第三三〇話 交錯する懸念
「神州国大使が騒いでいる様です」
クレアは指摘するが、トウカは頷くだけで然したる返答をしない。
皇国は各大使館……特に帝国と干戈を交えている国家の大使館に有力者を派遣して”丁寧”な説明を行った。
皇国と神州国の海軍による偶発的軍事衝突は世界に衝撃を齎したが、それは皇国が引かない構えを見せた事も大きい。
海軍力では言うべくもない大差がある両国。皇国は一歩も引かない構えを見せたものの、その苛烈な主張が特段と諸外国の目を引いた。
皇国は海上に於いても近代戦史の転換を成し遂げる用意がある。
神州国海軍の海上優勢への挑戦と諸外国は捉え、その言動は注目を受けている。神州国も自国の海洋覇権に対する挑戦と見て応じる構えを取っていた。
「いざとなれば近海で航空戦力による飽和攻撃を行うが、可能ならば皇海へ引き込んでしまいたいというのが本音だな」
トウカとしては艦隊が踏み込んできた場合、航空攻撃の反復によって漸減を図る心算であった。漸減後に艦隊決戦を強要すれば良く、航空攻撃に傷付いて遁走の構えを取るなら、損傷して速力低下した艦艇は皇国近海で自沈処分せざるを得なくなる。
最も単純で、混乱の少ない方法である。
大規模な対艦航空攻撃は未だ実戦で行われておらず、その実力が未知数である以上、支援や補助の容易な本土近海で行うのが望ましい。付け加えると艦隊との高度な共同攻撃が未だ困難であると見て遠方での撃破を躊躇したというのもある。そもそも、艦隊戦力が皇国近海にまで攻め寄せるというのは常識的推測に過ぎない。
しかし、トウカは更に誘引しての撃滅を意図していた。
「皇都、機動列車砲、天帝……まぁ、餌は十分にある」
トウカは壁の地図を見据えて瞳を眇める。
皇海はシュットガルト湖と類似しているが、流れ込む河川は少なく汽水湖ではない。運河も広く大部分に於いて……少々窮屈ではあるが艦隊戦が可能な程度の幅は有していた。
しかし、艦隊の進路や退路を制限可能で、付近に山地もある為、広範囲に於いて陸上から艦隊を視認できる。
その皇海最奥の海岸沿いに皇都がある為、皇都は艦隊が接近した場合、艦砲射撃の脅威に晒される事になる。
それは、海洋国家の神州国が大陸国家の首都に艦隊戦力で痛打を加え事が可能であるという意味であった。
その皇都には皇国陸軍自慢の機動列車砲に加え、国家中枢である皇城が存在する。トウカがそこで陣頭指揮を執るという好機を神州国海軍が逃すはずもない。戦後を踏まえて殺害は考えておらずとも、皇都を砲撃して降伏や講和を迫る程度の判断は行われる筈であった。
「君は反対だろうな」
「……お供致します」
是非ではなく行動を口にするところに怒りが感じられるものの、皇都近海での決戦に関してはトウカも妥協する事は出来なかった。
トウカが皇都に移る事で、皇都に注目と攻撃を誘引する事が可能になる。それはシュットガルト湖で建築中の多数の軍港や軍需施設を守る事に繋がった。無論、攻撃を受けない様に十分な哨戒網と要撃戦力が配置されているが、戦場にする危険性は犯せない。建造が遅延する為である。
トウカは急いている。
資金は内戦に纏わる株式投資で確保する事に成功したが、実際その資金が全て運用できるか訳ではない。特に株式に於ける利益分は未だ上昇を続けているものも多く、保持し続けていた。軍需産業などは天帝の保証という形で株式保有を見た為、手放さないで欲しいという懇願が相次いだ事も大きい。
死に損ないと評して差し支えない各企業の会長……老人達がトウカに群がって愛国の為の軍拡に協力する企業への正統性を株式保有で示すべしと熱弁を振るう様にセルアノなどは満面の笑みであった。彼女に取り、金にならない軍備への投資よりも企業への影響力や配当金を望める株式保有を続ける事が妥当であるが故に。
トウカは折れた。
老人達の引率をしたのがセルアノである事は、統合情報部に調査させるまでもなく理解できたが、北部企業や軍需企業には内戦以前から協力を受けている事実もある。そして、それらを優遇してきた以上、それ以外の企業との関係に大きな差を付け続ける事は今後の経済界との協力関係に利用できた。栄達の先例は、各企業を奮い立たせる。
トウカは激怒した。
執務室の片隅で。
現金化できない株式など紙切れも同然である。
それが信頼と好意に転ずる以上は安易に手放せず、セルアノなどは失笑して助言を行う事もなかった。
トウカは株式売買に企業との柵が影響するとは考えなかった。
セルアノ曰く、当然の結果、との事である。
政府ならば兎も角、現在は天帝と言えど購入時は個人である。株価も大幅に上昇している中で天帝の保有株式であるという箔に固執するなどとはトウカは予想だにしなかった。
保有株式にまで権威が付くのか?
