第三五七話 天使の計略Ⅲ
「我らが熾天使に斯様な一面があるとは……」
天翼議会に報告書を提出しても、こいつは疲れている、と再提出と療養休暇を申し付けられるであろう光景に、警護小隊の指揮を任されている権天使は溜息を零す。
実際、天議会は既にヨエルの前のめりでありながらも着地点の判然としないトウカへの姿勢を把握しており、良いのではないかという流れで纏まっている。寧ろ、皇権と天翼議会の結合を以て種族政治に於ける優位性を確保するという方針を固めていた。
「シルフィアーナ様、警護対象が動きます」
部下からの報告に、権天使は追跡を命令する。
警護小隊は軍人や軍属ではなく、天翼議会の私兵として常設編制されている部隊であり、天翼議会の警護や特務で運用される小隊の一つであった。一応、最精鋭として扱われており、権天使……シルフィアーナはその自負もある。
しかし、逢い引きの警護と言われて思うところがない訳でもない。
命令を受け、部下に説明するにあたって当たり障りのない表現とするだけでも多大な心労を覚え、面白がる部下や黄色い歓声を上げる部下を一喝するだけの気力を維持する必要性に迫られた。
――何が悲しくて下手糞な男への手段を見ねばならんのだ。
しかも、内容を心の内に留める事が難しく、部下の機密保持が絶対に果たされないだろうと考えれば憂鬱は高止まりと成らざるを得ない。監督不行き届きが明白な任務。完全な貧乏籤である。上意下達の天使系種族とはいえ、それは完全ではない。個々に自我と個性がある以上、文言の解釈は分かれる。
シルフィアーナは既婚者であり、男性との遣り取りも当然ながら経験者である。不器用で奥手で自罰的な性格の夫に対し、その矜持と自尊心を損なわない様に注意しながらも歓心を買う為に苦労したが、それでも眼下の熾天使の様に不器用ではなかった。
とはいえ、経験の差ではない。
天使系種族は恋多き種族とは対極にある。
寧ろ、生涯で一人だけと添い遂げるというのが普通であった。相手の種族を問わずに……種族的差異を問題視しない婚姻を結ぶ長命種としては珍しい傾向である。長命で伴侶をその寿命に対して短期間で喪う長命種は一度だけの恋に殉じるには、あまりにも長い生であり過ぎた。
兎にも角にもシルフィアーナには経験がある。
だからこそヨエルの動きに対して口をへの字に曲げざるを得ない。
「警戒を怠るな……と、言いたいが、これではな」
トウカに対して明らかに既知である者達が声を掛ける光景が散見される為、対応し難かった。
敬礼を受けて答礼する光景は模範的な軍人と見える。子供に対しても答礼している光景は微笑ましい。ヨエルも、トウカのそうした姿を寄り添って見守っているが、その表情は慈愛に満ちていた。
そうした光景は微笑ましいが、不特定多数との遣り取りを頻繁に行われるというのは警護側からすると負担でしかない。
「今のは同盟軍のハウサー大佐です。先程の男性はカリスト少佐ですね。妙に五月蠅い神父は恐らくラムケ大佐です」
皇州同盟軍の歓楽区画として整備されている区画の一角での遣り取りの為、軍人やいかがわしい神父が居ても不思議ではない。
ヴェルテンベルク領邦軍時代に、軍からの情報漏洩と民間に対する乱暴狼藉による軋轢を問題視したマリアベルによって軍人向けの歓楽街を用意した結果である。
面倒事は区画を作って押し込んでしまえとの発想である。
各店舗の従業員も退役軍人や軍人の家族、遺族で占めている為、問題を起こせば何処に話が繋がるか分からないという抑止力もあれば、困窮する軍関係者の就労支援とするという目的もあった。
「軍の区画である以上、安全と言えば安全だが……」
軍用歓楽街は、それはそれで危険に満ちている。酔漢の路上戦の過激化はその最たる一例であった。今この時もトウカに突っ掛かった酔漢(女性軍人)を恋する乙女(熾天使)が頭部を掴んで誠意ある説得をしていた。西瓜を割る様に頭部を破砕する事の出来る膂力に、若き天帝は溜息を吐いている。
――まぁ、義娘まで退けて踏み込んだ以上は何かしらの成果が欲しいというところだろうな。
