第三三五話 神州国の狐
「こうなっては一段と強力な措置によって譲歩を迫るしかありますまい。その為に皆様にもより一層の協力を要請したく御座います」
侍従長である岐土詠膳はそれらしい文言で飾り立てた言葉を聞き流す。御高説ご尤もと受け入れる筈もなければ、そのままの無礼な提案に納得するはずもない。
「要するに皇国近海まで攻め寄せる。しかし、大砲屋も航空騎が怖いから当家の航空母艦を寄越せ。その様な認識で宜しいでしょうか?」
しかも、無料で、と毒付いた九条家筆頭家老の安倍晴明は九尾を揺らして嘲笑を示す。御簾の先に誰が控えるかを知っての振る舞いであり、恐らくはその人物に対してのものでもあると理解できた。
参列者の中にも顔を頼める者が多い。
しかし、海軍とそれを支援する大陸権益を求める者達……首領である公家の高円寺氏から名を取り高円寺閥と呼ばれる者達は特に険しい表情である。
だが、一歩たりとも譲る姿勢を見せなかった晴明は心底と侮蔑の表情を隠さずに吐き捨てる。
「しかし、姫様が仰るのでは致し方ありますまい」
「おお! 御協力いただけるのですか!」
すんなりと事が進むとは誰しもが考えておらず、相当の譲歩か悪態を覚悟していた。しかし、悪態はあったが、それは僅かな時間、国難を憂うる以上は最善と理解したが故かと詠膳は感心する。
――私益と国益を天秤に掛け得る、か。九条家。侮れぬ。
少なくとも非難は受けぬし他方からの感謝も得られる。提案に不満を持っていると示す事で、譲歩の価値を高めようとの思惑でしかなく、最初から腹も決まっていたのだろうと詠膳は感心した。
「海軍は戦争に備えて銭を出したくないと貧乏を言うので航空母艦四隻は恵んで差し上げましょう。ただし、条件があります」
言い様が余りにも挑発的なので海軍大臣が顔を赤黒く染めて震えているが、晴明はそれを流し目で一瞥して口角を吊り上げる。
狐の厭らしさを嫌と言う程に、この場の人間が理解する。
しかし、航空母艦を一隻に付き駆逐艦一隻の価格で買い取らせろと叫ぶ横柄と傲慢に対して海軍側の要求もまた度を越したものである為、同情を得られる事はなかった。
「当家はこの“戦争”に反対しており、その過程と結果に於いてこれ以上の協力は行わず、無関係であるという確約を頂きたい」
航空母艦四隻の譲渡の代わりに、戦争に於いて生じた問題や責任、戦時下の協力を行わないという取り引き。
大きなどよめき。
非協力だと罵る声はない。戦前に航空母艦四隻の譲渡を行うという“協力”を行う以上、非協力的だと非難するのは無理がある。
しかし、九条家が明らかに戦争で神州国が敗北、乃至、相当の被害を受けるという前提でいる事に対する怯えが周囲に広がりつつある。
九条家の白狐。
謀略などを好むなどという陰惨な事実はないが、極めて弁が立つ上に先を見据えるという点に於いては端倪すべからざる資質を持つ人物であると歴史が証明している。
九条家は、皇国との戦争に於いて多大な障害となるであろう秘密を嗅ぎつけているのではないか。
そう考えた者は少なくない。
堪りかねて詠膳も口を挟む。
「無関係とはいかなる点を指すのであろうか」
「金も人も出さぬ。資産も国外へと移す」
余りにも直截的な物言いに鼻白む詠膳。
家を保つのは武家も公家も一大事であり、全てに優先する。自身の生命よりも家名を保つのは神州国の武家や公家の仕来りであった。
しかし、堂々と……国家元首が臨席する場で自国の敗北を想定して動く言うに等しい発言をして角が立たぬ筈もなかった。
「我が軍が負けると仰るのか!」
堪りかねた海軍大臣の怒声。
「新皇の治世下となって初の戦では随分と手心を加えられたではありませぬか。よもや、もうお忘れになったか?」
売り言葉に買い言葉。
