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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第三章    天帝の御世    《紫緋紋綾》
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第三四八話    異世界の車窓から




「旅行か……そう言えば……」


 参謀旅行染みた旅行で祖父に杖で打擲された記憶を押し退け、トウカは旅行について思い出した事を引っ張り出し、グレーナーに提案をする。


「家族だけではなく、企業団体による保養なども奨励してはどうか? 労働環境改善の一環として、そうした動きを奨励するのは好ましい事と思うが……」


 トウカとしては祖国の一幕を語ったに過ぎず、それは自身でも自信のない事であった。トウカ自身、祖国では未成年であった為、労働者として各種恩恵を受けた事がない故である。そもそも、個人主義の台頭で組織的な旅行自体も衰退しているが、トウカはそれを知らない。軍とは全体主義的な組織であるがゆえに。


 ――ああ、あの”選別”も一応は有期労働(アルバイト)だったか……


 自身が計画し、国家規模で行われた電子上の戦争遊戯による若者の選別を思い出して、トウカは、うーん、と唸る。そもそも、金銭を受け取った記憶がなかった。無償労働である。陸軍上層部からの圧倒的感謝が対価であったと言えた。謂わば碌でなしの賞賛である。


「それは素晴らしい事かと思います。企業も社員に配慮している姿勢を見せる為、奮発するでしょう」


「配慮しない企業を厳しい目で見る最高指導者がいるものね」


 グレーナーの同意に、セルアノが企業も提案に乗るだろうとの見解を示す。


「陛下もその小さな狐と行幸名目で旅行に行かれれば宜しいのです。よい宣伝にもなる上、観光地の慰撫にもなるでしょう」


 トウカとしてもシラユキを連れて旅行というのは魅力的な案件であった。無数の文化や風習、価値観に触れる事は大いに意義のある事である。無論、自身の様に国家主義的価値観のみを選択して与えては幸福は得られないだろうとの確信もトウカにはあった。自身に対する教育に於いて、自身の幸福が想定されていない事をトウカは自覚していた。


「りょこう?」


「旅行だな。何処に行きたい?」


 興味を示したシラユキに、トウカは希望の旅行先を問う。


 だが、予想とは違う困難な答えが返ってくる事となる。


「わたしロマーナがいい。ごはんがおいしいって」


 侍女から聞いたのか第三国の名前が挙がった事に、グレーナーは困り顔となる。


「……いずれ……そうだな。領有してからにしよう」


 ロマーナへの領土的野心が周囲に明示された瞬間である。


「それは……」堪りかねた侍女が声を上げる。


「君も故郷に帰りたいだろう? 去りとて現政権では帰り難い。いずれ手助けしよう」


「言い掛かりを付けて保護占領する為にその侍女を近くに置いたのね。酷い男」


セルアノが嬉し気に微笑む。


《ロマーナ王国》


 相当な海軍力を持つ小国。


 しかし、トウカは地政学的に見て領有する必要があると考えていた。同時にセルアノも商用航路保全の為にロマーナを押さえたいと考えている事は、トウカにも推測できる。


 セルアノが部族連邦北部の保護占領を許容したのは、将来的にロマーナまでをも版図に含めるという意図からである。トウカはその点を正確に読み取っていた。


 地政学上、ロマーナは大陸南部から突き出た半島である。商用航路はロマーナを迂回する必要があり、場合によっては経由地ともされるだけの湾岸整備が整っている。ここを他国に抑えられた場合、商用航路は容易に危機に晒される事になるし、先んじて押さえれば他国の商用航路を脅かす事も出来た。


「悪いようにはしない。発展したロマーナ半島が必要なのだ。寧ろ、大国の統治下になる事で大いに発展するだろう。鉄道路線も敷く心算だからな」


距離があるとは言え、海路のみに民間輸送の比重が偏ると非常時の物流が完全に停止しかねない。


「鉄道関係者としては予算が付くならば有難い話ですが……」


「そうだな。部族連邦周辺の領土を拡大する必要がある上、安定化も時間を要する。 装甲列車も必要になるだろうな。言った筈だが? 量産性を重視しろ、と」


 トウカとしては領土拡大に伴う鉄道網の拡大は既定路線だった。輸送能力が戦力投射の規模を決め、また沿線沿いの発展を促す。寧ろ、不便な地 域からは人口流出が起きる為、交通網の発展に対してトウカはかなり神経質になっていた。


