第三三四話 常勝海軍
「中々に落ちぬか...」
初老の海軍大佐は深々と溜息を零す。
怒りは疾うに過ぎ去り、今では呆れとなって久しいが、作業に従事している隷下の工員達を思えば、為すべき事を怠る訳にもいかない。
「工廠長、甲板の汚れですが、あれは落とすよりも張り替えた方が宜しいと思いますが?」
副官の提案に、初老の海軍大佐は頭を振る。
海を隔てた大陸国の指導者は演習用の模擬弾頭と嘯いていたが、中身は明らかに演習後に速やかに落とせる類の塗料ではなかった。
皇国の沖合で行われた一連の騒動……軍事衝突と呼べば一方的に空から嬲りものにされた事になる為、神州国海軍は沈黙を保っていた。
しかし、寄港した大型艦が色彩豊かな海上の置物となっている光景は隠し遂せるものではなく、それは徐々に広まりつつあった。民間ですらそうした有様である以上、諸外国の大使館経由で各国の軍に実情が広まる事は時間の問題であった。
「いや、削ろう。高耐久木材の消費は建造計画に差し障る。汚れが表面だけなら削るべきだろう」
材木という資源は神州国で潤沢に産出されるが、それを加工して軍用に適した素材にするには相応の時間を要する。防火や防腐に適した溶液に浸漬させ、更には魔術的な刻印を施して更に堪航性を強化する必要があった。
神州国海軍は世界最大最強の海軍であったが、それは高度な技術の積み重ねによって実現されるものであり、容易に消耗を補充できない事を意味する。高性能ゆえの複雑性は資材の突然の大規模消耗ともなれば、建艦計画にすら影響を及ぼす。
「皇国も上手く立ち回る。大陸に手を出す浪費を司令部が弁えればよいが……」
本来であれば、勝てる海戦であった。
否、挑発であったと言える。
しかし、戦端は開かれた。
無論、以前からも領有問題に揺れる島嶼部での戦闘はあったが、今回は今一歩強く出て妥協を迫ろうという目論見からの皇国沖合への進出であった。
だが、政治的意図に留まる事はなかった。
両国が互いに相手国の先制攻撃としているが、結果として両国の艦隊は交戦状態に陥った。 艦隊規模から一方的な戦闘とはならず、神州国海軍艦隊も目論見を逸脱した事で早々に撤退を選択した。
そうした中で航空艦隊が艦隊上空に姿を見せた。
撤退中の神州国艦隊に襲い掛かった航空騎の梯団は、塗料を搭載した模擬爆弾で艦隊を忽ちに色彩豊かに染め上げた。航空攻撃を過小評価して魔導障壁の展開が遅れた事も大きく、実弾でなかった以上、魔導障壁さえ展開していれば艦隊が極彩色となる事もなかったが判断は遅きに失した。
神州国海軍艦艇にも対空砲は若干搭載されているが、雲霞の如く攻め寄せる航空騎を相手に、しかも平射砲を改修した対空砲では迎撃自体に無理があった。元より偵察騎の着弾観測を阻止する程度の働きを期待されていた対空砲に対艦攻撃を行う無数の攻撃騎を迎撃する事は酷な事である。
結果として神州国海軍の戦闘艦は極彩色に彩られる事となった。
しかも、模擬弾とは言え容易に落ちない塗料であり、これは無人艦への対艦攻撃効果確認の為のもので速乾性と密着性が高いものであった。主力艦が砲戦時に染料を内包した砲弾で艦艇毎に識別を行って着弾観測する事とは訳が違う。流れ落とす事を想定しない塗料が大いに艦艇を汚した。
「外観だけの問題だが、無様な外観を民衆の目に晒しては動揺を招く、か。手遅れであろうが……」
工廠長は軍港の一部を視界に収められる半島の岸壁に集う民衆の姿を一瞥する。
話題が話題を呼び、一目見ようと駆け付けた民衆の中には、他国の間諜や武官が居る事は想像に難くない。闇夜に紛れて独立性の高い軍港に寄港すれば露呈は免れずとも遅延させられたであろうが、あろうことか母港である軍港へと寄港した事で民衆の目に晒される事は避け得なくなった。
艦隊司令官は判断を誤ったと言えるが、一艦隊司令官が政治的判断に等しい民衆への露呈への配慮を行うというのも困難を伴う話であった。同時に、他の目に付き難い軍港への廻航を指示するべき水師軍令部までもが混乱状態であった為、そうした点にまで配慮が至らない事は致し方ない事と言える。
「鎮守府周辺の人流が活発な事で部資材の搬入に差し障りが出ております」
副官からの報告に工廠長は溜息を一つ。
「何の為の警備か。実力で排除すれば良かろうに」