艦隊が真紅の染料で染め上げられた点を手心と揶揄した言葉に海軍大臣が立ち上がろうとして、周囲の者達に掴まれて唸り声を上げる。特に横の陸軍大臣は必死に縋り付いていた。
対する晴明は立ちはせぬものの、右手を突き出して殴り付ける動作で受けて立つ姿勢を露わにする。煽っているとも言えた。
御前会議。
そう呼ぶには品がない状況に陥りつつある。
御簾の向こうからの溜息。
呆れとも諧謔とも取れる溜息。
それを一瞥した晴明は朗々と取り返しの付かぬ一言を口にする。
「そも、海軍が負けるのではありません。神州国が負けるのです」
その効果は劇的だった。
怒声。
しかし、晴明が挙で床を打ち据え、破砕音と鍵が奔った事で沈黙に転じる。
最早、筋者が如き振る舞いである。
――それだけ鬱憤が溜まっているということだろうが……
「敗北まで行かずとも、停戦となれば国体は保てよう。彼の国の渡洋能力を踏まえれば、我が国を降伏に追い遣る事は現実的ではなかろう」詠膳は一般論を口にする。
一般論に過ぎないが、覆し難いからこその一般論でもある。
同意の声が幾つも上がる。
晴明は失笑で応じる。
「何故、攻撃を受けるのが海軍だけなどと思うのか。妾には理解できません」
これは碌でもない事を口にしようとしていると、詠膳は止めるべきかと逡巡するが既に遅い。
「この国の国土、国民、経済、歴史、文化……神州国に根差す全てが攻撃対象なのです。海戦で勝てぬなら他に刃を突き立てれば良い。アレはそう考える生き物です」
心底と忌々しいと言わんばかりの表情から吐き捨てられた事実。
余りにも過激な言葉に沈黙が降りる。
少なくとも晴明の表情は、それが既定事実であると確信している様に見えるが、詠膳は些か誇張が過ぎるのではないかと考えた。
「その様な手段があると?」
「少なくとも、そうした手段を遠くない将来に保有するだけの目算はあるかと。だからこそ我が国の挑発行為に正面から応じたのです」
状況証拠から見れば正しい。
妥当し得る手段を手に入れる目算が付いたからこそ交戦を決意した。しかし、トウカの即位に合わせた方針変更という印象が強い為、多くの者達はその方針変更をトウカの気質や思想に根差したものだと見ている。詠膳も例外ではない。
「しかし、模擬弾を用いたのは本格的な衝突を避ける為ではないか? 向こうも帝国との軋轢を踏まえれば、我が国との本格的な衝突は望む まい。交渉の余地はあると思うが……」
実弾を使用して艦隊戦力を漸減する好機を逃すとは思えないからこそ、皇国が強い姿勢を崩さないままに本格的な軍事衝突を避ける事に腐心しているという論調が補強された。
否、と晴明は否定する。
「例えそうだとしても、帝国を滅ぼした後、仕切り直しの戦争が待ち受けているでしょう。帝国の人口と資源を吸い上げて強大化した皇国は我が国を滅ぼしに来る。他の大陸国家も帝国打倒で肩を並べた皇国を支持する……或いは義勇軍の派遣くらいは在り得るかも知れない」
詠膳は併合という言葉を使わずに、人口と資源を吸い上げたなどという迂遠な表現を用いた事に首を傾げた。
しかし、それを問う事はない。
先に専門家からの意見が飛び出した為である。
「海上戦力の差異は一〇年程度で埋め得るものではない。いざとなれば大陸封鎖を行えばいいのだ」
海軍大臣の指摘に次々と同意の声が上がる。
事実、他大陸との戦争では大陸封鎖によって勝利した経験がある為、そこには説得力があった。強大な海上戦力は大陸封鎖の阻止を決して許さない。
商用航路に対する圧倒的なまでの干渉力。
それこそが神州国海軍の存在意義であるとすらされている。 邪魔を許す程の脆弱な戦備ではない。
「その過去の実績を含めて覆し得ると判断したのがあの男なのですよ」
喧伝されている程度の内容への配慮を怠る男ではないという晴明の断言に、多くの者達が鼻白む。
