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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第一章    戦乱の大地    《紫電清霜》
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第二六話    ヴァルトハイムの肖像



 トウカは屋敷の渡り廊下を歩いていた。


 ベルセリカの部屋は母家の最奥部にあるので、ミユキの部屋がある離れからは距離があった。ミユキの部屋は一つの離れを丸々使っている為、移動には渡り廊下を使わねばならない。トウカの実家と似てはいるが、渡り廊下は凝った造りをしており、手摺に刻まれた象意も凝っていた。質実剛健の中にも女性らしい瀟洒な気配が窺える。


「ミユキ、怒っていたな……」トウカは、引っ掻かれた首筋を押さえて苦笑する。


 ベルセリカの屋敷は巨大であるものの、使える部屋は極少数であった。これは屋敷の大きさに比して居住している者がベルセリカ一人だけで、日常生活に使う最低限の部屋しか掃除していなかったからである。何百年単位で掃除されていなかった部屋を使う気にはなれない。そうした経緯があり、トウカの為に直ぐ用意できる部屋がなかった。よって、ミユキが昔使っていた部屋に居候させてもらっている。


 要するに同じ部屋で寝泊まりするのだ。


 緊張はないが、やはり何処か恥ずかしいという感情がある。無論、ミユキは何時も通り擦り寄ってくるので、その様な気分よりも微笑ましい気持ちが大きかったが。


 だが、ベルセリカに呼ばれていると告げると凄まじく怒られた。抱き付かれて引き止められるだけでなく、最後には猫の如く引っ掻かれた。初めて見るミユキの反応にトウカは戸惑う。嫉妬というものかとも思ったが、レオンディーネやリディアは示さなかった反応だった事もあり、首を傾げるしかない。身近な女性が相手だったからこそだとも考えたが、トウカの思考は痛みによって寸断された。


「ああ、痛い……」


 ベルセリカは間違いなく、傷を見ただけで何が起きたかを察するだろう。そして、自身に原因がある事も理解した上で、程々にされるが良い、と笑うに違いなかった。


 トウカは、そんなベルセリカの真意を計りかねていた。


 無論、表面上は穏やかであるベルセリカではあるが、少なくとも五〇〇年以上も生命を紡いた剣聖の思考など、二十に満たないトウカには及びもつかないものであることは想像に難くない。その意思の如何(いかん)でトウカとミユキの往く手に新たな途が出来るやもしれない。それがどの様な途か、トウカは推し量らねばならなかった。


 そして、ベルセリカはトウカを部屋に呼んだ。


 刺しで話そうと考えているという事は、トウカの猜疑心の強さを理解している為か、或いは何か言わねばならない事があるのか。


 ベルセリカの部屋の前に立ち襖に向かい一礼する。


「トウカです。セリカさん」


「……ん、おお、トウカ殿。入ってくれて構わんよ」 


 許しを得たトウカは両手で襖を開け、中へと進む。


 一段、高く作られた上座に座るベルセリカは、畳の上で火鉢を抱いて身体を温めている。動く事すら億劫なのか、片手で小さく手招きする姿は、物臭な大黒柱という趣があった。既に乙女と言うには幾星霜の時を過ぎている為、その様な些事には固執する気はないのだろう。だが、それでも尚、その優しげな微笑には艶麗な魅力がある。ミユキやレオンディーネとは方向性の違う魅力に溢れた姿は、可憐や可愛いという単純なものではなく、凛冽や高遠という言葉も滲ませてすらいる。


 ――強いて言うなら、姫武将か……


 其れこそが、ベルセリカ・ヴァルトハイムの肖像。


 レオンディーネは獅子姫と呼ぶに相応しい佇まいであったが、ベルセリカは一線を画す存在に思える。武勇を尊びながらも、正道だけでは政戦が十全に行えない事も理解しているのだろうと見当は付いた。


