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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第三章    天帝の御世    《紫緋紋綾》
354/429

第三三六話    士官候補生



 田舎から出てきた若者といった表情を隠しもせずに、彼は一際大きく、そして直線を多用した質実剛健な城塞を見上げる。


風の噂でしか聞いた事のない建造物を、保護占領で見た深緑の皇国陸軍の軍装を纏って見上げているという奇跡の連続に彼は浮足立っていた。


「あれが皇城か……」


とは言え、軍装であっても士官候補生のものに過ぎず、世間からは微笑ましい学生の一部として見られているに過ぎない。


 部族連邦北部……皇国に保護占領されて現在は南方保護領と呼ばれている地域から志願して士官学校の門を叩いた彼は幸運にも学科試験と体力測定で合格水準に達した数少ない人物であった。


 無論、南方保護領の教育水準では、皇国陸軍士官学校への入学は難しく、更に難関である海軍士官学校の入学者に南方保護領出身の者がいなかった事からもそれは分かる。


「おい、ニコラ。遅れるぞ」


 彼――ニコラは僚友に肩を叩かれて皇城府から視線を外す。


 士官候補生が田舎から来た観光客の如き有様を見せていれば軍の質を問われるとニコラは思い直す。


 実際のところ、南方保護領だけでなく、皇国の他地方から初めて皇都に訪れた者が大部分である為、ニコラと同様に田舎から来た観光客も同様であった。引率の助教や教官もそれに注意を促す事もない。何ならば周囲の皇都民も毎年の光景である為に微笑ましく思う者すらいた。


 南方保護領は陸軍工兵師団を中心とした建設企業の投入によって転換期を迎えている。


未だ間もない為に道路と鉄道路線の建設が大部分であるが、それでも巨大な建設機械を無数に投じて迅速に原野や森林を切り開く光景は現地民に未来への展望を抱かせた。建設業による国土開発である以上、そこには多数の人員が必要である為、現地採用の者達は既に軍団規模となりつつあった。その家族や金銭の流動を踏まえれば経済効果は更に多くの者に及びつつある。そうした中で、皇国に出稼ぎに出る者も多いが、全員がそうした道を選択した訳ではない。


「いや、俺たちは本当に運が良かった」


「確かに。一年前はこんな大都市に行けるなんて夢にも思わなかったからね」


ニコラは僚友の言葉に心底と賛意を示す。


 皇国陸軍士官学校の臨時入学枠の南方保護領出身者は五名。


 周辺諸国の脅威に対応すべく適正な軍備拡大を目指す天帝の下、陸海軍は急速に組織規模を拡大している。元より士官や下士官の比率が他国より多く、ある程度の軍備拡大にも耐え得るだけの冗長性を備えていたが、想定を遥かに超える規模の軍備拡大の前には不足を免れなかった。


 先代天帝を始めとした幾代か前まで天帝の政治方針から兵力に制限があった都合上、有事の際の部隊増設を想定しての士官と下士官の余裕であったが、そうした余裕のある育成をしていた皇国陸海軍は士官や下士官の人材育成にある程度の知見があった。


 士官学校や軍大学の拡充は行われたが、それは無理な規模ではなかった。


 当代天帝が軍人の教育に対して理解を示す人物であった事も大きく、軍備拡大に合わせた士官や下士官の大量育成に向けた準備は順調であった。


しかし、そうした天帝の理解と協力は、同時に天帝の政治的思惑が士官や下士官の教育に加わる事を意味した。


「僕は幸運だった。本来なら入学なんて無理だったよ」


南方保護領出身の五人の中で最も成績が芳しくないニコラは、そう考えていた。


天帝は南方保護領出身の士官誕生を所望している。


そうした噂は時折、ニコラの耳にも届いた。


 政治的演出の一環であり、共に国防を行う自国民であるという宣伝材料として期待されているのだ。決して兵として軍の下層を占めるだけに留まるのではなく、自国民として公平な立場を得られるという象徴。


