第三一八話 それは神話の如く
「何をしに来た?」
トウカはアリアベルを前に書類を執務机に置いて応じる。
座したトウカの横にはクレアが控えており、感心しないという表情を隠さないまま、トウカの振る舞いを咎める様に肩に手を沿える。トウカはクレアの手を片手でそっと掴み、無用だ、と応じた。
「お聞きしたい儀が御座います」
一礼し、アリアベルは緊張した面持ちで切り出す。
未だ正式な婚儀を経た訳ではない為、その振る舞いは家臣のそれである。
現状、騒乱と急速な体制転換が繰り広げられている事から祭事なども中止や延期が相次いでいる。トウカの勅令によるもので、伝統や宗教を理由に祭事の開催を言い募る皇城府の反論を退けてすいらいた。
戦争の激化に伴って祭事が見送られた例を知るトウカにとり、それは問題視すべき事ではなかった。
「申してみよ」
トウカは執務机に頬杖を突き、胡乱な瞳で言葉を促す。
その内容は予想できるものでしかなく、恐らくは生じた問題とそれによる利益を理解した上で納得できないのだろうという事までトウカは察していた。
「……ヴァンダルハイム侯爵令嬢に対する仕打ちに御座います」
不満が克明に刻まれたアリアベルの表情に、傍に控える護衛の女騎士……エルザが息を呑む。打擲に及ぶのではないかという懸念がそこにはありありと窺えた。
「愚かな女だった……意図を理解していれば逃れようもあったのだがな」
辟易とした感情を隠さず、トウカは端的な所感を述べる。
ヴァンダルハイム候令嬢マルギレッタ。
皇国貴族の中に在っても特段の美貌を備える侯爵令嬢を差し出せと、トウカはヴァンダルハイム侯爵家に迫ったのだ。
心の根の優しいうら若き乙女だと評判のマルギレッタとトウカは面識がないが、ヴァンダルハイム侯爵が中央貴族内に於いてトウカに反発する貴族の中でも特に影響力が大きい貴族家である事が悲劇を齎した。
トウカは中央貴族の挑発にマルギレッタを利用した。
結末に興味はなかった。
挑発でしかない。
マルギレッタには相思相愛の婚約者が居り、そうした事を知った上で愛妾に寄越せと天帝として命令した。当人の慈愛に満ちた平素の振る舞いから慕われるマルギレッタを守る動きを中央貴族は取った。
ヴァンダルハイム侯爵は、これを危険な兆候と見た。中央貴族の激発を抑えきれないと憂慮したのだ。トウカの思惑通りであり、的確に政治的急所を突いたと言える。極小の労力で極大の利益を得ようという……個人を貶めて集団の動きを強要するというのは紛れもなく有効にして最効率の手段であった。
その末にマルギレッタは自害した。
トウカの聞く限り、それは毒の短剣で喉を突いての自殺だったという。
己が旗頭にされ、侯爵家が勝算のない内戦の渦中へ投じられる事を確実に避ける手段として自害を選択した。
次点である。
最善は、トウカの前まで来て重臣達の眼前で平手打ちを加える事であった。
手を挙げた女を逆上して斬り殺すなどという真似は戦争屋の風評に差し障る。傲慢に女を求めるのは良い。しかし、逆上して斬り殺す事は武名を穢す。トウカは呵々大笑を以て、良い女だ、と為すが儘に自由を認めるしかなかった。
しかし、それはトウカが相手であるが故の正解でしかない。
彼らはトウカの為人や思想、政治姿勢を解しなかった。
故に、より確実な自害という方法を選択した。
世を儚んで自害したという上奏が成されたが、実情は不明であった。一門が自害を強要した可能性が高いと情報部は報告している。
「陛下、それは違います。政治を論点とするべきではないのです。陛下、我が陛下。愛を政治に利用するべきではありません」
「御前の天帝招聘への情熱は思慕に近しいものだと理解していたが? そうでなければ物狂いの類となるだろうな」
