第三一二話 恋愛談
「これ、どうかしら?」
凄絶なまでの美しさを湛えた乙女が、実に乙女らしい表情で問う。
自分は何故この場にいるのかという疑問で脳内が埋め尽くされていた狐系種族の女性は尻尾を直立不動にして応じるしかない。
「はひっ、良ひと思いますっ」
周囲に控える侍女達から苦笑が零れる。
ユーリネンの副官であるリーリャは、何故か帝国一番姫であるエカテリーナと茶会に興じていた。
リーリャ・アスケルハノヴァ。
沿岸都市ドヴィナ近郊に位置するシエナの森に暮らす白狐族の娘で、ユーリネンの副官としては相応の経歴を持つ。沿岸都市ドヴィナを策源地とする〈第二六四狙撃師団〉は陸軍でも〈南方辺境軍〉と呼ばれる地方軍に所属しており、〈南北エスタンジア〉地方への警戒と属国である〈北エスタンジア王国〉支援の為に編制された。今回の皇国侵攻に在っては他種族を利用しての軍略が行えるのではという期待から移籍された師団の一つである。後備戦力であるものの、涙ぐましい努力で戦力と装備を維持する〈第二六四狙撃師団〉は、ユーリネン子爵家からの献金で半数が賄われており、それ故にユーリネンが師団長であり領邦軍の側面も有していた。
帝国に於いて人間種以外の種族の扱いは劣悪なものであるが、辺境では半ば黙認されている場合もある。特に帝国東部に於いては顕著で、人口が少ない事から人間種だけでは文明を維持できないという理由もあった。辺境に過ぎる為、放置されている事も大きい。
利益がなくば、ヒトは口を差し挟まないものである。ましてや距離的に断絶していると評して差し支えない以上、そこは帝国であっても帝国ではなかった。
帝国軍上層部に於いても黙認する勢力や利用しようとする勢力は少なくない。
軍事という実力主義の分野では、国是を理由に軍事力の最大化を怠る真似を許容しない者も少なくない。
それでも、それは一部の例に過ぎず、帝都で帝族と面会するというのは有り得ない事であった。
帝族であれば、国是の面からまず言葉を交わす事のない獣系種族に対し、エカテリーナは侮蔑も軽蔑もなく、ただの一個人として相対するという状況に、リーリャは思考が追い付かないでいた。
三番姫であるリディアは兎も角、エカテリーナまでが種族というものに対して頓着していない様に見えるのは、リーリャにとり意外という言葉では表せない程に複雑なものがある。あと百年そうした人物が帝族で確たる立場を得ていれば、帝国内の他種族は辺境への逼塞を迫られる必要がなかったのではないかという可能性。
意味のない仮定だと、リーリャは尻尾を一振り。
そうした仕草を見たエカテリーナは、尻尾へと視線を向ける。
「その尻尾、本当によく動くのね。興味深いわ」
「申し訳ありません。このお転婆が」
己の尻尾を捕まえて雑巾の如く絞る。
尻尾のある種族は、感情に合わせて動く種族が多い。意識して抑える事はできるが、不意の出来事にはどうしても反応する。
「身体の平衡感覚は、尻尾がある種族が優れていそうね」
獣系種族は水平を保つ為に尻尾を動かす事もある為、エカテリーナがロにする様に人間種よりも尻尾のある種族が水平を保つ動作に関しては選択肢が一つ多いと言える。
尻尾を膝上に左手で抑え付けたリーリャ。
「構わないのよ。そんな事を気に掛ける者なんてここにはいないもの」エカテリーナの苦笑。
そうした仕草ですら只管に絵になる為、リーリャは呆けるしかない。
帝族は厳密には魔人族である為、人間種ではないものの、外観上の差異がない事から帝国では問題視されない。
第一に、帝国の国是である人間種の優越という言葉自体が徹底不可能である事が大きい。
