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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第三章    天帝の御世    《紫緋紋綾》
308/429

第二九三話    皇城にて Ⅴ

副題 「ヘルミーネのアトリエ ~閉鎖都市の錬金術師~」




 トウカは用意されたグラスを手に取り、薫りを楽しむ。


 ヨエルは赤葡萄酒を嗜み、ヘルミーネは米酒を啜っていた。トウカが酒を勧め、二人が選択したのはウィシュケではなかった。脳裏に好みを別として相手に合わせるいじらしい浅葱色の妖精の姿が去来するが、天帝となった相手に遠慮しない様に、トウカは好ましいものを感じた。阿諛追従の輩はトウカが望むものではない。


「どいつもこいつも魔導や魔術に夢を見過ぎて困るな」


 硝子碗(グラス)を干したトウカの溜息交じりの言葉に、ヨエルとヘルミーネが何とも言えぬ表情を以て沈黙する。確たる主張が政治的に面倒を巻き起こすとの判断からであった。


 トウカは皇立魔導院に解散を命じた。


 即位に際して発布した勅令の一つであるが、嘆願書が霧雨の如く来襲して頑強な抵抗が尚も行われていた。主に皇立魔導院の影響下にある国内各地の学院の魔導科関係者を主とした嘆願書の攻勢であるが、天帝として予算編成すらも掌握するトウカの前には無意味である。嘆願書に目を通す事もない。


 現時点での前提として、来期より予算を枢密院隷下に新設した戦略技術開発本部に魔導技術の発展の方向性の指針を締めさせる腹心算ですらあった。


 一部の研究者出身の者達だけに魔導技術開発を特権として認め続ける事は国益を毀損する。研究者の視点のみで国益を左右する技術開発にまで口を挟んでいた過去がある以上、組織としての存続はトウカの発布した他の勅令との整合性に関わる。


 改革の意志を疑われる真似は避けなければならない。


 数少ない支持者まで喪えば人事上に悪影響が今以上に及ぶ。ただでさえ現状でも武断的な者が主要な立場を占めつつあり、立場を確実なものとする為に帝国への大規模侵攻を叫ぶ者までいる。現時点で航空優勢の天秤が酷く優位へと傾いている好機を根拠としているが、大抵が領土拡大を指向している為にトウカは安易に同意できなかった。


 治安維持にまで航空優勢が軍事行動の如く有効である筈もなく、叛乱が頻発するならば収支が合わない。防御縦深として望むとしても兵站に被害が及ぶ様な地域であれば費用対効果は乏しい。寧ろ、弾火薬と糧秣の不足で野戦軍が敗北を喫する危険性(リスク)を必要以上に負う事になる。


「女性に過大な夢を見る陛下に言われては返す言葉も見つからないでしょう」


「先皇と違い政策上は現実主義者で歓喜に打ち震えているだろうな」


 個人の趣味嗜好に言及されても困るというのがトウカの主張であるが、正直に口にしては過去に情を交わした女性達の名誉が毀損されるとの心情があった。無論、クレアに対する姿勢を計られたと一瞬、後に察したトウカはウィシュケを一息に飲み干す。


 話を戻して逃れる。


「兎にも角にも航空機は未だ模索段階だ。大いに試すといい。その程度の時間はある。全ては無理でも後の発展に転用できる技術は多いだろう」


 現代科学でしか成し得なかった電子的な機体制御を魔術を併用する事で成し遂げる事も不可能ではない。大系化された魔術は電子命令(プログラミング)技術に近い理論構築が成されており、精密な制御も不可能ではなかった。その片鱗は対帝国戦役で活躍した飛行爆弾から見て取る事もできる。


「防弾や空力制御、姿勢制御辺り? その辺りなら広い範囲の技術者を関わらせてもいいと思う」


「情報漏洩に気を払っている事を知った上での発言か?」


 情報漏洩よりも研究開発を重視するならば、奈辺に居る研究者と変わらないが、ヘルミーネに関しては公爵令嬢という立場がそうさせるのか国益に配慮できる。


「既に飛行爆弾は実戦投入されている」


「そうだな……」


 構造が簡単であるとはいえ、短期間で実戦配備するまでに漕ぎ付けた立役者の言葉に、トウカは悪くない手だと納得する。


 細部を詰めるには陸海軍や皇州同盟軍の情報部との情報共有を図る必要があった。


「やはり要るな。各情報部門を統括する組織が」


「揉めますよ」


 国内とは思えない程に封権政治の弊害から利害関係の激しい各勢力は、高度に独立した情報機関を有し、それを互いに向けていた。その余力を以て対外諜報に向けている状況である。天帝招聘の儀が妨害を受けたのは、そうした部分からなる防諜に於ける連携の不備によるものであった。陸軍情報部や内務府情報部などが凄絶な責任の押し付け合いを演じた事は既に一般市井にも知られている。