 それは、人の業や世の在り様を知悉しているという事に他ならない。


 トウカは純粋に怖いと感じた。


 その瞳はトウカの全てを見透かしているかのように思える。

 その笑みはトウカの全てを嘲笑っているかのように思える。

 その表情はトウカの矮小さに満足しているように思える。


 祖父と同格と感じていたが、それ以上の存在だと改めて認識する。


「もう、某を推し量る事はできたで御座ろうに。疑り深いで御座るなぁ」


「……生き難い御時世です。疑わねば護れません」


 やはり内心を悟られていたか、と顔を顰めて抗議して見せるが、ベルセリカは暖簾に腕押しと言わんばかりに緩やかな微笑を浮かべるだけだった。


「まぁ、近くまで来るが良い、寒く御座ろう」


 その言葉に、トウカはベルセリカの下まで近づくと正座する。外では月下の元、氷雪が舞っており、気温は昼下がりよりも尚、寒かった。


「何故、呼ばれたという顔をしておるなぁ。まぁ、某はトウカと刺しで色々と話したいと思っておった。(むく)れるでない。仔狐に引掻かれた価値はあると思うが、な」


「色々、ですか……?」


 つまり一つの事柄ではなく、複数の事柄について話したいという事なのだろう。思い付く事は多いが、ベルセリカがどの事柄について指しているのかまでは、トウカにも分からない。


「ミユキに何があったので御座ろう?」


「確かにありました。北部の寒村で傭兵の仕事場に遭遇したと言えば分かりますか?」


 トウカとベルセリカの傭兵という兵種に抱く印象と技能は大きく違っている。その点については、書物と自らが知る中世の歴史と照らし合わせて、トウカは理解している心算であった。


 トウカの世界に於ける傭兵とは、民間軍事会社によって高度に統制された兵士であった。大国同士による終末戦争を避ける為、民族闘争や国境線に近い地域での防衛、掃討、治安維持活動に重用され、その重要性は国軍すらも凌ぎつつある。傭兵を育成する学園都市まで大国には設置されていた。


 対するこの世界に於ける傭兵の一般的な印象は違っていた。


 傭兵とは己が肉体のみを財産とする男性が安定して就ける数少ない職業でもあった為、その歴史は非常に古く、戦闘を生業とする国軍が近代国家で形作られる以前は、市民兵、封建兵、徴集兵、奴隷兵と並んで一つの兵種として存在した。だが、学も技能もない戦闘員。無論、軍人崩れや、熟練の傭兵などもいるが、その多くは生きる糧を得る為や、己が欲を満たす荒らくれ者である。当然、道徳と憲法を順守する様な存在ではない。人身売買や略奪、強姦、虐殺などで身体と心を満たす存在。トウカの知る政治暴力主義者(テロリスト)も裸足で逃げ出すであろう残虐性を兼ね備えている事は疑いなかった。


「そうであったのか……さぞ辛かったであろうに。では、トウカはミユキを救ってくれたという訳で御座るな」


「不愉快極まりない事ですが、俺が駆け付けた時は既にミユキ以外は……」


 それは悔やんでも悔やみきれない痛恨事。傭兵の数は少なくとも五〇名だった事を踏まえると、奇襲を実行しても体勢を持ち直されて包囲、槍衾で串刺しにされる事は目に見えていたが、それでも尚、戦うべきだったのだ。


 ミユキと出逢う前であったとしても、今は護ると約束した身であり、もし過去の自分に一言物申す事が叶うならば、語彙の続く限り罵詈雑言を吐き散していただろう。当時の判断は戦術的には正しく、その様な感情を抱く事は矛盾ではあるが、今のトウカはミユキを全力で護ると誓った身であり、それを許容する事はできなかった。


「やはり外の世界に行く事を引き止めるべきだったやも知れぬ」


「……好奇心が強い仔ですから」


 ミユキは例えるならば風である。気分の赴くままに吹き荒ぶ暖かな風。風を引き止めることなど誰にもできはしない。共に在ろうとするならば、その風に身を任せるしかなかった。


