第三四二話 天狗という生き物
「神州国め。詰まらぬ世論に振り回されて迷惑を掛けてくる」
トウカは報告書を暖炉に投げ入れる。
役人は意味もなく書類に機密の判子を押して仕事を成し遂げた気分に浸るが、今回ばかりは機密という判子を押すに値する内容だけあって焼却処分が妥当であった。時期でもないにも関わらず燃え盛る暖炉の面目躍如。
「いかがしますか?」
熾天使の囀りに、天帝は口元を曲げる。
トウカの判断は早い。
「捨て置け。相手の都合に合わせるだけの利点がない。ましてや現状では海洋戦力に屈したと思われかねない。それでは他国の武力行使を助長する可能性がある」
実情として部族連邦の旧態依然とした軍は脅威度が低く、共和国とは連帯を強めつつあり、神州国は陸上戦力が規模として乏しい。直截的脅威は帝国に限られた。
「どこからの情報だ?」
「神州国の天狗です。懇意にしておりますから」
表裏を感じさせない……逆に慈愛の感情以外を含まない表情を伴って応じるヨエルに、トウカは気後れする。
「天狗か……長鼻の面を被っている訳ではない様だが……」
天帝の権能は天狗という種が天使系種族とは違い雌雄共に存在し、神代に在って神々側の天使に対抗すべく人間側が生産した航空歩兵であると教える。しかし、大凡の種族と違い詳細情報は少なく、それは神州国のみを生存圏として生活している上に政治に介入しない為であった。動きのない山奥に住まう種族の情報は酷く集まり難い。
「大凡は黒い翼を持つ種族です。強大な魔導資質を持ち、天使系種族に比肩し得る性能を持ちますが、排他的な傾向があります」
翼の黒い排他的な天使という表現であれば悪魔という名称とはならなかったのかと、トウカは疑問に思う。
「天使と天狗か……後者に関しては開発者が日本人なのだろうな」
或いは天狗が日本に漂着して数々の逸話を遺したか。世界を渡る事が可能な以上、時間軸など然したる問題ではない。
影響を与えた経緯も伝来の経緯も今となっては歴史の彼方であった。
「天狗からの親切な報告か……天使の対極には悪魔がいると期待していたのだがな」
「我が陛下、悪魔はやさぐれた天使がそう名乗って各地で皆様に御迷惑をおかけしているだけです。人間で言うなれば反抗期の様なものです」
反抗期の天使を悪魔と言い放つヨエルに、トウカは何とも言えない表情を浮かべる。
トウカの元居た世界では、悪魔は堕天した天使という扱いを受けている。結構な数の悪魔が存在する為、中々どうして主君筋の神とやらは威光と魅力に乏しい奴だ、などとトウカも呆れたものである。
――いや、報奨を吝嗇ったのか?