天翼議会が、そこまでするのか、と恐怖を覚えた謀略……というには好機に於ける私益を最大化をしたに過ぎない行為に、シルフィアーナもまた戦慄を覚えていたが、同時に乙女の様に頬に朱を散らした熾天使の姿を見れば、愛国の配当として已む無しと思い直せる。
ヨエルは建国からこの方、皇国存続の為に陰に日向に活躍していた。それでいて政治権力を求めない、善意と愛国心からなる信頼を以て国政の一翼を担っていたのだから端倪すべからざる人物であると言える。
そうであるからして、少々の配当が権威者から与えられて然るべきと言える。
しかも、国庫は痛まない。
天帝の心胆を寒からしめる結果になるかも知れないが。
大蔵府の守銭奴妖精もび泣いて喜ぶ高効率の配当原資であると、シルフィアーナは確信していた。
実際、セルアノはヨエルとトウカが深い関係になる事で財務関連の動きを統制できなくなる事を警戒しており、神経質となっていたがそれを知る者は少ない。
守銭奴妖精も熾天使の弁舌と知性には叶わない。例え経済分野であっても。天帝不在の時代や国会の空転の最中に在っても経済破綻を免れていたのは偏にヨエルの暗躍の結果である。
「胃が痛い事だ……」
「更に胃が痛む情報がありますが、聞きますか?」
副官が気遣わし気に申告する。
幾星霜を経た乙女心を見守る会(私見)という任務だけでも、思うところが多々あるというのに、新たな揉め事の気配にシルフィアーナは嘆息するしかない。
「聞かない訳にも行かないだろう?」
「はい……見覚えのない部隊が展開しています……恐らく統合情報部の部隊かと」
狭い作戦区画に指揮系統の違う複数部隊が展開する。
しかも、互いに非公式の任務である。
控え目に見ても野戦指揮官の悪夢である。
「展開を確認できたのは偶然ですが……向こうの指揮官との折衝をする暇は……ありませんね」
アルトシェーラの手元の双眼鏡が悲鳴を上げる姿に、副官は神妙な顔をする。自身の未来の姿かも知れない故に。
「噂の高高度偵察騎や早期警戒騎の姿も見えます。役に立つとは思えませんが……」
「牽制だろう。それに非常時の航空管制も意図しているに違いない」
皇州同盟軍、教導航空団所属の騎体であろうことは容易に想像できるが、統合情報部の要請で作戦行動を取っているのか、皇州同盟軍司令部の思惑かまでは判断できない。
シルフィアーナは空を見上げる。
戦略爆撃騎としても運用される大型騎である事は確認できるが、実際のところは無数の火砲を搭載した対地襲撃騎という可能性も有る。天帝の傍に熾天使が存在するならば、周囲の被害を許容し得るという前提を以て鉄量で脅威を排除するというのは在り得る話であった。ヨエルの庇護があれば、少々の火砲による流れ弾など脅威ではない。
「事前に伝えていた筈なのだがな……念の為、或いは我々を信用していないのか」
「ただの出歯亀では? 陛下の身辺を把握しておくべきとの判断かも知れませんよ?」
嫌な意見を聞いたシルフィアーナは、心底とうんざりする。
統合情報部長であるカナリス中将は絵に書いた様な好々爺であるが、その策謀だけを見れば陰険爺に他ならない。皆がその好々爺然とした振る舞いに騙されるが、カナリスは情報を扱う術に長けている。陰で動くという点に於いては天翼議会に引けを取らない力量があった。
ヨエルがトウカとの関係に対して一定の配慮(多方向)があったのは、カナリスの存在も少なからず影響していた。
トウカの影を護っている存在がカナリスである。
些か自己主張が強く、トウカに対しても迂遠でありながらも直截的な言動が目立つが、皇国に於ける水面下の動きの一端を担うシルフィアーナからすると、カナリスはトウカを情報面と謀略面から支えていた。
中央貴族に対する多種多様な離反工作はマリアベルの頃より行われていたが、それはマリアベルの継承者としてトウカが兵権を握って以降、一層と過激になった。
トウカが危険視された理由でもあり、同時に中央貴族が団結して皇州同盟との政争に踏み切れなかった遠因でもある。
そこにトウカの意志が介在していたのか。
カナリスの好々爺然とした笑みから読み取れるものは居らず、そして今現在、周囲に潜む統合情報部の部隊もまた同様である。
「争うな。排除行動を取ってきた場合は後退しての警護に切り替える。天翼議会司令部に伝えろ。御同業と接触す、だ」