「まぁ、終わったことで御座ろう。……それに、ミユキも引き摺ってはいない様子」


 火鉢を抱いたまま、重畳重畳、と頷くベルセリカ。 


 天狼というよりも、寒さに震える犬のように見える姿は、中々に笑いと愛嬌を誘うものであったが、トウカは鋼の意志を以て表情を変えない。綻びそうになる口元を引き締め、思考を切り替えて、ミユキの身に起こった悲劇に思いを馳せる。


 虐殺の現場は目撃するだけであっても、十分に心に大きな影を落とすものだった。あれ程に無残な光景を見せられては、歴戦の軍人であっても心を乱されるであろう事は想像に難くない。ましてやミユキは太平の世を満喫していた仔狐であって、それらに対する免疫と義務があるわけではなかった。唯一、救いがあるとすれば、ミユキがそれらについて思い悩んでいる素振りを見せていない事だろう。


「トウカ殿と一緒に居るのが楽しくて、過去など振り返る暇もない、か。羨ましい事であるなぁ」


 心底羨ましそうにするベルセリカ。


 一瞬、肉親を見守る様な眼差しへと変わったかと思いきや、直ぐにその瞳は他者の内心を探るものへと変わる。ミユキに対して並々ならぬ思いを抱いているのか。弟子である前に娘のような存在だと思っているのかも知れない。


「某はな、トウカ殿の瞳が恐ろしい。無論、御主がミユキを気にかけてくれている事は嬉しいが、やはりその瞳はいずれ最愛の人を退けるやも知れぬ」


「……それは、一体――」


 ベルセリカの真意を計りかねて、トウカは苛立つ。トウカにミユキを退ける理由など存在しない。存在してはならないのだ。


 トウカの紫水晶(アメジスト)の瞳は、ミユキの認識阻害を付与した札が胸衣嚢(ポケット)に仕舞われており、瞳の色は黒いままである。ベルセリカは武の英雄であり、魔導騎士としても隔絶した能力を持っている事は理解しているが、ミユキとて極めて優れた魔導の力を有している事で知られる狐種。ミユキ本人も、本気で作っちゃいました、と笑っていた事を踏まえると、かなりの上位魔術によって作成された事は容易に想像が付く。現役であり、本職の軍人でもあるレオンディーネですら気付かなかった以上、探知される事はないと踏んでいた。


 トウカの問いを遮るようにベルセリカが問う。


「傍観者でいる事はそれほどに楽しいかな、若人」


「――ッ!」


 トウカは目を見開く。


 二つの意味で驚いた。紫水晶(アメジスト)の瞳が露呈していなかった点と、それにも関わらずトウカの“一線”を理解した事であった。


 傍観者。


 それは異邦人であるトウカにとって無双の免罪符であった。この皇国を擁する世界にとって桜城・刀華とは異質な存在であり、異物に他ならない。二つが交われば、どの様な結果となるか及びもつかない以上、時代と歴史の表舞台に姿を現す心算はなかった。ミユキと共に平穏な時を過ごすことこそを最大の目的としており、ミユキの心身に影響がないのであれば、助けられる生者であっても見捨てる気でいた。


 見透かされたのは紫苑の瞳ではなく、己の異質な覚悟であった。


 ――それを笑うか、古の英雄。


 トウカは、ベルセリカに両の(かいな)を差し出す。


「人の(かいな)はこんなにも小さい……この腕で抱き止められるものなど一つしかない。そして、才能や努力によって抱き止められるものが増えるなどとは思いません。それは幻想であり幻覚ですよ」


