第三四三話 国境紛争
「貴官は今、部族連邦側からの銃撃を受けた」
なんて最悪な命令だ、とミヒャールゼン少佐は嘆息する。
案の定、命令……と言うには無理がある事実上の雑な指摘を受けた部下は呆けた表情を隠す事に失敗する。先任将校や下士官は周囲で溜息を吐いていた。命令の意味するところに対するものか、伍長の階級章を付けた部下の察しの悪さに対するものかミヒャールゼンには判断が付かなかったが。
「はぁ? はい、いいえ、小官は確認しておりませんが……」
「歯を食いしばれ」
「はぁ?」
鈍い打擲音。
返答を待たずして吹き飛ぶ伍長。
周囲の先任将校や下士官も大根役者ながらも驚いた表情をしている。一部は、既に目元を押さえて号泣する仕草をしていた。勝手な戦死確定である。
ミヒャールゼンは倒れた伍長に掛け寄って抱き起す。
「なんてことだ! 伍長が撃たれたぞ! 部族連邦側からの発砲だ! 応戦しろ! 応戦しろ! 聯隊本部にも連絡! 至急来援を乞う!」
部族連邦との国境を巡る一連の騒動……ロコウキョウ作戦の始まりであるが、ミヒャールゼンにその自覚はなかった。
散発的な銃撃から豪雨の様な銃撃の連鎖になるまでそう時間は掛からない。練石製の堅牢な特火点内にも響く銃声は程なくして砲声も混じり始める。
当然、部族連邦側からの応射も存在するが、その規模は歴然であった。相手の兵力が優越しているものの、咄嗟の戦闘に対して混乱がある。
「御苦労様です、ミヒャールゼン少佐」
「いえ、軍務のですので。しかし、エイゼンタール中佐はこれで?」
頬に傷を持つ赤毛の情報将校に対し、ミヒャールゼンは迂遠に帰ってはどうかと促すが、エイゼンタールは肩を竦めて黙殺する。
ミヒャールゼンは若き天帝が外交や国際的視野を持っているのかと疑問を覚えずにはいられなかった。
軍事力の信奉者は他国を殴り付ける為、開戦理由すら捏造する。
陸軍府がそれに同意したという事実だけでもミヒャールゼンからすると驚天動地の事態であり、軍への冷遇の反動が生じつつあるのではな いかと懸念する。
周囲の兵士達も一様に逸っていた。
負けるという事を考えておらず、勝利というものに酔っているように、ミヒャールゼンには見えた。
「不満そうだな」
ミヒャールゼンの表情を見て取ったエイゼンタールが尋ねる。
「正直に言えば、何処まで進むのかと懸念しております」
銃声と砲声が響き渡る中、ミヒャールゼンは野放図な戦火拡大を警戒していた。戦場で野戦軍を撃破しても敵国が政治判断として敗北を認 めなければ戦火は収まらない。
しかし トウカがそれを考えている様には見えなかった
百戦百勝はない。
何時か何処かで敗北する。それは歴史が教えている事実であり、幾ら軍神であっても避け得ない未来であるというのがミヒャールゼンの持論だった。
エイゼンタールの答えは明白だった。
「少佐、何処までも、だよ」
「それは些か……」
煙草を燻らせた痩身の情報将校の答えにミヒャールゼンは二の句が継げない。誰の言葉か明白であるが、発言者を聞く勇気はミヒャールゼ ンにもなかった。
「心配するな。建前だろう。恐らく政治の都合だ」
「政治、ですか? 部族連邦では我が国に対する強硬派と融和派で随分と揉めている様ですが……」
ただでさえ政治的紐帯に乏しい部族連邦の政治が決定的な分裂を見ていると考える識者は多い。
現に議会では派閥同士の殴り合いが発生してすらいる。
大規模な空挺作戦で首都を襲撃されても尚、融和という発言が出るのかという驚きを示す者も少なく無いが、開戦初頭に前線から遠い首都を直撃する実力のある相手に対して同様の軍事力を整備して対抗するのは国力と国情からみて現実的ではないという意見にも頷けるものがあった。