そう肩を怒らせて問うたトウカに、セルアノは哀れな生き物を見るかのような瞳で即答した。
勿論で御座います我が陛下。何ならば、昨晩、空にされた酒瓶でさえも。
トウカは沈黙するしかなかった。その晩は一滴も酒を飲む気になれなかった程である。
しかし、トウカにも僅かながら心当たりはあった。
貧相なちょび髭伍長が泊まった宿泊場所で、後日訪れた熱狂的な支持者が風呂の水や排水溝の毛を回収したりするという狂気。抱き上げられたいが為、移動中の車の前に身を投げ出して追突事故になるなど……歴史上では権威と熱狂の分別が付かないものが散見される。
翌日、リシアに髪が売れると言うならば、御守りに入れて売り出せば戦費の足しになると放言された挙句、セルアノに権威が損なわれる事による不利益さえなければ即日禿頭にしていると追い打ちを掛けられたトウカ。権威ほどに無分別で曖昧で恣意的なものはないと思い知った形となる。
「物好きな事だ……揃いも揃って権威というものに踊らされている」
勝手に踊るならば好きにするが良いというのがトウカの基本方針であったが、その権威の根拠が己であると知っては放置もできない。
「権威、権威と申されますか……挺身などではありません」
「……そうだな。君の健気を愛おしく感じる」
クレアに言うべき言葉ではなかったと、トウカは訂正する。
他の者が居ない中でならば、トウカはクレアに近しい者としての振る舞いを許している。明確にロにした訳ではないが、それが当然であるかの様な関係となっていた。
クレアは近しい者としての表情を見せる際、助言や政戦に纏わる話をしない。政戦への意見を女として提示する事をしなかった。それは権力者に侍る女として危険視される事を恐れている訳ではなく、ある意味においては潔癖なトウカに対しての精一杯の意思表示である。トウカもそれを察し、そうした会話を避ける様に心掛けていた。
「……今晩は離れないで欲しい」
トウカはクレアの手を握る。
しかし、クレアはトウカの手を放し、憲兵総監としての顔に戻る。
同時に室外から鋭兵による入室の問い掛け。
乙女から憲兵総監としての表情に忽ちに戻る様に、トウカは凛々しい女性将校としての側面を見た。憲兵総監としての厳粛な雰囲気はなく、強いて言うなれば宣伝に利用される騎兵将校の様な佇まいである。
――やれやれ、脇が甘いのは俺か。
トウカは苦笑と共に天帝としての苛烈を背負い、クレアに問う。
「憲兵総監。ハルティカイネン大佐だ。問題ないな?」
名前ではなく職責で呼ばれた事で、クレアの視線が鋭さを増す。
その横顔もまた美しい。
凛々しい女性が苛烈な意思を見せる必要のある任務に従事する姿への好ましさに、やはり自分は桜城なのだろう、とトウカは頷いたクレアに頷き返す。
入出許可を得てリシアが入室する。
何故か侍女服を身に纏っており、トウカは天を……航空爆弾対策で厚みが増したとされる天井を仰ぐ。
軍の階級が毀損されるが如き振る舞いは慎んで欲しいというのが、トウカの意見であるものの理由が不明確な状況で叱責する訳にも行かない。
――曲剣を佩いて、肩章と勲章を付けた侍女か……秋葉原に居そうだな。
軍の一大拠点とは言え、今となっては地方都市でしかない東京の特徴である変わった趣味の面々が集まる街を思い出したトウカは溜息を一つ。
為政者の立場からすると、金銭の動く分野が増える事は喜ばしい事だが、戦闘艦や戦闘車輛にさも当然の様に部隊章として採用され始めている光景を見れば思うところがない訳でもなかった。臣民への演出と言われると予算は簡単に下り、取り遺された老将達も、時勢よの、との一言で判子を容易く押してしまう。
「そうした趣味の者達が集う街の造成でも所望……ではないな?」
「? 牽制と恫喝ですが?」
想像よりも酷い言葉を聞いたとトウカはげんなりする。
