第三一六話 いつかの酒場にて Ⅱ
次々と運ばれてくる料理を適度につまみ、トウカはリシアに料理を口に押し込まれながらも、遠くない過去が胸に去来し、嘗ての日常を思い出す。
「其々の立場は変わったが、変わらないものもあるということか」
「鼎の軽重を問われる振る舞いを変えて欲しいと重臣達は願うでしょうね」
トウカの言葉にリシアが苦笑する。
とは言え、酒場での飲食に関しては、当時の階級から見ても護衛もなく行っていたのは軽挙以外の何物でもない。密閉性も退路も想定していないのは、有事下の高級将校の行動としては非難を受けても致し方ないものがある。トウカとしては昼下がりに野外席で軍高官が会議をしていた例を知っているので、世の中の上位者の行動の全てが慎重を期したものではないとも確信していた。寧ろ、組織の上位者とて人間という枠組みからは例外となり得ないという傍証でもある。当然、正当化する根拠となり得ない事もトウカは承知していた。
「その重臣を各分野で見つける必要がある。特に外交を」
外交に関してはトウカが直近での立て直しを諦めた分野でもある。
必要とあらば、トウカは国家指導者同士の直接交渉で物事を決める心算であった。内容問わず他国との交渉が長期化した場合、自国よりも他国の利益を図って融和や友好と嘯く手合いが跳梁跋扈するのは皇国にとり危険である。
即位後、方針に対して拒絶、或いは無視した外務府官僚は、条件に差を付けて公職追放としている。排除しつつも条件に差を付ける事で軋轢と不和を誘い、連携を阻むという意図に他ならない。不公平”感”こそが最も良く人間関係を阻む。トウカの言葉にリシアが苦笑する。
これは大蔵府長官に抜擢されたセルアノの提案によるものであるが、宰相であるヨエルが同意した為、トウカとしても拒む理由がなかった。トウカも三枚舌の似非紳士の如き振る舞いに躊躇はない。
去りとて、巷では、皆殺しだ、とトウカが叫ぶ前にセルアノとヨエルが紐帯を見せ、厳しい条件を提示する事でこうした動きが生じる事を抑制したという噂がある。
トウカはうんざりした。
セルアノの周辺から出た噂である事は容易に想像でき、情報部もそれを裏付ける報告を上奏した。情報部が新任の大蔵府長官の動向を把握している事に満足したトウカだが、セルアノが皇州同盟の頃と変わらず予算分配でトウカに文句を言う姿勢を変えていない事には辟易とする。
他府の人件費削減の為に大鉈を振るいつつも、その行動はトウカの過激な姿勢を抑制する為に成している。その上で、自らへの遺恨を逸らし、それどころか各方面にトウカの不興を買わない様にという名目で恩を売らんとする姿勢は実に政治的である。
相応の理がある為に退け難く、当人も銭勘定では優秀であり、母数を増やす事にも熱心である為、トウカとしてもセルアノは稀有な人物であると考えていた。増税で民衆から搾り上げて予算の帳尻を合わすだけが財務を司る者の役目ではない。将来の税収増加の為、現在の投資を疎かにしない者は意外ではあるが極少数である。上前を撥ねる利益集団を擁しないところなど財務を司る者の鏡とすら言えた。財務に関わるものがそれを始めると他の府も行いかねない。
「軍事政権で乗り切るにしても、最低限は必要であろうな」
ベルセリカの指摘に、トウカは心底と嫌な顔をする。
専門家を追い出して全ての分野の指導層に軍事の専門家を押し込む結果をトウカは良く理解していた。同時に、大部分の分野で専門家を統率できる程の人物が支持母体である北部には極少数である事も同様である。
そうした数少ない人物にセルアノがいる。
同時にセルアノの大蔵府長官就任にはもう一つの大きな思惑がある。
グロース=バーテン・ヴェルテンベルク伯爵領の財政に対しての黙認が確実な人物である事。
これはトウカが大蔵府長官に求める最低限の要求である。
ヴェルテンベルク領は特殊である。
無論、それは巨大な軍需工場と造船設備が立ち並び、尚且つ閉鎖性のある領地として巨大汽水湖に隣接しているという表面上の意味ではない。