鎮守府司令が鎮守府外への警備隊派遣に対して怯んでいる事は明白であるが、部資材の搬入遅延は艦艇修理の遅延に直結する。加えて法令上は鎮守府周辺の治安維持と経路確保の権限は明文化されていた。それは検非違使(警察)にも優越するが、それでも活動領域が重なる為、軋轢や不満を免れなかった。
極彩色に彩られた戦艦〈浄御原〉を一瞥し、工廠長は再び溜息を一つ。
常勝海軍とまで巷では呼ばれる神州国海軍は、その名に恥じない戦歴を持ち、大洋を挟んだ大国である〈エルゼンギア正統教国〉の艦隊とは激しく干戈を交えながらも終始優勢であり続けていた。それ故に自軍の行動に対する政治的影響という感覚に乏しい。
〈エルゼンギア正統教国〉本土は攻め寄せるには遠く、陸上戦力では大きく劣る為に艦隊戦力の撃滅に偏重した戦略を採用している事も要因であった。
軍人が純軍事的視点のみで軍事行動を行う。
その弊害が露呈した形である。
「政治やら利益の為に戦争をするのが当代天帝らしい。艦隊決戦に拘る我が海軍の選良達では叶わんだろうな」
工廠長は鼻持ちならない頭脳集団の屁理屈を思い起こす。
理屈は所詮は理屈でしかなく、理屈で全てを詰め切れる訳でもなければ、詰め切れるとしても採算が合わない。理屈というものにも詰めるのが人間である以上、無理と限界があるのだ。
去りとて皇国海軍は大星洋を超えて神州国本土を直撃できない。噂の戦略爆撃騎も大星洋を渡洋するだけの航続距離は持たないが、幾つかの島嶼を占領して拠点とするにも制海権の確保が必須となる。
軍事衝突に於いて主導権を獲得できない可能性があるが、同時に主導権を奪われる事はないというのが神州国海軍軍人の一般的な推測であるて、主導権が一方のものにならないならば、商用航路を圧迫する事で経済を圧迫する事が可能な神州国が有利であるという目算もあった。
ただ、工廠長は経済を重視する若き天帝がその辺りを理解せずに神州国に対して強硬姿勢を取ったとは考えない。相応の理由や勝算があると見ていた。
「要らぬ敵を抱えたな……最近のあれだろう……何だったか……大陸への……」
「要衝統合ですか?」
副官の追従に工廠長は鷹揚に頷く。
近年の神州国の皇国に対する強硬姿勢には、そうした意図がある事は政治家の言動を見れば明白である。
大陸の要衝……植民地を確保するに際して最大の脅威である皇国の国力を削ぐ。或いは利用できるような停戦協定条項を引き出すという神州国指導者層の目論見は、少し政治に詳しい者が近年の新聞を読み漁れば朧気に察せる程度には露骨なものである。
大陸不干渉という方針の転換。
要衝統合などと、いかにも要衝だけを抑えて要港を確保するかのように口にしているが、その要港を維持防衛するには相応の縦深と陸上戦力が必要な事は明白であった。
「鷹津中佐としては反対ですか?」
何処か揶揄う様な声音の副官に工廠長……鷹津中佐は失笑するしかない。
「君、偉いさんにそこいらの技術屋如きが翻意を促せる筈もないだろう。彼らの栄達にしろ転落にしろ、我々は酒の肴にする程度の事しかできない。違うかね?」
国家を指導する立場に対する理解や思惑など、下々の者達には縁遠いものである。高度に情報伝達手段が発達を見た世界でもなければ、想像は現実と乖離した妄想となりかねない。無論、知性が乏しい、或いは政治思想ありきで考える人種の場合はその限りですらないが。
鷹津は極彩色に彩られたく〈浄御原〉の艦上で塗料剥離に勤しむ工員と水兵を見やり、食堂の品目を追加する様に鎮守府経理部長に提案しようと腹を決める。
「では、工廠長もやはり行かれるのですか?」
「応とも。実物を見ねば、な。現物が眼前に在って尚、技術屋が憶測で語るのは恥ずべき事だ」
鷹津は軍装ではなく、工員用の作業着を着用している。
動き易く、汚れても洗濯が容易で、軽妙な上官を演出できる。軍人としては階級序列や軍規から好ましからざる行為だが、技術士官というものは軍人という枠から半歩程度は足を踏み出した存在である。
技術……それも兵器の製造や修理に必要な軍事技術は特に専門性が高く、それを扱う技術者もまた軍人として最初から教育されたものではなく、工業技術を学ぶ教育機関や学術機関を経由して入隊する者が半数以上を占める。そうした者達は軍人より技術者としての立場や視点を持っていた。
端的に言えば、階級序列のみで納得させる事が難しい。
