第三一五話 いつかの酒場にて Ⅰ
「まだ続いているのか? 指導者に頷かせても事態が収拾しないだと?」
トウカは、部族連邦に駐留する師団の戦闘詳報を手に気のない声で問う。
下問されたファーレンハイトは禿頭の汗を頻りに拭きながら応じているものの、その内容は明瞭であった。明瞭であるならばトウカも咎めない。禿頭に狐耳というのはあまり愉快なものではなかったが。
「反発する部族があるようです。これらと交戦状態に陥っております」
部族連邦はその国名が示す通り無数の部族の集合体である。統一した意思を持つには各々の自治権が強く、そして交通網の問題から独立性と独自性が高い状態が近代となっても継続していた。しかし、現在では出稼ぎなどで人的交流や情報流入が増加し始めており、今回の保護占領はそうした事から生じた不満を利用する形で行われている。
地方毎の経済格差による遺恨は大きい。
無論、それ故に部族連邦北部を保護占領した皇国は発展に対して責任を負う事になる。それが為されない場合、叛乱が頻発する事になりかねない。
「我々の統治を拒む部族がある様です。大まかには三つですが、規模としてはかなりのものです」
リシアが情報将校らしく注釈を加える。情報部からの情報を書類として提示されたトウカは、簡潔に纏められた書類に目を通す。
保護占領の宣言から極短期間での行動である為、部族連邦や他国による煽動の可能性が極めて低い点や、装備や編制が全く整っていない点などが要約されており、民兵というにも烏滸がましい状態である事が見て取れた。感情的な反発によるものである事が見て取れ、計画性の気配はない。それ故に不満を持つ者が一部ではなく、部族の人口でかなりの割合を占めると推測できた。統制と計画性はなくとも、一部の支持による規模からは逸脱している。
「我々が占領を予定している地域の人口の二割弱となります」
「二割か……いいだろう。その三つの部族の自治は認めてやれ、周辺への通行権もな」
反発し、それを利用しようと人員や武装を第三国から与えられては、保護占領した地域全体が不安定化しかねない。去りとて弾圧などの強硬姿勢は、現地の民心が離れる。好意を獲得する為に常に行動する必要はないが、不必要に敵意を買う必要もない。トウカの考えは単純明快であった。
「逆に言えば、その三つの部族の勢力圏の公共施設整備は行わないという事ですね?」
リシアはその意味を察して確認を取る。
トウカは鷹揚に頷く。
「自治とは自身で治めるという意味だ。ならば自治の及ぶ地域は自らの資源と予算、人員によって整備されるべきだろう」
保護占領された地域の中に小島の様に点在する三つの部族が住まう土地だけが、皇国による国土開発の恩恵から外れる事になる。
直近では、皇国に自治を認めさせたと三つの部族の指導者は部族内政治で盤石な立場を得られる事は疑いないが、逆に言えばそこまでであった。
三つの部族の土地だけ交通網は整備されず、皇国資本も投下されない。発展は遅れる事になり、周辺部族との経済や人口面での格差は開くことになる。相対的に三つの部族は地域内での影響力を減じる筈であった。
立地的に皇国と保護占領地の主要な交通網の整備に迂回を強いられる地域ではなかった事も大きい。森林地帯が大部分を占めると言えど、交通網の敷設に適した土地というのは限られる。
無論、森林地帯を切り開く事に抵抗を抱く者達への配慮……意見の組み上げも行われており、既に幾何かの計画変更を強いられている。その様子からは、国内貴族よりも保護占領地を気に掛けていると揶揄する者も居たが、トウカとしてはその風評すら利用した。指導者が気に掛けているという事実は貧者の自尊心を擽り、安心感を与えるものであるが故に。
必要とあらば巡幸すら想定していた。
「通行権は善意ではないという事ですね? しかし、そうなると不穏分子の流入に備えねばなりません」