愛国心の発露という一言をトウカは敢えて避けた。愛国心の末路としては征伐軍成立以降の軍事衝突は余りにも結果が伴わなかった。結果の伴わない愛国心は許容できても被害しか齎さない愛国心は許容できない。敢えて指摘しないのはトウカの優しさではなく、アーダルベルトとの関係に配慮してのものであった。
「御前が余を愛するのは義務であるが、余が愛する者は余が決める」
他所様の愛を貴様が決めるのかという迂遠な指摘。冠婚葬祭を広く司る神祇府が大御巫の立場として他者の恋愛に異論を挟むというのは風評への差し障りがある。無論、顔すら知らぬマルギレッタを相手に愛など生じる筈もないが、まだ見ぬ天帝に対して思慕の如き情を隠さなかったアリアベルはそれを非難できる立場にない。
そうした部分を見越した上でのトウカの反論に対してアリアベルは怒りを滲ませる。
「では、マルギレッタを愛しておられたのですか?」
「求めた当時は愛していたかも知れんな」
人心など他者に分かる筈もなく、アリアベルは恨みがましい視線を隠さない。
政治的行動として要求したに過ぎない中、愛などと口にして非難する無駄と無意味にトウカは心底と呆れ返る。同時に、随分とマルギレッタの話題に固執するという不可解を気にしてもいた。
アリアベルとて、中央貴族の排除、乃至権勢の縮小の意義と意味は理解している筈であり、その費用対効果が激烈である事も例外ではない。現に中央貴族内では派閥が幾つも形成され、統一した意思決定能力を失いつつある。
目下のところ穏健であったヴァンダルハイム侯爵の掣肘が効かなくなっている事は大きく、何かしらの反攻が以前よりも期待できた。一部の暴走と片付けず、中央貴族全体の問題としてトウカはこれを叩き、中央貴族の領地を天領として接収して国内改革の効率化を図る。
アリアベルの逡巡。それが反論の為のものではない事は表情から見て取れた。
「マルギレッタは私の友人でした……」
「そうか。なら侯爵家は最悪の判断は避けた事になるな」
アリアベルを頼って仲裁を願い出るという動きを取らなかった。それもまたアリアベルに忸怩たる思いを抱かせている要因の一つである事は明白だが、トウカからすると、その点に関してはマルギレッタとヴァンダルハイム侯爵の判断が正しい。
皇妃となるアリアベルに仲裁と協力を申し出なかったのは、一重に父に当たるクロウ=クルワッハ公爵アーアルベルトが新皇たるトウカ寄りの姿勢を鮮明としている事に起因する。もし、協力を仰いだ場合、新皇たるトウカへの教順や紐帯と見て父娘諸共に謀殺される可能性すらあった。アリアベル自身も政治的産物の結果とは言え皇妃となっており、実情は兎も角としてトウカに近しい存在となっている。
無論、トウカとしては中央貴族が完全に分断し、陣営内でいがみ合うという展開が最も好ましいものであるが、それは高望みが過ぎた。
そして、そうした動きを見事に掣肘して見せた貴族がいる。
「しかし、ヴァンダルハイム侯爵も一筋縄ではいかん。困った事だ」
憤怒を抱いていただろう。
悲哀を抱いていただろう。
憎悪を抱いていただろう。
それでも表面上は家臣の礼を取り、ヴァンダイルハイム侯爵は上手く逃げ遂せた。
「領地替えを上奏してきた。名目は輿入れ前に娘が自害した事の責任を取りたいだそうだ」
トウカは新しい領地としてエスタンジア地方に隣接する地域を示し、ヴァンダルハイム侯爵はこれを歓迎した。長期的に見た場合、帝国側への経路としてエルライン回廊と並ぶ経路となるであろうエスタンジア地方の価値は計り知れない。皇国の領土拡大が成れば、戦略的重要性は大きく向上する。現在は国境に面する為、天領となっているが、その地域をトウカはヴァンダルハイム侯爵に与える判断を下した。
将来的に栄えるであろう土地を与える事は獅子身中の虫を育てる結果となりかねないという懸念が枢密院から出たが、北部地域の一部となり、至近にはヴェルテンベルク伯爵領がある。将来性は在れど、容易に敵対者の策源地とはなり難いとして、トウカは枢密院を説得した。