クレアは溜息を一つ。
しかし、心当たりがあるのか溜息には納得の感情が宿る。
「若しかしますと、女官や侍女の選抜に問題があったのでしょうか?」
クレアの問いに、トウカはそうした問題があったと思い出す。
トウカ自身、誰かに全てを世話されたいと思う程に自堕落な性質ではない。故にそうした問題をトウカは放置していたが、アーダルベルトやフェンリスから鼎の軽重を問われると言われた為、統合情報部に信頼の置ける女官や侍女の選出と編制を要求した。
その後、報告はなかった。
トウカは急ぐ必要はないと明言し、事実として一人の人間の身辺を完全に洗う事が短時間で叶う筈もない。無論、天帝に近しい立場に置かれる以上、相応の地位……大部分は貴族となるが、それでも選出は容易ではなかった。
トウカとの遺恨や確執によるところである。
実情として、内戦は北部と他地方との闘いという単純な構図ではなかった。
北部の横柄にして狂暴な振る舞いに思うところは有れども、辺境や未開拓の土地を持つ貴族はその心情を理解できないでもなかった。北部貴族以外から妙齢の婦女子を女官や侍女として取り立てる余地は十分に有る。
問題は、そのトウカに対して好意的、或いは敵対的ではないかという選別が容易ではない点にある。
貴族は思わぬところで別の貴族と繋がりがある。
そして、その点を重視するかは、その貴族次第である。
血縁に関しては家を保つ為に当然の事ながら重視されるが、それ以外の部分に関しては千差万別であった。例え、個人的友誼や一方的親近感であったとしても、権力を有する者がそれを有する事で決断に影響が出る可能性を統合情報部は精査していた。
端的に言えば際限がない、というのがカナリス情報部長の言である。トウカも同意したが、怪し気な人物を天帝に近づけたとなれば、要職に座る者達の進退どころか組織の存続に関わる為、カナリスも手を抜くという選択肢はなかった。
幸いな事にトウカは女官や侍女を多く必要とする出来事はなく、当人も必要とする生活を送ってはいない。
アルフレア迎賓館は皇城と比較して遥かに小さく、ましてや戦時下である為、そうした人手の必要な行事などは軒並み中止となっている。トウカの意思だけでなく、多数の宮廷関係者を必要とする行事という面を見ても急ぐ必要は乏しかった。
付け加えるとトウカと他国の外交が低調な事も挙げられる。
通信や親書での遣り取りは盛んに行われているが、直接遣り取りをする会談などは未だ一度たりとも行われていなかった。比較的友好関係にある共和国ですら“公式”にはない。
放置していた案件が動き出した。
しかし、トウカは女官や侍女が必要な案件を把握していない。
「待て、そもそも急ぐ案件でもあるまい。そうした人員を必要とする段階でもないだろう」
ナポレオンの如く、不細工な女は我慢できても高慢な女は我慢できない、などとトウカはロにしないが、皇権に侍る点を利用して個人の利益を図る様な者であれば無礼討ちも已む無しとは考えていた。同僚の首が物理的に飛べば真面目に勤労に勤しむ事は間違いない。
――俺は御高説ばかりのマキャベリとは違う。
実績がなかったが故に備兵達がマキャベリの命令を聞かなかった例もある通り、実績はヒトを従わせる重要な要素である。金銭は重要だが、それだけでは十全な指揮統制は叶わない。
――尤も孫子は恫喝で女官を従わせたと聞くが……殺せば俺の名前も後世まで比較対象として残るやも知れん。
無論、マキャベリと孫子という稀代の戦略家の名がこの幻想浪漫の息衝く世界で普遍的なものであれば、という前提が満たせない為、トウカは思考を弄んでいる心算であった。
後世、見事に自身が比較対象として良くも悪くも並ぶ事になるが、現時点ではトウカにもそれは見通せない事であった。
リシアとクレアが、トウカの指摘に何とも言えない表情をする。
本気ですか?
