第二九七話 小狐と霊都
「女の子なんだから、もっと髪に気を使わないと駄目じゃない」
リシアはネネカの髪を梳かしながら、御座なりな手入れしかされていないそれに呆れ声を零す。軍人である以上は致し方ない事でもあるが、それが通じるのは前線勤務の将兵に留まる。リシアも野戦将校であった頃は幾日も身を清める事すらない生活があったが、現在のネネカは陸軍府参謀本部の参謀将校なのだ。後方勤務の高給取りである。
トウカの恫喝?に屈して気絶したネネカは、その後、侍女達に連れ出されて風呂場に放り込まれ、リシアと侍女による徹底的な洗浄を受けた。実家の年の離れた妹の面倒を見ている様で楽しかったと嘯く侍女に、リシアとしては安堵するしかない。流石に、小水に塗れてぐずる幼女を一人で小奇麗にするのはリシアでも骨が折れた。
「申し訳ありません……」
髪の雑な扱いか、身体を洗浄されたことか悩む謝罪であるが、恐らくはそのどちらもであろうと、リシアは嘆息を以て謝罪を受け取る。
未だぐずぐずと嗚咽を漏らしているネネカに対し、リシアは致し方なし、と方針転換する。
「その服、三代前の皇女の夜着らしいわよ?」
「えぅ?」
振り向いたネネカの頭を掴んで、再び髪を梳かしやすい位置にしたリシアは、小市民の慌てる姿に笑みを零す。自身は最底辺の孤児に過ぎないが、それ故に権威というものより縁遠くて鈍いともリシアは自覚していた。
無論、孤児だけでなく、北部臣民全体にそうした傾向があるという点も理解していた。それ故に皇都に攻め入るという行為への躊躇も葛藤も乏しかったのだ。
「畏れ多いです……」
「仕方ないでしょ。貴女の軍装は洗濯中で、皇城に貴女に合う服はないのだから」
トウカが面倒を見ろと捨て置いた以上、皇城側としては最大限の配慮をせねばならず、歴代皇族の衣装というのは皇族間で下げ渡すというのは極一部を除いて問題が生じるので成されない。冠婚葬祭に纏わる衣装でもないにも関わらず、次代天帝が先代天帝の服装を纏えば困窮や吝嗇という間違った信号となりかねない。
とは言え、皇族が纏うものである以上、最上位の材質と針子によって紡ぎ出されたものである事は疑いなく、廃棄されずに保管されている。四〇〇〇年を超える歴史を持つ皇国が魔術的な措置を用いて保管を続けるのだから凄まじい数となっていた。
当然、正確に把握している者は居ない。
「権威は指導者に宿るのであって、衣服に宿るのではないわ。もし、衣服が権威を示す以上の価値を持ち始めたなら、そんな衣服は燃やしてしまうに限るでしょうに」
衣服は所詮衣服でしかない。
権威を示す衣服として扱うのは良いが、衣服自体が権威を持つ事は赦されない。衣服は纏う者を選択できないのだ。
――まぁ、小難しく考えなくても、今は土塊の皇族の夜着なんて誰も気づかないわよ。
トウカが認めている以上、少なくとも皇城内では問題は起こり得ない。起こしそうな人物が軒並み去った以上、当然である。
髪を梳かし終え、肌に香油を塗り込み始めたリシア。
リシアは私服には金銭を投じずに軍装ばかりを纏っていたが、それは軍装を好んでいたからで身嗜みに気を払わなかったからではなかった。そうでなければ取り回しが不便な長髪を野戦将校であるにも関わらず維持しようなどとは思わない。
「せっかく綺麗な髪なんだから、手入れしないと勿体無いじゃない」
「軍務に忙しいので……」
至極正当な理由に見えるが、リシアからすると時間配分を上手くできない者の言い訳に過ぎない。何より後方勤務であればこそ、外観はより大きな部分を占める。参謀職などは外部との折衝も多く、前線勤務の者達の様にある程度の黙認がある訳でもなく、可能な限り身嗜みを整えて応じるべきであった。貴族出身者などは服装を始めとした身嗜みや所作で相手の力量や出身、立場などを図ってくる場合もあり油断はできない。