種族が無数とある世界だが、その全ての種族が大きな外観的差異を備えている訳ではなく、混血によって外観的差異がより小さくなった者とて多数存在する。皇国では各系統の混血種とされ、更に混血化する事で一定の魔力量と膂力を下回り、外観的差異が消滅していた場合は人間種という分類が成されていた。無論、成した子供が先祖返りする事でそれらの特性を獲得した場合、家族内で種族が違うという事も珍しい事ではない。
帝国政府は認めていないが、純粋な人間種など、そもそも世界には極少数であるというのが近年の研究結果で判明している。
「その、不思議な事で驚いています」
国是と御考えが乖離しているのでは?とは問わない。そうした問題を突き付ける無礼をリーリャは弁えていた。返答に窮する質問を投げ掛ける危険は常に肝に銘じる必要がある。
そもそも、狂瀾の質を持つエカテリーナの機嫌を損ねる事自体が、より直接的に自身と近しい者への生命に関わる問題である。
「旧〈エカテリンブルク王国〉辺りには、意外とそうした種族が多いのよ」
「それは……その様なことが……」
エカテリーナの言葉にリーリャは驚きを見せる。
リーリャ自身は、代々帝国東部のユーリネン伯爵領の出身の一族出身であるが、帝国東部には迫害を逃れてきた種族も多い。皇国への亡命は経路が限られており、そうでないならばエルネシア連峰を越える必要がある。そうした中で人口の希薄な帝国東部に逃れる事は合理的な選択と言えた。
「帝国に併合される事になって皇国に亡命した者も少なくないのだけど、あまり外観が変わらない者は、そもそも余り種族の違いを意識していなかったようね」
区別できない以上、人間種として扱うしかない。無理な区別は反発以上に、恣意的な弾圧や陥れに利用されかねなかった。現に帝国建国期では政敵への誹謗中傷にそうした言葉が盛んに用いられた為に大きな混乱が生じた。当然、民間でも例外ではない。
「明らかに人間種とは言い切れない者は少数に留まったから、政治に携わる者は擁護する危険性を取った」
私を含め、とエカテリーナは紅茶で湿らせた唇で独語する。
善悪を超えた事実を告げるかの様な物言いに対し、リーリャは返す言葉がない。
帝国の断種政策により更に減少した種族が相手ならば、その傾向はより強くなるこ事は自明の理であった。少数であればある程に叛乱や暴動の危険は少なくなる。
そうした政策を継続した帝国の指導者層に断言されては、恨み言の一つでも言いたくなるものであるが、リーリャは余り反発を抱かなかった。憎悪を掻き立てるには、リーリャが生まれた時点で帝国の断種政策は帝国東部以外では達成され過ぎていた。帝国東部の一部だけが例外であり続け、逆に他地方では殆ど姿を見なくなった事で種族的な話題や諍いは数える程に低下した。
それ故にリーリャは帝国への帰属意識などなく、帝国に対しては他国であるという意識が強い。帝国東部が経済的にも放置されていた事も大きく、そこには政治的にも経済的にも軍事的にも大きな断絶があり、それはもはや他国に等しい差異を生じていた。
東部で隠れ住まうリーリャにとり、帝国とは隣国であり脅威でしかなかった。
そうしたリーリャを他所に、真白き女帝は哄笑を奏でる。
「愚かなこと。滑稽極まりない」
帝国の国是に対する挑戦とも取れる発言。
だが、それは国是などという範疇に留まらない。
「ヒトがヒトたるを断じる。なんて烏滸がましいのかしら」
言葉だけを見れば、人権や人道に寄り添ったものと見られるが、そこにはヒトに対する明確な侮蔑と軽蔑の色があった。
ヒトがヒトの価値を示す程の価値などありはしないという確信。
「死んでしまえば、同じ肉塊なのに」
全ての根源。
エカテリーナの感性の根源に根差した平等性は、人道や社会性に根差したものではない。ただ純粋に構成する物質から見て例外が生じる訳ではないという化学的視点によるものであった。
リーリャは嫌悪や恐怖……悍ましさを感じる事はなかった。
乖離した美貌から発せられる人間性から乖離した平等性は、酷く無色透明であり純粋なものであった。