同意は得られても納得させ得ずに渋面腹背となるならば作業効率は格段に低下する上に、提案や改善は上申されなくなる。作業管理も正確な情報の比率が減じては適切に行えない。技術者として技術者を纏めるには、相応の技術への造詣と理解がある事を示さねばならいのだ。軍人の理論は工廠の技術者には通じない。
「向こうの天帝は技術や制度への理解があるようで羨ましい限りだが、我々の技術も中々どうして負けていないと見せねばな」
「造船技術に関しては我が方に一日の長がありましょう……運用に関しては知りませんが」
一度津は副官の物言いに苦笑する。
優れた用兵を行えるだけの組織と人材を有するが、その気質や思想から攻撃偏重のきらいがある点を問題視する者も少なくない。実情としては巨大海 洋国家の面目躍如と言わんばかりに大艦隊を積極的に棍棒の如く運用する姿勢は今も通用し続けている。
無論、攻撃偏重とは言え、それは運用上の話に留まり、艦艇の構造が攻撃に特化したり、予算が戦闘艦に偏るという問題は起きていない。強いて言うなれば、これは前線将兵の好戦性が増しているという事であった。
二人は執務室を出て、鉄骨による無骨な階段を下る。
工廠最上階に用意された工廠長の執務室は工廠と直接に往来が可能である為、執務室で寝食を行えることもあって鷹津は一〇日程、工廠から出ていなかった。妻子も居らず、私物も少ない故に彼は工廠を住処としている。
三執務室の扉を開けると、多種多様な工作機械の駆動音と工員達の大音声が鼓膜を叩く。
設備の冷却水を利用した空調が設置されている為、十分に温度管理されているが、それでも工員達の熱気が伝わる光景を津は好んでいた。
工廠は密閉式の複数の船渠と結合している為、船渠で休む戦海の覇者を望む事は容易であった。
「〈清祢原〉まであの有様か……」
〈浄御原〉型戦艦二番艦〈浄祢原〉は、航空攻撃に対する回避運動で長時間魔導機関を最大出力で稼働させた影響から機関部の総点検の必要があった。
神州国海軍〈第八艦隊〉の乱れた艦隊陣形は皇国側の航空撮影によって捉えられ、巷を騒がしている。世界最強海軍が実弾を装備していない敵に艦隊陣形を乱す程の無様を晒した。皇国側はそう喧伝している。
酷い偏向報道なのか、或いは妥当な判断であるのかは、実は海軍上層部でも意見が分かれている事を鷹津は鎮守府司令官から聞き及んでいた。
航空攻撃による艦隊の対応方法の検討は、この事件を受けて大車輪で始まったが、容易に結論の出るものではなかった。
迎撃騎に対空火器、専従する専用艦、それらを効率的に運用する知見が全く存在しない為であった。
「〈浄御原〉への大仰角からの攻撃方法を鑑みて障壁展開を行った様ですが、艦隊陣形の間隙を縫って接近した別編隊に比較的浅い角度からの爆撃を受けた様です」
「見透かされた訳か」
多岐に渡る攻撃方法を実行する事で対処能力を飽和させるというのは戦術的に妥当な判断と言えた。無論、その複数の攻撃方法の運用と育成、連携……そして被害を含めて費用対効果で優れるのであれば、という前提が維持される場合に於いてであるが。
「とは言え、薄く全体に魔導障壁を展開したのでは模擬弾と言えど貫徹を免れません」
副官が〈浄祢原〉の上部構造物中央の放熱板を指差す。
魔導機関の稼働時に生じる廃熱を放熱する為の放熱板は、その構造上、脆弱性を免れない。嘗ては機関部に近い船体それ自体を利用して放熱する事も試みられたが収縮を繰り返す船体は、温度差による湾曲や構造上の避け得ない継ぎ目に悪影響を及ぼした。錬金術で継ぎ目の大部分を削減する事が近年の軍艦の基準になりつつあるが、推進器や方向舵周辺には限界がある。漏水箇所の増加は避け得なかった。
そうした結果、船体上部の各所に放熱板が設置される事になる。
商船などでは放熱板は極僅かで済むが、装甲や兵器、弾火薬という重量物を搭載し、それらを大馬力を以て高速力で駆動させる軍艦は相対的に多数の放熱板を必要とした。加えて、兵器の駆動に必要な魔力や電力の確保、被弾時の喪失や機能低下を見込む必要もある。最近では艦底部を利用した放熱も研究されているが、そうした艦艇は温水を好む貝類の付着が激しく頻繁な整備と速力低下を招いた。
「放熱板を損傷させる程度の質量はある訳か」
