第三二一話 海軍の憂鬱 Ⅰ
「共和国も厳しい時節ということか」
トウカは大きく権威が損なわれ、人員整理と懲罰人事が飛び交う外務府からの報告書に、心底とうんざりとさせられる。
共和国南部戦線に於ける共和国軍は戦力の不足から反抗戦に転じられないでいた。北方に帝国との戦線を抱える以上、元より予備戦力に乏しく、それを見越して連合王国と帝国が連携した事を踏まえれば当然の結果である。帝国も軍事力劣る連合王国への梃入れは相当な規模で行ったらしく、少なくとも正面戦力が小火器と野砲、弾火薬の不足を来している様子はなかった。
とは言え、共和国南部が侵食される事は皇国に軍事的影響がある事ではない。
南部は穀倉地帯であるが、戦争遂行に必須とは言い難く、最悪、失陥しても継戦は可能であった。寧ろ、防御縦深と見て無理に防衛せずに連合王国の輜重線に負担を掛ける為に進んで明け渡すことが軍事的最善である。
無論、国民感情が政策の左右する民主共和制国家がそれを許容できる筈もない。
愚かだ、とはトウカは思わない。政治制度はいかなるものであれ欠点を内包する。
ただ、政治思想の欠点を補い得る制度を整備できなかった点は怠惰であると考えていた。
「しかし、民意が折れれば、妥協しての停戦となりかねません」
リシアの指摘と共に情報部からの報告書が手渡される。
内容は共和国国会に於ける講和派の勢力拡大と、現状が継続した場合、次期選挙で現政権の権威と権力が損なわれる可能性を示唆していた。
退陣や失脚がなくとも、政党制である為、議席の大多数を維持できなくなれば政権が統制力低下を招く危険性。
民主主義は戦争遂行に適していない。
民主共和制は制度が煩雑に過ぎる。
「予定していた二個航空艦隊の派遣を前倒しにするべきか?」
トウカは判断しかねた。
しかし、他国の内戦を踏み台として強大な空軍の基盤となる経験と人員を成立させた例もある。連合王国の航空戦力の劣弱を踏まえると、技量と知見を得る良い機会と捉えられなくもない。
だが、同時に航空艦隊を派遣するという軍事行動に対し、国内外の政治的影響をトウカは判断しかねた。
国内の航空戦力減少を好機と捉えて蠢動するであろう勢力は国内外に数多い。
「陛下、国外に関しては、情報部は問題が生じないとお約束できます」
陸海軍や近衛軍、皇州同盟軍の各情報部の合流によって生まれた統合情報部は国外での諜報活動を活発化させつつある。予算の問題から諜報網整備は限定的で、予算を投じても早々に結果を得られる訳ではないが、それでも以前よりは多くの国外情報を得られていた。
「神州国は動かない、と?」
口を開こうとしたリシアを制して要点だけを要求するトウカ。
帝国は散々に痛めつけ、部族連邦は先の一方的な敗北を受けて政治闘争が激化している。共和国は対帝国で一致しており、大規模な軍事衝突の危険性は大星洋を挟んだ巨大海洋国家にしかない。
「正統教国と島嶼を巡って小競り合いがあった様です。神州国海軍は五個艦隊を投入して壊滅状態に追い込んだとのこと。これにより神州国では係争状態にあった島嶼以外の占領も目指しているという宣言がありました」
正統教国も憲章同盟も大陸を統一した大国に他ならないが、その国土や人口を見た場合、国力としてはかなり小規模と言えた。
壁に投影して説明するリシアに、トウカは無言を貫く。
判断しかねた為である。
国力差で見た場合、神州国と正統教国は一〇倍以上の差がある。
正統教国も憲章同盟も大陸統一を成し遂げた大国に他ならないが、その国土や人口を見た場合、国力としてはかなり小規模と言えた。
片や非効率な統治の宗教国家。
片や紐帯の緩い民主連邦国家。
共に国内に火種が燻り統治費用の爆発的な増加を抑えきれないでいた。自然と多分野に投じる予算は減少し、失業者や不満が渦巻くことで悪循環に陥っていた。
そうした両国が相争うのは何時もの事である。
政治思想面で相いれない故に殲滅戦争に近い争いを繰り返しており、それは同時に国外に敵を作る事で国内を纏め上げるという国内政策の発露に他ならない。
そうした中で神州国と正統教国の関係も険悪である。
無数の島嶼を係争地とした地政学的軋轢に、一神教と多神教という宗教的対立が一般に語られる事が多いが、トウカからすると正統教国の神は実在性に疑義がある為、その正当性を求めての軍事行動である。