そう言いたげな二人にトウカは頬杖を突く。
「事前に用意せねば、必要な事態に陥った際に短期間で用意できない……予め用意しておきたい。という事は分かるが、そうした事態に陥る心算はない」
宮中催事は戦時下である為に軒並み中止で、戦時下の、それも首都での破壊工作や反乱染みた擾乱まで許した政情不安定な国家に積極的な政治的紐帯を求める国家など極僅かである。
「他国の大使が参内なされた際に困るでしょ」
「国内外の重要人物を歓待する機会も生じるかと」
リシアとクレアの指摘を、トウカは一蹴する。
それは正常な国家の話だ、と。
「現状ではどれも軍事的紐帯を恃みとしての来訪だ。演習場にでも案内してやれば満足するだろう。その後、軍楽隊の演奏を聴きながら軍高官を交えて艦上で食事をする。何処に侍女や女官が必要だ?」
心底とトウカはそう考えていた。
外務府が現状では役に立たない為、外交の場を設ける事を危険視している事も挙げられる。
「それでは恫喝とも受け取られかねません」クレアの抗弁。
容姿を踏まえれば姉に叱られているかの様な錯覚すら抱くが、それ故にトウカは現状を楽しんでもいた。
「そもそも、今までが国力に見合わぬ劣弱な戦力で国防を行っていたのだ。今後、暫くは脅しと受け取られる程度には増強された戦力を開示して見せる事が国益に繋がると判断している」
適正な軍事的均衡が戦争を抑止する。
最大規模の陸上兵力を持つ帝国と、最大規模の艦隊戦力をもつ神州国を仮想敵国とする皇国には、それらに匹敵する軍事力を有する必要がある。
――そもそも歴代天帝が融和などと馬鹿げた事を言い出すから今の苦労がある。
軍事力の整備を怠らず、適正な軍事力を有していたならば帝国も神州国も皇国に対する軍事的選択肢に対して現状よりも大きく抑制的であった事は疑いない。
現状の諸外国との軋轢は軍事力の不均衡に端を発するものである。
トウカはそう考えていた。
そして、一度、生じた侮りや軽視は早々に消える事はない。
例え、相応の軍事力を有するに至ったとしても、それが十全に機能する、或いは額面通りのものであると見られる訳ではなかった。
忽ちに認めさせるには、戦争という演出が必要となる。
「まるで軍国主義ね……」
「然り、然りだとも。嘗て軍事力の不均衡を許容した代償として、今日に軍国主義の如き軍拡と強硬姿勢が求められる」
歴代天帝と臣民が受容してきた日常の対価を要求する。
対価のない日常などない。
寧ろ、その繁栄は軍事費と兵力の削減が代償の一部であった以上、情勢が許さなくなれば揺り戻しを求められるのは自明の理であった。
トウカの場合は、寧ろ民間人の人命と財産が対価となる可能性を低減する為であると、軍拡を妥当と捉えていた。
「まぁ、軍拡を正当化したところで女官や侍女は必要なのだけどね?」リシアはトウカの疑問を鼻で笑う。
トウカは、そうだろうな、と認める。
そう遠くない将来に必要になる。
その点が変わらぬ以上、何を抗弁したところで先んじて用意しておく正当な理由を毀損できない。
「そして、陛下の御心としては、宮廷が権力闘争の場となる事を望まれない……情報部も諜報の”戦域拡大”を望みません。故にその規模は往時よりも遥かに少なく、各行事を行えるだけ最低限の定数を満たすという方向で動いています」
リシアの明け透けな物言いに、トウカは鷹揚に頷く。
今更である為、クレアも咎めはしない。
憲兵総監としても関心事項であるという事に加え、干渉し難い宮廷政治の場が活性化する事への懸念と対応の必要性を感じていたからに他ならない。
そうした職責の上での建前は勿論の事、個人としてトウカの近くに貴族令嬢達が侍る事を危険視したという事もある。
トウカが篭絡されるとは二人も考えていない。
しかし、知らぬ女を近づける事に多大な忌避感を持つリシアとは対照的に、クレアは相応の数の後継者が必要だと考えていた為、やむを得ないと考えていた。無論、それはトウカの立場と政戦を支え得る見識を持つ人物である事が必須であるとも見ている。
実情として、クレアは相当に高望みをしているが、当人はそれに気付かず、トウカはトウカでクレアの心情を気に掛けていた。
「それはカナリス中将の思惑……ではないな。あの老骨ならば、一か所に集めて資質と実力を図りつつも監視できる箱庭として宮廷を利用する、辺りを考えるだろう。その場合、規模は寧ろ戦前よりも拡大しかねないな」
抜け目のない老練な情報将校は、政治闘争の場を作り、効率的な諜報活動を演出する事を躊躇わない。
「カナリス中将はそうした意見を口に為されていましたが、やはり時期尚早だと思い直されたようです。陛下にその点をお伝えする様に言伝を受けておりましたが、その必要はなかったようですね」
目端が利くわね、と言わんばかりに苦笑を零すリシアに対し、トウカは顔を引き攣らせる。
――甘いぞ、リシア。そうではない。そうではないのだ。
トウカは頬杖を突いて溜息を一つ。
トウカはカナリスの多くの侍女を侍らせる用意があるという発言を、トウカは軽視しない。そこに幾つもの意味があると捉えた。
これだから年寄りは。生い先が短いと他所様の色恋沙汰を気にするのか。
そうした悪態を噛み殺し、トウカはクレアに問う。
「憲兵総監、統合情報部長に何か……そうだな……世間話などはしたか?」
クレアとリシアが顔を見合わせる。
カナリスはトウカとクレアの関係を察している。
トウカもクレアも周囲には気を付けているが、共に護衛が必要な要職にある。護衛が必要である以上、その関係者を含めると完全にその関係や環境を隠し遂せる筈もなかった。
これは、カナリスの要求や強要……というには迂遠な恫喝であるとトウカは見た。
「確か、先週の情報部との定例連絡会議の際に"御身体に障りはないか”などと尋ねられましたが……恐らくは情報部と憲兵隊の立場を気にしての会話かと」
クレアがそう考えるのもおかしな事ではなかった。
情報部と憲兵隊は、その任務の性質上、重複する部分が少なくない。特に防諜ではそうした点が顕著に出ており、帝国の間諜を確保する際に別口で踏み込んだ両組織の実働部隊が出嗟の遭遇で銃撃戦に至った事もある。そうした点を鑑みての両組織の定例連絡会議であり、不幸な任務の重複を避けるだけでなく、確執を両組織や周囲に抱かせない為の象徴的な定例会議でもあった。
友好的な言葉は当然。
クレアはそう捉えた。
――御身体か……どうとでも取れる言い回しだな。
クレアを上位に置いた発言だが、連絡会議の場であれば配慮した発言として見られる。確かにクレアは微妙な判断を強いられる事が多い立場である為、そうした心配”も”含んでいた可能性は捨てきれない。
しかし、御身体への障り、である。
クレアがトウカの子を身篭っていた場合、その意味は変わる。
その言葉へのクレアの反応を見て妊娠の有無を確認したとも取れる。
「では、カナリスがセラフィム公と接触するような機会はあっただろうか?」
「公式上ではありませんが水面下となりますと……調査いたしましょうか?」
トウカは首を横に振る。
内心では腸が煮えくり返っていたが、努めて表面には出さない様に振舞う。
――老人め、俺に後継者を迫るか。
第一子の相手が皇妃でなくとも構わない……寧ろ情報部に対して理解を示すクレアと天帝の後継者が生まれる事が望ましい。
カナリスの胸中を、トウカはそう推察した。
皇城府の侍女や女官を平素の国事に必要な規模、或いはそれ以上で編制するというのは国威を示すという意味では聞こえが良いが、カナリスはそれだけではなく、暗にトウカに対してクレアとの速やかな関係を結ぶ事を迫っているのだ。そうでなければ、お眼鏡に叶いそうな女性を侍女として送り込むという迂遠な宣言。
最善はクレアの側妃としての奥入れである。
侍女や女官の定数が満たされるとなれば、トウカの周囲には口を塞ぎ切れない噂好きの女達が無数と侍る事になる。トウカがクレアとの関係を水面下のものとし続ける事が困難となるのは容易に想像できた。
現在の、特殊な宮廷と国内の情勢こそが天帝と憲兵総監の私的関係を許容しているのだ。
――上手い手だ。関心“は”してやるとも。
カナリスが侍女や女官の必要性に対して公式に言及した場合、それに賛同する者は少なくな筈であった。トウカの思惑を図りたい者達や関係を構築したい者達だけではなく、純粋に宮廷行事を蔑ろにされる事に危機感や懸念を示す者は少なくないと、トウカは見ていた。
寧ろ、トウカの支持母体である右派勢力こそがそうした主張に積極的に賛同しかねない。
尊皇の志篤い者や権威主義者とは天帝が歴史や伝統と共にある事を重視する。
トウカとしても、そうした声が朝野に満ちた場合、単純には撥ね付け難い。戦時下ゆえの予算削減という一言は、トウカの鮮やかまでに敵国の貴軍官民で屍の山を積み上げた事で色褪せている。そうした余裕を生み出す為の軍備拡大に既に足を踏み入れている事も大きい。
現在の皇国には余裕がある。そして、その余裕は相対的に見て拡大する傾向にあった。経済活動が縮小する事を懸念したトウカ自身がそうした発言を繰り返していた。
実情は兎も角として、そう捉える者は少なくない。
その象徴もまたトウカである事は皮肉であるが、トウカが宮廷人事を充足状態に戻す事を拒絶するのは政治的に見て不利益と非合理性ばかりが目立つ。
カナリスの謀略がトウカの推察通りであるならば、彼は実に優秀な情報部長と言える。その職責に相応しい人物とすら言えた。
しかし、トウカは理解した。
同時にトウカに対しての配慮も存在する。
水面下で皇城府の侍女や女官の拡充を促す動きを各方面に取らず、トウカにそうした手段を取り得る事が可能だとリシアを経由して伝えた。
そのままクレアとの関係を放置する心算なのか?という確認の意味もあったのかも知れない。
――ヨエル……そうか、ヨエルか。其方も在り得るか。
トウカはヨエルの意向である可能性にも思い当たる。
最悪は統合情報部長と皇国宰相の連携。
養子に迎え入れていないとはいえ、クレアの育ての親であるヨエルにトウカとの関係の確認……探りを入れたとばかりトウカは考えてクレアに確認した。
しかし、逆の可能性がある。
ヨエルがカナリスを抱き込んでクレアを宮廷政治の尖兵として利用しようと試みている可能性。
――まさか、逢引きしましょうという言葉を黙殺した腹いせか?
思考を巡らす程に可能性は増える。
よってトウカは思考を打ち切る。
疑心暗鬼は判断を過つ要素でしかない。
しかし、相手の反応を窺うべきであるという判断は下す。
「では、リシア。カナリス中将にこう伝えろ。大筋で提案は認めるが、俺の”人材登用”には吝嗇を付けるな、と」
本心としては、殺すぞ、と酷く直接的な一言を付け加えたい程であったが、トウカはクレアとリシアの手前、言葉を飲み込む。
クレアとリシアは噛み合ってない様に見える返答に困惑するが、トウカは曖昧な笑みで説明を拒んだ。
「あれ、怒ってたわよ」
リシアはクレアに、あんた何をしたのよ、と視線で問う。
視線に留めたのは状況が不明瞭に過ぎて、或いは己の失態に端を発するのではないかという点を考慮した上でのものだった。自信満々に他者を非難し、実はその発端が自身にあったなどという失態を避ける点に気を払う所はマリアベルを彷彿とさせる。
他者を貶すのは好きだが、貶されるのは嫌いな女。
紫苑色の髪の女のそうした姿に憲兵総監が苦笑した。
「マリア様であれば看破されたやも知れません……冗談です」
珍しいクレアの冗談にリシアは毒気を抜かれる。
種族的にも“お堅い”と評される妖精系種族の冗談に対してリシアは気勢を削がれ、紫苑色の髪を掻き毟る。
肩を怒らせた紫苑色の髪の女性情報将校が説明を求める。
面倒が纏めて攻め寄せる光景に、大抵の者は立場や状況、職責に妥協してリシアの要求を呑むものである。傍から見れば横暴極まりないが、紫苑色の髪はそれを致し方ない事として捉えさせる。
そして、リシアは一方的な収奪を行わず、借りは忘れない女だった。
ただ、一方的に借りを毟り取るだけである。
それが次の関係へと繋がる。
リシアは意識していないが、直感的に人間関係に於ける限界と妥協の境界線を渡り歩く事に長けていた。
今までの人間関係を客観的に見れば納得できるが、それを俯瞰できる者はほぼ存在しなかった。未だ彼女が情報として歴史書に記されていないが故に。