彼女がそう口にするのであれば、世の本質はそうなのだろうと無条件に納得してしまいそうになるナニカがそこにはある。
権威や思想とも違う他者を従わせるナニカ。
帝族や貴族、優秀性に依るところではない、他者を傅かせる無色透明の思惑。
「……しかし、立場があれば成せる事も多いのではないでしょうか?」
例え、ヒトの本質が醜悪な肉塊に過ぎないとしても、その社会的立場によって得るものと喪うものは大きく変わる。当然、生活と葬儀の質も。
ヒトはヒトに価値という値札を張り付ける事を止めない。それが社会性というものである。
「そうね。成せる事は多い。でも、本質は変わらない」
緩やかな笑みは聖母の如く思える程に犯し難いが、発せられる言葉は酷く冒涜的に思える。
「本質、ですか?」
リーリャは、今更、沈黙を選択するのは手遅れだと踏み込む。
「いかなる種族であれ命は一つ。社会的階級が上位であれば命が増える訳でもない。貴女も私も、命は一つしか携えていない」
端的な事実。
誰しもが理解できるはずの事実であるが、死から縁遠い者達は度々、その事実を忘却の淵に追い遣る。
「常に奪う立場なんて、そんなものは現世に存在しないの」
歴史を紐解けば容易く理解できる真理である。
リーリャはユーリネンから直接、教育を受けている為、そうしたエカテリーナの言葉が心理を突いていると理解できた。社会は複雑さを以て真理を覆うが、それで真理が消え去る訳ではない。
美しい雪花石膏の如き肌……薬指に残る無残な跡をエカテリーナは撫でる。
己の傷を愛おし気に撫でる姿。
そこには先程までの無色透明を覆う思慕の色があった。
「きっと私も貴方もいつか奪われる」
奪われる事もまたエカテリーナは愛している。
「私は帝族。それはきっと惨たらしいことになるでしょう」
酷く楽し気なエカテリーナ。
色香というには凄絶で、リーリャはエカテリーナの表情を直視できない。この世を惑わす類の色に、リーリャは何故か恐怖を覚えた。
破滅願望があるようにも思えるが、そこには明確な希望の色がある。酷く理解し難い形であるが、エカテリーナが奪われた先に己の望むモノがあるのだと確信している事だけは、リーリャにも理解できた。
上気した身体を冷やす為、熱を喪った紅茶で喉を潤す真白き女帝。
そして、酷く周囲の熱を奪う笑顔へと転じた。
「そう、奪われるならば、愛した男に奪われるべきなのよ」
リーリャは蒼白になる。
帝族の思慕など政争の根拠にしかなり得ない。それは歴史が証明している事であるし、それに巻き込まれた者達の末路も例外ではない。
「貴方はあの少将に奪われたいのでしょう?」
一転して年相応の笑みでリーリャへと問い掛けるエカテリーナ。傍目に見れば恋愛談に花を咲かせる乙女の姿でしかなく、リーリャからしてもそれは恋愛に興味津々の乙女の姿であった。
恐ろしいものと微笑ましいものを極短時間の内に見た気がしたリーリャは言葉に詰まる。
しかし、ただの乙女としての恋愛であれば語れる事は多い。
些か一般市井とは乖離した恋愛であったが、それは帝族という立場ほどに稀有なものではなかった。そして、最早、これまでと堂々と応じる。
「……私はもう奪われましたから」
僅かな逡巡の後の同意。
奪われた。
まさに強引な収奪であった。
「私の不幸と悲しみは奪い尽くされました。酷く強引で、狂おしいほどに優しく」
ユーリネンは父権的な部分が色濃い帝国に在っては軽妙にして柔軟な人物と言えるが、貴族でありながら人間種以外の特徴を持つ女性と手を携えるというのは並大抵の覚悟ではできない。帝国東部という見放された辺境だからこそ可能であったが、皇国侵攻への領邦軍を率いての従軍要求への同意は大きな賭けであった。
無論、拒絶という選択肢ができなかった側面もある。
ユーリネン伯爵領自体、領民の少なくない数が異種族であり、領外との交流が限定的であるが故に問題とはならなかった。
