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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第三章    天帝の御世    《紫緋紋綾》
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第三七四話    そうした男




「そうか……」


 トウカは報告を受け、そう短く返した。


 感情のない印象を周囲の者に与え、その振る舞いは後世まで残る事になるが、同時にそれはミユキの死が影響を与えたのだと誤解され続けることになる。


 アルフレア離宮の屋上からフェルゼンを見下ろすトウカは、酷く物憂げであったが、その表情を見た者はいなかった。


 大通りの終着点に位置するアルフレア離宮からは、大通りとそこに付随する無駄のない等間隔で整列した建屋群を見下ろすことができる。尤もアルフレア離宮の全高は砲爆撃による攻撃を想定して五階 程度でしかなく、一望できるのは高射砲塔などの一部軍事施設を除く建造物の全てが規格化されており、その全高がアルフレア離宮よりも低い為であった。


 一部、遠方には高層建築物と言える全高の建屋が見えるが、それもまた無骨であり民生品を利用しているとは思えない佇まいである。これは市街戦で砲撃観測や狙撃に利用する為に建築許可された建屋であり、有事の際最近の内戦でも活躍した。無論、その代償に崩壊や損傷した高層建築物も多いが、修理可能なものも残っており、解体されて建築が始まっているものもある。


 新しい高層建築物は全高や形状の規格が大きく緩和された為、建築中でもその変化は一目瞭然であり、トウカからすると自身がよく知る光景に近づきつつあるようにも思えた。


 ――あの辺りは三人で歩いたな。


 ザムエルやエーリカと共に歩いた……トウカがザムエルに連れまわされて娼館に出入りし、迎えに来たエーリカにザムエルが袋叩きにされた一幕。その光景を形作った街並みも変遷する。


 そして、ヒトも変化する。


 そこに寂寥感を覚えるトウカだが、去りとて人々の歩みは止まらない。


「叙勲だな。副官が司令官を護って戦死した。義務を全うしたのだ」


 トウカは吐き捨てる様に称賛する。


 エーリカ・ヴァレンシュタインの戦死。


 トウカの予定にはなかった事であり、しかも国内……政治問題と思しき一件で軍人が死亡した。公私共に痛ましい事件であり、大いに対応せねばならない事件でもある。


唯では済まさんぞ、とトウカは思うと共に、そうした人間らしい……普通の人間であるかの様な感情を政戦に反映させようとている己に、独裁者らしくなってきたじゃないか、と蒼褪めた表情で口元を歪める。


 屋上の椅子に腰かけ、トウカは、どうしたものか、と人々の営みを見下ろす。


 サムエルが一度、目を覚ました際、エーリカの死を伝えなかった事も報告に挙げられている。当人が情勢や隷下部隊の状況を優先して尋ねた為であるとあり、加えて傷心が治癒に影響すると見て控えるともあった。


 ―—どいつもこいつも……意気地のない事だ。


 トウカに近しいザムエルが妹の死を前にどの様な動きに出るか懸念して報告する度胸がなかっただけだとトウカは看做していた。権力者の八つ当たりや逆恨みの対象となるなど御免蒙るという意図が透けて見える。


 一般の医療従事者であれば、トウカもやむを得ないと納得したが、軍病院の軍医となれば話は変わる。職務怠慢である。


「……俺が言うべきか」


 旧知の仲であるリシアであれば適役かもしれないが、今の彼女は共和国にあり、何よりトウカが女にそうした役目を押し付ける事を良しとしなかった。


 今この時もクレアが憲兵総監として全容解明に当たっているが、その結果と共に知らせれば感情の矛先を向ける先があるので、一時的には自暴自棄にならないのではないかと考えたが、一度目を覚ましたのだから次に目を覚ますまでの時間が短い。それまでに全容の報告が間に合うとも思えない。


 取り合えず、先に伝えるしかない。


 選択肢などありはしない。


 友人としての役目である。


 妹を失い、天涯孤独の身となった友人に哀悼の意を捧げねばならない。


 トウカは、そう考えていた。


 全容次第では、最近現れた親族を軒並み殺害し、名実共に天涯孤独になって貰わねばならない事もある。


 事件の全容の報告は届いていないが、国家憲兵隊の報告では名乗り出た親族から行動の日時が漏洩した公算が高いとあった。トウカも同意見であり、軍の機密保持と比較すると貴族の機密保持は緩い。相対的に情報漏洩の可能性は貴族側が勝る。