 国家が公平を証明する為、不公平な形で立場を得たのではないかとニコラは疑っていた。


 本来、合格すべき人間を政治都合で押し退けた可能性は十分にある。


 ――天帝陛下は政戦両略の指導者で在らせられる。


 深謀遠慮の一つとしてニコラの皇国陸軍士官学校への入学が決まったのではないか。


「またそんな事を……それに俺たち五人の学力にそこまでの差はないだろう? 寧ろ、それを言い出すと五人ともその可能性が高いじゃないか」


「それは確かに……」


 一人だけではいかにも政治的宣伝が過ぎる。複数人同時に入学させる事で政治色を排する意図があったとしても不思議ではない。無論、その効果は然してなかったが。


「貴様ら、遅れるな」


 近付いてきた助教が二人を急かす。最後尾から遅れぬように監視していた助教に二人は未だ慣れぬ敬礼をする。


歩き出した二人。


 助教も続く。


「貴様ら、何を話していた。顔色が悪いぞ」


軍事教育に長年携わるが故の洞察が、それとも二人の顔色が傍目に見ても理解できる程に悪いのかニコラは判断に悩むが、沈黙は許されない。


「はい。いいえ、我々の合格に政治が絡んでいるのではないかと思いまして」


 政治的意図が入学だけにあるのならば良いが、それが配属先にまで影響するのであれば、敢えて激戦地の部隊に配属されても不思議ではない。血を流し祖国の為に戦死した自国民という政治的象徴を欲するのではないかという懸念。


南方保護領の中でも裕福な豪農の家系であったニコラは、そうした点に思い当たるだけの知識と知性を持ち合わせていた。


「……ない。何時から御前らは政治に御指名を受けるほど大した身分になった? なりたくば将官にでもなるがいい」


士官候補生如きを天帝陛下が気に掛ける理由などないと助教は一蹴する。道理である様に思えるが、それは一般的な皇国臣民の話である。


 そうした懸念を察したのか、助教は一転して苦笑する。


「面白い事を言う。その程度の問題に天帝陛下が関わる事などない。その様な目論見があったとしても人事局辺りの発案に過ぎないだろう。要らぬ心配で勉学に使うべき知性を割くな」


 呆れた声音の助教。


僅かな逡巡があったものの、それは想定外の言葉に虚を突かれただけ様にニコラには見えた。皇権に対する配慮や畏怖の気配はない。


 納得していない、そう見た助教は歩きながら、酷く大きな現実を囁く。


「天帝陛下がやるならば、たかが五人なの士官などとは言わぬ。現在、南方保護領を策源地として錬成中の歩兵師団を帝国侵攻の先鋒に投じるくらいの動きはするだろう」


 迂遠に五人の士官の悲劇如きで済ませる筈がないという過激な発言に、次はニコラが逡巡を覚える番であった。士官候補生として沈黙は許されない。


「助教は、その、随分と天帝陛下の為さり様に御詳しく……」


「まぁ、そうだな。内戦中は恐れ多くも陛下の指揮する軍勢と干戈を交えた経験がある」


 ニコラだけでなく、周囲で聞き耳を立てていた士官候補生達も一斉に驚きを示す。尤も、振り向いた仕草がなければ、ニコラは聞き耳を立てられていた事に気付かなかったが。


「陛下は内戦中でも犯罪以外は罪に問わぬと仰せられた。加えて、人材登用に関しては食欲で在らせられる」


それは周知の事実でもある。


内戦中の民間人殺害などを除けば、内戦を戦った将官達も敵味方問わず誰一人として降格や予備役という措置を受けなかった。寧ろ、陸軍の将官の中には内戦後にその忠勇と指揮統率を称賛されて陛下からの叙勲すらあった将官も存在する。


貴官があと幾分か無能であれば、余は内戦に勝利できた。


 賞賛によって、とある師団長などは天帝陛下の軍事行動を挫いた男という異名を持つに至っている例もある。そうした実力者への賞賛を惜しまない姿勢も、当代天帝が軍人から大きな支持を受ける理由であった。内戦中は敵であった陸軍軍人達からも概ね好意的に見られている事実は正に端倪すべからざることである。


 内戦後、血塗れの即位に至る道中で切り捨てられた近衛軍将官とは対照的であった。


「貴様らも陛下の軍勢と相対すれば分かるが、圧力が他とは違うのだ。私は帝国軍とも三度ほど干戈を交えているが、陛下の指揮する軍勢はそれらとは違い殺意が滲む」


返答に困る意見。


戦場で殺意を見せない軍隊など存在意義がない。敵を殺し、その意図を阻むのが戦場に於ける軍隊の役目である。建前は其々が適当に謳い上げはすれども、究極的にはその点に集約された。