「筆頭家老殿は、随分と新皇について詳しいのですな。懸想でもされましたかな」
海軍大臣の明らかな侮辱。
眉を望める者も多いが、晴明はこれはしたりと応じる。
「勿論で御座いますよ。若く勇敢で聡明。そして、馬鹿を縊り殺す事に何の躊躇いもない。愛すべき英雄ではありませんか」
なんと酷い返答かと詠膳は頬を引き攣らせる。海軍大臣も返す言葉がない。
そうした意見の応酬が飛び交う酷く荒れた御前会議であったが、多くの有力者の大陸への野心は変わらず、神州国の方針は変わらない。
暗囲もそれは理解しているのか政策変更を口にはしない。
盛大な皮肉と無関係を謳うだけであった。
これでは埒が明かない。
そう考えたのは神聖不可侵の存在も同様であった。
近習が会議の終了を告げる。
罵り合いでは意味がないので詠膳も賛成であったが、詠膳と晴明は、多く者がその場を辞する中で近習に呼び止められて機会を逸する。
――陛下は直接お話を伺いたいのであろうが……
あの罵詈雑言が幼き性下の情操教育に宜しくないという懸念を詠膳は持っていたが、当の晴明は婿やかな笑みで他社の懸念など知りもしな いという表情をしていた。
探りを入れる意味もあり、下座に二人だけが残された機会を計って詠膳は先手を打つ。
「しかし、無料とは気前が良い。関心致しましたぞ」
試行錯誤による度重なる改修を含めれば一隻辺りが軽戦艦の建造費を超える程度には費用を投じられている。それを無料で譲渡するというのは傍目から見れば剛毅以外の何ものでもない。
だが、晴明は怪訝な顔をする。
「? 運用する水兵と搭載する航空騎のない航空母艦など単なる洋上の棺桶ではありませんか?」
詠膳は唸り声を零す。
付け加えるならば、既に対空砲は取り外して転用しておりますゆえ、と晴明は苦笑する。
似たような事をトウカが内戦後に海軍に〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦二隻の譲渡の際に行ったとは晴明も知らない。他では製造していない四一㎝砲を機動列車砲に転用して、別売りとした事に海軍は卒倒した。交渉成立時には取り外されている以上、戦艦の構成部品ではないという屁理屈である。
「その方は勝てぬと考えて距離を置くのか?」
御簾の向こうよりの問い掛け。
童女の声音だが、問い掛けの内容は端的で無駄がなかった。
しかし、晴明は口元を曲げた。
「勝つ、という定義に依るでしょう。城下で降伏調印を迫るというのであればまず不可能でしょう。戦争が長引けば大陸国家の同盟という話になりかねません」
国力差が顕著になり、海軍力のみで対抗する事が不可能になると捉える事もできるが、それだけではないと詠膳は見ていた。
「皇国と共和国、協商国を結ぶ鉄道は将来的な大陸横断鉄道の建設を睨んだものと推察できます。恐らくは船舶輸送が制限された状況でも輸出入を行う為の代替手段の一つでしょう……既に皇国は我が国との戦争を想定して動いております」
島嶼の占領や艦隊による軍事衝突が生じている以上、それは当然であるが、当時は皇国が好戦的姿勢を露わにすると考える者は神州国に極僅かでしかなかった。詠膳も帝国を敵国として抱えている現状から神州国までをも敵に回す動きを取るとは考えてもみなかった。
若き天帝は神州国の陣営と見做す事で、他の大陸国家からの支援を得ようとしている。そして、それは成功しつつあった。
「元より敵対は危険を伴うもの……相手が思う儘に動くと確信するなど笑止な事に御座います」
御簾は言葉を返さない。
君臨すれども統治せずという法が存在する訳ではないが、活発な議論や民意を重視するのであれば必要最低限の意見のみに留めるべきであるという方針を先王である父から継承した幼き指導者は逡巡を見せていた。
