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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第三章    天帝の御世    《紫緋紋綾》

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第三七一話    義娘と義母





「あれは一体……」


 クレアはトウカの変心に驚きを隠せなかった。


 憎悪や憤怒だけではない。悲哀や諦観、郷愁までもが入り混じった言語化し難い感情の奔流。


 自室への戻ったトウカの後に続く勇気をクレアは持たなかった。


 こうした時こそ貴女の役目でしょう。


 紫苑色の髪をした勝気な生き物が脳裏で得意気な顔をしているが、だからこそ女性ではなく友人と見られるのだろうとも理解していたので、クレアとしては、それでいいのだろうか?と微妙な表情にならざるを得ない。


「九条の姫には何かある様ですね。天狗に聞いてみますが……警戒していませんでしたから……中々に巧妙な人物なのか……それとも……」


 対面に座るヨエルは誤算を語るが、クレアとしては眼前の熾天使を騙し遂せる者が居るとは予想すらしなかった事である。穿った意見に過ぎるのか、或いは九条の姫が尋常ならざる人物であるのか区別し難い。


 クレアにとりヨエルとは義母であるが、それ以上に政戦上の手本であり、完全無欠の生物だった。


 例え、娘を座敷牢に押し込んで、娘と情を交わした男と逢い引きに持ち込んだとしても。


 ――ちょっと、親近感は沸きましたけど……


 義母であるが、近づき難い程に英邁な人物であった事も確かであり、クレアもどう接して良いか悩むところがあった。憲兵となって距離を置いた理由の一部もそこにあり、同時に立場と階級を以て接する事はそうした煩わしい感情を雑念として捨て置ける為、個人として見る事は最近までなかった。


 しかし、今は違う。


 熾天使は義母であり、婦人であり、女性であった。


 クレアはヴィルヘルミナの輿入れを奇貨として、国益上の話に持ち込んでヨエル自身も輿入れするという話をトウカを頷かせるとばかり思っていた。しかし、実際にそうした動きはなく、ヨエルはそうした遣り方でトウカの隣に立つ事を邪道だと考えている節がある。


 その点などは、正にクレアとしても親近感を持てる部分であった。そして、恐らくリシアとは絶望的に相容れない部分でもある。


 クレアの場合、リシアのそうした破天荒にして、目的の為に踏み込み続ける事を恐れない姿に憧憬を抱いても居たが、ヨエルにはただの無作法に見える様子だった。


 正に恋に恋する乙女である。


 クレアも中々どうして一般市井の婦女子の如き感性で恋愛を見ていたが、ヨエルは強迫観念染みた誠実を自らに科している。トウカの自身以外の要素……社会的位置を持つ状態で女性と個人的に接する事に対する忌避感を踏まえれば、それはトウカの思考に必死に合わせようと試みている様に見えて健気である。無論、天使という要素が加われば、狂信との評価に変わるが。


「神州国の政策に変更がないのであれば放置で良いかと思います。陛下も明言は避けておられましたから」


 その内、迎えに行く、である。


 中々に便利な言葉であった。


 内容が具体的に過ぎると気の利くヨエルが辻褄を合わせる為に非合法作戦を展開して誘拐しかねず、期限を明確にしては軍事衝突までの期限だと一部の者達から捉えかねられず、両国の緊張感が増す。


 それでいて、自ら赴く事は明言している。


 実に解釈に幅があり、それでいて諸々の蠢動を抑えながら、行動を宣言している。


「去りとて偽らざる本音でもあるようですから。そして、憤怒と慚愧……世が儘ならぬと、未だ自らの感情を決めかねている様にも見えました」


 俺が、迎えに行く。


 余が、ではない。


 個人としての主張とも捉えられる。本音であるからこそか、俺という部分にも何かしらの意味を持たせているのかまではクレア断言はできないが、朧気ながらも偽らざる本音である様にも思えた。