通行権があれば周辺の部族との交易や出稼ぎも可能になる。当然、旧部族連邦南部地域で起きた様な、自らが発展に取り残されているという不満と不安が自治地域で生じる事になる。その時、三つの部族の指導者は政治的立場を失う。その中で皇国への恭順を選択するか更なる反発を選択するかは不明だが、その際に無差別攻撃を行う危険はある。
それを事前に阻止する事は当然として、そうした事態が生じた際の方針と準備を情報部は行う必要があった。
保護占領した地域の不安定化を防止し、皇国に憎悪と不信感が向かない様に情報統制をする必要があった。
「暴発するならそれで構わない。潰す。だが、今であってはならない」
国内の中央貴族の動向や、帝国、神州国の動向もあるが、政治的に見ても保護占領地域の占領直後の擾乱は後に響く重大な問題となりかねなかった。
「国内の各勢力を刺激するべきではないと御考えですか?」ファーレンハイトが問う。
苛烈な姿勢によって、一層と非協力的になるという懸念からの発言であることは、トウカにも理解できた。寧ろ、早々に暴発させるべきだと考えている事を知るファーレンハイトの期待からの言葉であると見たトウカは妄言と斬って捨てる。
「違う。保護占領の前例に瑕疵が付いてはならないからだ。貧困地域を優越した軍事力と経済力で保護占領する。この流れは今後も利用できる。帝国でも神州国でも連合王国でも」
失敗、或いは大きな懸念に見える部分があれば、次の行動の際に国民や軍の理解を得られない可能性がある。トウカはそれを避けたいと考えていた。軍事的成果は政治的成果という側面を持つのが望ましい。
「部族連邦が三つの部族の経済発展に協力する可能性があるのではないでしょうか? 武力ではなく経済力で翻意を促す可能性は十分にあるのでは?」
リシアの指摘に、トウカは、それが相手にとっての最善だ、と認める。
故に互いに自らに好意的な部族の発展を競う関係になる。予算を大いに消費するとも思えるが、逆に考えれば三つの部族の土地に関しては部族連邦に発展を分担すると考える事も出来る。
何より、最終的に皇国領土として認めざるを得ないようにできるならば、部族連邦による三つの部族の土地に対する経済発展は皇国の利益となる。
「随分と旗幟を鮮明にするのが早い。口添えした者が居るとは思えないが……短期的には内偵で済ませる。駐留師団は新設された五個師団とする。航空戦力の錬成は南部地域を主体に行うべきだ。航空基地の建設を急がせろ」
大きいながらも閑散とした執務室の壁に張り出された地域図を一瞥したトウカに合わせ、リシアが旧部族連邦南部地域に師団記号の記された駒を五つ貼り付ける。
各地で錬成中の師団……皇国陸軍の基準で言うところの後備歩兵師団が編制され、戦力化を目指しているが、実情として戦力化には一年を要すると見られていた。
歩兵師団は戦略規模で見た場合、数の面から戦線の形成が可能で、特徴的な地形でも展開が行える基本的な師団と言える。その師団の絶対数が皇国は国土面積から見て不足していた。敵国に踏み込んだ場合、戦線は広がる為、相対的に厚みを失う懸念もある。それでは戦線が敵軍の衝撃力を受け止めきれない恐れがあった。拡充は急務である。
「承知いたしました。治安計画は此方で策定して宜しいでしょうか?」
「構わない。……外務府の横槍は此方で対応する」
国境を面する国家の懸念を無視できないなどと駐留部隊に対して異論を挟む可能性は捨て切れなかった。越権行為も甚だしいが、それを行う程に嘗ての外務府は先代天帝の融和姿勢を譲らない。
「無能な働き者が多くて困る。理想は国民が追うべきものであって行政が追うものではない」
国民が理想を追える体制を相応に整える必要はあるが、行政が理想を追う必要性は全くない。歯車の形はひとつひとつが決まっており、個々の理想など存在し得なかった。
ファーレンハイトを下がらせたトウカは、奥深い地下の執務室で頬杖を突く。
「今日の執務は終わりか」トウカは壁時計を一瞥する。
外は既に夜の帳を迎える為の準備が始まっている頃合いであるが、地下であると外の様子……陽光が見えない為に時間の感覚が狂う。
