第三五五話 天使の計略
「驚くべき事態だ」
トウカは執務机に頬杖を突いて溜息を吐く。
不気味なまでに沈黙していたヨエルは、 嫋やかな笑みの儘に沈黙を継続している。判断に天使の色が付く事を嫌ってか、或いは合意形成を図るまでもないとの意思表示か。トウカは眉を顰める。
対するネネカは興味津々とばかりに掛け寄ってきて執務机越しにトウカの対応を期待していた。
「シャルンホルスト大佐、どう見る? 神州国は提案に乗るだろうか?」
トウカとしては、別に神州国の侵攻先が連合王国であれ部族連邦であれ消耗を誘えるならば構わないと考えている。連合王国であれば、より利点が増えるものの、それでも尚、神州国は部族連邦が戦力分散している今を好機と見て部族連邦に襲い掛かる可能性は十分にあった。
「どちらでも問題ないかと。ただ……」
「ただ?」
言葉を濁したネネカに、トウカは続きを促す。
トウカがどちらの国も不幸と成っても構わないと考えている理由をネネカが察しているのは明白であったが、その程度で言葉を濁す枢密院議長附ではない。
「……連合王国との小競り合いを起こしたのは、やはり総動員の理由を欲したからではないでしょうか?」
「戦線を増やしてまで……いや、共和国戦線で手一杯と見れば……在り得る事ではあるが……」
腐った納屋の扉を蹴飛ばす程度の手間で、総動員の根拠を国内外に対して得られるのであれば採算が合うと考えるのは不思議ではない。連合王国は共和国との戦争に注力しており、結果として泥沼化の様相を呈している。共和国軍の遅滞防御の前に、連合王国軍は旧態依然とした編制と指揮で突破や包囲の機会を得られないでいる。
散兵戦術を行えるだけの技術と編制、装備を持つ相手に戦列歩兵の真似事をしている以上、当然の結果と言えた。挙句に領邦軍の混成ともなれば、指揮系統の混乱は明白である。
――実際、腐った納屋の扉であるかは後世にならねばな分からないだろうが。
共産主義者の抵抗を知るトウカからすると、腐った納屋が立て直しを図って要塞に転じる可能性はないと言い切れない。
戦線を押し上げる意図もなく、保持できれば十分と考えるならば、その為に投じられる各種資源よりも、総動員による軍備拡充による国防体制の盤石化を優先するのは在り得る話であった。何より、共和国との関係深化は神州国に交戦を躊躇わせるだけの衝撃がある……かも知れない。敵を早々に得ることで国内の結束を図り、非常時ゆえの強硬政治を通す根拠とも成り得る。
――神州国の熱狂次第だろうな……
国家が常に合理的な選択をする訳ではない。
「総動員か……我が国では避けたい話だな」
戦時経済は弊害が大きい。
民間経済へ戻す事も容易ではなく、経済成長の足枷となって長期間、経済を停滞させかねない。第三国として兵器輸出を推進する程度が、本来は経済的に見て最適解である。
ネネカは首を傾げる。
「? 長期間の戦争を御望みではないのですか? 非常の時の連続を以て、政敵を排除する大義名分とするかと考えておりましたが」
酷い問い掛けにトウカは軽快に笑う。
そうした意図もあり事実である為、非難には当たらないが、相手次第では勘気を蒙る問い掛けでもある。ネネカからそうした質問が飛ぶことをトウカは歓迎した。活発な意見は独裁的体制下で千金に値する。
「その点もまた事実であるがな……やはり、国家は経済在ってのものだ。国民生活が困窮する程の経済情勢の悪化を前提に戦争はできない」
経済や産業を本格的な戦時体制とせずに戦勝を齎す事が望ましい。国家の全てを戦争に投じて、それに勝る利益が得られるなど絵空事である。 戦勝後に苛烈に収奪をしたところで補いきれるものではなく、苛烈な占領統治が新たな戦火を呼ぶことは歴史が証明している。
「大陸横断鉄道に人的資源の確保……別に戦争の為だけではない。まぁ、戦争に銭が要るからこそ経済発展を重視する訳でもあるが」
戦争の為の経済発展であるが、経済を擲つ程の戦争をしては意味がない。
トウカ自身の殺意や悪意もあるが、少なくとも国家に有益な戦争であるという理由は用意する必要がある。そして、その理由が正当性を喪わない程度には、経済情勢が国民生活を脅かす事のない様にしなければならない。言うは易いく難事でもあったが、戦争は近代化により国家経済に多大な負担を要求する。
「宰相は、どの様に……何か問題でもありましたか?」
沈黙するヨエルにネネカが話題を振るが、ヨエルはいかにも乙女が怒っていますという表情で沈黙している。怒っているという主張をしつつも愛らしさも表現している。 トウカは、年の功だ、と素直に感心した。
「陛下、私、怒ってます」
両手を腰に当てて頬を膨らませる熾天使。
トウカは自身の振る舞いに心当たりがない為、クレアの事だと見て嘆息する。
「なんだ? また娘を引っ叩いたのか? それとも反抗でもされたか?」
座敷牢に投げ込んだのだから確執の一つもできるだろうと、トウカはうんざりする。去りとて最適解であった事も事実であり、トウカとしては座敷牢の中でも憲兵総監として執務に追われるクレアを憐れむ事はない。寧ろ、自身がアルフレア離宮の地下から殆ど出る事がない為、自身と然して変わらない境遇になった程度と考えていた。
「それは大丈夫です。悪い友人に使嗾された事は反省していますし、神州国の問題が生じれは、あの子の状況など誰も気に留めなくなりますから」
その時が座敷牢という非公式の罰を終える状況か、とトウカは感心する。愛らしく怒る程度で済むなら、怒りに任せてフランシアを事故死させる事もないだろうという安堵もあった。現役大統領の娘を皇国宰相が謀殺ともなれば対処し難い。リシアの場合は協商国へと送った為、トウカは比較的近しい関係者の生命の危険はないという打算があった。
「そうではありません!」
トウカもネネカも理解しかねると困惑するしかない。
「時間です! 本日の予定です!」
言い募るヨエルに、 トウカはネネカへと問う。
「??? 大佐、この後の予定などあったか?」
「ああ……いや、確かに、そう言えば……冗談ではなかったのですか? そうですか? 護衛は……ああ、天使の皆様方が……」
ネネカはヨエルへ問い掛け、酷くうんざりとした表情で得心する。そして、トウカを心底と軽蔑した表情で一瞥すると溜息と共に説明する。
「先の枢密院会議で逢い引きが何とかと……」
「あれか……冗談ではないのか?」
内容次第では謁見の間でもう一度、お漏らしさせるぞと言わんばかりに眉を顰めていたトウカだが、それを言われては弱いとネネカも眉尻を下げるしかない。
枢密院の面々は場を良好にする為の冗談と笑った。トウカもそれを見て苦笑した。仕方ない天使だ、と。
「本当に行くのか?」
実際に逢い引きを望むにしても、視察などと建て前を付けるに決まっているという先入観から枢密院の面々は熾天使が場を和ませる為に冗句を口にしたのだと軽やかな笑声と笑顔と共に黙殺した。
指定した時間が、トウカの自由時間だった事も大きい。
トウカの自由時間。
皇国内の政治勢力が恐れる自由時間である。
それは休息や個人の時間を意味するのではなく、水面下での動きを計画立案する時間だと見られていた。
実際、トウカの隷下にあり事実上の近衛軍と化している皇州同盟軍の極秘作戦や謀略など……枢密院ですら関与できない、或いはさせない内容を吟味、或いは計画する時間という側面もある。ヴァンダルハイム侯爵令嬢に対する計略なども、クレアやヨエルと、そうした自由時間を以て計画された。
しかし、今回ばかりは本当に自由時間の心算であったトウカとしては眉を顰めるしかない。
――シラユキの相手をしようと考えていたんだがな。
気が付けば、トウカの膝上に座り枢密院にも参加しているシラユキは高齢の参加者には特に人気であった。枢密院の潤滑油として機能している側面もあるので、トウカとしては騒がない限りは英才教育の一環だと許容し続ける心算である。
トウカは皆の好意を勝ち得つつあるシラユキを無下に扱えない状況となりつつある。実績と酷烈からなる畏怖による委縮を軽減する動きの一役を買っているということもあり、トウカとしては有難い存在でもあったが、狐女とは恐ろしい、という諦観もあった。
ヨエルは溜息を吐く。
「私では御嫌ですか?」項垂れる六枚の翅。
ここで、外聞が悪い、などと本音を口にすれば天帝と宰相の間に亀裂が入りかねないという事もあるが、ヨエルとクレアの関係が拗れる事をトウカは望まなかった。無論、どう転んでも関係が複雑化するのではないかという疑念もあったが。
「着替えてこよう……」
まさか、元帥号の階級章や諸々の略綬をそのままに外を歩く訳にも行かない。それはヨエルも同様であった。
「警備は天使の方々が為されるようですから、鋭兵は帯同させないように通達しましょう」ネネカが配慮を見せる。
ナニカあってもトウカは逃れられないし、目撃者もヨエルの配下だけになるのではないか。そうしたトウカの懸念を理解できない訳ではないが、皇州同盟軍の鋭兵への配慮をネネカは優先する。或いはヨエルの歓心を買う為か。
「では、シャルンホルスト大佐。私が帰ってくるまでシラユキの面倒を見ておいてくれ」
子供の面倒を見ろと、トウカは命令する。
「当官は子守りではありませんが……」
「職業選択の幅が増える好機ではないか。期待している」
職業軍人の再就職先は限られているので、実績が増えるのは悪い事ではないぞ、という建前の下で、トウカは子供の無邪気と無秩序をネネカに押し付ける。何かあれば転職である、という脅しでもあった
「……了解しました」尻尾を丸めて狐耳を寝かせたネネカ。
それだけで悪い事をしたと思わせるのだから、トウカとしては陸軍の人事は妙であった事を証明していると感心すること頻りである。陸軍府長官の心労を以て毛根に負担を掛けたいとトウカは考えたが、ファーレンハイトは先んじて禿頭になっていた。端倪すべからざる機略戦の才と言える。
「宰相も着替えてくるといい。その姿では目立つだろう」
純白の六枚翅を魔術的に隠蔽したとしても、青を基調とした天使系種族の種族衣裳と、その秀でた美貌は人目を殊更惹き付ける事は疑いない。トウカだけが身形を努力しても意味がなかった。
無論、女の身嗜みを整える時間が非常に長い事を知るからこその遅滞戦術でもあった。トウカの周囲では私生活まで職業軍人となっているリシアやネネカくらいが例外である。尚、クレアは必要な際には徹底して時間を掛ける。その背を見ていたトウカは良く知っていた。そして、トウカを待たせる不手際は見せず、予め用意する周到さを見せている。妖精は大和撫子であった。
「分かりました。では、外で御待ちください。大丈夫です。何処にいらしても駆け付けられますので」
存外に、逃がさない、という言葉を聞いた気がしたトウカは、ネネカの頭を撫でて鷹揚に頷く。狐を撫でると気分が上向くのは一般常識である。
トウカは致し方ないと、執務室に隣接する私室に向かって歩き出す。
「うーん、この」
緑色の飲み物に、トウカは既視感を覚えて天を仰ぐ。
抹茶である。
あの大日連が首都である京都では、狂った様にあらゆる御菓子や飲み物に混入している緑色の粉末である。普段は中心部以外を下界と呼んでいる上級国民が、彼らが言うところの下界である宇治が主な生産地の抹茶をそれらしく嗜んでいる姿に辟易としていた記憶がトウカの脳裏を過る。
因みにトウカの実家は鞍馬である為、尚更に下界であり、天狗が屯している山という扱いであった。そうした辺境を笑う癖、地価と物価の高騰に耐え切れず植民地である近江に新居を立てるという都落ち勢が多い事は嘲笑沙汰である。無論、大津京を例に出して盛大な言い訳をする雅な方々との接触の機会はトウカに少なかったが。
――親父の祟り、もとい影響がここにも……
抹茶など調子に乗った茶道家が切腹しなければ、歴史に埋もれた飲料であると思ったトウカだが、口にしてみると甘味料も随分と幅を利かせているのか暴力的な甘みがある。風味の影は僅かしかない。