建前は色々と存在し、リシアも皇都で勉学に励んでいた頃はそうした部分を表には出さずとも注意していたが、今となっては本音を隠す必要もない。
「莫迦ね。軍務で乙女の在り方の全てを遠ざけないといけない程に皇国は追い詰められてはいないわ。少々の装飾だって許されているのでしょう?」
領邦軍を前身とする皇州同盟軍は服飾規定が特に緩いが、皇国陸軍も諸外国から見た場合、かなり緩いと分類できる。種族的な差異から各自で軍装に手を入れねばならない事も多いという点もあるが、最大の理由は封権制度の残照であった。華美な軍装を纏い、戦列を成して戦う時代から服飾規定が未だ脱し切れていない。魔導障壁による破片効果の局限化は未だ一部で戦列の余地を残し、貴族が立場を示す為に基準とは逸脱した象意を選択する場面もあった。
魔導の神秘で己を守り、華美な軍装で軍旗を掲げて友軍を鼓舞する。
トウカの到来によってそうした軍人文化の一種が喪われ始めていたが、少なくとも少々の装飾程度は未だ黙認されていた。トウカ自身、服飾規定から逸脱した鞍型の軍帽を愛用しているという引け目があるともリシアは見ている。自前の軍刀持ち込みは他国でもよく見られるので誰も気には留めなかったが。
「前線の将兵が血涙を流す中で、浮ついたように見えるのは……」
「風評に差し障る? 莫迦ねぇ」
リシアからすると風評というものは必要な時に上手く扱えばよいもので、平素より相手にし続けては疲弊を招くものでしかない。風評に左右される程度の産物など気に掛けるほどのものではなかった。マリアベルがそうであった様に、リシアもまた風評程度で御破算になる物事への遠慮や配慮などは、うら若き乙女が時間を費やす価値のある程のものではないと確信している。
「あら? 前線の男達は貴女や私みたいな見目麗しい乙女の為に命を懸けるのよ? 寧ろ、着飾って賞賛して差し上げてこその乙女よ?」
暴論の類であるとリシアも自覚しているが、北部の佳き男性軍人は総じてそうした見栄と意地を嘯く傾向にある。付き合って応じてやる事こそが佳き女性軍人の振る舞いであった。
「それは北部だけです」
「これからこの国はそうなるのよ」
その北部地域を策源地とする者が国家指導者となったのだ。そして、トウカはそうした見栄と意地というモノを掲げて戦う者達を愛している。大変、困った事に。
「誇りなさい。慣れなさい。貴女は可愛いわ」
「はぅ……」
正面からの容姿への賞賛は経験に乏しいのか、うなじに朱を散らした姿は表情を見る迄もない。
豪奢な寝台上、背後からネネカを抱き寄せたリシア。
皇国に於ける極一般的な家庭で親の愛を一身に受け、健全な愛国心を以て軍へ志願し、身体能力には劣るにも関わらず戦野で活躍し、国防の牙城たる陸軍参謀本部の俊英として末席に加わるという美談。
当人も気付いているであろうが、純粋な実力以外の要素と期待があって進んだ立場ではない。陸軍総司令部の人事部についてリシアは詳しい訳ではないが、対帝国戦役の勃発以前までは人材確保に苦しんでいた点は広く知られている。宣伝の一種とした美談の構築を図ったとしても不思議ではない。無論、中身の可能な限り上等なものを、と動いた事は間違いなく、少なくともリシアから見てネネカは優秀な参謀将校であった。
少なくとも人事部は最善を引き当てて、実力面でも近年稀に見る人物を選択した。
トウカが危険視する程の人物を用立てて見せたのだ。リシアとしては、正確無比な人事を成した人事部は称賛に価するとも考えている。縁故人事も少なくない領邦軍の非効率を見てもいたリシアとしては慧眼と素直に称賛できた。