神州国と正統教国。
両国の戦争は十分に有り得る。
だが、それが擬装だった場合、皇国は東部沿岸部を突かれる事になる。
しかし、海洋国家が大陸国家の領域で争う愚を、神州国は理解している。近代史と外交政策を見れば明白であった。
神州国は商用航路保全の為、各島嶼の保持に固執している。
皇国の島嶼の一部を奪った事も、その政策の一つであると考えれば、本土侵攻はないと見る事ができた。維持できない大陸領土を抱える愚を犯すとトウカには思えなかった。
しかし、同時に神州国内の有力者の一部に大陸侵攻を叫ぶ勢力があるのも事実である。商用航路を抑えるのではなく、策源地そのものを押さえる事で更なる利益拡大を求めると言えば聞こえは良いが、それは海洋国家が大陸国家の領域で戦う事を意味した。
――神州国の指導者に抑えきれるかだろうな。
トウカの逡巡を察したクレアが提案する。
「我が陛下、陸上戦力の派遣を躊躇われるのでしたら、傭兵師団を動員してはどうでしょうか?」
その提案に、トウカは熊の様な体躯の師団長の存在を思い出す。
傭兵師団。
正規軍ではなく、傭兵からなる一個師団は種族や民族、性別を問わず、ただ強者だけが入隊を認められるという選抜基準の下で編制されている。
トウカの知る外人部隊とは違い、国軍という枠組みに馴染めない、或いは無頼漢が過ぎて正規軍では問題を起こしかねないが、実力があるという人物を国益の為に運用するという方針の下で陸軍の指揮系統に加わっていた。
元よりヴェルテンベルク領邦軍で運用されており、北部統合軍時代は内戦で活躍した経緯を踏まえ、陸軍の管轄に移っていた。陸軍も実力がありながらも持て余している人材を集中運用するという利点を理解し、傭兵師団は膨れ上がり兵数の上では増強師団規模となりつつある。
「フルンツベルク中将を外征に向かわせるのか……」トウカは眉を望める。
政治など解さぬ武辺者に他国への救援をさせるのかという懸念。
他国の救援ともなれば、ただ敵軍を攻撃するだけに留まらない。現地の他国友軍と連携や地域民間組織との折衝などを踏まえれば、名将よりも政治感覚に優れた……政将こそが望ましい。フルンツベルクはその基準に当て嵌まらない。
「それは、陸軍政務部から人員を出させて補助させれば良いかと。寧ろ、この場合、政治を重視過ぎて防衛戦に加わる程度で済ませる将では問題になりかねません」
戦力規模として増強師団程度である以上、陸上戦力としては戦局を決定付ける規模とは言えない。装甲師団であったとしても少数に過ぎた。航空艦隊による近接航空支援を含めたとしても同様である。
話題になる程の勇戦が必要となる。
近接航空支援と戦術爆撃の下で下級司令部や砲兵陣地を蹂躙して回る程度であれば、連合王国の軍備と錬度を踏まえれば可能である。その場合、兵力差を鑑みて受動的な指揮を執る人物では不適格であり、好戦的な指揮官が必須と言える。
フルンツベルクは最適と言えた。
陸軍府司令部に指揮官選定を一任したならば、同様の資質の指揮官を用意できるであろうが、トウカはフルンツベルグの勇猛を既知としている。
「その線で纏める。陸軍に勅令を。大いに武功を挙げろと伝えろ。外務府は役に立たない。経緯を含め……リシア。御前が共和国大使に説明しろ」
本来であれば複数の装甲師団を投じて早々に連合王国の野戦軍を撃滅したいところであるが、新編制の師団を用意するべく、皇国各地では異動や練兵に注力しており、現状での動員は大きな混乱を招きかねない。
そうした点を説明したならば共和国側も引き下がるだろうとトウカは確信していた。帝国を殴り付ける為の軍備拡大なのだから、それに異を唱える筈もなかった。
「我が統合情報部と外務府と噛合わせる、と。愉快ですこと……仰せの儘に、我が陛下」リシアは得意気な笑みで応じる。
外務府を飛び越えて情報将校が外交に干渉する以上、外務府は情報部に対して隔意を抱く可能性が高い。統合情報部と外務府の確執はトウカの意図するところであった。
外交に於ける情報を情報部が外務府と遣り取りする危険性をトウカは重く見ている。あくまでも情報部は軍や枢密院の指揮系統にあるという原則によるものではなく、天帝や陸海両府、参謀本部、軍令部、枢密院の把握しない情報を根拠とした外交政策を外務府が無許可で行う可能性がある為に他ならない。