「胸中は知らぬが、優秀な者を排斥はできまい。現状では中央貴族の影響力を削ぐ必要があるとはいえ、遊ばせておく余裕はない」
発展に尽力するならば良し。敵対するならばヴェルテンベルク領邦軍と駐留する皇州同盟軍や陸軍〈北方方面軍〉が対応する事になる。
――エスタンジア侵攻の際に踏み絵を迫る心算ではあるが。
エスタンジア地方に軍を進める場合、新たなヴァンダルハイム侯爵領は輜重拠点となる。その際に叛乱や非協力を示すのであれば、その時こそ族滅させる大義名分ができる。
「優秀だ。しかし、貴族の柵に背を向けるだけの覚悟と力量はなかった」
培われた、或いは刻み付けられた皇国中央貴族としての常識に囚われて最善を誤った。
トウカはその姿に戦慄と興奮を覚えた。
常識はヒトを斯くも縛るものか、と。
――さて、己の常識は何時、己に牙を向くものか。
トウカは、この幻想世界に到来して以降、常に己の常識を世界に押し付ける立場だった。
矢継ぎ早に動いて先手を取り続け、未発見の原理や原則を振り翳して、初見で対応策を知らぬ相手を殴り続けたと言える。
しかし、常に自らの常識で諸勢力を振り回し続ける事ができる時期は過ぎつつある。
以降は、トウカがこの世界の常識に翻弄される機会が増えるであろう事は疑いない。
「さて、生き残るのは俺か、ヴァンダルハイム侯爵か……死は気紛れだ」
その独語は誰かに宛てたものではない。
それを汲み取る者はないない……はずだった。
「死を与えるのは敵国の者だけにしておくのですね」
蒼の象意を纏う女性。
外見は完全に人間種でしかないが、マリアベルに似た厭世的な雰囲気と柔らかな陽光の如き相反する印象を併存させる美しい女性。蒼を基調とした衣裳……控えめな襞の付いた白い襯衣に蒼い短外套を纏い、青の長い腰部裳は何処かの御嬢様と言った風体であり、この場には不釣り合いな女性であった。
リシアよりも幾つか上の年頃であろう外観をしている女性に、トウカは眉を顰める。
「貴官は……確か、紫苑桜華の下で……」
胡乱な記憶を辿り、トウカはその面影を追う。
いつか紫苑桜華の下で迂遠な助言をした女性に行き着いたトウカは、実在の人物だったのかと感心する。妖霊神魔の類と考えていたトウカは、彼女の人型の影を一瞥した。魔術的に影は本質を示し、明鏡を成す。
「ステアと申します。英雄の息子。……いえ、女神の子と言うべきですか」
ゆったりとした動作で応接椅子に座したステア。
「それは……」
二の句を告げないアリアベル。
女神……皇国に於ける天霊の神々は、トウカの知る八百万の神々と類似した存在が少なくない。両国の関係性を示す神話的根拠とも言えるが、そこに明確な形で祖国との繋がりを示す事象はなかった。ただ、神話として名称だけが連なる。
「母上の事についての興味は――」
「――ない。顔すらも記憶にない相手を求める無意味は理解している心算だ」
そうした品のない設定を盛り付けるのは止めて貰いたい、とトウカは閉口する。
父親の立場ですら持て余しているトウカからすると、ステアが恐らく口にするであろう言葉は明らかに過大な負担となる。神々の領域に足を踏み込んだ……足を踏み外した父親だけでも国粋主義者や宗教家からは多大なる負担を掛けられる事は疑いない。
国粋主義者と宗教家から多大なる支持を得られるなどとトウカは考えない。
狂信者や視野狭窄の輩にとって、仰ぎ見る存在の理想像に誤差がある事は許されない。そうした者達の支持を得る為、望む儘に振る舞うのであれば、選択肢は自然と狭まる事になる。
指導者として見た場合、狂信的な支持者を起点とした組織運営というのは利点も多い。義務感と教義……己の信ずるものに忠誠を誓う為、裏切りや汚職の可能性を低減できる。
しかし、トウカは何よりも選択肢が減少する事を恐れた。
独裁的権力を手にしても、自らの判断に制限が付くのであればその効果は減じる。
トウカは狂信者達が色めき立つ根拠を望んでいない。