 しかし、そうした軍隊の中でも当代天帝が統率する軍隊が殺意の面では飛び抜けていると助教は言う。


「敵への殺意に於いて苛烈なる陛下の軍勢が、貴様らの残酷な美談程度で済ませる筈もない。流れる血は多い。当然、その動きも大きなものとなるだろう」


「……大きな動きならば、事前に察せるという事でしょうか?」


ニコラは助教の言わんとしている事を察する。


大事であれば、事前に察知する事が出来る為、現状でその心配はないという意見。


 ――天帝陛下が残虐非道だから安心できるとも聞こえるけど……


都市を焼き、捕虜を”選別”する最高指揮官が残虐非道でない筈もないが、主君でもある以上、相応に建前という衣に包んだ意見であって欲しいというのがニコラの偽らざる心情であった。返答に困る為である。


「しかし、その……不敬な物言いと言いますか……」


「こと軍事に関しては陛下は非難すらお許しになられる。勿論、陛下よりも優れた軍事的見識を携えての場合に限るが」


そんな事を為せる人物が居るのだろうかとニコラは考えるが、助教はそれを当然のものと考えている。


「真実から導き出された答えを厭う真似を陛下は為されぬ。最悪の状況の中で最善の一手を打ち続ける事が指揮官に求められる役目だからだ。陛下は誰よりもそれを実践為さっておられる」


 屈折した信頼と見るべきか迂遠に貶していると見るべきか判断に迷うところであるが、ニコラは少なくとも現状では人身御供に自身が選択されるという話が出ていない事に納得できた。


「貴様ら僅か五人の血で悲劇を演出しようなどとは思われまい。為すと決めたならば、その桁は幾つも増やされるだろう」


「……果断で在らせられますね」


苛烈にして冷酷であるからこそ、士官五人程度の死で政略を成立させようなどと控えめな事は考えない。血量は時に正当性を担保する。


「軍隊とは冷酷無比な行政機構であり、貴様らもその歯車となった。陛下が携えておられる苛烈にて冷徹な意思を貴様らに養わせる事が私の役目だ」


笑う助教。


ニコラ達は笑えなかった。












「あの参謀、愛らしい姿で恐ろしい事を言う。この国の軍隊が精強な理由が分かる……街中で女を引っ掛ける時は気を付けないとな」


イザーク・ゴットフェルト士官候補生という皇国中央地域出身の級友に、ニコラは返答する言葉を見つけられなかった。


 ――皇国人は返答に窮する言葉を投げ付けるのが挨拶だと勘違いしている節があるなぁ。


種族的多様性というものはニコラの日常生活に対して大きな変化を齎した。路傍で年若い娘が重い荷物に苦心している姿を見かけて声を掛けたは良いものの、その荷物はニコラが持てる重量ではなかったりなどという出来事は枚挙にいとまがない。


「シャルンホルスト大佐……参謀本部の俊英と聞くけど、皇国人でも外観と言動の違和感があるんだ……」


 多種族国家の中でも特に多くの種族が存在する皇国であれば、その辺りは日常の一部として特筆される事すらないとニコラは考えていたが 、実際のところはそうではない。


 多種族国家と言えども、その生活は比較的近いしい種族特性の者達で纏まる傾向があり、各種族が均等に国土に生活している訳ではない。


好む気候や環境によって偏在する上、種族にも関係の好悪がある。無論、強大な種族に対して距離を置きたいと考える個人や、逆に弱小の種族に対する配慮から距離を置く者存在する。


 千差万別。


イザークもまた人間種や混血種が大多数を占める地域で育った為、ある程度、種族資質的に平準化された価値観を有していた。


「狐の高級将校は珍しい。警戒心が強く目端が利くとは言うが、それは種族的に臆病だからともいえる。だが、時々、種族的特性からかけ離れた者が生まれる訳だ。ほら、平凡な両親から美人が生まれたりするだろう?」


 分かり易い例えであり、同時に酷く納得できるものであった為、ニコラは曖昧に頷く。皇国では変わった種族と変わった人間の扱いが同列なのだろうとも理解できる一言であった。排他的な故郷とは違い鳶が鷹を生む程度の扱いでしかない。