 二人で、個人として会話している際の気配を感じた、という曖昧なものでしかないが、クレアは政戦に関わらない個人的事情によるものだと確信してもいた。


 ヨエルは左上翅で口元を隠して思案顔。


 そうした仕草も乙女らしく、ともすれば愛らしい。どの様に振舞っても女性として敗北感を覚える姿に、クレアは僅かな嫉妬を覚えた。


「それは、憲兵総監としての直感ですか? それとも……女としての勘ですか?」


 翅で口元を隠したままに問うヨエルに対し、クレアとしては臆するものがなかったと言えば嘘になるが、同時に女としての名誉に差し障ると引く事はない。


「女としての勘です」


「……そうですか……成長しましたね……」


 我が子の成長を見る目のヨエル。


 娘の恋人に手を出そうとする点に目を瞑れば、実に様になる光景である。


 クレアは感慨深いという様子のヨエルの心情を無視する。気恥ずかしさと思うところがある中で藪蛇を避けた。


「陛下は屈辱を忘れない方でありますが、同時に後悔も忘れない方であります」


 前者だけなら下手をすればただの根に持つ男でしかないが、癒える事なき後悔を忘れずにいるところに可愛げがあると、クレアは密かに思っていた。


 屈辱と後悔は重なる部分があるので、切り離せるものではないが、一方に傾倒する事はヒトとしても国家指導者としても好ましくない。


 ――陛下の後悔とは皆が仔狐の一件と考えるでしょうが……確かにそれ以外であれ程の感情を見せるというのは……


 トウカがこの世界に漂着する以前の経歴は一切謎に包まれている事も確かである。


 この世界での関係であれば、トウカの立場と漂着の期間を踏まえると、情報部との紐帯もある自身がが知らぬものがあるとも思えないとクレアは踏んでいた。特に大きな感情を見せるだけの出来事であれば尚更である。


 それ程にはトウカに執着し、トウカを理解しようと努力しているという自負がクレアにはある。


 だが、九条の姫の一件は青天の霹靂であった。


 ヨエルはトウカの元居た世界の地理や歴史、政治、軍事などを良く理解している様子が発言の節々から感じ取れるが、クレアの見たところトウカの経歴という点では、この世界で邂逅した……恐らくはヴェルテンベルク領で既知となったリシアやザムエル ベルセリカとそう変わらないと見ていた。或いは、そうした三人よりも面識を得てからの期間が短い点を踏まえれば、トウカの過去という一点のみに於いては理解が劣っている可能性もあっ た。


 クレアは、翻って自身はどうであろうか?と自問する。


 トウカは良く己の何気ない過去を二人だけの時には語って聞かせる。それは、忘れない様に努めている様でもあり、クレアに自身の過去を意識させない様に配慮している様にも思えた。


 恐らく、ミユキ亡き今、トウカの過去をこの世界で最も知るのは自身だと、クレアは推測する。


 無論、そこに九条飛鳥の影はない。


 ――確かに女性の話は全くありませんでしたが……


 だが、会話を相当に選んでいる事は、その内容と逡巡からも理解できた。


 知るという事は背負う事であり、責任を負うという事でもある。そうならざるを得ない状況に陥る余地を作るという事に他ならない。そうしたトウカの優しさだとクレアは一人で納得していたが、今にして思えば女性の話を避けていたと言えなくもない。


 いつかの夜、身を寄せ合った際の会話を、クレアは思い起こす。


 ――確かに、他の女性の話を長々とするのは宜しくないと学んだ、と言っておられましたね。


 それでミユキに齧られた、と直後に女性の話を出すところに色々と精進が足りないと、 クレアはトウカの耳を甘噛みした記憶があった。ヨエルには恐ろしくて言えない経緯だが、クレアとしては九条の姫と関わる女性の影を避けていても不思議ではなかった。


「皮肉が効いている、というところを踏まえると何かしらの関係が二人にはあるのでしょう」


 その言葉の意味は、クレアにも分からない。


 ただ、過去に九条の姫とトウカに何かしらの接点があったのか、或いはトウカの過去を理解した上で何かを仕掛けたとは確信していた。そして、その内容はクレアにも伝えなかった。