シルフィアーナは副官に、混迷しつつある状況を上級司令部に伝える事を命令する。
個人の関係の変化が国内勢力に変化を与えようとしていた。
「さてさて、困ったものだね」
貴公子然とした仕草を以て早期警戒騎の座席で紅茶を嗜む情報将校は、貴公子の如き容姿に僅かな嫌悪感を乗せて呟く。
画面結晶に移る若き天帝と熾天使の姿は優柔不断な青年を奇妙な事に気に入った美女という光景であるが、周囲は奇妙な事に二人の姿に不自然なほどに注目が集まっていない。
「呪いの類か……」
魔術の行使は確認されておらず、何かしらの種族的な特性や神秘の行使があったのだろうと推察できた。
「シェレンベルク大佐。出歯亀は順調ですかな?」
「ノナカ少将、上々です。心配性の老人もこれで安心するでしょう」
戦略爆撃の第一人者と目されるノナカに、統合情報部の出世頭は含み笑いと共に謝意を示す。謝意を受けたノナカも笑みが零れていた。
上司の私生活を覗くという愉快な出来事をに対し、好奇心を抑えられる性質ではない二人は、眼下で胃痛を覚える天使とは対照的であった。
「しかし、情報部も良い趣味をしている。これは職場を間違ったかも知れない」
ノナカの笑声交じりの後悔に、シェレンベルクもまた笑みで応じる。
「なに、これは有力な航空戦力あっての"偵察行動”です。情報屋だけでは難しい」
「では、これもまた諸兵科連合編制の強みと言う事ですかな?」
諸兵科連合編制を重視するトウカの下で活躍したノナカの言葉は示唆に富むとばかりに、シェレンベルクも鷹揚に頷く。
「正に。皇軍同士、協力し合う事の麗しさを見せる好機でしょう」
陸海軍と州同盟軍は未だに確執……とまでは言えないものの、微妙な温度差がある。帝国に対して共に対抗したという実績が歩み寄りを促したが、それ以前に千戈を交えた過去が消える訳ではない。無論、軍の職務に於いて重複する部分があるという点も大きい。トウカの下で皇州同盟軍と陸海軍は分業化が進んだとはいえ、皇州同盟軍は未だ艦隊も装甲部隊も有している。戦略爆撃航空団や潜水艦隊を主軸とするとは言え、 特殊任務に従事する即応性のある戦力を用意する必要があるとして、最低限の規模は維持されていた。
そうした関係を憂慮するトウカが現状の光景を見れば麗しき強調だと称賛するに違いないと、シェレンベルクは皮肉気に口角を歪めた。
実際、カナリスやシェレンベルクは統合情報部成立までは皇州同盟軍の所属であったし、ノナカは皇州同盟軍の下で戦略爆撃航空団を組織している。内輪に等しい。
しかし、懸念があります、とシェレンベルクは付け加える。
「白鴉風情が天帝に指図するのか? そうした反発がない訳でもありませんが……カナリス中将は、寧ろ熾天使に子を為す能力が備わっているか危ぶんでいる様です」
その点はシェレンベルクがカナリスとの会話の中で見出したに過ぎず、直接の言及はなかったものの、かなり強い危機感を抱いていると見ていた。最初、シェレンベルクはその意味が理解できなかった。
クレアもリシアも居る。
孕む腹が二つもあるというのに、何を懸念するのかというのは当然の感想である。
ノナカも同様であるのか、その表情には理解し切れないという感情が浮かんでいるが、かなりの間を置いて納得の感情に変わる。
「世継ぎができないと困るという事かな?」
シェレンベルクは気付くまでに三日要したので、ノナカの着眼点に情報部でもやっていけると内心で評価する。戦略爆撃航空団が都市を焼く事を思えば政治的影響と皆無ではいられない為、そうした方向に無知ではいられないという納得もあった。
「恐らくは熾天使に現を抜かして他の女性との間の子を設ける機会を逸するという点への懸念でしょう」
何せ絶世の美女である。
熾天使と、その他女性という扱いを受けても、女性が腹を立てない程度には外観に絶望的な差がある。
シェレンベルクはザムエルに匹敵する程に浮名を流している自負がある。現状、ザムエルの立身出世に伴って大きく水をあけられていが、ヴェルテンベルク領邦軍時代は双璧の異名を奉っていた。無論、軍事的実績に依るところではない。
しかし、そうであるからこそ、一人の女性に熱を上げるという事をシェレンベルクは理解しなかった。