宗教的正統性をトウカは使い熟せるか判断が付かなかった。
天帝の権能を得てトウカは歴代天帝の記憶を総攬できる様になり、天霊神殿を起点とする国内宗教の大凡を把握した。
その結果として、トウカは政教分離を決断した。
天帝招聘の儀などの指導者選定や、国体保全に必要とされる部分に於いては容易に分離できないが、それでも宗教が政治に影響力を及ぼす危険性を低減する制度は必要であった。
「女神と言えど、それは機械仕掛けで、結局のところはヒトの記憶を転写しただけに過ぎない」
違うか?とトウカは皮肉気に頬を歪める。
機械仕掛けの女神に関する情報も歴代天帝……特に建国時の天帝……父親の関連するものとして蒐集されていた。
「希う者に力を貸した結果として、この世界は誕生したのです。その様に言うのは――」
「――物は言い様だな。現世に満足できなかった女が新しい舞台を作った挙句、夫を引き摺り込んで脚本を書かせた……その脚本を書き上げるだけの才覚はなかった様だが」
善悪も正邪もトウカの前では意味を成さない。
トウカが愛した女が愛した国家を指導者となって繁栄させる。
過去の悲哀や憤怒を踏み越えて成すべき道に、両親の立場など不要物にして不確定要素でしかなかった。
「成程。この世は舞台!」
トウカは立ち上がり両の手を広げて朗々と吟じる。
機械仕掛けの女神が創造した総てが在る世界という舞台。
しかし、その意図するところに従う理由も根拠も存在しない。血縁の思惑を遵守する正統性などなく、ただ生者は在るが儘に振る舞うのみ。
「だが、脚本家は俺だ!」
歴史は、時代という名の脚本は生者が記すべきものである。
初代天帝たる父ではなく、当代天帝であるトウカの手に歴史を記す筆はある。
「失せろ、小娘! 俺の記す|脚本(歴史)に貴様は不要だ!」
鼓腹撃壌を謳歌する。
それはトウカ自身の才覚によって成されるべきものであって、過去を生きた者達によって成されるべきものではない。
拳を執務机に叩き付けたトウカはステアを睨み付ける。
ス自由のテアの正体を知るトウカからすると、彼女の存在自体が要らぬ御節介そのものである。端的に言えば母親の御目付け役であり、歴史の干渉者であった。
「そう、ですか……良いでしょう、それを貴方が望むのならば」
ステアは悲し気に首を振る。
トウカは罪悪感など抱かない。老若男女問わず血涙を流させてきて今更である。近しい者以外に対してトウカは極めて冷淡であった。
「然らば、疾く覚えておく事です」
溜息と共に悲しげな声がトウカの耳朶を打つ。
呆れと悲哀が滲む感情にトウカは苛立つ。己に憐憫の要素はなく、それは敵対者に押し付けるべきものであると確信しているからこそ、トウカは苛烈無比なのだ。
「貴方の舞台が常に貴方の舞台であり続けるとは限らないでしょう」
世界という舞台に立つ生者全てに役割などなく、己がそう有れかしと願う儘に振る舞う自由がある。立場と境遇が振る舞いを強要する事は在れども、それは本質的に願う者の意志を曲げる正統性を有さない。
トウカはそれを良く理解している。
己の範疇を超える出来事など枚挙に暇がない事は、これまでの戦歴が示している。
思うが儘に総てを脚本通り進められるなどとは思わないが、トウカは己の意志を持って大事をなすと決意していた。
背を向けたステア。
しかし、そこで思い出したかのように止まる。
「飛び入り参加も不意の離脱も許される……誰しもが現世という舞台では自由なのです」
道理である。
言われるまでもない、とトウカは吐き捨てる。
想定外というものに致命的な一撃を受けたトウカからすると、そうした事実は十分に知るところであった。
「正に! 正に! ならば! 全てが赦される舞台だと言うならば、幾つかの民族が死滅しても、放射能に塗れたとしても構うまい!」
トウカは蒼褪めた表情で吐き捨てる。
この世という舞台は自由!
