第三六二話 まだ見ぬ衛星国への懸念
「不愉快ですね」
ヨエルは口元を右上翅で隠して囁く。
先のアーダルベルトの発言は、トウカに対する不信任に近いとヨエルは判断していた。
トウカの暴政への懸念と、無制限に伸長する枢密院の権力に対する掣肘を皇国議会に求めようとしていたのだ。
枢密院はトウカの意向が強く、癖のある人材が大部分である上に密室化しており、議論内容もまた不明瞭である。機密性と言えば聞こえはいいが、密室政治が実情であった。
真っ当な政治家であれば、嫌う政治である。
トウカは上機嫌で、シラユキの頭を撫でる。
シラユキは尻尾を揺らして舟を漕いでいた。
アルフレア離宮の執務室は地下にあるが、そうした場所ばかりに籠る事で胡乱な目で見られる為、トウカは時折、アルフレア離宮の庭園の四阿の座席に腰を下ろしている。希少な石材を利用して白皙と評しても過言ではない白さを実現しているが、その維持管理をトウカは純粋に無駄だと考えている事をヨエルは知っている。そこから見える景観も、無数の対空陣地が設置されている為に物々しい印象が拭えない。
周囲に人影は見えないが、光学迷彩術式を利用して潜伏している鋭兵小隊が存在しており、静かなる厳戒態勢であった。
「気にする事はない。所詮はあれも政治家だった。安堵した。そして、権力はヒトを腐らすとは、公にも言える事だった」
意外と子供の扱いが上手いと感心するヨエルに、トウカは問題はないと応じる。天帝の腕で眠る小狐をヨエルは羨みつつも、その意味を図りかねていた。
「議会があれば、止め得ると見たのだ」
不甲斐無いことだ、とトウカは嗤う。
安く見られた訳ではなく、議会政治への過信だと、トウカは肩を竦めて見せる。
「法など紙に記された文言に過ぎない。それに強制力を持たせるには力の裏付けが必要だが、政治に溺れる輩は度々、政治権力それ自体がカを有すると誤解する」
陸海軍をトウカが掌握している以上、皇国議会が健在で決断を下したとしても覆すのは容易であるという確信。
ヨエルは、それは早計に過ぎると考えた。
諌めねばならない。
「議会政治が復活した場合、議会を梃に軍と予算への介入を意図した動きを取る可能性が高いと判断します。そうなれば再び潰されるのですか?」
軍隊も国家に属する以上、その予算で運用される。そうした経緯もあって、軍への諮問という動きは皇国政治では珍しい事ではなかった。政治家と軍人の関係構築と相互理解という名の浸透という事も十分に有り得た。
軍が常にトウカの意向の為、最大限の注力を見せると限らなくなる事は先の未来で十分に在り得た。
「必要と在らば、な。だが、宰相ならば、政治家の動きなど容易に捉えられるだろう」
「主要な権力者の金銭の流れを把握しておりますので、後手に回る事はないでしょうが、潮流が生まれては先がありません」
一度の政略を阻止したとしても、それを可能とする道筋と先例が生まれれば、続く動きは燻りかねない。革命沙汰が連鎖的に生じる様に。
「分かっている。だからこそ、議会再建の時期は明言しなかった。今際の際でも約定を違えたと言えないだろう?」
恐らくは死に際でも認めず、そのまま崩御するだろうとヨエルは苦笑するしかない。 死後の世界まで追撃を受けないならば認める必要もなかった。良心の呵責もない。
「老獪な政治の化け物相手に正面から迎え撃つなど愚の骨頂。相手の思惑を外すのならば、想定外を量産すべきだ……それに先例主義の官僚の動きを掣肘できるという利点もある」
先例のない事態に官僚は弱く、老獪な政治家の振り付けも狂うであろうと、トウカが見ている事は間違いなかった。
半面、そうした行動は暴政に繋がり易い側面を持つ。元より有力者や官僚を信の置けない者として見做す以上、その意思決定を是正する余地は少ない。
――当人自身がそれを恐れたからこその枢密院でしょうが……
トウカは、枢密院の意見に関しては良く聞くのだ。トウカ自身が意見を取り下げる事もある。筋を通す事に重きを置いた変人達の良くも悪くも愚直な部分に信を置いていると言えた。無論、憲兵隊や情報部が周囲を探っている事は疑いないが。
「どの道、選択肢などないのだ。風雲急を告げる国際関係に在って、足踏みをしている余地などない」
国際的な緊張度を高める動きを取り続けているトウカの発言は自作自演でしかないが、実情としていずれば生じた問題でもある。
世界中の国家が大小様々な問題を抱えているが、経済は輸送技術の発展に伴って関係を深化させ、金銭の流動性も嘗てない程に増加している。連鎖的な動きが生じやすいのは明白であった。
無論、それを理解している者達でも、それが齎す破壊と狂騒の規模を大きく読み違えている事をヨエルは良く理解していた。
眼前の天帝が、その狂瀾と狂騒の時代を利用して国益を暴力的なまでに希求しようとしている事も同様であった。