外務府が情報取得の手段として、情報部と連携する事は許されない。
これはトウカカだけでなく、陸海両府とも合意が取れている。
ファーレンハイトもエッフェンベルクも隷下の情報組織を使って行われた皇国の軍事戦略に背を向けた嘗ての外交を忘れていない。
合意は自然と天帝と外務府の対立から、天帝、陸海両府と外務府の対立に変化していく事になる。合意は同意に錯覚させる事が可能であり、敵がその同意に敵意を示せば合意を取り付けた者との確執に繋がる。
――さぁ、外交という交渉を司る者ならば気付いて当然だが、どうなるか。
平和外交が過ぎて気付かないとも言い切れない。
「しかし、外務府が役に立たない状況というのも放置できるものではありません。元より情報将校や憲兵将校が外交の場に姿を見せるというのは……警戒を招きます」
リシアの指摘にトウカは渋い顔をする。クレアは淡く微笑み、空となった湯呑に焙茶を注ぐ。
情報将校が姿を見せて友好を口にしても真に受ける者は居ない。その点については平和に淫した者とて例外ではなかった。
「外務府の立て直しを焦る必要はない。暫くは相手の手を取る手の平ではなく、首を切り落とす剣を握る手が必要となる」
下手に妥協して既存の不満を持つ関係者を多く取り入れては体質が同様のものとなりかねない。未経験者は経験者に影響されるものである。
「フルンツベルク中将にもその辺りを直接……駄目か」
リシアとクレアが揃って渋い表情をする光景に、トウカは面倒な事だと嘆息する。
共に戦列を成した仲であり、出征に当たって直々に思惑を伝える事も悪くないと考えたトウカだが、情報将校と憲兵総監は揃って否定的であった。
「陛下の御意向とあらば、要らぬ邪推を受け、戦地に投じられた傭兵師団に過剰な反応を示す恐れがあります。それでは活躍は困難となるかと」
「憲兵総監に同意します。付け加えて傭兵師団の国外への戦力投射それ自体に誤った政治的意義を見出す者も現れるかと」
傭兵師団が戦地で注目を受けて過剰な戦力で対峙を迫られると懸念を示すクレアに対し、国内の政治勢力が連合王国への出征を利用して支持獲得を図るかも知れないとリシアは懸念を示す。
「勇ましい出兵論が出てはなし崩しの戦力の逐次投入を招きかねない。道理だな。だが、共和国がそれを意図して唆す可能性もある」
共和国大統領がそれを成せる人物である事をトウカは理解しているが、それ以上に帝国に一度、本土を踏み荒らされた事で帝国との戦争を邪魔立てする国家を先に踏み潰してしまえという論調が国内で生じる事に危機感を覚えた。
共和国政府が唆し、皇国外務府がそれに協力しかねない。
準同盟国防衛の為の出兵を利用して帝国侵攻を遅延、或いは頓挫せしめるという思惑は十分に有り得た。準同盟国防衛と侵略では取捨選択として前者を取りかねない。平和を妄信する輩の好戦性と、他国からの感謝を狂おしい程に望んでいる点をトウカはよく理解していた。
「統合情報部はその点に備える用意をしているか?」
リシアは先程、国外に関しては情報部は問題となり得ないと口にした。国内は問題視、或いは出兵自体を利用する動きを目論んでいるとも取れる。
「我が陛下、既に主要新聞社を抑え、外務府の要職で留任した者は一人として居りません。影響力は発揮できないかと……放逐された新聞記者と左遷、免職された外務府官僚、恃みにする先は決まっておりましょう」リシアは得意気に微笑む。
その表情にマリアベルの面影を見たトウカは、最近は性格まで似てきたと胸中で呻く。気が付けば、失った面影より未だ幾分か年若い貌に手を伸ばしそうになる。
「不穏な動きをする貴族か……拒絶すれば事を起こす際に協力を願い出る者も減るだろうな」
協力する者達も疑心暗鬼を避け得ない。自らだけが切り捨てられないと確信する程度の知性の者であれば、元より敵としても味方としても役には立たない。トウカに不利益はなかった。
「踏み絵を迫る形になります。激発するも良し、信を失うも良し、か」
カナリス辺りが考えたであろう目論見だと、トウカは見当を付ける。