自由の恐ろしさと怠惰を知るが故に、トウカは自由という事象を絶対視する事もなければ優位と見る事もなかった。
「この大陸は! この星は! この星海は俺の舞台だ!」
執務机に拳を振り下ろし、トウカは叫ぶ。
ミユキを喪った。
それに見合うだけのナニカが舞台上に存在しなければならないと、トウカは強迫観念を隠さない。
上品な繁栄や発展など不要であり、望むべくは荘厳な輝きと流血による華々しい……叙事詩の様な歴史に他ならない。
「舞台の主役は一人! この俺だ!」
ステアは言葉を返さない。
仕方ない子と言わんばかりに首を振り、部屋を去っていった。
「陛下、宜しかったのですか?」
クレアは問う。
立場上、クレアは治安維持に於ける多くの権力を有するが故に、トウカの判断によって治安が不安定化すると見た際には諫言を躊躇しない。そうした人物として定着しつつあるからこそ、治安維持を担う各組織の意見はクレアを通して行われる場合が増えつつある。軍神の外套を踏んで顰蹙を買う真似はできないと、組織としての上奏を控える傾向にあった。
トウカはそれを咎めない。
クレアによる情報の選別を信頼しているという以上に、治安維持に関わる情報が憲兵総監に集約するという効率性を見ての事であった。
「いえ、処理なさらないのですか、という意味に御座います」
一礼してステアの殺害の是非を問うクレア。
陽溜まりの様に暖かな笑みと乖離した内容に、トウカは笑声を零す。
殺せる相手なのか、と問い掛ける真似はしない。トウカに与えられた権能はステアの正体を提示しなかった。
詳細不明である、と。
天帝の権能は天霊の神々によって構築され、神羅万象とは言わずとも、高度な情報処理能力と過去に生じた多くの事象を閲覧可能であったが、ステアに関しては詳細不明であると早々に答えが出た。禁則事項の情報も存在する中で、詳細不明という表現が成される以上、それは神々の神威……権勢の及ばぬ範疇にある事を意味する。
正体不明。
既存の軍事力が有効かの判断が付かない。
「不確定要素が多い」
その言動ではなく存在自体に、とトウカは付け加える事を忘れない。善意と忠義による独断専行が利益を齎すのであれば黙認する事も吝かではないが、不利益が生じるのであれば罰を与えねばならない。それがトウカの基本姿勢であった。無論、”黙認”という点が肝要である。決して公式には称賛も評価もしない。
クレアは僅かたりとも緩やかな笑みを崩す事無く一礼する。
「ふむ、どうやら俺は出来の悪い小説の主人公の如き立場になっている様だな」
これが後付け設定というものか、とトウカは肩を竦めて見せる。
胸中では憎悪と憤怒が渦巻いているが、トウカは多くの情報に晒された為か、その感情を表面に出すだけの労力を用意できなかった。
不確定要素が服を着ている相手に安易な手段を用いる事の危険性は、この世界では地球世界よりも遥かに高い。外観が能力を保証しないという表現すら生温い程の理不尽が転がる世界である。
ましてや国家や思想という頸木すらない相手を縛り、誘導する事など不可能である。
放置が上策である。
「御立場を利用為さいますか?」
クレアの提案に、トウカは言葉を返さない。
アリアベルは言うべき言葉が見つからないのか、沈黙を続けけている。沈黙が過ぎてトウカが意識から除外する程であった。それを咎めるには、先程までの出来事は宗教家にとって過大に過ぎた。
初代天帝が父親であり、機械仕掛けの女神は母親という余りにも現実離れした背景を利用しても、それは権威付けの一種とされて真に受ける者など限られている。例え、神祇府が認めても、既に神祇府がトウカの影響下に置かれつつある現状を踏まえれば、その承認を素直に受け取る者など一部の狂信者を除いて居る筈もなかった。
「受け入れられない主張に意味を持たせるのは骨が折れる」
独裁者と道化の境界を曖昧とするべきではないと、トウカはクレアの提案を退ける。
ステアに対して只ならぬものを感じ取っていたのかクレアも追及はせず、トウカは憲兵の勘か女の勘かと興味を抱いたが口にはしない。
去りとて警備体制の問題を放置できないのか、クレアが部屋の隅に配置された通信機を手に取りアルフレア迎賓館内外を警備する部隊へと通信を始める。
トウカの北部での居となったアルフレア迎賓館の警備は複雑極まる状況であった。