「地政学的に見ても、帝国と神州国は潰す必要がありますね。共和国も余裕が生じれば政治思想の違いから摩擦が増えるでしょう」
内線戦略主体であった皇国軍が外線戦略に転換した上で各所撃破を行わねばならないという難題。
外交的に見て帝国も神州国も共和国も距離がある。
同時に相手取らねばならなくなる事態とならない様に離間工作を取るべきであるが、 トウカは帝国との対決姿勢を強固なものとする為、神州国の侵略的な動きを帝国を利する行為として非難している。それにより、両国が関係を深化させる可能性は十分にあった。無論、両国が同盟ともなれば他の帝国を敵性国家と見做す大陸各国との連携が容易になり、神州所国複数国で圧力を掛ける事も叶う。艦隊戦力の上では価値に乏しいものの、経済封鎖などの面では意義は大きい。
敵の強大化を以て他国の危機感を煽り、より大きな枠組みを以て対峙するという思惑。
各所撃破よりも多数派工作をする点を、ヨエルは高く評価していた。無論、敵の敵は味方という理屈での団結は脆いが、それを切っ掛けとした関係構築は戦時の外交としては有りである。
帝国や神州国と対峙するに当たって妨害する国家を叩くという名目で帝国以外に版図を広げる意図がある事を承知した上で、ヨエルは納得していた。強大な敵国に対抗する友好国の火遊びを黙認するであろうという打算。
損益を軸に判断するトウカの姿勢は国家指導者として相応しいものがあるが、同時に国内の政治勢力に賛同者が少ない事は問題であり続けていた。
国益を爆発的に得続けているからこそ、致命的な反発は生じないだけである。
急激な政治姿勢の転換によって得た国益は多いが、組織や人心がそれに合わせて即座に変化できる訳でもなく、寧ろ思惑は千差万別であれども、既得権益を失う事を恐れて不満を持つ者は少なく無い。去りとて抵抗すれば死が待っているのは明白な為、多くの者は沈黙を保っている。或いは既に泉下であった。
「脅威の多い事だ。しかし、経済力を身に付ければ全てを跳ね返す事ができる。我が国は経済への打撃を最小限に留めながら……或いは敵対国や潜在的脅威の経済的被害を最大限とさせながら相対的優位を実現し続けなければならない」
「綱渡りですね。軍事行動と版図拡大で人的資源を薄尽しては、 結局のところ経済は抑え付けられることになります。例え、占領政策で人口を増やしても軍や経済に即座に組み込める訳でもないでしょう」
ヨエルの指摘に、トウカは嫌な顔をする。
トウカの懸念と誤算は、そこに在る。
宗教や種族、民族の坩堝たる皇国を纏め上げるに当たって皇権という絶対権力が成立したが、併合したばかりの地域にその権威が通じる筈もない。経済支援などによって好意を勝ち得るにも限界があり、その予算と資源も無限ではない。
トウカが想定したよりも遥かに皇民化政策は上手く行っていなかった。
自治政府ではなく保護領という扱いを以て摩擦の少ない併合と自国経済との結合を図る。少なくとも南方保護領では、それを実現する為に官僚団が日夜奮闘していた。
余りにも、何もかもが存在せず悲鳴を上げてたが、そもそもどうにもならない問題も少なく無かった。
特に皇国企業が騙し討ちの如き労働条件を結ばせる案件が続発し、早々に憲兵隊が介入する事態に陥った事は、トウカを激怒させた。皇国国民に南方保護領に対する同情や同胞意識の発揚は、それなりに上手く機能していたが、それを台無しにする動きと言えた。
派遣された官僚団も察していたのか、次々と条例の成立を以て規制したが、次々と屁理屈の様にあの手この手で掻い潜る動きが企業側に生じる事となった。
「ヒトは銭の為なら何でもする。愛国心も銭の前には無力と言う事だろう。そうした銭に魅入られた連中を国家という型に嵌める事も俺の仕事だ」
「……政府事業からの排斥ですか……」
トウカは法律制定だけで労働条件の保護ができないと見て、悪質な労働条件を以て労働力を確保しようとする企業を国家事業に関与させない方針を打ち出した。事実、 直後に成された南方地域への交通網整備事業では、受注を確実視されていた建設企業が”現地との軋轢の軽視”を題目に失格とされた。
迂遠な恫喝と強要である。
しかし、ヨエルはこれを高評価してもいた。
規制の連続や武力を背景とした恫喝は経済活動の委縮や投資の減少を招きかねない。水面下で意に添わぬ動きを取る企業に、国家から流れる利益を遮断するという方策を以て問題の是正を迫る。
忖度の強要と言える。
しかし、トウカや枢密院が企業に命令した訳でもなければ、法的規制を場当たり的に乱発した訳でもない。何より臣民が自身の労働条件に天帝が強い興味を示していると知って支持する動きは大きい。トウカからすると富の再分配能力の低下が国家の国力低下……衰退を招くと知るからこその方針であったが、臣民は無邪気に平民階級の味方だと信じている。臣民は何時の時代も自身の取り分を擁護し、その為に実績を挙げるものの味方である。重税を強いる者は何をしたところで信頼を置かれない。