戦働きに報奨を出さず、その結果として戦士を統制できなくなった行政府に心当たりがあるのトウカは、神が与える報奨は金銭なのだろうかと明後日の方向に疑問を抱く。
「まぁ、いい。 神州国の内情が分かっただけでも十分だ」
民意を見るに神州国の姿勢が劇的に変化する事は望めない。寧ろ、半端な外交や圧力は火に油を注ぐだけであり、望まれるのは根本的な解決であった。
「引き込みますか?」ヨエルの問い。
変わらぬ触れ難い笑みで問い掛ける姿は、善意を示す天使の姿そのものだが、内容は剣呑極まりないものであった。
部族連邦の領土を欲する神州国を大陸深くまで進出させた上で国力を浪費させるという方針。
植民地という甘い夢を見て、還らざる投資を行うというのであれば、適度に深入りしたところで皇国が接収して漁夫の利を得れば良い。
そうしたヨエルの言外の提案を、トウカは思案しかねた。
トウカの見たところ神州国の現在の姿勢では大陸の植民地運営は失敗する。
失敗する以上、寧ろ植民地獲得を植民地に恨まれない程度に幇助して不利益へと誘導するというのは良案であった。最終的に困窮した植民地を保護という名目で占領する事も可能である。
しかし、必ずしも神州国の植民地主義が失敗するとは限らない。失敗せず、上手く切り盛りできた場合、国力が伸長する可能性は十分にあった。
――勿論、独立運動や武器の横流しなどで妨害はできるが……
どの様に動くか予想し難く、失敗した場合、皇国は帝国侵攻中に後背を脅かされかねない。
「帝国に攻め入って捕らえた民衆を神州国に労働力として譲渡するのはどうだろうか?」
トウカの提案は、残酷なほどに現実的だった。
神州国国内で使い潰せる安価な労働力として帝国人を使役して国力の増進を図るという政策は最も危険が少なく確実な方法であった。皇国はそれを支援する。近代での植民地運営という冒険に臨もうとしている相手に合理的な提案が通じるかという点に目を瞑れば、同意する公算は高い。
「……神州国の指導者層が陛下の御深謀に匹敵する者で多数を占めるというのであれば可能でしょうが……些か」無理がある、とヨエルは口にしない。
熱に浮かされた国民の突き上げに苦慮し、あろうことか真に受けて国民と共に夢を見る政治家も増えつつある。そうした国民国家が外交や譲歩で止まる筈もない。それは歴史的事実であり、二人はそうした事実に背を向ける程に無能でもなかった。
しかし、トウカの逡巡は止まない。
「踏み込ませるのは冒険が過ぎる」
大日本帝国が大陸に踏み入って艱難辛苦を経たとはいえ、勢力圏に留める事に成功した経緯からの懸念。共産主義に対する防波堤や、近隣に多数の人口を擁する国家が成立する事を阻止する為の侵攻であったが、将来の危険の芽を摘むという理由としては些か犠牲が大き過ぎた。
ヨエルは緩やかに首を横に振る。 信徒を諭す天使が如く。
「綺羅星の如き将星と精強な皇軍、何よりも大陸諸勢力の不和と敵性民族の気質に助けられた結果。神州国はその全てを持ち合わせてはおりません」
中々どうして辛辣極まりない意見だが、端的に見て事実である為、トウカもその点については反論しない。最早、胸中を見透かされる事に驚きすらなかった。
「俺の様な若造の頭上にも将星は輝いた……実力が未知数の軍勢を侮るべきではないと思うが……そうか、それ故か……不確定要素は排したい。我が国の消耗なく」
消耗を強要する為だけでなく、神州国陸軍の実力や人材を図る為、積極的に大陸干渉を招くという視点。無論、保護占領する土地の治安維持の為に陸軍を今以上に拡充する必要が生じ、海軍整備を抑制せざるを得なくなる事も期待できる。
「だが、妥協したという印象を国内外に持たれたくはない」
ヨエルは、くすくすと笑声を響かせる。
トウカとしては狂信性という看板で物事を進めている以上、未だ妥協すべき段階ではないと見ていた。それ故にヨエルの笑声は心外である。