 関わった度合いによるものの、無罪という選択肢がないのは確かであり、襲撃への直接的関与があった場合は族滅もあり得た。枢密院では、断定できない現状でも綱紀粛正の為、三親等までの死罪を早々に断行すべきであるという意見もあった。法務府長官が強く否定した為に立ち消えたが、国外に繋がっていた場合、開戦已む無し、という判断が視野に入りかねないとの反論もあって枢密院でも意見は割れた。


 諸外国の干渉の有無を調査する必要はあるが、国内向けに罪の在り処を明確にする形で幕引きを図りたい。そうした意図を持ったのは当事者でもある陸軍であった。皇州同盟軍もこれに賛同している。


 陸軍は、対帝国を見据えた軍拡に勤しんでいる状況で第三国相手の戦争の余裕などないというのが本音であり、再編制の最中で即座に動員できない師団も多々あった。 大規模な戦闘を想定していなかった部族連邦北部占領……ロゼリア演習作戦ですら難色を示していたのだから当然といえる。


 意外な事にザムエルと所縁のある者が多い皇州同盟軍もまた事件の影響を国内に収めたいとの意向を持っていた。


 復讐心は満々であるが、先ずは帝国を叩かねばならないという皇国北部地域の伝統的な方針がトウカによって明確になった中で、遅延を重ねたくはないとの思惑からであった。


 陸軍も皇州同盟軍も非公式ではあるが、帝国の仕業にしてしまえ、とすら発言している。


 いずれ武力侵攻する理由の一つとして保持しておけば良い。現在は戦略爆撃で都市を幾つか灰燼と帰して報復演出を行えばいいという陸軍と皇州同盟軍の主張。


 第三国が関わっていた場合、帝国を撃破してから事を構えればいいという方針である。


 無論、軍事力による報復を行うならば、という前提の下での意見であるが、大蔵府などは現時点での経済の失速や軍事費の増加を懸念してこれに同調する動きを見せた。


 対するトウカはザムエルの意向を聞いた上で判断する心算であった。


 一族郎党皆殺しにした上で、ザムエルに爵位を継承させるというのも選択肢としては有り得た。血縁上は継承の資格があるので、ザムエル以外の血縁がなくなれば障害はなくなる。無論、大軍を預かる現役上級大将が領主として領地運営を行うのは時間的に見て不可能である為、代官を立てる形になるが、資産や老後を踏まえればザムエルにも魅力のある選択である。無論、ザムエルが望むなら家の御令嬢を嫁に与えてもよく、足りぬというならば愛人とて小隊単位で用意する心算がトウカにはあった。鎮痛剤(モルヒネ)などに現を抜かして知能指数を下げては困る。


 女で傷が癒えるというならば、大いに傷を癒すとよい。


 或いは、それは癒えるのではなく、傷から目を逸らすに過ぎないのかも知れない。トウカには心当たりがあり、思うところもあるが、今はザムエルが重要である。後に生じる問題を懸念して放置する訳にはいかなかった。


トウカは立ち上がる。


「航空騎の用意を。皇都に向かう」


 背後の鋭兵に命令し、トウカは今一度、溜息を吐いた。









「…………天帝陛下は暇なのか?」


 長い微睡から目覚めたザムエルは、寝台横の椅子で自動拳銃の手入れをしている若き天帝へと疑問を呈する。寝起きに男の顔を見る趣味はないが、友人であるならば致し方ないとザムエルは上体を起こそうとする。


「無理をするな。名誉の負傷でもない傷を長引かせる必要はないだろう」


 上体を起こそうとしたザムエルを咄嗟に支えながら、トウカが迂遠に無理をするべきではないと諭す。男に身体を寄せられても嬉しくないザムエルだが、友人の言葉とあらば無視はできない。