「忖度できぬならば、それまでだ。まぁ、銭に対して鼻が利く連中だ。早々に察するだろう」
各方面に配慮した方法と言える。
南域保護領に駐留する師団が抜き打ちで即応訓練を行うなどの動きを邪推する者も居たが、それは陸軍が部族連邦と神州国の動きを警戒し、南部で第二線が形成された際の訓練でしかなかった。トウカの日頃の行いが邪推を招いたと言える。
トウカは憂鬱な表情を隠さない。
銭の為、国益を毀損し、労働者に厳しい生活環境を強いる事を躊躇しない企業に対して思うところがあるのは当然と言えた。祖国が貧困層の上でのた打ち回る財界という邪龍に蚕食されていたが故である。そこには富国強兵も国家存続の視点もない。
「ヒトに失望されておいでですか?」
国民への失望は政策に影響を及ぼしかねない。
ヨエルとしては避けたい未来であった。
経済や労働環境への配慮を見れば、国民への配慮をしている様に見えるが、それは国力を最大効率で拡大する為のものであり、決して臣民の為ではない。短期的に見れば搾取で国力を増大させる事はできるが、持続的な国力の増加をトウカは選択した。 そもそも、搾取は反発を生み、何処かで破断点が生じる。そうした短期的視野しか持たない天帝を成立させる程に天霊の神々も蒙昧ではなかった。
トウカの目指す国家計画と国民の繁栄が同様の方向を向いている内は良いが、何処かで道が分かたれた場合、国民はその苛烈無比な内政手腕を実感する事は明白であった。
ヨエルの心配は、総じてそうした部分に根差している。
心情を理解できる上、国内に於ける有象無象の身勝手を統制しつつも、国民に幸福という幻想を見せ続ける事にある。実情として、それは永続するものではなく、困難に有っては維持できなくなるものでもあった。
永遠の繁栄。
完璧な統治。
そんなものは存在しない。
そうした転換期にこそ、トウカの真価が示される。
無論、当人は、そうした状況に陥らない様に配慮しているだろうが、ヒトならぬ身で永遠の繁栄は叶わないと知るヨエルは、その点に限って言えばトウカに賛同しない。
トウカはシラユキを応接椅子に寝かせると、立ち上がって戸棚を漁り始める。
「……元よりヒトに期待などしてない。ヒトの意志は水と変わらない。高所より低所に流れ落ちる。それに抗う者こそが特別であり、偉人や英雄と呼ばれる。皆がそうであるならば、時代は偉人や英雄を必要とはしない」
その表情は窺えず、背は心情を語らない。
「鯉は滝を遡上して龍と転じると言いますが、それは僅かに過ぎない……真理ではあります」
それを指摘されて納得する者は少ないだろうとヨエルは思いはすれども、だからこそ経済力と軍事力を重視するのだろうと理解してもいた。世の中、金銭で大抵の事は解決できるが、それが無理なら軍を展開するしかない。単純明快な真理である。その二つに備えるからこその経済力と軍事力である。
トウカは取り出したウィシュケの瓶と硝子杯を持ち、応接椅子へ再び腰を下ろす。
「困り顔をされてもな……言いたい事は理解できるが」
是正する心算はないというのは飲酒しながらの会話で嫌と言う程に示している。
しかし、 鬱屈としたトウカの気配はそれだけではない様にも見えた。
「御前も女だな……他人に優しくしろとでも言いたいのか?」
そうした言葉を女性に投げ掛けられた経験が多いのだろうと、ヨエルは苦笑する。実情として女性は生物的に見て男性よりも集団の不和に敏感であった。
「マリィは私に優しくしろとしか言わなかったが」
笑うところなのだろうか?と右上翅で口元を隠したヨエルに、トウカは曖昧な笑みを崩さない。冗談とも本気とも取れないが、それはマリアベルという唯我独尊にして天衣無縫な存在と男女関係であったという都合上、致し方ない事であった。
――こう、もう少し一般的感性の方を侍らせてほしいのですが……私みたいな。
比較対象としても模倣対象としても自ら感性の埒外にあり、故人でもある相手に優越するというのは難事である。故人は記憶の中で美化されるものであり、マリアベルは多分にそうした部分があるとヨエルは見ていた。
尤もトウカの美化とは、一般的なところの陰惨な振る舞いが増すというものであったが。
「好意は摩擦を減じるものです。不利益の最小化を目指すならば目を背けるべきではないでしょう」
「不特定多数の好意は銭で買える程度のもので十分だ。あまり他者の好意を期待するものではない」
国民に利益を還流、或いは国民の敵を叩けば大多数の支持を得られるという確信と実績を持つトウカらしい発言である。
減税や支出全般を嫌い面従腹背が目に見えている為、トウカは即位直後に大蔵府の人事を刷新している。方々に意見を聞く事すらなく、正に奇襲的一撃を以て大蔵府の要職を挿げ替えた。長官をセルアノとし、他の要職は平素より積極財政を主張する奇特な大蔵官僚達を据えた。
当然、機能不全を起こした。
当たり前の話であり、翌日から突然、組織の要職者の大部分を変更します。前任は怠慢により懲戒処分としますなど決めて組織運営が維持できる筈もない。急な方針転換に意思疎通の経験のない相手、要職者同士も互いに面識乏しい上に、降って湧いた要職の内容を詳しく理解できていない。
大混乱であった。
年次の予算編成が終わっている時期であったからとて、引継ぎもなく要職者の首を軒並み飛ばすなど狂気の沙汰ではなかった。
意見を聞けば不満が出る。それを見て付け入る隙や連帯できると踏んだ諸勢力が連合して改革が遅延するだけと見たトウカの果断である。問題は一撃で済ませて、混乱している様子を見せる期間を最小限に留めて民衆への不安の伝播を最小限にするというのは政治の基本である。無論、柵と支持母体の都合からそれを為せる政治家は少ないが、トウカには幸運にもそれを可能とする背景があった。
しかし、これが断行された理由は、北部の税制に対する配慮と、新たに大蔵府長官として就任したセルアノへの援護という側面が大きかっ た。
混乱する組織。
最高指導者と個人的友誼がある組織の長。
多くの場面で大蔵府官僚はセルアノを頼らざるを得なくなる。自然とセルアノの存在感と影響力は拡大する。それはある種の自作自演だった。
大蔵府官僚の既存派閥……経済政策を継続する為に面従腹背と妨害怠惰を試みる事は明白で、どのみち混乱するのであれば即位を巡る混乱と強弁できる時期に排斥すべきであるとの判断。来期予算編成が終わり、トウカ自身が対帝国戦役に於いて行った株式売買による莫大な利益と、企業からの献金を利用した臨時予算編成に口を出されぬように打った先手。
――とは言え、それも十全に、とはいかなかった様ですが。
株式売買は、数多の企業がトウカが保有株式を保持し続ける事が保障になると見て保持の継続を懇願した。全てを売却する事は困難で、現状でも七割は保有が続いている。トウカは方針を変えて株式保有している企業に軍備拡大の為の”献金”を募り、数多の企業も必要経費だと国家貢献を名目に大々的に相応の金額を拠出した。せめて出費するなら企業の印象向上を狙おうという商魂逞しい仕草に、トウカもいたく感動して見せて応じている。感動は無料であり、何故か誘蛾灯に群がる蛾の如く群がる者が多い。麗しい愛国的献身の一幕(茶番)である。
去りとてセルアノが臨時予算編成に口を出した。
軍事費の増加のみに掻き集めた予算を投じる事を大蔵府長官が断固として拒絶した。
トウカは国庫からの支出ではないので大蔵府が臨時予算編成に口を挟むのは如何なものかと応じたが、国内での迅速な兵力移動という副次目標を持つ交通網整備に寄越せと言われては旗色は悪かった。
セルアノは経済政策を優先した。
トウカが軍拡の為に用意した資金の少なく無い割合が流用され、天帝と大蔵府長官の綱引きは熾烈を極めている。互いに力量は認めているからこそ暴力による解決は生じなかったが、トウカ曰く、諏訪の奇祭の蛙の如くあの守銭奴妖精を串刺しにしたい、という発言は公式記録にも残されている。
資格があるにも関わらず、武装蜂起染みた方法で即位したトウカに対する疑念や畏怖は、セルアノとの遣り取りなどが広がるにつれて低減されつつある。
有用な意見には耳を傾け、優秀な人材を登用する事を優先する姿勢が広まりつつある結果である。セルアノが串刺しにされた日には、評価は即座に逆転するであろうが。
「好意などというものを当てにしろ言われるとはな……上手くはいかない。国家運営は俺の手には余るということだろう」
国営は即座に結果が出るものではなく、それはトウカも理解しているであろうが、 思うところがあるのだろうと、ヨエルは考えた。トウカは不明瞭な関係が多い官僚組織の運用に苦慮している。
情勢がそれを必要とするとなれば、如何なる無理も押し通される軍という特異な組織の運用を得意とするトウカからすると、奇妙に複雑化し、民間組織との関係が無数と在る官僚組織は複雑怪奇である。
上意下達の極致にある軍隊とは対照的である。
明瞭にして明確である事が全ての局面に於いて求められる。
無駄に複雑化して国益よりも組織の私益を図ろうとする官僚組織であるが、国営に必要であるが故に打倒という選択肢はない。去りとて制度を整えても、官僚はその分野の専門家であり、抜け道は次々と用意される。
トウカの外務府に対する仕打ちを見れば、それを理解した上で致命的な一撃を以て動いている事は明白であった。反発と反撃の機会を与えない。軍人であるトウカはその点を官僚に対して偏執的なまでに徹底していた。決して武略を適用しているからではなく、官僚の組織保全と私益を図る情熱に対する最大限の対処法と知るからである。
