第三一四話 名実共に
「一体、何故こんな事に……」
ケレンスキー大尉は帝都北区の場末にある酒場で管を巻いていた。
あれよあれとよリディアを筆頭に帝都を行進して南区のドロシヤ離宮まで押しかけたが、その間に悲喜交々がありケレンスキー大尉の心労は許容量を大幅に超過していた。
聞き付けた警備隊の中には駐屯地の武器保管庫から小銃を手に駆け付けた者や、在郷軍人に声を掛けて雑多な武装をした一団を率いる者まで現れ、自称愛国者達の動きは叛乱軍さながらであった。
その実質的な指揮官はケレンスキー大尉である。
指示を仰ぐ者や意味の分からぬ判断を迫る者。或いは死に場所を寄越せと叫ぶ傷痍軍人まで加わるという有様で、ケレンスキー大尉は忽ちに義士として祭り上げられてしまった。
挙句、噂に背鰭尾鰭胸鰭が付き、ケレンスキー大尉は民衆の困窮を憂えて直談判するリディアの護衛を義憤と忠誠心から真っ先に買って出た忠勇なるなる軍人という設定に落ち着きつつある。
当人としては、同姓同名の者の立身出世という事になりませんか?と叫びたい心情であったが、先程から満面の笑みで次々と酒を注いでくる“自称”義士達を前にしては厳めしい表情をして重々しく頷き、それらしい振る舞いをするしかなかった。今更、冗談でしたでは屍が一つ増える事になりかねない。
当人は知らぬ事であるが、これが”自称”義士達の心を滅法と掴んだ。正に忠勇なる帝国軍人の佇まい、前線に居らずとも臣民を憂うる至誠の人、などという称賛が飛び交う事となった。
後に続いた部下達には、今は酌婦が付いており、自身には”自称”義士の壮年男性ばかりが群れている事が更に気落ちさせる。一番、面倒と不利益を被った者がだけが、未だ面倒と不利益を被り続けているという事実。知るのは当人と、それを遠くから酒瓶片手に鑑賞して笑い転げている部下達だけであった。
ケレンスキー大尉に救いはなかった。
リディアと近衛軍との衝突で座視する事は、帝室尊崇の精神を疑われる為に有り得なかった。そして、近衛軍側に付く事は帝室への忠誠を疑われる事になりかねない。例え近衛軍に理があるとしても、中央政府は同情はしても平民大尉を積極的に擁護するとは思えなかった。寧ろ、帝室であれば人気取りの為に擁護してくれるであろうという打算が大きい。
無論、対峙した相手を次々と空飛ぶ生き物にして見せたリディアを相手に、非武装で挑む勇気の持ち合わせがなかった事も大きい。
リディアに同行して無実を証明しようとしケレンスキー大尉だが、ドロシヤ離宮前で、丁度良い、と同地を守護する近衛部隊と対峙する役目を要求された。当然、外部からの増援阻止も命令に含まれており、ケレンスキー大尉とその不愉快な仲間達はその身一つで他の駐屯地から駆け付けた近衛部隊とも揉み合いをする事になった。
武器を放棄させた事だけは大金星であったとケレンスキー大尉は確信している。武力衝突では勝敗は目に見えており、彼らは常に弱者として振る舞うことで世論の歓心を買う必要があった。
そのような経緯で済めば良かったが、ドロシヤ離宮周辺は幾重にも堀が張り巡らされており、これは水路として物流を担うだけあり軍勢を阻止するに十分な幅を備えていた。
近衛兵とケレンスキー大尉と不愉快な仲間達は、互いに相手を堀に付き落とし合うという不毛極まる戦いに終始する事になった。
ケレンスキー大尉自身、先頭に居た為、真っ先に投げ落とされている。
それにより、不愉快な仲間達が激怒してドロシヤ離宮周辺の水路は魚類よりも人類が多い有様と成り果てた。水深が浅い為か、或いは冷水で熱が冷めたのか双方ともに死者は出なかったものの、帝都空襲以降の混乱と不満を象徴する事態として扱われつつある。
大変なものへと祭り上げられつつあるケレンスキー大尉は溜息を一つ。
ドロシヤ離宮に先んじて突入しようとしていたリディアからの同情の視線が肺腑に突き刺さった事も大きい。リディアはケレンスキー大尉の心情と不遇を察しているが、そこに感謝の情がなかった事が最大の問題である。
無論、ケレンスキー大尉自身、帝族の感謝を渇望している訳ではないが、或いはリディア個人でも突破可能で、自身は余計な事をしただけではないのかという懸念があった。帝室尊崇を示し、臣民の信頼を勝ち得たが、中央政府から危険視する動きがあった場合、己の身を助けるのが帝族や民意であるということだけは理解できた。
しかし、リディアが己を擁護するかは未知数であり、民意も情勢次第では危険視される要因になる表裏一体の手札である。
「……これは死んだなあ」
帝都空襲による爪痕が色濃く残り、不満と悲劇が未だ渦巻く帝都での騒乱に対して有効な手を打てない中央政府が騒乱の火種になりかねないとケレンスキー大尉を判断した場合、速やかなる"不審死”が与えられかねない。
――今にして思えば、部下共々、巻き込まれて倒れた振りでもしておけばよかった……
己のことながら、帝室と中央政府を天秤に掛ける様な真似をした果断には、ケレンスキー大尉としても脱帽せざるを得ない。例え、それが非常時故の視野狭窄に基づくものであったとしても。
その様な思考でケレンスキー大尉は己を慰める。
「お悩みだろうか? 尊王の志篤い愛国者君」
眼前に座する町娘。
気が付けばこの机を囲んでいた威勢の良い愛国者達は姿を消し、対面には一人の町娘が片肘を突いてケレンスキー大尉を興味深げに観察していた。
年若い娘に観察される事を望むような性癖はないが、思いの他、整った顔に酌婦ではないとケレンスキー大尉は眉を顰める。容姿に優れていたら酌婦ではなく、もっと安全で収入の良い職業がある為、容姿に優れる酌婦などいないというのがケレンスキー大尉の持論である。それなりに遊んできただけに、その辺りには些かの自負があった。
第一に、眼前の少女は相手に媚び詔うような人種ではない。
帝都警備隊という人口密集地の治安維持を担う職務に長く奉職している為、ケレンスキー大尉は為人というものを大まかに察する自信があった。
「分からぬか、まあ分からぬだろうな」
苦笑というには無邪気なそれに、ケレンスキー大尉は毒気を抜かれる。
それ以上に、少女を対して誰一人として気に留めていない光景に、ケレンスキー大尉は高度な認識阻害を行う魔術が使用されていると悟る。帝都でも魔術を用いた犯罪は度々発生しており、彼自身も官憲などの目を誤魔化そうと試みる悪徳魔導士などと日夜鎬を削っていた。
しかし、ケレンスキー大尉は魔術の素養に乏しい。精々が暖炉の火付け程度のものである。
認識阻害にも程度と種類は多くあるが、周囲の人間を遠ざけ、特定の相手のみに絞るというのは相応に高等な技術であった。そうした術式を容易く扱っている様に見える相手が二十歳にも満たないように思えるというのはケレンスキー大尉にとっても初めての体験である。
そして、別に術者が居る場合、それは組織的な動きである事を意味する。
「ほら、君が昼間に救って?見せた姫様だぞ?」
諸々の過程を押し退けて答えを口にする。
救った?という点に疑問が差し挟まれているところに救いがないと、ケレンスキー大尉は麦酒を胃に流し込む。
地味な町娘の服装であり、髪型も変えている。確かに、それでも抑えきれぬ容姿からその様に見えたが、一縷の望みを託して胸中で遅滞戦術を敢行していたケレンスキー大尉。
しかし、麗しの姫君は臣下の精神への配慮など行わない。
「ふぅ、酔ったみたいだ……」
酒精(アルコール」による幻覚説を採用するしかないケレンスキー大尉は断腸の思いと共に机に無造作に置かれていたヴォトカが注がれたの硝子杯を啜る。
何処かの脂ぎった自称愛国者の放置したものであるが、気に留める余裕はなかった。同時に、最近は若い部下の動きに身体が付いていかない事を自覚しつつあったので、酒精の限界による幻覚もまた納得できる。
「酔い? 私にかな? 分かるぞ、帝国軍人ならそういうものだ」
からからと笑う姫君。
皇国との戦役に於ける勝敗よりも先に、士官学校の教育が敗北している現状をケレンスキー大尉は心底と憂えた。
「なに、もう一度、苦労人の顔を見てやろうと思ってな。珍しい生き物は帝国にもいるのだと感心しているのだぞ?」
机の上に置かれたほとんど目減りしていない麦酒を引っ掴んで、一息で三分の一程飲み干した姿はケレンスキー大尉の胸裏に存在する帝室の権威を著しく傷付けた。そして、珍しい生き物扱いが壮年男性の硝子の心を曇り硝子に転じさせる。
「……兵士達に嫌われていない事が知れてよかった」ぽつりと零したリディア。
刹那、感情の抜け落ちた表情が再び無邪気なものへと転じる。
歴史的大敗を喫した事を気に病んでのものである事は疑いない。
リディアが直卒する〈第三親衛軍〉は軍事学上の全滅という定義すら遥かに超える被害を受けて壊滅状態となり、その他の促成師団や精鋭師団も夥しい数が全滅している。帝国史上最大規模の侵攻であり壮挙と言えたが、皇国は悪鬼の如く強く、そして殺害する相手を選択しなかった。寧ろ、銃後の民衆も積極的に都市諸共に生ける松明とした。
自身への憎悪や不信感を持つ兵士が現れると考えるのは不思議な事ではない。
だがケレンスキー大尉の見たところ、リディアに対する否定的な意見は少ない。
当人が元より好意的に見られていた事に加え、皇国侵攻に否定的な言動があった事もあるが、それ以上にリディア自身が単身で後退戦を繰り広げた事が大きい。
結果は兎も角として、エルライン要塞が空挺作戦によって奪還されて以降、帝国軍の残存部隊は帝国本土に後退できなくなり、文字通り全滅する状況に追い遣られた。
皇国北部は巨大な地獄だったのだ。
そうした中で最後に帰還したのはリディアである。
多く者が討たれたか、どこかで力尽きて草生す屍となっていると考えられていたが、リディアは中原諸国を経由し、共和国戦線の部隊と合流した。
そうした経緯を中央政府や帝室は敗走の中で後退戦を繰り広げたと喧伝した。余りにも敗北による被害が過大であった事からの政策であった。民衆の目を逸らすという点に於いては正しかったが、それによってリディアは敗残の将でありながら人気を失わなかった。
敗北しても損なわれない人望を警戒する動きも中央政府にはある。
皇国侵攻に於いて失態続きである中、同じく失態を犯したリディアだけが信頼を失わない事への遺恨もあるとケレンスキー大尉は見ていたが、御高説を言うのであれば、人気と信頼を背景とした叛逆の可能性を捨て切れないという言葉が出てくる事も止むを得ないと考えていた。大敗の中で実力のある帝族将校が人望を集める。危険視されるのは当然であった。
「口を開いて宜しいのでしょうか?」
「忠臣の真似事か? 御前は実績は兎も角、その振る舞いで自らの立場を示した。虚飾は不要だ」呆れ顔のリディア。
形だけの忠臣が多い事は帝国政府の腐敗ぶりを見れば容易に想像できるが、ケレンスキー大尉としては先の自らの振る舞いは立場を示すものではなく、部下の生命と民衆からの信頼を守る為のものでしかなかった。
国家指導者の首が幾ら変わろうが市井の生活に変わりはない。
寧ろ、指導者層の政治的混乱を最小限にして貰いたいという願望は常にあった。上の混乱は下に伝播する。市井の生活が悪化する恐れとてあった。
「失礼ながら、お好きな様に為さればよろしいのです」
最早、帝国の崩壊は止められない。
赫奕たる戦火と語り継がれるべき物語を求めて熱く華麗に滅びるか。
叶う限りの命脈を歴史書に残すべく屍と死臭の下で無様に滅びるか。
その違いでしかないとケレンスキー大尉は見ていた。
無論、民衆はどちらにせよ塗炭の苦しみを味わう事になる。
国家の興亡とは、そうしたものである。
「共産主義者の言う楽園を求めるという選択肢もあるだろう?」
その声音には心からの軽蔑が滲む。
共産主義。
所謂、政治的幻想浪漫。
ヒトの善意を前提とした典型的な妄想の産物である。
この悪徳と貧困が根差す帝国で、主義主張を変えた程度で民衆の大部分が善人になるのであれば、世界から争いを消すことも容易いが、善人が善人である事を維持するには少なくとも貧困を解消せねばならないとケレンスキー大尉はよく理解していた。帝都警備隊とは帝都の治安維持を担う組織である。貧困が人心を荒ませる事を誰よりも目の当たりにする立場であった。
「主義主張を変えて食糧備蓄が増えるなら、臣としても考えぬでもありません」
忌憚のない意見。
専制君主制国家に於ける禁忌に等しい発言をしている事をケレンスキー大尉は理解している。
それでも止まれなかった。
明日をも知れぬ命で、これから記される歴史書の頁ならずとも行数くらいは増やしてやるという開き直りがそこにはあった。
「端的に言えば、指導者層の怠惰に他なりません。そして、それを是正する時間は帝国に残されていない」
帝都空襲は致命的だったと、ケレンスキー大尉は立場上、痛感している。
帝城が空襲によって崩れ去った事実は、同時に帝室の権威が崩れ去ったに等しい効果を齎した。場末の酒場では以前になかった不満と中傷が飛び交い、半壊した貴族街を目標にした窃盗は後を絶たない。帝国臣民の不満を抑え付けていた不可視の権威は、最早、民衆の感情的な振る舞いを抑制し得なかった。
帝都警備隊は、そうした中でも可能な限りの治安維持を目指す。
今日はリディアの暴挙によってお祭り騒ぎとなっているが、それすらも不満の捌け口を求めての事である事は周囲に表情からも見て取れる。
民衆はリディアの果断が閉塞感を打破すると期待している。
そして、幸か不幸かリディアはその片鱗を見せた。
中央政府がリディアの簒奪を警戒する事は当然と言えた。
当人の意思は別としても、それを民衆が支持するであろう現状が成立してしまっている事自体が問題視されている。
「……一つ、民をそれなりに食わせる手がない事もない」
一息に残りの麦酒を飲み干し、机上の付け合わせ……肉ばかりを口に運ぶリディアはつまらなそうに呟く。
主義主張の転換で食糧が増える訳ではないと理解しているリディアによる食糧難を是正する一手。
口元に付いた肉汁を舐め、頬杖を突くリディア。
「皇国との講和だ」
ケレンスキー大尉は心底と眼前の少女から逃げ出したい衝動に駆られた。
不倶戴天の敵との講和。
駄法螺にも等しい発言が、よりにも皇国侵攻の総指揮官から発せられる衝撃は計り知れない。帝室や中央政府が転覆しかねない主張である。
「この戦争での犠牲者は五百万名を超える。一年に満たない時間で五百万だぞ? どうだ? 民衆はその数字と貧困を前に尚も戦うべきだと気炎を吐くものか?」
リディアの問いに、ケレンスキー大尉は緻密な計算を差し置いても五分だと見た。
ケレンスキー大尉自身、五百万を超える死者が出ているとは考えなかった。帝国政府が死者数を未だ発表していない事もあるが、帝都以外の空襲を受けた都市の惨状は目撃していない。
それでも講和は厳しい。
国是として四百年に渡り人間種の優位と異種族の殲滅を掲げていた帝国の臣民には、その差別意識が常識となって精神に癒着している。それを転換するのは短時間では不可能と言えた。誰しもが己の姿勢や性格を容易に変化させられない様に。
「まだ足りないのか?」
心底と呆けた見目麗し女性の姿に、一握の安らぎを覚えたケレンスキー大尉だが、それに対して上品な意見で機嫌を取ることはない。
「足りませんね。帝都を除けば、被害は軍と南部に集中しています」
悲劇は帝国の一部で生じたものでしかない。
四百年に渡る妄執を払うには被害は局地的な部分に集中し過ぎていた。
「しかも、貴女方は口減らしの為に促成師団ばかりを消費した。食い詰めた人間の死を悲しむ者は余りにも少ない」
「それは……」
姫君には理解できないであろう部分をケレンスキー大尉は指摘する。
人間関係の規模は金銭的余裕に比例するというのがケレンスキー大尉の持論であった。
帝都での犯罪取り締まりなどでの傾向から、貧困者は追い詰められ、先鋭化する過程で様々なものを失う事が見て取れる。そして、その最中に極少数で強固な繋がりを獲得する者と他者を信じなくなる者に分かれるが、どちらにせよ人間関係は貧困によって真っ先に失われるものである事に変わりはない。
貧困者は求められないし、愛されない。
人間関係を形成する機会を得るにも維持するにも金銭が必要な時代となった事が、貧困者を更に追い詰めているとケレンスキー大尉は見ていた。共産主義思想は、そうした意味でも上手くヒトの心の間隙を突いたものであると感心した記憶が彼にはある。無論、理想で腹は膨れない為、何れは愛想を尽かれるという確信もあった。
「ヒトはね、困るから怒るし、愛するから悲しむのですよ、姫様。貧者が喪われて困り、悲しむ者など、貴女が考えているよりも遥かに少ない」
善悪を超え、そうした事実が現世に横たわる。
口減らしの為に貧困者を積極的に入隊させ、促成訓練をして捨て石にする事で治安上の懸念事項を解消している指導層に属する者が、そうした者達が大部分を占める今次戦役での死者に対しての理解に乏しい事に、ケレンスキー大尉は反発を覚えた。
「貧困者は一般的な幸福すら手にできなかった者を指す言葉なのですよ」
そして、幸福は個人で形成する事は困難である。
五百万名の死者は、額面通りの憤怒や悲哀を広げない。
持たざる者の死による影響力を、持ち得る者が期待する点もまた帝国らしいと言える。搾取は遂に死それ自体の影響力にまで及ぶという悍ましさ。
「貴女は帝国臣民を知らない」
これは首が物理的に飛ぶな、とケレンスキー大尉はヴォトカの酒瓶を掴んで喇叭飲みする。人生最後の酒になるかも知れないという以上に、年若い少女に憎悪をぶつけた己への含羞を摩滅させる為でもあった。
ケレンスキー大尉は憎悪している。
貧者が已むを得ぬ状況で犯罪を犯し、それを摘発し、場合によってはその場で射殺しなければならないこと、それを肯定する時勢に。
だが、そうした状況に至らしめたのはリディアではない。
個人がそうした現状を齎したというには帝国の現状は余りにも長期的に過ぎた。
「確かに……私は知らない。だが、領地に逃げ出した盆暗貴族よりは民衆の為に動いている心算だ。それに――」
一瞬の逡巡。
豪放磊落と言われる人物に逡巡を齎した事にケレンスキー大尉は顔を顰める。
それでいて、その一言は酷く利己的であった事に二重の後悔。
「死に至らしめた数よりも救わねば収支が合わない」
収支という物言いにケレンスキー大尉は、上に立つ者の非情を見た。
同時に、そうした中で指揮統率を維持し続けたリディアのそうした姿勢こそが良く敵を殺し、良く味方を助けたのかも知れないと考える。ケレンスキー大尉自身も軍人である為、非情の決断に対する理解はあった。
だが、その収支すら帳尻を合わせられない者が多い帝国では余程に上等な考え方と言える。
「……国内の政治的、心情的な反発は置いておくとしても、国是の矛盾を解消せねばならないでしょう」
そこを放置しての講和は歪みと反発を生む上、それらに対する正当性を提示できない。
含羞を棄て悲哀を押し退け、端的にあるかどうかも定かではない道筋を示す。
「国是か……変えなければならないだろうな」
帝族が国是の改定に言及する光景は歴史的なものであるが、そうしたものに遭遇したものがそうであるように、ケレンスキー大尉もまた然したる感慨などなかった。
「兎にも角にも講和内容に通商条約を含める。食糧と鉄鋼資源の現物取引だ」
閉鎖的な外交関係から自国通貨の価値が国際的に低いとの自覚があるリディアは、現物取引による通商を想定しているが、ケレンスキー大尉としはそれよりも大きな問題を放置していると見ていた。
「さて、上手く行くとは思えませんが。あの国の指導者は随分と強欲で攻撃的と聞きます。例え、講和となっても相手に与えた被害次第では相当の譲歩を迫られるでしょう……皇国側の被害は?」
「……短時間で国土の反対側の国家に侵攻できる余力はあるみたいだな」
愧じているのか後悔しているのか、少なくとも軍事機密を隠蔽する意図がある訳ではない事は、その表情から読み取れた。
被害は帝国側が遥かに多いと見たケレンスキー大尉は賠償金や領土割譲を迫られるだろうと見た。
前者の場合、最大の仮想敵国の通貨は使い難いと難色を示し、支払いを他国の通貨で迫る可能性も有る。その場合は支払い自体が困難となるので、選択肢は領土割譲という話にならざるを得ないが、帝国は未だ寸士たりとも領土を失っていない。手放すのは国内からの激しい抵抗が予想された。
「姉上を輸出……もとい、皇妃として嫁がせてはどうだろう?」
「小官は見える栄誉に浴した事は有りませんが、大層と美しいとは聞きます。ですが、女一人で他国に妥協する相手ではないでしょう」
寧ろ、根絶やしにするなどと叫ぶ相手が約定を守るとは限らない。ケレンスキー大尉としては、一番姫を受け取って散々に愉しんだ上で約定を反故にするという可能性を捨てきれなかった。条約を反故にするのは何も帝国だけの特権ではない。
「やはりエルライン回廊周辺の領土を差し出すしかない、が……国内が認めないか」
「不可能でしょう。結局、何一つ決められずに皇国軍による侵攻作戦の日を迎える事になる」
割譲ではなく、領土は切り取られることになる。
皇国の若き指導者の気質は帝国政府の宣伝を真に受けなかったとしても相当のものである事は、帝都の惨状が示している。
「新聞の言葉を借りるなら、皇国の新皇は血肉を啜る化け物らしいです。姫将軍でも退治できず婚姻も叶わないとなると、講和程度では暴虐の振る舞いを止める事はできないかと」
そこでケレンスキー大尉は邪推をする。
まさか、暴虐なる邪龍を宥めるなら美姫を生贄に差し出せばいいと、姉を差し出そうとしているのでは、という疑問をケレンスキー大尉は飲み込む。帝室の姉妹関係など聞いても命の危機にしかならない。今更であるが。
何より、ドロシヤ離宮で姉妹を交えた喧々諤々の議論があったという程度の情報は、市井にも流布している。
「それでも定期的に女衒の真似事を続けて済むのなら、非常に費用対効果が高いと言えるでしょうが。ですが、いずれは貴女も生贄として差し出される事になるでしょう」
半ば脅しとしてケレンスキー大尉は覚悟を問う。
定期的に帝室やその所縁の美姫を差し出し、皇国の邪龍を宥めるというのれあれば、それは国家間での賠償や領土と比較して余りにも安価である。当然、帝室の権威に響く上に、そもそも帝室やその関係者の数は多い訳ではない。リディアとてそうなれば例外ではなかった。
自国に攻め込んだ姫将軍など酸鼻を極める事となるのは誰しもが想像できる事であった。リディアもそうした末路は避けたいはずである。
そう、ケレンスキー大尉は考えていた。
「そうだな、勇者を抱くくらいならトウカを抱いた方がいい。その手があるか」
聞かなかった事にした。
ケレンスキー大尉は皇国の新皇の男性としての矜持を、同じ男として心配する。同時に邪龍に猛虎が食らい付く様は、傍目に目撃する分には愉快な事この上ないであろうという確信があった。一方が美女であるなら猶更である。
リディアが新皇を親し気に名で呼ぶ点を黙殺し、ケレンスキー大尉は給仕が持ってきた肉料理の山に突し(フォーク)を突き立てる。机越しにリディアも容赦なく皿の肉を収奪していく様に、流石は収奪で体制を維持する国家のお姫様だと、ケレンスキー大尉は追加で麦酒を注文した。
「しかし、大尉は良く情勢が読めている。そうした経歴ではなかったような……」
経歴を調べた上での邂逅という事実にケレンスキー大尉は閉口する。
個人情報流出に敏感という訳ではないが、権力者の記憶の一部を占めるというのは厄介事でしかなかった。
「死んだ両親が商人だったので、色々と客観的に見る目は養われましたし、何より熱心に知識を教えてくれたんですよ。知識は奪われないし 目減りもしない、と」劣化はしますが、とも付け加える事をケレンスキー大尉は忘れない。
善人ではなかったが、少なくとも子に対しては善人であった。ケレンスキー大尉の両親はそうした人物であった。善人の商人など食い物にされるだけであるが、悪人とは言い切れない程度の人物であった為に騙されて死ぬことになった。
食い詰める事になると見たケレンスキー大尉は、先んじて残された金銭を掻き集めて士官学校の門を叩いた。
主計将校として優れた資質を示し、帝都警備隊に配属されて以降は、物品横流しを迫る上司などを避け、或いは問題になるように誘導して予算の無駄の圧縮に努めていたが、それ故に疎まれて警邏部隊へと配置転換された経緯がある。
しかし、主計将校としての経験から商家の不正を嗅ぎ分ける術に長け、非合法組織の商売も目敏く見つける事が出来た。
そうした実績の為、少なくとも部下や住民には嫌われていないという自負がケレンスキー大尉にはある。
「ま、それも空襲には無力でしたがね」
空襲の際、ケレンスキー大尉は公園の子供達を近所の住宅の地下室に押し込んで救助へと再び火の粉舞う中に飛び出した。しかし、付近の消化を終えて地下室に赴けば子供達は熱と酸欠で藻掻き苦しんだ末に事切れていた。
精々が国内の反乱討伐で銃後の主計を務めた程度の従軍経験しかないケレンスキー大尉は、戦争というものをこれ以上ない程に身近に感じた。
こうも容易くヒトが次々と驚れていくのか、と。
リディアであれば、何を今更、と吐き捨てるであろう現実だが、それは帝都という銃後であらねばならない場所で起きた。
子供達は幸いにして炎に焼かれた訳ではない為、身元確認が容易な状態であったが、それでも半数は両親が死亡したのか引き取り手がなくケレンスキー大尉が火葬場まで送ることになった。
「帝国は皇国に恨まれているでしょう。攻め入って残忍な振る舞いをしたのは予想できる。だからと数百万と民衆を焼く決断をできるものですか? 怖いですよ。憎悪なんて消し飛ぶ程に」
ケレンスキー大尉には恐怖しかない。
数百万の民衆に死を齎し、それを大戦果と喧伝して見せる新皇と戦い続けるなど正気の沙汰ではなかった。
「絶滅戦争ならば、どちらかが根絶やしにされるしかない。帝国のそんな姿勢が跳ね返ってきた。何もしなければ我々は家畜の様に追い立てられて屠殺される事になる。今まで、我々が占領地でそうしてきた様に」
国是の下で数百年と治世を紡いだ帝国臣民には、異種族への差別意識が当然ながら存在する。同時にそうした意識だけでなく、自らがしてきた残虐な振る舞いを立場が逆転した際に為されるのではないかという潜在的恐怖がそれを一層に強固な観念と成さしめているとケレンスキー大尉は考えていた。
基本的に身体能力や魔導資質、或いは種族毎の特性を踏まえれば、基礎的な能力総合は異種族が優越している場合が殆どである。教育制度の不備からより本能的にして直截的な帝国臣民は、異種族のそうした優位に恐怖を覚えており、中央政府はそれを利用した弾圧と排斥を為せた。
そうした現状はこれからの皇国の隆盛によって更に強固なものとなる事は疑いない。
新皇は恐怖と破壊を振り撒く事を躊躇せず、帝国への害意を隠さない。
時間が経過し、帝国が皇国の圧力を受ける程に、その恐怖心は増大する。
「やはり貴女は帝国臣民を理解していない」
恐怖を超える恐怖が到来する。
帝国臣民までが生存競争だと考えれば、今迄は口先ばかりだった絶滅戦争が名実共に到来する。
絶滅戦争を叫んだ帝国に、皇国は遂に朗々と応じた。
文字通り、両国が総力を以て絶滅戦争に邁進する。
「停戦? 講和? 冗談じゃない。我々は帝国軍人。絶滅戦争の切っ先ですよ」
心底と疲れたケレンスキー大尉は背凭れに身体を一層と深く預けた。
地獄に突き進むのだ、と。
リディアは言葉を返さなかった。
「御前、私の部下。私、上官。敬え」
片言で得意げな顔をするリディアに、ケレンスキー大尉は懐から取り出した辞表を投げ付ける。
しかし、辞表はリディアまで届かずに燃え尽きる。
魔術が行使される動作はなかったが、そうした事を行う貴種こそが帝族である。
ケレンスキー大尉がリディアに対して忌憚のない帝国臣民の現状を伝えた三日後。呼び出されたケレンスキー大尉は閑散とした〈第三親衛軍〉司令部に呼び出されて姫将軍を相手に直立不動を強いられた。
逃げ出せば部下達に責が及ぶ可能性を考えると、自己保身として逃げ出すのは忍びない。妻子も居ない身なので、ここはひとつ盛大に傾いて死んでやろうと開き直ったケレンスキー大尉の辞表は鼻を鳴らしたリディアの視線ひとつで燃え尽きた。
なんて格好の付かない、とケレンスキー大尉は己の人生に於ける檜舞台が何時も失敗する不幸を戦女神に対して問い正したくなる。
リディアの背後に控える……昨日の近衛軍兵士との大乱闘の際、リディアの小脇に抱えられていた女性将校からの心底と同情した視線が痛い。
「小官の様な実戦経験に乏しい主計将校が猪騎士ばかりの……失礼、〈第三親衛軍〉に於いて活躍する余地などないと思いますが?」
〈第三親衛軍〉は皇国侵攻で壊滅的被害を受ける以前は帝国最強の名を与えられていた戦力単位である。勇将の下に弱卒なしという言葉を体現した将兵は錬度と士気の両面で他部隊の追随を許さなかった。隷下にある重装魔導騎兵聯隊などはその代名詞であり、皇国侵攻でも装甲部隊すらも壊乱状態に追い込んだ実績がある。
控えめに見ても帝都警備隊の大尉の異動先ではない。
「なに、これからの〈第三親衛軍〉の編制は火力と機動力を重視したものになる。内燃車輛や魔導車輛を多数配備する以上、兵站への負担は以前より大きくなる。優秀な主計将校は以前に増して重要だ」
砲兵戦力の増強も含めているであろう言葉に、ケレンスキー大尉は主計将校が居ても物品が不足しているのであれば意味がないと顔を引き攣らせる。
砲兵火力は帝国も重視しているので火砲や弾火薬の不足というのは短時間で是正できる問題と言えなくもない。現に十分な規模と数の生産設備が存在し、現在は皇国戦役で喪った備蓄を取り戻すべく全力稼働していた。
しかし、対空砲の生産で多大な混乱を期待している事もまた事実であるが。
対する車輛とその周辺機材は、総じて不足している。
それは偏に予算と生産設備の不足によるものである。
初期投資が莫大な事もあるが、馬問屋や騎兵科の政治介入に加え、冶金を始めとした技術者が不足している事も大きい。
内燃式であれ魔導式であれ、車輛は無数の部品と技術の集合体である。
ただ、生産工廠を用意して解決する問題ではなく、技術の裾野が狭い帝国の不得手とする分野と言えた。
機関の生産が間に合わず、動きもしない車輌を生産する例もある。
「失礼ながら生産に問題があるのでは主計将校の努力など無意味でしょう」
「分かるか? 私も姉上に言われた。工業製品は技術とヒトと予算の総算だと」
挙句にその内の二つは用意するにも時間を要する、とリディアは天を仰ぐ。
一番姫が想像以上に優秀である事が窺える一言に、寧ろ一番姫が帝国の運営に深く関わるべきではないのかと、ケレンスキー大尉は呻く。
一番姫、エカテリーナ。
対外的な露出が最も少ない帝族として知られており、僅かな風聞しかないが、凄絶な美貌を持つ人物として一般には流布している。
「でも、姉上は間に合わない、とその辺りに熱心ではないから私がする事にした」
何に間に合わないというのか?と聞く勇気はケレンスキー大尉にもなかった。
軍の崩壊か帝国の崩壊か帝室の崩壊か。
エカテリーナとリディアでは見ているモノが違うことが明白となった。
専制君主制の長所である権力の集中が果たされず、各々が異なる目標を掲げて進む事など非効率の極みであるが、帝室の権威は時代が進むにつれて低下し、貴族や官僚との合意によって政策を進める場面が増えた。それは即ち単独での決断による政策が不可能となった事を意味する。
「予算が付いたとしても〈第三親衛軍〉の機械化は一〇年程度は必要になると思いますが……」
生産設備の増強、或いは性能と量産性を求めた新規設計なども含めれば、充足までに一〇年は必要であると、ケレンスキー大尉は見ていた。
主計将校の大まかな計算であるが、それすらも予算があり横槍がなければ、という前提に過ぎない。
「皇国は、トウカは短期間で戦車を揃えていたが……」
「そう言われましても、小官には敵国の事は何とも」
敵国の軍事情勢を知り得る立場にケレンスキー大尉はなかった。銃後の帝都警備隊の一大尉まで下りてくる情報など断片的なものでしかない。
そこにリディアの傍で控えていた女性将校が注釈する。
「元帥閣下、皇国の戦車は大部分が新規製造したものではありません。長砲身に換装し、追加装甲を装備したに過ぎません。一号車の部隊配備は二〇年近く前だと聞いております」
帝国軍を散々に痛めつけた戦車が二〇年近くも前から生産されていた事に、ケレンスキー大尉は天を仰ぐしかない。練石製の天井だったが。
そう言えば、女性将校の立場と名を知らない事に思い当たったケレンスキー大尉はただの副官だろうかと猜疑の目を向ける。帝室からのお目付け役というのも有り得た。
「ナタリア・ケレンスカヤ少佐だ。姫様方の連絡や周辺の防諜を一任されている」
ケレンスキー大尉の疑問を察したナタリアが口を開く。
それにしても若いとケレンスキー大尉は思うが、略綬を見れば相当の戦歴である為、帝国軍で偶に出現する実力と幸運を兼ね備えた若手将校だろうと納得する。女性ともなれば遥かに希少である。
「暴走の抑制は一任されていなかったようですね」
先の騒乱を阻止しなかった、或いは出来なかった事を揶揄するケレンスキー大尉。
最早、不安と不満で感覚が麻痺しているケレンスキー大尉は溜息を一つ。
心底と不愉快な話が来たという姿勢と言動を隠さないケレンスキー大尉に、リディアは些か傷ついたような表情をし、ナタリアは、自業自得かと、と追い打ちをかける。
「私には必要なのだ。率直な意見を言う者が。最早、ブルガーエフはいない」
一握の寂零感を以てリディアは言い募る。
ブルガーエフ中将の名はケレンスキー大尉も知るところであった。優秀な人物であるという事もあるが、ミナス平原に於ける後退戦では、一人でも多くの者を逃がすべく、一部の部隊を指揮して文字通り全滅するまで戦い続けた勇将と評されている。大敗を糊塗する為の大言壮語だとケレンスキー大尉は考えていたが、リディアという人物を見るに、相応の実力を持つ人物なのだろうと推測する。
そうした人物の代替として望むかの様な発言に、ケレンスキー大尉は返答に窮した。
勇将と称賛される帝国陸軍中将の一部を求められるというのは過分な評価であるという以上に、武名を挙げる機会など御免被るという心情があった。
そうした心情など気に留める事もなく、リディアは口元を吊り上げる。
「貴官が私に帝国を教えてくれればいい」
何時かの夜の意趣返し。
ケレンスキー大尉も負けてはいない。
「帝室の御用学者なりに尋ねれば宜しいでしょう」
帝室の若者の教育を担うべく御用学者が複数登用されている事は広く知られている。最高峰の頭脳が集まり、教育を施すという環境は、専制君主制の統治にとって必須であった。傀儡とて相応の知識と知性と教養がなければならない。
「私は虚飾を好まない。装飾は物品にも言葉にも不要だと考えている」
迂遠に無駄が多いと口にするリディア。
ナタリアは顔を逸らして聞いていないという姿勢を見せる。帝室の教育に対する異論を帝族から聞くというのは、平民には過分な面倒と言えた。
「貴官の視点と直截な物言いに期待している……ま、拒否権など元よりないのだが」
姫将軍が口角を吊り上げる。
それは収奪により成立した独裁国家の姫君の笑みであった。
一方の指導者層の建前だった絶滅戦争が、皇国の勝利と宣言により双方の民衆が信じる様になっているのではないかというどうしようもない話。
民衆を松明にしながら両国は泥沼の戦争を繰り広げる訳ですね。