重要視すべきは、そこで生産された大は船舶、小は螺子に至るまでの工業製品からなる利益を計上していない事が黙認、乃至放置されている事にある。
事はマリアベルが増税や税務調査に従わず、寧ろ調査に来た者を手当たり次第に事故死させていた上、何かあれば軍事力で抵抗すると明言し、それを為せるだけの軍事力を以て黙殺し続けていた事に端を発する。
通常であれば討伐対象とされるが、そうした提案が出る頃には既にマリアベルが相当の軍事力を備え、シュットガルト湖と運河を抑えて大星洋に通商破壊に乗り出す構えを見せていた。
内外に融和姿勢を見せる先代天帝が、内戦と皇国沿岸部での通商破壊活動を許容できる筈もなかった。
マリアベルの領地規模での税収の過小報告は既成事実化する事になる。
傍目に見れば、マリアベルは己の懐を温める為に税金の支払いを否定した強欲な領主に見えるが、その差額の大部分が領地の整備と発展に投じられていたと知るトウカからすると、税収や支援の制限で叛乱や発展を抑え付けていた政府や天帝側にこそ問題がある。
無論、そうした法律や正邪の問題にトウカは興味を持たない。当人達が墓の下で喧々諤々の議論をしているだろうと肩を竦める程度の話である。
しかし、そうした税収の過小申告は未だ続いている。
その上、ヴェルテンベルク領に関しては、復興の為の減税措置まで受けており、当代ヴェルテンベルク伯マイカゼも、マリアベルから推挙されただけあって柔らかな物腰とは裏腹に強かな人物である。握った特権を容易く手放す相手ではない。
「内政分野の人材不足は否めないが、それでも北部に関しては強い独立性があったからこそ、それなりの体制が出来上がっている」
他地方や政府の助力を得られないという環境が独立性を上昇させ、規模に応じた完結している統治組織を成立させる位に至った。孤立は高い自己完結性を生む。
北部の場合、後は発展に合わせて人材育成を行い、それを流出させることなく、北部内で労働に充てる事ができれば健全な発展が可能である。
対する他地方の場合は、そうはいかない。
人員も資金も各地域や領地の間で高い流動性があり、一部に集中する事は疑いない。忠誠だけで働き口を求める者は少なく、やはり労働条件の良い領地に人材が集中する事は避けられなかった。
内政に関わる優秀な人材の欠如は内政の非効率だけでなく、発展をも阻害するが、そうした人材は労働条件が悪い北部から最も流出するのが道理であるが、北部に関しては別のカ学が働く。
排他性と郷土主義である。
他地方への不信感と、郷土から離れて労働に就く事への不安。
そうしたものは、北部に対する諸々の制限が撤退された今でも根強く残っている。無論、トウカの北部に対する減税措置や復興支援が明るい未来を見せているという期待感もあるが、それ以上に他地方が己に対して屈辱的な扱いをするのではないかという懸念が渦巻いていた。
尚も、そうした動きを扇動しているのは北部貴族である。
帝国との戦争で領民の避難などへの協力で他地方との貴族との交友関係ができた面もあるが、それよりも北部貴族は地域内での結束を重視する。
人材流出や軍備を保持するべく、北部貴族は荒廃した領地を抱えたまま他地方との対決姿勢を堅持し、それに対して他地方の貴族は戸惑いと嫌悪感を示した。
自然と距離は開くことになる。
政治的に断絶している北部は、結局のところ未だ他地方との人的交流は限定的である。復興や経済交流をトウカが打ち出せども、北部から臣民が飛び出す事は少ない。既に流出するような者達は流出している中で、残った者達は将来の展望が見えたのだから外に目を向ける必要性を感じなくなった故である。他地方から北部には労働者が次々と流入しているが、そこでの交流は未だ始まったばかりであり、関係改善の流れとして可視化されるまでには長い時間を要した。
そして、何よりも北部の者が他地方に出る事で最も強固な阻害となったのは、郷土主義である。