抵抗の大きい政策は長引かせてはならない。
多大な副作用が伴うとしても、一撃で済ませねば政務能力への疑義は長期化する。 政治的に見て最適解である。
無論、その規模と果断に於いて、トウカに比肩し得る天帝は皇国史上存在しなかった。初代天帝さえもトウカには及ばない。帝国とて実際は戦略爆撃に資源を集中させれば再起不能にまで追い込めるのだ。
しかし、政治の為に敵を欲するからこそ嬲り者にしている。
皇国臣民が異邦で積み上がる帝国人の遺体の数を目新しいものと見做さずに気に留めなくなれば、政治的成果として喧伝する旬を過ぎたとして地上侵攻を試みるだろう。その時期が来た際、十分な地上軍の編制を終えている為にこそ軍備拡大を急いでいる。
「上手く為さっていると思いますが? もう陛下の権勢を臣民は認めているでしょう。 この期に及んで要らぬ冒険をするのは得策とは思えません」
帝国侵攻は冒険に他ならない。
広大な領土に侵攻すれば、戦力は無尽蔵に蕩尽される事になる。それに応じる為、国家経済を傾ける程の兵器生産と徴兵が必要となるのは目に見えていた。
「敵国の首都を落せば――」
「――困りますね。私は陸海軍の将星ほどに愚かではありませんよ?」
首都を陥落為さしめて降伏……大団円となるのは出来の悪い小説だけの話である。
首都を軍靴で踏み荒らすまでの戦争ともなれば遺恨は大きく、感情面で降伏という決断はし難く、何より首都占領は政治面に於ける優位性確保に根差した軍事行動に過ぎない。つまりは軍事的優位を齎す為の軍事行動とは言い難い。無論、首都という大都市である以上、鉄道網の結節点であり、兵站を含めた巨大な策源地である事が多いが、それは大都市を占領する以上の意味を持たない。
寧ろ、大都市の占領は多大な危険性を伴う。
近代の大都市は鋼鉄と練石の摩天楼であり、人口密集地である為に攻防戦ともなれば住民の民兵化も想定される。閉所での咄嗟戦闘や建造物による高低差の多い戦域は兵力を投じても容易に占領できるものではない。地の利のある敵は容易に背面へと回り込む上、郷土を護ろうという士気もあって多大な被害を受ける事は間違いなかった。
首都が陥落すると降伏しなければならないという法則や真理がある訳ではない。
勝ち目がなくとも継戦は在り得るし、寧ろ輜重線に負担を掛けるという名目で積極的に首都という大都市ですら明け渡す可能性すらある。
――何より、あなたの祖国が、祖父がそれを為したではありませんか。
本土決戦に於ける東京放棄。
とは言え、戦時体制の中で軍都東京が一時的に首都となっていただけで、天皇は変わらず京都に居を構えていた。首都と言えど、軍事行政の都合によっての遷都でしかなく、それ自体が壮大な撒餌であった事も踏まえると、首都という大都市ですら時と場合によっては好餌に過ぎなくなると言える。
「軍は首都陥落を戦争の終わりと御行儀よく信じるというのに、宰相がそれを信じぬというのは皮肉だな」トウカは軽快に笑う。
自身も信じてもいない事を言うと、ヨエルは唇を尖らせて抗議の意を示す。
建前が分から程にトウカとその背景を知らぬ訳ではないヨエルは、そうした虚飾を望まない。
「戦争を知る軍人が信じ、政務を担う宰相が信じぬというのは面白いじゃないか……まぁ、そもそも帝国侵攻に落しどころがあるか、という話は流動的なものになる」
トウカは軍の信じる常識を信じてはおらず、そもそもトウカ自身が常識を覆す事で戦勝を重ねてきた実績がある。無論、それが有益である際は、軍事的視点のみで戦争を見るという狂気を持つという事でもあったが。
「衛星国を望むという話ではありませんでしたか?」
枢密院や陸海軍府はそうしたトウカの意向で戦時計画を立案しているが、トウカは個々に及んで流動的と発言する。
戦争で最初に戦死するのは作戦計画とは言うが、戦争前からそれを言い出すならば、 作戦計画の手直しをするのが筋である。
無論、こと戦争に関しては極めて有能な当代天帝が流動的という表現を用いて将来を見通せないと口にしたことは、ヨエルにとって少なく無い驚きであった。
トウカの軍事的才覚に対し、ヨエルが相応に理解を示せるのは長年の経験と、地球世界の流血の歴史を知るからである。他者が持ち得ない二つの要素を持ち得るからこそトウカの軍事的視野に追随できた。
しかし、戦争の終結を見通せないという点には同意できなかった。
首都移転を以て徹底抗戦したとしても限界はある。特に独裁的な国家であれば、武装蜂起による新政府樹立というのは最も考えられる出来事であった。
皇国には戦略爆撃航空団がある。
