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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第三章    天帝の御世    《紫緋紋綾》

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第三〇三話    北部巡幸 Ⅰ





「宜しいかだと? 諄いぞ。無意味な事をしてどうなる?」


 即位の儀より三日が経過し、トウカは皇城最下層の執務室……ではなく、北部地域、グロース=バーデン・ヴェルテンベルク伯爵領、アルフレア迎賓館に居た。


 地上貫通爆弾(バンカーバスター)と終末兵器への対応を意図した改装工事を皇城に対して行う事を命令していた為、現在の皇城は多くの者が出払っており、騒音に満ちている上、警備にも問題があった。


 陸軍府や海軍府へ、という意見もあったが、両軍内にも不穏分子は存在する為、両府長官が許容しなかった。トウカは身内の内情を隠さぬ振る舞いを至誠、敬意と受け取り快諾。即位して一カ月足らずで北部巡幸に赴くという体で皇都を離脱した。


 目的は複数ある。


「しかし、使えます……不穏分子の挑発には」


「……嫌な事を思い付く」


 言い募るリシアの心情を、トウカも理解できなくはなかった。


 初代天帝の第一子たる当代天帝。


 それは二重の意味で権威を形成する。現状のトウカの権勢は軍事力を担保にしているが、それは恐怖による統治の産物でしかない。正統性は存在するが、手順や常識を足蹴に上り詰めた“実績”がその正統性に影を落としている。そうした部分の補強という意味では事実の公表は決して悪手ではなかった。


 トウカとしては、事実の漏洩は黙認するものの、公式見解として堂々と公表するのは初代天帝の利用として愛国者から顰蹙を買うという懸念を持っており、進んで初代天帝たる父との関係性に対する言及には消極的であった。


「それにアリアベルが誰にも相談しないと思うのか? どの道、七武五公には伝わるだろう」


 信じ、認めるかは別として、少なくなくない数の者が二人の会話を耳にしており、緘口令を敷いたとて完全に漏洩防止が行えると己惚れてはいなかった。軍隊に於ける完全な防諜とは存在せず、現段階で殺害する事は難しい宗教家も存在する以上、トウカは漏洩が時間の問題だと確信している。


「それ、本気で仰っておられますか?」


 心底と馬鹿にした様なリシアの視線に晒されたトウカは、部屋の隅で斬馬刀を磨いているベルセリカに視線を巡らせるが、剣聖は我関せずの姿勢を崩さない。


「少なくともあの場に居た二人の巫女は真実を知った事になります。疑う余地のない事実は宗教には最良の薬です……いや、毒薬言うべきか……媚薬かも知れませんが」


 不穏な言葉を列挙するリシアに、トウカは瞳を眇める。


 信心深い宗教家が真実を知った際、その真実が毀損、乃至望まない事を成す筈がないという視点に立つリシアに対し、トウカは寧ろ狂信者はそれすらも都合よく曲げて来るのではないかと見ていた。神々が実在を確実視されている世界と、神々が神話の世界に去った世界での宗教に対する見解に相違であるとして、リシアの意見にトウカは興味を惹かれる。


「実在する神々に背を向ける余地はない、と」


 信心は実在の存在によって担保される側面がある。大部分のヒトは現実性に乏しい存在に対する感情を長期に渡って保持し続ける程に強固な精神を有してはいない。無論、実在性こそが神秘性を損なわせる要因とも成り得る場合があり、決して一方的に優位に働くものではない事も歴史が証明している。


「天罰覿面。消極的になる事は在れど、積極的に背を向ける真似をする度胸はないかと」


 初代天帝であるが、日本でも現人神を始めとした神格化された人物は珍しくなく、当人も神々の末席に連なったと明言している為、神の一柱と見る事は不自然ではない。


「実在性からなる宗教思想の固定化という事か……興味深い」


 何も言わず、ただ微笑むだけの神像ではなく、時には神罰を与え、時には姿を見せる神々を相手に恣意的な解釈を加える余地は乏しいと言える。長い歴史の中で明確な教義の間違いには神罰を与え、是正され続けた宗教であれば、背教と不信心はトウカが知るよりも遥かに重い意味を持つ。解釈をヒトの都合で変え得る余地は乏しい。