 クレアは少し傷付いた。


 知らぬ女性と知らぬ関係があるというのは、他の女性の話を長々と聞かされるよりも心に波風を立てる。


 だが、今は政戦への影響を語る事が先である、とクレアは女性としての情念に背を向ける。


「諸問題があの仔狐に関するものであれば、そもそも対外戦略の矛先は帝国だけではなく、神州国にも向いていた筈です」


 元より知っており、憤怒が支配していたならば、帝国だけではなく、神州国にも破壊を齎す話も出た筈である。神州国に対する包囲網も今以上に苛烈なものになっていたに違いなかった。潜水艦隊による無制限通商破壊が開始されていた可能性もある。無論、国益を最大化して、そうした個人的感情を覆い隠す事も疑いない。トウカはそれを為せるのだ。


 ヨエルは、その意味を正しく理解した。


「国防方針に変更がないという事は、九条の姫に関しては仔狐に関わる話ではないという事ですね?」


 ヨエルの問いに、クレアは頷く。


 ミユキと……特にその死などに神州国が関わっていた場合、矛先は神州国にも向けられる筈である。


「そうなると九条の姫は、ただ単独で陛下を振り回し得る人物という事になりますね。その様な印象の人物ではありませんが……」


 ヨエルは九条飛鳥がそうした為人ではないと見ているのか、思案の姿勢を崩さない。


 後悔と憤怒と飛鳥。


 全てが繋がっているなら、相当な奇跡と偶然の産物である。


 実際、件の九条の姫がトウカの過去に関係しているというのは相当に考え難い。九条の姫の存在はトウカの漂着より遥か以前より認識されており、蝶よ花よと育てられている事はクレアも新聞で目にした事があった。時間軸や立場の面から見ても接点があるとは考え難い。


 明らかに無理がある話の連続である。


 クレアは妄想が過ぎたと反省する。


 これでは、女の勘ではなく、女の嫉妬である。


 そう言い聞かせてクレアはヨエルを諌める。


「ここは下手に推論を重ねるべきではないかと。思わぬ心得違いをして陛下の御不興を買うのは望ましくありません」


 必要ならば伝えるであろうし、そもそも主君の過去を嗅ぎ回る真似をクレアは避けたかった。領都憲兵隊時代には任務だったとはいえ、反動的な行動に及ばないか身辺調査していた身としては、今でも薄汚い犬の様に思われていないだろうかという一抹の不安が過る。


 そうした命令の一部を担っていたヨエルはどこ吹く風で提案する。


「貴女が夜に寝台の上で尋ねれば答えていただけると思うのですが?」


「離間の計ですか?」


 拗れて関係が終わるなら幸いだとでも考えているのであれば、親子関係を考え直さねばならない。無論、二人の関係がどこまで強固であるか負担を強いてみようという意図でも許されぬ事でもあった。


 クレアの強い視線。ヨエルは翅を揺らして抗弁する。


「義母を信じていただけないとは……私だって臥所に招いていただけるのであれば、 自分で御尋ねします」


 愛らしく剥れて見せるヨエルだが、そもそも性的関係を持ては口が緩むという事自体が虚構である。


 クレアは立場上、そうした意見が全く役に立たないと理解していた。情報将校なども、そうした手段での情報収集がそもそも非効率極まりなく現実的でもなければ確実性にも乏しいと理解していない者が目立つが、それは確実に虚構である。


 フェルゼン領都憲兵隊は情報収集を目的に商館を経営した事があった。マリアベルの提案である。


 結果は散々なもので、そもそも有益な情報など収集できなかった。男が事後に雄弁になるなど男性を詳しく知らないマリアベルの妄想でしかなかったのだ。何より男が行きずりの女に入れ込んで、有益な情報を与えるなど、相当な容姿と振る舞いあっての産物である。それ程の器量の女であれば、他にも有用な使い道は無数とあった。


 マリアベルに予算の無駄だと中止を求めた際、伯が客を取って試されれば宜しいかと、とクレアは口にした記憶がある。そして、シュットガルト湖の水は冷たかろうな、と返された事は良い思い出である。


 意外な事に、ヨエルもそうした勘違いをしている。


 ――政戦両略でも男性を扱うとなると途端に……


 今までは、ヨエルが男性に対して恋愛感情を示す事がなかった為、表面化しなかった。


 しかし、今は盛大に表面化している。


 あれは大丈夫なのか?