これは郷土が素晴らしいから他地方を忌避するという性質のものではなく、親兄弟や親族が他地方に興味を示す者を、危険を訴えて全力で引き留める傾向にあるからである。独り身やそうした血縁関係に乏しい者は既に流出しており、残った者達は血縁関係を重視、或いは恩恵を受けてきた者が大多数を占める。
「皆、血縁や家族というものを、思ったよりも重視している。血の濃度が北部臣民を雪の大地に縛り付けている。良きにつけ悪しきにつけ」
各北部貴族の領地の内政に関わる人材はほぼ流出しなかった。
だが、北部臣民が他地方の者達と交流する機会も乏しいままだった。
太平の御代に在って核家族化が進み、親類との関係の希薄化著しい現代日本出身のトウカにはなかった視点である。加えて、ヒトならざる因子を持つ種族は、その元となった因子を持つ生物の習性や習慣に引き摺られる。そして、その大部分の因子は、群体を強固に形成する種であった。寒冷地域の種族は特に群れを重視する傾向にある。
トウカが想像する以上に、皇国人は血縁関係を重視する。
機会を用意しただけでは動かない。
故に復興支援と銘打って他地方の労働者を金銭で北部に誘い込んだように、北部臣民が積極的に他地方に赴くだけの理由を用意せねばならない。無論、そこには金銭が関わることが望ましい。血縁で腹は膨れないが、金銭は食糧を購入できる。
「北部でも軋轢が起きているんじゃないか? 労働者の流入は治安の悪化もあるが、生活習慣の衝突でもあるだろう」
「???」
想定外の意見を聞いたと言わんばかりに、リシアとベルセリカは顔を見合わせる。
その程度は高級将校として理解しているはずであり、軍人と民衆との距離は常に軍隊と行政にとっての懸案事項である。教育を受けていないはずが、或いは実体験をしていないはずがなかった。
「衝突……問題なの?」リシアは心底と可笑しいと笑う。
「それはそうだろう。民心の分裂は統治を困難なものとする。治安が悪化すれば、他者への敵意も増す」
リシアとベルセリカは一様に奇妙なモノを見たという表情をする。
戦争屋が民心の安定を語る事に対するものだと見たトウカは、統治費用の問題だ、と吐き捨てる。
治安維持や民心慰撫は相当の予算を消費する。それを前提とした安定は国家にとり負担であり、経済悪化で簡単に崩壊する問題でもある。経済が少々傾いた程度で民心が荒廃するという事は元よりあった問題を解決できていないという事に他ならない。経済が好調、或いは好調となるという目算がある時既に、民心が荒廃する要素を改善、乃至排除しておくのは統治者の義務である。少なくともトウカはそう考えていた。
「その様な懸念をしているとはのう」ベルセリカが阿々大笑。
「ここ最近で聞いた中で一番の冗談ね」リシアがロに手を当てて軽やか笑声を零す。
「なにを馬鹿な――」
御国の民心を軽視するのか、とトウカは二人を睨む。
更に笑う二人。涙を流しての捧腹絶倒である。
食卓が揺れ、硝子杯の葡萄酒の水面が冬のシュットガルト湖の様に揺れる。
「まぁまぁ、そう怒らないで愛しい人。そういうのは気にしても仕方ないの……北部では」
リシアがトウカの硝子杯に赤葡萄酒を並々と注ぐ。それは可笑しさに震える手で零れ落ち、食卓に赤い河川を形成した。
「ほら、下を見なさい」
リシアが硝子杯片手に吹き抜け越しの一階に視線を下ろす。
その時、下層……一階から食器の破砕音と怒号、そして歓声が響く。
トウカも異変に気付いて視線を下ろす。
懐の拳銃に伸ばしていた手を下ろし、トウカは深い溜息を吐く。
硝子杯に並々と注がれた赤葡萄酒を一息に飲み干し、トウカは満面の笑みの見目麗しい二人の女性を睨み付けた。
「この蛮族め」
乱闘騒ぎが日常茶飯事の北部。
少々の衝突程度が注目や重視される事などない。
流血沙汰どころか殺人沙汰ですら、トウカの記憶が正しければ北部統合軍時代から耳にしていた。戦時下であるが故の世情の乱れであると見ていたが、それが日常であるとこれ以上ない程に教えられたトウカは心当たりと前例がない訳ではないと、己の思慮が浅かった事を認める。