模擬弾によって拉げた上に染料で塗装された放熱板を一瞥した鷹津は、航空爆弾が運動質量だけでも十分な威力がある事を認識する。
考えて見れば当然だと、鷹津は納得する。
砲弾も同形状であっても質量が違えば、弾道や射程、威力が変化する。演習用の模擬弾とは言え、実弾と特性が変われば演習の意味を失う。実弾と同等の実量を有するのは当然と言えた。
「では、航空爆弾の実物を手に入れる事に成功した訳か」
「比較的良好な状態のものを技本が回収みたいです。鉄の塊を回収する意味があるとは思えませんが……」
技術的に見て複雑ではないのが明白な航空爆弾の解析に労力を割く事に否定的な副官に、鷹津はどうだろうかと胸中で疑う。
航空母艦は神州国でも艤装中であった。
しかし、それは有力公家の権限の下で行われており、海軍の管轄下にはなかった。主導権争いが生じそうな気配であるが、皇国の航空戦力の技術を確認する事でその足跡を辿る動きは双方が行っても可笑しくはない。技術的方向性が違えていないかの確認を行う為に情報は一つでも多い方が望ましい。
航空戦力の整備に関しては神州国は無理解に等しいのだ。時間と予算を無駄にしない為、先駆者の見出した正解を確認するというのは十分に意義がある。
「一層のこと、上部構造物が派手に損壊していれば、航空母艦に改装しようという話も出たやも知れんが……」
海軍が航空母艦の建造に後ろ向きだった為、提案した九条家が独自に建造を開始したという経緯があるが、航空戦力を無視できなくなった現状、海洋での航空戦力の運用を神州国も考えざるを得ない。
しかし、海軍が公家に頭を下げて技術や艦艇の譲渡を求める筈もなく、独自に建造が始まる事が予想された。それは国力の盛大な浪費と言える。
――九条の姫様に憑いてる白狐ならば上手く立ち回るだろうが……
海軍も反発するであろうが、政戦に通じた九条の白狐であれば私益と国益を両立する事は造作もない筈であった。近年の九条家の反映がその力量に依るところである事を踏まえれば、そこを鷹津は疑わない。
だが、別の懸念もあった。
「大砲屋が許さないでしょう。神州国の繁栄を艦砲の口径と数が支えていると疑わない連中の事です」
神州国海軍最大派閥の大砲屋......大艦巨砲主義者が、有力な対立候補の成立を易々と認める筈もない。同意には相応の数の戦艦の喪失を前提としなければならないのは明白であった。
急激に過ぎるのだ。
確かに以前から航空騎はあった。
それでも、攻撃の主攻を担うだけの軍事的合理性基づいた運用は難しいというのが識者の見解であった。大規模な育成に運用、攻撃手段の確立には相応の年月を要すると見られていた。
「戦艦は航空騎の攻撃で沈むかね?」
「さて、そこは何とも……ただ、皇国の内戦で生じた艦隊決戦でも北部は航空攻撃による戦艦の撃沈を試みていません」
皇国も戦艦を航空攻撃で撃沈する事は難しいと見ているのではないかという主張は海軍内でも珍しくない。
トウカは内戦中に戦艦などの大型艦に対する航空攻撃を一切試みなかった。回避行動が限定的とならざるを得ないシュットガルト運河での艦隊戦ですら航空攻撃は行われなかった。
これは神州国海軍内でも議論を呼んでおり、特に対外戦争の際の切り札として対艦攻撃騎部隊を温存、或いは洋上航行する大型艦の撃沈を困難と見ているという二つの論調が鎬を削っていた。
実情として準備不足や錬成途上にあったなどとも考えられるが、神州国海軍は大陸の英邁な軍事指導者を侮らなかった。
度津はその辺りを然して気にしていなかった。
「近い内に分かる事だ」
大陸への野心を見せ始めた神州国に対して若き天帝が妥協するはずもない事は、近年の軍事政策を見れば一目瞭然である。
船渠を進む鷹津。
行き交う工員に水兵。
舷梯を登り、〈浄祢原〉の甲板に立つ鷹津は清掃作業を繰り広げる水兵と工員の間を縫って艙口から艦内へと進む。
神州国海軍の規格化された艦内通路らしく他艦との差異に乏しい光景だが、上部構造物の大型化に伴い強化された構造支柱が通路天井にある光景を見れば〈浄御原〉型戦艦である事は軍艦の設計に関わる者であれば察せる。
司令部設備と通信設備の増強に加え、新型の射撃式装置の形状から大型化を免れなかった故の結果であるが、利便性が向上した為、高評価を受けていた。無論、被弾率の上昇を免れないが、未だ実戦で上部構造物へ大きな被害を受けた事はない為に問題は可視化されていない。