そうした状況は、二度目の国境紛争で強硬派の意見が圧倒的優位に変化するに違いなかった。
二度も、それも短期間の内に攻め入ってきた相手に融和という手段が有効ではない事を大部分の政治家が理解できないのであれば、その国家の命脈は他国が決めることになる。健常な判断能力があるならば、出血を強いる軍備を整えつつ第三国を味方に付ける算段を巡らせるはずであった。
「私にも上の思惑は分からぬが、本格的な侵攻戦力が用意されていない現状、小競り合いという事実そのものが国益になるのだろう」
エイゼンタールが軍上層部や枢密院の思惑を知らされていない事は容易に想像できるが、謀略とはそうしたものだという割り切りがあるのか表情に不満の色はない。
「……ただ、私見を述べるならば、恐らくは部族連邦それ自体に対する思惑ではないだろう」
エイゼンタールは負い紐で背負っていた散弾銃を手に取り、腰に吊るした鞘から抜いた銃剣を取り付ける。
まさか戦うのかというミヒャールゼンの疑問を他所にエイゼンタールは言葉を続ける。
「あくまでも敵は帝国であり、その勝利に必要な要素を求めて、或いは阻害する要素を排除しているに過ぎない。今までの流れを考慮すると、この国境紛争も帝国侵攻の遠因となるだろう」
最終目的から逆算しての推測に、 ミヒャールゼンは納得する。
トウカの帝国への害意は尋常ではない。
そして、今までの軍事作戦も帝国を打倒する為に障害となる要素の排除や、必要資源獲得の為のものであると考えれば辻褄が合う。軍拡の最中で時間的余裕がある為、不確定要素を潰し、得られる資源を獲得しておこうと帝国以外に目を向けるというのも在り得る話であった。
――神州国に関しては降りかかってきた火の粉を払っただけともとれる、か。
戦火を拡大させ過ぎて収拾が付かなくなっているように思えるが、ミヒャールゼンはルゼリア演習作戦、部族連邦北部保護占領に於ける作戦計画が最悪の事態を想定していた事を知っていた。友人が戦術爆撃航空団で戦術爆撃大隊指揮官として参加しており、そこからの情報である。
ルゼリア演習作戦で目標となる部族連邦北部の保護占領と早期停戦が失敗した場合、北部と中央部の境を中心とした航空艦隊による焦土作戦が展開される予定であった。
航空部隊による計画的な人口密集地への都市爆撃。
帝都空襲やエレンツィア空襲などは戦略爆撃騎という大型騎のみを利用し、尚且つ政治中枢を主目標とするという制約の多い作戦であったが、爆撃可能な航空部隊を数多く運用して都市自体を焦土とするような作戦は今までの戦備から行われなかった。
最悪の場合、それを実施して焦土化による戦場阻止と、航空作戦としての問題点の洗い出しや効率化を図るという副次計画があったのだ。
――どちらに転んでも利益になる……恐ろしい事だ。
得られぬならば焦土にしてしまえ。
森林部にも除草剤を巻いて巨大な空白地帯を作る事で、それ自体を巨大な防壁とする。
非情である。
そうした部分に対して付いていけないという心情はあるが、去りとて負けるよりは遥かに救いがある為、ミヒャールゼンも軍を去る事はなかった。負けた国の将官よりも勝った国の佐官を望むのは当然である。
ミヒャールゼンは問う。
「失礼ながら、中佐も戦われるのですか?」
この場で戦うのかという問いには、天帝陛下の為に戦うのかという問いも滲む。それを理解していいないのか、或いは黙殺したのかエイゼンタールの返答はこの場に留まるものであった。
「裏でこそこそしているだけが情報将校ではない……と格好を付けたいところだが、向こうの戦備を見定める任務を負ってもいるのでね。直接、干戈を交えて見ねば分からぬ事もある」
不意に散弾銃の引き金を引くエイゼンタール。
特火点内に響く発砲音。