「そうだな、そうした地域もあるということか……どちらにも」
ヴァイマール体制崩壊後の独逸の乱痴気騒ぎを踏まえれば、有り得ない事ではない。各地域の泡沫政党が乱闘によって立場を浮沈させていた先例があった。勝利した政党はその勇敢さを讃えられ、敗北した政党はその不甲斐なさを痛罵される。党員と支持者を率いての乱闘……筋肉で政治を決める輩が跳梁跋扈する時代。
トウカとしては、政治的支持の為に戦争を繰り広げた自身と比較すれば、幾許かの救いがあるとの見たが、互いに碌でなしである事に変わりはないという点も理解していた。
親近感よりも同族嫌悪が沸き上がるが、トウカは手緩いと相手を酷評し、相手がトウカを血に飢えた戦争屋と評価する類のものである。そこには救いも常識もなかった。
得意げな顔をする美女二人に、トウカは心底と辟易とする。
北部の女性の気質とはそうしたものである。
そうした悍馬を乗りこなす技能をトウカは持たない。マリアベルに最後まで謀られた事もトウカは忘れていなかった。
「ま、気にし過ぎなのよ。北部はそんなに繊細じゃないわ」
「経済の停滞さえ脱したならば、他は気に留めずとも良い」
リシアとベルセリカが互いの視点から、北部では問題が起きないと断言する。
それ以外の地方は知らないという言葉が暗に含まれている事は疑いないが、トウカの支持母体である北部地域が揺らがないという断言は大きい。
トウカは各種指標が未だ少ない事を重く見て、意見や不満を吸い上げる為に各府には様々な指標の策定を命じていた。これは各領地の貴族を通した場合に公平性が喪われ、同時に内情が露呈する事を嫌う貴族が多い為に容易ではなかった。公共施設整備の条件の一つとして盛り込んでいるが、皇国全土での実態調査は頗る印象が悪い。
対照的に普段は予算編成に介入し、必要性に乏しい天下りを情報部と憲兵隊で嗅ぎ回り潰しているトウカへの恐怖心を持っている大蔵府が諸手を挙げて賛成しているという奇妙な状態ともなっている。
視線を逸らす、或いは地方領主とも苦労を分かち合いたいという仄暗い感情などではなく、純粋に徴税には正確な情報が必要だからである。地方領主の裁量が多く、近代国家とは思えない程に個々人に対する管理が甘い皇国では安定的な徴税が困難を極めた。具体例を挙げるとするならば、天狐族の様に隠れ潜む種族などは把握されていない為、税制や統計の枠組みに組み入れられなかった。
多種族の揺り籠たる皇国では、徴税方法は苦難の歴史でもある。
トウカは端的に、間接税を採用する事を決めていた。
土地や個人、労働への課税はどうしても多種族の千差万別の生活様式から差が出やすく見逃さざるを得ない。故にそうした税を縮小、或いは廃止して直接税を主体にする事を考えていた。
生物である以上、衣食住からは逃れられず、物品の購入は種族の例外なく行われる。無論、多産であったり、特定物の極端な消費を必要と種族に対する支援と減税は必要であるが、全体的に見ても公平な徴税可能な方法と言えた。
大蔵府長官のセルアノも諸手を挙げて賛成した。
就任当日に皇国の税制の諸問題を認識したセルアノは、これが近代国家なものか、と官僚に書類を投げ付ける程に激怒しており、トウカに対しては面倒を押し付けた面倒な主君であるという認識を持っている。その改善の意味でも物品購入への課税は意義のある事であった。
「それにつけても多種族国家の難しさよ、とでも言いたくなるな」
個性や多様性と言えば聞こえはいいが、その差を埋める為に制度は煩雑になり予算は増加する。
制度と予算の余裕あっての個性や多様性であるが、財源も示されずに権利を声高に叫ばれては堪ったものではないというのが指導者の心情であった。
「教育を重視せざるを得んな。これからは嫌でも交流が増える。今までの緩やかな紐帯などでは足りない」