都市を焼かれても支持率が致命的なまでに低下しない事は第二次世界大戦が示しているが、交通網を各所で寸断して食糧と産業に於ける輸送手段を破壊したならば、国力は大きく減衰する。そうした状況で複数国による侵攻を以て分断すればよいとヨエルは考えていた。国際関係に於いて、恨みは分かち合うべきである。帝国全土の占領は不利益と遺恨ばかりでしかない。
トウカも当然、そうするものと見ていた。
少なくとも、帝国の降伏を皇国単独で成せない場合、他国を引き込めるだけの国力の低下を帝国に齎す事は現状の皇国軍にも可能である。
「降伏は国土を十分に統制できる国家が為してこそ意味がある。帝国が夥しい数の地方国家に分裂した場合、我が国は交戦国を喪ったまま、無数の地方国家との小競り合いを続けなければならない可能性がある」
交戦国の消滅。
トウカは降伏ではなく”消滅”と表現した。
去りとて国家が滅亡しても国土と国民が消滅する訳でもない。現地の有力者や逃れた軍人や政治家、貴族が各々の望む御題目を掲げて勝手 気儘に国家を名乗り始める事は疑いなかった。
そして、それを統制できる筈もない。
「あらゆる主義や思想の地方政府が乱立する可能性ですか……在り得るでしょうが帝国が帝国として降伏できるとは限らない……という事ですか……」
在り得る事である。
帝国政府が降伏に踏み切らない儘に崩壊。
その場合、衛星国の建国を優先し、衛星国建国の予定地域に侵攻軍を逼塞させるしかなくなる。
「臣民は認めない……いえ、占領地の維持を望む可能性がある事を懸念しておられるのですか?」
武名を以て実績としたトウカからすると、明確な戦勝という定義を喪った消耗戦など悪夢でしかない。
「自治を認めてはいかがでしょうか?」
「それは、俺も考えた……衛星国との格差をどう見る?」
諸々を端折った言葉の応酬。
ヨエルはトウカの懸念を察する。
察してしまった。
不特定多数のヒトを信じず、求め続ける生き物だと理解する英邁な天帝は帝国に住まう無貌の貧困層を恐れている。
「衛星国の建国を想定している地域はエルネシア連邦に面する地域……主に旧エカテリンブルク王国の国土となるが、そもそも穀倉地帯として有望だ」
現在は荒廃している帝国南東部だが、そこに梃入れして経済圏に組み込むというのはトウカのかねてよりの主張である。
――東方生存圏ならぬ北東生存圏ですね。
主張した人物と、それを理由に隣国に攻め入った第三帝国総統の定義は相当に乖離しているが、概ねは植民地という意味である。無論、奴隷労働となどという長期的には不都合の大きい真似はせず、トウカは経済的植民地として育成する心算であろう事は疑いない。
無論、最後には併合するであろうが。
「発展した衛星国の食糧事情も改善し、我が国からの工業製品を購入する事ができるようになる生活を周辺の地方国家がどう見るか。そういう事ですね?」
全ての地方政府を影響下に置く程の金銭的余裕は皇国にはない。無論、帝国の一部とはいえ、広大な土地を偏りなく発展させる経済力を持つ国家など現在の大陸には存在しない。何より不穏分子も混ざる上に、維持する土地の面積は治安維持能力の低下と比例する。
他国に付け入られる隙でしかなく、そうでなくとも反発や独立心からなる抵抗運動に端を発する不正規戦の勃発は避け得ない。独立心を打ち消し、懐柔できる程の経済発展を齎す事が不可能である以上、衛星国として想定している地域以外は放置するしかない。
「それにつけても金の欲しさよ、とはよく言ったものだ」
「我々は星条旗を掲げた成金の様には振る舞えませんね」
反共ならば手当たり次第に銭を撒いた米帝。
ヨエルとしては、トウカの意図を理解するが、恐らく衛星国に梃入れしつつ、他地域には武器を与えて対立を誘う事は疑いなかった。争い合わせれば、衛星国に目を向ける余裕はなくなる。寧ろ、争いに於いて勝利する為、武器を与える皇国が背後に居る衛星国に牙を剥く可能性は大きく低下する。無論、憎悪は招くが、それは先の話であり、帝国との戦争で喪った諸々を補うべく安易に手出しする第三国に矛先を逸らす事は難しくない。
「国外の有象無象に与えるなど捨て銭の極みだ。それを根拠に大蔵府長官が軍事費を削れと言い出しても叶わん」
乱立する地方国家や軍閥に意地でも金銭を投じたくないというトウカの意思。
地方政府や軍閥に予算を割く意味はない。
そもそも経済基盤が脆弱に過ぎて、相当の経済支援の必要性が生じる事は疑ない。挙句に最後は独立する。良き隣人を作る心算のないトウ力からすると、それは捨て銭でしかなかった。ヨエルからしても、皇国の国庫が耐え得るとは思えず、そして良き隣人となる資質を備えているとは思えないので、トウカの主張には頷ける部分もあった。
「当代無双の戦争屋の肩書に傷が付く訳だ」
「国内の好戦的世論を抑えられるかの懸念ですか?」
皇権を傷付けずに交戦国消滅を以て矛先を収める。