「それなら美人に介抱させてくれよ。そうすれば直ぐに治る」


「莫迦を言うな。寝台上で運動に励む真似をされては叶わん」


 トウカはうんざりとした声音で応じ、ザムエルを起こした。


 前回顔を合わせてから然して時間を経た訳ではないが、妙な懐かしさを覚えたザムエルは僅かに居心地の悪さを覚えた。トウカもそれは同様であるのか、手早く自動拳銃を組み立て始める。暫しの間、病室に自動拳銃が組み立てられる金属音が流れる。


 最後に弾倉を銃把(グリップ)に差し込み、拳銃嚢(ホルスター)へと仕舞う姿はともすれば自身よりも手慣れている様にザムエルには見えた。


「待たせた」


「なに、俺も待たせたみたいだしな」


 トウカの立場であれば叩き起こしたとしても責められない。無論、天帝という至尊の座に腰掛ける者であるからという理由もあるが、その多忙を思えばザムエル自身も待たせるというのは気が咎めるという事もある。


「今回の一件、どうも周到に用意されていた様だ」


「街道沿いで対戦車砲三基の待ち伏せ。典型的な対戦車戦闘だからな」


 それはザムエルも察していた事である。しかも街道上の障害物で車列が停止した事まではザムエルも記憶があった。阻止行動と襲撃行動という一連の流れが見て取れる。


「そこはエーリカが上手く対処したんだろう」


 護衛対象であったザムエルとその副官であるエーリカだが、護衛部隊の指揮権はエーリカにあった。マリアベルの警護……要人警護の実績を鑑みた結果であり、同時にそれは情報部と装甲兵総監部の直轄戦力から抽出された護衛部隊の指揮権を情報部側が握るという不自然な状態を表面化させない措置であった。周囲に警戒している姿勢を見せないという配慮であり、無論、情報部に装甲車輌を含む部隊の指揮経験のある者が乏しかったという側面もある。


 トウカは自身の手元の軍帽をくしゃりと握る。


 ミユキの死に見せた遣る瀬無さ。その表情にはその気配があった。



「……そうだな……だが、それは命と引き換えにしたものだ」



 瞑目するトウカ。


 ザムエルは、今この場にトウカが居る理由を訝しんでいたが、それが理由であるならば理解はできる。自身の負傷が致命傷でないならばトウカは駆け付けないという確信がザムエルにはあった。つまり国家指導者たるの立場を曲げるに値する何かがあったのだ。


 しかし、ザムエルとしては理解できない話である。


「……馬鹿を言うな。装甲車輛内で一番重症だったのは俺だと!」


 女性軍医は少なくともそう発言していた。


 エーリカは自身より軽症だとザムエルは考え、特に言及しなかった。


「対戦車砲は装輪戦車の砲撃で早々に排除したが、それに乗じて煙幕を展張。歩兵部隊の接近を許した。ヴァレンシュタイン少佐は車外に出て護衛部隊を指揮してこれを迎撃した」


 纏まった歩兵戦力まで用意していたのならば、それは最早、諸兵科連合編制である。煙幕弾の投射には迫撃砲が利用されていた為、火力支援を受けた歩兵部隊による襲撃という形に他ならず、それは最早、戦争であった。


 トウカはそうした纏まった戦力が運用して襲撃が起きた事実に憲兵隊や情報部が右往左往していると語る。


 情報部も憲兵隊も盛大に面目を潰された。


 苛烈な全容解明が開始されている。


「本来なら、各坐した車輛を捨て、護衛対象の御前を他の車輛に移し替えて後退すべきだったが、車内の鋼材が御前を挟む様に圧迫した。救出には時間が必要と判断して迎撃に加わったのだ」


 警護という軍務から見て正しい判断。



「その際に、エーリカヴァレンシュタイン少佐は戦死した」



 軍事的正しさの為に唯一の家族を失った。


 安全な車内から指揮をする事も不可能ではなかったが、規模からみて長期戦は不可能と判断し、状況を打開するべく積極的に動こうとしたのだろう。難しいところである。


 擱座した車輛を健在な車輛で囲み、増援を得られるまで持久するという選択肢もあったが、増援を見越した規模で短兵急に事を済ませるだけの動きを敵が執っていた場合、 持久は悪手である。偵察を行えるだけの戦力はなく、煙幕で視界を遮られた中で容易にでき選択ではない。


