺りは察しているかも知れないが、即位以降の急激な各勢力の組織変更に伴い情報収集能力を大きく落としている可能性もあるので、クレアにが付かなかった。
組織体制や人事が大きく変われば情報の経路は変わり、入手手段が成立しなくなる事は容易に想像できる。最近の動きの乏しさを踏まえるとそう考える事が自然であり、 何よりも長命な二人の公爵は時節に於いて待つという選択肢を使い熟すだけの力量を持つ権力者である。座視や放置ではない。待つ。それができる権力者は種族問わず少ない。
実は、トウカもそれができない、とクレアは見ていた。
なまじ力への信奉に軍事的手腕が伴う為、大抵の問題を短期間で解決できるが、それによって生じる歪みを軽視する傾向にある。厳しく言えば、万人に理解を求める為の誠実を持ち合わせていないと、クレアは考えていた。
クレアやベルセリカなどが、それでも従うのは、自身は理解できるから。或いは今迄の信頼在ってのものである。
トウカは実績を出せば信頼は得られると考えている。
圧倒的正論である。
口先と批判ばかりで実績のない政治家が蔓延る世の中で、そうした考えの元で国益に向かって最短で駆け抜けようとするトウカは狂おしい程に眩しい。
しかし、国益という実績しか見ていない。
理解を得るという時間を、合意形成を図る時間を費用対効果に乏しいと見ているのだ。
――きっと、建設的な議論ができない指導層を見てきた弊害なのでしょう。
ヨエルに聞かずとも理解できる話である。
トウカは建設的でない議論を何よりも嫌う。
議論は議論でしかない。宣伝や思想を語るなら他でやれ。
トウカの嫌悪と憎悪は、明らかに実体験に根差したものである。
しかし、大多数から理解を得て進めるという形で納得と満足を得る者は多い。一体感を確実性と錯覚する怠惰に過ぎないが、ヒトの歓心を買うというのは統治に於いて欠かせない要素でもある。トウカはそうした点を実績で納得させ得るものだと見ているが、クレアはそうは思わない。時に利益よりも感情を優先するのがヒトである。
――そうした部分でも、剣聖殿には期待しているのですが……
枢密院議長とし要石となっている姿は頼もしいが、トウカのそうした部分を教え諭すという動きは全くない。窘める真似もなく、寧ろ有力者や国民への理解を担う立場をヨエルに投げればいいと考えている節があった。適材適所ではあるが、クレアとしては複雑なものがある。
――宣伝府を成立させ、義母様に長官を兼務させるという話も良くないのかも……
補う術に算段が付いているのだから、当面は放置でよい。或いは、全てを為そうとして負担を増やすよりは良いと考えている可能性もあった。為せるか否かは別として、そうした部分での成長を促す事は有意であるとクレアは考えるが、ベルセリカにそうした動きはない。
「議長閣下も陛下にあるべき姿を御教示なさってはいかがですか? さすれば将来の心労も減じること叶うかと」
クレアとしては年長者に年長者らしい姿を見せて欲しいというのが本音であった。
ヨエルはともすればトウカと堕ちるところ堕ちてしまうので、そうした点は一分足りとも期待できない事も大きい。補うことはできるが窘める事はできない。他の近しい年長者が守銭奴のセルアノや農家のレジナルド、不良神官のラムケである為、消去法としてベルセリカしかいなかった。エップなどは極右である。
「それは御主がせい。なにゆえ某が斯様なまでに……いや、これ以上は……」
相当に酷い事を口走りそうになったのか、ベルセリカが一転して沈黙に転じる。クレアはそれを非難しない。傍目に見ても難事であるのだ。
去りとて、クレアも窘める事はするが、それ以上に……根気よく教え諭すまではしない。否、できない事情があった。
閨閥化を恐れる声があるのだ。
閥とは、外戚を基幹に形成した勢力……基本的には婚姻政策、血縁関係に基づいて形成された勢力を呼称する。政略結婚による政界や財界などに留まらない……王室や貴族に属する者達を含めての縁戚関係による派閥化などが一般的に知られている。
一族が自身を含む親類縁者の影響力の確保や拡大を意図し、婚姻関係を用いて構築した派閥を門閥と表現する事もあるが、皇国ではあまり用いられない。有力な貴族に同種の種族が集まる事で生じる種族派閥が一般的である為である。