皇州同盟軍に陸軍憲兵隊、各組織の情報部に加えて海軍特設艦隊も編制されて加わるという警備体制は当然ながら指揮系統の統一が成されていない。最終的にはクレアの下に指揮権“らしきもの”が集約されたが、本来は近衛軍が担うべき禁闕守護の任に関わるという栄誉の前に各軍事組織は大いに張り切り迷走する事になる。特に海軍などは戦艦一隻を含む特設艦隊を編制し、シュットガルト湖での哨戒任務に当たっているが、当然ながら領邦軍艦隊や皇州同盟軍艦隊との軋轢が生じている。進路や出航順で揉め、挙句にフェルゼンの歓楽街で水兵同士で乱闘が起きるなど、傍目に見ても警備をしているのか問題を増やしているのか判断に悩む状況であった。天帝の警護という栄誉は逆効果であり、寧ろその栄誉が軍人達に後先考えない意地を張らせる事となる。
そうした状況が憲兵総監であるクレアの立場を強化した。
クレアは不祥事が生じる度に各組織に借りを作る形になった。
憲兵総監という立場を踏まえれば自明の理であるが、元よりヴェルテンベルク領邦軍憲兵隊指揮官とそてヴェルテンベルク伯爵領で辣腕を振るっていたクレアには、フェルゼンを運営する組織や人物と面識や伝手があった。他勢力から抽出された警護戦力より遥かに優位な立場にある。
それを十全に生かしてクレアは主導権を獲得しつつある。
トウカは警護戦力の確執と混乱について苦言を呈する事はなかった。
興味に乏しかったと言える。
旧ヴェルテンベルク領邦軍に所属していた情報部や〈第八〇〇重装憲兵大隊・ブランデンブルク〉を始めとした非公式の警護に加え、皇州同盟軍情報部、そしてなによりもベルセリカが居る布陣を優越する単独目標を掣肘する術をトウカは持たない。個人としてそれらを優越する相手にに対しては、政治的掣肘を加えるしかなかった。
クレアが放置すると判断したならば要らぬ忖度をする者が現れない程度には、クレアはフェルゼンに展開する諸勢力の軍勢に無視できない影響力を有し始めている。
憲兵に対して背筋を伸ばすのは軍人の性である。それは将官であっても例外ではない。
「陛下、あの方は……」
今まで沈黙を保っていたアリアベルが訊ねようとするが言葉が続かない。訊ねるには余りにも過大な名であると察したが故か、その深淵に言葉を投げ掛けるかの様な相手に臆した為かトウカには判断しかねた。
執務椅子に深く腰掛け、トウカは溜息を一つ。
「大剣の巫女だとか言われているらしいな。リシアと面識があると聞く」
一度、言葉を交わした事があるが、それ以上にリシアからの報告があった事を思い出したからこそステアの正体にトウカは行き着いた。
マリアベルと近しい関係のある女性。
トウカとしては、ステア程ではないにせよマリアベルもまた正体不明の人物であると考えていた。
出自や思想や性格は多くの者が知るところであるが、ヴェルテンベルク領黎明期からは、その行動が大きく隠蔽されており、恐らくはその不明確な期間こそがマリアベルによる非合法手段による各種資源獲得があったのだろうとトウカは見ていた。そうでなければ爆発的な発展の説明は付かない。
――恐らく、長期に渡ってマリアベル蔭で暗躍する組織があった筈だ。
領邦軍情報部や領邦軍憲兵隊に対して、表裏問わず予算表や人員表を提出させたが、人事本部はそれに、相当の影響力を行使できるであろう規模の組織を運用する程の使途不明金は見いだせなかったと調査報告書を挙げている。
アリアベルの追及が続く。
内容を纏めれば、大剣の巫女は神祇府に保管されている天霊神話の外典に記されている人物であるらしく、世界を形作った人物の一人であるという。
――神々の視覚から逃れ得る人物という事か。いや、双方に合意があった線もあるか。
トウカが天帝の権能によって神話的事象に纏わる部分の情報を総攬できないという事実は、多くの推測が可能な余地があった。
「では、陛下は御母上の立場を御存知なかったのですか?」
「ない。が、生前の荒唐無稽な研究を踏まえれば、その意図があったと判断せざるを得ない」
トウカの母親は、端的に言うなれば、宗教的血筋の者が量子力学の一角を躍進させ、挙句に哲学という沼に溺れた、という奇抜な人物であった。
最後は、哲学と物理学の境界が曖昧になり、誇大妄想の人となったと、トウカは見ていた。
――早々に死んでくれた御蔭で家名が穢れなかったと考えていたが……
神話的存在や数々の神秘を目にした今となっては、己の母親には多くのモノが見えていたのかも知れないと納得できる部分もあった。幼少の頃に死去した為に記憶すらなく、そこには感慨も未練も生じないが、命を奪う結果となった最期の実験に関しては多次元世界に対する干渉という名目であった。
陸軍と共謀し、核実験を隠れ蓑とした核分裂反応を利用した実験の結果は失敗であるが、それは観測できなかった事による相対的な判断である。判断すべき母親も爆心地に居た為に死亡したと見られている。