「模擬弾は上部構造物の主要防御区画を貫けなかったが……」
「実弾の貫徹力次第では、我が国も主力艦の改修を行わねばならない、と?」
度津の言葉を引き継いだ副官が眉根を寄せる。
神州国海軍の保有する戦艦は一○○隻を超え、他の主力艦を含めれば二OO隻近い。その全ての改修ともなれば資源と労力は莫大なものとなる。現状の建造計画の大幅な修正を迫られる事は確実であった。
手狭な舷梯を登り、上部構造物内を上へと進む鷹津と副官。擦れ違う水兵や工員が脇を締め気味に敬礼をする姿に答礼しながらも、薄暗い艦内を確実に移動する。建造にも関わった為、艦内構造は勝手知ったるものであった。
そして、艦橋最上階……巨大な測距儀の鎮座する露天指揮所へと足を踏み入れた。
大型艦であるが、上部構造物の最上階だけあって二〇畳を超える程度の面積しかないが、それでも〈浄御原〉型戦艦の大型艦橋故に他の戦艦よりは大きかった。
鷹津は前甲板を見下ろす将官の背に語り掛ける。
「大良儀少将」
「ああ、鷹津さん」
温厚な壮年男性という風体の将官は振り返ると、その風体を裏切らない温厚な笑みで鷹津を迎えた。
敬礼に答礼という造り取りを早々に済ませ、鷹津は大良儀の横へと並ぶ。
「皇国も手強い……いや、噂の天帝が手強いというべきか……」
塗料に汚れた前甲板を見下ろした大良儀の溜息。
「中々の戦上手とは聞きます。海上でも例外ではなかった様です」
陸軍国家の英雄が海上でも英雄であった事に衝撃を受けた者は少なくないが、神州国海軍の士官の間では内戦中のシュットガルト運河での艦隊戦や帝国との南大星洋海戦の艦隊運用から相応の見識を持つと見られていた。
実際のところ、相応の見識では済まなかった。
鷹津は政治的演出の中で海洋戦術に対しても端倪すべからざる力量の持ち主である事が判明しただけでも僥倖であると考えていた。戦時中であれば、その事実は莫大な艦艇喪失と共に判明したであろう事は疑いない。
しかし、将官である大良儀の視点は違った。
「私としては逆だよ。戦上手というよりも政略に秀でている。しかも、酷く抑制的だ。だが、相手の全てを奪うまで戦いを止めないような言動と振る舞いも少なくない。極めて極端な人物だ」
思いがけない言葉であった。
鷹津としては、将官ともなれば見えるものが違うなどとは考えず、恐らくは名門武家である大良儀家としての政治的才覚の産物だろうと納得する。
「不思議な人物だよ。恐らくは戦備が整っていない現状、航空優勢を見せつける事で開戦を避ける……か遅延させようとしている……しかし、苛烈だ。どこに本心があるのか分かり難い」
航空部隊を大挙来襲させてその威容を示すというのが政治的に見た場合の限界であるが、トウカは模擬弾であるとは言え、神州国海軍〈第八艦隊〉に攻撃を加えた。
実弾を使用しなかった点を抑制的と捉えるか攻撃的と捉えるか。
実はこの点は神州国を含めた諸外国でも意見が割れていた。
共和国では主敵たる帝国との決戦を妨害する神州国への冷静な対応と見られているが、帝国や部族連邦では領土的野心が大陸外にまで及びつつあるという意見が主流である。
皇国内では割れている。
トウカは航空演習への”協力”を神州国に感謝するという皮肉を以て航空艦隊の対艦攻撃能力を称賛した。
しかし、具体的な主張はなかった。
自国の領土と国民を防衛するという主張は見られたが、具体的な方法や要求は提示されず、ただ軍事力のみが示される形となった。
「政治と言うのはね。取り分が多過ぎても恨みを買うものだ。本来求めるべきは判定勝ちの連続なんだがね……どうも当代天帝は恨みを織り込んで尚、短期間で決する事を望んでいる……いや、義務感を持っているように思える」
そうした解釈もし得るものかと、鷹津は諧謔味を覚えた。
鷹津を始めとして多くの者はトウカの軍事的才覚とその好戦性のみに視点を向けがちであるが、所属陣営の行動として見た場合、相当の危険性を背負っているとも見て取れた。
「素早く明確……民衆が好みそうな振る舞いですな」
単純明快である事は民衆にとって大前提である。
偉業も壮挙も単純明快に繰り返さねば理解しないのが民衆である。知性や知識の水準は下層に連れて低下してゆくものであり、そして国家という集団は下層であればある程に人口が多い三角構造をしていた。政治思想や人道主義がいかなる理屈を提示したところで科学的に俯瞰した場合の事実は変わらない。指導者は古来より多数を納得させねばならない。