 人口の偏重が産業や伝統、文化に与える悪影響をトウカは決して軽視しない。


 国家鎮護。


 そう叫び、それを実現する為に軍拡や戦争を行うトウカの支持層は保守である。そうしたものに対する重視は世界を渡っても変わらない。


――将来の核戦争に備えて人口は分散している事が望ましい事もあるが。


 国土に対する均一な領土分布は、国家それ自体の冗長性である。


「陛下はロマーナまで版図に加えるお心算なのですか? ですが、些か距離があるのではないでしょうか? それに文化も風土も違います」


「そうだな。統治には特段の注意を要するだろう。だが、民衆の生活水準を踏まえれば、概ね歓迎される余地は十分にある」


 そうした統治を心掛ける事が出来る人材が皇国には多い。


 当然である。


 多種族国家なのだから。


 千差万別の種族を共同体として纏め上げる為、皇国の行政は日夜、苦労を強いられている。そうした経緯から、皇国には土地の実情に合わせた統治を行う行政の権限と能力を持った人材が生まれざるを得なかった。


「我々は征服者ではない。解放者として振舞う必要がある。帝国以外には」


 トウカの寛容の分水嶺を見たグレーナーは何とも言えない顔をする。帝国南部を占領して鉄道敷設をしたいという意向に差し障るのではないかと見ているのは明白だったが、トウカはそれを黙殺する。


 軍事行動を行う以上、鉄道網の敷設は不可避であった。杞憂に他ならない。


「取り敢えずは。近場の旅行にしようか。故郷に帰るというのも悪くないと思うが」


「つまらない。食べたことないご飯をたべたい!」


郷愁の欠片すら見受けられない様子にトウカはげんなりする。 里心が付いて哀れだという名目でシラユキを突き返すという目論見は現在のところ頓 挫し続けている。


そうしたところに車内販売の台車を押した販売員の姿が見える。



「車内販売でーす」



 マイカゼであった。



 鼠色を主体とした鉄道員の衣裳に身を包んだ母狐の登場にとうかは呆気に取られた。 セルアノは溜息を吐く、鉄道関係者は見目麗しい狐女の短い筒衣(スカート)姿に大いに盛り上がっていた。旅先での男の短慮は異世界でも変わらぬものである。


「魚にしますか? お肉にしますか? それとも狐にしますか?」


 科を作って尋ねるマイカゼに、トウカは娘の前で何をしているのだと叱責したい衝動に駆られるが、怒鳴り合う姿がシラユキの教育に良くないのは明白なので紳士的に返答する。


「狐の方は期限切れではないかね?」


 賞味期限という概念はなく、消費期限のみが定着している皇国では賞味期限という言葉が使えないが、期限切れという言葉は通用する。


「……それは、御試しになってから申されるべきかと」


 嫋やかな笑みで割り込む様にトウカの臨席へと腰掛け、肩へと寄り掛かるマイカゼ。


意地でも教育に悪い方向に持って行こうとするマイカゼに、トウカは辟易とするが、種としての価値観に根差したものであると黙殺する。


「ヴェルテンベルク伯、貴官も視察か? 随分と鉄道網の敷設に意見したそうではないか?」


 露骨な話題変更。


 グレーナーはどちらにせよ顔面蒼白である。


 予定にないマイカゼの登場に対する警戒感もそこにはある。


 皇国北北部、特にヴェルテンベルク領周辺に関しての敷設経路と沿線の開発計画に関し、マイカゼは大きな発言権を有してた。各領主の了承が必要という事もあるが、工事に於いて人員や資材の上でも一大策源地となるヴェルテンベルク領の領主であるマイカゼは、その立場を利用して利益が最大化する動きを取った。


 領内の停車駅の位置や、シュットガルト湖の湖岸沿いへの路線敷設などはマイカゼの意向が大きかった。


 領都フェルゼンに偏重した人口と産業の構造を転換したいという意図がある事はトウカも事前に伝えられており、実情としてヴェルテンベルク領の歪な状況は枢密院でも問題視されていた。


 外海から攻撃を受け難いシュットガルト湖の湖岸に軍需産業を集中させるというのは決定しているが、同時にあらゆるものがフェルゼンに一極集中している為、梃入れしなければならない部分が多い。


 マリアベルはあらゆるものの分散を嫌った。


 自らの目の届く場所に全てを集中させておきたいという偏執的なまでの不信感と、 素早い工業化を求めて限られた区画への予算集中を行うべきとの判断からであった。


 その結果として、フェルゼンは北部で最も大きく、皇国全体から見ても大都市と呼べる規模となった。


 対照的に中都市や小都市は皆無に等しく、フェルゼン以外は村落が点在するのみである。


 狂信的なまでの効率化の産物と言えるが、それは同時にフェルゼン自体の拡張性を食い潰したものであり、災害や武力攻撃に対して脆弱である事も指摘された。実際、内戦や対帝国戦役で敵軍がフェルゼンへの攻撃に拘ったのはそうした部分がある。全てが集中する以上、そこを破壊すれば対 局は決した。


 マリアベルは生み出される工業製品と兵器の数のみを重視した。


 その極端なまでの選択と集中の結果として、国軍や帝国軍に対抗できるだけの装甲戦力と工業力を手にする事に成功したと言えるが、既にそうした情勢は脱した。


 寧ろ、全てをフェルゼンに集中させている現状は不利益が大きく、戦災復興の最中にある現状であれば、領内全体の発展計画を含めて立案し易い為、トウカとしても同意せざるを得なかった。


 予算が足りないので、さも当然の様に皇城府の予算を当てにされている点は引っ掛かるが、それでも補助ではなく借款である。無論、建設費などの予算に於いて皇城府の比重は増えれば、運用や税収の増加に合わせて口を挟まれるとの警戒がある事は疑いない。


 トウカの胡乱な視線に、マイカゼは咳払いをする。


「鉄道の実力を見ておきたかったのです。勿論、建前ではなく実情を」


「天帝陛下と同じ時期では建前との誇りを免れないだろうが」


 トウカはマイカゼの建前に苦笑する。


 下手な発言をした場合、トウカの行動日程が周囲から漏洩したという話になりかねない。トウカはマイカゼの建前を受け入れる。


 早々にマイカゼへと駆け寄っていったシラユキを一瞥し、トウカは安どの溜息を零す。そうした部分がトウカに一時の寛容を齎した。


 自身に父母としての振る舞いを為せるはずがないという確信が、トウカにはあった。


父母が早々に消え失せた事で、その在り様を実感する機会がなかった……というものではなく、人間として人間を育てるという行為それ自体に対する理解の問題であった。


「特異な体験の連続だ。良い思い出にもなるだろうし、それなりの慰めにもなるだろう。もう良いのではないか?」


 中々にぞんざいにシラユキを受け止めて頭を乱暴に撫でるマイカゼに手慣れた母の貫録を見たトウカは、シラユキの今後の処遇を問う。


「あら? 戦死した夫に責任を感じて下さっているのですか?」驚いた様なマイカゼ。


 心底と想定外だったという様子にトウカは眉を顰める。


「莫迦を言うな。未亡人など今となっては珍しくもない。全員に法的根拠に基づかない格別の配慮など現実的ではない」


 法的根拠の範疇での配慮は各府が国家行政として遅滞なく継続している。法にそれを記載し、トウカもそう命じた。そこに特別扱いという項目はない 。


「だが、その娘にとってはどうだ? 事象として釣り合いが取れているか?」


 父親の死という悲劇を、天帝への行儀見習いという強烈な記憶で上書きしようという意図もあるのではないかと、トウカは見ていた。


 シラユキとは別のもう一人の妹との処遇の違いも、トウカに猜疑心を抱かせた。天帝に預けるか預けないか。どちらが有意があるか、どちらが損益に繋がるか娘二人で検証しているのではないか。


 しかし、マイカゼの思う所は、トウカが考えているよりも酷いものだった。


「考え過ぎておられますね。娘の心を占める割合に於いて父親のそれは微々たるものなのですよ」


 直球に過ぎるマイカゼの断言。


 未婚妖精のセルアノは然したる反応を見せない。


「惨い……」娘の居るグレーナーは呻く。


 シラヌイの不在それ自体をしたるものではないと言い切るそれは、大前提を覆されたに他ならない。

 トウカはグレーナーに問うしかない。


「娘という生き物はそういうものなのか?」


「いや、それは、しかし……確かに心当たりがない訳でも」


 追い打ちだったか、とトウカは反省する。


 だが、隠れ里の長として常駐していたシラヌイと、陸軍鉄道部鉄道総監として辣腕を振るうグレーナーでは娘と接する時間が違う為、トウカとしてはシラヌイは不器用だったのだと親近感が湧く。