ノナカは恋愛については一般的な感性なのだろう、とシェレンベルクは見た。
「しかし、陛下は中々、良い距離感を保っていると思うがね……今回もあの熾天使様が言い出した事だろう」
「まぁ、そうなります……しかし、御詳しいですね」
トウカがヨエルを懐に入れようとしているという疑念や警戒、好奇の声は少なく無い。宰相へ親補した事で歓心を買おうとしているという見方をする者も少なくなかった。
シェレンベルクは種族政治に於いて龍系種族の台頭を抑え、尚且つ飛行系種族が連携する余地をなくす分断工作だと見ていた。天翼議会がそうした特定種族の政治面での突出を避けるべきだと見たであろう事も大きい。
しかし、そうした天翼議会の皇国に於ける種族的公平性や、宰相職という立場を得て反発が起きず、力量不足を疑われないという要素を踏まえると、ヨエル以外の人選はなかった。
ベルセリカですら枢密院議長という半ば名誉職という立場となっている。枢密院会議に天帝が参加する以上、議長に司会進行以上の意味は乏しい。北部出身の剣聖が国家の枢機を担う議会を統括しているという状況を示す事が重要視されている。
ヨエルが宰相となる事は政治面から見て妥当な所であった。
しかし、その美貌が疑念を呼んだ。
事実を押し退け、現実感に乏しい主張が朝野を満たす程の美貌という事である。
――私としては、浮世離れが過ぎて近づき難いが。
芸術品に欲情するのは趣味ではないというのが、シェレンベルクの見解である。乱れる姿を想像できない女を組み敷きたいという感情が彼にはなかった。
――とは言え、こうした顔もできる様だが。
地上から転送されてくる映像に対し、シェレンベルクは意外の念を覚えた。
ヨエルの天使と形容するに相応しい慈愛に満ちた笑みは、シェレンベルクからすると無機質で張り付けたかのような仮面でしかなかった。完成されているが故に近付き難く、食指が動かない。
しかし、今は乙女の表情をしている。
「表情を見れば、背景など察せる。年甲斐もなく何一つ隠せていない。初々しい事だ」
「それは確かに」
人間種基準に於ける容姿と年齢が乖離しない笑顔と振る舞いを見れば、ヨエルが恋心を隠していないのは明白であった。護衛の天使系種族で統一された部隊の指揮官が頭を抱えている事が容易に想像できる。
――部下は平素からは想像できない姿に胃を痛めるか……囃しているかだろうな。
統合情報部の面々は軒並み後者であったが、種族的に見て責任感と実直を持って生まれたかの様な天使達の大部分が前者であろうと、シェレンベルクは見ていた。
実際のところ、天使達も半々程度であったが。
「ああした顔佳人に笑顔を向けられて肩を竦める程度で流しているのだ。女に溺れて政戦を疎かにする事はないと貴官も一安心だろう?」
「安心した後、逆に世継ぎが心配になる自制心だ、とでも言い出すでしょう」
カナリスは口にはしないが、トウカを息子の様に考えている節が有る。無論、国家指導者として遇しているが、その心配は決して国家指導者に対するものだけに留まらない様に、シェレンベルクには思えた。
「北部の年寄りは天帝陛下が可愛くて仕方がなと見える」
独り身で子供もいない老人達は、トウカを出来の悪い子供ではなく、出来が良過ぎて周囲に理解されない子供として庇っている節がある。
それはノナカも思うところなのだろう、とシェレンベルクも肯定する。
「自身が支えているとの自負もあるのでしょう」
ラムにエップ、レジナルドにカナリス。ダルヴェティエやフルンツベルクもそうした傾向がある。
「そういう少将も可愛くて仕方がないのでは?」
気安さの中にも信頼を見て取ったシェレンベルクはノナカのトウカに対する印象をそうしたものと捉えていた。
それは、大きく違えていなかった。
「俺はまだその境地には達していないな。近所の悪餓鬼の男気に感心している程度だ」
札付きの碌でなしが、帝国との戦争に当たって従軍して活躍するという逸話は無数と在ったが、実情としてそれは一握りであり、大部分は草生す屍となっている。平素から愛国心を抱かない喧嘩に強いだけの個人など、戦争という最先端の組織戦では指揮系統に組み込み難い荷物に過ぎなかった。戦場で名もなき草花の肥料となる運命は必然である。