鷹津は感覚的にそうした残酷な真実を理解し、そして年齢を重ねる毎に反発を覚えなくなっていた。
正論や正義は何時の時代も社会の下層に位置する者達に最大の負担を強いる構造をしている。
「事実、その点を重視しているのだろうね。誰だって強い指導者の到来を望むものだ」
主君を戴く国家であれども、合議制という側面が強い神州国では稀有な事であった。立憲君主制というには制度化されていない曖昧な合議の優越は、主君の一声で変容する。去りとて主君も合議を重視し、干渉を抑制する傾向にある。
奇妙な均衡を前提とした政治。
それが神州国の現状であった。
強い指導力は独裁を招くかも知れないという懸念が古来より共和国に存在する事を鷹津は理解していたが、そうした姿勢を隠さない国家を共和国の大部分が称賛している事を踏まえると政治思想など実益の前には屁理屈に他ならないのだろうと嘆息するしかない。
――祖国は実益の為の政治を行えるだろうか?
鷹津は疑問に思う。 御簾の向こうに隠れた議論を知る術はない故に。
「海軍は勝てますか?」
「……直截的だな……海軍は勝てるだろう」
その為に国家の多くの資源を海軍に注いできた、と大良儀は指摘する。
海洋国家……本土が大洋に位置する列島であるが故に、陸上戦力の整備を限定的に済ませられる。結果として海上戦力の整備に傾注する事ができた。
しかし、海軍力だけの留まらない戦争が待ち受けている。
神州国が望もうとしている戦争はそうしたものであった。
漠然とした不安と危機感。
少なくない者達が言い知れ何かを抱えて軍務に励み続けている。
だが、民衆は大陸利権に興味を示しつつある。
そして、海戦で勝利できるように陸戦でも勝利できると考えていた。神州国は対外戦争に於いて一度たりとも敗北した事はなく、その事実が根拠なき勝算として流布している。驚くべきことにそうした風説を政治家の一部すら信じていた。
「仲良く部族連邦を分割しましょうなど言う輩も要るみたいだな。愉快な事だ」
大良儀は苦笑する。
若き天帝が分割した部族連邦の状態を長期に渡って放置すると考える程に軍人達は甘くなかった。
鷹津としても帝国の専横は目に余るが、それに勝る専横で帝国を殴り付けたのがトウカであると認識している。道理の通らない相手にあらゆる道理を投げ捨てて殴り返した男が、国際常識に身を委ねるとは思えなかった。
物事には限度がある。
弾圧政策の報復に敵国の民衆を雑草の如く焼き払うというのは国際的に見て常軌を逸した対応であり、ましてや敵国首都の破壊を目的とした攻撃は交渉の余地を一切奪う行為であり、外交を想定していない振る舞いであるとすら言える。少なくとも、現時点の国際常識では非常識に当たる行為だと鷹津は判断していた。
そうした振る舞いが前提となれば、約定など容易く吹き飛ぶ上に、政治的決着の機会を喪えば延々と軍事支出が継続する為、国家財政は破綻しかねない。
しかし、大陸の植民地が有望であればある程に、神州国は皇国の天帝や陸上戦力と向き合わねばならなくなる。
欲に目が眩み、艦隊戦力が万能だと違えた者達の政治的錯誤に軍人達は付き合わねばならない可能性がある。
「ま、この御時世だ。資源の囲い込みも激しい。陣営を望むべくもないならば、独立を維持できるだけの資源を。そう思う心情も理解できなくはない」
神州国は皇国を理性ある隣国だと捉えていた。
それ故に艦隊で圧力を掛け、島嶼部を奪取するという強硬手段に出たが、皇国は突然に変わった。
狂信的なまでに軍事に偏重する若き天帝の到来。
少なくとも政治的混乱は最小限に収まり、内政に手間取っている様には諸外国には見えず、艦隊戦力の拡充にも乗り出した。
誤算であった。
海洋国家として有利な立場での条約、或いは同盟締結という筋書きを想定していた政治家は多い。
神州国が外洋を抑え、皇国は大陸を抑える。
皇国が大陸で主導的な立場になれば、神州国は皇国の陸上戦力を背景に大陸で影響力を行使する事が出来た。皇国も莫大な予算を必要とする海上戦力の整備を抑える事が可能となり、神州国の影響力を大陸外で利用できるのであれば十分に理のある話と言える。自らの海軍力の届かぬ範囲にまで経済圏を拡大させるには必要なものであるはずだが、皇国は神州国との友好に興味を示さない。