 ――そう言えば、ミユキもシラヌイへの言及は乏しかったな。


 マイカゼへの言及は多々あれど、シラヌイへの言及はトウカの記憶では僅かしかない。


 男親の悲哀。


「そういうものか……シラユキ、楽しいか?」


「たのしい! もっといろいろ見たいの! ぼうけんしたい!」


 ミユキを彷彿とさせる無邪気に、トウカは胸を衝かれるが、それを表情に出すまいと前髪を掻き上げる。精神凍結にも限界はある。特に個人的事情に関しては感情の振れ幅が大きい為、万全とは言い難かった。


「そうか……母親よりも好奇心か。天狐族の族長一族は娘が出奔する前例もあるからな。心傷が重なるな」


 ミユキが出奔したのだ。二度目がないとも限らない。好奇心を押さえ付けるのは健全ではなく、意図しない暴発を招く恐れもある。


 それならば天帝に押し付けたほうが良い。


 稀有な体験という意味ではこの上ないものを実現できる。それも強靭無比な紐であり、加えて天帝との関係を強化できるのだから、マイカゼとしては隙が無い提案だった。


「陛下が慰めていただけるというのでしたら、不当このヴェルテンベルク伯マイカゼ。寝所へと赴く事も吝かではありませんが……」


 皆の前でそうした発言は好ましくないと言った風体だが、トウカはそうした心算で発言した訳ではない。


「娘の前で教育に悪い発言をするのはとうか」


「娘を気になさるのですか? 流石に娘はもう少しお待ちいただきたいのですが……」真顔のマイカゼにセルアノが笑う。


 しかし、トウカはそうした出来事によって生じる諸問題を勘案すると案外と悪くないのではないかと考えた。


「……娘は兎も角、ヴェルテンベルク伯との婚約は一考に値するかも知れんな」


 客車内が沈黙に包まれる。


「陛下、御戯れは――」


「――最近、側妃を娶れと宣う連中が多い。背後に関係者が無数と居る様な女は面倒が生じかねん。政戦に掣肘を加えられるのは御免蒙る」


 支持勢力として側妃の背後で政策や要求を叫ぶ面々が存在した場合、それは新たな宮中勢力の誕生でもある。実力行使をしないならば政治勢力は政治勢力足り得ないが、そうでないならば話は変わる。


「尤も、配慮を期待できるなどと考えている時点で甘いのだがな」


 必要なら排除する。例え、側妃の支持母体の面々であっても。側妃が付け入る隙と考えるならば、その側妃自体も放置はできない。


「私には背後などないと?」


「少なくとも北部貴族の大部分がヴェルテンベルク伯ではなく、ヴァルトハイム卿を推す程度には、な」


 血縁による継承ではなく、友人への譲位という形で爵位を得たマイカゼだが、元の立場が一種族の族長の妻というものでしかなく、加えてその種族自体も最近まで逼塞していた為に政治勢力としてはなきに等しい。


 裏を返せば、誰しもが支持に就けるという事でもあるが、マイカゼ自体の手腕も相当なもので、復興と拡大を同時に進めつつある為、旗頭ではなくヴェルテンベルク伯爵家という一つの勢力として見られていた。


 軍やトウカの支援が大きい事も誤解を呼んでおり、実情として地政学的都合からの投資を多くの者は邪推していた。 軍拡を求めるトウカと、 元より軍 需産業が発展し、シュットガルト運河を利用する事で造船業も可能であると見た陸海軍が目を付けるのは自明の理である。セルアノまでもが、北部の産業振興の拠点としてヴェルテンベルク領を見ている為、各種予算や手当てが付くのはマイカゼの手腕だけに拠るところではない。


 無論、そうした部分を差し引いても尚、マイカゼの手腕が相当なものである事は、鉄道路線の敷設位置の変更などを見ても理解できる。


 トウカは瞳を眇める。


「冗談だ。真に受けるな。……だがな、そうした話を振る事は己が身を危険に晒す事は認識しておくべきだろうな」


 トウカがベルセリカを側妃にと推す声を知っていると明言しつつも、マイカゼであれば選択の余地があるのではないかと発言するのだ。ベルセリカを 推す者達からすると、マイカゼは大層と目障りな存在という事になる。