 ザムエルがエーリカの立場でも悩んだだろう。


 最終的に用意周到な襲撃を見て、 消極的な行動では押し切られると見て積極的に打開する手段を選択した。


「ヴァレンシュタイン少佐は装輪戦車に煙幕弾発射機を最大射程で全方位に発射するように命じ、車列付近で迎撃した。火砲が尚も隠蔽されている可能性を考慮して射線を通さない事を重視したのだろう」トウカの表情は渋い。


 ザムエルも、莫迦野郎が、と吐き捨てる。


 トウカやザムエルであれば、そうした判断をしなかっただろう。より積極的に敵戦力の漸減を図った事は疑いない。


 規模と襲撃の規模からみて計画的なものであるし、警護ではなく通常の軍事常識を優先した命令をする。恐らく、ザムエルの搭乗する兵員輸送車を装輪戦車で囲み、装輪戦車の戦車砲で隠蔽に利用されそうな箇所を手当たり次第に榴弾で吹き飛ばし、車載機銃で接近する歩兵を迎撃しただろう。火砲から攻撃に晒される危険性を受容したに違いなかった。周囲の森林との距離を踏まえれば、装輪戦車も対戦車砲の攻撃を受ければ撃破されかねないが、傾斜装甲を備えた新型装輪戦車の装甲強度も期待できた。 何より、攻撃を受けても搭載砲が使用不能になるとは限らない。戦闘継続も期待できる。例え撃破されても、その残骸は十分な遮蔽物にもなる。


 エーリカもその点は考慮していたかもしれないが、警護という点が念頭にあり、兄であるザムエルを護らねばならないという意識が先立ったのだろう。


「混戦の中、敵兵と近接戦に臨んで戦死したと聞く」


 煙幕展開を双方が行った為広範囲に渡って視界不良となった以上、近距離戦闘とならざるを得ない。


 敵戦力の全容が不明な中で咄嗟戦闘の余地を拡大させるという悪手。


 エーリカは、短時間での増援を想定してザムエルの安全を最優先したのだ。事実として、非常時にはその地点に近い陸軍駐屯地から機械化歩兵大隊や航空歩兵大隊が即応する手筈となっていた。


 ――一時的な不利と見た、か。


 逆に言うならば、短時間の増援が為される前に事を為す算段を付けている公算が高い。用意周到な面を見れば、場当たり的な作戦とは言い難い。


 それは警護という意味では間違った判断ではない。ただ、その代償は自身の生命だった。


 巡回中のシュヴァイツェル領邦軍の騎兵中隊が駆け付けた事で襲撃者は散り散りに逃げ出したが、その時間を作り出す代償としてエーリカの生命が適正であったのか。それは立場と個人と思惑によって異なる。


 恐らくトウカは警護という意味では正しかったと見るだろうし、軍集団司令官を護る為に副官が戦死するのは組織的に見て妥当な行為だと考え、その主張を取るだろう。


 本来であれば、トウカはそう口にするだろうが、 ザムエルを気遣ってか、自身の失策と見てか沈痛な面持ちを隠さない。


「そうか……孤児の末路という事か」


 結局、軍人として嘱望され、戦野に立つ孤児の結末からは逃れられなかった。


 今は亡きマリアベルによる孤児の利用は全く以て機能している。


 親族はザムエルだけであり、 遺族年金は発生するが、悲しむ者は少なく、遺恨も叛意も最小限にできる。


 大きな夢と小さな死が与えられた孤児達。


 己と妹もまたその一人であった事を、ザムエルはこれ以上ない程に痛感する。後進の苦節を思うなど烏滸がましく、己もまた多数の孤児の一部に過ぎなかった。特別など、なかったのだ。


「兄の護衛を妹にさせるなどあってはならない事だった」


 当然の事を忘れていたと、トウカが唸る。


 軍の規定では親兄弟や親族は可能な限り関係性の乏しい部隊や所属にして接点を減じる。それは指揮統制に私情が挟まれる余地を低減させる措置であったが、軍だけでなく一般企業でも見られる判断であった。組織である以上、妥当な判断である。