「陛下、我が陛下、それではまるで強く思わせたいと虚勢を張る子供の様ではありませんか」
母親が居れば拗ねる子供にそうした表情をするだろうという微笑みのヨエルに、トウカは顔を顰める。
単純な誹謗中傷や感情を以てトウカを詰る程、ヨエルは短絡的な人物ではない。それは宰相に任じたトウカが最も理解していた。
「更に積極的に国益に繋げろという事か……」
ヨエルの柔らかな眼差し。トウカは視線を逸らす。
「今一度、我々も部族連邦の一部を保護占領すべく踏み込む形で共同占領……後に分割統治を図る……辺りか」
「その辺りが妥当でしょう」
問題を解いた子供を褒めるように、両手を合わせて賛意を示すヨエル。
トウカは、その提案の原案が奈辺にあるか理解し、ヨエルという女性が想像以上に多くを理解している事に顔を顰める。
「波蘭分割という事か……」
隣国全てが遺恨を持つが故に手を差し伸べられる事もなかった嘗ての大国の分割占領。力なき強硬姿勢の末路であり、工業力と軍事力の整備を怠った国家の結末。多民族国家である点と分権的制度が発展の遅延を招いた代償。
去りとて諸外国の理解なき保護占領では後に遺恨が生じかねない点に変わりはない。
名剣が危険視されて魔剣の如く扱われるのでは、国益の伴わない戦雲を呼び込みかねない。魔剣はそれを喜ぶだろうが国庫と人的資源はその限りではない。
「共和国や協商国の誤解を招かぬようにするべきだな」
今更、国際協調と騒いでも失笑ものであるとトウカも理解しているが、体裁の有無で変わる関係も少なくない。対帝国に於ける紐帯を踏まえれば、寧ろ後背地の安全を確保するという名目で同意を得られる公算が高い。
「部族連邦を神州国に蚕食させ、後背の安全を確保すると周知を図るべきでしょう。御分かりと思いますが、連合王国と国境を面する領土を領有する事で牽制も可能となります」
慈愛の表情で多くの死が齎される提案をするヨエル。熾天使よりも死天使とでも呼ぶべき非人道性に、トウカは鼻白む。
死を振り撒きたいという国家にその機会を与える事を善意だと錯覚しかねない程の慈愛の表情を前に、トウカは神を称する存在の好戦性を見た。
「戦線が増える訳か……いや、人口過疎地域で喪っても惜しくはない領土ならば防御縦深と割り切ることもできるか」
連合王国と国境を面する領土までをも保護占領した場合、戦線が増えるに等しいが、部族連邦西部は元より人口過疎地域であり、広大な森林地帯が広がっている。
国境を面するならば、共和国に航空基地を用意する必要もない。
保護占領した部族連邦西部に連合王国が侵攻したならば、遅滞防御を行いつつ、航空艦隊による近接航空支援と戦術爆撃で侵攻軍それ自体の漸減を主眼とした縦深防禦を展開すればよい。
共和国に対しては連合王国に新たなる戦線を形成させて出血を強要すると提案すれば、諸手を上げて賛成するであろう事は疑いなかった。トウカはそもそも友好国とは言え、軍を……特に陸上戦力を派遣するという事に否定的であった。必要であるならば止むを得ないが、可能な限り避けたいというのが本音である。
遠方への戦力投射は負担が大きい。特に陸上戦力は規模が大きくなる傾向にある為、それを支える兵站への負担は相当なものとなった。
それならば、国境を面した上で、その地域自体を防御縦深としつつ敵国の陸上戦力の漸減を行いたい。派遣軍という負担ばかりで軍事的成果の乏しい政治的演出を行うくらいならば、積極的な漸減行動を図りたいとトウカは考えた。
ならば、事は単純明快である。
「先ずは神州国に分割統治を提案する事で短兵急の準備を強いる」
準備期間を急かすことで神州国内の陸軍部隊の動向が可視化される為、編制や組織の情報を取得し易くなる。事前の物資集積などから兵站規模を割り出す事も可能であり、取得情報によって神州国陸軍の可能性と限界を垣間見る事も可能であった。海洋国家であるが故に、動きの少ない神州国陸軍の動向を探る千載一遇の好機と言える。