 ヴェルテンベルク領は北部でも特異なほどに発展した土地であり、地政学的要衝でもある為、多大な国費も投じられる。他の北部貴族からすると隔意が生じやすい環境にあると言えた。マリアベルの場合は強大な軍事力を抑止力としていたが、現在のヴェルテンベルク領の軍事力は極めて脆弱である。伯爵家として見た場合でも尚、貧弱であった。


これはマイカゼの付近に駐留する皇州同盟軍を非常時には頼るという方針であり、それ故に現 状では復興と経済に予算の大部分を割り振ることができた。


 だが、マイカゼ自身が運用できる軍事力ではない事も確かである。


 例え、皇州同盟軍将兵の殆どがヴェルテンベルク領とその周辺を郷土とする者達であっても、天帝隷下の指揮系統という前提を覆す事は困難である。


マイカゼはマリアベルの様な実績はなく、軍神であったトウカの様な武威もない。


 その点を理解し、マイカゼは鉄道網敷設を推進し、積極的に他貴族領との接続に意欲的であった。実際、ヴェルテンベルク領はフェルゼン近郊以外は発展もしていない為、他貴族領の誘致を受ける企業も続出している。


 鉄道さえ開通する予定があるならば、基本的な公共施設が存在する土地での操業が望ましい。水道や道路、生活に必要な諸々の民需品を販売する小売店など……ヴェルテンベルク領ではフェルゼン近郊以外で、そうしたものが殆ど整備されていない。    


 防衛戦時に防衛対象が増加する事をマリアベルが嫌った為、過激な選択と集中が行われて、フェルゼン以外への資本投下は微々たるものであった。


 結局のところ、 公共施設(インフラ)の存在しない所にヒトも企業も集まらない。 鉄道だけで労働者の生活を維持できる訳ではない。


 マイカゼは他の北部貴族に不満が生じない様に、他貴族領への企業誘致を促す為、鉄道網の拡大を積極的に推進している。少なくともヴェルテンベルク領全体に公共施設を用意できるまでは問題ないと見ているのだ。寧ろ、そうした労働環境が増加する事で北部の人口が回復し、それ以降に用意が整った土地で新たなヒトと企業を受け入れればいい。


 端的に言えば、そうした動きを取っている。


 トウカとしては、機会損失に対して過敏であると見ていた。


 北部に人口が流入する今の機会を逃すべきではないと考えているのだ。


 ヒトはヒトを呼ぶ。


 今回の優遇措置や国策による下支えは永続するものではなく、その機会を逸して北部の人口増加を逃せば、ヴェルテンベルク領の後の発展にも人的資源が不足すると見ているのだ。


 トウカとしてはマイカゼのそうした冷静な判断を高く評価している。マイカゼが後継者に指名するだけの才覚を持ち合わせていると言えた。現にマリアベルを支えていた家臣団からの不満は早々に消え失せている。


 しかし、それでも不満が完全に消える訳ではない。


 全ての貴族領に鉄道路線を敷設する余裕はなく、そもそも人口が希薄に過ぎ、峻険な地形に阻まれた領地への鉄道敷設は現状では不可能である。全ての不満を鉄道網の敷設で解消できる訳ではない。


 そうした貴族達が、マイカゼの台頭を拒絶する可能性は十分に有った。特にヴェルテンベルク領から距離のある北東部の貴族にその傾向は強い。寧ろ、中原諸国を占領した帝国軍への対処を名目に、北東部への大軍の進駐を提案したベルセリカに心を寄せる北部貴族は少なからず存在した。大軍が駐留するには現地に於いて相応の輜重線と経済基盤が必要となる。故に国家による資本投下が期待できた。


 枢密院は南部で部族連邦との小競り合いが続発している現状で予備戦力が減少する事を嫌って否決したが、ベルセリカは側妃になれば判断も 変わるのではないかという一抹の期待を抱いていた。


 ――北部でも北東部は共和国に面する。其方の経済圏と繋がった方が良いという意見もあるが……


 結局のところ中原諸国を占領した帝国の存在が投資を委縮させる。そこに鉄道網敷設などという話を持ち出せば、共和国と帝国の激烈な反応を呼ぶ事は必至である。


 共和国は皇国が第二線を形成する事に狂喜乱舞するだろう事は疑いなく、帝国は恐怖から過剰な軍事行動を行う恐れがあった。輜重線の要たる鉄道網の敷設までに防衛戦に有利な地形まで進出するべきではないか、という判断は十分に有り得る。