そうした運命を生き延びだノナカらしい発言に、シェレンベルクは笑う。
筋者であったノナカらしい表現だが、シェレンベルクはトウカが軍人を武人として遇する姿勢に対する評価の様なものなのだろうと納得を覚えた。
戦略爆撃航空団を天帝直卒の皇州同盟軍に組み込んだのは、事実上の無差別爆撃に対する批判や異論の所在を明らかにする為である事は明白だった。
それは、戦略爆撃航空団の運営が阻害される余地を低減しようと試みたものである事は間違いないが、同時に戦略爆撃航空団の将兵に矛先が向かぬように矢面に立つという意思表示でもある。
陸海軍に対して明言された事実でもある。
シェレンベルクとしては、感心しない、の一言に尽きる。
国家指導者は、権威は傷付いてはならない。
代わりの運営者を緩衝材として挟む事で悪印象を軽減する程度は為されるべきであるが、戦略爆撃航空団の上位は天帝であるトウカ自身となっている。
皇州同盟軍の他の航空艦隊とも指揮系統は別なのだ。
無論、だからこそトウカは戦略爆撃航空団から軍事指導者として絶大な支持を受けるが、それは国家指導者としては弱点と成りかねない。政治的に見て綱渡りに他ならず、その点を不安視する者も少なくない。最たる例ではカナリスであった。
「では、悪餓鬼の逢い引きを出歯亀する我々は一体、何に例えるべきでしょう? 碌でもない例えになる事は間違いないでしょうが」
「さて……何せ任務だからな。例え間尺に合わずとも事に当たるのが軍人だろう」
軍務だから致し方ないという大義名分を以て若き天帝の逢い引きを出歯亀……監視する。
実に単純明快であった。
しかし、ノナカは邪推する。
「何か要らぬちょっかいを出すという役目は受けていないのか?」
情報部が顔を出す以上、そうした邪推がある事を疑われるのは致し方ないが、筋者も当てにならぬ助言で若き天帝を困らせた実績があるので、シェレンベルクとしては己を棚上げにした発言をされたようなものである。
「いえいえ、まさか。非常時の警護を仰せつかっているだけです。天使が狙った男に要らぬ真似をしては命が危うい」
「まぁ、そうだな…… 軽々しく手出しできる種族でもない」ノナカは容易く納得する。
天使系種族の恋愛に狂気の影が滲む事は市井でも良く知られている。美しく心映えの佳い乙女の代名詞とも評される天使達だが、一度そう在れかしと男を好いたならば尋常ならざる執着を見せる事でも知られていた。
焼餅や嫉妬というには見苦しくはないが、凄絶にして悲壮である。
最近は上辺を取り繕う術を身に着けた天使が多いが、その本質は種族が成立した頃より些かの変容すら起きていない。
天使の手を取らない事を天使は嘆きはするが、相手を非難する事も貶める事もない。
しかし、自裁する事もあれば、違う形で近くに侍る為に狂信的な努力をする。己の内側に原因と問題を見ると言えば聞こえはいいが、そうした動きそれ自体が大層な重荷である為、多大な心労を覚える男性も少なく無い。
健気と言えば健気である。
しかし、他の種族の恋愛とは少し違う。
その恋は忠誠染みている。
盲目とは違う、理解した上で求めるという覚悟。
「天使を上手く宥め賺せるならば、我らが天帝陛下の女性関係も進展が期待できるだろうが」
天使の恋心を利用する男に碌な末路がないのは戯曲に無数と在る通り、ありふれた真実でしかない。
非合法な立場であった経験のあるノナカからすると、利用できるならば天使を女として利用する事に躊躇はないのだろう。女に刺されるか敵に刺されるかという違いに然したる違いはないと、人生それ自体が博打と綱渡りであるという生き様。
筋者とはそうした者達である。
間尺に合わない真似をして、博打と綱渡りで意思を通す。
「去りとて筋者な真似は困りますな。国家指導者なのですから御行儀よくして貰わねば」
「何を今更。国家も追い詰められれば、為す事は筋者と変わらんだろうに。合法と嘯けば全てが赦されるというのが国家だ。羨ましい事じゃないか」
シェレンベルクの一般的な意見に、ノナカもまた真実を以て応じる。
国家は時に全てを合法にできる強権を持つ。そこに至るまでの難易度や制限、時間は在れども、非常時となれば法律も理屈も解釈で何とでも捻じ曲げられる。法的妥当性は国家の非常事態に優越しない。