「……その上で、侵攻の情報を部族連邦に流布させるのですね?」
ヨエルの問い掛けに、トウカは、無論だ、と頷く。
神州国と部族連邦を本格的に噛合わせる。
皇国軍は精々、国境沿いに軍を並べて戦力の一部を誘引するという程度で十分である。神州国軍に主攻を担わせ、皇国軍はそうした状況を重く見て保護占領地の拡大を止むを得ず実施する。表面的な筋書きとして皇国は受動的に振る舞う。無論、偶然にも演習中の軍団や航空艦隊が国境沿いに展開している事になるが。
「神州国の機密保持を随分と低く見積もっているのだな? いや、部族連邦の諜報能力を高く見積もっているのか?」
トウカも短兵急に事を進める以上、情報は容易に漏洩すると見ていた。何よりも領土的野心……植民地を望む民衆の声は一般市井にも溢れている。その矛先が向けられる可能性が最も高いのは、近隣で最も工業力に乏しい部族連邦であった。それ故に相当の警戒が成されている筈である。
そもそも神州国への警戒ばかりに注力している点を、部族連邦北部の公国による保護占領は突いたと言える。
「今なら部族連邦の警戒は我が国に向いている。神州国もそう捉え、我々もそれなりに期待に応える……主力は神州国の熱意に答えて彼らに任せる」
神州国に被害を押し付けるという悪意もあるが、実情として部族連邦は南部と東部に人口が密集しており産業地帯も例外ではない。
「装備更新で旧式武器が随分と余剰となっている筈だな? 各領邦軍の削減に合わせたものも買い取っている筈だ。それを秘密裡に安価で売却する。意味は分かるな?」
国家を介さない非合法組織による兵器や弾火薬の横流し。
領邦軍縮小や解体などであぶれた軍人達を吸収した非合法組織による横流しという筋書きなどを用意し、部族連邦に武器弾薬を大量に売却する。
神州国と部族連邦を激しく争わせる為である。
部族連邦本土で激しく戦えば戦う程に部族連邦国民の遺恨は積み重なる。郷土が戦場になり家族や親族、恋人が喪われれば敵意を燃やして非正規戦に身を投じ、戦後統治は悲惨な事になるのは明白であった。
皇国の保護占領地での緩やかな統治と比較される上、結果として統治方針は苛烈なものとせざるを得ない。
「枢密院も反対はしないだろう。共和国の側面支援となる上、神州国との小競り合いも避けられるとなれば、な」トウカは嬉し気に呟く。
神州国との小競り合いを危険視し、海洋戦略に対して消極的である枢密院に対してトウカは不満であった。
神州国海軍は海洋の覇者である。
数百年単位で世界最強の称号を維持し続けた事から、それは最早、常識として世界では語られている。常識となった常勝海軍相手に争うと いうのは、大きな忌避感を齎すものであった。
対照的にトウカやヨエルなどは、正面切っての艦隊決戦をせず、徹底した潜水艦隊による通商破壊や空母機動部隊による沿岸都市攻撃で対応可能だと考えていた。
しかし、そうした戦略は未だ日の目を見ておらず疑問視されている。軍神たるトウカが提案しても尚、全面的に受け容れられなかった事実が常勝海軍という常識の堅固を証明している。
だが、裏を返せば、神州国との交戦を避けるという名目であれば、相当の横紙破りも許されるという事でもあった。
「いや、今一度、国境紛争を起こすか……戦火による混乱があれば武器も密輸させやすいだろう。危機感を煽る事で戦備の拡充を迫れる……神州国を急かして巻き込む根拠としても使えるか」
時が過ぎる程に部族連邦の防備は拡充される。
「……そうなると、上手く負ける必要がありますね……」
後退戦の失敗による包囲などもあれば、秩序だった後退の失敗での壊乱も有り得た。ヨエルが態々、指摘する程には戦史で有り触れた悲劇であった。