 最近、軍高官がクレアと顔を合わせる際、よく尋ねてくる為、クレアとしては返答に窮するものがあった。無論、天帝と近しい関係となったクレアに尋ねる点を見れば、貴方も大丈夫ですか?という話になるが。


 職務は遅滞なく遂行しており、政戦の冴えは些かも鈍ってはいない。寧ろ、政戦に於ける鋭さは増しており、果断は聖剣の如し、とすら言える。しかし、とてもそうは見えない事も事実である。


「そうした態度で政務を為さるのは困ります。義娘に苦情も来ていますよ」


 義娘に迷惑を掛けて貰っては困ると、クレアは言い募る。


「まぁ。酷いヒトもいるのですね。健気な姿を微笑ましいと思わないなんて」


 権力を持たない者であれば、当事者でない限りに於いては大多数は微笑ましいと思うであろうが、政略に於いて数多の難局を乗り切り、永続性の代名詞とも言われる熾天使を相手に健気という言葉が真っ先に出るならば、そもそも政戦に於ける才覚がない。


 ――そもそも、陛下は臥所でも言葉を随分と選んでいますから……


 クレア自身、女性として気を使われていると舞い上がっていたが、もし政戦上の情報漏洩を気にされていたとしたら気落ちするものがあるものの、当然ながら推論で勝手に気落ちする真似はしない。


 複雑で屈折した精神性を持つ人物に単純な理解を当て嵌める愚を、クレアは職務上、良く理解していた。


「一度、それとなく尋ねようかとは思います」


 クレアとしても気にはなる。


 無論、それ以上に恐怖があった。


 最高権力者が異性関係で国家を傾けるのは歴史上、散見される程度には多い。特にトウカの場合、力量ある人物であるだけに影響は大きくなる。


「何処から漏洩するかも分かりません。いずれにしても陛下の行いを縛るが如き対応は避けたいと思います。良い女は男を縛られていると気づかせぬもの」


 縛るが、それを気付かせない。ある種の狂気にして配慮。


 飛鳥や晴明は神州国の有力者である。祖国の利益の最大化するのは当然と言えた。例え、祖国で孤立しつつあると言えども、祖国との縁は簡単に切れるものではない。


 クレアとしてはヨエルの、臥所で尋ねる、という発言が情報漏洩を警戒した発言だったか否かの確認を取るべきだと、遅まきながらに考える。事情を知るものが増える事を、クレアが考えるよりも危険視している可能性。


 ――そもそも、九条家への打撃を意図しているという可能性も……確かに在り得る訳ですから……


 航空母艦を一家で建造し、運用まで漕ぎ付けた勢力を危険視して排斥するというのは在り得る事であった。特に晴明が聡明である事も確認が取れたので、その点からも排斥を意図するのは在り得た。


 そして、個人的感情を国家方針として柔軟に寄り添わせる真似をするのがトウカである。


 個人的感情に根差しても国家方針として有用な方策として提示する。


 去りとて、国家方針としての側面が先行して、トウカの意に沿わないというのも望ましくない。情報漏洩前提の動きを求めているならば、思惑から乖離してしまう可能性もある。


 ――陛下の御心を慮っていらっしゃる。


 細やかな配慮。狂気が時折垣間見えるが、それは紛れもなく配慮である。


 そうした部分をクレアは素直に叶わないと思う。同時に気付かれ得ぬ配慮が報われる事などそうはないという事も理解していた。リシアという最たる例を知るからである。


 クレアから見て、リシアは相当にトウカに尽くしているが、それはトウカに伝わっていない。無論、それはトウカの無理解や怠惰を意味するものではない。偏にリシアがそうした配慮を知られる事を愧じているからに他ならず、職権乱用で隠蔽しているからであった。


