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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第一章    戦乱の大地    《紫電清霜》
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第三四話    廃嫡の龍姫の慟哭




「さて、どうなることか」


 トウカは氷雪の降り積もる密林を危なげのない足取りで歩く。


 ベルセリカを先頭に、その背を追うトウカ。天狼族であるベルセリカは視覚と嗅覚に優れているので、トウカが先頭に立つよりも遙かに効率的であった。人間種よりも早くに敵を発見できる以上、後手に回ることはないので索敵に関しては敵方に対して圧倒的優位に立てる。


 進むのは匪賊と天狐族が激しい戦闘を繰り広げている里へと続く街道から外れた密林であった。


「本当に戦わぬ気で御座ろうとは……」


「迂回突破といえば聞こえは良くなります。まぁ、どちらにせよ二人で戦闘をする気はありません。そもそも、セリカさんは二戦目まで秘匿する予定らしいので」


 騎兵砲と中距離魔導砲撃の砲撃音と炸裂音を耳にしながら進む二人は、戦場の端を歩いているとは思えないような気楽さで遣り取りをする。


 傭兵が数の優位を捨てかねない密林へ足を踏み入れるとは考え難いことと、ベルセリカの視覚と嗅覚で先手を取られる可能性が低い為に脅威度は低いとトウカは踏んでいた。


「それで。何故、伯爵様がここに居られるので?」


 振り向いたトウカの視線の先には、愉快そうな表情で小銃を弄ぶマリアベルが立っていた。


 豪奢で妖艶な着物ではなく、皇国陸軍の士官服に大外套を纏った姿は、軍人などではなく娼婦が相手の嗜好と行為に合わせようとしている様にしか見えない。


「なに、気になってのぅ。噂の狐誑しがこそこそ動いておるのじゃ。……何かしら気になることでもあるのかえ?」


「さぁ、何でしょうか。それを調べに行く訳ですよ」


 確かに気になる案件もあるが、漠然とした不安を払拭する為にベルセリカを連れ出して偵察に赴いたので、マリアベルが背後から追い掛けられると制限を受ける。


「どうせ、敵の弱点なりを見つけてくる気であろうて。どうじゃ、神龍の加護なぞいらぬか?」


「結構です。伯爵殿が出る程のことではありませんよ」


 指揮官先頭という伝統を持つ軍も存在するが、偵察にまで参加する者は少ない。無論、木庭知時少将の様な例外もいるが、それはあくまでも特殊な例である。そもそも、貴族や領邦軍に関してトウカは詳しい状況を知りはしない。貴族の思惑を理由に動く私兵集団である領邦軍は、それぞれが全く違う事情を抱えており、装備や軍装だけでなく運用思想に至るまでの悉くが違っていた。


 トウカにとって軍という暴力組織は、効率的且つ厳正に運用されねばならないものに他ならない。嘗て祖国の軍勢が陸海に分かれて勢力争いをした挙句、前線で散るはずのなかった将兵達を死に追いやったことを知るトウカにとって、闘争への準備を怠る軍勢など信用に値しない連中であった。無論、それを許容する貴族も同様である。


「ふふん、分かりやすいのぅ。妾は信用できんと見える」


「ええ、まぁ……領主が小さな里一つ護る為に自ら乗り込む。英雄譚のようです」


 そう、マリアベルが里に来たことすらも、トウカにとっては懸念の一つであった。


 貴族が高貴なる義務に従って民を護る。聞こえが良いが、それは在り得ないことであった。マリアベルが真に民を思う貴族であれば、自らの命を優先しなければならない。グロース=バーテン・ヴェルテンベルク領は北部でも取り分け規模が大きく、領主が斃れれば大きな混乱は避けられない。天狐族の里が全滅するよりも甚大な被害となることは想像に難くなかった。だが、マリアベルがそれを理解せず貴族の義務を放棄してまで、この場に赴くほど短慮ではないことは話しているだけでも十分に推し量れる。