天帝の権能は正確な時間を教えるが、精神がそれに合わせる訳ではない。ヒトは慣れる生き物であるが、未だトウカはヒトの感覚から逸脱し切れていなかった。
アルフレア迎賓館に地下室がある事を知ったトウカは、防衛と防諜の問題から執務室を地下へと移したが、陽光の届かない地下での生活は他者からの評判が悪い。
室内で運動できる程に広く、上下水道含めた生活環境も用意されているので全く問題はなかったが、巣篭りするかの様に執務室から姿を見せないのは健康に宜しくないなどと言う者までいた。
光合成している訳でもない。必要もないのに外に出るのは警備側の負担にもなる。
トウカの主張は単純明快であったが、陸海軍部隊や軍需工場の視察以降、余りにも姿を見せない為、本当に北部に居るのかという声が般市井で囁かれている事もまた事実であった。リシア経由の情報部からの指摘であり、周辺を警備している憲兵隊も、一度も御尊顔を拝していない者は、実際は他の場所にいるのでは?と考えているというクレアからの報告に、トウカは頭を痛めていた。
「どうだ、リシア。権力者などこんなものだ」
書類に目を通し、高官と会議をする。端的に言うとこれが全てである。他は余禄であり、時間配分として見た場合、ほぼすべてが執務や会議と言っても過言ではない。
常に上の地位を望み続けたリシアに、明確な在りたい姿があった訳ではないとトウカは理解している。立場が上がる程に成せる事が増えるというのは正しいが、同時に拘束時間も増大する為、決して上位の地位は自由の代名詞とは言い難い。これは予想できることであるが、実際に体験してこそ初めてその窮屈を真に厭わしく思える。過去の己は今の己を羨み、今の己は過去の己を羨む。
トウカの様に常人とは異なる精神性でもない限りはそう考える。
歴代天帝の記憶を総覧できる当代天帝は、それを追体験していた。
リシアは苦笑する。
先程までの家臣としての振る舞いを止め、執務机の縁に腰掛けて笑う。
「あら、でもその権力者は貴方よ」
挑発的な言葉だが、声音は優し気でいて媚びる様。
「政戦に面白さを求めるかの様な発言だな。悪い女だ」
トウカはリシアに傾城の質があるとは考えないが、いずれはそうしたものを身に着けたならば、やはりマリアベルに近づいていくのだろうという確信があった。
「まあ、退屈させない様に努力はする」
「なら、今夜――」
リシアの声が突然開け放たれた扉の音で遮られる。
無遠慮に侵入する剣聖を、一瞬の沈黙の後、二人は歓迎する。
暫く顔を見なかった事もあるが、枢密院議長の立場が望むものではなかったという事をトウカは理解しており、リシアもそれを察して情報面で支える為に連絡は密に取り合っていた。立場と状況と関係は違えども、三人は互いを大切に考えている。
そうであるが故に、ベルセリカの言葉は容赦がなかった。
「御主ら、雪待ち野菜の如く白いではないか!」
開口一番に野菜扱いされた二人は顔を見合わせる。
二人にそうした自覚はない。
寧ろ、以前の不摂生がなくなり健康になったとすら考えているトウカからすると、ベルセリカの言葉は首を傾げるものであった。
「肌の白さを称賛する名詞は多い。悪い事ではないと思うが」
二人揃って美肌を手に入れたという事ね、リシアは喜んで見せる。
共にベルセリカが言わんとしている事は理解できるが、理解するのは面白くないという感情を共に持ち合わせていた。
「ええい、青白いのだ! これでは巣篭りする熊では御座らんか!」
執務机を蹴り付けるベルセリカ。木材の砕ける音が響く。
「斯様な有様では民も嘆こう。ただ、統治するだけは足りぬ! 外に出よ! 家臣と臣民に愛想を振り撒け!」
酷く端的な物言いにトウカは口元を引き攣らせる。
万の御高説よりも遥かに強力な言葉に対し、トウカは出嗟に反論が思い付かない。愛想を振り撒けというのは物言いとしてどうかと思えるが、端的に言ってしまえば事実である。
そして、トウカが最も不得手とするものでもあった。