「それに……」


 リシアが尚も言い募ろうとするが、言葉が続かない。


 何と言えばいいのか、言うべきなのか、意味があるのか、という逡巡を見て取ったトウカはリシアにしては珍しいと意外の念を露わに問う。


「何だ? 早く言え」


「…………紫水晶の瞳で見据えられるのって、臣下にとっては大きな負担よ?」


 暴君に睨まれても口が軽く在り続けるはずもないとリシアは言葉を重ねる。


 視線を向けただけで猥褻扱いされる世の中年の心情が理解できる、とトウカは口元を曲げる。無論、実情としてそうしたものではない事はトウカも理解していた。


「客観的に見て暴君だからよ。その象徴としての紫水晶の瞳……身体に悪いわ」

「紫苑色の髪を持つ女が紫水晶の瞳を恐れるか。他者から見れば滑稽だろうな」


 紫苑色の髪を以て独裁者たる天帝に侍る女性。


 その自身が言うところの独裁者の尖兵として、リシアは周囲から見られている。そうした視点を棚上げにした意見に対し、トウカはマリアベルの影を見た。都合の悪い部分を見ず、相手の非を以て全力で押し込む姿は北部で戦士階級に属する女性の業である。ベルセリカにもそうした部分はあった。


「……兎にも角にも、信頼は置けるはずよ」


 己の立場を自覚したのかリシアが話題転換を図る。トウカは不毛だとリシアの思惑に乗る。顔を背け、拗ねた横顔はマリアベルを思わせた。


 二人としては最も気に掛けている案件は別にあるが、素直に口にするだけの度胸はなかった。寧ろ、先程までの話題が次の問題に至るまでの意味のない蛇足である。問題が大き過ぎ、天帝であるトウカの預かりになった程で、そして何よりもリシア自身も失点もある為、話を蒸し返し難い。


 とは言え、トウカもリシアも放置し続ける訳にもいかないと痛感していた。


 顔を腫らせて包帯の巻かれた姿で斬馬刀を磨くベルセリカを二人して窺い見る。


「死んだ男に縋って権威を成すなど武門の名が廃る。取り敢えず、現在の揉め事を何とかすべきだと思うがな……無理だろうが」


「死んだ女の影を追い掛けてる男にそれができるのかしらね……無理でしょ」


 トウカとリシアは、応接椅子で斬馬刀を磨くベルセリカに再び視線を向ける。


 縁側で緑茶を啜る老女の如く穏やかに斬馬刀を手入れする姿からは想像も付かないが、三日前に皇都でフェンリスと凄絶な殴り合いを演じた事で紙面を賑わせた。顔の負傷はその際のものであり、ベルセリカとフェンリスは互いに違う新聞社の記者を呼び付けて勝利宣言をしている。両者一歩も引かない大乱闘であった。


「私、漏らしそうになったのだけど」


「そんな話は聞きたくない」


 皇都中央通りに於ける乱闘。


 枢密院議長として皇城へと登城するベルセリカの車列と、フローズ=ヴィトニル公爵邸に戻るフェンリスの車列が接触事故を起こしたのだ。これは警務府の調査で不慮の事故に過ぎなかったと判明しているが、ベルセリカとフェンリスが……というよりも周囲の護衛が一歩も譲らなかった。特にベルセリカの警護を務める鋭兵が軒並みベルセリカの身内……天狼族であった事で混乱は一気に加速する。


 両者一歩も譲らない衝突。


 武器を使わない冷静さはあったが、派手に殴り合わないという冷静さはなかった。


 その中央でベルセリカとフェンリスも衝突する事になる。


 両者襟首を掴んで無防禦(ノーガード)で殴り合う姿は写真に収められ、三面記事を飾る事となった。


 そこで終わるならば、事態は短期間の話題程度に収まっただろう。


 だが、そうならなかった。


 ベルセリカを救うべく皇都に駐留する皇州同盟軍部隊が急行し、フェンリスを救う為にフローズ=ヴィトニル公爵領邦軍部隊が馳せ参じた。


 結果として両軍は火に油を注ぐ結果となった。


 乱闘の規模は拡大した。


 前者側は兵数に勝り、御祭り気分で非番の将兵が逐次投入される為に終始優位であったが、フローズ=ヴィトニル公爵領邦軍も皇都駐留部隊は精鋭であり圧倒されるような無様は見せなかった。寧ろ、地の利を生かし、乱闘の中でも集団戦を忘れない姿は精鋭である事を図らずも証明する。皇都擾乱で影も形も見えなかったが、その実力だけは確かだった。