 マリアベルは、その行動全てが矛盾しているのだ。


 故にトウカは、両手を広げて真意を尋ねる。


「北部は皇国にも帝国にも徹底抗戦で民衆と貴族の意見が纏まっていると聞いて言いますが、そこに涙を誘う英雄譚という名の華を一輪添えると美しいと思いませんか?」


「…………」マリアベルは言葉を発さない。


 或いは、自らの権勢を盤石なものとせしめる為に、英雄譚の一つでも必要としていたのではないか、トウカはそう考えていた。


 北部貴族がどの様な仕組みで連帯しているか知らないトウカは、権力争いが起きていても不思議ではないと考えていた。長命種とは言え、戦火が迫る今この時、一つの意志の下に纏まっていられるとは思えない。間違いなく権力争いが起きているだろう。優秀な者達でも所詮は個に過ぎず、導き出される答えが一つであるはずもない。


「のぅ、剣聖。妾は怒るべきであろうか?」


「某には判断が付きませぬ。なれど、思うところを述べれば宜しいではないか、伯爵よ」


 トウカだけが理解できない二人の言葉。困惑するが、安易に答えをくれるほど二人が優しくはないことをトウカは十分に理解していた。


「まぁ、これが答えと言えようか」マリアベルが握った拳を差し出す。


 その何気ない動作に暫しの間、呆気に取られていたトウカであったが、慌てて差し出された手を視線を向ける。


 後になって、警戒している相手にこの動作は余りにも迂闊だったと反省する。


 覗き込んだ手が開かれた……瞬間に動く。思わず後ろへ飛ぼうとするが、それよりも早く予備動作なく振われる一撃。トウカは頬を殴られ、雪の大地へと引っ張られる。


 青空を見上げて大の字に倒れたトウカ。


 すかさず起き上がろうとするが、脇腹に重い蹴りを受けて付近の大樹の一本に背を打ちつける。蹴りであることは分かったが、その異常な程の速度はトウカの視覚に捉えることはできなかった。


 ベルセリカは、述べれば宜しいと言ったが拳と脚で語るとは思わなかった、と嘆息する。


「やってくれますね……理由は」口内の血を吐き出し、トウカはマリアベルを見上げる。


 確信を突かれて容易く逆上する程に、マリアベルが短慮な性格でないことをトウカは知っている。そして暴力を振るって相手に付け入る隙を与える程、優しくないことも十分に承知していた。


「本当に腹立たしいのぅ。子供ならば年相応に振る舞ってみてはよかろうて」


「叶うならば、是非ともそうしてみたいものです。貴族が正気であれば、起き得ぬ騒乱に振り回された挙句、死に晒す可能性もなかったでしょう」


 立ち上がるトウカの言葉に、マリアベルが頬を引き攣らせる。


 現在、北部で発生している騒乱と迫る軍靴の音の責任の一端は、北部貴族であるマリアベルに帰属する。北部と中央の温度差の発露とも言える今回の内乱は、不幸な行き違いによるものであると多くの者に認識されているが、トウカの視点からすればそれらの意見は嘲笑を誘うものでしかない。


 帝国と皇国が最初に干戈を交えて二〇〇年以上の年月が経過していることからも分る通り、当時から軋轢は少なからずあった。それを放置し続けた貴族にこそ今回の騒乱の責任はある。少なくともトウカはそう考えていた。


「国家に停滞はない。あるのは緩やかな廃滅だけです。ヴェルテンベルク伯、貴女にもそれを正す機会はあったはずでしょう」


 或いは、帝国の急速な肥大化を予想し得なかったのかも知れないが、内憂を放置し続けた点に変わりはない。


「……何故、俺を子供のままでいさせてくれないのか」異邦人は心の底からそう思う。


 惰弱な政治家によって腐敗する祖国は、それでも尚、トウカが子供のままでいることを許容した。だが、皇国はそれを許してはくれないとトウカは思い知った。そして妥協は即ち、自身やミユキの死に繋がる。


 子供であれば、泣き叫ぼうとも許されるだろう。

 子供であれば、喚き散らしても許されるだろう。

 子供であれば、恋だけに生きても許されただろう。


 在りし日の祖国では当然の権利が、皇国には存在し得ないのだ。


 仔狐との恋は、何も種族の違いだけが障害ではなく、この大地に於いては無数に阻む存在が横たわっていた。シラヌイがミユキとの関係を半ば黙認した今、現状での最たる脅威は戦火に他ならないが、それを使役する権勢をトウカは有していない。