中央政府の下で教育を一元化する動きは始まっているものの、種族間の差異を教育による理解で是正できるとは限らない。洗脳に近い教育で多種族国家を肯定的に捉えさせるより他なかった。多様性と無秩序は紙一重である。
当然、教育を施せども、理解力と環境で行き着く答えは変化する。馬鹿はそもそも話を聞かない、という問題もあった。
「あら、国内を纏める為に帝国との戦争を続けるのでしょう?」
リシアの指摘 に、トウカは赤葡萄酒を煽る。
渋みと酸味と、物言う女に顔を顰めたトウカは頬杖を突く。
「それもある。国家を短期間で纏め上げるには敵が必要だ」
無論、それは国外になければならない。
身近にいる国内の存在を敵とするのは、短期的に見ると劇的な効果を発揮するが、長期的に見ると国内の不安定を招く。反発する者は地下に潜り、他国の支援を受けて抵抗する可能性もあった。
――マリアベルの時代から敵となっていた中央貴族を既に抱えている事もある。
これ以上、国内に政敵を抱える余裕はなかった。
「ふむ、まぁ、あの様に殺戮を叫ぶ輩に対して曖昧なままに済ませようなどと思う者は最早おるまい」
帝国軍の北部侵攻では避難の間に合わなかった者や、避難を拒んだ者は筆舌に尽くし難い扱いを受けた上で屍を晒す事になった。それは画像付きで各新聞社が新聞として広く知らしめて、帝国との融和や妥協がない事を一目で理解させている。
「帝国もその気にならざるを得ない。都市を焼いた理由の一つがそれだ」
無論、トウカが報復を為したという根拠として、都市そのものを巨大な火葬場にしたという事実が必要であった事もあるが、最大の理由は帝国を恐怖せしめ、戦争に邁進させる為であった。
「銃後を殺し殺されて……結局、ヒトの知性は変わらぬの」
酷く厭世的な気配を纏い、ベルセリカはヒトを嘲笑する。
長く戦野を彷徨い皇国の歴史に度々、登場する剣聖の言葉は重い。実体験に基づく意見は何物にも勝る妥当性を持つ。
リシアがトウカに視線を巡らせ、トウカは鷹揚に頷く。
「変わらない、とは過大評価だ。超長期的に見て、ヒトの知性は確実に退化している」
実は科学的視点から証明されている。
そして、トウカの見たところ、その経緯はこの世界に在っても当て嵌まる為、ヒトの退化は生じていると見ていた。
「人口が増え、分業化が進む事でヒトは退化する。作業内容が固定化され、思考の幅が低下するからだ」
トウカの世界では、ヒトの脳の容量が最も大きかった時代は紀元前であったとされている。人口が少なく、一人で多くの問題や困難……当然、日常生活に必要なものを用意しなければならない為、常に考える事を求められた為である。
そして、それは人口が増え、各分野で分業化が成された事で解消され、代償に人は考え続ける機会と時間を放棄した事で脳の容量を低下させた。
「現状からヒトの思考が向上するのは、効率的な記憶手段と処理回路を脳に直結するか、脳機能を向上させるナニカがあって初めて可能になる。寧ろ、それまでは高度な分業化と機械化が進んで緩やかな退化を続けることになるだろうな」
記録手段の質的向上による知識の取り零しがなくなる事で無駄はなくなるが、記録した情報を扱うヒトの脳機能は人類全体の平均値で見た場合、確実に低下している。
「それ、気を使っている心算かの?」
珍獣を見るかのような視線がトウカに突き刺さる。
トウカは己が器用だとは考えないが、少なくとも間違いを理論的に指摘する余地があるのであれば見逃さない。問題点は明確にするべきであると確信している為である。
寧ろ、指導者が大いに肯定して同じ立場を表明しているというのに何を気落ちする事があると、トウカは胸を張る。指導者の同意は国家の保証である。
「閨に呼び付けて気が晴れるというならそうするが?」
トウカは男女の傷の舐め合いというものへの忌避感が薄くなった。
当然、それはクレアとの関係による結果に他ならない。クレア自身、それを口にする真似はしないが、心に影を落とし続ける類の過去がある事は明白であった。