トーチカの銃眼から飛び込もうとしていた敵兵が弾き飛ばされる様に宙を舞う。
「それなりに役に立てる自信はある。なに、貴官の邪魔はしない」
「……それは心強い」
ヴェルテンベルク領邦軍情報部出身ともなれば、情報部員と言えど武闘派である事は間違いなかった。
気が付けば、黒の軍装を纏った兵士二人が付き従うエイゼンタールに、ミヒャールゼンは素直に頼もしさを感じた。戦場で並び立つ北部出身者ほど頼もしい者は居ない。それはミナス平原会戦を戦った軍人であれば誰しもが感じた事である。
ミヒャールゼンも短機関銃の槓桿を引いて薬室に初弾を装填する。
「我が方はあくまでも新たな国境の警備として僅かな兵力を国境沿いに張り付けているに過ぎません」
銃眼から砲隊鏡で部族連邦側を確認するミヒャールゼンだが、その兵力差には愕然とする他ない。
「相手は六倍と推測されている。勿論、此方が予備戦力として後方に駐屯させている三個師団を含めた上での数だ」
「装甲師団があれば、機動防御による遅滞戦闘が可能ですが……」
ミヒャールゼンとしても機動戦理論に関しては軍大学で短期間教育を受けただけであるが、敵に対して劣勢な兵力で戦域を防衛可能な機動防御は極めて有効な防御手段と言えた。
無論、装甲戦力の有無以前に機動防御の欠点を踏まえれば困難な事でもあった。
高価な装甲師団を必要数揃える事の困難は誰しもが思い当たる事実だが、それ以上に歩兵師団と比較して一〇倍近い補給物資の重量を要するという問題点があった。
輜重線への負担は多大なものがある。
しかも、高速で機動打撃を図る装甲師団に追従可能な輸送車輛の手当てが必要であり、それらが通行可能な経路も必要であった。戦車が履帯を装備して高い踏破性を備えているのは事実だが、装甲師団に所属する車輌全てが履帯を備えている訳でもなければ、その補給に携わる車輛も同様である。
加えて履帯それ自体も耐久性の問題から長駆進撃には向かない。
それらを解決するには相当の後方支援が必要であった。
当然、最近、南方保護領として加わった地域にそうした後方支援を行えるだけの施設や経路は存在しない。脆弱な公共施設は、装甲師団の運用に耐えられなかった。
「数の上でも戦域の都合の上でも装甲師団はない物強請りというものだ」
「ただ、代わりに近接航空支援は充実しています。多数の機関銃分隊や軽迫撃砲小隊なども戦闘序列に組み込まれていますので陣地防御に徹すれば兵力差はかなり縮小するでしょう」
皇国軍事史史上、歩兵師団が最も充実した編制となっている時代であり、それ故に軍の編制が遅れている側面もあった。
トウカは歩兵師団の火力に拘った。
装甲師団や機械化歩兵師団に関しては、装甲兵器や車輌の充実が図られているが、歩兵師団に対しても相当の手が加えられている。戦車や航空騎という目を引く兵器の運用の陰に隠れているが、歩兵師団の編制も火力重視への転換が図られていた。
トウカの天帝即位以前から比較すると砲兵大隊が一個から二個に増強され、自走迫撃砲大隊や自走対空砲大隊、突撃砲大隊までもが追加されていた。正面戦力である歩兵聯隊も二個から三個に増加している。
人海戦術を主体とする帝国陸軍相手に、単独の戦闘単位として多数の歩兵師団を相手にできるだけの投射火力を用意するという目的の下での編制は、歩兵師団の大規模化となって表れた。
戦前の編制の師団を多数揃える事で機動力や柔軟性を維持するという方針を当初の陸軍は志向していたが、トウカがこれを否定した。
常に機動的な運用が可能であると考える程にトウカは状況を楽観視していなかった。
戦線を形成する歩兵師団の厚みは金床であり、その強度を保持し得るからこそ初めて機動戦力による包囲行動が成立する。そして、帝国という強大な領土を持つ国家の懐に無制限に飛び込む訳でもないという証明でもあった。薄く戦線を形成せざるを得ない程に占領地を拡大しないという思惑を、陸軍参謀本部はその編制から読み取った。