種族による紐帯は時に血族よりも重く、そして時には血族よりも軽い。種族による紐帯と血による紐帯は同様に語れないというのが歴史学者と生物学者の見解であり、歴史はそれを肯定している。そして、皇国では最高指導者の天帝すらも血によって継承される訳ではない為、血を基準に長期的に権利を保持するという発想が他国と比較すると乏しい。少なくとも絶対視はされない。長命種も婚姻政策を推進するには総じて出産率が低い為、種族の母数も重要視せざるを得ない方法での派閥の拡大を重視しなかった。当然、血による権力拡大を重視しないだけで、血縁による権力継承は行われている。
対する一代限りの絶大な権力構造というのも在り得る話であり、それはトウカの即位によって現実のものとなった。
既存の権力構造と大きな乖離があるトウカは、その即位からしても特殊であった。 柵は少なく、動向を掴み難い上、 既存の政治思想と一線を画する政策を実施している。即位当時のトウカ自身の影響力が権力者に対して限定的であるという意見もあるが、同時に有力者達のトウカに対する影響力も限定的であった。
そうした中で、トウカの寵愛を受け、トウカに侍り、意見を口にする存在は大部分の有力者にとって不安材料でしかない。特定人物の意見が優先され易い状況に対して好意的であるはずもない。その上で他の女性を引き込んでトウカの周りを固めるのではないかという懸念を示す者が少なくなかった。
義理とは言え、ヨエルがトウカの近しい立場を得つつある姿を見れば母娘で天帝を囲い込もうとしている様にしか見えない事も確かである。
クレアとトウカの関係の後に、ヨエルが近づいた様に見える事も疑念に拍車を掛けた。 傍目から見ると、特段の贔屓を以て侍る娘が美しい義母を為政者に売り込んだと見えなくもない。
皇国では種族的差異からそうした出来事が偶にあるが、あまり褒められた事ではないと見るのが一般的である。相手が天帝という至尊の立場であるからこそ非難の声は上がらないが、政治的に見ると懸念する動きがある事も致し方ない。
そうした状況でクレアがトウカの考えを誘導する様な真似をすれば、その疑念は益々と深まる。唯でさえ、ヨエルは楽し気にトウカへ色々と吹き込む姿を周囲に見せていた。楽しくて仕方ないとの事であるが、クレアとしては避けて欲しいというのが本音である。
「義母共々、陛下を好みに染め上げても良いと? それを懸念する者達が居るのです。枢密院議長が許していただけるのであれば、事ここに及んでは一歩踏み込んでみるのも吝かではありませんが……斯くなる上は枢密院議長も御一緒にいかがですか?」
もう考えるのが一々面倒臭いと、見目麗しい関係者一同でトウカの周辺を固めてしまうのはどうだろうか?とクレアは夢想する。
トウカとの時間が減ってしまうのはクレアとしても残念だが、リシアに対する後ろめたい感情も、ヨエルという巨大な存在と一人で渡り合わねばならないという危機感もなくなるのではないかという皮算用も脳裏を過る。
クレアという妖精は儘ならぬ状況に対し、自らがトウカに近しい立場となったが故に動き難くなった事に焦燥感を抱いてもいた。傍に居るだけで満足だと自身を納得させるには彼女は聡明に過ぎた。公私共にトウカを支える存在になりたいという欲求が彼女の胸中で鎌首を捧げている。
「やめんか! いや、本気ではなかろうな? いかんぞ? 政略如きであれに女衒するなど……死人が出よう……それに当人の心情もあろう」
確かにトウカが納得しない中で側妃だ寵姫だと騒げば陰惨な事になりかねない。アリアベルやヴァンダルハイム侯爵令嬢の一件を見れば明白であった。取って付けた様に心情を口にするところは面倒臭い長命種の照れ隠しだとクレアは触れなかったが。
「……陛下に釘を刺すべきではないかと提案する……一先ずは、それで良いですか?」
互いにこれ以上話せば傷が深くなると見て、クレアは嘆息と共に尋ねる。
「良かろう。某も些か疲れた……戦野で果たし合う事を懐かしく思うわ」
ベルセリカは心底と疲れたと同意する。
背負うものと肩書が増えた事を、二人はこれ以上ない程に実感した。