受けた被害と屈辱を思えば、衛星国成立だけで国民が納得するとは考え難い事を踏まえれば、トウカは難しい舵取りを迫られる。
「どうなさるお心算ですか?」
「……さて、どうしたものか」
妙案はないと言いたげなトウカだが、そうではないとヨエルは見た。
現時点で口にすると不都合が大きいので沈黙する。
明快な提言が常に最善となるとは限らない。
「なんだその目は?」
「いえ、陛下に妙案がないとなると各府も奮起するかと」
提案を以て国益を守り、存在感を示す好機とばかりに方策を練り上げるだろうという見立て。
ヨエルとしては、各府の活発な議論を呼ぶのは歓迎すべき事である。各府の組織間連携の欠如を問題視している身としては、各府が議論を行う名分としては最適なものであり、現在の皇国はトウカの知識と力量に依存した上意下達が過ぎる。最近は畏怖以上に提案に対して更に優れた対案を以て応じられる為に自身を無くしている府も存在する。
――旭日の帝国を知悉する者が相手では高学歴の官僚でも分が悪いでしょうから。
進んだ国で政戦の為に生産された人型戦略兵器。
勝敗は明らかであった。皇国の現状を知るという意味では天帝の権能がある為、官僚の知識的優越が乏しい事も挙げられる。より多くの試行錯誤を以て先を行く国家を知るという事は斯くも大きい優位性であった。
「自府の利益に繋げる為に屁理屈を捏ねるだけだろうに。余り期待しない事だ」
トウカの祖国を思えば……長期戦略不在の外務省や、政治への干渉と搾取するしか能のない財務省を踏まえれば官僚に対する不信感は致し方ない。
無論、皇国ではトウカの治世下、私益を図ること著しい官僚は次々と不審死している。法制度も厳格化しており、官僚と共謀して私益を図る事が命懸けであると民間も理解しつつある現状、汚職などの発生率は大きく低下していた。国家憲兵隊の権限拡大も大きい。
トウカの不信感に、ヨエルは組織健全化の好機だと諭す。
「ならば、上の首を挿げ替えれば宜しいのです。良い試金石となるでしょう。先ずは信じて任せねばヒトは育たぬものです」
「……一般的にはそうらしいな」
心に響く事はなかったのかトウカの返答は渋い。ヨエルもそれは予想していた。何かを任される事もなく、ただ狂信的な人物に囲まれる事で力量を得たトウカが、一般的な人材育成に心から賛同する筈もなかった。
去りとて理解はしている。
「官僚の教育制度改革は宰相が主導して行っている筈だが……難航していると聞いている」
ヨエルですら難航するという点をトウカが過大視している事に、ヨエルは他人の自尊心に対する配慮だろうかと苦笑する。
「一朝一夕で成るものではありませんし、そもそも分野も違う専門職ですから、其々の府や庁に合わせねばなりません。最適化には時間を要 するでしょう」
官僚と一括りに言えども、各府は各々の分野を纏める専門職に近い。そうでなければ官僚である意味がない。其々の府に合わせた人材登用や育成、人事制度、組織編制ともなると、その内容と規模は莫大である。
しかし、最大の理由は、そこではなかった。
「それに、組織の在り方について判断しかねている事も大きいかと」
「? それは?」トウカが首を傾げる。
自身の政治姿勢も既に広く知られている筈であり、今更、何を戸惑うのか。未だに私益を図る事に忙しいのか。
そうした感情を隠さないトウカに、ヨエルは、これは重症ですね、と苦笑するしかない。
実際、私益に関しては少々の目溢しは吝かではなく、公益を十分の確保して尚且つ、小遣い稼ぎ程度に私益を図る事もできる力量があるならば、トウカとて文句は言わない。
とは言え、それを可能とする力量があるなら官僚などになってはいない。一般企業で更なる高給を期待できる。ましてや今は国家主導とは言え好景気に突入しつつある。
しかし、トウカの疑念とは違う方向で各府は諸々の方針を決めかねていた。
ヨエルは、その内容を知っていた。
寧ろ、各府からの突き上げという名の相談を受けていた。
「各府は、その、申し上げにくい事ですが……将来予定している衛星国での軍政が失敗すると見ているのです」
政策が失敗すると、トウカに面と向かって言える者は少ない。
トウカの勘気を恐れてという以前に、トウカの提案が前例のない事ばかりである上、その卓越した政戦への力量は認めざるを得ないという部分が大きかった。
反論するにも、視点や知識が既存の大系から逸脱しているので議論し難く、視点と知識の基礎的な部分が異なる為に合意形成に多大な労力を払う必要があった。
決断する立場の者が尋常ならざる知識を持ち、上意下達で政策を進める。下部組織が尻込みするのは自明の理であった。
しかし、トウカは怒りを示す事はない。
「衛星国に関しては、分からぬでもない」
寧ろ、理解を示されてヨエルは困惑する。
――自信がない? 流動的なのである程度の混乱は避け得ないと見ているのでしょうか?