無論、それを陸軍末席の少佐風情が知る由もない。
「段階的な後退戦……突出した部隊を火力で破砕しながらという所ですか……」
「早速、愛国心に満ちた馬鹿どもが踏み込んできている様だが」
エイゼンタールの指摘にミヒャールゼンは曖昧な笑みを見せる。
自作自演で驚いたのは皇国側の部隊も同様であるが、それ以上に早々に踏み込む動きを見せた部族連邦軍に対する驚きが上回った。
そして、交戦が始まった瞬間に部隊を突入させた拙速をミヒャールゼンは評価した。
特火点の銃眼から窺える光景は、突撃が各種機関銃や軽迫撃砲、多連装敵弾発射機などの歩兵支援火力に打ち砕かれて大幅に数を減らした敵歩兵部隊というものだった。突撃経路が分かる程度には遺体が群れを成して斃れている。
去りとて新たに国境として策定された……皇国側の一方的な通告による国境は河川に沿ったものであり、河中で斃れ流されてゆく遺体も少なく無い。全てが流れていかないのは偏に水深が浅い為であった。
「此方も突然の交戦で戸惑っていました。そこに突撃を受けたので反撃が遅れたという事です……まぁ、臨場感に拘った結果でしょう」
暗に情報部が事前準備を行わなかった事や、事の周知を図らなかった点を非難するミヒャールゼンだが、エイゼンタールは煙草を銜えながら、二本目の煙草を勧めてくる有様であった。
当然、 ミヒャールゼンは受け取る。
――良い葉だな。情報部は高給取りらしい。
ミヒャールゼンは煙草を燻らせながら言葉を続ける。
「突破破砕線は疾うに超えていますが、突撃してきた馬鹿共を片付ければ、後退の必要もないかも知れません。こちらには有力な砲兵戦力もあれば航空戦力もある」
「……注意する必要があるとすれば夜襲だが……耳の良い種族や鼻の利く種族もいる以上、 易々と許しはしないか」
その鼻の利く種族の兵士が煙草の臭いに顔を顰めているの姿を横目に、ミヒャールゼンは同意する。
他国では不利な戦力差を埋める為に夜襲が選択される場面があるが、皇国の場合は耳目に優れた種族がかなり存在する都合上、一方的な奇襲を受けるというのは稀な事であった。他国でもそうした種族を偵察兵に用いる事があり、夜の奇襲効果が戦力差を埋めるとは限らない。
「問題は弾火薬を継続的に補充できるかです。この地域の交通網は余りにも脆弱で、弾火薬の事前集積も万全とは言い難い」
最大の懸念だとミヒャールゼンは言い募る。
交通網の整備は開始されたばかりであり、国境沿いは未だ未整備であった。
「近接航空支援と戦術爆撃に頼る他あるまい」
エイゼンタールの現実的な返答にミヒャールゼンも頷くしかない。
ミヒャールゼンは、この刀傷を顔に遺す凄絶な風貌の情報将校を信頼しつつあった。前線で戦う事を躊躇しない意思に加え、戦域の情勢を正確に判断するだけの視野を有している為である。
しかし、部族連邦は冷静な判断をする時間を与えない。
「少佐! 敵集団の突撃! 規模、聯隊!」
ミヒャールゼンは部下の報告に慌てて銃眼に取り付く。
小高い丘に用意された特火点からは蛮声を張り上げて突撃に移る部族連邦陸軍将兵の姿が窺えた。
「馬鹿な……迎撃! 火力を先頭集団に集中させろ!」
横で重機関銃を操作する兵士の鉄帽を叩くと先頭集団への火力集中を命じる。
「師団司令部に報告。 敵の大攻勢を受ける、 だ」
通信兵にそう命じたミヒャールゼンは迫撃砲陣地に有線通信で火力支援を要請する。
「敵は戦力を蕩尽する構えを見せている様に見えるが……いや、乾坤一擲という事か……」
エイゼンタールが、敵も中々どうして腹が座っている、と称賛を零す。