「貴女は狡い女性です。誰もが貴女を赦してしまう」
クレアの心底と羨む事を隠さない声音に、リシアは眉を跳ね上げる。
リシアからすると、クレアこそ類稀なる豪運と優れた容姿を持ち合わせた人物であり、自らの敬われているであろう紫苑色の髪などそれらと比較すれば取るに足らないとすら考えていた。
「何よ、行き成り。貴女の奇跡みたい経歴に比べたら、こんな髪なんて飾りに等しいわよ」
応接椅子に腰を下ろしたリシアは、紫苑色の髪を一房掴んで弄ぶ。塹壕に滑り込んだ内戦中や状況に追われた帝国軍との決戦の最中と違い、その髪は良く手入れされていた。
陸軍高官の奥方が髪の手入れに適当なリシアを見かねて、美容室へと誘った結果である。
そうしたリシアの対面に座るクレア。
情報交換が必要だとの見解のみならず、リシア自身の認識に対して思うところがあった為である。
羨み合う二人。
その関係が微妙なものとなるのは当然の事であった。
しかし、それは互いを明確に恋敵と認識した直後の話であり、それ以降はトウカと国益の為、相応に無理をしていると互いに知ったが故に態度は軟化し続けていたと言える。
だが、恋敵である事に変わりはない。
「あら? 貴女は私が嫌いで私も貴方が嫌い。それでいいじゃないの」
そうした関係をリシアは好んでいた。
乱を好む気質に負うところが大きいが、異性を取り合う相手が、少なくとも己と相対するに値する人物であることはリシアの自尊心を大いに満たしていた。
トウカを想う女の価値がトウカの価値であるとリシアは考えていた。
そして、数ある女を薙ぎ倒して最後に隣に立つことが、トウカへの恋心と己の才覚への何よりの証明になるとリシアは信じて疑わない。故にリシアは恋敵という一面に於いては誰よりもクレアを認めていたと言える。
「いいえ、私は貴女に嫌われたくはないのです」
柳眉を下げたクレアの吐露に、リシアはロ元を曲げる。
「セラフィム公を後ろ盾に持つ貴女が私なんかを恐れるなんて……貴女、ちょっと神経質が過ぎるんじゃないかしら?」
恋する乙女がそうした不安に駆られる事は定めである。それはリシアも同様であり、同時にそれを押し殺して堂々と応じる事が恋だと考えて表面には出さない様に努めていた。
それは、不安を仕草や表情に出せば感情が引き摺られる……影響を受けると知るからであり、その点はリシアとマリアベルの大きな差異と言えた。
マリアベルはこの不安や負の感情すらも利用する。それすらも男の気を惹く要素となり得るならば躊躇なく利用して見せただろう。そこに悪気や意図はなく、それが自然であり普通と考える。だからこそトウカも抗えなかった部分があった。少なくともリシアはそう考えている。
対称的に、リシアはそうした振る舞いに多大な精神的負担を覚える人物である。
だからこそ小さな寒村への襲撃を忘れず、〈北部特殊戦部隊〉への処遇に最大の注意を払うだけに留めた。マリアベルならば〈北部特殊戦部隊〉を闇に葬りつつも寒村の悲劇に嘆いて見せたが、リシアにはそれができない。
「いいえ、違います。私が貴女を恐れる理由にセラフィム公を始めとした権力は意味を為さない。そう在ろうとしている貴女は、きっとそう在ることを実現してしまうと思うからです」
真摯な瞳にリシアは気圧された。
「……随分と評価されたものね……」
驚きと買い被りの混在した表情を隠す事に失敗したリシアは腕を組み、舌打ちを一つ。
納得の理由であり、心掛けている気高さ……心掛けなければ維持できない気高さを見抜かれたと知って酷く惨めな心証をリシアは覚えた。
「そうね、きっと私はそう在れる。それしかないし、そう在る事に命を懸ける事も躊躇しない」
自国民を手に掛けてまで維持する気高さが本物である筈もないとリシアは心の奈辺で叫びを上げる己の一部に気付いていた。そして、付け加えるならば、それが恋心までをも毀損する行為であったのではないかと、リシアは自問自答を繰り返してもいた。
しかし、最早それらはなかった事にならない。
リシアは笑う。
「私の恋心を貴女は止められないわ」
血塗れの気高さかも知れない。
なれど元より軍人。
血塗れの公務を己に科した身。