 それはトウカにとって絶対の真実。


 愛する者を受け止め、守り、愛するその腕に変わりはない。


 努力や才能という言葉は美しいが、それらの研鑽によって紡がれた実力が奇蹟を起こすとは限らない。現世が残酷である事は、この世界に於いても歴史が証明している。


 皇国の起源はこの大陸で最古であり、建国は幾多の種族の流血によって叶えられた。人間種を含め、恐れられ、迫害され、蔑まれてきた者達によって形成された寄る辺。家族を、愛する者を、友人を護りたいという願いだけを至上として旧文明崩壊後の混沌とした群雄割拠の時代に燦然と存在した法治国家。幾多の戦火に晒されながらも、種族を越えた団結力を以てして奇跡の勝利を掴み続けた皇国は数多の種族にとって理想郷となるはずだった。


 だが、その《ヴァリスヘイム皇国(りそうきょう)》も天帝不在という矛盾によって崩壊を始めている。人の世に理想郷を築こうとする以上、何処かで何か、或いは誰かが矛盾を受け止めねばならない。


 それが《ヴァリスヘイム皇国》の全権を司る……国事行為全権統帥官たる天皇大帝。


 きっと天帝の腕は皇国の矛盾を抱き止めるために存在するのだろう。



 なればこそ……


「……私の小さな腕はミユキの為にあります」


                   ……ミユキの師であってもこれは否定させはしない。



 ベルセリカは思案の表情でトウカを見つめる。


 出方の分からない気配に応じる様に、トウカは旧き英雄と正面から相対した。









 ――これほどとは、な。難儀な男を見初めたでは御座らんか。のぅ、ミユキ。


 それが、ベルセリカの本心であった。


 諦観の海に身を沈め、それでも尚、ミユキという仔狐の為に、自身の全てを賭けて戦い往こうという点は大いに評価できた。だが、暗く澄み渡り、深淵の如き闇を湛えた眼差しは、在りし日にベルセリカが背を護った主君と同じであった。


 生き抜く為、悲願の為に他者に理不尽という名の刃を振り翳せる瞳。


 そして、ベルセリカ・ヴァルトハイムという名の英雄が最も忌避する瞳でもあった。


 護りたいモノの為に戦って闘って……その果てに何も護れず、先に勝手に散ってゆく大莫迦野郎だった主君の面影をトウカに見た気がし、ベルセリカは眼光を一層と鋭くする。


「……気に入らない、とは言わせない」


 厳しい視線に応じるかのように、トウカが静かに咆える。


 その目はまるで凍えている様で、何も考えていないかの様に静謐で、安穏で、そして闇色に彩られていた。ベルセリカが戦野で幾度も見てきた目。死を覚悟した兵士達が、狂おしいまでに凄絶な死戦の末に捕虜にされた時、兵士達の多くは、この様な目をしていた。人の心を刺し貫かん程に鋭く、無慈悲で残酷な瞳。人殺しの瞳。そして護るべきナニカの為に望んでヒトを辞めた瞳。


御主(おぬし)にとって、ミユキを除く周囲の者達は、時代を構成する要素に過ぎぬのだろうな……全てを踏み台にして幸せに、など仔狐が望むと思うか?」


「本人が望まない幸福も、また幸福には違いないはず」


 間髪入れずに切り返してきたトウカに、ベルセリカは眉を顰める。


 ベルセリカも在りし日の主君の似たような問いに、同じ様な言葉で返したトウカ。一体、どれ程までに似ておるのか、と内心で深い溜息を吐く。


 ――そして、(それがし)とも似ておる。類は友を呼ぶ、という訳か。


「某もな、多くを敵に回して、最愛の者の手を振り払って、刃を振り翳した」


 ティオジア平原会戦に於いても、それは同様であった。主君の為と戦野に赴き、奇蹟の勝利を遂げて主君の下へと駆け付けてみれば、主君はベルセリカと相対する(みち)を選択したのだ。


 当時の《ヴァリスヘイム皇国》にとって《ディクセン連合王国》は、装備に於いては勝っていたものの、その兵力に於いては大きく水を開けられていた。ベルセリカが奇跡的に指揮官を潰し、敗走させたものの、兵力自体は大きく減少してはいない。その様な状態で内輪揉めなど、新たな軍勢の到来を招く結果となりかねないのだ。


 内憂外患。


 それが、彼の時代の皇国が現状であった。


 故に、《ディクセン連合王国》軍の侵攻を受けて、離反しようと目論む人間種貴族達の旗頭となる事で、国内の不満を持つ勢力の殆どを自身の下へと集結させた。それは状況を考慮するならば、皇国を愛するが故に行動に他ならない。無論、それを悟ったのは時の天帝や三神公、そしてベルセリカだけであっただろう。


 それは、歴史の表舞台から抹消された英雄の追憶。


 ベルセリカは弱々しく首を振る。


 歴史に“もし”や“あの時”はない。故に主君と殺し合った。主君の愛国心を穢さず、皇国への忠誠を尽くす為に。


 ただ只管(ひたすら)に主君の幸福を願って振るわれた刃は、何時しか主君の首を刎ねる為に振るわれた。何という皮肉だろうかと思わずにはいられない。その様な事の為に武芸を極めたのかと、英雄は慟哭した。


 そして、主君の首を掻き抱き、慟哭すら紡ぐ事ができなくなった頃、ベルセリカは気付いた。殺す事は、愛や思慕の情を否定する事にはなりはしない。強く愛するが故に壮烈な死へと堕ちてすらしてしまう、と。


 月光の下、英雄という存在の業を理解した。英雄は誰一人愛してはならないのだ。


 唯、一人からなる無双の軍勢と呼ばれた騎士の人生は、最愛の主君の命を刈り取る瞬間の為にこそ存在したのだ。


「某は最愛の人をこの手で殺めた」


「それは……いえ、それが最愛の人の望みだったという訳ですか」


 無駄に察しの良いところが無性に腹が立つ。


 同じ(みち)を歩もうと言うのなら、トウカをミユキから引き離さねばならない。ベルセリカとて英雄と呼ばれた騎士であり、皇国という国家が必要な者を否応なく戦場へと駆り立てる程に“優しい”国家だと理解している。戦場に立つという事は、愛すべきものを護る資格を得るという事に他ならない。世の中には、愛する者を護る事すら許されない者達が多く存在する以上、それは悪い事ではないとも言える。


 英雄になるべき者は、英雄として生まれいずる訳ではない。だが、英雄になろうとした者はその時から英雄ではなくなる。英雄とは、周囲の者達に乞われて昇華する国家の生贄。そして、ベルセリカは応じた。その代償が、在りし日の主君の生命に他ならない。


「トウカ殿は、某と同じ途を歩んではくれるな……」


 ベルセリカは、天井を仰ぎ呟く。


 幾星霜の時を経ても、己の過去の傷は癒える事はない。そして長命種であるが故に、朽ちるには未だ早過ぎた。


「騎士であるが故に義と主君の狭間で、某の心は揺れ動いた。トウカ殿の心は一体、どう揺れるのであろうか」


 主君は多くの者から好かれる器を持つ者だった。主君の笑顔すら護らんとするには、ベルセリカの刃は余りにも短く、脆い。だからこそ、届かず、折れた。


 トウカは、理解できないと言わんばかりに首を傾げる。


「正義や悪に意味などありません。正義は悪であり、悪は正義でもあります。重要なのは事を成せる覚悟と能力があるか。それだけです。自身の行動の結果に善悪の定義を当て嵌めるのは、後世の歴史家にでも任せれば宜しいでしょう」


 ベルセリカは、その言葉に顔を顰める。


 正しい考え方である。だが、若くしてその心理に行き着く事が幸せかと問われれば首を傾げざるを得ない。


 正義とは、他者に振るった暴力を肯定する言葉でしかない。

 悪とは、他者に振るわれた暴力に屈する言葉でしかない。


 それを若くして知る事は、明日への熱意を失うことと同義であり、時代を動かす原動力が一つ、掻き消えるという事に他ならない。向こう見ずな熱意と狂乱の意志は、一見すると無駄にも見えるが、時に時代を動かす事もある。この世に無駄なものなど何一つとしてないのだ。


「ミユキがトウカ殿を某の下へ連れてきた理由は、その辺りで御座ろうか……」


「……?」


 疑問の表情を浮かべるトウカ。


 ――ミユキの為に心身ともに全ての無駄を削ぎ落とす、という事で御座ろう。


 それは、若者らしさを削ぎ落とすということ。

 それは、明日への熱意を削ぎ落とすということ。

 それは、個性の一部すら削ぎ落とすということ。


「自己犠牲ここに極まれり、か……難儀な男であるな」


 やはり放置する事はできぬか、と嘆息しながら、ベルセリカは、去ね、と短く告げる。トウカは、それに対して正座のまま擦り足で一歩下がると、一礼して踵を返す。


 一人となった自室で、ベルセリカは火鉢から手を離し、刀架に掛けられた愛刀を掴み取る。


「鍛練は怠ってはおらんが……再びこの刃を取る時が来るとはな」


 抜き放った異形の刃を手に、ベルセリカは静かなる戦意を燃やした。








「主様っ! お師様に酷い事されなかったですか!? 何か取られたり……純血とか恋心とかソレとかナニとか……ッ!」


 部屋へと戻ってきた愛しの主に抱き付き、何処か怪我をしていないかを確かめる。ついでに嗅覚を働かせて、変な匂いがしないかも調べる姿は、飼い主に構う小動物であったが、当の本人は気付かない。


 天狐には、この屋敷内程度なら大抵の会話は聞き取れる。特に物静かな夜間であれば確実に聞き取れるはずだった。ミユキは、狐耳をベルセリカの部屋に向けて二人の会話を盗み聞きしようとしていたのだが、そこはベルセリカが一枚上手で、部屋に砲兵用防音障壁を展開していた為、ミユキは会話を聞き取る事ができなかった。


「ああ、大丈夫だ……清くて綺麗なままだ」


 困惑と苦笑が入り混じった笑みを浮かべる主に、ミユキも一息吐く。


 ベルセリカは日頃から温厚であるが、時折何を思い立ったか、突飛な行動を取る事がある。その一番の犠牲者であるミユキとしては、警戒するのは当たり前の事であった。因みに、トウカと出逢った寒村へ赴いた理由も無関係ではなかった。


「もしかして、酷いこと言われちゃったり……?」


 トウカの翳のある笑みに気になって尋ねる。


 ベルセリカは決して悪い人物ではない。ミユキにとっては優しい師匠であるし、何よりも家出娘を黙って匿ってくれる度量を兼ね備えた姉の様な存在と言えた。ミユキのベルセリカに対する印象とは正にそれである。無論、時代の英傑であるという事も聞いてはいたものの、それは仔狐にとって重要ではない。


 座布団の上に胡坐を掻き、火鉢に手を翳すトウカの膝に倒れ込んだミユキは精一杯甘える。長年使っている自室という事もあり、気兼ねなく甘えられる。


「御師様は変わった人ですけど優しいんですよ」


「別に怒られた訳じゃない。ミユキが俺をセリカさんの下へ連れてきた理由が分かったと頷いていただけだ。中身は教えては貰えなかったが」


「――ッ!」


 もしや、とミユキは狐耳を立てる。


 ベルセリカの勘や直感が異様に鋭い事は理解していたが、これ程までとは考えていなかった。だが、よくよく考えてみれば、ベルセリカという英雄は天帝という存在を幾度も目にしている。何か通じるものがあったのかも知れない。


 ミユキは慌てた。だが、それを表に出す程、己の罪に無自覚ではなかった。


「むぅ~、御師様は卑怯ですよぅ、もぅ」


 トウカに頭を撫でられて緩む顔で懸命に考える。


 ――え~っと、御師様が主様に何も言わなかったって事は自分で何とかしろって意味かな?


 うう、意地悪です。でも、何時か気付いちゃうのは避けられないし……


 懐から取り出した櫛で尻尾の手入れを始めてくれたトウカの顔を見上げる。


「御前の師匠に、同じ途を歩んではくれるな、と釘を刺された。その様な気はないがな。あれ程の女性が唯一人の主君を護れなかったと聞いて、護る事の難しさを再確認したところだ」


 困ったと笑うトウカ。


 その様を見ればベルセリカは驚いたであろう。トウカは、ベルセリカの意図するところを正確に理解していた訳ではないが、その壮烈な過去を自身と重ねるだけの想像力は有していた。護るという想いが強すぎた故か、或いは大義を選択したのか。どのような苦悩を経たかは(おぼろ)げながらに理解できていたのだ。


「まぁ、大丈夫だろう。ミユキだけを見ていればいい事だ」


「……主様は狐誑しです、卑怯です」


 真顔で言ってのけるトウカ。ミユキははにかむ様な、それでいて困った様な表情を浮かべて応戦するが、尻尾を撫でられると、その意志は瞬く間に解け消えた。


「気持ちいです……うぅ~、こんこん」


 トウカの腕に頬擦りするミユキ。


 対するトウカは、何時もと怖らない儚げな笑み。


 絶対に譲らぬ意志をよく見せるが、時には自罰的な態度を見せるトウカの感情は、ミユキには万華鏡の様に映った。薄々ではあったが、その本質が決して優しいだけのものではないとも本能で感じ取っていた。


 無論、それでも慕う意思に揺らぎはない。


「主様は何処に行くの?」


 ふと、そんな言葉が口を衝いて出る。


 その意味を図りかねたトウカは、唯困った笑みを浮かべるだけ。


 ミユキを座布団へと座らせ、立ち上がって襖を開けたトウカ。


 夜空にはナニカが欠けているトウカと同じく、一部が欠けている月が蒼い輝きを放ち、異邦人と仔狐を見下ろしている。


「そうだな……俺も分からない……だが」


 開けられた襖から刺す様な冷気が流れ込む。


 トウカの背中越しの横顔に爛々と輝く瞳が一体、何を見据えているのか。


 遙か未来か……在りし日か……或いは。


 ミユキは、その姿に息を呑む。


 溢れる意志が気配となって、ミユキを貫く。


 トウカのそれは怒りと形容するには優しく、強い瞳であった。


 頬が薄紅に染まっているが、それは温度差の為ではない。抑えきれなくなった激情が表に出てきているのだ。何者をも圧倒する裂帛の気迫が、その恵まれたとは言い難い身体の何処から出ているのかと疑いたくなる。


 先程までの自罰的な面影は微塵も感じられない。凛とした――それでいて壮烈な佇まい。


 一挙手一動作。紫水晶の瞳も、固く結ばれた唇も、漆黒の黒髪と装束も。その全てが自身を惹き付けて止まない。歴戦の烈士でさえも心根を鷲掴みにされる程、今のトウカは気高くも儚くあった。


「御前を護る。必ず。総てを犠牲にしても」


 トウカは決して大きな声を出した訳ではない。それでも、声は不思議と氷雪舞う夜天に響いた。その表情は迫力があるというよりも、戦乙女に愛を囁いているかの様に凄艶でさえある。言葉と表情がまるで一致していない。それが酷く不気味であり歪であった。


 ミユキは唇を噛み締める。


 ――そんな顔は嫌い……


 青ざめた月光の下に佇む異邦人の背中越しには、数える気力が失せる程に突き刺さった無数の剣と、幾多の戦士達の屍が打ち捨てられた雪原が見えた。





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