詠膳は結構な事だと考えている。
決断しない事を問題視しなければならない現状ではなく、寧ろ逡巡を見せる慎重な姿勢は好ましいものがあった。
「親書を書く」
端的な一言。
こちらの立場を理解して貰おうとの発想からのものであると理解できた。
詠膳も、親書による意図の直接的な遣り取りを考えないでもなかった。親書の提案自体が不敬な事であるものの、皇国の思わぬ反撃に大陸への野心を滲ませる者達の中にも親書によって自体の収拾を図ろうと考える者は少なくない筈であった。
完全に打ち負かして大陸に堂々と軍旗を掲げようなどと考える者は強硬派にも居ない。そこまでの無能が派閥で主導権を握る、或いは重用される程度であれば、晴明が早々に切り崩していたと詠膳は考えていた。或いは、実害が出るまで放置し、実害が顕在化した瞬間にこそ苛烈に抵抗する事を想定していた可能性もある。
実害とはどの程度のものか。
詠膳はその点を気にしていた。
「意図を表明しても、大陸への野心を是正できなければ無意味でしょう。我が国は大陸の大同盟と睨み合うことになります」
国内世論に引き摺られつつある神州国では強硬派の意見を抑える事は難しい。
御簾の先からの一言で世論を回天させることは可能だが、それは反発と遺恨を招くことは疑いない。強硬派の激発を招く公算が高く、それを可能とするだけの支持者を強硬派は軍内に有していた。
――成程、天帝は国内の軍事力の大部分を抑えている。
トウカは予算と好意を根拠に陸海軍の支持を獲得し、皇州同盟軍までをも隷下に加えている。反覆常ない貴族の領邦軍が群れたとて隔絶した彼我の戦力差を覆し得ない程に圧倒している。
国内での軍事的優越は、敵対的政治勢力による軍事力による乾坤一擲の大博打……武装蜂起の危険性を大きく低減させ、自らが乾坤一擲の大博打を行う場合の成功率を向上させる。
軍という一部の分野への影響力増大の為に投じられる予算は、国家に属する者達……広範囲の国民への影響力拡大の為の予算と比較して酷く非効率だが、軍という実力組織の支持は、政治だけに留まらず、場外での争いに持ち込める余地を持つ。平素であれば民衆が軍の予算拡充に対して不満を持つ公算が高いが、皇国の場合は帝国という脅威が猛威を振るった直後である為に支持を得やすい。常に強大な海軍が他国軍を遠方海域で撃破し続けている神州国とは大きく違う。
――それに天帝は株式での投機的な運用で莫大な予算を増やしていた。
予算として運用する資金の母数を増やす事で軍拡のみへの偏重を低減する事が可能になる。少なくとも軍拡が行われても、民間への予算配分が減少しない、或いは微増するのであれば民衆の不満は生じ難い。
実際、トウカは国土開発の必要性から土木建築の予算を激増させており、それに伴う民需の拡大は好景気への入り口を生み出しつつあった。
「最善は奪った島嶼など早々に返還して、我が国も帝国との戦争に加わる事です」
「非戦ではないと? しかし、それは……」
戦争に否定的な幼き姫君への配慮を詠膳は忘れない。
そもそも、何かと持ち出しの多い戦争という不採算事業に対して詠膳もまた否定的であった。相手が立ち向かってくるのであれば迎え撃たねばならないが、自ら踏み込んで戦った末に勝ち得るものが少ない事は歴史が証明している。
しかし、巨大な海軍と広大な航路を維持するには予算が限界を迎えている。
世界最大最強の海洋国家を維持する為には資金が必要であった。
それ故の植民地である。
「多数に迎合して少数を叩くのは外交の基本です。何より粗相をしているのですから、味方であるという印象付けにはより積極的な方法が望ましいでしょう」