自身の振るう狂信的なまでの力に対して憧憬を向けている事をトウカは自覚していた。同時に、それはトウカへの情念ではない事を意味せず、クレアはトウカが力の象徴だと考えている節がある。
カへの渇望とトウカへの渇望は同一視されていた。
何者でもなくなったトウカを迎え入れるということは、そういう事である。
本来、力とは無色透明であるが、そこに色を付けるトウカこそを彼女は好いている。
トウカは、その渇望から外れない事を意識している。
結局のところ、彼は横柄で傲慢な政戦両略の戦争屋であり続けねばならない。
ベルセリカであっても例外ではない。
そうした姿勢にベルセリカは莞爾として笑う。
「ふむ……そちらの清楚可憐な乙女の許可は必要で御座ろうか?」
剣聖が視線を巡らせる。
トウカも釣られて視線を巡らせる。
困り顔で頬に手を当てたクレアがいた。
向日葵柄が刺繍された白の長衣に唾の広い麦藁帽子には黒の飾紐が結ばれている姿は、清楚可憐な佇まいをこれ以上ない程に強調していた。浅黄色の髪は編み込まれて腰まで続いており、向日葵の刺繍と雲居を示す白の長衣、浅黄色の髪は青空を思わせる。
トウカは立ち上がると、手を差し伸べる。
恐縮した面持ちながらも手を取り、クレアはトウカの隣に腰を下ろす。
トウカはリシアとクレアに挟まれて僅かな緊張を覚えた。
リシアが露骨に不機嫌となり、クレアは困惑を示している。
「三人で、と申されるのであれば、事前にお伝えいただきたいのですが……」
「いや、そうした心算ではないからの。ええい、違うぞ違うからなやめい」
リシアが死後三日の魚類の目でベルセリカを見ている。
愉快な日常だと、トウカは苦笑するしかない。
日常が戻ってきた様にすら思える。
「品のない話は止めて欲しいな。食事中だぞ?」
自身の下半身事情への飛び火を恐れたトウカは早々に口を挟む。
隠蔽している訳ではないが、そうした立場を利用して事を為していると権力者に受け取られては、クレアが政争に巻き込まれる事になる。尤もクレアの場合はヨエルの後ろ盾があるので心配無用であるが、逆にリシアやベルセリカにこそ問題があった。
当然であるが、トウカはリシアやベルセリカと肉体関係にない。
しかし、後ろ盾がないという事は、逆に言えば誰しもが後ろ盾になれるという事でもある。天帝の後宮に側妃や寵姫を送り込むことで政治勢力としての伸長を図るというのは古今東西珍しい事ではなく、リシアやベルセリカを推す動きはトウカが常々警戒している事でもある。
リシアやベルセリカ以外であれば、極論すると嘲笑一つで済む話であるが、二人が相手であればトウカは公私共に安易に退け難い。私的な点は語るべくもない。
公的な点で言えば、リシアは陸軍の支持基盤を確かなものとするだけの立場になりつつあり、加えてアーダルベルトと急接近している。
ベルセリカは北部貴族からの覚え目出度く、彼女を通して陳情がくる事も少なくない。
共にトウカの支持基盤と密接に関係する女性軍人でもある。
強固な後ろ盾が成立した場合、是非側妃に寵姫に、と薦められては進退窮まる。安易な拒絶は支持基盤を揺るがす混乱となりかねなかった。
幸いにして当人にそうした動きがなく、後ろ盾を意図した動きも”表面上”ではなかった。
「中将、初心な女性を揶揄うものではない」
懸念を表情に乗せる事もなく、トウカは鷹揚な態度を以てクレアを窘める。
クレアはそれに困り顔を見せる。
反発でも否定でもなく、困惑が最も反論し難いと知るからではなく、純粋な感情である様に見えるそれに、トウカも困惑する。
「陛下、御二人は国家指導者を輔弼する立場です。この程度の些事に心を乱すようでは困るのです」
否定し難い指摘。まさかお忘れですか、と存外に滲むようでいて、トウカの肺腑を抉る。
「そうだな……二人も男への興味があるのならば、こちらで相手は用意するが?」
伴侶を用意するという意味を理解した二人は顔を顰めて両手を上げる。
「ただ、清楚可憐な君に寝台の上での出来事を些事だと言われるのは寂寞たる思いであるが――」