――フラッペ? フラップ? だったか? あれと似ているが……
周りを見れば女性客や恋人同士が多く、黒の三つ揃えの背広に山高帽という姿は浮いていた。酒種で名前を呼び合う如何わしい秘密結社の人間にすら見える。
嘗てのフェルゼンでは然して目を引く格好ではないが、安全保障面での安定が芸都や皇都という流行の最先端都市からの流行の流入を齎した。実用性よりも外観を重視するだけの余裕が生じつつあると言える。
本来であれば、酒屋にでも行くべき場面だが、昼間から酒場で麦酒を嗜みながら黒づくめの男が女を待つという場面は外聞が悪い上に、ヨエルも臍を曲げる事は疑いないのでトウカが配慮した形である。
そして、ずるずると甘味料を啜るトウカ。
甘過ぎて気怠さすら覚える味にうんざりするが、 同時にトウカの紫水晶の瞳は斜向かいの建造物最上階の雨樋に不自然な揺れを捉えていた。
――光学遮蔽魔術の上位術式か……幅があるという事は有翼種……天使だろうな。
翼がある都合上、それを隠蔽する為、横幅のある術式を展開しなければならないという都合上、その特定は権能による解析がなくとも容易であった。翼を畳めば隠蔽の規模を低減できるが、飛行に移るまでの時間が増加する事を嫌っている……つまりは臨戦態勢と言える。
「天使に囲まれると駄目人間になるとは言うがな」
散々に甘やかされた挙句に何もできない無気力な男になるという伝承らしく、実際に現在でも天使系種族の挺身や献身、健気にはそうした狂気が滲む。
天使系種族を嫁に貰う事が理想と言われる所以である。
宰相への依存を戒める天帝。
――まぁ、ミユキを喪った事への憐憫もあるのだろうな。
その隙間を埋めようという献身。
「この隙間は血涙のみが埋められるというのに……」
本質的にはクレアとの遣り取りも傷の舐め合いに過ぎず、それは何かを癒す行為ではない。少なくともトウカはそれを後になって理解した。快楽と代償は狐の形をした傷跡を癒さない。
「揃いも揃って要らぬ気遣いをする」
余りにも酷い甘みに飲むのを諦めたトウカは溜息を吐く。
ただ、書類上に記される敵国の悲劇と数字だけが傷を癒すと、トウカは信じて疑わない。 「下品な甘さだな。どいつもこいつも慎みを知らん」
トウカはそう吐き捨てると、深緑の飲料を机に置く。
そして、その声の主には、机に影が差すまで気付く事はなかった。
「あら、では私が頂いても?」
「……構わない。慎みが……」
声の主がヨエルである事を理解していたが、視線を向けた先に居たのは平素と違う衣装を纏ったヨエルであった。
純白の長衣は皇国の衣装の傾向に多い布を多用した服飾とは真逆であり、簡素で一切の虚飾を排している。足元まで延び、脚の肌は見えず、腕は見えるが、それは自らを着飾るのではなく、身に纏う者を邪魔せぬようにとの印象が滲む。自身の容姿を理解しての選択であることは間違いなく、今は見えない翅を展開に邪魔せぬように背は大きく開いてもいた。麦藁帽子から覗く目元は何時もの嫋やかな笑みで隙はなかったが、普段の重層的な種族衣装と違う為、身体はより華奢に見える。
「こういう時は、似合っている、と言うのが儀礼だと、君の義娘に教えられたが……必要か?」トウカは深緑色の液体を差し出しながら問う。
受け取ったヨエルは嬉しそうに口を付ける。
「大丈夫です。視線と表情で分かるものですから」
その程度の時は生きています、と嫋やかな笑みで答えを既に得たと語るヨエルに、トウカは遮光眼鏡を掛けて抵抗を試みる。ヨエルの容姿に周囲に漣の様なざわめきが起こりつつあるが、同時にそれは会話の相手が如何わしい黒づくめである事も助長させている。
トウカは立ち上がると、 ヨエルの手を取って店を出る為に進む。
「宜しいのですか?」
「銭は払った」
「いえ、手など繋いで、という意味です」
「そこまで純情ではない心算だ」
思春期などというものは圧し潰されて久しく、トウカとしては自身にそうした期間はなかったと自負している。
「そうですか……なら、こういうのはどうでしょうか?」
トウカの手を引き寄せ、抱き着くように腕を絡めたヨエル。
ミユキで散々に経験したものであり、特段と驚くものではないが、浮世離れした容姿が近くにあるというのは心中穏やかではいられない。権能の一端である精神凍結の補助あっての平素からの振る舞いである。
「あの娘とはこうした事はしませんか?」
「照れているのか、手を繋ぐにしても小指だけを掴むだけだな」
ヨエルの問いに、トウカは要らぬ半畳を挟む事もなく応じる。
クレアの場合それ以上の行為にも及んでいるというのに、初々しさを喪わない姿をトウカは好んでいた。憲兵総監としての振る舞いからは想像の付かない姿であるが、清楚可憐な容姿を思えば、そうした姿こそが本来の姿であるのかも知れない。
軍装は個性を覆い隠し、軍事教練は個性を摩滅させる。
「あら、あの娘ったら……」
思う程に積極性を見せ切れない娘に対してヨエルは流麗な眉を跳ね上げる。教育の不備を嘆く母と見るには、トウカは母という存在の仕草を知らないが、少なくともヨエルの予想外がある事だけは理解できた。
「男女の仲など偶然の産物だろう? 無理に備えさせるのは感心しない」
作り物の出逢いというものをトウカは信用しない。特に権力を得て以降は、それが如何なる意図から発したものかという疑念が付き纏う。権力者の恋愛は政治化を避け得ない故に。
「愛などその身一つで成せることなのですから、どの様に生じるかなど考えるだけ不毛ですよ?」
「君の様にか?」
大通りの歩道を歩く中で、トウカは皮肉気に頬を歪める。狂相と遮光眼鏡という姿に周囲の歩行者が軒並み距離を取る。ヨエルと腕を組んでいるが故に歩行し難い為、トウカとしては幸いな事であった。
「そうですね。困った事です。ふしだらな天使と笑ってください」
屈託のない笑み。愉しくて堪らないという表情に、トウカは毒気を抜かれる。無意味な皮肉ほど格好の付かないものはない。
「貴方は御父様と比較されること、似ていることを基く気にされていますが……僅かに面影があるくらいですね」
面影も落ちらかと言えば母親側の血が色濃く出ていますが、とヨエルはトウカの横顔を見て首を傾げる。
トウカは虚を突かれた。
父親である初代天帝を意識している事を察している事は驚くに値しないが、母親に特に似ているという評価に関しては初めてであった。
「面影も性格も……どちらかと言えば母親に似ています。良きにつけ悪しきにつけ」
良い面も悪い面を母親から引き継いでいるというヨエルの言葉に、トウカは大いに興味を惹かれた。早世した母親との記憶が殆どないトウカからすると未知であり、自身がそれと類似しているともなれば尚更である。
「狡いな、君は。俺の知らない俺を知っている」
「天使ですから」
機嫌を損ねては真実を知ることができないと、会話と関係の主導権を取りに来たと見たトウカだが、ヨエルは天使であるという事実のみを以て応じる。
「好きなヒトの事は何でも知りたいのが天使なんですよ? だから私は貴方を知っている」
追跡者 (ストーカー)ではないのか、という言葉がトウカの脳裏を過ったが、その知識の幅を見れば強ちそうした評価も違えたものではないと沈黙を余儀なくされる。
「面影は兎も角……性格か……」
嘗ての世界でもそうした評価は皆無であった。
親族との関係も、藩であったとされる母親と比較すると見ていたトウカだがそれ以外の側面もあるのかも知れないと思い直す。
「最初は、政戦の視野や果断をあのヒトに似ていると思っていましたが……親しくなった女性を邪険に扱えない所や、お酒が大好きな所や……直ぐに話を大きくしてしまうところとか……」指折り数えるヨエル。
最後の、直ぐに話を大きくしてしまう、という点を口にするところに僅かな巡があった事をトウカは見逃さない。混乱を大きくし、その中で利益を掬い上げる政戦への疑義と重なる事に対しての逡巡であろう、とトウカは眉を望める。
その点に配慮の感情を覚えるという事は、トウカの気分を害する事を避ける事に留意しているということであり、惚れた側の弱みに他ならないが、トウカはその点にまで気付かなかった。
何よりも気になる事があった。
「嫌な所ばかり……いや、女性を邪険に扱えない?」
母親がそうした嗜好を持っているという話は初耳であった。そうであれば、トウカが生まれた事は僥倖という事になる。
「可愛いものが大好きだったんです。特に女性の」
そうした者が存在する事はトウカも理解している。シラユキを可愛がる侍女達の感情と同種のものである事は想像に難くない。
「可愛い人形を好む女性の感情の延長線上か?」
「それは何とも……ただ、種族的多様性は別にしても、どの種族も愛らしい女性が多いのは確かですね」
世界を形成するに辺り、そうした嗜好が反映されていたのではないか、と暗に告げるヨエルに、トウカは居た堪れなくなる。
――天使系種族をこの世界の住民として加えたのもそうした理由が……
トウカは訊ねる勇気がなかった。
しかし、客観的に見て異邦の神々の側に立っていた天使系種族を巻き込む危険性を考慮すれば、相当な理由があって然るべきである。無論、その理由を察せる程にトウカは母親を知らない。天帝の権能も世界創生に関する項目に対する記述は少なく、それ以降に天帝という誓約が成立した以上、当然と言えた。
「両親共々、狐を好んでいたのは同様ですが……その点は子に継承されたみたいですね」
「氏子をしている神社の祭神の影響という可能性もあるな」
御使いとして狐を使役する女神を信仰する一族としての性であるかも知れない、とトウカは苦笑する。
一族として紡がれた仕来りや風習といものは意識せずとも継承されるものである。埋没し、風化している様に見えても、その血肉に未だ溶け込んでいる事も珍しくない。
「祖父も狐を好んでいたな……どちらかと言えば、俺の場合は祖父の影響だろう」
育ての親として過ごした時間は祖父に軍配が上がる。圧倒的に。
祖父は、狐を地面に叩き付けるという競技をする欧州人を蛮族と呼ぶ程度には、狐に対する愛護の精神を持っていた。対するトウカは、野蛮だからあれ程に植民地を得ていたのでは?と首を傾げるだけに留める程度でしかない。
教化を叫んで攻め寄せてくる欧州人を、よし皆殺しにしよう、と印度亜大陸で数百年に渡り撫で切りにし続けた武士も大概、野蛮であると、トウカは確信してもいたが。
無論、その愛すべき野蛮が異教の浸蝕を阻止したのだから、トウカはそれを非難する心算はない。
祖父はどうしているだろうか、とトウカは空を仰ぐ。
青空を薄く貫く星河という光景は、いつも見上げるだけで異なる世界である事を実感させる。
――野生の狐を愛で過ぎて寄生虫に感染していないと良いが……
議員や官憲を投げ飛ばすのは、恒例行事なので気にも留めないが、同時に高名な退役軍人であり、神道系の宗教右派の領袖という立場でもある為に敵も多い。トウカが去った事で桜城家の断絶が確実となった事による混乱もあるだろう。トウカからすると不安の種は多い。
「御爺様の事が心配ですか?」
トウカの表情から胸中を読み取ったヨエルの問い掛け。
トウカよりも桜城家を知っている節のあるヨエルだからこその問い掛け。
建前や虚飾は意味を為さないと、トウカは正直に応じる。
「いや……そうだな。心配ではある。乾坤一擲を試みないか、という不安が一番大きいが……」トウカは酷く憂鬱な顔になる。
他国との融和という妄想の下に国益を毀損する左派勢力への懸念からトウカの教育は行われた。それを踏まえれば、時を待つという選択肢よりも闘争を選択するというのは選択として十分に有り得る。武断的な教育を施して相応の立場に就けるという取り組みはトウカ以外にも施されているが、それが成功するかは不明瞭であった。高名な武家としての名声、狂信的姿勢、政戦両略、多くの要素を満たす存在を成立させる者はトウカしかいない。
次点がトウカの代替品として運用できるかという点に懸かっている。
非常時の人材育成に失敗したと判断すれば、議会の停止を求めた武装蜂起も在り得た。
突然の非常時に見舞われ、国民と国益と国力を損なう事と比較して尚、武装蜂起が採算に合うとの判断。
実際、トウカも非常時に於ける権力集約という点について一部の文武高官との会議を幾度も行っていた。
決断に及べない議会を排し、枢密院を設置する。その動きに抵抗する一部の政治家や官僚を可及的速やかに排除して他国に介入の余地を与えない。枢密院を置き、天皇親政を図る事で非常時に対処する。
そうした計画が立案されていた。
非常時に備えるのが軍人であり、その非常時に決断をせずに国家に被害と屈辱を与えるならば議会とて排撃せねばならない。それが武家たる桜城家の判断である。
結果として、それは異世界で実施された。
トウカが議会を排除し、早々に枢密院設置に伴う動きを取れたのは、元よりそうした計画立案に携わっていた為である。困難も問題も理解し、織り込んでたが故に踏み切れたと言えた。素案がある以上、明確な形になるのは早い。
「何故、こうなったのか。皮肉な事だ。まぁ、既に俺の手を離れた。後は大和の民が考える事だ」
最早、トウカは日本国民ではないのだ。その死命を制する立場も権利も持たない。
帝国に地獄を作らねばならないし、マリアベルの願いもある。クレアとの関係もあった。
「既にこの国で多くのものを背負った。今更、喪った祖国を心配しても意味を為さないという事もあるが」
君が為すだろうと納得するしかない。
「投げ出すことはできない」
心底とトウカはそう考えていた。
哀れなヒトだ、とヨエルはトウカに一層と身を寄せる。
同時に覚悟と決断のヒトでもある事が、トウカ自身をより苛烈な方向へと追い遣っているとも見ていた。
「綺麗です。シュットガルトも悪くありませんね」
ヨエルは遠目に窺えるロンメル子爵領の島嶼を一瞥する。
高射砲塔の最上階。
都市防空の要として先代ヴェルテンベルク伯マリアベルの下で複数建築された軍事施設である。嘗て少数の帝国軍騎の侵入に対して後手に回っていた事から、マリアベルは広大な空域の監視を不可能と見て都市防空に資源を集中した結果、誕生した。
これは、都市と呼べる規模の人口密集地がフェルゼンしか存在しないヴェルテンベルク領だからこその判断である。
巨大なフェルゼンという都市では地表面に展開した高射砲陣地からでは周囲の建造物の都合上、取れる射界が狭く、都市全域を防空するには多数の高射砲陣地が必要であった。
伯爵領でしかないヴェルテンベルク領にそうした数の高射砲を用意する事は負担であり、他の兵器に予算を割きたいと考えるのは当然の流れであった。
そうした諸問題を解決する為、高層建築物上に高射砲を展開し、広射界を確保して効率的な防空体制を構築すべく建設が進められたものが高射砲塔である。都市防空の戦力として期待されていた。
実際のところ、高射砲塔は対空戦闘ではなく、地上部隊との交戦でその威力を発揮した。内戦や対帝国戦役では市街戦にも関わらず、高所から野砲相当の火砲が砲撃できる事は双方に取って予想外の効果を齎した。
トウカがクルワッハ公と対峙した高射砲塔も窺えるが、未だ半壊したまま放置されている。郊外への皇州同盟軍の駐屯や航空艦隊の展開によって軍事的脅威が減じたことで、損傷した高射砲塔は放置されていた。
二人の居る高射砲塔もその一つである。
「皇海のほうが大きいだろう。自然環境も豊かで整備されていると思ったが」
トウカは端的に比較して見せる。共感するという行為を無駄と考える姿勢は、やはり母親の血筋であった。
慈愛のヒトではあったが、それは一方的なもので、巷の女性が有する共感の類は一切なかった。
「やはり母親と……センナさんと似ていますね」
ヨエルは優し気な笑みでトウカの頬を撫でる。
領土(お菓子)くれなきゃ侵略(悪戯)しちゃうぞ
 