「陛下はそれなりの理屈を用意なさるでしょう。帝国相手にすら用意して見せた」
悲劇という大義名分による大多数の合意を以て帝国諸都市を焼く。
天使を抱き込む為、そうした大義名分を用意しかねない程に惑う……懸想する事をカナリスが最も恐れている事は明白だが、シェレンベルクとしては眼下の光景を見ればそれは反対ではないかと溜息を吐くしかない。
「寧ろ、陛下の為に如何なる真似でもやらかしかねない熾天使を懸念すべきでしょう」
熾天使個人の恋ではなく天翼議会を以てトウカを支える姿勢を鮮明にしている以上、その恋は政争に他ならない。強い上意下達の特性を持つ種族である天使系種族の頂点を射止めた……執着された結果としては不自然な事ではないが、個人の為に天使系種族全体が動きかねない危うさはある。
最も種族として統率の取れた種族が個人の感情で動員されるのだ。
政治的に見て恐怖でしかない。
天翼議会はトウカへの支持をいち早く鮮明にしたが、それ以前は政治に積極的に関わる動きを少なくとも表面上は見せていなかった為、多大な警戒を以て見られている。挙句に対帝国戦役では陸軍内に怨ちに一派閥を用意して軍事行動に関与していた事も大きい。それは半ば恫喝という形で為された。ファーレンハイトも口を噤む程の出来事があった事は、その沈黙一つで察せる。
「議会を再開する噂も出ているが、そうなると天使が積極的に出馬しそうだからな……羽根付きばかりでは公平性も演出できまい」
中々どうして酷い発言だと、シェレンベルクは苦笑で応じるしかない。
公平性を演出する舞台装置として国会を再開するという断言がそこには窺えた。事実、そうした意味合いがあると統合情報部も見ているが、思想や政治姿勢は別として議員も頭と愛国心がそれなりでなければ意味がない。馬鹿が馬鹿をしていると臣民から見られては舞台装置としても扱えなかった。国会議員の質を無視できない。
トウカはそれで一度、失敗している。
右派議員の質を見誤ったのだ。
特定の政党が勢力として急進したならば、碌でもない面々も議員として混じる事になるのは避けられないが、その規模と下限を見誤った。臣民からの不満や批判が大きくなる前に、皇都擾乱に当たって早々に国会施設諸共に吹き飛ばしたが、それは苛烈な取捨選択であった。
右派勢力の拡大を望んでいたトウカだが、そうした右派の看板を利用した拝金主義者や特権に群がる面々を統制できないと見て纏めて処分するという即決即断で話を手仕舞いとした。
自身への批判が及ぶ前に、そして政治的混乱に容赦はしないという苛烈な姿勢を示す為、国政に関わる施設を灰燼と帰したのだ。
臣民は断固たる姿勢に喝采を上げた。帝国という脅威を実感した皇国臣民は、それを放置して叫ぶ政治家に理解など示さない。
右派の伸張を望めども混乱は許さない。
明確な姿勢を臣民は望む。
代償に政治に堂々と暴力を持ち込む姿勢が顕在化した事で政治家や文官は萎縮する事になり、反覆常ない貴族も紐帯を強くした。
そうした状況で出馬する者達が多数に上るとは思えない。
少なくとも私欲に塗れた者達が出馬する環境ではなくなり、天帝の殺意に晒されるとも理解している市井からの出馬も少ないと予想される。出馬するのは政治団体を始めとした国政に対する影響力を望む集団からの推薦者や、狂気に満ちた熱意を持つ人物となる事が予想された。
「去りとて、熾天使が望むのだ。羽根付きばかりが議席に座るなどと言い出す輩が現れでもしたならば、天使共は議場で自らの翼を引き千切りかねん」
過ぎたる忠誠心の代名詞として語られる様な出来事が常にトウカを利するとは限らない。
そうした懸念もある。
「そうした暴走を避ける為にも、陛下には熾天使を上手く満足させて貰わねばなりませんね」
好いた異性に振り向かれない者は時に倫理を踏み越える。それが天使であれば尚更である。
シェレンベルクは、そうした女性をよく目撃したし、上手く避ける術を身に着けていた。
しかし、それはトウカと同じ境遇にあったとしても発揮できる類のものでもなかった。
「貴官が指南してはどうだ? 経験も自信も実力もあるだろう?」
ノナカの意見にシェレンベルクは失笑を零す。情報部内で同僚達もそうした発言をシェレンベルクに無数と投げ掛けていた為である。
確かにシェレンベルクも女性関係を上手く回す自信がある。
情報部の職務を女性関係を利用して進めていた事も多い。
だが、高位種の女性を相手にしようとは思わなかった。
特に権力を有しているならば猶更である。
幸いな事に、高位種の女性……特に権力まで携えた者達は異性を一般的な感性とは違う視点で見る事が殆どである為、シェレンベルクは見向きもされなかったと言える。
それは、この上なく幸運なことであった。
そうした魅力に欠けていたと臍を噛む面々は総じて長生きできない。過ぎたる者に魅入られ、無遠慮に手を伸ばして打ち据えられる定めである。浮世離れした顔佳人でも触れられないならば無いも同じ。
シェレンベルクはそうした境地にある。
「危うい女性を避けることはできるでしょう。ですが、それは一般的な話。権力を携えた高位種の女性が明確な……狂信的な感情を宿して体当たりしてくるというのであれば、躱し様などありませんよ」
トウカはシェレンベルクが初めて見る類の男である。
実力を分野問わず振り翳し、奇跡を当然の様に纏う人物は種族問わず目撃した事がなかった。
ナニカがトウカを護っている。
そうした印象すらシェレンベルクは覚えていた。
同時に、シェレンベルクは権力を持つ高位種の女性がトウカに好意的な事は当然だとも考えていた。
不可能を可能にする、或いは先がなくとも意地を張れる男を好む傾向にある事は、長年の経験で察しており、何より種族という垣根を飛び越える振る舞いをしても尚、堕ちぬ姿に魅入られるのだ。
自らの力量に似合うだけの活躍は当然。
それを超える姿勢を示し、超えてしまった者を権力を持つ高位種の女性は好む。総じて、とは言えないが、大部分はそうであるとシェレンベルクは見ていた。
だがらこそ、ノナカの言葉はシェレンベルクにとり、御前が言うのか、という類のものでもあった。
「それは閣下が適任でしょう。当官は力量を超える冒険をしませんが、高位種は閣下に好意的であられる」
筋者の論理を通し、利益ではなく仁義を優先するノナカに好意的な高位種は少なくない。無論、実績を挙げているという前提があってのものであるが、困難を自らの力量と意志で打ち破る姿勢こそを高位種は愛する。
「それは我が龍達の事か? 戦略爆撃騎の規模を考えると転化した中位種や高位種の龍系種族が最適というだけだ。軍事的合理性の産物に過ぎんよ」
僅かに揺れを増す早期警戒騎。
愛騎は不満な様ですね、と言う程にシェレンベルクは子供ではないが、自身よりより上位の種を統率するには、 無自覚な勇敢もまた条件なのだろうと納得する。若き天帝がそうである様に。
必要でないなら戦野に身を晒さないが、必要であるなら、或いは損益の上で利益が勝ると見れば躊躇がない。恐怖という感情はそこにはない。或いは非情の時であっても、そうした感情を完全に制御している。
シェレンベルクとて水面下の陰惨な暗闘である諜報活動に従事する事もある身であり、感情を抑え込み軍務に当たる場面は多い。
しかし、戦場で砲火に身を曝すというのは、より直截的にして根源的な恐怖への対抗に他ならない。暴力を超えた火力の前に立つ以上それは明白である。
――人間の陰湿を最も恐れる者も居るが……
塹壕に籠って数百門規模の対砲迫射撃を経験した事がないからこその発言である。
シェレンベルクは帝国軍と皇国軍の熾烈な砲兵による火力戦に巻き込まれた経験があるので、その恐怖を良く理解していた。
「勇敢な男に佳い女は群がるという話ですよ。難しく考える事はありません。そして、 高位種は銭や容姿に惑わされる事は少ない。本質的な部分をを愛すると言える」
だから騙し難く、その気にさせることが難しい。
故にシェレンベルクは高位種の女に近付きたいとも思えない。万が一、その気にさせてしまっては躱せないという部分もあった。それは自然災害と同等である。
「そこらの女は騙し遂せると言わんばかりだな?」
高位種以外ならば、実績があるシェレンベルクはノナカの言葉に肩を竦める。