 先に皇城付の皇州同盟軍鋭兵大隊……本来は皇城に予備隊として展開するそれを率いてリシアが独断で展開。両者の間に割って入り、胡坐を組んで皇都中央大通りのど真ん中で無言の仲裁に入った。


 下手に仲裁に入って揉め事が拡大するよりも賢明な判断である事は誰しもが認める事実であるが、当人も天帝直轄戦力とされた筈の皇城付鋭兵予備大隊を独断で動員して即応した事実があり、トウカが追認したとはいえ問題視された。


 追及される事そのものを面倒……落としどころがないとしてトウカは別の大きな話題を市井に投げ込む事にした。


 皇城改修と北部巡幸である。


 皇城は歴史的遺産であり、外郭の魔術的な防弾性強化措置は頻繁に行われているが、本丸を始めとした主要部分への改修は極稀にしか行われていない。近年では一五〇程年前が最後であり、国家指導者の拠点としては歴史的な部分しか満たしていなかった。技術的、性能的な部分を重視するトウカの視点では甚だ不足している。


 対する北部巡幸は、不穏分子の蹶起を誘発するという点が最大であるが、北部で開始されつつある高速道路や鉄道路線の敷設作業の視察、各種兵器工廠建築の視察、建造開始された艦艇群の視察……無数の視察という目的があった。


 トウカが視察を行うという意味は、当然ながら作業員の士気向上などという部分にはない。士気は給金増額や労働環境の改善でも向上を期待できる為、国家指導者を動かすという程ではなかった。


 最大の理由はトウカが北部で行っている軍需を含めた公共事業への梃入れである。


 官僚や貴族による有形無形の妨害や遅滞行動に対し、明確にトウカが事業の後見の立場にあり、重視していると示す事で抑制しようとしていた。


 そうした二つの出来事を同時多発的に行う事で話題の希釈を図る。


 墨汁に水を少々加えた程度では希釈は叶わない。絶大な水量である二つの案件を以てトウカは墨汁たる二人の雌狼による乱闘を押し流そうと試みていた。


 問題と遺恨の拡大を避けるべく、全員減俸程度に留めたが、トウカとしては二人の確執が最早、狼系種族全体の問題となりつつある上に、一方に肩入れしようものならば種族間闘争に発展しかねないと警戒していた。人種問題よりも根深いであろう種族問題に肩入れする愚を犯す心算はトウカにはない。無論、駄犬の喧嘩を不毛だという心情もあった。


 序でとばかりに頭痛の種となりつつあるベルセリカとリシアを連れ立って北部へと移動したトウカ。フェンリスを相手に更なる問題が起きぬ様にする事には成功したトウカだが、当人達は問題が生じている事を問題視していなかった。寧ろ、外野が騒げば騒ぐ程に一歩たりとも引けぬと奮起するので周囲としては始末に負えない。正に面子と意地を掛けた乱痴気騒ぎである。


「捨て置くしかないか。政戦に時間を取られている今、不確定要素を加えたくはない」


「えぇ……」



 不確定要素の一つが不満の声を上げる。不敬極まりないが、それを咎める者は室内に存在しない。


 リシアとベルセリカ。そしてトウカしかいない室内での緩やかな会話。


 現在はフェルゼンの治安維持についてヴェルテンベルク領邦軍憲兵隊と会議をしているクレアも加わる事がある。ノナカやエイゼンタール、ラムケにエップという人物が姿を見せる事もあった。


 嘗ての日々が戻ったかの様な印象すらトウカは抱いた。


 しかし、現実は違う。


 フェルゼンに訪れた左派……という名の先皇の政治姿勢堅持を求める主義者達は、領民に袋叩きにされた。トウカは巡幸の先々で歓呼の声を以て迎え入れられ、予定は常に遅延を強いられている。


 前提として突然の北部巡幸であった為に方法で準備と調整が不足……厳密には皆無であった。当然の帰結として不手際からなる遅延に繋がり、それは滞在期間の増加を招く。


 トウカはそれを想定しており、関係者に“構わない”と口にはしたが、天帝を待たせてはと関係者は馬車馬の如く各所で準備に邁進している。中にはトウカの予定に余裕があると見て謁見や視察を求めて来る猛者もおり、そうした点でも不規則な行動を強いられていた。クレアはそうした中で一番負担を強いられており、憲兵隊はフェルゼン各所に展開している。