それが誰の血であるかなど分かりはしない。
そう自己暗示の様に戒め、リシアは進む。
クレアの表情は困惑を隠さない。
己の、己が動員し得る権力に屈さない相手への無理解ではなく、そこには強大な相手に対する畏怖が確かにあった。マリアベルを相手にした貴族に見た表情をクレアに見たリシアは、そこに僅かな満足感を覚える。
沈黙。
共に血塗れで恋敵を求めて相対する身である。
リシアは取り繕う気を削がれつつあった。
「やはり貴女は美しい」
クレアは溜息を一つ。
美への称賛に溜息が付随するという表現に、リシアは諧謔味を覚えたが、それ故に応じる機会を逸する。
「そう在れる貴女に嫌われたくない。困ります。貴女は私を恋敵と認めてくれるのに」
クレアは心底と困ると俯く。
リシアは対照的に天を、天井を仰いだ。
「……面倒臭い関係ね、私達」
心底とリシアは思う。
複雑に絡み合い、今では恋心というものが多くの副産物を纏っている。そうした中で互いを恋敵と認識する事は窮屈でもあった。
「そうですね……こうなると……私達はどの様な関係なのでしょうか?」
それを聞く?とリシアは笑声を零す。
「でも、考えてみれば、恋敵……ではないわね。貴女は一歩、先んじているもの」
リシアはそう確信していた。
「それは……」
「隠さなくていいわよ。確証はないし、強いて言うなら女の勘よ」
堂々と宣言するリシアに、クレアは恐ろしい生き物を見たという表情を隠さない。
「やはり貴女は狡い……いつも理屈を屁理屈で押し退ける」
根拠の後付け上等、気の所為気がする気にしない。 神様如何様俺様よ、とでも言わんばかりの振る舞い。
常に自らに都合の良い事を信じるとだけ言えば聞こえは悪いが、都合の良い状況に持ち込む為の努力と行動をリシアは怠らない。
クレアは瞳を逸らして唇を尖らせる。
乙女相応の姿に、次はリシアが狡いと声を上げる番であった。
清楚可憐な顔良人の拗ねた表情には相当な威力がある。
リシアも紫苑色の髪を持ち、畏敬を向けられるが、そこに異性としての好意の色が混じる事は稀有であった。寧ろ、畏敬が先立ち委縮する場合が多い。
そして、リシアには理解できない事であるが、同姓に好かれる場面が多々あった。リシアが在らんと欲し、心掛ける気高き姿はそうした類のものではないが当人は気付いていない。
「その顔で誑かしたのね。髪より顔……世知辛いものね」
リシアは辟易として応接椅子に一層と身を預ける。
結局、異性に与え得る印象で顕著に即効性があるものが容姿と仕草である事実を、紫苑色の髪は覆す程ではない。トウカの場合、異邦人である為に特に効果は乏しかった。
「まぁ、取り敢えず……少し顔貸しなさいよ」
「これは、腕っ節の強い学生がひ弱な学生を物陰に連れ込んで金を無心するという……」
「違うわよ! 私は生まれこのかた優等生よ!」
勉学の成績に絞って判断した場合、リシアは紛れもなく優等生である。無論、素行の評価項目が入るとその限りではない。
「では、まさか禁術で生者の顔を剥ぎ取るという……」
「本当に剥ぎ取るわよ……」
女性同士の異性を巡る諍い……特に一方が女性魔術師であった場合にそうした猟奇事件が起きた例は少ないながらも存在する。情報部諜報員による敵地での任務の際、顔を変更する事があり、それはこうした技術の発展形である為、リシアもそれが可能な魔術将校に心当たりがあった。
当然、リシアはクレアが容姿に留まらない人物であると理解している為、そうした暴挙には及ばない。
その程度の者であれば、恋敵などという立場をリシアは断じて認めなかった。
「もう、莫迦ね! 酒よ酒ッ! 一人の男を挟んで争う女二人の会話! そこの鋭兵! 素面で話せるはずないでしょう!? 違う!?」
部屋の扉の両端に控えていた二人の鋭兵は虚ろな瞳で頷く。
情報将校と憲兵総監による天帝を巡る諍いの一部始終など、場合によっては自身の生命に差し障る案件である。
早々に部屋から去っていただきたいという一心で二人の鋭兵は頷くが、リシアとクレアの凝視に軍装の背中を濡らす。
そうした経緯もあって二人の乙女は場所を移すことになった。