「それは、どういう事でしょうか?」
突然の強襲を押し返したと思えば、次は更なる規模での強襲が行われている。少なくとも脆弱な国境ではないとみた筈であるが、更なる規 模で突撃を加えてきた。
偶発的な戦闘であるにも関わらず、即座に大規模な強襲を選択した部族連邦側の指揮官をミヒャールゼンは狂っているとみたが、エイゼンタールの推測は違った。
「混戦を求めての事だろう。砲火力と航空戦力で劣っている事は明白であるならば、混戦状態を作り出す事でそれらを阻止できると見た可能性がある」
砲兵も航空騎も混戦状態の中で敵だけを攻撃する精密性を持たない。寧ろ、どちらも加害範囲を拡大する事に腐心してきた兵科であり、 それは混戦を想定しないものであった。
「……まともな指揮など不可能になる事すら承知の上ですか」
混戦状態ともなれば、指揮統制は忽ちに失われる。
情報が錯綜し、消耗と混乱は加速度的に増加する為、そうなると個々人の戦意と武装、そして兵数がものを言う事になる。兵数の有利と、砲兵火力と航空攻撃を踏まえれば、部族連邦側の判断は正しい。失敗した場合、甚大な被害を受ける事になるが。
「砲兵と航空騎に叩かれて戦力の消耗が続くくらいならば初戦で全てを叩き付けるという事だろう」
「理解はできますが、果断が過ぎるかと。負ければ国境沿いの戦力が払底しかねない」
乾坤一擲を戦闘勃発の直後に行う胆力は並大抵のものではない。
そして、再び戦端が開かれると元より確信していたという事になる。無論、皇国が難癖を付けて保護占領を行ったとしか見られていない以上、そうした出来事が再び生じると考えるのは自明の理であった。
「最初の小規模での突撃は、此方の火力集中が弱い箇所を探る為の捨て石だろう。捨て石を督戦隊で突撃させたのかも知れん。どちらにせよ非情と言える」
エイゼンタールの指摘に、ミヒャールゼンはヴァレンシュタイン上級大将に匹敵する果断だと辟易とする。手強い相手との交戦を望むほど、ミヒャールゼンは戦闘種族ではない。
「可及的速やかに、敵戦線の弱い箇所に最大限の火力と戦力を叩き付ける。あの下半身でものを考える戦車乗りの発想だ。だが、所詮は歩兵主体、できる事は知れている」
さも当然の様に上官への侮辱が入っている様にも思えるが、個人名が出ていない為、何とでも言い訳は容易であった。
「使者を立てて停戦交渉に入ると見て積極的な動きを抑制した皇国側が後手に回るという点も読んだ可能性がある。……近々、戦端を開く心算だったかも知れんが」
「確かにかなりの兵数が存在するので、何かしらの思惑はあっても不思議ではないですが」
――上の思惑と外れた見るべきか……いや、この程度で想定外になるとは……
ミヒャールゼンの心配を他所に、通信兵からの報告が届く。
「少佐、隣接戦区の複数指揮官から後退時期を図る上申があり、師団司令部がそれを受け入れた模様」
それは国境を早々に放棄する事を意味した。
「南部国境守備軍司令部は早々に後退戦を覚悟したようだな」
予定調和だと存外に語るエイゼンタール。
「縦深に引き込みつつ、近接航空支援で敵兵力を漸減する心算でしょうが、我々は殿軍ですかな?」
筋書きを知っているのではないかという問い掛けに、エイゼンタールは肩を竦める。
既に火力のみでは阻止できない程の規模が突撃に加わりつつあり、浅い河川は流血で赤黒く染まりつつある。
味方兵士の流れる遺体を押し退け、飛沫を上げて進む部族連邦兵士の姿は徐々に陣地に近付きつつある。広大な国境を守るには兵士と機関銃の数が余りにも不足していた。他の戦区も然して状況は変わらない筈であり、元より国境警備は想定していたが、本格的な軍事衝突は想定していなかった。