単純な論法であるが、敵の敵は味方である。皇国の敵である帝国を苛烈に叩けば皇国は態度を軟化させる公算が高い。味方が多いに越した事はなく、他の大陸国家も帝国との交戦に当たって味方国を増やすべく両国の間を取り持つ動きを図ろうとする事は疑いない。皇国は帝国との戦争で被害と費用を抑えるべく他の大陸国との連携を無下にはできなかった。
「理屈で言えばそうだろう……しかし、植民地よりも利益を齎す訳でもなければ強硬派は納得すまい」
詠膳としては、その点があるからこそ説得が難しいと考えていた。
その点を解決できるならば、当の昔に着手しており、植民地という名の領土的野心が朝野を満たす事もなかった。
しかし、晴明はそれを鼻で笑う。
「笑止なこと。……そもそも、植民地は多くの者達が考えている程に利益を生まないでしょう。恐らく将来性もない。あの天帝が部族連邦北部を植民地化ではなく本国化する動きを見せている事がそれを証明しています」
合理的根拠として真っ先に隣国の政戦両略の指導者の名を出すところに晴明の屈折した信頼感が窺えるが、詠膳は指摘する事もない。話の腰を折り、有意義な意見が喪われる事を恐れた。何より、幼き指導者を毒舌の前に立たせる訳にも行かず、詠膳は意見を可能な限り自らが主導して吸い上げる必要があった。
「植民地化が容易なほど技術的に落伍した国家であれば、農業技術や工業技術も、我が国として大きく劣っている事は疑い在りません。効率化と技術導入による生産量拡大がなければ、大きな利益は生み出さないでしょう……ただ収奪するだけでは忽ちに枯渇して終わる。飢餓地獄を他国に揶揄されて印象悪化を招くだけです」
植民地という可能性そのものへの毀損。
もし晴明の口にする通り植民地運営が想像通りの利益を生み出さないのであれば、戦争は確実な不採算事業との結論となる。
「何故、それを先の会議で言わぬのか」
説得材料としては相応であり、各種資料を集める事も可能である筈であった。それを根拠に強硬派を切り崩す事も可能である様に詠膳には思えた。
「言って理解できると? 誰しもが挑んだことのない近代での植民地発展なのです。売り言葉に買い言葉の挙句、やって見せる、で終わる話ですよ」
実績がない以上、それを否定する根拠もまた各種資料を繋ぎ合わせた相応の理屈を持つ推察でしかない。信仰の如く植民地運営という夢に縋る者達を説き伏せ得るには弱かった。
晴明は九つの尻尾を揺らす。
御簾も揺れる。
「そもそも植民地運営で想定する利益を出す為の効率化と技術導入にどれほどの予算と人材が必要になる事か。挙句に各種物資の生産量の増大は植民地の国力増大を意味します。長期的に見て独立するだけの地力が付くという事です」
詠膳はその意味を察して唸る。
強硬派が見積もる規模の植民地運営の利益が生じるならば、植民地は相応の経済基盤を有するという事でもある。近代に突入した以上、農業だけで利益を得るのは困難で、相応の工業力も与えなばならなかった。それでは独立する為に予算と人材を投入するようなものである。
だが、その危険性を訴えても尚、軍事力で抑えればよいとの意見が出る事は詠膳にも容易に想像できた。
軍事力は万能である。
近年はそうした風潮が吹き荒れつつある。
隣国の天帝が自らの敵を軍事力を恃みに危なげなく粉砕し続けている様子に感化されているのだと詠膳は見ていた。
しかし、晴明はそうした推察に留まらない。
「いや、そうね……皇国は早々に奪う事すらしてくれないかも知れない。反乱と飢餓が相次いだところで保護占領という名目をもう一度利用して国際世論に正当性を訴えながら領土を増やすというのも……寧ろ、我が国を積極的に大陸へ引き込むかしら?」
酷く悪辣な意見を聞いた詠膳は顔を引き攣らせる。
政戦両略の天帝が自国の利益の最大化を図る事は明白であり、現状で敵対的な神州国を利用する動きを取る事も同様であった。