どの地域でも美人が現れれば人目を引くという程度の扱いに過ぎないのだ。


 ――要するに変わり者が多くて、特別視するまでもない、と。


そうした状況になるまで多種族国家を運営した結果、皇国では種族的差異からなる軋轢は他国より遥かに少なかった。血統上の混交と共同生活による相互理解が進むが、それでも寿命や生活様式への理解が長期間に及ぶことは想像に難くない。そして、それは未だ道程にある。


その道程を治め続けた歴代天帝という存在に、ニコラは畏敬の念を覚えた。


「それで? どうだった?」


その心中を知らないイザークはニコラの肩を抱いて何某かの感想を問う。


「どう、とは?」


単純明快に陸軍士官候補生らしく結論から口にして欲しいとは思うが、率直さを棍棒の如く扱う当代天帝の姿を見れば、一概に全ての状況下で率直であるという面が称賛される訳でもない事は明白であった。


 分からん奴だな、とイザークは破顔する。


「色んな教官が居たが、揃いも揃って美男美女。昇進していけば、ああした部下を持つ事になる訳じゃないか。副官に任命できるかも知れん。天帝陛下も高位種を副官にしていたと聞く。夢のある話だろ?」


コラは、確かに、と同意する。


高位種の副官。


 人間離れした美しさと人ならざる要素を持ち合 わせた美貌の副官は軍人であれば誰しもが憧れる存在である。


しかし、陸海軍では副官の任命権は少将以上の将官しかなく、それ以下の階級では副官は人事部により任命される。当然、”当たり”を引く可能性は限りなく低い。しかも大部分は同性 あった。軍も個人的な関係を助長する様な真似はしない。元より私的な関係に発展しやすい副官人事は場合によっては部隊や組織に不和を招く要因となりかねない為、殊更に慎重に扱われていた。


 例外は、ヴァレンシュタイン陸軍上級大将で、副官は天帝の大命により妹が務めている。極めて妥当な人事であるというのが市井の評価であった。副官が次々と懐妊して解任……人事部も暇ではない。


「噂だと俺達に夢を持たせる為らしい」


「夢?」


 将官まで上り詰めれば見目麗しい副官を用意するという夢が魅力的であるとニコラは考えない。長命な種族であれば、そうした夢にも意味があるかも知れないが、ニコラの様に平均的な寿命しか持ち合わせていない者は将官になる頃には中年も半ばである。その時まで伴侶もなく独身であり続けるというのは中々に厳しい。無論、中年独身男性が年甲斐もなく若く見目麗しい女性副官に迫るというのは外聞の面から論外であった。


短命な種からすると、見目麗しい副官というのは実現した時点で、そうした感情の多くを喪った時節に得られるものである。


場合によっては、同程度の容姿へと成長した娘が居ても不思議ではない。


「僕達が将官? それは難しいだろう。将官は高位種や中位種が大部分を占めているじゃないか」


 陸軍で高位種や中位種に属さないバウムガルテン中将も高齢と評して差し支えない年齢であり、例外であるヴァレンシュタイン上級大将は、その経歴自体が奇跡の産物であった。


「夢がないなぁ。将官にならなくても、師団司令部付き辺りならお近づきになれる機会があるかも知れないだろ?」


「将来性のない木っ端士官なんて相手にされないよ。士官になる女性だ。現実的な考え方をするに決まってる」


軍人とは現実主義の権化である。


ニコラは士官教育を受ける中で、そうした感想を持つに至った。


虚実を排し、不確定要素を客観的に判断して最も高い可能性を選出する事でいかなる状況でも最善の決断を下す。言うは易く、ニコラからしても無茶を言うというのが本音であった。しかしながら、その無茶をする為に育成される以上、私生活もまたそうした思想に影響を受けるとニコラは確信していた。無論、それは士官学校での人間観察による推察からである。


 ――天帝陛下も現実主義の権化だ。


大蔵府官僚に対する意見は市井でも語り草になっている。



数字を示せ。期日に至り数字に不整合が出ていれば、その原因を説明せよ。道理の通らない説明なら起案者と貴官はその立場に相応しからざる人物という事になる。



 単純明快な主張である。


 自らの失策や、或いは自府の利を口にできる筈もなく、止むを得ない理由のみが俎上に挙げ得る。詭弁や曖昧の余地を数字の提示で無くし、その上で期日にできているかを評価する。