 しかし、ヴァレンシュタイン兄妹は宣伝戦(プロパガンダ)や妹の希望、トウカの思惑などにより例外的な扱いとなっていた。無論、貴族の親類縁者主体の領邦軍編制や慣習をそのままに皇州同盟軍が編制され、トウカの即位によりその慣習を陸軍にまで持ち込んだ結果である。


 だからこそヴェルテンベルク領邦軍ではザムエルと比較してエーリカは重用されることはなかった。軍人として、指揮官としての才覚がないという訳ではない。寧ろ、ザムエルより余程に安定した指揮が可能であったが、ヴェルテンベルク領邦軍は特殊な編制と憎悪に満ちた戦略から、自らの軍事力よりも遥かに優越した敵軍を相手に勝利を収める事が前提であった。勝負所で踏み込めない指揮官をマリアベルは望まなかったのだ。


「兄貴の命に目が眩んで消極的な判断をした訳じゃねぇよ。あいつはそういう奴なんだよ。土壇場で消極的な判断をしちまう」


 元より防御的気質の指揮官である影響が大きい。


 ザムエルはそう考えた。


「御前の責任じゃねぇよ。軍人だ。栄光を掴む事もあれば、戦死する事もある」


 戦争に、もしも、や、或いは、を持ち出す不毛。


 それは、トウカが最も理解している筈であり、 だからこそ彼は政戦に於いて容赦がない。


 だというのにトウカは、ザムエル以上に落ち込んでいる。


 こんな奴だったか?とザムエルが思う程度には初めて見る光景であった。


「……もしも、御前が勧めた様に娶っていれば。そう思う事がある」


「それは……おいおい、やめてくれ。御前は顔見知りの女を纏めてっ後宮に押し込む心算かよ?」


 なるほど、それがあったか、とザムエルは苦笑する。


 実際のところ副官から厄介払いの心算で頻りに口にしていたに過ぎないが、妹が側妃や寵姫というのも考えてみれば悪くはない。天帝の庇護下で安泰なのだから、これ以上ない嫁ぎ先と言える。分岐点としてみた場合、娶っていれば死は免れたかも知れない。


 エーリカもトウカの事は好んでいたし、トウカもエーリカと一線を引く真似はしなかった。トウカの女性に対する警戒心や屈折した理想を思えば、それだけでも稀有な女性と言える。無論、それはザムエルの妹という肩書あってのものであり、エーリカも好ましく思えども踏み込まず、消極的であった。


 ――エーリカが踏み込めば、変わった未来もあったって事か……


 そう考えると、 ザムエルとしては、やはり苦笑するしかない。


「御前が欲しくて堪らないリシアに遠慮したんだよ。ああ見えてリシアを慕ってたからな。戦争だけでなく恋にも消極的だった訳だ」


 積極的に動かなかったのだから機会など得られるはずもない。そうした幸運は市井の恋愛小説に限った話に留まるとザムエルは信じて疑わない。


「消極的な奴に勝利はない。戦争も恋もそこは変わんねぇよ」


 ザムエルが勧めても、結局のところ当人の意思在っての事である。消極的であるならば、どうにもならないのだ。


「御前に落ち度はねぇよ。その後悔で近い女を手当たり次第に後宮に押し込むようじゃ先が思いやられるぜ?」


 それはそれで少し見てみたいが、とザムエルは木漏れ日の様な笑みを見せる。


「あの世でマリア様に何て言うか気になるところだが、俺も御前も万全を尽くした。 それでいいじゃねぇか」


「……そうか……俺が気遣われるとは……」


 確かにどちらが負傷者か分からなくなる、とザムエルは笑う。


 平素で落ち込む事が少ないと、こうした時に得をするとザムエルも苦笑するしかないが、他人を気遣っている内は悲哀もない。


 否、ザムエルには未だ現実感がないのだ。


 これから先、エーリカの死という現実は各所でその片鱗を見せるだろう。


 その時、ザムエルは憤怒を叫び、憎悪を以て、悲哀に沈むだろう。


 だが、今ではない。


 そして、盟友の前でもない。


 男としての矜持がある。


 ザムエル・フォン・ヴァレンシュタインという軍人はそうした男であった。







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