「今日もヴェルテンベルク伯を始めとした北部貴族との会食がある。剣聖の処遇と職責に不満があるなら、その場で伝えてくるだろう」


「当代のヴェルテンベルク伯への援護の中、先代シュトラハヴィッツ伯爵に騒がれる手間は避けたいところね」


 リシアが執務机に腰を下ろして苦笑する。執務室に行儀が悪いと咎める面子は居ない。


 会食と言えど無数の意味を持つ。


 特に北部はその振る舞いから長年冷遇されていた。そうした過去を持つ中での当代天帝との会話ともなれば互いに慎重になるのは当然である。その天帝が北部統合軍を指揮統率した男であろうとも例外とはならない。権力を手中に収める事で方針と思想が変わる事は歴史的に見ても珍しい事ではなかった。


 互いに相手の真意を図りかねている部分がある。


「……必要悪として北部に存在した俺が今では天帝だ」


 北部貴族がどの様な反応をするかトウカとしては想像できないでいた。


 皇州同盟軍情報部からの報告では概ね好意的であるとされているが、情報部としても天帝を相手に権力基盤を貶すが如き真似を避けた可能性もある。組織である以上、忖度の余地は常に潜む。


 ――まぁ、マリエングラムの報告書と突き合わせている以上、齟齬は少ないだろうが。


 皇城地下の最下部に位置するトウカの私室の執務机上に当然の様に置かれている報告書は定期的なものであった。北部と帝国本土に絞った情報収集を見れば、その運用が情報の攻撃的運用……つまりは他勢力の重要情報奪取に重きを置いたものであると推測できた。先代ヴェルテンベルク伯マリアベルの頃から領邦軍情報部と憲兵隊は防諜に偏重しており、北部統合軍に改編された頃から皇国内諸勢力に対する諜報と、帝国南部の諜報へと徐々に注力させてはいたが、諜報網の構築……現地反動組織との連携や協力者の獲得、現地特性の把握などには年単位での時間を要すると見られていた。


 つまり、後継組織である皇州同盟軍情報部も未だ本格的な諜報網の構築は始まったばかりの段階である。


 去りとてマリアベルは周辺貴族や帝国の動向を探ることを怠ることはなかった。


 父龍を脅威だと考えつつも、迂遠な、水面下での動きは乏しいと見て防諜を主体とし、相手を刺激する諜報を避けた。しかし、自領へと武力侵攻する公算が高い勢力への諜報は怠らなかった。


 狂信性を持ちつつも、政治目標を過たないところをマリアベルらしいとトウカは見るが、同時に抵抗を諦めないところもまたマリアベルらしくあった。


「不正を(ただ)す姿は浸透しつつあるじゃない」


 臣民はトウカの官僚と争う事を躊躇しない姿勢を、リシアが口にしたように評価している。新聞でもそうした論調が多い事はトウカも理解していた。


「……不正と戦って悪を滅ぼす事が政治だと思っている連中ばかりで困る。戦争をするように政治しても、首が回らなくなるのは目に見えているのだかな」


 リシアとベルセリカが何とも言えぬ表情をする。


 トウカはその意味を察しても尚、知らぬ存ぜぬを押し通す。トウカとしてもマリアベルの継承者と見られている以上、実情としとて肯定も否定もできない。合理性の上では否定であるが、政治基盤の都合上、肯定せざるを得なかった。


 マリアベルは戦争をするように政治を行い領地を纏め上げたが、それは多大な反発と時間の浪費を招いた。本来であれば更なる発展が望めたところを、統治機構としての脆弱性……マリアベルが忠誠心と実力を官僚に必要以上に求めた事で人数が不足して計画の多くが遅延する。建造が進み、建造期間が長期間に渡った事で陳腐化が進み放置された海防戦艦もそうした産物の一つである。後年、陸上戦艦への転用の目途と、それなりの活躍がなければ間違いなくマリアベルによる統治の問題点の物的象徴として扱われていた事は疑いない。