「貴女の責任とは言わないが、無関係ではないでしょう。言い訳くらいは聞きますが?」


 無論、トウカ自身もマリアベルに非がある訳ではないことは承知していたが、それでも尋ねずにはいられない。


 悲哀の色が一瞬過ぎったマリアベルの瞳が怒りに染まる。


「主の言は真に正しきことよ。なれど、我に関しては貴族であって貴族ではない。クロウ=クルワッハ公爵と人の間に生まれ堕ちた妾は、どちらからも排斥されての」


 今まで感じた事すらない感情を纏うマリアベルの言葉に、トウカは絶句する。


 それは、トウカとミユキの未来の結末の一端が眼前に存在しているということに他ならないと思い至ったからであった。その一言だけで、トウカの心中は傍目に見ても分る程に乱れる。その一言と、二人が接触して以降の行動の多くがその言葉とは矛盾しているからこそ、トウカの思考は追い付かなかった。


 何故、自らが不遇を強いられて尚、トウカとミユキの関係に口を挟まないのか。

 何故、貴族の責務がないと口にしつつも、小勢を率い勝算のない戦へ赴いてきたのか。

 何故、利益すらないにも関わらず、トウカやミユキを利するように動いていたのか。


 神龍と人との間に生まれ堕ちた……異種族間の恋の果ての結果と言うは容易いが、迫害されていたと察するには十分で、七武五公が一柱、神龍族に連なるにも関わらずこの場にいることが何よりの証明であった。


 若人が推し量るには余りにも複雑で知り得ない境地の出来事で、トウカは沈黙を以て応じる以外に選択肢はない。人は生きれば生きる程に闇を抱えてゆく。ならば人間種より遙かに永き時を生きる……生きざるを得ない長命種達の抱える闇は果たして如何なるものなのか。


 トウカには多くが分からない。が、唯一つだけ分かることもある。


「世を恨み、それでも尚、生き続けんとする……それは」


 復讐の為ではないのか、そうトウカは思った。


 人は幸せを蔑ろにする。幸せは馴れるが、不幸に馴れることはない。故に不幸でありながらも、生に執着するマリアベルには目的が存在する。そして人を突き動かす感情の中で、最も苛烈にして有効なものが復讐心に他ならないことを歴史は証明していた。幸福への渇望も義務も愛国心も劣化が早いが、復讐心は決して衰えることがない。特に常に不遇を強いられている者は、憎しみの劫火を更に燃え上がらせることはあったとしても、委縮させることは有り得ないのだ。もし、時と共に消えてしまう様な憎悪であれば、それは憎悪の定義には当て嵌まりすらしない。


 凄絶な笑みを浮かべ、マリアベルが不遜に告げる。


「ああ、恨んでおるとも。故に戦を止めはせぬ。寧ろ、煽って見せたわ」


「それは、また。御機嫌ですね……」


 叶うならば大規模な闘争に陥るとしても、状況を見据えてミユキの手を引いて逃げることが可能となるまでの時間は残して欲しかったと嘆く。トウカにとって皇国など取るに足らない存在に過ぎないが、ミユキにとっては祖国であり北部や里は故郷なのだ。安易に捨てろとは言えない。


 苦笑交じりにベルセリカが、二人の間に割って入る。


「まぁ、それぞれに事情があると分かっただけで良いでは御座らんか」


 どことなく楽しそうな表情のベルセリカに、トウカは頭を掻き毟る。


 御館様が殴られても黙って見ているのはどういった了見か、と苦言を呈すべきところではあるが、ベルセリカの真意を察して沈黙する。


 差し詰めトウカがマリアベルと腹を割って話せるようにしようとでも考えていたのだろう。酒の席でもベルセリカは二人に対してかなりの話題を振っていた。その時に覚えた違和感は酒精によって曖昧なものになっていたが、この場でも感じたとなると話は変わる。