 軍人らしい虚実を排した考え方であり灰色を許容しない姿勢は、官僚達の曖昧な提案を許さなかった。しかも、国家憲兵隊の権限拡大による監視や、外注業務入札の公表、天下り団体の大幅な制限を以て実力の伴わない人材を振るい落とす構えを見せていた。


 とは言え、退役軍人の再職先確保には天下り団体に等しいと非難もあり是々非々である。退役軍人も有事における予備戦力と考える天帝や軍に対して大蔵官僚を始めとした多くの府は対照的な扱いをされている為、不満を示した。当代天帝の軍事偏重の証明だとする者も少なくない。無論、天帝は有事の際に陸海軍府以外の人員も予備戦力に加えるという法制度化を許容するならば、天下り団体として人員を保持する事も吝かではないと妥協案を示したが、端的に有事の際に戦場で死ぬ覚悟があるなら認めるという主張の前には多くの府が諦める他なかった。


皇国軍人の合理性は狂おしい程に示されている。


そうした者達が恋愛に将来の打算を持ち込むとは、ニコラには思えなかった。打算ありきの恋愛の可能性すら在り得る。


「御前は夢がないなぁ……皇国の多様性に賭けてみろよ」


 多様性を著しく低い可能性の担保にするというのは如何(いかが)なものかと思わないでもないが、ニコラも著しく低い可能性に助けられた身である。


 誰が、他国の保護占領と大幅な公金投入で活気付く郷土を予想できようか。


「でも、本分は士官教育だからね。時間に余裕があれば、だよ」


「真面目だねぇ」


胡乱な瞳のイザークだが、声音は好意的なものであった。勤勉を厭う気質を斜に構えて称賛する程に彼もまた捻くれていなかった。


しかし、天下の往来……皇都陸軍士官学校の正門通りの長椅子でするには好ましからざる会話である事も確かであった。


その代償は早々に襲来する。



「そこの士官候補生。随分と愉快な話をしているな?」



 二人は直立不動で敬礼する。


小さな影。


獣耳と尻尾が揺れる。



 ネネカ・フォン・シャルンホルスト大佐。



 軍服を着た小狐。


先程の講義で教鞭を執っていた陸軍参謀本部の士官でもあった。


 大佐という階級は軍では高位に位置し、二人からすると雲上の存在である。あと一歩で将官に任じられる立場であり、当代天帝の覚え目出度い人物であると専らの評判であった。粗相できる相手ではない。


「夢を見るのは結構だが、目を付けられて良い事ばかりとも限らない」


 今の様に、とはネネカも口にしないが、存外に匂わせる。


 謝罪を口にする二人だが、ネネカは、気に留めた様子もなく長椅子に座る。


 長椅子の両隣を両手で軽く叩いて着席を促すネネカ。


二人からすると恐怖しかない。


 しかし、着席せぬ訳にも行かない。


一礼して着席する。


気が付けば長椅子の背後には副官と思しき小狐が控えている。


「まぁ、貴官らの期待も強ち批難されるべものでもないのだ」


叱責を受けるかと思えば、肯定であった。


二人は困惑する。


「そうした期待を匂わせて向上心を掻き立ててる……士官学校も中々どうして大衆的な策を弄する」


心底と呆れたと言わんばかりの声音に二人は顔を見合わせるが、軍内にも多くの派閥があり組織がある。思惑が交錯する事は日常茶飯事であり、その気配を感じる事は士官候補生の身でもあった。


 だが、士官候補生に堂々と断言する事は二人をして前例を聞かぬ事であった。


「その……明言されて宜しいのでしょうか?」


「公然の秘密というものだ。それに、その期待の一部を担わされた者として不平を口にする権利と言うものもあるのではないか?」


二人は曖昧な笑みを浮かべる。


見目麗しい女性高位種を副官として侍らせる機会があるのではないか、という期待を匂わせるというそれに踊らされた身としては耳が痛い話ではあった。確かに匂わせる材料とされた者の機嫌が良い事は稀有であるのは疑いない。