当然であるが、航空戦力の優越がある為、少々の失態は補う事が可能である。
――政治を踏まえた上で動ける司令官が必要だな。
戦火に紛れて兵器の密輸出を行う必要もあれば、不慮の事故である事を装う必要もある。ただの軍事行動とは性質が違う。そうした謀略に秀でた参謀を用意する事は可能だが、司令部全体の認識共有を図れるかは不明瞭である。無論、現状の司令部編制を変更する事自体の危険性もあった。
――陸軍府に諮るか。
全てをトウカが決める事は現実的ではなく、何より軍事教育を受けた俊英が集まる参謀本部の知性はトウカよりも最適解を導き出せる。新規戦術や新規技術の連続で常に圧倒し続けたトウカとは違い、国家が有する全てを俯瞰し、組み立てる事で目標を達成する集団であった。少なくとも国家は、その為に参謀集団を保持している。
――御機嫌伺に精を出すようでは困る。
トウカは御機嫌伺をしている様でしていない熾天使を見やる。
慈愛に満ちた表情のヨエル。
「御前の変心を俺に問う者もいる。 全てが露呈すれば、堕天使だと罵倒されるだろうな」
先皇時代とは打って変ったヨエルに対する批判は存在するが、意外な事に想像よりも遥かに少ない。余りにも急激で苛烈な変化に対して嫌悪よりも恐怖心が先立った為である。
以前と変わらぬ表情で数万、数十万の犠牲が前提の提案をする様は枢密院ですら恐怖の対象となっ ていた。
「その際は、翼を黒に染めて今一度、御身に侍る所存です」
堕天使になる事を厭わないと言われたに等しい。
トウカは顔を顰める。
堕天使は嘲笑も喜悦もなく、ただ慈愛を以て微笑む。
区別など付きはしない。
ただ、政治思想 (イデオロギー)だけが決めるのだ。
最高位の熾天使が堕天已む無しと間髪入れずに応じる時代。
「全く酷い話だ」
狂相を湛えてトウカは炎と流血の時代を嘆いて見せる。
自国民の生命と利益と未来を守る為、他国民を積極的に不幸に追い遣らねばならない時代。歴史上では定期的に訪れる時節に過ぎないが、その時代に国家を任された幸運をトウカは悦んでいた。
「不幸の先払いは終えている……後は俺の力量を以て国益を掴み取るのみだ……」
ミユキを喪った代償として立場を得たとトウカが考えている。否、そう考える事にしていた。
しかし、喪った者に匹敵する何かを得られて いるという感覚はない。
「なれど、浮かれぬ表情を為されていますが……」
「……最近はどうも現実感がない」
善悪や正邪などという無意味な観点はそもそも感情を動かす程ではないが、会議での判断や決断に対する答えは早々に現れるものではなく、トウカに焦燥感を抱かせた。国政を短期間に大きく転換させる事など不可能であると、当然ながらトウカも理解している。無論、民衆をそう思わせる事は容易であるが。
「御疲れでしょうか?」
天帝の権能がそれを許さぬと知って尚、ヨエルがそう尋ねるのは身体的疲労だけで精神的疲労は例外であると知るからであった。
「精神凍結は感情の振れ幅を制御できる。そうした心配は不要だ」
一々、感情というものに左右される事を忌諱した判断からの精神凍結の使用であったが、最高指導者としての立ち振る舞いとしては専ら評判であった。印象でしかないが、振る舞いが冷静でいて果断を躊躇しないと称賛する新聞があったとトウカにリシアが伝えていた。
「軍人という奴なんだろうな。気が付けば俺も軍人になっていたという事か」
軍人志望が詰め込んだ知識を以て初見殺しをし続けているに過ぎないとトウカは考えてもいたが、政治と軍事を比較して戦場では即座に結果が出るものを、と考えてしまう点はやはり軍人の……野戦将校の思考である。
去りとて、辻褄の合わない事もある。
「聯隊や大隊辺りの指揮が最も愉快だと聞いたが……理解できないでもない」