晴明は、ならば、と満面の笑みで提案する。
「正直なところ。帝国人を”計画的に移民”させて辺境で集団農業や軽工業に従事させる方が費用対効果は優れるでしょう……提案しましょうか?」
計画的に移民という意見が、欺瞞情報で帝国人を招き寄せる、或いは人身売買や拉致の類で誘き寄せて使い潰す事であるのは詠膳にも容易に想像できた。
「ええい! やめよ! 斯様に話を悪しきほうへと進めたいか!」
幼き指導者に聞かせるにはヒトの悪しき一面が過ぎる。
だが、晴明は天然とした笑みを湛えるのみ。
「事実は全てに優越するのです。政治に於いては特に。例え相手が思想や道徳であっても……夢物語を語りたいと仰るなら存分になさるといいでしょう……その先は亡国でしょうが」
国家の滅亡。
そうした言葉を国家指導者の前で堂々と口にする胆力と、現実を殊更に神聖視する狂信性に対して詠膳は臆するものがあった。
「現実は皆を傷つける……悪しきものだ」
御簾の向こう側からの指摘。
「正に。我らはこの悪しき世界で生きております」
優美に首を垂れる九尾の狐。
「……では、新皇に新たな洋上迷彩の塗装に御協力いただいた海軍大臣の感謝を妾が皇国にお伝えに参りましょう」
その際に親書を渡す。
そうした方法によって親書を非公式に手渡す事で国内勢力の要らぬ動きを招かない。
何よりも国家指導者間の意思疎通によって最悪の事態を回避するというのは即効性があった。無論、水面下での動きである為、反故にされる可能性は公式上の折衝よりも高い。それでも理解を求めるという一点のみに絞るのであれば意義は十分に有った。神州国の情勢を理解したならば、皇国本土の危険性は乏しいと判断する公算は高い。
少なくとも詠膳はそう考えた。
不意に御簾が揺れる。
無造作にたくし上げられた御簾。
国家指導者の尊顔に詠膳が平伏する。
九尾の狐は尻尾を揺らすのみ。
不敬である。
しかし、狐とはそうした生き物である。少なくとも神州国では。
「晴明」
幼い身体を進めて晴明へと近づいた。
しかし、晴明にあと僅かで手が届こうかという位置で躓く。
声を上げる間もない刹那。
良く磨かれた床に姿勢を崩す主君。
だが、それを白い稲光が受け止める。
九つの白い尻尾に受け止められた主君。
器用な動きをする尻尾に抱き寄せられた主君は、その肌触りを確かめる様に撫でると、その心地に満足したのかゆったりと腰掛ける。
晴明が詠膳を一瞥するが、詠膳は緩やかな笑みで黙殺する。
主君が望むのであれば致し方ないが、詠膳は主君は尻尾の一本でも欲しいと言い出すのではないかと懸念していた。
「よい毛並み。ちゃんと手入れしている」
「恐縮です。尻尾の毛並みは獣の命でありますゆえ」
心なしか尻尾が嬉し気に揺れている気がするが、狐が分かり切った御世辞を真に受ける人物ではない。去りとて表裏のない人物である幼い主君の言動を御世辞と捉えなかった可能性もある。詠膳は愈々と晴明の事が理解できなくなってきた。斜に構えた政略家というだけではない。
「晴明」
「何で御座いましょう」
晴明は九尾の上を揺蕩う幼き主君に応じる晴明。
もふもふと九尾の上を動き回る幼女の扱いも手慣れているのか、晴明は危なげなく九尾を右へ左へと揺らして危なげなく受け止め続けている。
沈み込み続ける椅子の前に心底と気の抜けそうな中で奮起し、器用に九尾の上で正座する。
「悪しき世界であっても、悪しき振る舞いが正道に取って代わる事はない」
長菜会主君からの言葉に、晴明は莞爾として笑みを零す。
事実である。
しかし、事実を覆す者達が列強諸国で確たる立場を得つつある。
正道という事実は最早、力を失いつつあった。
「臣は陛下が正道を世に強要し得るだけの才覚をお持ちである事を祈っております」
正道もまた政治思想の一つに過ぎない。