それどころか対決姿勢を露わにしている。
あろうことか神州国海軍を帝国の第二海軍とまで言い放っており、共和国や協商国などはそれに同調する構えを見せた。共和国も協商国も帝国との戦争で疲弊しており、皇国の強大な軍備に対して期待しており、そこに三国を繋ぐ大陸鉄道を共同開発するという大事業まで加えて足並みを揃える形となった。
協商国は重商主義の国家であり、神州国との関係を軽視していないが、海洋に面していない共和国などは経済関係も希薄である為、より皇国寄りの姿勢を鮮明にしていた。
皇国の若き天帝が信頼されたわけではない。
その軍事力が信頼されたのだと、鷹津は見ていた。
結局、神州国は皇国の即位制度と、その先にある諸国を見ていなかった。
大陸国同士は重なる利害関係から踏み込んだ国家関係を形成し難いというのは幻想に過ぎなかった。
共通の敵がいる。
その共通の敵に神州国が加わったと喧伝し、内陸国は神州国との経済関係は希薄である為、相対的に皇国の軍事力を重視する。
折しも皇国が帝国侵攻を意図する軍備拡充と再編制を憚ることなく推進していた事も大きい。
神州国の挑戦に対抗する必要があり、海上戦力の整備の為に帝国侵攻は遅延する事を避けられない。これは帝国を利する行為であり 神州国は帝国との密約によって大陸の利権を確保する動きに出た。
そうした皇国……若き天帝の主張に対し、共和国や協商国が賛意を示した。
帝国からの侵攻、乃至軍事的圧力を受ける大陸国からすると、帝国陸軍の外征戦力の主力であった野戦軍の包囲殲滅を為し、帝国への逆侵攻を宣言する皇国の動きは国益に叶うものであった。寧ろ、戦況を鑑みれば死活問題とすら言える。
現に帝国陸軍の外征戦力の主力であった野戦軍の包囲殲滅という点だけを鑑みても、帝国は戦線整理と大部分の戦線での守勢を強いられた。
皇国の帝国に対する軍事行動が苛烈になればなる程に、他の帝国と国境を面する大陸国は軍事的余裕が生じる。国益の面から見ても絶大な意義があった。
神州国は大陸国の政治関係に巻き込まれたと言える。
海洋国家として大陸に対して俯瞰的な立場で外交を行うという姿勢は崩れた。大陸に植民地を求める姿勢を見せた時点で当然の結末と言えるが、そこに至るまでの時間経過が余りにも早く神州国の政治は方針転換が間に合っていない。
「そもそも、当代天帝にあの様な人物が就くとは誰しもが予想していませんでした。当の皇国人ですら」
皇国貴族に御家断絶や転封が連続している事を踏まえれば、その動揺は少なくない。そうした点から見ても、天帝の変化が政治姿勢の真逆の転換を招くなどとは考えていなかった事が窺える。
しかし、そうした皇国の政治勢力への介入や接近もまた困難であった。
「外務府を無実化させたのは想定外でした。近代国家とは思えない対応です」
「先代天帝の意向を色濃く反映した組織だ。目障りということもあるのだろう……ただ、それだけとは思えない」
大良儀の政治権力に携わる一族としての視点。鷹津は大いに興味があった。その為に足を運んだと言える。餅は餅屋の理屈に過ぎない。
「若しかすると、外務府が国内の叛服常ない貴族や有力者と諸外国の橋渡しをする事を恐れたのかも知れない」
内憂と外患の結合。
それらしい理屈であるが、鷹津としては国家の一府が他国の介入を招く動きを積極的に行うだろうかという疑問があった。超えてはならぬ一線であり、それを為せば国家への叛逆である。
「あの国の外務府は政治思想で外交をしている。国益ではない。それらしく見えるように努力はしていたが」
尤も、外交意志の根幹を国益以外に置くのはあの国だけではないが、と大良儀は付け加える。正統教国に対する苦言である事は明白だが、鷹津には皇国と正統教国に一致する点を見受けられなかった。
「外交を司る組織が与し易いというのは……」
そんな事は有るだろうか。
鷹津は思う。
確かに抑制的な一面もあったが、温厚でいて友好的な姿勢を持つ皇国外交は諸外国に概ね好評であった。正統教国の様に教義の強要や宗教的理由による外交摩擦などは全くない。
「宗教の為の外交と、政治思想の為の外交……どちらも国益を最優先していない点は同じだ」