 リシアに情報将校の立場を与えた事は、トウカの失策だと、最近のクレアは考えている。


 健気で意地っ張りな生き物に虚実を弄ぶ職責を与えるのは過ぎたる不幸を招きかねない。


 ――逆に言うと、隠そうとして隠し切れていないヴァレンシュタイン上級大将は好かれるのでしょうね。


 トウカと非常に仲が良いとされるザムエルのそうした姿は隷下将兵からの受けも良い。助けようという気にさせる上、気安い直情的な姿勢に親近感を持つ者も多い。


「完璧に過ぎる女性というのは、或いは身構えてしまうものなのかも知れません……公が陛下に迂遠な真似はせず尋ねるべきかと」


 クレアも尋ねるが、二人への返答への差があれば見えてくるものもある。クレアを出汁にして御機嫌伺をするにも関わらず、自身が近くに在る機会を失われたと凹まれるのは、クレアとしても面倒なものがあった。挙句、義母である。掛ける言葉がない。


 ヨエルは六枚翅を垂らして、しゅん、とする。


「最近、義娘が厳しいです……」


 それだけで自身が悪い事を口にしたかの様に錯覚を受けるが、クレアからすると全てはヨエルの甘さに起因する。


「その義娘を座敷牢に閉じ込めて逢い引きしたにもかかわらず、然したる進展もなかった熾天使に私は失望しています」


 直截的な物言いであり、第三者が居ないからこその台詞であった。要職者の確執が表面化するのは好ましい事ではないが、今ならば遠慮は必要ない。


「私だって覚悟したんですよ? 義母が第二皇妃に収まれば、他国からの輿入れがあったとしても増長を阻めますし、外交の為に利用する事もできる。国益になるから我慢できるって、そう言い聞かせていたのに……」


 それが合理的で国益に繋がる。


 ヨエルもその様に判断するだろうと、クレアは確信していた。


 しかし、そうした動きは一切なかった。


「……貴女は国家の為に、陛下に侍る女性を決めるというのですか?」


「……そうした残酷な決断を避けないからこそ熾天使は皇国の枢機に在り続けた……そうではありませんか?」


 批難がましいヨエルの質問に、クレアもまた、恐らくは皇国人の大部分がそう考えているであろう問い掛けを以て応じる。質問に質問で応じる無礼をヨエルは咎めない。


 母娘の会話である。


 或いは、私闘であった。


「いいえ、貴女は心得違いをしています。 前提を間違っていますよ」


 ヨエルは呆れ顔。


 大きな心得違いがあったのかとクレアは眉を顰めるが、国益に勝るものなどそうあるものではない。


 しかし、事実はクレアが考えるよりも遥かに極端でいて、情け容赦のないものであった。


「今上陛下の為に皇国は存在しているのです。その為に皇国は生まれた。建国の理念……まさか未だに貴女は信じているのですか?」


 変わらぬ慈愛の笑みで致命的な事実を告げる熾天使。


 国家の根幹に関わる部分に、クレアの知らない真実がある。


 建国に携わった皇国史そのものであるヨエルの言葉を戯言と切って捨てる真似はできない。


「貴女も、あの霊都の地下で見た筈です。この世界は桜城家の願いの上に成り立っている……勿論、皇国はその潮流を最も色濃く反映している」


 桜城家が世界の根幹に関わるという事は、クレアも霊都地下での奇跡的邂逅を目撃して理解していた心算だが、皇国の建国に関わる部分にまで及ぶ影響については思い至らなかった。今迄、当然と考えていた事実が明日も事実であり続けるとは限らない。


 歴史は何度も覆り、正しさは何時も不確かである。


「そんな世界如きが陛下の御宸襟を煩わせる真似をするべきではないのです」


 世界も皇国もトウカの心身を侵食するべきではないと指摘するヨエルに、クレアは恐怖を覚えた。世界が個人に合わせるべきだという意見など狂気以外の何ものでもない。


「……あの仔狐の一件を思えば、陛下の御宸襟に世界が合わせてくれるなどと思うべきではないのでは?」


 クレアからすると世界は結局のところ人々の意思の総算であり、自由気儘な暴君である。トウカだけに微笑み続ける構造などしておらず、現にミユキが喪われた事が傍証であった。