 ベルセリカを先頭に三人は再び歩き出す。


 殴られた頬を擦りながら、トウカはベルセリカの横に並ぶ。


「何の心算ですか?」


 呟いたトウカに、ベルセリカは笑みを零す。


「ここで、あの偏屈者の歓心を買ってみせぃ。御館様は知力と胆力は持っておるが、権勢を持っておらぬで御座ろう」


 この駄犬は、とトウカは込み上げる怒りを感じたが、不断の胆力と不屈の精神で押さえ付ける。この場で非難したとしても意味がなく、許容し難くもあったが、ベルセリカの悲願を叶えるには権勢は必要不可欠でありそれを満たす為の行動でもあった。


「自らを売り込むわけですか。セリカさんも大概、打算的ですね」


 ベルセリカは皇国の剣聖なのだ。皇国から去ることすら考慮しているトウカの考えなど察しているであろうし、それを阻止するために動くのは当然であり、己が悲願を成就させる為にトウカに権勢を与えようとすることも当然の行為であった。


「期待しておる。奮って魅せよ、若人」軽い口調で告げることを告げたベルセリカは一人先行する。


 天狼の卓越した脚力で視界から一瞬の内に消えたベルセリカを恨みつつ、トウカはマリアベルと肩を並べるが、二人の間に言葉の遣り取りはない。


 だが、不思議とトウカの心が不規則に揺れ動くことはなかった。


 トウカの内心には猜疑心と警戒心が渦巻いているので、マリアベルの復讐心に同調する側面があった。それらの複雑にして怪奇な心の在り様は、往々にして千変万化と捉えられることがあるが、方向性というものは厳然として存在する。


 それらは負の感情と世間では定義されているのだが、トウカはそれらが自らの心の内にあることを忌避してはおらず、またマリアベルもそうであると確信していた。


「妾も子供のままでいたかった。儘ならんものよのぅ」疲れたようなマリアベルの呟きが、氷雪の舞う密林に消える。


 トウカは、その言葉の意味するところを察した。


 神龍族の雄であるクロウ=クルワッハ公爵と人間種である母の間に生まれ落ちたということは、前者にしては短く、後者にしては長い寿命ということに他ならない。それは父よりも早く死を迎え、朽ち往く母をその眼で見続けねばならないという残酷な事実を指し示しているのだ。


「寿命が違うことがそれ程に罪だと言うのでしょうか?」純粋な疑問だった。


 今この時、トウカはミユキとの関係のみを指して言い放った言葉である。この解決し得ない至上命題が、自らの最大の懸案事項を排除できた後々までもトウカを苦しめることを知る者はいない。


「それは何人(なんびと)にも分かりはせぬよ。神の悪意やもしれぬし、悪魔の善意やもしれん」


「或いは、人の欲望の残滓か……」


 もし、幾多の種族を作り出したのが旧文明の人間種であるならば、これは紛れもなく人災である。それも環境汚染や終末兵器に並ぶ、時間と流血以外の解決手段がない答えなき問いに他ならない。科学技術で神の領域を浸蝕した代償とも言えよう。


「何かどうであれ、妾の道は儘ならぬものよ。御主は分かっておるのかえ?」


 軽々に答えるべきではないが、ミユキの横顔を思い出すと根拠のない自信が湧き上がってきた。過信こそが最も忌避すべき敗因であることはトウカとて重々承知しているが、無謀とも思える蛮勇が未来を切り開くことも少なくはないことを歴史は証明している。


 トウカとてミユキとの恋の果てに悲劇という名の結末が待っているとは考えていない。ミユキが関わると効率的な判断を下し難くなるトウカであったが、少なくとも未来予測や検討考察にまで感情を差し挟む程に耄碌してはいなかった。


 根拠なき確固たる自信。


 マリアベルは経験者、トウカは挑戦者。


 幸福を掴み損ね、敗れ去ったマリアベルが、トウカに求めるものは現状の打破の一石となることであった。


 少なくとも無関心であれば今この時、隣にベルセリカがいることが有り得ず、排除する心算であったならばシラヌイに同調する形で行っていただろう。


「例え勝算なき恋であったとしても、だからどうだというのです」


 人には例え勝算なき戦いであっても身を投じねばならないことがあり、常勝など有り得ないとも理解していた。何よりも、トウカが恋に於いて結果というものを重要視していなかったことも大きい。