ある程度の兵力と相応に自由度のある指揮権の兼ね合う大隊や聯隊の指揮は、戦場という実感を得られる最大規模の戦闘単位でもあった。
トウカは大隊や聯隊規模の戦力の運用経験に乏しい。
寧ろ、軍団以上の戦闘単位を早々に任されている。それでも、そこに充実感はあり、己が結果を出しているという自負があった。
「陛下は航空戦力を多用為されました。師団や軍団、軍集団でも迅速に成果を得られましたので、内戦や帝国との戦争でも即座に影響は視認できたかと思います」
ヨエルは即座に莫大な戦果を齎した点を指摘する。大きな動きを即座に齎せるならば閉塞感など覚えようはずもない。
無論、戦場の近くに身を置いた事も大きい。
トウカは、内戦や帝国との戦争では兵数の上で圧倒的に不利であった為、前線と近い司令部に詰める必要があった事も大きい。前線との距離を近付ける事で指揮の迅速化を図り、兵数の不利を補ったのだ。より戦略規模の指揮をしながらも前線に近付かねばならなかった。全ては通信能力の限界によるところである。
「しかも、 後背には佳い女がいた」
女を守るという意志は斯くも男を滾らせるものである。
戦意の源泉として最も有力なものが異性であるという事実に、トウカは溜息を吐く。
自身もまた出来の悪い小説の如き有様であった傍証であり、一般市井の者達と変わらぬ感性を備えていた事を喪ってから気付く。
――感情が欠けていたのではなく、扱う術を知らなかったという訳か。
そうした方面の知識から遠ざけ、一般的な感性を戦火と戦史で圧し潰して作り上げられたという自覚がトウカにはあり、それを厭う程にトウカは祖国の現状を楽観視していなかった。
しかし、振り返ってみれば、一般市井の男性が女性に対して行うような振る舞いを、ミユキにしてこなかった。その点だけは後悔があった。
「男である事を嫌でも実感させられる」或いは、寝台上よりも尚、と、トウカは吐き捨てる。
偏執的にして狂信的な教育を経た上でも、男としての本質は変わる事はなかった。
「前方に強大な敵、後方に佳い女という事か」
女は男を単純だと言う。
成程、違いない、とトウカが口元を曲げる。
これもある種の浪漫かも知れない。例え、生物学的根拠があったとしても、それは浪漫の価値と根拠を毀損するものではない。
去りとて国家指導者に浪漫は不要である。
ヨエルは、おや、と嬉し気に髪を整える。
「ここに佳い女が居りますよ? 守ってくださいませ?」さぁ、どうぞ、と両手を広げたヨエル。
トウカは鼻を鳴らす。
自惚れも甚だしい。
誘蛾灯に誘われる蛾の様に手を伸ばしたくなる衝動が凍結されるからこその余裕である。穢れを知らない無垢なる表情と仕草を以て庇護を強請る乙女への渇望を前に、トウカは精神の安定を手放さない。
トウカはヨエルを警戒している。
溺れさせ、骨抜きにし、堕落させる事など容易く、当人もそれを望んでいる様に見受けられた。揺るがぬ慈愛の笑みの下で何を考えているか分からないという忌避感もある。
「宰相は一人でも十分にやっていけるだろう。偏屈な男と色恋を望むなど放蕩が過ぎると思うが?」
嘗て父親を望んだ女が、自身を望むというのは、例え幾星霜の時を経た後であるとしても忌避感を抱かざるを得ない。自身の背後の父親を見ている様で不愉快であるという心情もあった。
「私は陛下が望むままに振る舞うと誓っております。しかし、偶には願ってみたいと思うのです……だって天使ですから」
自分の神に願えばいいと口を突いて出そうになるが、トウカは恐らくその神は碌でもないと追及は控えた。神は無慈悲である。
手厳しい言葉をぶつけようとは思うが、トウカとしては宰相の立場にあるものを邪険に扱うばかりも好ましいものではないと溜息を吐く。
――さも当然の様に離宮内に一室が用意されているのはどうかと思うが。