「衛星国という概念自体が想像し難いのだろう。属国に等しいが、そうは見えぬ程度には配慮するという程度の建前なのだがな……満州王国を目指している心算なのだが……一層の事、国家弁務官区としたほうが良かっただろうか?」
嫌な名前を聞いたと、 ヨエルは眉を止める。
国家弁務官区。
つまりはこの世の地獄。
地球世界に於いては独逸第三帝国の行政区分として悪名を馳せていた国家弁務官区とは、占領地に設置された統治機構であったが、奴隷労働と収奪の為の弾圧装置に他ならなかった。特に第二次世界戦後に豊かな穀倉地帯を有するウクライナに設置されたウクライナ国家弁務官区などは食糧生産の八割を独逸に出荷し、国民は一日に必要な熱量は三分の一程度しか摂取できないという地獄で、一時 期、人口は一〇分の一にまで低下した。幸いな事に二代目総統のアルベルト・シュペーアによる改革で順次緩和されて現在に至るが、未だ叛乱が恒例行事と化する程度には憎悪と混乱の尾が引いている。
迂遠に奴隷労働と過ぎたる収奪に切り替えれば単純明快で納得するのか、という問い掛けに、ヨエルは鼻白む。
「天使の翅が黒に染まる振る舞いを望むか?」
「反抗期にしては些かヒトの死が満ちていますね」
悪魔は存在しない。
少し世に嫌気が差した年若い天使が、翅を黒く染めて世間様に迷惑を掛けた程度の話が異世界で妙に大きくなっていると、ヨエルは頬を膨らませる。
――これも、あの勝手に天使の名前を使う邪教の所為ですね。滅べば良いものを。
ヨエルとしては、一々、揶揄されるのは業腹であったが、それ以上に勝手に自種族の名を利用した小説で宗教を形成している輩に対する憎悪があった。
後に星々の時代、特定勢力に対する苛烈な対応の根源の一つがここにあった。
閑話休題。
「陛下も衛星国が立ち行かぬと見ておられるのでしょうか?」
直截的な問い掛けだが、トウカは鷹揚に頷く。
それにはヨエル驚いた。
「建国だぞ? 宰相は皇国建国に当たって予定調和で物事を制御できていたか? そうではないだろう」
建国という大事業が元より難事である以上、安易に事が運ぶと考えるのは軽率の極みであるが、トウカの悲観的な発言には目を丸くする。それは家臣には本来見せないものであった。
本来、家臣に見せない姿を見られたことに満足感を覚えつつも、ヨエルは翅を揺らす事もなく応じる。マリアベルであれば皮肉が飛ぶであろうが。
「何より、密入国が横行する可能性が高い。それを煽動する国家や組織も現れるだろう」
それは想定されている事実である。
国土開発府の関心事であり、衛星国の開発にある程度の肩入れは覚悟しているが、それには限度があって然るべきであり、尚且つ地理情報の不足と軍事的安全が保障される地域とは限らない。本音を言えば、本土の開発も終えていない中で他国の面倒を見るなど御免被るという事である。
密入国が非武装で行われるとは限らず、国境の不安定化は開発を行う企業に属する作業者の危険や輸送費の高騰を招く。しかも、地理の把握から行わねばならない。帝国が正確な測量を行って地図を作製したとしても、占領の最中に喪われる可能性もある。帝国は分離再独立を恐れ、地理に対して不明瞭な部分を多く残していた。叛乱勢力の軍事行動の助けになる情報を用意すべきではないとの論法である。
無論、まともな地図のない土地を近代的に開発し、整備できる筈もない。そうした土地と住人を相手に交通網整備を始めとした計画を立案しなければならない。
国土開発府に戦死者が出ると囁かれすらいた。
不安定化は避けられない。
「食糧の安定供給を図れば、それを求めて帝国人が密入国を図ろうとするという事でしょうか?」
「そうだな。それもある。だがな、帝国か、或いは継承国か、群雄割拠する地方国家か口減らしとして衛星国に焼菓子を投げ付けるが如く難民を投げ付けてくる。その規模と武装により状況は変わるだろう」
衛生国は建国と同時に周辺諸国を敵性国家に囲まれる事になる。皇国側だけが安全であるが、エルネシア連峰が横たわる為に物資や兵力の移動には大きな制約がある。 無論、それは皇国にとり難民に対する防波堤となる事を意味する為、皇国側からすると一概に悪しき要素とは言えない。
「自国の負担を低減し、我が国に負担を掛ける最善の方法だろう。或いは難民の放出停止と引き換えに譲歩を求められる可能性もある」
難民を兵器扱いするかのような政策を当然の如く考え、それを相手が大規模に為すという確信。
ヨエルは難民の増加は、衛星国に国境警備隊の編制と梃入れで十分対応可能と見ていた。
――いえ、共産主義者の流入を踏まえると憲兵隊も編制する必要がありますね。
ヨエルは難民に紛れて浸透するであろう共産主義への対策も必要だろうと、思い当たる。
とは言え、帝国にも憲兵は存在し、衛星国建国に合わせてある程度は確保できると推測できるので一からの編制にはならない。土地と国民を理解し、国民の弾圧方法も心得ているので、実情としては増強で済む。
しかし、トウカはそうは見ない。
「三〇〇〇万人は覚悟するべきだろう。下手をすると衛星国の人口よりも押し寄せるやも知れん」
悲観的な数字である。例え帝国が健在で組織的な移民放出が在り得ても現実的な数字とはヨエルには思えなかった。
政情不安を思えば口減らしに熱心になるのは理解できるが、辺境への流刑や直截的な殺害で対応した場合と比較すると利益と手間は明らかに劣る。
無論、皇国に負担を掛けるという意味では大いに意義があるが、解決が儘ならないならば武力を用いた対応を取る事を躊躇しない皇国に地方国家如きが見え透いた手を使うとは考え難い。
見せしめに地方国家の幾つかが灰燼と帰するのは明白である。
「いや、あの女はやるだろう。俺よりも上手く愚者を上手く躍らせる見せるに違いない」
酷く愉し気に吐き捨てるトウカ。
ヨエルは困惑する。
「あの女……とは?」
トウカは肩を竦める。
返答はなかった。
それにつけても金の欲しさよ。
山崎宗鑑