 発展を求め、多くの計画を同時多発的に立案、遂行するには多くの官僚と公務員が必要となる。領土と経済の拡大を求めるトウカからすると現状でも数は不足しており、問題のある者達を主義主張の為に手放す真似は極一部でしかできなかった。


 身内ですらトウカの強硬姿勢の意味を理解していない。


 ただ気に入らない相手を殴り付けている訳ではない。


 物覚えの悪い犬に芸を仕込む様に、官僚に新たな基準と常識を教え込まねばならない。過ぎたる振る舞いをする一部の者を殊更に打ち据えて、方向性を示し続けねばならなかった。官僚は放置すると関連企業や連携団体の利益を図ることに熱中し、短期的な利益のみを重視する。挙句にそれらを達成する為に行政の効率化の美名の名の下に冗長性を失わせる組織編制を平気で強要した。去りとて行政の運営には官僚の存在は必要不可欠である。


 匙加減が難しいと、トウカは悪戦苦闘していた。


 幸いにしてヨエル隷下の天翼議会による統率と、クレア隷下の国家憲兵隊の摘発が効果を発揮しているが、それは両組織の権力拡大に繋がりかねない危険もあった。


 トウカの権勢の下で、莫大な政治権力を手にできる立場に天翼議会と憲兵隊はあった。否、今この時、手にしつつあるのかも知れない。それは後世の歴史家が判断する事であった。


「これから公共事業も進めていかねばならんが、成果は直ぐには出ない」


 成果が出れば積極的に助力する者達が増える事は疑いないが、現状の経済政策で最も効果が出ているのは軍需発注であった。


 国民車輛(ヴォルクスワーゲン)高速幹線道路(アウトバーン)という何処かの自称千年帝国が試みた政策はトウカも試みる心算であるが、実情としてそれらの政策は短期的に見て経済への刺激という面では乏しかった。伍長総統と同様に、トウカも当座の経済対策は軍需発注に依存している。


 無論、軍需発注は外聞の上で見映えが悪い為、国民車輛(ヴォルクスワーゲン)高速幹線道路(アウトバーン)というものが積極的に宣伝されている。ベルサイユ条約によって軍備制限を受ける中での軍拡姿勢を喧伝できなかった千年帝国とは違い、トウカは周辺諸国に軍備の内情を知らしめる必要性はないと考えていた為であった。不明確であればより戦力を高く見積るという目算もある。実情として国防に対して


 航空優勢による過大評価をトウカは良く理解していた。


 しかし、トウカは鍵十字を掲げた独裁者よりも経済対策という面では不利な立場に置かれていた。


 実は千年帝国が本格的に失業者対策を開始する以前から失業者は減少傾向に転じていた。これは前内閣……パーペン内閣とシュライヒャー内閣から経済政策とそれに関わる官僚を継承していたからである。両内閣では短期的成果として出なかった失業者対策の効果が、後になって表面化し始めたからに過ぎない。彼の独裁者が率いる政党の功として経済復調は然したるものではなかった。


 対するトウカは先皇の経済政策を継承しない。


 北部が経済政策に加わっていないという事もあるが、軍拡を想定しておらず、重工業化に消極的である事から大部分が白紙に戻された。先皇と当代天帝であるトウカが見る皇国の将来の姿。それが余りにもかけ離れている点が政策の変更として表面化したと言える。


 だが、トウカが継承した皇国は多額の予算を擁しており、皇城府も天帝の個人資産として小国の国家予算規模の資産を有していた。


 この点、軍需発注や各種事業で予算を蕩尽し、借金と外貨収奪の為に侵略戦争を始めざるを得なくなった千年帝国とは違う。皇国は借金と外貨の為に戦争時期を強制されない。去りとて皇国北部の脅威を除くべく帝国南部に緩衝地帯を築かねばならず、それを維持する為にはまた別の戦争も必要となる。それを脅威と見る海洋国家も出現する事は疑いない。


 どの道、行き着く先は戦争である。


 なれど、過去に学ぶ余地はあった。


「内政と外征を並行するなど現実性に欠けるところだが……」


 予算上、短期的には可能であると大蔵府によって試算されていた。無論、被害と各種資源の消費を想定値に収めた場合の話であるが、戦争は敵がいるものであり、真っ先に作戦計画が戦死するものである。