枯草色を思わせる金髪は、普段は纏めて軍帽に押し込まれていたのか、今は肩に掛かって艶を見せている。稲穂の群れを思わせるそれは、狐達が奉じる神が豊穣の神である事を思い起こさせた。
「……御免なさいね。怯えているとは思っていたけど、ここまでとは思わなかったの。陛下も、私も」
端的に言うなれば、北部臣民の感性を中央に持ち込んだが故の悲劇と言える。
トウカは間違いなく北部出身者ではないが、その感性は酷く北部臣民と類似している。否、更に輪を掛けて狂信性を増した人物であった。そうした者達にとって交渉であっても常に暴力という選択肢は鎌首を擡げている。古来より言葉で解決する事を放棄し続けた結果であった。勢力として小さく、意思統率を図る上で交渉という余地は往々に於いて長期化や泥沼化を招く。陣営の足並みが乱れる事も少なくなく、それ故に北部は伝統的に好戦性を以て陣営の引き締めと意思統一を行い続けていた。単純明快な攻撃的主張は耳目を集め易く、支持を取り付ける事も容易である。
それを続けること数百年。
北部臣民に根付く精神となって、それは多くの奇蹟と問題を巻き起こした。
とは言え、それは内戦と対帝国戦役を経て緩和傾向にある。一時的とはいえ、協力を実現し、双方の交流が開始されたが故であった。戦災に晒された北部復興に各種資源を投じる中、人的交流も活発となり、トウカが経済的交流を後押ししている事も大きい。経済的交流こそが相互理解を最も良く推進させるとのトウカの言は証明されつつある。同時に具体性を伴わない理想論を垂れ流す識者の主張を、過剰なまでに跳ね付ける行為もそこには付随した。
金銭の流動はヒトの流動であり、そこに高邁な理想はなく、ただヒトの営みがある。
理想論は害悪に過ぎないとすら言い切ったトウカの極論の下で、声高に現行の政策にそぐわない関係者は次々と排斥されていった。北部復興を妨害する人物であるという風評を押し付け、生じた問題に対する責任すらも転嫁する真似は独裁者の面目躍如である。
「刃物を手にして交渉するのは、まぁ北部では割とよくある交渉手段なのよ」
「それは恫喝というのでは?」
「あら? 中央ではそう言うのね」
初耳だと嘯くリシアだが、そもそも匪賊や危険生物が跳梁跋扈している為、自衛が前提の地域で民間人すら武装している危険地域の人間の精神性が比較的安全の他地域と同様である筈もない。
一つの国家として成立しているだけでも不思議な現状だが、トウカは地域間の交流を抑えた直近の歴代天帝の政策を最善ではないが落第ではないと口にしていた。その時点で既に穏当な解決は難しく、軍事力による裏付けのない儘で国内の擾乱を招けば独立問題に発展しかねない。打開への試みに消極的であった事は問題であるが、少なくとも強引な解決を図らなかった点は評価していた。
「交渉事での悲喜交々は良くある事よ。気にしても仕方ないわ」
政戦に失敗は付き物であるが、次に生かせばよい。少なくとも致命的な失敗ではなく、次の機会も期待できる……尤も、リシアは失敗とは考えていなかった。
「でも、私は色々と早合点した所為で皆様に御迷惑をお掛けしましたし……」
ネネカの酷い落ち込み様に、リシアは重症だと苦笑する。
実情として、リシアはネネカの“粗相”を気にする様な事はなかった。ベルセリカにしても同様で、共に泥臭い戦場を幾つも経験している。そうしたところを気にする事を無駄と考えていた。権威を全く気にしないが故の発想である。
ネネカを寝台に寝かし付け、毛布を掛けるリシア。
孤児院で年下の者達に幾度となくしたが故に手慣れた手付きに、ネネカは為されるが儘であった。慈母の手の如き仕草というには、些か雑である事を自覚しているが、リシアとしては孤児院の腕白の相手ばかりであるが故に上品な振る舞いを知らない。