家臣と臣民の為に生活と労働に関わる部分の法整備も全力で当たっている点を評価してもいいではないのかと言いたいが、ベルセリカという女性はきっと恐らく評価した上で口にしている為、トウカは降参せざるを得ない。
しかし、ベルセリカは斜め上に強引であった。
刀剣で未来を切り開いていきた剣聖だけに躊躇というものがない。
「飲みに行く! 早う、準備せい!」
国家の高官としての意識は何処にと問うには、トウカはベルセリカに望まぬ立場を押し付けた弱みがある。
「いや、それは流石に警備の都合が――」
「憲兵総監も已む無しと言って居る!」
開け放たれた扉の先、クレアが申し訳なさそうに深々と一礼する姿に、立場を得てから交渉事の知恵が回るようになったと望ましくない形で知る。
「会食とか嫌なんですが。ほら、仕来りが面倒なので――」
「――いや、会食なぞ某も御免被る」
当たり前だと言わんばかりの表情に、トウカは溜息を一つ。
枢密院議長に天帝が翻意させたという事実が、明日にでも主にリシア辺りから漏洩する事は間違いない。
二人の手を掴んだベルセリカ。
万力の如き握力に掴まれた二人は執務室から連行される。
そして、両脇に抱えられて階段を進む。
高位種の菅力と身体能力を遺憾なく発揮し、忽ちに地下を脱するベルセリカ。
トウカとリシアは、窓越しとは言え、久方ぶりに夕焼けに晒される。
「「ぐう、目が目が」」
夕焼けが二人の目を焼く。
「それ見い。吸血種でもあるまいに、地下に籠ればそうなろう」
「ここか。懐かしい……というにはそれほど前ではなかったか」
トウカは演説やリシアやラムケとの会食に利用した酒場の一席に座り、周囲を一瞥する。
二階席である為、店内を見渡せる位置にあり、客層に軍人が多い事が見て取れた。軍装と階級、兵科も様々で、略綬の種類も多種多様である為、傍目に見ると色鮮やかな光景である。軍人以外では肉体労働者や勤め人の飲み会など様々な職業の者達が多くを占めており、その間を給仕や酌婦が縫う様に歩いていた。
嘗てと変わりのない光景。
しかし、窓越しに窺える光景には、軒先にも席が用意されており、以前に勝る席数と繁盛が垣間見えた。北部の積極的な復興政策の為、北部地域の産業を税制面で優遇した結果、北部に集まる企業や労働者は急速に増加しつつある。その最大規模の受け皿にして中継拠点であるのがフェルゼンである事を踏まえれば、繁盛も納得できるものであった。
そして、トウカはその光景に復興が想定通り進んでいるのだと実感する。
書類上の数値では確認しているが、人々の熱気を直視するのは遥かに手応えを感じるものであった。この光景を一部ではなく北部全体に伝播させるには、未だ交通網に不足があるものの、北部に産業を置く長所さえ用意したならば十分に可能であるとトウカは確信する。
盛大な消費行動である戦争の策源地として見れば、帝国とは距離的に見て至近であり利点もあるが、戦争は永続的な消費行動ではない。短期的に生じる爆発的な消費行動に過ぎず、それを前提とした経済活動の構築は現実的ではなかった。兵器輸出を行うにしても限度がある。
結局のところ、シュットガルト運河によって内陸部まで船舶輸送が可能であるという長所を最大限に活用し、生産拠点の用地が広大であるという点を以て多種多様な産業を誘致する事が健全であった。用地の面積は取得単価を大きく押し下げる。
「市井の動向が上向いていて何よりだ」心底とトウカは安堵する。
或いは、自身がそうしたものを直接目にする事を懼れていたのではないかと、トウカは今にして思う。
当然、報告は受けており、それに合わせて随時、命令を出しているが、結局のところトウカの立場は全体的な方針を指示する立場であって、個々の問題は各組織に一任せざるを得ない。
各組織がトウカの思惑通り動いているかとの確認は、報告書だけでなく情報部による裏付けまで行われている。それでも裏付けを担う情報部ですら先皇とは相対する方針の多いトウカの政策を理解しているとは言い難い。一部は思わぬ方向に進んだものもある。