「陣地に爆薬を仕掛けろ。重機と軽機を殿に後退する準備を。弾火薬は持てるだけ持て」
重機関銃も放棄するべきかと躊躇したが、重機関銃分隊には元より膂力に優れた種族が配置されており、例え装備状態でも部隊移動の遅延を招く事はない。
近づいてきた部族連邦兵士を撃ち倒すミヒャールゼン。
特火点内も早々に負傷者や戦死者で溢れつつあり、後送が間に合わなくなりつつある。
衝撃。
特火点への至近弾。
「敵砲兵か……対抗射撃は行われているようだが……豪勢な事だ」
敵陣地後方に無数の逆円錐状の黒煙が吹き上がる光景に、ミヒャールゼンは敵砲兵の正確な位置が判明していないのだと判断する。互いに戦闘勃発から僅かな時間しか経過しておらず、森林地帯や地形が障害物となって目視や音源による砲兵展開位置の割り出しが困難となっていた。無論、航空優勢を容易に確保できる皇国側が航空偵察で一方的に発見できるが、それも戦闘開始直後では難しい。国境紛争勃発以前から部族連邦上空を航空偵察する様な挑発行動に等しい積極性は、少なくとも南部戦線ではなかった。
航空騎の本格的な投入や効率的な火力支援が行われる前に混戦に持ち込む事で、皇国陸軍の野戦軍が得意とする運用を妨げるというのは、現在自身が置かれた状況を鑑みるに、それなりに有効だとミヒャールゼンは呆れ返る。
一方的に殺されるならば、可能な限り相手の被害を最大化しようという意図。
「地形的に見てかなり戦線を下げる事になる。南方国境警備軍は殿軍として扱われるだろうが、 我々も同行する」
「我が中隊司令部に同行するという形ですか? 勝手に前線を動かれるのもそれはそれで結構ですが、我々は貴女を助ける為に兵は裂きませんよ?」
戦場を好き勝手に練り歩く上位将校ほど邪魔な存在はない。無視して戦死すれば問題化しかねないが、階級が上で指揮系統が別なので命令も難しい。
「予備隊として貴官が扱う小隊に加わる心算だ。なに、相手の士官を捕まえて情報を取得したいだけだ。戦列を乱す真似はしない。それなりの働きは期待して欲しいな」
塹壕で敵士官の解体演劇を始めかねない相手に対して期待をする程にミヒャールゼンも楽天的ではないが、予備隊に加わるという以上、指揮下に加わるという意味であり、勝手に動かれる心配はなくなった。
「師団司令部から命令。トカラ湿原まで後退せよ、とのこと」
「随分と下がる。近隣戦区の守備隊指揮官はどうか?」
通信兵からの報告に、ミヒャールゼンは隣接戦区の指揮官の動向を気にする。
「既に後退準備を始めていたようです」
「……飲み屋の付けを返してもらうと伝えろ」
ただ、後退するのでは追撃を助長しかねないとミヒャールゼンは見た。
古来より後退が総崩れに陥る例は枚挙に暇がない。秩序だった後退それ自体の難易度が高いという事もあるが、過程はどうあれ相手に踏み込む余地を与える事に変わりはなく、それが背後を打たれる事に繋がる場合は多々あった。両翼の支援と、相手の混乱が必要であった。
「早速ですが、予備隊を投入します」
「隣接戦区の支援を受けながらの後退を?」
エイゼンタールの問い掛けに、ミヒャールゼンは苦笑を零す。
情報屋が思いも付かない程に、皇国陸軍の野戦将校は防御であっても積極性を尊ぶのだ。
「逆襲ですよ」
結局のところ、 ミヒャールゼンもまた皇国陸軍の野戦将校であった。
「荷物を下げたら、投入可能な兵士全てを以て押し返す」
エイゼンタールはミヒャールゼンの命令に言葉を失った。
後退を確実なものとする為、両翼からの支援を受けつつ、敵の突撃に対して突撃を敢行するという狂気。
「混戦に自ら挑む、と?」
「相手の戦意を挫くのですよ。突破破砕線で相当数が排除できています。ここで一端無理をしてでも押し返します。長々と接触しながらの後退戦を繰り返すよりは良い」