恐らく、不穏な動きをする責族との接触を影から誘導する程度の御膳立ては想定しているであろう事は疑いない。統合情報部としては中央貴族の覚悟と能力を図るという副次目標がある事は疑いない。もし、躊躇なく早々に受け入れるのであれば、トウカとの行き着いた先の軍事衝突に於いて十分な勝算の根拠を用意している事になる。拒絶するのであれば軍事衝突に自信がなく、不穏分子間の紐帯も脆弱であると判断できた。
「情報部はそれらしくなってきたな」
情報を利用して積極的に政敵を謀り、貶める。
加えて国民の啓蒙と思想誘導が十分に行えたならば最上であるが、現状では情報媒体の質が低い為、全国規模での実施は莫大な予算と人員を必要とする。現実的ではなかった。無線放送の整備を終えてからの予定として枢密院では合意が取れている。
「とは言え、優秀な人材は不足しております。教育にも力を入れるべきではないでしょうか?」
リシアの指摘に、トウカは以前に会議で遣り取りした教育府長官との遣り取りを思い出す。
「確かに、軍への志願者も経済の復調と共に減少しております。経済動向を上回る人材を社会に投入しなければ軍の人材獲得は遅延する可能性があります」
クレアが軍の志願者減少を報告する。
トウカも志願者減少は気にしているところであり、今までの軍の冷遇を見て愛国心に駆られて志願を決意という者も想像した程の数とはならなかった。
軍人は仰ぎ見られる存在でなければならない。
その軍務と報酬の面で民間と比較すると明らかに割に合わない為である。
それを補うモノが誇りや矜持、称賛、感謝という無形の精神的報酬であるが、それらを発生し得る社会的土壌は短期間で形成し得るものではなく、寧ろ先皇時代には大いに損なわれていたという経緯がある。
対帝国戦役に於ける戦勝で幾分かの是正は見たが、後の経済復調で影が薄れている印象は否めない。
「教育が軍事よりも国家の未来を決定付ける事は理解しているが、それを理由に無駄を許す心算はない」
皇国経済の活性化に伴い、各分野で技能職や技術者が大きく不足する事は明白であった。 教育省長官もその点を指摘し、各学校全ての増加を求めた。
トウカはそれを拒絶した。
否、大学の数を据え置いて専門学校の設置を要求した。
「大学の数は維持する。だが、増やしはしない。増やすべきは専門学校だ」
然したる意欲も志もなく、ただ社会に出た際に就職が有利だなどという理由を支える為に、国家が大学という多額の予算を必要とする教育機関を増加、維持させる必要性は全くない。
研究開発や政治、統治、産業、医学などで成果を残し得る人材を育成、教育、活躍させる場として大学は存在するべきである。
余剰資源を国力増加に寄与しない人材に割り振るべきではない。
それならば、各分野の専門学校を各地に設置し、現場で専門知識を以て労働に当たる労働者の拡充こそが国力増強に叶う。それは大学という莫大な予算と高度な専門性を擁する教育機関である必要はなかった。
大学は優秀者に絞った教育を行うべきである。
二流と三流は不要であるというのがトウカの考えであった。
意欲と能力のない者に必要以上の知識を得る場を与える事は費用対効果に乏しい。
トウカの断言に教育省長官はより多くの者に機会を与える事で新たな発見や革新を取り零す可能性を低減できると反論したが、トウカはそれを含めた上で費用対効果が乏しいと断言した。
勉学は意欲がある事が大前提である。
意欲がない者にはより実務的技術を与えるに留めるべきであるというのが、トウカの判断だった。
意外な事であるが、クレアはこれに賛意を示さなかった。
――意欲があっても追い付けない背中を見続けるのは辛いですから、か。
意味するとこを察する事はできなかったが、ヨエルとの関係だろうかとトウカは複雑な心中に踏み込む事はしなかった。
確かに意欲があっても門戸が狭ければ、辿り着くことが叶わない事は珍しくもない。
しかし、トウカはそれに配慮しない。
実力がない以上、それは致し方ない事であり、それらまでをも救済する真似は国家予算の蕩尽に等しい。
「それに教育改革などと叫んでも、改革後の高等教育を受けた者が社会に投入されるには最短でも五年は要する。軍の兵士とて短期的にはある場所から抜き取るしかない」
或いは、畑から兵士を収穫するように、とトウカは胸中で嘯く。
その為の部族連邦侵攻であった。
兵士が不足する。
ならば、皇国は皇国人の士官教育を拡充し、旧部族連邦から退役後の保証や免税を条件に志願兵を募るべきであるというのがトウカの考えであった。教育水準の差から皇国企業への参加が難しい者などを雇用するが、それ以上に皇国企業が早々に旧部族連邦の者達を大々的に雇用し始める事がない以上、労働者の受け皿となる巨大な就職先が必要である。
それが皇国軍であった。
等民制を敷き、旧部族連邦国民に対して、皇国人と同等の権利を与えるという条件で志願兵を募るという選択肢もあったが、それは国内統治に禍根を残す事になるので早々に枢密院で否決された。トウカもその点には同意見である。経済的不平等に苦心している中で政治的不平等まで抱え込む愚を犯す真似はするべきではない。
兵数を増加させつつ、皇国国内では士官育成に力を入れる。
その方針の下で現在の皇国軍は動いていた。
経済発展を行いながら敵国を打倒するには、平和的に併合した教育水準の劣る地域の国民を対価と共に戦場に立たせるしかない。
「旧部族連邦地域……新南部地域の国民の志願者は多いと聞く」
「彼らから見れば、皇国軍の給与というのは高給取りです。遺族への保証も十分にあります」
リシアの補足に、そうだろうな、とトウカは応じる。
大日連本土でも九州などは物価と給与平均が本州大都市圏よりも安価であったが、それを遥かに超える物価と給与平均の差がある以上、一攫千金を狙う者が本州の大都市圏に押し掛けるのは不可思議な事ではなかった。密集する人口が機会を掴む可能性を増加させるという魅力もあったが。
「我が陛下、本当の狙いは別にあるのではありませんか? 敵国を航空攻撃で焼け野原にしてしまえる以上、地上軍の進出は全てが灰燼と帰した後でも良いではありませんか」
クレアの問い掛けにトウカは、それでは満点を与えられない、と苦笑を零す。
大日連と亜米利加合衆国は互いに相手国の無数の都市を航空攻撃で焼き払うに至ったが、講和の席に着く要因は終末兵器の存在にあった。結論として、大規模な空襲のみでは敵国を屈服し得ない。寧ろ、地上侵攻時には焼け焦げた故郷を背にして復讐に燃える敵国民までもが敵の戦列に加わる。
「二人は部族連邦の国民を良き隣人として迎え入れられるか?」
クレアとリシアが顔を見合わせる。
本音と建て前ではなく、二人共一般的な感性からは程遠い部分がある為、尚更に返答に窮しているが、トウカはそれを躊躇と見た。
「大部分は躊躇するだろう。成程、憐憫や悲哀はあるだろう。だが、それは逆説的に言えば自らの立場よりも下に置いているに等しい。そうでなくとも、そうした印象を抱かせる場面は少なくない筈だ」
分断の余地は少ない方が良い。
心情的にも経済的にも教育的にも。
「武功があれば受け入れるという事でしょうか?」
「確かに皇国の為に命を賭して戦った者を拒絶はできませんが……」
共に流した血涙こそが同胞意識を醸成する。
皇国の為に戦ったという事実が旧部族連邦臣民に自信と自負を与え、皇国臣民に感謝と称賛を抱かせる。交流の手始めとしては上出来であり、それを信用や根拠として経済的な結び付きを生じさせ、それは個々人……心情的な結び付きとなる。
「ヒトは共に困難を乗り越える事で同胞意識を持つ。困難を乗り越えたという実績は少々の不満や御高説を一蹴する。勿論、困難を乗り越えた者への称賛を俺は惜しまない」
権威者の称賛は事実を補強する。
権威はそれ単体でも効果を発揮するが、生じた事象への言及を以て正当性や道理を形成する事が叶う。
「ヒトは血を流さねば強固な紐帯を得られないという事ですか……」
「若しくは強迫観念を与え得る体験じゃないかしら?」
二人の女性の意見にトウカは肩を竦める。
「戦争は過程に過ぎない。その結末を利用してこそ意味がある」
放置してもそうした方向性が朝野を動かすことは疑いないが、それをより大規模にして異論を封殺せしめるのは政治の役目である。無論、新聞社が自由気儘に妄想を垂れ流すことは許されない。妄想と偏向が許されるのは創作物までである。
トウカとしては衝撃的な出来事の連続で官僚の調整という名の利益誘導や背信を避け得る為という事も大前提にあった。
官僚組織は、平素の常識や出来事から外れた問題に対して主導権を握る事に抵抗を持つ。慣習主義の産物であり、そうした場合は責任回避の為に上意下達という原理原則を頑なに遵守する傾向にある。利益誘導や背信にも手順があり、彼らは積み上げた手順という名の常識が己を守ると確信していた。
「とは言え、どの様に世論を運ぶにしても明日の飯だ。飯の不安を抱えていては国益に叶う建前も嫌味な人間の御高説にしか聞こえないものだ」
だからこそ併合した土地への無知と皇国との各制度の早急な同一化は戒めねばならない。税制などは猶更である。しかし、納税者が増えたと喜ぶ程度の官僚が多いと大蔵府長官であるセルアノも嘆いていた。
だからこそ官僚の利益誘導をトウカは抑止せねばならない。
官僚組織にとり、前例のない、或いは乏しい出来事を無数に投げ付けるトウカとは極めて与し難い相手であった。
しかも、憲兵隊や情報部を使い官僚組織を嗅ぎ回り、既得権益に値するだけの働きをしているかの確認をしているという噂があり、実際に利益よりも私益を優先した者が不慮の事故で次々と墓の下に転職している。危機感は相当なものがあった。
しかし、中には例外もある。
特に国土開発府などは土建屋出身の長官であり、物怖じしない性格の人物で、トウカを上手く利用する事さえあった。声が大きく食事が早く、そして腹囲がだらしないという絵に書いた様な土建屋の佇まいで、商人のような笑顔で押してくる姿にはトウカも辟易としていた。
しかし、有能であった。
公共工事を進める為に飲ませ打たせ抱かせるというのは当然として、明らかに賄賂に近い金銭を飛び交わせている。クレアが激怒した案件でもあるが、法律と公正道理に従って進めるよりも遥かに進捗が早い事を見せられてはトウカとしては少々の目こぼしは仕方がないとクレアを宥めるしかなかった。
最近では公共工事……特に鉄道と高速道路、飛行場開発での賃金を同業と連携して抑える動きを見せた建設会社への対策を求めたトウカに対し、国土開発府長官はトウカを盛大に利用した。
――陛下が見舞金をお出しになれば、従事する者達は感涙して明日からの仕事に向かうでしょう、か。
国土開発府の予算と人員を使用する事を避け、皇城府の予算を当てにしての発言である事は疑いない。これにはリシアが激怒し、セルアノが名案であると膝を叩いた。後者に関しては無駄な軍事費に費やされるくらいならば市井にばらまかせてやろうという意図が透けて見える。消費喚起に寄与する上、天帝の権威と国土開発への熱意を金銭で示せるならば安いものであるとまで発言しており、リシアは怒髪天を突く勢いであった。
とは言え、有効な一手であった。リシアが妖精姿のセルアノを雑巾の如く絞っている姿を尻目にトウカは大いに感心した。
天帝が公共工事に従事する者達の生活を憂えて見舞金を投じる。
そうした中で建設会社が賃金を抑える動きを取れるはずがなかった。
端的に言えば、比較されては堪らない。
陛下が国土開発に勤しむ者達の生活を憂えている中で、社員よりも会社の利益を優先するのかという批難は企業の印象と株価を直撃しかねない。
自ら建設業の動きを抑制させる。
国土開発府長官の提案はそれであった。
――乗せられてやるが、思惑に乗るだけでは詰まらない。
トウカは見舞金の給付を決定すると共に、困難な国土開発に従事する者達の負担を減らす為という名目で〈第一工兵師団〉の公共施設開発への動員を匂わせた。
これには国土開発府長官も枢密院で両手を挙げて降参の意を示した。
軍の工兵部隊が公共施設開発に関わる以上、その人員は軍から拠出される為に労働者の雇用数は相対的に減少し、工兵が行う公共施設開発は企業への受注として行われなくなる。
雇用数は金銭を生み、受注は企業を潤す。そして、動く金銭に応じて権力は伸長する傾向にある。
その前提を、トウカは労働者の生活環境改善という建前を押し立てて崩しに掛かったのだ。
――素直に頭を下げてきた事には驚いたが。
世間では矜持や立場を気にして強硬になる、或いは座視するという者が多いが、国土開発府長官は、頭を下げる程度で予算と建設が何とかなるなら安いものですと阿々大笑するだけの度量があった。そうなるとトウカもまた狭量と取られては権威に響くと工兵師団の件を取り下げしるしかなかった。
土木建築の労働環境への梃入れは、そうした駆け引きもあって迅速に進んだ。
戦争で人的資源を食い潰す時局があるやも知れない時世に、それ以外の分野で人的資源を使い捨てるが如き真似をトウカは許さなかった。