「ちょ!」
リシアが思わず立ち上がり、クレアが顔に朱を散らす。
その姿にトウカは苦笑交じりに安堵する。
「公務の上では些事であるが、君個人にとっては大事であった事を嬉しく思う」
卓上のクレアの手を上から握り、トウカは年頃の乙女の様に狼狽する様を楽しむ。
「陛下は意地悪に御座います……」
「それが国家指導者というものだ」
俯いたクレアの蚊の鳴くような指摘を、トウカは”正に”と認める。近年の生き様を見れば明々白々ですらあった。
ベルセリカは察していたのか然したる反応も示さず、対照的にリシアは硝子杯の葡萄酒を飲み干して遺憾の意を示す。
「そう、そういう事だったの……まぁ、所詮は側妃ですらないものね」
早々に立ち直ったリシアが選挙後に無効票を騒ぎ立てる議員のように気性荒く大勢に影響なしと断じる。判断が早く、そして果断であるのは私事であっても例外ではない。
立場に拘るリシアらしい物言いだが、トウカとしては立場というものを重視していなかった。同時にトウカは、クレアは立場を求めるだろうかと見やるが、俯いたまま沈黙している。健気である為か、或いはそこまで思い当らぬ為か。トウカには判断できなかった。
「斯様な事を口にされては陛下の御稜威に差し障りが出ましょう……」
憲兵総監という治安に関わる要職を愛人に与えたという風評が生じかねない。外務府辺りなどは積極的に指摘しかねなかった。政敵の多いトウカにとって、クレアとの関係が表面化する事は悪影響を及ぼす。無論、ヨエルとの関係がクレアを通して強固なものとなる為、決して悪影響ばかりではなかった。
トウカはクレアはとの関係が付け入られる隙と見られる事を覚悟……想定している。
現状、動きの乏しい中央貴族の軽挙妄動は歓迎すべき事である。無論、トウカとクレアの関係が変化した程度で軽挙妄動するのであれば今迄に諸問題は解決していた。
「可憐で飯が美味くて裁縫もできる女に傍に居て貰いというのは男の悲願だ。悲願が叶って叛覆常ない貴族を挑発できるならば安いものだ」
トウカは御稜威の毀損に関しては懸念していない。
祖国の歴代天皇とて相当な振る舞いをした者が多数居るが、現在では皇室は権威を確立している。応仁の乱の失態により実権を喪っても尚、権威は保持し続けられたのだからトウカとしては気に留める必要性を感じなかった。生臭坊主と上へ下への乱痴気騒ぎや、自身で撒いた砂利で足を滑らせて崩御などという逸話も生易しく思える”武勇伝”などが何処かの皇室には多々ある。
御稜威や権威とは容易に毀損されるものではない。
宣伝戦を怠らず、国家を崩壊させる規模の敗北さえなければ致命的な問題は生じ難い。現状の教育状況と情報社会の規模を鑑みれば、一度形成された権威による皇位が喪われる可能性は低かった。
「なりません。天帝の御稜威はその様な事で扱ってはならぬのです」
朱を散らした顔から一転し、両手を腰に当てて説教を始めようとするクレアにを、トウカはぞんざい手を振って黙らせる。
御小言というものを言い募る者は、トウカの周囲には少ない。強いて言うならばベルセリカであるが、他の者達は総じて皮肉の傾向がある。無論、レジナルドの様な泣き言も少なくない。
そうした二人の姿に、リシアは歯噛みをする。
「私だって――」
「――リシア……ならぬぞ」
ベルセリカがリシアを制する。
収拾の付かない押し問答になる事を恐れたものではなく、そこには焦燥と恐怖の色があった。情報部将校のリシアを枢密院議長が制するというのであれば問題かもしれないが、二人の関係から私的な事だろうとトウカは捨て置く。無論、クレアに対抗するかのように言い募る内容である以上、私的な内容であるというトウカの先入観もあった。
喧々諤々の遣り取り。
食事を挟みながらの会話には剣呑な部分もあったが、それでもそこには内戦以前の緩やかな光景があった。
トウカは先を考えずに盃を重ねる。
その日の記憶は、その机を囲む者達の胸裏に後々まで残る事になる。