寝かし付けたネネカの頭を撫で、リシアは囁く様に告げる。
「非公式だけど、陛下との会食があるわ。……大丈夫。私も居るから」
拗れた儘では職務に支障が出る。トウカにもネネカにも。
早々に排除するという可能性は低いが、トウカの長所でもある軍事分野に於ける優位性を最大限に発揮する努力を怠る訳には行かない。政治的に不安定であるが故に、軍事力の陰りは許されなかった。
「はい……頑張ります」
眠気に誘われて意味を理解しているのか否か、ネネカは曖昧に頷く。
「という訳だ。諸君。護衛を宜しく頼むよ」
トウカは、整列するザムエルと装甲兵達に対して軽妙に話し掛ける。
権威を損なう行為だと、背後に控えているエップが眉を跳ね上げている事は容易に想像できる。しかし、更に横に当然の様に並ぶ野太い音源を抑える事に注力しているのか、指摘は飛ばない。
陸軍府長官であるファーレンハイトに命令し、装甲教導師団の一部を召集したトウカは、皇都郊外の陸軍駐屯地に整列する二個装甲大隊と一個装甲擲弾兵大隊、一個対空戦車大隊、一個輜重大隊からなる部隊の整列に応じている。
閲兵するという公式発表が成されているが、唐突なものであり疑念を抱いた者も少なくない。
しかし、ラムケが大音声で昨晩から士気向上の為に願い出たと駐屯地内で触れ回った為、額面通りの閲兵と受け取っている勢力も少なくない。これは、陸軍情報部による提案で、ラムケの普段の素行……直截的な物言いと謀略とは無縁と思える性格からある程度の擾乱を期待できるとの事である。
トウカとしては、当人の為人でそうまで擾乱されるものかと疑問を呈したが、陸軍情報部からは、その程度の擾乱であっても当日に周辺に潜伏する間諜を漸減できるならば行うしかないという返答が成された為に納得するより他なかった。予算増額が成ったとしても、専門職を主力とする組織は急激に拡大できる訳ではない。防諜を行う情報部員の負担を減じ、密度を増すには欺瞞や擾乱で要所に投射される“敵戦力”を減少させる必要がある。幸いにして、常態的な予算と人員の不足に悩んでいた皇国軍の各情報部は、そうした防諜に於いて局所的優位を確保する手腕に馴れていた。
「ほぅ……」
トウカは雄々しい姿に感銘を受ける……訳ではなく、その優れた装甲戦力を保持する為、他の装甲部隊の充足率の改善に響いている事に対策が急務だと強く意識した。各地で増産を可能とする為、軍需工場が新設されているが、少なくとも年単位の計画とならざるを得ない。
「北部で再編中のぅ……陛下の御尊名を配したぁ装甲師団に関しては間に合いませぇんでしたが」
ラムケが慙愧に耐えぬとばかりに口惜し気な言葉を漏らす。
〈第一武装親衛軍装甲師団『サクラギ・トウカ親衛部隊』〉
書類上の記述としては、皇国語に則り、〈第一武装親衛軍装甲師団、親衛部隊『サクラギ・トウカ』《SW-Panzer-Division Leibstandarte SW Touka Sakuragi》〉という名称だが、どちらにせよ色々と痛いものがある。思春期少年特有の痛々しい言動や美学を其の儘に、一国の総統にまで上り詰めたちょび髭伍長の親衛戦力と重なるものがあった。
無任所とされているラムケだが、〈第一武装親衛軍装甲師団『サクラギ・トウカ親衛部隊』〉とは関係が深い。師団編制に当たり、関係者……運営する孤児院の出身者や出資者が数多く入隊していた。元よりマリアベルの理解者である事から領邦軍に所縁がある人物が多いという特徴を最大限に活用した依怙贔屓であるが、思想と忠誠に期待できるとトウカが北部統合軍時代に編制許可を出している。その際は大隊編制であったが、戦力拡充の必要から先んじて編制されている各大隊を基幹戦力として、聯隊や師団へと拡大させていく過程で飽く迄もトウカの護衛として編制されていた親衛大隊も、総司令部直轄として編制された戦闘団を糾合して有力な打撃戦力となった。