既に四度目の突撃が開始され、相手兵士の表情が見える位置にまで迫られつつあるが、その兵数は相当に減少している。踏み込んで後退を許さずに大部分を殺傷し、皇国側に十分な予備戦力があると錯覚させるのは追撃を思い留まらせる効果を期待できた。
「幸い師団司令部附きの装虎兵大隊が撤退支援の為に増派されます。巻き込みましょう。あいつらも踏み込む方が喜ぶでしょう」
皇国特有の兵科である装虎兵は大型動物に騎乗するという特性上、敵軍の恐怖を増幅する特徴がある。敵軍の動きを阻害し、予備兵力として印象付けるには最適であった。
「帰りたいならば帰っても結構です。これは野戦将校の仕事ですから」
肩を竦めるミヒャールゼンに、エイゼンタールは煙草を銃眼から投げ捨てる。
「やれやれ、野戦の突撃に加わる事になるとは」
忌憚のない意見であり、情報将校が野戦で突撃に加わらねばならないというのは中々に聞かぬ事であった。無論、受けた命令を踏まえれば 拒絶して離脱する事は可能だが、突撃時に敵の将校を捕縛できる好機でもある。
「高給取りだが、中々どうして命の安い仕事だ」
軍人の俸給はトウカが天帝に即位して増加したが、同時に戦死の機会も増加した。義務に相応しいだけの俸給に修正しただけとも取れる。
「軍人も所詮は仕事の一つですよ。ただ、内容が人殺しというだけで」
ミヒャールゼンは国家の求める人殺しを職業だと嘯く。
真面目な青年将校かと見ていたエイゼンタールだが、想像以上に好戦性を見せられて臆するものがない訳でもなかった。
――これだから野戦将校は……
効率的に敵を殺し続ける為に自らと部下の生命を冷徹に計算するという熱意。冷徹でありながらも戦意に満ちた姿は、多くの軍人に憧れる者達にとっての理想である。
そうした人物を作り上げる皇国軍の教育制度それ自体の狂気などではなく、エイゼンタールは諸外国の軍組織の野戦将校も類似した方向性を持ち合わせている事を知っている 野戦将校とはそうした生き物であった。そうでなくては野戦将校として立場を得られない。狂おしいまでの強迫観念を以て彼らは大いに血を流す。
エイゼンタールは溜息を一つ。
「丁度良い。戦場での戦功を欲しいと思っていたところだ」
実戦経験の有無で軍組織も自身への印象が随分と変わる為、エイゼンタールも戦功を欲してもいた。
軍組織もまた官僚機構に他ならないが、他の官僚機構と違うのは戦功それ自体が立場や職責に加算されるという点である。階級よりも戦功がものを言う場合もあった。軍は実力組織であり、武名それ自体が尊ばれる気風を避け得ない。
甲高い軽機関銃の銃声が鳴り響く特火点でエイゼンタールとミヒャールゼンは武器を構える。
「少佐、負傷者と遺体の後送を完了。兵達も意気軒高です」
ミヒャールゼンの副官が伝令からの報告を受けて準備を終えたことを伝える。
特火点から塹壕線へと抜け出たミヒャールゼンの後を追うエイゼンタール。
火砲の着弾が土砂を舞い上げ、軍帽へと降り注ぐが、これから血に塗れる為にエイゼンタールは気にも留めない。ましてや数日、水浴びも していない有様であり、周囲も同様であった。
「総員、抜刀!」
兵士達が各々の得物を構える。
皇国軍の銃火器の大部分は銃剣装置を装備しており、近接戦を常に想定していた。それは数に勝る帝国陸軍を相手に近接戦を避け得ないという切実な事情によるところである。無論、膂力のある種族には、優れた槍働きを期待して重量増加を承知で剛性を向上させた武器が用意されていた。
止むを得ない。
しかし、それは不得手を意味しない。
「躍進距離二〇! 突撃にい、 移れぃ!」
皇国陸軍の銃剣突撃。
火力優勢や機動戦に固執しているという風評を一蹴する戦いが始まろうとしていた。