 しかし、ヨエルはミユキに対して別の見解を持っていた。


「それはどうでしょう。役目を負えた者は舞台を降りるものです。陛下は舞台の本質を理解していなかった……役者を舞台に引き留める術を持たなかった」


 伏し目がちにヨエルは指摘するが、そこには悲哀がある。ヨエルとしても想定外ではあるが、後になって考えるならば妥当であった、或いは致し方ないものがあると見ている様に見受けられた。


「何を馬鹿な……幾ら義母様でも斯様な発言はなりません。陛下の苦節に寄り添うべきです」


 仕方ない、などと言い出せば、余りにもトウカが報われない。救国の為の軍事行動の最中に喪われたのだ。例え、ミユキの動きが独断であったとしても、大枠として国家保全の為の戦争の一部である事に変わりはない。


 それは戦争指導を行ったトウカに責任が帰属する話である。


 だからこそ報われない。


 救国の代償が最愛のヒトであった事実に、仕方ない、などと言い出せば、それは苛政に繋がりかねないというクレアの恐怖もある。


 仕方ない。


 その言葉は有史以来、最も多くの者を殺してきたのだ。


「心情の上ではそうでしょう。認めます。その為に寄り添い、慰める事を厭う心算はありません。狂おしい程に」


 そこには狂気があった。


 何故、私ではないのか。


 そうした存外の遣る瀬無さも含まれる。クレアは違えた言葉とは思わないが、罪悪感を覚えた。


 しかし、ヨエルの感情の発露は一瞬だった。


 愧じているのか溜息を一つ。


「……ですが、あの仔狐の存在は仕組まれたものでした」


「それは……そうした言葉が在りましたが……」


 ミユキの死は帝国の軍事行動の産物である。


 神々が大いに干渉し得るならば、近年の皇国の困難はなかった。ミユキを死に追いやる事にだけ干渉を図ったというのは、クレアには理解し難い事であった。


 神々の論理をヒトが推し量れるとも考えないが、高位種であるミユキを死に追い遣る計略というのは、相当に緻密にして、不確実性が伴う。ましてや帝国軍という力量に乏しい戦力を用いて為すのは困難ですらあった。


 ――幾つもの偶然すら必然として動員できる神秘があるならば、皇国をより直截的な形で援ける事も可能なはずです。


 トウカの到来など必要なく、ただ敵国と売国奴に神罰と言う名の死を与えればよい。


「作劇家が死を記すならば、役者は死ぬものです。ましてや理を知らぬならば、役者に避けるなど叶う筈もありません」


 何処かの神が死を望んでいる。


 その意思と理を知らぬならば避ける事は叶わないと、ヨエルは言う。


「外の理からの干渉ばかりは、知る事は叶いません。対応も困難なのです。陛下が自由にできるのは、この皇国という箱庭のみ」


 筋書き(シナリオ)も結末(おわり)も目的も分らない物語。


 正に人生。


 己の内の満足という小さな価値観に妥協する限りに於いては、であるが。


「神々の意図を超える事を望むのならば、皇国は拡大し続けねばなりません。いずれ世界の総てが皇国となるその日まで」


 熾天使の戒告。


 神々の意図を優越するという修羅の道。


 ミユキの死が神々のものではないと決めるならば、それを真実とするならば、それは絶大な権力と共にしか成せない。


「陛下が何を望むか。それを理解し、陛下が望む形で侍るのです。ただ、慰めるだけならば意味がありません」


 愛と忠節が入り混じったそれを何と言うのか。


 義娘は言葉を見つけられない。


 ヨエルがトウカとの関係を未だ明確にしないのは、ただの怯懦でも乙女心の産物でもない。


 形容し難い、過ぎたる感情からのものである。


 ある種の矜持に近いもの。


 その常人とは異なる理想と思惑から生じた思考は、クレアの知る視点からのものではない。


「愛は与えるものであって、貪るものではないのですから」


 熾天使にとり、愛とは斯くも奇妙なものであった。



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