爆心地は爆発に抉れる事もなく平面上に繰り抜かれたの様に消え、放射能汚染すら生じないという不可思議な事象は現行の核物理学に対して疑問と混乱を投げ掛けたが、トウカはその事実に対して神秘や幻想を当て嵌めなかった。
――神秘や幻想の存在を確信し、それを利用した可能性もあるな。
トウカは酷くうんざりして執務机端の端に置かれていた酒瓶を手繰り寄せ、用意されていた硝子杯の水を飲み干し、並々とウィシュケを注ぐ。酒精が入ってい内にも関わらず、酒精が入ったかの様な思考に及ばねばならない以上、帳尻を合わせたほうが良いとトウカは見た。クレアもアリアベルも咎める真似はしない。
泥炭の薫りの強いウィシュケにトウカが満足する。
マリアベルの好みから外れる印象だが、トウカの好みには合っていた。
酒精交じりの溜息を吐き、トウカは情報が少ないとしてアリアベルに外典の概要を報告書に纏めて提出する様に命令する。止むを得ないとしてアリアベルは請け負った。
そうした中で、クレアが逡巡を見せた事をトウカは見逃さなかった。
「憲兵総監、何か疑念があるのか?」
トウカの問い掛けに、クレアは躊躇を越えて窺う様に尋ねる。
「陛下、御戻りになられないのですか?」
「それは――」
その意味するところを察したトウカは、クレアの心情を察して言葉を選ぼうとするが二の句が継げなかった。
「…………やめろ、やめて欲しい。俺の決意を損なわないで欲しい、頼むよ」
トウカはそう願う。
ステアであれば、トウカが祖国に帰還する術を用意できるのではないかという可能性。
トウカもステアが神話上の生き物であるならば、それも世界を用意したと嘯く人物であるならば世界を渡る事も不可能ではないと見ていた。無論、トウカと両親の転移次期と時間経過を見て分かる通り、推測される時間的齟齬までをも解決し得るかは不明であるが、世界を渡る術に関しては十分に成算があると考えている。それは母親を知るが故に、日本の存在する世界を知っているとみて間違いないからである。
母親とステアは協力関係にあった。
世界を形作る為の協力である事は疑いない。神々の協力もあったかも知れない。或いは、日本での各種実験すらステアの協力があったとしても不思議ではなかった。
考えれば考える程に世界の境界線を曖昧とする人物であるように思える。
しかし、トウカはその事実に背を向けた。
喪ったまま逃げ出す事をトウカは良しとしない。武名が廃るなどという武家の発想からではなく、自らの判断で皇国人の多くに死を命じただけの成果を皇国に実現させる義務がある。
そして、何よりもミユキを喪った事に見合うだけのナニカをこの世界で見付けねばならなかった。
あるかは分からない。
恐らくないだろう。
トウカはそれを朧げに察している。
それでもその姿勢を辞められない。止めてはならないという強迫観念があった。
「差し出がましい発言でした。御許し下さい」
クレアが一礼する。
トウカは、良い、と苦笑する。
らしくない。
それは当人も理解していた。
何より、ステアに啖呵を切った直後、帰還の可能性に揺らいだなどと発言する己の弱さをトウカは愧じていた。
クレアはトウカの手を取る。
トウカはその手を跳ね除けず、クレアはトウカの手を両手で包み込む。
「御供します。貴方の記す歴史の先へ」
それがクレアの覚悟を示すものであると理解したトウカは、短く感謝を告げるに留める。続けて気恥ずかしい真似だけの余裕は現在のトウカにはなかった。女性が求める言葉はそれではないと理解しても尚、それを口にするだけの勇気をトウカは未だ持ち合わせない。
男は言葉が必要ない関係があると信じるが、女は明白な言葉を求めるものである。
トウカとクレア。
互いに相手にとっての最善を知りつつも、それを与える事を未だ躊躇していた。
そうした中でアリアベルが口を開く。
「陛下、我が陛下……私は……」
顔に朱を散らしたアリアベルが、繋がれたトウカとクレアの手を一瞥し、何かを告げようとするが、それは言葉にならない。
アリアベルにできるのは黙って踵を返す事だけであった。
結局、大多数が認めない神話に意味はない訳です。
認められない神話に意味があるのでしょうか? そして認められないからこそ神話の時代は終わったのかも知れません。意義深いですね。私は人が人として存在する限り、人の心という不確実性のどこかに神話は生き続けると思います。
貴方の心に神話はありますか?
貴方が気付いていないだけで、神話とは思えない神話が貴方の心に根付いているかも知れませんよ?