「あの紫芋が喜んで教卓に立っているからと、私までそうした茶番を好むと考えるのは短絡が過ぎる」


同意を求められないだけ救いがある。求められては何処かで要らぬ不興を買いかねない。


 ――紫芋……ハルティカイネン大佐か……


装虎兵士官学校に於いて極めて優秀な成績を残した士官候補生であり、有力者と深い関係を構築しつつ、在学中には構内で酒造に励んだりと破天荒な人物として語り継がれている。挙句に卒業前に退学。北部に帰郷後はヴェルテンベルク領邦軍に仕官し、内戦では活躍。現在は天帝周辺で情報を扱う立場に居る。


 ヴァレンシュタイン上級大将と同様に奇跡の経歴と称される人物でもあり、現在も彼に負けない程の話題性を持つ人物でもあった。


歴史を舞台として舞い踊る女性士官とも評され、目立つ事、衆目を集める事に対して忌避感のない人物と比較される事を、ネネカが酷く嫌っている事はその様子からニコラにも容易に察せた。野戦将校と参謀将校の違いと見るよりも、人間としての資質の差である。無論、現在は情報将校であるにも関わらず、話題性のある人物というのも矛盾の塊であった。


「そもそも、こんな貧相な身体の女を求める変態を想定した士官学校もどうかしている」


完全な不平に等しいが、そう言われては返答に窮する。背後の士官は身じろぎすらなく控えていた。助はない。


「しかし、大佐は天帝陛下の覚え目出度く傍に侍る機会もあると聞きますが……」


イザークの指摘にニコラも頷く。


枢密院成立に当たって枢密院議長である剣聖ヴァルトハイムを補佐する立場を得たネカは参謀本部付きである儘に、国家中枢に関与していた。政戦のどちらにも意見を可能とする立場。並の軍人では許されぬ立場であり、同時に十全に勤め得る立場でもなかった。


「実力に自信はある。しかし、狐耳と尻尾があれば大抵は喜ぶだろうというあの発想でこうした役目を負わされては堪らない」


存外に天帝批判を滲ませるネネカ。


ネネカにそうした役目を、有無を言わせず強要し、そして狐に対する執着という意見を聞けば、誰が推挙したかは二人にも容易に想像できた。


 内情としては、士官学校からの提案に対し、天帝が快諾したというものである。


陸軍士官学校は点数稼ぎ……予算増額を意図して、トウカに近しい将校達による定期的な講義を上奏した。


トウカの支持基盤は北部にあり、陸海軍では軍備拡大に伴い支持者も増えているが、一度は干戈を交えた事もあり蟠りは未だ残っているのが実情である。そうした中で将来に禍根を残さぬ為、そしてトウカに近しい将校達の将来的な立場を補強する為という思惑を背景に、士官候補生に対して戦場体験を経た者から伝える為という建前で講義する。


 好意を勝ち取る必要がある以上、実力と実績が必要であるが、当然ながら容姿も必要とされる。ヒトは結局のところ第一印象に負うところが大きく、第一印象によって後に続く理解までの時間を大幅に短縮できた。


 そうした経緯から容姿に優れる士官達による講義が行われた。


「しかし、大佐の講義は勉強になりました。身が引き締まる思いです」


イザークがネネカの講義を称賛するが、ニコラは無表情で聞き流す。


見目麗しい女性の副官を望んでいると会話していた男に講義を称賛されたところで寒い世辞でしかない。


案の定、溜息を零した小狐。


外見は小狐でも、二人からすると数倍生きた年長者であり、人間としても軍人として遥かに経験を有している。若造の慰めが意味を持つとニコラには思えなかった。


「陛下の御深謀があるのではないでしょうか? 及びもつかない……」


「大凡の見当は付く。成程、貴官の言う様に政戦共に意義のある事だろう。だがな……」


不満を垂れ流す小狐の大佐。二人は扱いに困った。背後の副官からも些か草臥れた雰囲気が漂う。



「何故、私の講義が紫芋の講義より評判が芳しくないのだ!」



 尻尾を逆立てて遺憾の意を示す小狐。


ニコラは故郷に帰りたいと天を仰ぐ。当然、豪農の家系だが紫芋だけは育成しないと心に誓う。


 リシア・スオメタル・ハルティカイネンという女性は兎に角、性別問わずヒトを惹き付けて止まない。紫苑色の髪に利発な印象を与える顔立ち。そうした外見とは裏腹に皮肉と大言壮語を口にする様は子気味良く捉えられ、立場問わず多くの者に人気を博していた。


 尚、講義は紫芋を原料とした蒸留酒製造についてのものであった。


 ――この国は大丈夫なんだろうか?


ニコラとしては新たな祖国に一抹の不安を覚える出来事でもあった。


しかし、リシアという将校に対して隔意を抱いたかと言えば、そうした事はなく、寧ろその美貌を鼻にかける事もなく、軽妙で気安い雰囲気は親近感を抱かせた。野戦将校としても部下に慕われたであろう事は容易に想像でき、情報将校としての実績は寡聞にして聞かないが、その立場を巡る不穏な話は一切ない。リシアが情報将校として当代天帝に近しい立場にある事を皇国の情報部門は重視している事は誰しもが容易に想像できた。


「貴官はどう考える?」


イザークではなくニコラへと話を振るネネカ。イザークは当てにならない男という扱いであった。


「……名と実のどちらを選ぶかは大佐御自身が判断すべきことかと」


 リシアは名を以て別の実を得る事を得意としている。著名である事を利用して物事を進める事に長けている様にニコラには思えた。無論、新聞紙面からの印象であったが、名を以て話を通す様は政治家の様ですらある。


「名か実か……」


 迂遠にリシアの講義内容に実がないと口にしているに等しいが、明白ではない以上は問題とはならないとニコラは見た。そもそも、内容を知る者であれば抗弁などする気も起きない。蒸留酒が殺菌にも嗜好品にも火炎瓶にもなるという強弁を信じる者は一部の呑み助だけである。


「貴官は冷静だな」


「はい、南方保護領出身なので下手はできません」


 己への評価が南方保護領出身者への印象となりかねないと、ニコラを始めとした五人の南方保護領出身の士官候補生は常々警戒を怠らなかった。トウカがどの様に謀略を巡らせても、現時点で南方保護領は外様である。


ネネカはニコラを見上げる。


あどけなさの残る幼女の視線。射る様なものではないが、女の視線であることに変わりはなく、寧ろ相手は年長者であった。


「そうか……南方保護領か。しかし、そう警戒する事もないだろう。新領土などこれからは珍しいものではなくなる」


座り直したネネカが事も無げに領土拡大の意図を口にする。


 否、実情としては天帝が既に幾度も口にしており、領土的野心を露わに帝国を見据えていた。防御縦深の確保という名目……侵攻は、侵攻を受けた皇国からすると正当なものであり、周辺諸国でも支持する国家は少なくない。特に現在、帝国に軍事的圧力を受けている国家から見れば、皇国が帝国に対して攻勢に転換するのであれば、自国への軍事的圧力が減少するのではないかという期待もあった。


他国の期待と困難を背景に皇国の領土拡大は為される。


帝国と敵対する国家の合意を以て侵攻と併合を正当化する皇国は、部族連邦に対しても帝国との連携の動きがあると指摘がある。部族連邦は強く否定しており、皇国の次なる侵攻の正当化工作と見る向きもあるが、隣の連合王国が帝国と連携して共和国に侵攻した為、周辺国もその可能性を排除できない。


 何より、帝国と領土を面する国家からすると部族連邦の去就よりも自国への軍事的圧力の低減こそが重視するべきことであり、皇国の領土的野心は座視しても懐の痛まぬものであった。


「貴官の郷土は最初の保護領かも知れないが、最後の保護領ではないだろう。近い内に貴官の出自など誰も気に留めなくなる」


四方八方に対して酷い言い草と言える。


そして、天帝の領土的野心が単なる支持獲得の為の大言壮語ではなく、軍内部でも作戦計画として立案されているであろう事を滲ませる言葉に、ニコラとイザークは息を呑む。


「別に機密ですらない。我が国は敵を叩く。容赦も慈悲もなく。陛下は怒れる軍国主義者だ」


 余りにも酷い物言いにニコラもイザークも返す言葉がない。


有言実行の天帝の言葉は大言壮語ではなく、将来的な目標の一つとして具体的な戦略が立案されているのだと理解できる一言。士官候補生如きに口にする以上、それは決して機密事項ではない。


国家方針として敵性国家の撃滅を志向している。


「これから皇軍は忙しくなる。貴官の立場など忘れる程に、な」


長椅子から飛び降りる様に立ち上がったネネカ。


ニコラは郷土が皇国の一部として組み入れられたのは、次なる戦争準備の一環なのだと痛感した。


棚引く戦雲は皇国を覆いつつあった。





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