 絶大なる一撃が必要であった。


「準備不足を糊塗する為の戦争犯罪だなんて御免よ?」


 リシアの心底と嫌そうな表情を、トウカは鼻で笑う。


 戦争は綺麗ごとでは済まされず、敗北後の勝者は生命だけでなく資源や資産、名誉まで奪い去っていく。それは己の死後も国家に荒廃と不信を齎す。故に勝利は必要最低限であり、勝者として収奪側に立たねばならない。


「最大の戦争犯罪は敗北に他ならない。それを避ける為ならな手段など選びはしない」


 だが、勝利の定義は天帝次第。


 無論、経済的負担の極小化あっての勝利であり、叛乱や非正規戦が頻発する様では意味がない。


 戦略爆撃で帝国の経線能力を致命的な規模で削ぎ続ければよいという楽観はトウカにはない。都市部への戦略爆撃の応酬で互いに本土を灰燼と帰しながらも戦い続けた日米という先例がある以上、戦略爆撃だけで敵国を降伏に追い込めるという幻想は抱けるはずもなかった。継戦能力を削ぐ事と継戦意思を挫く事は別である。


 トウカは立ち上がると、窓の外へと視線を向ける。


 アルフレア迎賓館の東方に窺えるシュットガルト湖その湖岸に窺える造船所や軍港には無数の艦艇が入港している。軍港が見える位置に迎賓館を建築したマリアベルの意図は砲艦外交であることは疑いないが、鋼鉄の海獣達に安心感を求めた部分もあるとトウカは見ていた。鋼鉄の巨大構造物の持つ攻撃性は絶大な安心感をも提供する。


 立地上、窺えるのは北大星洋海戦で損傷した海軍艦艇の修理と対空兵装増設が大部分であるが、聨合艦隊旗艦の戦艦〈ガルテニシア〉の姿も見えた。多数の損傷艦が出た北大星洋海戦の艦艇修理は既存の海軍造船所だけでは不足しており、皇州同盟軍軍直轄のフェルゼン造船所などにも多数の艦艇が入渠している。対空兵装の増設も並行して行う場合、生産拠点のあるヴェルテンベルク領の造船所で行うのが効率的であると判断され、主力艦の多くはシュットガルト湖上にあった。


 フェルゼン造船所は、実際のところシュットガルト湖内の島嶼やフェルゼン周辺の幾つかの造船所を纏めた呼称であり、正式名称は其々が別で有していた。それらは軍民共用の造船所としてマリアベルが積極的に整備を推進した経緯がある。自領防衛の為、或いはシュットガルト運河という通商航路保全の為の艦隊戦力の整備に加え、外貨獲得の為の他国から発注を受けた商船建造などの全てを可能とする為の巨大造船所であった。


 現在のフェルゼン造船所は、船体だけが完成している商船などを出渠させ、可能な限り海軍艦艇修理を優先している状況にある。内戦と対帝国戦役の発生前より不安定化を重く見て他国からの商船受注が控えられていた為、引き渡しが遅延して賠償問題に発展する事もなかった。


「海軍にも手段を用意できればよかったのだが。陸上の軍備ならば一年後には最低限の体裁を整えられる自信があるが、海軍はそうもいかない」


「海軍工廠や造船所が不足している中で無数の損傷艦と対空兵装の増設海軍府長官も頭が痛いでしょう」


 設備の不足は短期間で解決できる問題ではなく、挙句に国内では同時多発的に公共事業と軍拡が開始されて人的資源が急速に逼迫しつつある。民間を相手に賃金で勝負する不利は明白である為、遅延は致し方ないと見られていた。ましてや陸軍の充実が優先されている。


「実のところ海軍では用兵側も頭を抱えている。それに関しては俺も見落としていたので強くは言えん」


 トウカは苦笑を零す。


 若き天帝にとっても想定外であった軍事分野の案件があるのかとリシアとベルセリカが顔を見合わせる。トウカからすると買被りも甚だしいが、世間一般では軍神という生物は軍事に於いては神々に匹敵する総攬者と見られていた。神秘と信仰が近代を迎えて以降も芽吹く大地ではヒトが過ぎたる業を手にする事実を誰もが信じて疑わない。


 去りとてトウカは天帝の権能を継承して以降、思考は以前と比較にならぬ程に加速し、断片的な過去すらも前後の記憶を以て克明に推測できた。トウカはヒトではなく神々に近付きつつある。望むと望まざるとに関わらず。


「? 改装で対空戦闘も可能になって万々歳じゃない。挙句に弾幕射撃による効率的な防空戦術まで与えている。これ以上の不満は増長と受け取るべきよ」


「まぁ、対空兵装の問題なのだがな……搭載すると随分と速度が低下するらしい」


 戦艦で最大三Ktの低下が見られると聞けばトウカも無視できない。


 聨合艦隊司令長官であるヒッパーが苦言を呈する程の問題でもある。


 全艦艇が三kt程低下するともなれば、皇国海軍の既存の艦隊運用にすら変化を強要する問題である。トウカとしても重量増加による速度低下は有り得ると理解していたが、ここまで話が大事になるとは考えていなかった。


 海軍艦艇の主要対空兵装として採用された四〇㎜二段二連装や六五口径一二㎝二連装高角砲などはかなりの重量物である。前者は一基十二t、後者は砲塔型である場合、三五tにも及ぶ重量砲である。


 日本海軍の対空火器の多くが防弾性のない軽量砲塔であった事に対し、皇国海軍の対空兵装装備計画は米海軍が大東亜戦争時に採用していたものを意識していた。将来的に砲射撃指揮装置が電子化して電探統制射撃を行う事を見越してものである。発展性……半自動化や自動化を考慮して大型化し、航空機の高速化による旋回性能不足を見越した高出力発動機を搭載していた。砲噴火器としては製造期間と量産性を鑑みて既存の火砲の流用だが、機関砲も高射砲も陸軍部隊に配備するものと共通化している。


「数を減らしては意味がない。最終的には命中精度向上を以て火器の数を低減すべきだが、それは二〇年近い期間を要する話だ」


「主機の出力向上で対応するしか……駄目ね。そんな予算はないわ」


 最終的には予算の問題となるが、そもそも造船所と海軍工廠も不足している中で新たな主機を用意し、艦尾を切り開いて主機換装という大規模改装を追加するというのは現実的ではない。


「そもそも速度は必要なの? 機動力は選択肢の数に相関するのは間違いないでしょうけど、これから競う相手は航空騎。誤差にしかならない気もするのだけど」


「確かに必須かと言われれば、そうだが」


 リシアの自信なさげな指摘は、一理あるが航空騎のみを対象とする単純化の誤りを犯す真似を懸念しているが故のものである。


 航空母艦は高速力の必要性がある為、基本的に高速力を発揮できるように建造される傾向にある、と見られているが実際はそうではない。


 〈第一航空艦隊〉……南雲機動部隊の航空母艦〈加賀〉などは建造途中の戦艦を転用した為に速度は二七ktに留まり、商船改装によって就役した〈飛鷹〉型航空母艦などは二五・五ktである。商船改装の小型航空母艦などは空母航空戦に投入される事はなかったが、それは搭載能力と機体の大型化による発艦難易度上昇が原因であった。射出機(カタパルト)は大東亜戦争に於いて日米両軍が中期より実戦投入していたものの、二〇kt程度では流石に空母機動部隊に随伴できない為か主力艦隊に組み込まれる事はなかった。


 それらを踏まえた場合、空母機動部隊の一翼を担うには二五ktの速力が最低限必要という事になる。


 だが、海軍の任務は艦隊戦だけではない。


 寧ろ、艦隊戦など海軍が帯びる任務の極一部に過ぎない。


「そんなに遠慮する必要なんてないでしょ、独裁者様なんだから」


「そうもいかん。今迄の不遇と、神州国の動向を踏まえれば、な」


 トウカは執務机上の書類を一瞥する。


 皇国の脆弱な諜報網にすら透けて見える動きをトウカは決して軽視しなかった。









ネスさんから素敵なレビューを頂きました。


ありがとうございます。


レビューも頂いたことですし、次は近い内に投稿したいですね。


最近は仕事が忙しくなってきているので更新が滞りがちですね。しかもコロナの所為で家飲みが増えて酒と執筆の境界線が曖昧になって大変です。ぶっちゃけ尋常じゃないくらい話がそれていくんですよね。来週は仕事も戦力が増えるんで改善すると思いますが、問題は酒ですね。


まぁ、あと一つストック在るんですが、挟むタイミングにちょっと困っている感じです。



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