この辺りの編制に纏わる部分にトウカは深く関わっていないが、ラムケは精力的に親衛戦力の実戦配備を推し進めていた。親衛戦力という近代国家として儀礼以外では問題視される事も多いそれを、ラムケは騎士であるが故に抵抗のないベルセリカの同意を受けて増強し続けている。その結果が、〈第一武装親衛軍装甲師団『サクラギ・トウカ親衛部隊』〉である。
対帝国戦役に於いて苛烈なまでの勇猛果敢な姿勢と攻撃性を以て危険な任務に従事し続けた。それ故に、対帝国戦役中に運用された装甲師団の中では最大の損耗率となっていた。その代償として充足率を回復する事に苦戦しており、現在はフェルゼンを策源地として、募兵と演習にて再建途上にある。
その関係者が何故かこの場に居る。
「済まんな。まぁ、貴様を呼んだ記憶はないが?」
「おやぁ? それはいけませんなぁ。若くしてぇ、そぅ物忘れが激しぃとはぁ」
過大な仕草で主君を心配して見せる臣下に、トウカは「もう一度、牢屋に戻るか?」と呆れつつも苦笑する。
表面的な建前を交わし合う二人。
未だ集結した戦力が霊都を直撃すると知る者は少ない。
ラムケ自身も与り知らぬ儘で在った。
トウカはラムケの背後に佇むリシアへと視線を巡らせる。
「ハルティカイネン大佐。航空艦隊の集結は?」
近接航空支援もなく都市部へ侵入する愚を犯す真似はできない。最悪の場合、戦術爆撃による阻止攻撃を行いつつの後退戦も想定されている。
「〈第三航空艦〉が皇国中央部の三つの航空基地に分散して展開しております」勿論、実弾装備ですと付け加えるリシア。
〈第二航空艦隊〉の航空艦隊司令官を務めるオステルカンプ中将は、対帝国戦役で目覚ましい活躍をした人物である。その隷下には、トラウトロフト中佐が航空団司令を務める内戦で最多の車輛撃破を誇った〈第一八二戦闘爆撃航空団(JKG182)〉を擁し、対地攻撃を特に重視した航空艦隊として編制されていた。
「感心しない身の振り方だな、ハルティカイネン大佐」
実力と実績を若くして持つリシアであれば、諸勢力から引く手数多である事は疑いない。政治的に不安定な最高指導者に進んで傅くというのは相応の危険性を持つ賭けと言える。ただ愛を叫ぶだけとは訳が違う。
「陛下ほどではありませんわ」優美に微笑む軍装の麗人
トウカとしては分の悪い賭けではないと見ているが、近しい者達の心身を保証し得る程のものではないとも確信している。全てが喪われぬ幸運など在りはせず、既に幾つも喪っていた。
女は運を試し、男は運を賭けるものである。
ヒトの性と言えるが、自身を通して試されては、トウカとしても堪ったものではない。要らぬ重荷を増やしては首が回らなくなるという危機感がある。それでも見捨てるという選択肢を持たなかった事にトウカ自身も小さな驚嘆を覚えてもいた。
トウカは、ただ護衛の如く佇んでいたベルセリカが懐から取り出した懐中時計を手に頷いた姿を見て取り、馴染みの軍帽を被る。
既に天帝の装束が設え始められているが、例え用意されていてもトウカは軍装を纏っただろう。
トウカは軍神から天帝へと成り変わるのだ。
「現刻より作戦行動を開始する」
若き国家指導者は吐き捨てる様に命令した。
「これはまた……ハイドリヒ中将に御伝えせよ」
何を、と聞く程度の副官ではない長年の女房役は、儀礼的に隙のない敬礼を以て持ち場を離れる。