アルフレア迎賓館からアルフレア離宮へと名を変えた新たなる皇国の枢機だが、急な決定と改装の中で当然の様に宰相の執務室と私室が用意されていた。警護や政務の問題を踏まえれば、纏める事には合理性がある為、トウカも後から覆す真似はしない。皇州同盟軍鋭兵聯隊だけでは警備に自信が持てないということもある。
トウカは溜息を一つ。
「……………………何が望みだ?」
何でもするという程に迂闊ではないが、少々の願いを聞き入れる程度には、トウカもヨエルの実力と立場を認めていた。
勿論、限度はあるが。
トウカからするとヨエルは不可思議な生き物であるが、無視できる相手ではない。父親との関係もあるが、元居た世界を余りにも知悉している事もあり、トウカからすると自身と同様の前提を持つ相談相手でもあった。
同様の前提……歴史や基準を根底とした遣り取りができる相手として、トウカはヨエルを重用する傾向にあった。無論、そうした傾向と成らざるを得ないからであるが、トウカはヨエルとの情報交換を重視している。トウカの世界を知る者が他に居らず、歴史や技術を理解している事で情報の整合性を求める相手として唯一であるヨエルは代替が効かなかった。
ヨエルの逡巡。
知性を以て即応する熾天使の逡巡にトウカは腰が引ける。
そうした仕草は想定していなかった。
泰然自若の振る舞いを持って嫋やかに応じるかと思えば、恋する乙女の様に上気した表情を向ける熾天使に、トウカは既に堕天しているのではないかという疑念を抱く。
「……陛下、私は…………逢引きを所望します!」
握り拳を以て渾身の上奏を試みるヨエル。
トウカは頭を掻いて胸中の焦燥を誤魔化す。
父親はどの様に振る舞うのかという疑念と、それに劣るのではないかという焦燥感。
事実を知るのは眼前の熾天使であるが、面と向かって訊ねる勇気もなければ、正直に真実を伝えられる確証もなかった。天使とは願望器であり、望む姿をする生き物である。
勝算に乏しい戦いを避けるのは基本であるものの、放置する事は感情面で胸中穏やかざるものがあった。父親に対して背を向けたかのような敗北感。
それらの感情は精神凍結の強度を優越した。
必要以上の精神凍結は一般生活に支障を及ぼす為、総ての感情を押さえ付ける事に成功できる訳ではない。
自身の精神凍結の上限を見切った上で踏み込んできたと見るには、ヨエルの提案は曖昧であり奥床しさすら感じる。
天翼議会の全面協力を盾に皇妃の立場を望んで、龍系種族との全面対決を避けないという展開もトウカは想定していた。トウカが龍系種族に空をとそれに関わる権益を占有させる心算はない事はヨエルも理解しており、早々に龍系種族の空に於ける絶対的地位を喪失させる事を目論んで動く可能性は十分に有り得た。権益が時を経る程に堅固となる以上、即応可能であるならば成すべきなのは当然と言える。
しかし、トウカとヨエルの許容し得る時間と各種資源の損失許容量の差異が、龍系種族の権益への挑戦時期の差異となる可能性は十分にあった。
帝国は外征戦力を喪失して諸都市を灰燼と帰され、神州国自慢の艦隊戦力は陸地を占領できない。国内勢力再編の余地ができたという向きもある。
天翼議会が国内の政治情勢の複雑な状態の簡素化を図る……端的に言えば政争を実施するというのは不思議な事ではない。
そうしたトウカの懸念を他所に、ヨエルはそうした意思を欠片たりとも見せない。
「構わないが……要らぬ憶測を呼びそうだな……」
そうした風評を恐れる二人ではないが、個人的な交友関係に波風が立つ事を危険視した。
トウカとしてもアリアベルに対しては兎も角、クレアに対しては後ろめたい感情を覚えた。精神を凍結すれども、その精神の方向性それ自体は把握できる。
「あら、堂々と逢引きを為さると仰るのですか?」
「宰相ならば隠蔽は容易か……天使は怖いな」
トウカは苦笑する。
ヨエルは、心外だと頬を膨らませる。
その光景は建国時と変わらぬものであった。