「あら、不安だったの?」驚きを示すリシア。
トウカとしては甚だ心外な驚きである。
「当たり前だ。随分と口を挟んだが、それでも政策は理解されたとは言い難いし、その上、不都合な部分の整合性を合わせる作業は各組織に任せるしかない。二重の意味で不安にもなる」
純粋に理解が乏しい故の失敗と混乱であればトウカも咎めず、失敗を鑑みた方策の策定を求めるに留まるが、敵意を持つ者達の意図的な遅滞戦術を見分ける事は、実際のところ困難を極める。従面腹背を見分けるのは範囲と規模と実力の両面から容易ではない。誰しもが外務府の様に露骨な敵意を示すのであれば容易いが、そうした者のは極一部に過ぎない。
見せしめにより綱紀粛正を図っているが、官僚もまた俊英が多い。巧妙であり、気付かぬ内に紐帯する。ましてやそれが利権争いや個人的感情によるものでなく、愛国心などであるならば罰する事で問題は複雑化しかねなかった。
同意を取り付けねばならない相手は未だ多い。
だが、妥協はなく、実績を以て正統性を認めさせる事は時間を要する。
トウカはその時間の圧縮に腐心していた。
軍備拡充の指示は終え、後は巨大な官僚機構として単純明快に陸海軍は強大な戦力を構築するばかりである。運用や戦術、戦略の研究などは内戦中から用意していた資料を中心に参謀本部と軍令部が嬉々として議論を繰り広げていた。トウカとしても、いつまでも頻繁な助言を求められては時間を取られる為、歓迎すべきことである。
――まぁ、ネネカを利用して俺の思惑を聞こううとする連中には油断できないが。
陸海軍の戦略で枢機を担う者達はネネカを利用して、さり気無くトウカの口を開かせようと動く者が少なくなかった。ネネカは面白い議題だと飛び付いて気付かないが、明らかにネネカの専門とは距離のある話題ばかりを投げられてはトウカも気付く。
現状の軍備と擦り合わせて戦術と戦略を立案させたいトウカだが、陸海軍の枢機を担う者達はトウカの顔色を窺いながら余力で戦術と戦略の立案をしている節がある。
――狐を使うとは……称賛してやりたいところだが、そうではない。
軍人が相手の特性や特徴に合わせて手段を講じるのは恥ずべき事ではない。味方、それも上位に対して弄するのはいかがなものかとトウカは思うが、トウカ自身、思い当たる節が有り過ぎて咎める真似は出来なかった。
何より、またネネカが怯える事になる。
そうした綱引きはリシアでも行われている。
リシアの場合は、専ら貴族や情報部を中心に行われており、それを背景にリシアは貴族にも影響力を持ち始めていた。
だが、ヒトの感情に敏感なリシアの場合、その内容をトウカに経緯を含めて伝えて指示を仰ぐ為、それはそれで答え難いものがあった。相手もまさか伝書鳩の様に直接、聞き出しているとは考えていない筈である。トウカがそれを咎めていないからこそ表面化していないが、アーダルベルトなどはそれを理解した上でトウカに面倒な話を持ち込むので油断できなかった。
――やり過ぎるが問題の解決はできると見られているのだろうな。
給仕に次々と乙女らしからぬ料理を注文するリシアとベルセリカを他所に、トウカは文武の御機嫌伺という名の政治にを何としたものかと思案する。
「おい、平然と葡萄酒を一人一本注文するんじゃない」
思案しようと思っていたが、注文内容が余りにも雑だった為にトウカも口を挟まざるを得なくなる。
そして、給仕が銀狐族だった為、トウカの思考の糸は完全に途切れた。
聞けば働いているのは社会勉強の一環だと年若い狐娘は力説する。揺れる給仕服の裾が眩しい。
給仕に再び葡萄酒の数を聞かれたので、一人一本、とトウカは応じる。
狐娘の営業実績になるのであれば致し方ないとトウカは緩やかな笑み。序でとばかりにトウカは財布から抜き出した金貨を狐娘の衣嚢に押し込んだ。最善の接客を受ける為には相応の出費が必要である事を思い出した為である。