心底と侮蔑の表情を浮かべた大良儀。
「友好や融和という名の政治思想。見栄えは良いだろう。だが、国家というものは利益で動く。当然、他国を動かすには予算や資源が必要であり、皇国は友好や融和の演出の為にそうした点で譲歩する事が政治思想に組み込まれていた」
対外的な資金と資源のばら撒き。
そうした揶揄は当時から確かにあった。
「まぁ、皇国の場合はそれなりに有効で軍事的軋轢の低減を実現して、軍事費を経済に割いて繁栄を享受していた側面もある。一概に失敗とは言えないが、残念ながら帝国相手にそうした政治思想は意味を為さなかった」
皇国の友好や融和は相手の善意を前提とした安全保障に他ならない。相手に負うべきものが多い前提は、相手に物事を強要できない状況に陥り易く、常に制御不能の危険性を持つ。
他者を恃むか己を恃むか。
先代天帝と当代天帝の差を、鷹津はその様に感じた。
「若き天帝は、友好や融和が頼りにならぬものだと見ているのだろう。非常時に備える軍人なのだ。当然だろう。費用対効果の面で他国に資金を撒く事は非常時への準備を行う事に劣ると見ている様に思える」
大良儀も鷹津の印象と同様であり、そうした側面も確かにあるのだろうと納得した。
帝国が本土侵攻に成功した事で当代天帝の軍事力重視の国防は追い風となった。狂信的排他主義の帝国が皇国本土で行った残虐行為は加工される事もなく喧伝されて大きな衝撃を皇国世論に与えていた。他国による自国での残虐行為に対して寛容でいられる国民など居るはずもない。より積極的な国防を求める声が大部分を占めるのは自明の理であった。
若き天帝は国民の大部分から支持を受けつつある。
貴族や権力者と紐帯を図り、政策によって信頼を勝ち得ていくという歴代天帝の権力基盤形成とは全く異なる方法。
危機に於いて強力な指導力と、明快な方法を以て実力を示す。
困難な状況……乱世に在ってこそ躍進する人物。
恐らく平時であれば活躍する事もなく、世間の片隅で法の不備を突いて一財産築いている類の人物。
――いや、自ら乱世を招く、か?
火の気がないならば、自らが放火すればいいという発想の人物が世の中には存在する事を鷹津は理解していた。神州国内の大陸権益の確保を叫ぶ政治家にもそうした気質の人物は多い。無論、実力が伴う人物となると話は変わった。得てして成算の乏しい夢を語る者は実力を伴わ ないものである。
「耳障りの良い大言壮語で政局を乗り切ろうとしたが、相手はそう甘くはなかった。その辺りですかな」
国外への敵対的主張を天帝は最大限に利用した。
他国の脅威を利用して短期間に国内を纏め上げつつある実績のある相手に方針を変えずに推進したならば、それを利用されるのは自明の理である。
鷹津は最大の懸念を尋ねる。
「戦争になりますかな?」
現在は紛争の範疇で留めているという建前だが、既に幾度かの艦隊戦が生じている現状を紛争と呼ぶのは無理がある。
神州国国民には紛争という小競り合いの如き表現で矮小化しているが、海洋国家の神州国と大陸国家の皇国では元より紛争に対する捉え方も異なる。そうした点を二人は理解していないが、肌身で感じる部分はあった。
海洋国家は陸上での国境線隣接は皆無か、或いは限定的である為、自らの領土や領地……支配領域での衝突というものに対して比較的冷静であった。対する大陸国家は長大な国境線争いの延長線上と捉え、国民や資源を左右する面が大きい為に敏感であった。
陸と海。
支配を巡る意識の差は寛容の差である。
既に皇国は神州国を敵国と認識している。
「我々は既に一線を踏み越え、皇国は戦争の理由を得ている」
「良き隣人は艦隊で攻め寄せないですからな」
二人してうんざりとした顔をする。
政治家の過激な外交遊びの結末として、軍は不要な戦争に挑まねばならない。
戦争は政治の延長線上にある。
故に戦争という非日常を政治家が特別視した時、政治と戦争の境界は曖昧となる。
政治家の振る舞いの先に戦争はある。
戦争は特別ではない。
仕掛ける事も挑まれる事も、政治次第で十分に有り得るのだ。
鷹津は祈るしかない。
――決戦を避け、事実上の休戦状態を維持できればいいが……
奇しくも、その日、皇国では大型航空母艦の起工式が行われていた。
誤字脱字は明日頑張ります。たぶん。
画像読み取りソフトも大概間違いますね……