上手く乗せられたとトウカとしても笑うしかなかった。
妙に人好きのする笑顔の国土開発府長官の満面の笑みを思い起こし、トウカは基本方針を述べる。
「雇用拡大により軍は苦しい所だが、当面は併合した土地での志願兵を主体とする事で対応できる。民間での労働者不足も改善できるはずだ」
出稼ぎ労働者の賃金が併合した土地に流れ込む動きも期待できた。交通網を発達させれば労働者の流動性は飛躍的に向上する。労働を今迄の生活圏の外で行うという選択肢も可能になるのだ。
「しかし、併合地で北部の様に人口減少を懸念する声が上がりませんか?」
リシアの懸念に、トウカは一拍の間を置いて応じる。
「その懸念。誰のものだ?」
リシアという女性は非常に複雑な立場にある。
多くの者に頼られると言えば聞こえがいいが、情報将校が龍系種族や北部貴族、陸海軍から依頼を受けるというのは政治的危険も伴う。それでもリシアは負担と考えていないのか、寧ろ最近は酷く上機嫌であった。情報部はそうしたリシアの立場を利用して、見せ札として利用しつつも各勢力の情報取得に利用している。
その物言いから社交的とは思えないが社交的な人物であるリシアだが、トウカの動向を探り、或いは提案を携える役目を各勢力から期待されている。
自分で言いに来い。各府省庁に問い合わせて、判断に余る場合は上奏しろ、とトウカも言いはすれど、余りにも暴虐な振る舞いが過ぎてトウカを相手に謁見を求める者は限られていた。
「……エルゼリア侯です」
トウカは目を丸くする。
現職の農林水産府長官が情報将校を経由して最高指導者の思惑を窺おうとしている。
遠慮に謙遜、恐怖に畏怖。それらはトウカとの実務的な会話を大きく阻害していた。
しかし、トウカはレジナルドがそうした大部分の臣下が陥っている病によるものではないと察して瞳を眇める。
「面倒か?」
「面倒なようです」
農業と水産業に熱中するレジナルドは寝食を忘れてまで食糧生産政策に邁進していた。要約すると天帝に会う暇はないとまで口にしており、内向的なレジナルドは食糧生産が関わるとヒトが変わる。府内で問題視されるかと思えば、元より農業や水産業……自然環境との共生を重視する種族が大部分を占める農林水産府では好意的に見られているとの事であった。
「些か問題ではないでしょうか?」
「問題ではあるが、北部貴族出身で大過なく府長官を行える人物は少ない。現状でも要職に占める割合が少ない以上、動かす真似はできない」
種族や出身地、血統などの偏りによる問題を避けるべく、その影響力に応じた要職数を与える必要があるが、実務能力で妥協する事も許されない。そうした現状、府長官に任じられている北部出身者は大蔵府のセルアノと農林水産府のレジナルドだけとなっていた。
「聞けば随分と慕われているそうだ。俺とは偉い違いじゃないか? 血を流さずに成果を上げ続けられる分野が羨ましい」
賞賛や羨望による優越感を求めての事ではなく、トウカとしては諸勢力に警戒も敵意も向けられないならば政策も捗ると考えての発言であった。
「代わりに御身が敵に血を流させた故、エルゼリア長官は手を汚す事なく慕われていらっしゃるのです。それこそが国家指導者の成果かと」
クレアの指摘にトウカは鷹揚に頷く。これからも必要な流血は積極的に求めていく事にしよう、と。
「しかし、軍需省設立はそうもいきません」
リシアは農林水産府の様には収まらないと、困難を突き付ける。
トウカは頬杖を突き、クレアは頭を振る。
軍需省。
肥大化する軍事行政の効率化と陸海軍府の権力拡大を防止する目的で設置が決まった軍需省は、主に兵器や軍需物資の生産と管理の役目を担う。
軍という巨大な暴力装置の巨大な軍事力の根源となる兵器の数々の生産と管理を担う以上、そこには莫大な利権が絡む。兵器生産に関わる大小様々な企業と、携わる莫大な人員を踏まえれば、動く資金は一行政組織に留まる規模を超えるであろう事は疑いなかった。
控えめに見ても汚職の温床となり得る。
兵器生産を担う企業の連携を踏まえれば尚更であり、クレアも神経を尖らせていた。
「軍との癒着を避ける為に軍人や元軍人は避けるが、陸海軍の要望を軽視する輩でも困る。府長官も決まっていない……正直なところ、ここまで揉めるとは考えていなかった」
恐れ慄く軍官僚に喚き立つ大企業。
軍需省設立の動きは、そのまま将来に向けた利権争いに転じつつある。
「アマツ重工会長のアザマ氏が有力ですが、アマツ重工の意向があるようです。どうも、船舶部門の赤字解消の為に海軍艦船の大量受注を意図している様です」
「リシア……それは何処からの情報だ」
諜報活動で獲得した情報ばかりではなく、直接の遣り取りで手に入れた情報をリシアは扱う事も少なくない。高飛車な態度であるが、それもまた若者の逸りであるとされて貴族や社交界からの受けが良いリシアは、時折、トウカの予想しない情報を運んできた。
私的な動きに情報を利用するのであれば問題であるが、現在のところ派閥化の動きもなく、寧ろトウカに近い事を強調している為、踏み込まれ過ぎない様に対応を受けている側面もある。
リシアはトウカの強硬な命令を軽減する緩衝材と見る向きもある。
「エッフェンベルク海軍府長官から直接伺いました。露骨な動きではあるが、造船業界の苦節を踏まえれば無下にすることも難しい、と」
皇国造船業界は先皇の頃から縮小傾向にあった。業界の再編成も行われているが、船舶建造では神州国に一日の長があり、皇国よりも安価な国家は多数存在する。
挙句に皇国経済が不調の中、輸出入を爆発的に拡大させていたヴェルテンベルク領は自前で船舶建造を行う事で、同じ皇国に存在しながらも自領のみで生産と修理を完結させていた。マリアベルが資金流出を嫌った事もあるが、物流に関わる分野の領地での自己完結性を求めたことが大きい。初期投資と負担は大きかったが、少なくとも海上物流に関わる技術を利用して他勢力から圧力を受ける事は一度としてなかった。
兵器や機械の生産や修理を他勢力に委ねる事は、自勢力の生産や軍事を他勢力に握られる事を意味する。
友好的勢力に委ねたとしても、友好は永続を保証するものではなく、何よりも友好的勢力が外圧を受けて方針を転ずる事も在り得る。自勢カを危うくしてまで他勢を助ける事は現実的ではなく、またそれを期待する事も同様であった。
船舶建造を他国に委ねることはできない。
トウカは算盤を弾くまでもないと、断言する。
「海軍主導で商船建造を行う予定もあるからな……認めてやれ」
国益を犯さぬ範疇であるならば、とトウカは付け加える。
動く大金を個人の懐に収める事は勿論、内部留保として必要以上に留めくこともトウカは認めない。
トウカは財務府のセルアノに、系列企業全体の収入に合わせた内部留保の上限と、それを上回った場合の追徴課税を行う法律の草案を求めていた。セルアノも国内に流動性の乏しい資金がある事を問題視している為、これには諸手を挙げて賛成している。
――企業の尻を蹴り上げて投資をさせねばな。
流動しない資金程に無駄なものはない。
現在の皇国はトウカの博打染みた戦時下の株式売買や兵器輸出などによって国家予算が増加している。特に前者の効果は絶大で、数字の上では実情を無視して財政が一挙に健全化した様にすら見える有様であった。
株式売買による成果で皇国の対外純資産高も非現実的な数字となっていた。
帝国に対する劇的な勝利と、強大な軍事力の証明は皇国国債や株式の価値を劇的に向上させているが、それ以上に博打染みた株式売買による利益が莫大であった。莫大な資金を背景に諸外国の目ぼしい企業の買収を進め、それは皇国の実体経済との乖離が致命的な水準となる程に行われていた。景気動向として対外純資産高の数字を見た場合、皇国は建国以来、最大の好景気という有様である。
つまるところ、皇国は国内外で莫大な資金を獲得し、それを利用して投資と買収を繰り返している。
トウカは積極的に予算を各分野に投じている。
予算は幾らあっても困るものではない。投資先は無数とある。
そして、自らの予算で投資せずに済ませられるならば、それに越した事はない。
そこでトウカは大企業が抱える内部留保に目を付けた。
有事や非常時に備えてある程度の現金備蓄は必要であるが、大企業などは明らかに度を越した内部留保を有している。
資金の流動性を向上させる為、トウカは手段を選ぶ心算はなかった。
「海軍主導で……海軍直属の商船隊を持つという事でしょうか?」
クレアの問いにトウカは首を横に振る。
しかし、答えるより先に言い当てる者が居た。