平素は領民数を正確に計測しない事で収支を隠蔽しているが、ユーリネン領邦軍の兵士の多くは異種族であった。東部辺境の他の貴族領も同様で、人間種よりも特化した技能を持つ者達の登用は軍事組織の質を向上させる為、常備軍の兵数を削減できる。
そうした領邦軍の現状を知らぬ帝国政府の要請。
領内の状況が露呈しかねなかった。
最終的に内情を知らぬ友軍とは距離を置いた位置に展開し、個別で遊撃的な性質の任務を率先して受ける事で露呈を防いだ。帝国陸軍上層部で実情を知る面々も、使える局面があると期待して黙認した部分がある。
しかし、結果は多くの生命が喪われる事となった。
降伏した者は確認されていない。
それは捕虜として扱われなかった事を意味する。
ユーリネンは酷く衝撃を受けていた。
降伏すれば帝国の内情を知れる為、或いは情報戦の一環で帝国内に波乱を呼ぶ事のできる真実の証明である為、丁重に扱われると考えていたのだ。
しかし、皇国が公表した捕虜の名目には一人として名前が記載されていなかった。或いは隠蔽されている可能性も有ったが、情報戦でその事実を以て帝国の国是の矛盾と不誠実を声高に叫ぶ利益に比べては斯くも小さい。
なれど、それは帝国東部辺境の貴族の破滅を意味する。
当然、露呈を想定した反論や証拠物件の用意も行われており、露呈した際は現地登用した者を後退戦で使い捨てにしたのだという断腸の主張が行われる予定であったが、そうした機会は訪れなかった。
仮に異種族との共存という情報が露呈すれば、帝国政府は帝国東部の征伐を必ず行うと予想された。労農赤軍との連携も模索されたが、戦力差と援軍を望めない中での抗戦という現実を前に、そうした選択肢は取れない事が明白である。労農赤軍の構成人員とて、既存の人間種優越思想に染まり切った帝国人に過ぎないという端的な事実もある。政治思想は衣類の様に容易く交換できる。しかし、日常に根差した価値観として昇華されてしまえばその限りではない。
皇国との連携も模索されたが、それは帝国東部の深い自然に隠れ住まう各種族の族長達によって否定された。
帝国東部に隠れ住まく各種族の長は皇国の声明に怯えた。
皇国は種族を問わず、多種族の揺籃を乱す輩の生存を認めない。
これをただ帝国に対する反論とするには、彼らには心当たりがあり過ぎた。
その発言はトウカによるもので、これはヴァレンシュタイン将軍による種族を問わない帝国に与した者の虐殺が議会で取り上げられた際に機先を制して擁護した発言である。
帝国政府は、処刑された人間種以外の種族を、一部の部隊が現地登用した事を確認して問題視しなかったが、ユーリネンやリーリャはその処刑された者達が領邦軍出身者であると確信していた。
その時、ユーリネンもリーリャも気付いた。
従軍した人間種以外の種族は、皇国から見れば差別主義者の片棒を担いで多種族国家の存立を脅かした存在でしかないのだ。恨み骨髄であり、帝国に人間種以外の多種族共存の理念に背を向ける者達がいるという事実は、皇国にどの様な影響を齎すか想像できない。
或いは帝国以上に排除すべき存在であると見られている可能性とてある。連携の余地がある様に見えても、使い潰された後で皇国軍を占領軍として迎え入れるならば、現地の異種族は帝国軍に軒並み狩り立てられた後かも知れない。
そうした疑念の中で、エカテリーナはリーリャを呼び付けた。
正確には陸軍の会議に部隊編制の案件で呼ばれたユーリネンの副官を、その間にエカテリーナが預かるという形であり、ユーリネンもまたそれに同意した。帝族の要求を断れるはずもなく、エカテリーナが辺境に好意的である事も猜疑心を和らげた。
しかし、部屋で二人だけの茶会となって早々にエカテリーナは、隠していたはずのリーリャの尻尾と狐耳に言及した。
窮屈でしょう。出しても構いませんよ?