彼は〈第二重装憲兵大隊〉大隊長として、隷下大隊を統率して霊都内の治安維持に精励していたが、今この時までは大過なく任務を果たしていた。天霊神殿側は協力的であり、元より宗教都市でもある為、犯罪率も極めて低い。宗教の適切な運用が犯罪に対する抑止力として機能する事は警務活動に携わる者であればだれもが知る事実である。無論、宗教の持つ狂信性も例外ではないが。
しかし、その安寧も終わりである。
若き天帝が軍勢を率いて姿を見せた。
天帝旗だけでも理解できるが、邪を祓う旭光の象意を持つ旗は軍神が掲げる軍旗として諸外国にも知れ渡っていた。遍く邪悪を焼き払うと敵国の首都を空襲後に空挺降下した際、掲げられた軍旗の姿は映像となって巷を賑わせている。熾天使の掲げる軍旗に寄り添う軍神の姿は鮮烈であった。
「ハンテルレイン少佐、状況は?」
駆け足で姿を見せた上官に、彼――ハンテルレインは監視塔から見える軍勢を一瞥する。
「斯くの通りに御座います、ハイドリヒ中将」
言葉を尽くすよりも尚、視覚情報は雄弁であるという事も有るが、この浅葱色の妖精を相手に詰まらぬ見解を述べる勇気をハンテルレインは持たなかった。皇州同盟軍出身者のみならず陸海軍にもその威勢は轟いている。熾天使との関係もあるが、それ以上に皇都憲兵隊との隙のない連携や、皇都擾乱での戦術指揮、帝国都市空襲への参加などから緻密な実戦指揮に定評のある指揮官とされていた。
――精密機械の如き指揮統率……まぁ、部下としては頼もしいが……
どこか機械染みた精密性と怜悧な表情、隙のない振る舞いに近付き難い印象があった。最近ではそうした部分も大きく緩和されたが、それでも物怖じは避け得ない。
クレアは郷愁の滲む顔を以て命じる。
「来られましたね……警戒を厳とします。儀礼や仕来りは結構です」
端的な命令であるが、些か問題のある部分が含まれる為、ハンテルレインは疑問を呈する。座視して責任問題に直面する愚を犯す真似を避けたいという保身と、政治に関しては判断に余る部分が少なくないという実情があった。
「御前に馳せ参じ、報告を以て任務の継続を願うべきではないでしょうか?」
「確たる規定がある訳ではありません。それに最も高く掲げられているのは旭日旗です」
端的な指摘に対し、ハンテルレインは返答に窮する。
しかし、それが天帝ではなく軍神としての立場を優先するとクレアが取ったと判断したハンテルレインは、致し方ありません、と軍帽を被り直す。
状況のみを見て独断に近い判断でしかないように思えるが、ハンテルレインは上官であるクレアには相応の根拠と理屈在っての事だろうと尚も言い募る真似はしない。
「では、都市内の警備と神殿騎士団の監視を厳にする事とします」クレアは鷹揚に頷く。
及第点を得られたかは定かではないが、異論が返されない点を見てハンテルレインは間違いではないのだと安心する。
「私は天霊神殿の警護に付きます。〈第一重装憲兵大隊〉はそちらに回しますが、対空戦車と歩兵戦闘車は必要とあらば増援として送ります」
「了解です」
予備戦力という配慮をされたのは意外であるが、市街地での対空戦車と歩兵戦闘車は絶大な火力を提供できる。
共に仰角に差異はあるものの、共通規格の四〇㎜機関砲を搭載して量産性向上を図っていた。しかし、前線将兵にとり最も重要なのはその威力と速射性である。高い速射性を持ち、戦車の側面装甲であれば角度次第で魔導障壁諸共に貫徹できるという魅力は計り知れないものがあった。当然、その威力と速射性を最大限に活用して野戦陣地や特火点の破壊に用いられる事も多く、対帝国戦役では突撃破砕射撃などで多大な活躍をしている。