 二人は似て非なる存在に出会ったが、この時、初めてその点が表面化した。


「恋はその過程こそが至上であって、結末は付属品でしかない。そう、ミユキに言ってしまったのです。手遅れです」


 マリアベルは、無表情でトウカの言葉を聞くだけであった。


 目指すところが違い、求めるモノが違っていたとしても、降りかかる災厄に然したる差異はないと考えていたマリアベル。しかし、その胸中では、結果ではなく恋という過程を重要視しているというトウカの在り様に衝撃を受けていた。


 或いは自らの母も同じく恋を精一杯に生きたからこそ、最後の時、あれ程に穏やかな表情であったのではないのか、と。


 ならば母が心を満たし得る死を迎えたにも関わらず、それを認めない自らは道化に過ぎないのではないか。


 マリアベルは、遣り切れない気持ちとなっていた。


 当人が認めた死を理由に動乱の引き金となったマリアベル。自らの行いを正義と僭称する訳ではないが、少なくとも糞親父に刃を向ける理由にはなるのではないかと考えていた。


 戦う理由の根幹が揺らいでいることを自覚せざるを得ない。


 復讐という結果を求めたマリアベルに対して、恋という過程を求めたトウカ。


 過去の清算するために闘争を選んでみせたマリアベルとは違い、恋という現在を駆け抜ける為にあらゆる刃を振り翳すと誓ったトウカ。


 振り翳す相手は同じであっても、その理由は真逆。


 そんなマリアベルの胸中を、トウカは知る由もない。


「妾は如何すればよいのか……」


「それは他者に求めるべき答えではないと思います。まぁ、思うままに動けば良いのでは? 長命であれ、短命であれ、今この時は一度きりで人生も一度きりなのですから」トウカの忌憚なき本心であった。


 この世界で行ってはならないことなどない。思うままに、欲するままに自らの想いを振るえばよい。自らに帰属するであろう責任も悲劇も甘んじて受けねばならないが、自らが行った行動の結果であるならば少なくとも納得できる。


「断じて戦うところ死中おのずから活あると信ず。とある名将の言葉です」


 トウカの知る祖国の名将の中でも祖父が特に敬意を払っていた名将であり、盟友でもあった男の言葉であった。その名将は装備と兵数に劣っていながらも、その言葉に恥じぬ勇戦を行って敵に友軍の被害以上の出血を強要して見せた。


 その言葉は祖国の軍人の心に今も息づいている。それは一言は何も戦争だけを指すものではなく、人生という闘争に於いても同様であった。少なくともトウカは、ミユキを護る為に断じて戦う心積もりである。


「裂帛の意志は時に万敵をも退け得るのです……貴女の意志は随分揺らいでいるようですが?」


「……分かってはおるよ。妾の想いに何人も同調してはくれないことなど……じゃが、この胸に燃える憎悪は如何ともし難い」


 マリアベルは、この時既に、引くことすら叶わぬ状況へと追い込まれていた。


 進むも地獄、引くも地獄。


 母を失い四〇〇年を超える時が過ぎていたが、その悲劇はマリアベルの心の奥底で決して癒えることなく悪意を醸成し、憎悪を撒き散らして身体を浸蝕している。総てを腐敗させる憎悪は、確実にマリアベルを侵食していた。


 長命種は肉体的には人間種や他の種族に対して圧倒的な優勢を誇っているが、精神はそれに応じた強大なものではない。生への倦怠こそが長命種にとっての致命的な病と言われる理由の多くはそこにある。肉体的には強靭であっても、精神的には人間種とそう変わりはない。無論、長命ゆえの老練さが、その側面を感じさせないものの、本質的には人間種と同じ精神強度しか有してはいないことに変わりはなかった。


 或いは、マリアベルの龍族特有の病も、母の死という精神的被害が引き金になったという面があったかもしれないが、それは神にしか分かり得ない。


 二人は歩みを止めず、時折、互いの顔を窺いながらも会話を続けるが、マリアベルの瞳には救いを求めるような色が見て取れた。精神が摩耗し、心が衰弱したその姿は、心の折れた一人の女性でしかない。