リーリャは心臓を鷲掴みにされた心情であった。
どこから漏れた情報なのか。
それを訊ねる必要もあったが、何故か会話は色恋沙汰へと転じた。
「貴女は幸せ者ね。男にそれ程に求められるのだから。その幸福、手放してはなりませんよ」
心底と羨望した視線。
与えられる情報量に整理が追い付かなかった。
帝族としての幸福と女性としての幸福が重複する事は稀有であるのは容易に想像できるが、去りとてリーリャの幸福を語ったところで無謬を慰める事すら叶うか怪しい。
「その、私は生きて帰れるのでしょうか?」
直截的に問うしかない。
エカテリーナは口元を押さえて笑う。
そうした姿すらも様になっているが、造形の極致として在る為に嫉妬や羨望は感じなかった。芸術品に嫉妬しても無意味である。
そして、僅かな逡巡を見せるエカテリーナ。
驚きの仕草にリーリャは身構える。
政略に置いて国内では並び立つ者が者が居ないであろうエカテリーナが、狐相手に言葉を選択する時間を欲したという事実。
純白の扇子で頭を押さえ、エカテリーナは楽しげ答えた。
「勿論、傷ひとつ付けずにお返しするわ。私の愛する人も狐を偏愛しているの……ああ、勿論、貴方のユーリネン少将ではないわ」
貴女が気に入った茶菓子も土産にしてあげる、エカテリーナは微笑む。
別の意味で蒼白になった表情を、リーリャは冷めた紅茶を一息に飲み干して元へと戻す。尤も、当人には戻っていると認識できなかった。
「一度、狐娘を見ておきたかったの。恋敵の情報収集は乙女の嗜みでしょう?」
一般市井の娘が好いた男と一緒に居た女性を尾行するのとは訳が違う。恐らくは情報を司る者達による組織的な尾行や人間関係の洗い出し、金銭状況の確認をエカテリーナは指しているという気がリーリャにはした。
しかし、中々、難儀な相手に思慕の念を抱いていると思わざるを得ない。異種族への理解がある事は、思わぬところで味方を得たという喜びもあるが、その相手が帝国の一般的感性では酷く忌避される行いをしている事実には返答し難いものがある。
「いいのよ。激励も御悔やみも不要よ」
リーリャの心中を察し、苦笑を零すエカテリーナ。
返答し難い事を口にしているという自覚からのものである事は疑いない。
「それよりも、貴女の気にしている事を先に確認しておきましょうか?」
何時までも本題に入れないのは困るものね、とエカテリーナは言い重ねる。
自身が気に掛けている事よりもエカテリーナが重要視している本題に対する興味と恐怖もあったが、自ら疑問を答えてくれる中で話を遮る心算はリーリャになかった。
「私は貴女が狐系種族だと知っていて、ユーリネン少将の性的嗜好も知っている。そして、東部辺境にかなりの種族が隠れ住んでいる事も」
かなりの精度で把握しているであろう事が、語られる言葉の端々から理解できたリーリャは相当数の内通者がいる事を確信する。
東部辺境の風俗や風習、人間種との関係などへの言及まであり、リーリャは下手をすると東部貴族よりも帝国東部を取り巻く情勢を正確に把握しているのではないかと思えた。
「私は東部の現状を理解している。それは何故か?」
核心に触れる。
内通者の名が出てくるのかと、リーリャは身構える。
しかし、事実はそうした程度のものではなかった。
「祖母が望み、それを為したのは私の母なのだから東部に多くの種族が隠れ潜んでいる事を知らぬ筈がないのよ」
東部の現状を祖母と母によるものだと、エカテリーナは断じる。
そして、それは自身が継承した路線でもあると、エカテリーナは囁く。
国是に背く行為である。
それを為すだけの理由がエカテリーナと母にあるとは、リーリャには思えなかった。
その経緯をエカテリーナは語る。
「かつての〈エカテリンブルク王国〉は、種族や民族などという面倒は放置する国家だったの。度が過ぎた時、同じ種族や民族から出てきた良心的価値観を持つものが、手段を問わずに掣肘する。そう”演出”する事で一部の利益や不利益が過ぎたるものとならない様に調整する統治が成立していたの」
良心的価値観を有する者を用意するのは国家側であることは疑いないが、一部の過激派をその共同体内の者が対処するのであれば、国内勢カ図の天秤は過激な変化とはなり難い。自浄作用の演出を称賛する事で、その共同体事態への非難や攻撃を避け得るからである。
優れた内政手腕を前提とした方法であるが、少なくとも国内での種族や民族対立を緩和できる方法の一つであった。
「元は軍事通行権を与え、貢進する事で生き永らえていた王国なのだけど、それは既に祖母の代で限界に達していた」
リーリャの知る歴史とそれは変わらない。
〈エカテリンブルク王国〉はその後、帝国に併合される事になる。
「でも、そこに住まう幾つも種族を見捨てる真似は祖母にできなかった」
非公式ながら国政での決断で問題が生じないかの遣り取りは頻繁に行われており、多くの種族は協力的であった。そうした国民達を見捨てる判断を祖母はできなかったのだと、エカテリーナは語る。
「だから併合政策が進む前に種族の多くを東部に逃れさせた」
リーリャは首を傾げる。
多くの種族が東部に逃れてきた時期は一致しているが、その故郷はかなり広域に分散していたと記憶していたからである。
「あの、南部の方はあんまりいらっしゃらなかったと思うのですが……」
「露呈した場合、皆が南部からの移住者だと知れては事でしょう? 其々が偽りの故郷を事前に決めていたの。貴女の様子だと、皆は律義に守り続けていてくれている様ね」
当時の帝国軍に対抗できる国家は少なく、旧〈エカテリンブルク王国〉の背信が露呈すると、武力による関係者の殺戮に転じかねないという懸念はリーリャにも理解できる。
「逃避行は河川を利用して極短期間で行ったと聞いているわ。皆がエスタンジア経由で皇国に逃れた様に偽装をして、東部貴族には相当の資金を与えて黙らせた」
拒否はできない、とエカテリーナは笑う。
人口の少なさが発展への最大の障害となっていた帝国東部からすると種族や民族という理屈よりも労働者が必要であった。挙句に資金提供まであるなら口を噤むという決断は不思議ではない。
確かに未だ帝国東部は深い森に覆われた未開の地であるが、この三〇年で少なくとも領都は体裁を整え、湾岸部には小規模ながら各所で港町が出来上がっている。高利貸しすら寄り付かない辺境で資金の出どころに対する疑問がリーリャにはあったが、それは旧〈エカテリンブルク王国〉の資産であった。
――そうか、短期間で作れば予算に齟齬が生じるし、労働力も外から迎え入れないといけなくなる。領内の人間で細々と長く作業して資金が可能な限り領内に還流するようにしたんだ。
当然、それだけではなく、領内の産業育成や保護を念頭に置いてもいたが、それはリーリャの専門外からの視点である。
「その東部貴族の方々は子孫に語り継ぐ事もしなかったのですか?」
「事実は沈黙を以て守られる。そうした選択をした貴族は多いはず……その様子だとユーリネン伯爵家でも継承されなかった様ね」
ユーリネンに秘密にされていたのだろうかと考えたリーリャを安心させるように、エカテリーナは補足する。
「そうして東部に逃れた者達の中にはエカテリンブルク王国の間諜として勤めを果たしていた者達も数多くいたの。当然だけど、人間種より優れた身体能力を買っての人選よ」
その先はリーリャにも理解できた。
そうした間諜との繋がりは消えず、未だその組織を継承して活動し続けている者が東部に存在しており、エカテリーナの耳目となっている。
――きっと東部だけじゃない。
恐らくは、帝国各地や国外への諜報すら行っているであろう事は疑いない。亡国の亡霊を率いる事でエカテリーナは政争に必要な情報を収集しているというのは突飛な意見とは言えなかった。
「貴女達とは一蓮托生ということ。追加の資産も流してあげる。大いに発展なさい。今なら労農赤軍の混乱が全てを隠してくれるでしょう」
エカテリーナからの具体的な提案。
資産も提供されるとなれば、その額にもよるが決して脆弱な関係とはならない。投資額に見合うだけの成果と実力は要求されるが、異種族への資金提供に等しい為、一方的に不利な関係とはならない。正に互いの失脚が相手の失脚に繋がりかねないだけの関係と言える。
「では、ユーリネン少将が呼ばれたのも」
「そうよ。彼は東部で軍団の編制と運用を命じられているでしょう」
ユーリネンも無関係ではない。
軍団ともなれば、三個から四個の師団を指揮下に収める有力な戦力であった。それだけの予算と装備が陸軍から与えられれば、帝国東部は軍事的脅威に対し、相応の対応が可能となる。帝国東部を管轄する〈東部辺境軍〉という戦力は存在するが、それは司令部すら存在しない、帝国東部の治安維持を担う現地部隊を纏めた呼称に過ぎない。そうした中で一個軍団を預かる意味は大きく、周辺貴族の軍事的均衡は消え去り、ユーリネンが圧倒的優位となる。
当然、一国の軍事力と比しては比べるべくもないが、労農赤軍の侵入や数少ない街道警備は格段に容易となる事は疑いない。
「その、何故、私に? そうした話はユーリネン少将に……」
貴族として教育を受け、東部貴族の期待を一身に受けるユーリネンとの合意によって為されるべきであり、リーリャはそうした提案に合意する立場ですらない。
確かに皇国侵攻に於いて助言をしたエカテリーナと、侵攻した部隊の一部を統率したユーリネンとの遣り取りは注目を受けざるを得ない。皇国侵攻に携わった者は不利な立場に置かれているが、それ故に強い紐帯を見せて抵抗すると警戒されている。
実際、貴族閥もそうした政敵を実力で排除する力を失っている。皇国侵攻で貴族連合軍が然したる戦果を挙げる事もなく、皇国国土の染みとなった事で戦力も低下し、武威も振るわない。
政治的にも軍事的にも拮抗している。
エカテリーナはその拮抗を崩したくないと考えているのかも知れない。労農赤軍の跳梁を前に、内憂は避けたいとの意向だとリーリャは見た。
「私、恋する乙女には優しいの。それに……」
満面の笑み。
乙女が共に笑い掛ける様に。
「巷の婦女子はヒトの恋を応援するものと聞いているわ」
そうした振る舞いをしてみたかったと言わんばかりの、実際にそうであろう仕草に、リーリャは気圧される。
「それは……有難うございます?」
何を感謝しているのかリーリャ自身にも良くわからないが、確かにエカテリーナとユーリネンの間で情報共有を担う立場となれば、一層とユーリネンの力になる事ができる。それは守られるだけの立場からの脱却と言えた。
そうした部分への“応援”だと納得したリーリャだが、即答はできなかった。
「一度、持ち帰ってユーリネン少将に上申したいと思うのですが……」
「ええ、勿論よ。貴女が私から提案を引き出した、では流石に少将も警戒してしまうものね」
現状の内容でも十分に警戒されるのでは、と思うがリーリャは尻尾を押さえたまま一礼する。
そして、はたと思い出す。
「あの、その、本題とは……?」
本題の前にと前置きされた内容が余りにも過大に過ぎるので、本題への警戒をせざるを得なかった。
エカテリーナはそんなリーリャの心情など気にも留めない。
「あら、乙女の一大事よ。恋のお話に決まっているでしょう?」
満面の笑みで本題を告げる真白き女帝。
その姿は年相応のものであった。