「ヴェルテンベルク伯は特段に優れた政務能力を持つが、その振る舞いは要らぬ不利益と負担を招きかねない。国家指導者としては、それを危惧せざるを得ないな」


 天帝と近しい点を演出する利点は多いが、それは劇薬でもある。


 権力者との結合は軍事力の多用と比肩し得る程に副作用がある。


「最近、困った事に俺への報告を忖度する連中の多い事よ。伯の周囲もそうした傾向があるのではないか?」


 トウカは憲兵隊や軍情報部、各府から情報を受け取っているが、整合性と時期に関しては相当に神経質に見ていた。統合情報部を通して報告書の正確性を確認する事も多い。


 得た情報を隠蔽する事は論外であるし、自組織に有利な状況まで情報を握るだけである事も認めない。無論、明らかに国家や国益よりも自組織の利益に誘導する様に情報を歪曲する事も許さない。


 情報は都合の悪いものほど、優先して上位者へと報告せよ。


 無視と座視は売国奴の共犯である。


 各府への訓示の際、トウカはそう述べた。


 そして、国家と国益にそぐわない情報を得た者を評価すべきだと明言してもいた。事前に判明していれば、対策を講じて無効化、或いは軽減できる問題も多い。不利益までの準備期間に影響するのだ。情報共有に於ける忖度は許されない。


「伯を唆す者が居るのではないか? いるならば背後を洗うといい。甘言が諫言か、糸を引く者を見れば――」


「――ヒトのこーいはちゃんとうけとりなさいっ!」


 掛け寄ったシラユキの腹への殴打。


 残念ながら戦闘長靴のトウカに少々の打撃は通じない。


 めっ、と頬を膨らませるシラユキをトウカは抱き上げて膝へと座らせる。


「いいかい? 幼い狐娘。これは政治なのだ。個人の関係も権力者の間では政治の一つでしかない。もし、君がそれを厭うというならば、誰かを率いようなどとも、世界がどうあって欲しいとも思うべきじゃない」


 子供に政治の理屈を押し付けること程に不毛な事はないが、前提というものを学ぶ事は悪い事ではない。


「それは潔癖が過ぎるというものよ。優れた政治家は黒と白の境界線を渡り歩く者の事を言うのよ? 本音と建て前を使い分ける事は悪じゃない。要は二兎を追うだけの準備を常日頃からしておけばいいの」


 セルアノがトウカの頬を押し退けて言い募る。


 誰しもにそれが可能で、そして均衡(バランス)を保つ事ができるならば、トウカも同意したかも知れないが、実情としてそれは在り得なかった。そうした認識の差異自体が軋轢になる危険性も高い。


 だが、シラユキは自身の将来に対して明確な目標を持っていた。


「わたし? しょうらいはていこくに行くの。おねえちゃんを殺したヒトにおとしまえツケにいくの!」


 トウカは天を仰ぐ。


 どういう教育をしているのだというマイカゼの視線が刺さるが、トウカは首を横に振る。幼娘に殺意を植え付けても碌な事にならないのは明白である。ましてや、殺意を他者に代行する程、トウカは自身の隷下に在る軍事力の実力を不安視している訳でもない。


「失礼を言うな。殺したいなら自分の軍隊で殺す。女に己の敵を憎悪しろなどと情けない事は言わん!」


 謂れなき誹謗中傷の視線にトウカは断固として弁解する。


「それに犯人など分かるまい。誰が居て、誰が手を下したかなど――」


「――ていおう?」


「最高権力者の裁可が居るのは確かだから間違いではないのだけど……うーん、この」セルアノはげんなりしている。


 微妙に筋が通っている気配があるところに誰かの入れ知恵の跡が見受けられる。そして、トウカもマイカゼもそうした人物に心当たりがあった。


「シラユキ。帝王が悪いなんて誰から聞いたのかしら?」


 マイカゼがトウカの横に座り、シラユキの頭を撫でる。


 妻を持ち、子を為せばこうした風景も在り得るのかとトウカは、マイカゼに頭を撫でられるシラユキに視線を落とす。 何故かシラユキはトウカの頭を撫でた。


「すごくセがたかくて声のおおきいひと! ラムケしょーさ!」


 案の定であった為、トウカとマイカゼは顔を見合わせ、揃って溜息を吐く。


「おとしまえを付けるのはいい女のじょーけんだって!」


「あらあら、駄目よ。そんな乱暴な事を言っては」


 シラユキの両頬を両手で押さえ、マイカゼは優しく窘める。良き母の一幕はトウカの膝上で起きていた。同行している写真家の撮影機が光る。明日の三面記事が決まったかもしれない事にトウカは動揺する。


「しかし、道理ではある」戦乙女の理論ではあるが。


 ベルセリカやリシアであれば、トウカとしても咎めはしないが、シラユキはそうした立場にない。武門の誉を背負う立場でもなければ、国防を担う者でもない。


 何よりも前提としてそれは叶わない。


「残念だが、シラユキの願いは叶わないな」トウカは溜息を一つ。


 親類縁者を喪った子供の中には帝国への復讐を誓う者はそれなりに存在するであろうが、トウカとしてはそうした者達に復讐の機会が訪れるとは考えていなかった。


 渾身の得意げな表情。


 マリアベルを意識したそれ。


「この当代天帝が先に帝国を滅ぼすからだ」


 翌朝の三面記事は差し替えである。


 トウカにとって帝国滅亡は既定路線である。


 帝国を無数に分断し、兵器が飛ぶように売れる内戦地帯として、旧帝国領土それ自体の疲弊を誘う。他の大陸国家が切り取りたいというのであれば、トウカは留めない。分断はより強固になり、その反発に対して切り取りに臨んだ国家も疲弊を免れない為である。


 皇国は帝国領土に踏み込むが、それは永続的なものではない。


 好き好んで荒れ果てた地の民衆の面倒を見る程にトウカは寛大ではなかった。地方軍閥や未承認国家が乱立するならば、地下資源はそれらから買い付ければよく、その代金は兵器でよい。無論、地下資源採掘に於いて原住民が使い潰される事は疑いないが、それは自国領土外の他国民の話であり、トウカの与り知るところではなかった。


 何も自らが矢面に立って反発を受けながら搾取する必要性は何処にもないのだ。


 そうした合意が取れているからこそ、セルアノはトウカの対帝国政策に近年ではある程度の理解を示し始めている。


「そうでしょうね。陛下は滅ぼすでしょう。でも、狂った意見に狂った意見をぶつければ相殺できると考えてる節があるのは頂けないわ」


 セルアノがトウカの眼前に浮遊して両手で、トウカの両頬を何とか挟み込む。マイカゼの真似である。トウカは態とらしく咳き込み、セルアノを吹き散らす。


「皇国としても帝国の存続は不利益が大きい。大蔵府長官としても、帝国が存在する事による支出は看過できないだろう?」


 この場で最も帝国を憎悪しているとい自信がトウカにはあるが、次点がセルアノであることも確信していた。マリアベルの死の間接要因であった事もあるが、それ以上に帝国の存在は莫大な支出を招き続けている。帝国人を皆殺しにして支出を減らせるならば、 セルアノは悦んで殺せと叫ぶ自信がトウカにはあり、それは事実であった。


「中長期的に採算が合うならば、 帝国には歴史書の染みになってもらいたいとは思います」


 上品な物言いであるが、 帝国滅亡は予算の折り合いが付くならば為すべきだと大蔵府長官が公式に認めた瞬間であった。


 帝国は狂犬の如く皇国へと噛み付いたが、その皇国もまた狂犬だった事を帝国が知るのは遅きに失した。


「だから君の願いは叶わない。まぁ、間接的ではあるが、殺し過ぎて誰が関係者か分からなくなる程度には殺すのだ」


「むー」


 トウカはシラユキの頭を撫でる。


 当事者を見つけ出して全員殺害するというのは現実的ではなく、最高指導者だけを殺害するのは国益に叶わない。結局のところ妥協点として敵国民を殺せるだけ殺すというのがトウカの判断だった。狂気である。


「教育に悪いけど、国益の為ならば血も涙もないのが国家なの。良い教育ね。国家の沙汰も金次第よ……天帝陛下の膝元で学べる事なんて国益の為の政戦についてのみということね」


「その様ですね……」マイカゼは嘆息する。


 空前絶後の悪徳教育である。トウカとしては同情すること頻りであるが、それが国家指導者である。建前を教える程、トウカは不誠実ではない。


「どうだ? 今、余を引っ叩いてシラユキを取り上げても咎めはしないが? 寧ろ、伯が良き母足らんとするならばそうするべきだろう」今一度、シラユキの返還について翻意を迫るトウカ。


 グレーナーは引っ叩かれるトウカを目にしてしまえば、政争に巻き込まれると考えているのか目を閉じてている。


 純真無垢な幼娘を国家の無機質と邪悪で染め上げるのだ。


 本来であれば、非難すべき振る舞いである。


 しかし、マイカゼの返答は周囲と違った。


「ヴェルテンベルク伯マイカゼは娘を後継者として育てています…………困るのですよ。自覚なく巻き込まれ、何処かで勝手に喪われるというのは」


 居住まいを正したマイカゼの指摘に、トウカは言葉に窮する。


 その指摘がミユキに対してのものであると理解した為である。


 まさか、戦争に巻き込んだ立場の人間がそれを非難する真似などできようはずもない。


「幼少より多くを見聞し、広く深く考える知性を磨いておけば、その様な悲劇はなかったでしょう。あの娘の失敗を繰り返す訳にはいきません。例え、齎したものが多くとも、当人が喪われてしまうのでは種族の長としては不適格なのです」


 ミユキの功績は大きい。


 当代天帝と天狐族の関係はミユキから始まったものであり、そこからヴェルテンベルク伯爵家を中心として狐系種族は政治的紐帯を形成しつつある。世間への不干渉からの転換として、これ程に短期間で成果を発揮した例は皇国政治史の上でも稀有である。


 それでも、ミユキは喪われた。


「指導者やその継承者が早々に喪われる事などあってはならないのです。それは国家のみならず種族でも変わりありません」


 一分の隙も無い正論であった。


 指導者の死は組織を混乱させる。


 態勢を立て直す時間は拡大し、損失は増大。次期指導者を巡る争いも生じかねない。 円滑な継承を経ない事は本来、多大な危険性を伴うものなのだ。


 トウカはそれを即位に当たって実感している。


 そして、それらを軍事力で押さえ付ける道を選択した。


「伯は……いや、そこまでの深謀あっての決断であるならば、引き続き娘は預かろう」


 本当は恨み言をぶつけたかったのではないのか?という問いを飲み込み、トウカはマイカゼの決断に理解を示す。批判が漏れれば、天帝への叛意と騒ぐ面々も世の中には存在する。


 去りとて言わねばならない事もある。


「伯はミユキに至らぬところがあったと言う。そうだろう。それは否定しない。だがな、そうであったからこそ、いや、そうであっても愛したのだ」


 そうした部分を含めてのミユキであった。


 もし、ミユキが好ましからざる方向に知性を発揮していたらトウカは愛せなかった筈である。トウカは個人的関係に於いてそうした潔癖性を有している。


そして、少なくとも天帝たる資格を隠した事は、トウカにとって最大級の健気であり、悪しき振る舞いではなかった。こればかりは神々ですらも予期し得ない愛の形である。


 シラユキを抱き寄せ、トウカは偽りのない事実を口にする。


「何も伯の教育と判断が間違っていた訳ではない。間違っていたならば、伯は天帝に拝謁する機会を持たなかっただろう」


 ミユキが居なければ天狐族の厚遇はなかった。狐系種族がヴェルテンベルク領に頼って集まる事も起きない。


「あの娘の死に見合うだけの利益を伯に与えられるなどと思いはしないが、少なくとも失敗したなどとは言わないで欲しいな」


 天帝と拝謁する中で、天帝に矛先を向ける事ができない以上、その矛先を向ける先は自身しかない。マイカゼは娘の責任としないだけの親心を持っている。


「それは伯自身を傷付ける行為だ」


 傷付くのは軍人の仕事だ、とトウカは言葉を重ねる。


 遺された母狐が傷付き続ける事をトウカは許容しない。


 ミユキの母親なのだ。


 トウカにとっては明確に庇護対象である。


 だが、実情は権力も金銭も、家族を失った傷を癒すものではない。


 恋人を喪った天帝と、喪われた恋人の母親。


 複雑な関係に周囲は会話に割り込めなかった。





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