 トウカは、マリアベルを老獪な龍だと考えていたが、それは正しくもあり間違いでもあった。母の死後から今この時までマリアベルは本質的な意味で孤独だったのだ。


 掛けるべき言葉を見つけられないトウカ。


 ミユキにベルセリカと続き、トウカはマリアベルまでをも傷つけてしまった。それぞれに他にはない特殊な事情があった点を差し引いたとしても、あまりにも軽挙な行いと自身の口下手を呪うばかりである。


 女性にまた涙を流させてしまうかも知れないと、トウカは慌てる。


 そして、次の言葉にトウカは更なる衝撃を受けた。


「妾を助けてはくれぬか?」












「妾を助けてはくれぬか?」それは口を衝いて出た一言であった。


 そして紛れもなく本心であり、嘘偽りのない言葉でもあった。


 マリアベルは、八方塞と評してもよい現状に閉塞感と絶望感を抱いていた。


 己の有する刃はどれ一つ遠く龍の都の父には届き得ず、逆に総ての龍から愛された妹の軍勢はマリアベルを押し潰さんが為に北部へと圧力を強めていた。彼我の戦力差を考慮すれば、端から勝てるとは考えていなかった闘争であったが、北部の戦力と財力、そして何よりも領民数が減少の一途を辿り、領邦軍そのものの削減も避けられない状況に陥りつつある。そうなる前に決戦を強要することが、最も勝率が高いと北部貴族との会議で判断した結果、現在の蹶起に至った。


 しかし、それでも尚、圧倒的劣勢であった。


 北部貴族連合軍は、元より北部防衛を担っていた三個郷土師団約三万名に、各領邦軍の約八万名と、徴兵経験のある北部領民の有志によって編成される集成師団約一万名を加えた一二万名にまで増強されていた。無論、武器か使える素人と評してよい集成師団は戦力外であり、領邦軍の指揮系統も一本化されているとは言い難く、広域な戦線に分散配置されている状況である。ヴェルテンベルク領で製造されている各種新型戦車や自走砲を多数配備しているマリアベル隷下の精鋭装甲部隊も含まれてはいたが決定打に欠くことは避け得ない。


 父たるクロウ=クルワッハ公爵に一太刀浴びせるという目的すら叶えられない現状。


 北部貴族の総意と取っても良い此度の蹶起であるが、マリアベルの目的はそちらではない。無論、北部貴族でもあるマリアベルも一蓮托生であることは重々承知しており、捨てられた娘としての復讐心と北部貴族としての在り様を満たす、己の意志と実益を兼ねた闘争に力を惜しむ気はなかった。


「どの道、妾は助からん。なれど、悲願を果たさずしては死ねぬッ!」絞り出したような決意。


 だが、強固な決意が望む結果を齎すとは限らないことをマリアベルは理解していた。その生い立ち故に、儘ならない人生を歩んできたからこそ努力が必ずしも報われるとは限らないという事実を無数に体験しているが故に。


 現状を変える一手。或いは劣勢を打開し得る切り札。


 そのような都合の良いものに頼らねばならない状況に、マリアベルの心労は頂点に達していた。長命種が打開策を見いだせなくなる程にマリアベルの取り巻く状況は劣悪なのだ。


 蹶起以前の世間一般では放蕩領主とされていたマリアベルであるが、蹶起後は精力的に活動しており、隷下の戦力を率いての警戒活動や兵器工廠の視察を重ねていた。無論、マリアベルとしては平時より蔭ながら軍備増強や領地の公共施設(インフラ)整備に多大な貢献を果たしていたが、精力的な活動は神龍族から叛意ありとも取られかねないことに加え、油断させる意味合いもあって表沙汰にはできない。