「自信も実績もありますよ?……ただ、熾天使の騙し遂せないであろう強固な感情は、意志の強さという一面もあるかと。一歩間違えば、男が間違っていても、全てを知った上で共に進むかも知れません」
皇国史を見れば、多々ある出来事でもある。
愛という感情は道理を優越する。困った事に高位種が寄り添えば、道理を退かせる場面も多々あった。無論、経緯は違えども、行き着く先は変わらない。去りとて周辺の被害は増大する。
「熾天使様にもそうした危険性がある。そうした危険を持つ情報将校は多いのです」
「まぁ、あの姿を見ればな」
二人して画面の中で若き天帝の腕に絡み付く熾天使を一瞥する。
政治的公平性や愛国心に於いては比類なき種族とされていたが、当代天帝の御世となって以降、そうした点に疑義が生じている。トウカの政治思想や政策前提の姿勢に突如として変化した事は、ある種の恐怖すら伴う程の変化であった。
苛烈無比な政治姿勢は以前の政治姿勢と相反する部分も多いが、それらを、皇国の基準は天帝に在る、と纏めて一蹴した事は驚天動地の事実として貴軍官民を問わず多くの者に衝撃を齎した。
しかし、天使は国益の為に動く。
より大きな国益を提示されたならば同意する事は不自然な事ではない。
特に北部出身のカナリスやシェレンベルクからすると、より客観視していたが故に驚きはなかった。寧ろ、政治的公平性を謳う者達と違い、トウカが国益に資する部分を提示したへの驚きこそが大きい。具体的な主張とは政治的危険性を伴う。
そして、天使に取り愛国心とは国益である。政治的公平性を語る慈愛の表情など、愛国心を根拠とした国益の為の棍棒に過ぎない。
トウカはより強力な棍棒と国益を提示した。
その結果として天使の翻意に成功した。
実は、この点こそが転換点だと統合情報部のカナリスなどは見ており、それを説明されたシェレンベルクもその視点に同意した。
天使を翻意させられねば、外征は儘ならなかった。
軍拡はトウカの莫大な資金を原資として可能であるが、戦時法や戦時生産体制の整備に関しては政治力が必要であり、トウカやその支持勢力……北部貴族と陸海軍のみでは困難であった。七武五公の大部分が旗幟を鮮明にしたのも、天使の積極的な賛同によるところが大きい。
皇国臣民もトウカに武名以外の点を見たのも、天使系種族の積極的支持を得た点が大きく、決して外圧を撥ね退けた有能な軍人と言う側面だけでは大多数の支持を得ることはできなかった。
「陛下が違えぬ内は良いのです」
「それは大胆な推測だな」
シェレンベルクの指摘に、ノナカはわざとらしく目を見開く。
股肱の臣として思いもよらなかったと言わんばかりの仕草だが、相応に近しいノナカであればトウカを過剰に大きく捉えていないであろう事は疑ない。間違わぬ者など居ない。
幾ら神々の推認を受けたとはいえ、細部では小さな間違いもあるだろう。更に大胆な予想として、そもそもヒトから見た莫大な被害すらも神々は小さな間違いとして、許容し得る被害として織り込んでいる可能性がある。
「我々は奇跡的な情勢で奇跡の様な国家指導者を奇跡の様な経緯で得ました。しかし、全てを委ねるのでは、陛下が失われれば全てが崩壊しかねない」
先代天帝崩御後の混乱を思えば、それは決して縁遠い話ではない。
「国会も役に立たぬ状況では軍政も已む無し、か……」
「さて……当官には何とも……」
七武五公は、トウカが喪われた場合、その政策を堅持するか変更するかの判断で揉めるとシェレンベルクもカナリスも見ていた。
宰相であるヨエルを旗頭に陸海軍が軍政を敷くという案が統合情報部内では密かに立案されていた。
――怒れる熾天使が正常な判断を下せるとは思えないが……
トウカが喪われて平常心を保てるか、シェレンベルクは眼下の光景を踏まえるに困難なのではないかと見ていた。
激怒して更に苛烈な対外政策に及ぶ可能性も否定できない。
「やれやれ、ただの出歯亀が大きな話になる」
ノナカがぼやくが、シェレンベルクは黙殺する。
国家指導者にも私生活はあるが、それが政争に影響を及ぼす事もまた避け得ない。
それを知った上でヨエルがトウカに近付いているのだとしたら、シェレンベルクは高位種の女は心底と私生活で相手にしたくないと思わざるを得なかった。
別名、出歯亀の会