白けた顔のリシアとベルセリカに、トウカは堂々たる行まいで応じる。
「見ろ、これこそまさに労働者階級への直接給付だ。しかも非課税だぞ?」
「給付対象が偏り過ぎでしょう。ただの男の下心でしかないじゃない」
リシアの指摘に、トウカは根拠のない誹謗中傷だと抗議する。
トウカ自身、ミユキの代わりに他の狐娘を求めるというのは、自身と相手の精神を酷く傷付ける行為であると自覚しているので、どこまで踏み込んでも、ネネカにするように頭を撫でる程度でしかない。
――余計に落ち込む自信があるからな。
結局は自身の理由に他ならないが、年頃の狐娘を見ると胸中が穏やかでいられない事はトウカも自覚している。
「正直、ミユキだけでなくシラヌイ殿まで喪われているからな。心証を気にしているというのもある」
その点もまたトウカが酷く気にしている点であった。
族長とその長女を失った天狐族が、トウカに対してどの様な心証であるかという点に対して、トウカは答えを持たなかった。まさか情報部に命じて調査せる訳にもいかず、トウカは皇都からフェルゼンに居を移して以降、マイカゼとも事務的な会話しかしていない。
「要らぬ心配であろうに。皆、悪いのは帝国だと理解しておるよ」
ベルセリカはトウカの頭をぞんざいに撫でる。姉が弟にするかの様な仕草である。主君に対する扱いではないが、トウカは最近のベルセリカが意識的に私的な部分を支えようと振舞っている事を察していた。ベルセリカなりの心配をトウカは無言で受け取る。
「二人とも分かっている筈だが……」
トウカは二人の建前に感謝と共に煩わしさを覚えていた。
建前をトウカは望まない。
「北部を防御縦深にして帝国軍を迎え撃った事でしょう?」
余計な事は言うな、というリシアの視線に、トウカは頭を掻く。
実際、皇国軍は帝国軍に国土へ一歩も足を踏み入れさせずに撃退する事が可能であった。
エルネシア連峰を超えて各種航空機がありとあらゆる人工物を爆撃したならば、軍も公共施設も都市も灰燼と帰する事は、帝国軍が対抗手段を持たない事から疑いない。その無差別爆撃の勢力圏を踏み越えて進軍する事は、帝国陸軍の兵站と装備の面から不可能である以上、戦場阻止攻撃は十分に成立する。
北部の荒廃は要らぬ被害だったのだ。
それを求めたのは、北部勢力保持とトウカの野心によるところである。
防御縦深として皇国北部を利用する事で帝国軍を誘引して包囲殲滅を図り、今後の外征能力を削ぐ事は、侵攻時の戦力が低下する事をも意味する。加えて、北部の失陥と帝国との緩衝地帯であるという実情を皇国他地方に印象付ける事で、皇国北部が孤立している危険性を戦況を以て示す事も重要であった。
当然、その中で北部勢力は主要な立場を得られる。
そうした将来の為、皇国北部は多大な被害を被った。
トウカはその被害を遥かに超える発展を皇国北部に齎す心算であり、それは地政学的に見て帝国侵攻時の一大策源地とならざるを得ない以上、半ば約束されていた。
しかし、失われたヒトは還ってこない。
トウカは死を命じる立場であり、多くの人命を左右する立場であった。
それを厭う事はなく、これからも進んで成すが、それでも夫と娘を失ったマイカゼに対しては数字として見る事ができなかった。甘く身勝手であるという自覚はトウカにもあるが、同時にトウカはその事実を愧じてはいない。
恥じるべきは周囲の者を守れなかった点にこそある。
ヒトの命が平等だと、トウカは思わない。
法的には平等であったとしても、人間関係に優先順位がある様に、ヒトはそうした場面に直面すれば否応なく生命を選別する事を理解しているからである。
トウカは選別に失敗した。
これは彼に取り恥ずべき事であった。
戦争を統制できなかった以上、桜城が桜城として戦場で本分を果たせなかったとすら考えていた。
「恥ずべき事だ」
リシアやベルセリカが考えているような常人の後悔とは異なる後悔をトウカは抱いていた。
統制に失敗した上、恋人とその父親を喪った。
それこそがトウカの後悔である。
決して他の死や不幸に対する後悔はない。寧ろ、急進的に過ぎる者で生き残ってしまっている者の始末を合法的に付けねばならないという思惑もあった。
「マイカゼ殿と今は話さぬ方が良かろうが……まぁ、責めはすまいよ」
「今は往時と変わらない表情で迎えられても困るでしょ?」
ベルセリカとリシアの指摘にトウカは溜息を一つ。
「やはり、恨まれているだろうか?」
亡き恋人の母親から詰られて平然とする程にはトウカも人間を辞めてはいなかった。
ましてミユキの面影がある相手に罵倒されるのは堪えるものがあり、妹二人も幼少とは言えトウカを責めても不思議ではない。
「は?」「ん?」
ベルセリカとリシアは二人揃って渋い顔をする。
自身が臆している事に対して想定外だと言わんばかりの表情に、トウカは大いに傷付く。その姿を尻目に女性二人は顔を見合わせる。
「なかろう」「ないわよ」
そして鼻で笑った。
酷く馬鹿げた意見を聞いたと言わんばかりのベルセリカとリシアに、トウカも首を傾げる。
根本的な食い違いがある。
「負い目を感じている御主に付け入るやも知れぬ」
「ああ、それは有りそうですね。要らぬ約定を押し付けられては堪ったものではないです」
二人の心配が斜め下の方向に懸念を示す。
トウカは、ベルセリカとリシアがマイカゼをその様な人物と見ていたのかと、女性の恐ろしさを痛感する。今まで、そうした仕草や言動はひとつとしてなかった。
「そこまで酷薄ではないだろう。策謀を弄する方だが、それは家族に愛情を示す事と相反するものではない」
トウカの反論にリシアが天を仰ぐ。
「狐相手だと目が曇るのね。その目、硝子玉と変えた方がいいんじゃないかしらね」
曇らせる相手は私だけにして頂戴、とリシアは大層と剥れて腕を組む。
政略に疎いベルセリカまでもが厳しい目を受けるので、トウカは大いに臆する。
「相手は最早、有力な領地を持つ狐系種族の貴族であろう。天狐族だけでなく、他の狐どもも集まりつつある。あの女の双肩に狐系種族の興廃が掛かっておる。その程度の自覚なき者をマリアベルが後継者として選択するはずがなかろうて」
理路整然とした言葉に、トウカは返答に窮する。
マリアベルを理由に言葉の正統性を担保しようとしているところは大いに気に入らないが、マリアベルが選択した後継者という言葉は、トウカの判断を大いに是正する。
「道理だな。どうやら心得違いをしていたらしい」
とは言え、マイカゼであれば無理な要求をしてこないという確信が棄損されるものではなかった。トウカにとりマイカゼは計算高くも情の深い女性であり続けている。
しかし、ベルセリカはそうした状況すら利用できると断言する。
「なればこそ、あれの前で大いに後悔して嘆いて見せよ」
「え、それは逆ではないですか、元帥」
ベルセリカの提案にリシアが眉を顰める。
「先方が此方の被害者意識に付け込むまんとするならば、それ以上に嘆いて見せれば強くは踏み込めんよ。相手は天帝。盛大に嘆きながら認めてしまえば、周囲に負い目に付け込む印象を与えかねぬから踏み込めぬ」
落ち込む相手に意見を押し込む者の印象は悪い。
端的に言えば感情論の一つでしかないが、相手がそうした印象を周囲に与える事を嫌うのであれば、それは有効な手段の一つとなり得る。
トウカの様に誹謗中傷や敵意を已む無しと判断する政治指導者は稀有であり、政治に関わる者は基本的に風評を気にする。
「汚い本当に汚い。高位種怖いわー」リシアが机に突っ伏す。
「枢密院議長であるからの。その程度の駆け引きは心得たものよ」
ベルセリカはリシアの恐れを鼻で笑う。
この助言がそう遠くない将来、皇室の人間関係を複雑怪奇で刺激的なものへと成さしめる事になり、ベルセリカに多大な後悔と苦労と心労を齎す事になるが、今の当人は知らぬ事であった。
狐は狼の計算よりも遥かに冷徹で容赦がない。
ある意味において、トウカの善意と好意こそが、狐に対しては最も有効である事をベルセリカは理解していなかった。