突撃破砕射撃は敵戦力目標に照準を合わせず、予め策定された地点に射撃諸元を事前準備しておき、敵を発見した場合、状況に関わらず極短時間でその地点に可能な限りの火力投射を行う。そこに存在するであろう敵戦力を確実に撃破できるであろう火力投射によって確率論の上で敵戦力を撃破する事を目的としている。
対帝国戦役中の皇国軍では中隊長に要請権があり、大隊長の承認によって実行される。戦闘行動の中では最上位の緊急性を持ち、大隊規模で成される事が多かった。これにより帝国軍の密集突撃は多大な被害を受ける事になり、軽機関銃や迫撃砲、機関砲の配備がより重視されるようになる。
ハンテルレインは、迂回攻撃や押し込まれた戦線の火消しを行える予備戦力を頼もしく思う。
本来、戦闘車輛というものは市街地での運用に大きな制限が付くが、機関砲を搭載した車輌に関しては欠点すら霞む活躍を見せる事が多々ある。急造陣地も狙撃兵も障害物諸共に粉砕してしまえる上に、装弾数と速射性がある為、戦車砲よりも扱いが容易である。迫撃砲や機関砲を装備して水平射撃をしてみせる種族も存在するが、速射性や貫徹力の一方が伴わず有効打を与えられない場面は数多くあった。
「しかし、市街地で機関砲を扱えば民間への被害も少なくないと思いますが……」
「陛下を御守りするのです。相手は大逆罪となるのですから、責任はそちらに在るとします」
単純明快な論法と言える。
君主制国家にとり生命の価値は平等ではない。天帝の生命は全てに優先される。それを成す為に少々の誤射があったとしても問題視される可能性は低い。
――だが、ここは霊都だぞ?
一般的な都市ではなく宗教に於ける聖地である。
それを理解せぬクレアではないが、そこに対する言及はない。
「では、私は準備に取り掛かります。対空警戒も怠らぬ様に」
クレアはそう言い置くと背を向けた。影の様に付き従っていた副官……アヤヒもそれに続く。
憲兵は、その任務上、政争に巻き込まれる事も多い。野戦憲兵ならば兎も角、要衝の防諜や警備に携わる憲兵であれば無関係ではいられなかった。歴史上、憲兵は政変の中で難しい舵取りを幾度も迫られ、その中で幾度も命脈を保っている。それは一重に欲心に囚われず軍法と軍務に準じて対処し続けたからに他ならない。
しかし、現在の情勢は前例のないものであった。
若き天帝は仕来りと宗教的手順を無視しての即位を経て、軍事力を背景に政策を進めている。歴代天帝、特に直近数代の天帝達とは真逆の方針と姿勢であった。反発も大きく、何より歴代天帝の勅令によって制定された法を幾つも議会を経ずに廃法にしている。
そうした点に反発を抱く者は少なくなく、相応の妥当性を伴う場合も少なくない。
無論、皇州同盟軍出身の憲兵隊にそうした者は居ないが、陸軍憲兵隊は別であった。無論、皇都擾乱などでトウカやクレアの手腕を見せつけられている為、叛意が行動に結び付く可能性は低いが、有事に他勢力に迎合、若しくは座視する可能性は捨て切れない。
天帝の権威……皇権は揺らいでいる。
軍法と軍務の正当性を示す皇権が揺らいでいるのだ。
そうした点をハンテルレインは危ぶんでいた。
北部の出身者として、トウカには感謝もあれば尊崇の念もあるが、その姿勢を危ぶんでもいた。孤立を恐れないと言えば聞こえは良いが、それは敵を必要以上に多く作る道でもある。
「さて……兎にも角にもヒトに嫌われる仕事の時間だ」
憲兵は嫌われてこそである。
ハンテルレインは何時も通り嫌われ者を務めねばならない。
自身以上の嫌われ者を護る為に。
女は運を試し、男は運を賭けるものである。
《愛蘭共和国》 詩人 オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド




