第三〇一話 二人の桜城 Ⅲ
「頭が痛いわ……」
リシアは大いに呻く。
トウカとトウゴ。
初代天帝と当代天帝の会話は衝撃の連続であり、リシアとしてはは何処から思案すれば良いのか判断し難い程である。戦略次元や国家次元、否、世界次元の案件が語られたが故に、整理し難い規模であった。歴史の定説が覆る部分が無数とあり、宗教の教義すら変更を強いられかねない事は表面上の理解だけでも容易に察せる。
隣に立つアリアベルが飽和状態で口を開けたままに立ち尽くしている姿を見れば、宗教的影響が絶大なるものがある事は明白であった。教義は覆る。しかし、それは一声で忽ちに覆るものではない。相当の苦労と根回しと犠牲があって成される非効率なのだ。
「貴女は慌てないの?」
リシアは然したる動揺を見せないクレアに探りを入れる。トウカが事前に自らの事情を伝えているのでは、自らが窮地に追いやられるとの焦燥からであった。
「愛しいヒト、その事実が変わる訳ではないですから」
「……貴女、女をあげてきたじゃない」
トウカ不明の日数の大部分を共にしていたであろう内に何かしらの進展や心変わりがあったであろう事は疑いない。赤心を示した自身ではなく、明らかにヨエルの紐付きと思しきクレアを頼った事を詰りたい心情であったリシアだが、それが偶然の産物であろうとは推測できた為に引っ叩く様な真似はできなかった。
「恐縮です、ハルティカイネン大佐」
清楚可憐な仕草で微笑んで見せるクレアに、余裕を見たリシア。
――まぁ、それなりに関係も進んでるのでしょうね。
取るに足らないと考えていた相手が好敵手になりつつある現状を、リシアは溜息と共に迎えるしかない。仔狐は去り、代わりに浅葱色の妖精が舞台へと躍り出た。トウカを取り巻く人間関係に於いて、リシアは相応の位置を占めるものの、主導権を得られずにいる事は自覚している。
二人の天帝が会話する中、リシアとクレアも意見交換という名の腹の探り合いを繰り広げる。対象的にアリアベルは沈黙しており、宗教的権威の思うところはリシアも気にする部分であった。錯乱してくれたならば殴り倒してヒミカ共々退場させた上で、後にそれらしいトウカに有利な事実だけを伝える事も叶うが、沈黙ともなるとその胸中すら見えないので判断に余る。
クレアも同様の事を考えたのかアリアベルへと視線を巡らせている。
宗教の暴走が始末に負えない事は歴史が証明している。
神託を受けた、或いは覚醒したなどと騒乱を巻き起こす宗教家は歴史書の染みとして散見される。宗教とは軍事常識や政治常識の通じない存在に他ならない。故に派手な騒乱に陥る事は歴史的に見て珍しい事ではなかった。これを脅威と見るのは、リシアやクレアの立場からすると当然の防衛意識である。
「……署名とか貰えたりしないでしょうか?」
酷く軽率な意見が口から零れ落ちる姿にリシアとクレアは安心する。序でに天霊神殿凋落の理由の一端に触れた気がして何とも言えぬ表情に転じた。
二人の天帝の会話は酷く規模が大きく、世界を左右する内容が少なからず含まれている。
「結局、御前は儀式と御節介の為だけに姿を見せた訳か……」
「そうだ。神としての願いなどない。御前が在るが儘に振る舞えば、神代の世は再び訪れる」
科学技術と魔導技術の進歩によって神々の領域は蚕食され、世界の神秘と幻想は次々と白日の下に晒されている。それに伴い信仰は陰る一方。
そうした中で再び神々の時代が訪れるとは、リシアには思えなかった。
「その割には、俺の行動への苦言が多い気もするが」
「そこは父親としての忠言だよ」
父と神という二つの立場を使い分けるトウゴの姿に、リシアは都合よく階級や立場を使い分けるトウカの血縁であると納得できた。
温厚に見えるが、トウゴもまた瞳に狂気が滲む。厭世的に見えても、トウゴの実績を見れば決して温厚なだけの主君ではなかった。トウカの様な直截的な苛烈さではなく、水面下での蠢動を以て施政を思う儘に誘導する怖さがある。温厚なだけでは建国と繁栄は得られない。
「石器時代からやり直す事を求めていると? 四度目の大戦を棍棒で行う事を求めていると?」
「酷い誤解だな。……いずれ神と共にヒトは歩む事になる。目に見える世界など僅かなのだから」
抽象的な物言いを、トウカは気のない返事で迎える。
理解できるのか興味がないのかリシアの判断に余るが、クレアは思うところが在るのか瞳を眇める。天才ではないが秀才の頂点に位置するちであろう才女には、理解できる部分があっても不思議ではないとリシアは納得した。
二人の会話は終盤に差し掛かる。
「既に権能は与えられた。佳く国を治めるが良い」
然したる儀式的な動きはなかったが、そこには往々にして歴史的瞬間に立ち会った者達がそれを然したるものと捉えない喜劇と同質のものがあった。仰々しく理屈を付随させて重要視するのはいつの時代も後世の歴史家と物語を望む民衆達なのだ。
「私は独裁的な君主であり、自己の国家と国土を自分の意志と善き見解によって治める」
凍土の皇帝の様に、とトウカは付け加えて応じる。
トウゴは肩を竦めて、仕方のない奴め、と笑みを零す。
二人の天帝が互いに背を向ける。
歩み始める、遠ざかる二人。
しかし、トウカが不意に足を止める。
「……然様なら、御父さん」
曖昧な笑みで振り向く事もなく呟いたトウカ。その年相応の表情を、リシアは微笑ましく感じた。クレアもアリアベルも同様なのか、その表情は柔らかい。
トウゴも振り向く事はない。
「ああ……然様なら、だ。息子」
寂寥感を伴う声音で別れを告げるトウゴ。
父子にして二人の天帝は、自由気儘な会話の末に違う途を歩み始めた。
無言のトウカ背中に視線を投げ掛けるアリアベル。
一言も発さず、その背は誰からの言葉をも拒絶している。クレアやリシアもそれを察して言葉を発する事はない。
祖国の戦艦の前甲板、揚錨機に腰掛けたトウカはぼんやり艦橋を見上げている。
なだらかな傾斜を見せる前甲板と三連装主砲二基に、城郭を思わせる艦橋を持つ戦艦の姿は朽ち果てても尚、威厳と攻撃性を内包していた。皇国の戦艦よりも機能的であるが構造物が煩雑ではなく、それでいて狂気に等しい攻撃性が零れ出ていた。二人のサクラギを目にした後のアリアベルからすると大和民族の民族的気質を反映しているのだと納得できるものがある。
考える事、思う事は多いだろう。
二人の天帝の邂逅の場に居た者達であれば、トウカの物憂げな姿も已む無しと考える。それだけの影響力があった。
天帝としての権威や権勢という以上に、世界の成り立ちや神々の意向への言及があった為、事は皇国に収まる範疇ではなくなったのだ。指導者という範疇に収まらず、それは神使……天の御使いに等しいと取ることもできる。余りにも軍事作戦で屍の山を積み上げ過ぎた事を踏まえると信じる者は限られるであろうが、それ故に混乱は大きい。トウカがそうした事実を積極的に利用するならば、それだけで天霊神殿は致命的な分断に晒される事になりかねなかった。
「御姉様……」
ヒミカの不安げな表情に、アリアベルは言葉を返さない。何時までも頼られたままでは困るという問題よりも、そもそも自身の政治的視野に依存する程度の天霊神殿の体質がそのままでは困るというアリアベルの本音があった。トウカは宗教が政治舞台で台頭する事を許さないが、それは政治に疎い儘で許されるという事を意味しない。
政治は利用できると思えば巧妙に利用し、不要と見れば冷酷に切り捨ててくる。それは、此方の意思を介さずに行われる事もあり、気が付けば巻き込まれている事も有り得た。そうした事を避けるべく、政治的視野は必須であり続けている。寧ろ、一度として道を踏み外す事すら許さない人物が天帝と成った以上、政治的視野の重要性は上昇していた。
皆が見守る中、リシアが溜息と共にトウカへと歩き出す。
そしてトウカの背を拳で叩く。
「ちょっと、塞ぎ込まないでよ。上の不調や不安は下に伝播するのよ?」
「ハルティカイネン大佐、陛下は過去に想いを馳せておられるのです。一人、異界で戦う男に振り返る時間があっても良いではありませんか」
クレアがリシアに続く。
二人の女性がトウカの背後に立つ。
トウカは見向きもしない。聞こえていないのではないかと思わせる程に仕草を見せないが、溜息と共に頭を掻く。
「……祭壇は施設を建造して隠蔽する。その後、海軍艦政本部と陸軍兵器開発局の調査員を此処に送る。残骸の調査だ」
トウカが軍刀を杖代わりに立ち上がる。
男同士の殴り合いの後である為、その動作は緩慢だが危な気には見えない。細身であるが、相応に鍛えられた身体は彼が武芸に通じている事を示していた。
アリアベルは、天霊神殿最奥に有象無象の侵入を許さねばならないという事実に頭を痛めるが、拒否できる筈もない。多くの神官を納得させる必要がある。ヒミカの評判と権威に傷が付かない様に、アリアベルが尚も前に出て推し進めねばならなかった。
皇妃という降って沸いた立場は、決して天帝たるトウカに翻意を促すに役に立つものではない。
「天帝の権能を得た。大したものではないが……この演算能力と歴代天帝の記憶総攬は良いな」
トウカは優れた計画立案能力を持っているが、それは正しい情報を根拠としていなれば不可能である。当然、足りぬ部分を推測で補う技量が……特に軍事分野に関してはトウカにあるが、常人はそうしたものを持たない。そうした部分の読み違いの結果がアリアベルによる征伐軍成立であるが、当時はトウカは北部で名前すら聞かない少年に過ぎなかった。それを想定せよというのは酷である。
「歴代の天帝も詰まらぬ真似をする」
トウカの嘲笑にリシアとクレアは首を傾げる。
天帝の権能は継承の儀による後天的な特性に他ならないが、実情として不明瞭な部分も多い。適合率という形で示されるが、歴代天帝毎に大きく違う権能である為、一概にその優劣を決め得るものではなかった。トウカの口にした演算能力と歴代天帝の記憶総攬の権能に関しては基本的なもので全ての天帝が有する。
歴代天帝の中には山を砕き、海を割り、空を焦がす様な権能を有して軍勢の先陣として諸外国の侵攻を殲滅戦に近い形で頓挫させた者も居れば、絶大な広域認識能力を持ち、叛乱や不正を忽ちに認識する者も居る。生物の心を読み取る者も居れば、超常現象を招き寄せる者も居た。
ヒトからより高次の存在となるのだ。
その瞬間は、天帝資格保有者が一人、この巨大地下空間で継承の儀を行う為、不明確であったが、アリアベルは初めて継承の儀を近くで見た大御巫となる。しかし、外観的にも魔術的にも然したる変化は見受けられず、大仰なナニカがある訳でもない。拍子抜けであるが、現実に物語としての華々しさを求めるには、先の殴り合いが壮絶にして絶大な情報量であった為、アリアベルは問い掛けられずにいた。物理的に祭壇に血の花が咲いたのだ。後の清掃はしておくべきなのか、放置しても自然に復元する魔術的な仕掛けがあるのかと見当違いの事すらアリアベルは考え始めていた。
トウカはアリアベルの妄想を他所に、軍刀を腰に佩く。
「糞親父も中々に無様な真似をしているな。要らぬ甘さを見せて死んで尚、その性格は治らなかったらしい。その挙句の果てが建国戦争だった事も皮肉だがな」
「……真実を知れば歴史家が喜ぶでしょう」
トウカの言葉にクレアが追従する。
開示されては世界中が狂乱の渦に巻き込まれかねない内容が無数とある為、アリアベルとしては神祇府や政府、陸海軍、各公爵家との合議の末に開示内容を選別したいところであると考えていたが、トウカがそれを聞くとは思えない。
「あら? 有利にならない情報なんて態々、垂れ流す必要もないでしょう?」
「まぁ、そうだな。敢えて嘘を吐く必要はないが、あの糞親父の息子だと後ろ指を指されるのは気に入らない」
リシアの苦笑交じりの指摘に、トウカは然したる感慨も見せずに同意する。
初代天帝の血を引く男が即位するというこれ以上ない正統性。本来の皇国では有り得なかった血縁による正統性までもが付与された当代天帝の権威は歴代天帝の追随を許さない。
「あら? 糞親父殿を利用しないのかしら?」リシアの疑問。
それは周囲の者達にとっても同様の疑問である。アリアベルも気にせざるを得ない。
「認められない真実など意味がない。……当人が認めたくないという事もあるが」
至極真っ当な意見と、個人的な理由の前にクレアが苦笑する。
大御巫であるアリアベルと隣に立つ次期大御巫であるヒミカがそれを認めたとしても何の役にも立たないという事を示すかのような振る舞いと言葉。アリアベルにも思うところはあるが、公式見解としての開示を神祇府に要求された場合、対応に苦慮する事は目に見えている。取り敢えず、高位神官は軒並み事実を前に寝込む事になるので役に立たない事だけは確かであった。
トウカは緩やかな動作で歩き始める。
途中で、軍装の上着を受け取り、羽織るトウカ。
その左片には薄汚れた旭日旗が片外套の様に、肩章を利用して取り付けられていた。
薄汚れ、銃弾に破れた痕もある軍旗を肩にした天帝の行進。
その場の四人の少女は僅かな逡巡の後に続く。周囲では護衛の鋭兵や憲兵が慌ただしく動いている。護衛が無軌道に動く以上、その護衛が慌てるのは当然と言えた。
「どちらへ?」
「戦闘艦橋だ」答えたトウカ。
リシアがすかさず護衛に命令を出し、安全を確保しようと試みる。
巨大な背負い式に配置された二基の三連装砲塔の横を通り、損傷してささくれ立った甲板を軍靴が硬質な音を立てて進む。その姿に迷いはなく、遠い異世界の戦艦の構造を知悉しているのだと理解できた。
「護衛に先行させる必要はないぞ。損傷の程度から艦橋は無事だろう。それに放置されていた年月とは合致しない」
トウカは護衛を不要と宣う。
国家指導者としての自覚に乏しいのではないかとアリアベルも思うが、内戦では陣頭指揮を執ったとも聞く為、野戦将校としての振る舞いが未だ抜け切らないのだと納得できなくはなかった。
甲板上の名も知れぬ構造物に躓きそうになるヒミカを助けつつ進むアリアベル。
「確かに内部構造も分からぬ中で突入させても安全確保にはかなりの時間が必要ですが……」
「今日ばかりは許してくれ」クレアの困り顔に困り顔で返すトウカ。
実情として、この巨大な地下空間に敵性勢力が展開している可能性は低い。神祇府が暗殺者を伏せている可能性を考慮しての事であろうが、祭壇上で継承の儀を終えた以上、尚も害意を積極的に見せる事は宗教家にとり神威に歯向かうに等しかった。よって暗殺という手段は考え難い。無論、それはアリアベルの視点で、クレアやリシアの視点からすると軍事的に可能であるならば可能性を排除しない事は当然であった。そこには宗教家は好き勝手に解釈を捏ねるという確信があったからに他ならない。
護衛として帯同しているクレアやリシアからすると、護衛任務への妥協は許容できる事ではなかった。しかし、主君から求められては突っ撥ねる事も難しく、普段であれば強く出るであろうリシアも眉を顰めている。
そこに普段は見えぬ感情を見たからに他ならない。
トウカは艦橋を見上げる。
「ここは、この艦上は俺の祖国なんだ」
万感の思いがそこにはあった。
遠く多次元の先に在るはずの祖国が唯一、この世界で主権を持つ鋼鉄の大地。
アリアベルは言葉を失う。
この世界に於ける国際海洋法は、初代天帝の遺言を元に形作られている。
軍艦は公海上だけでなく、他国の領海、港でも旗国以外の国家の管轄に置かれず、国際海洋法上、艦内は保有する国家にと同様という扱いになる。当然、憲法や法律も所属国家のものが適用され、外洋に出た乗員にとり、乗艦とは自宅であり祖国でもあった。
軍艦は他国から主権を根拠とした礼遇と配慮を受け、国際海洋法上の条文でも他船舶とは別の法的地位を有する。こうした軍艦に対する扱いは、大艦巨砲主義時代到来以前より、大型艦が国威と権威の象徴として扱われていたからに他ならない。これにより主権免除、或いは治外法権の特権を受けていた。例え、外国港に停泊していても、領海の軍艦と等しく受入国の主権からの免除を受ける。受入国の裁判権、警察権、捜査権、臨検捜索権等……全ての管轄権に服さない。
軍艦とは海上の国家であり、様々な特権を持つ海洋の支配者なのだ。ましてや戦艦ともなれば、その頂点に他ならない。
それはこの世界でも変わらない。否、アリアベルは知らぬ事であるが、国際海洋法が天帝の遺言を元に形作られた以上、類似するのは当然の帰結と言えた。
艦橋下、開け放たれた儘に放置された艙口に手を掛けるトウカ。
少女達も後に続くしかなかった。
――懐かしい。
分家の桜守姫家当主に案内を受けて搭乗した大和型三番艦〈信濃〉の面影を思い出して、トウカは感慨に耽る。
眼前の朽ち果てた艦内神社。
大和型四番艦〈近江〉の場合、艦内神社は近江国一之宮である建部大社ではなく、近江神宮が祀られている筈であった。
大和型戦艦一番艦〈大和〉の場合、戦艦は旧国名である為、大和國一之宮大神神社を勧請するのが通例である。しかし、実際に艦内に祀られていたのは大和神社であるように艦内神社の選定基準は様々であった。
近江神宮は、近江県大津市に鎮座する神社である。皇紀二六〇〇年(西暦一九四〇年・昭和一五年)に創祀された比較的新しい神社と言えるが、戦艦〈近江〉の就役が同年であった事を踏まえると、それは互いへの権威付けとしての側面があった事は疑いない。
トウカは二礼二拍一礼を以て尊崇の念を示す。
背後で驚く気配が在る。それは首を垂れる姿に対する驚きに他ならないが、トウカは近江神宮の祭神に想いを馳せて気付かない。
主祭神は、|天智天皇(又の御名を天命開別大神)であるが、その神徳は時の祖神、導きの大神、文化や学芸、産業の守護神とされている。
御祭神である天智天皇は第三四代舒明天皇の皇子であり、皇太子として藤原鎌足と共に蘇我一族の専横を憂えて排斥し、大化改新を断行した人物である。
天智とは天の様に広く限りない智恵を意味し、その名が示す通り、大陸から脅威に晒されていた日本を、その知恵を以て進んだ中央集権国家として纏め上げた。
日本の国法典の原点とも称される近江令を制定し、学校制度を整備して国民教育の基礎を作り、庚午年籍という戸籍制度と班田収授という土地制度の制定を以て近代化を図った。最先端の科学技術を取り入れて産業振興を図り、国家の発展に邁進した人物でもある。こうした実績を以て皇室中興の祖として讃えられている。
当時の新潟県より大津宮に燃ゆる水……原油と、燃ゆる土……天然土瀝青が献上された記録が遺されており、これは日本の文献に於ける初めての原油資源の登場であり、この事からも多種多様な科学技術を重視していた事が窺えた。中でも漏刻という水時計を作り、正確な時報を以て社会生活の正確性を図った事は特筆に値すべき事で、未だに近江朝廷で時報が開始された日は、毎年、時の祖神として崇敬する時計関係者が参拝に訪れている。
そうした実績から歴代天皇陛下の中に在っても特別視され、御陵は歴代朝廷から奉幣が行われ続けている。平安時代から、忌日には政務を止め、諸大寺での法要を行う事になっており、後世に至るまで歴代天皇のなかで特別視され続けていた。
また歴代天皇の即位に当っての宣命には、必ず天智天皇に言及されるなど、皇室の歴史のなかでも特段に崇敬の念を以て遇せられる天皇であった。
そうした事実を以てトウカは天智天皇を優れた指導者であると認識していたが、今、異世界に在ってその評価は些か異なる部分も生じていた。
天智天皇は数々の実績から数多くの神徳を有するに至ったが、日本を繁栄させ、その命運を切り開いた事から開運や決断を司る神として遇された。
しかし、水時計を用いた事から時の祖神としての神徳を有する点に、トウカとしては皮肉を感じざるを得ない。
時を司る神を祀る社を内包する戦艦が、次元と時を超えて遠く異世界に座礁したのだ。
そして、トウカがその艦上にある。
「戦没した〈大和〉も姉妹が異世界で朽ちているとは思わないだろうな」
布哇沖海戦の艦隊決戦で戦没した戦艦〈大和〉は艦名が日本として特別な意味を持つ為、未だその名を継承する艦は就役していないが、〈近江〉の名を継承する艦に関しては打撃戦艦として再度就役していた。
――天智天皇か……或いは皇室の思惑が絡んだのかもな。
異なる世界の創造を神秘や幻想を用いて行うならば皇室と無関係である可能性は低い。日本の宗教……特に神道や仏教と密接に関わり、多くの祭事を取り仕切る皇室に触れずに進める事は不自然であった。文献や祭具……神話上の道具の保有に関しては皇室に並ぶ組織はない。
詮無い事、と言い捨て、トウカは艦内を進み、階段に足を掛ける。
主機が停止し、長期間放置された畜電機に昇降機を動かす電力を賄える筈もないと、トウカは移動手段として階段を選択した。日本海軍艦内は第二次世界大戦前より化学兵器防禦前提とした高度な閉鎖系を備えており、電灯以外の光源はない。現在も鋭兵達が魔術で四方を照らし出しているからこそ視界は確保されていた。
幸いにして艦橋部の艙口は総員退艦の号令があった為か開け放たれている。艦体部であれば、水密隔壁が軒並み閉鎖されているであろうが、上部構造物はその限りではない。
狭い階段を進む。
巨大な戦艦であっても、そこには戦闘艦としての機能を詰め込まれ、決して艦内空間に余裕がある訳ではない。ましてや、第二次世界大戦初期に就役した〈大和〉型戦艦ともなれば、近代化に伴って艦橋内部はより手狭になっている。特に高度な電子技術導入は建造当初に想定していなかった為、無理のある配置であった。
冷戦下に発生した欧州国家社会主義連合との軍事衝突……セイロン島沖海戦で戦艦〈近江〉が戦没した原因もそこにあるとされている。
四〇m近い全高の艦橋は階段で昇るには苦労するが、幸いにして崩落部分はなく、艦橋部に損傷個所はなかった。問題はアリアベルとヒミカが緋袴の裾を踏まぬ様に神経質になる程度のものでしかない。
第一艦橋を過ぎ、最上階……防空指揮所へと進む。
防空指揮所は露天艦橋であり天井はなく、そこからは突き抜ける様に見えて果てのある虚構の青空と、兵器の残骸が地平線まで続く光景が見えた。
最後の大戦を棍棒で戦わねばないと思わせる光景に飲まれる女性達を尻目に、トウカは朽ち果てた外壁に寄り添い、錆び付いた双眼鏡を撫でる。警戒の為に据え付けられた大型双眼鏡だが、沈没間際の時代には使用頻度は大きく低下していた。
眼下には三連装二基の主砲が最期の戦闘で指向した右舷に砲身を向けており、その姿は威風堂々。黒鉄の城と呼ぶに相応しい光景だった。無数に備えた高角砲や誘導弾発射機などを艦橋周囲に装備した姿は城郭を思わせる。
「帰ってきた、いや、俺も御前も投げ出されたというべきか」
前甲板に言葉を投げ掛ける。
沈黙した主砲塔は言葉を返さない。
過去と屈辱は決してなくならない。当事者が消え失せても、何処かの誰かが掘り起こす。利用する。トウカもまた屈辱と共に沈んだ彼女を利用しようとしていた。
トウカは左肩の肩章に通した旭日旗を取り、双眼鏡の部品へと端を括り付けた。
大日本皇国海軍にとり旭日旗は所属を示す軍旗である。
「さぁ、戦争を続けよう」
祖国は異世界にも在る。
一所懸命の志を貫徹せねばならない。
それが古来よりの武士が習わしである。
私は独裁的な君主であり、自己の国家と国土を自分の意志と善き見解によって治める。
露西亜帝国 皇帝 ピョートル1世