 常に周囲に気を配らねばならない。神龍族の中には、未だにマリアベルの失脚を狙う者も多く、一瞬たりとも気を抜けなかった。


「のぅ、トウカ……妾は如何すれば良い?」口を動かしている自身も驚く程に、酷く疲れた声音。


 トウカは答えない。唯、ひたすらにマリアベルを見据える瞳。既に二人は歩みを止めている。


 マリアベルには、この浮世離れした在り様の異邦人が死神に見えた。


 その漆黒の戦装束の上から雪景色に溶け込む為の薄汚れた白の大外套を纏った姿は、幼少の頃に母から聞かされた白の死神(シンメルライター)そのもの。


 白夜の夜に姿を現す黒衣の騎士。

 闘争の残照にして、魂を駆る幽鬼。

 失いしモノ(首)を探し彷徨う英霊。


 果たして眼前に佇む白き死神は己の命を刈り取るか、皇国を亡国へと追いやるか、或いはあらゆる全てを薙ぎ払うのか、マリアベルには分からない。


 だが、トウカから形容し難い可能性を感じた。直感や感覚などという曖昧なものではなく、苛烈な、正視に耐えないまでの可能性が眼前に佇んでいる。


 藁にも縋る思いでトウカへと歩み寄る。


「妾の悲願、叶えてはくれぬか?」一抹の後悔と共に紡がれた言葉。


 客観的に見れば、戦略面での劣勢を覆す為に然したる権勢も特筆すべき力も持たない人間種の若人に助けを求めることなど、永く生きた長命種達からすれば顰蹙を買う行為に他ならない。


「若造に過ぎない異邦人(エトランジェ)に縋ったところで何も変わりはしませんよ?」


 自身が言っていることが支離滅裂であることをマリアベルも重々承知していた。僅かな可能性に縋らねばならない程に劣勢な状況に追い込まれていたとしても、確証のない可能性に賭けるほど長命種は愚かではない。世界有数の魔導先進国でもある皇国を後進国と嘲笑していたトウカならば、という理由をこじつけることは容易いが理由としては余りにも弱い。


「汝を見ておるとな、或いは、などという想いが溢れ出おる。困ったものよ」マリアベルは、乾いた笑みを零す。


 他者を惹きつける、語彙には表せない要素を持った異邦人。


 かつて、同じ気配を纏った男をマリアベルは思い出す。


 紫苑色の瞳をした為政者。


 《ヴァリスヘイム皇国》という複雑怪奇な国を背負いし我らが皇。


 当時の指導者……二代前の天帝と拝謁の栄に浴したマリアベルだったが、その姿を直視できたのは僅かな時間であり、遠目に見える後姿だけであった。


 冷静に観察すれば、似ている個所を探すことが難しい両者。


 話を終えたと判断したのか、薄汚れた白の大外套を翻して歩を進めるトウカの背を、マリアベルは歓喜とも絶望ともつかない胸の内で追い進む。


 何故、似ていると感じたのか当人であるマリアベルですら苦しむ程に違えた二人。


「或いは……いや、気の所為であろう」


 頭を振り、マリアベルは足を速めた。






《大日本帝国》陸軍、木庭知時少将


 部隊勤務一筋の野戦指揮官で、部隊の実情を知り尽くした名将。熱帯気候の地域で遅延していた陣地構築作業が、彼の部隊に命じられるや、僅か一ヶ月でこれを完成させ上級司令部を驚かせた人物でもある。


 普段より前線を歩き回る彼を、誰もが戦死しかねないと懸念していた。上司に当たる宮崎繁三郎師団長が、彼の部下に「御前達は木庭閣下を殺す心算か!」と叱ったという噂もある。だが、銃弾も彼のような人物は避け飛ぶのか大きな負傷は報告されていない。


 なぜそこまでするのかという問いに対し、彼はこう語る。


「支隊長だと思ってやっているのではない。国軍の一将校だと思ってやっている。平素、当番を使って色々なことをやって貰っている将校が、こんな時に頑張らねば、当番を使う価値はない。疲れたと言っては兵士と一緒に休み、苦しいと言っては部隊と一緒に歩いていたのでは、兵士とどこが違うか。苦しい時にこそ歯を食いしばり、疲れた時にこそ頑張るのが将校の将校たるの所以じゃ。木庭少将がやっていると思うな。国軍の一将校がやっていると思え」


 そして退却戦の際の渡河では、自らに用意された舟艇に負傷兵を乗せ、自らは兵士と共に筏に掴まり泳いで渡ったという逸話を持つ。豪雨の中で飢餓に苦しみ蹲っている兵士を見つけると殴りつけ「止まるな!」と怒鳴り付けたという。隷下の兵士は彼を怖れたが、同時に部隊が纏まり、困難な撤退戦を成功させた。




 断じて戦うところ死中おのずから活あると信ず。


           《大日本帝国》陸軍、栗林忠道中将。


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