「控え目だな? 暗闘の舞台になると言っても構わんぞ」


 国家の情報機関全てを統率すると言えば聞こえは良いが、裏を返せば特定の情報機関が他の情報機関に影響を及ぼせるという事でもある。影響力を伸長させようと試みる動きが暗闘に発展する事は容易に想像できた。水面下での争いともなれば、トウカが感知する事も難しい。


「歴代の天帝は分散する事で情報取得の多角化と、造反時の被害軽減を意図したのだろうが、予算と人員が分散する点を軽視しているとしか言いようがない」


 明らかに諜報能力よりも内政の安定を意図した組織編制に、トウカとしては内向きの政治体制を構築しても尚この混乱か、と毒吐きたくなる。無論、国政であれども死後にまで責任を持てというのは酷であると理解はしているが、その代償を支払う立場であるトウカとしては心情として沈黙を選択し難いものがあった。北部に住まう頃より歴代天帝の政治姿勢を非難し続けているが故に躊躇も皆無である事も大きい。


「近年では指揮系統を一本化する動きもありましたが、長く組織が続くとそれを当然と考える者が多く、先皇陛下も苦労成されておりました」


 改善に向けた動きがあったと指摘するヨエルだが、トウカとしては実績に結び付いていない以上、評価はできなかった。先鞭を付けたという程ですらない動きなど在って無きが如し。


 ヨエルがトウカの硝子杯にウィシュケを注ぐ。


 黄金色……と言うには明らかに酒精強化葡萄酒(シェリー酒)の空き樽を利用して長期熟成している色。対面のヨエルが輪郭程度しか見えぬ程の濃さ。今のトウカには有り難い甘みがあった。


「閉鎖都市の造成を急がねばな。安全な研究開発の環境は現状の混乱では儘ならない」


 口に含んだウィシュケの甘味を楽しみながらも、トウカは新たな都市の造成に想いを馳せる。


 国家指導者の事業として相応しい規模と言える新都市計画だが、忽ちに建造物が生えてくる訳ではない。


 閉鎖都市とは国家機密……核開発や化学兵器、細菌兵器などの研究開発などを行う研究機関や研究者などを擁した都市である。住民はそれらに関連する研究者や軍人、技術者、そしてその家族であった。一般的な都市とは違い、城塞都市の如く出入りが容易ではない構造を持ち、出入りには厳しい制限が課されている。住民すらも例外ではなく都市外への移動には許可や行政の手続きを必要とし、他都市への転居なども例外ではなかった。


トウカはヘルミーネを一瞥する。


 芋焼酎に飽きたのか、広口の硝子杯にウィシュケを並々と注いで嗜むヘルミーネに、特段の仕草は見られない。


 トウカにとり幸いな事に、ヘルミーネは閉鎖都市に閉じ込められる事を厭う様には見えなかった。

 寧ろ、研究室に閉じ籠るヘルミーネを見かねて引っ張り出す関係者の苦労が偲ばれる案件かも知れなかった。一匹狼と言えば聞こえは良いが、狼が大自然に背を向ける様にはトウカも愁嘆の念を覚えないでもなかった。


 閉鎖都市は、その名の通り強固な閉鎖性を有する。


 都市によっては地図に掲載されず、周辺空域の飛行制限が課せられ、閉鎖都市に接続する道路を封鎖、郵便番号を都市の名称代わりに運用するなどの方法で、存在を可能な限り秘密にする。


 故に閉鎖都市は秘密都市との異名で呼ばれる事もあった。


 当然、トウカは重装憲兵隊を駐屯させる心算であったし、立地自体もシュットガルト湖上の辺鄙な島嶼で湖自体を天然の要害とする腹積もりであった。


「うら若い乙女を檻に閉じ込めるなんて……変態」


 そう言って欲しかった、と表情を変えずに問うヘルミーネ。


 トウカはそれを鼻で笑う。


 破滅的な生活能力を捨て置いた発言は言葉を返す価値も有さない。行軍中でもないにも関わらず幾日も身嗜みを整えず一室に籠り切りの者など、檻に自ら赴いているに等しい。


 研究者として世話兼護衛として二人ほど副官が付けられているのは、当人の生活能力に依るところが大きい。厳密に言えば生活能力がないのではなく、研究開発に熱中すると早々に生活や常識という部分を投げ捨てる点に問題があった。取捨選択が迅速にして苛烈であると言えば、トウカも些か自信を持っていたが、ヘルミーネのそれは方向性が違う。


「不毛な話は良い。御前も母と距離を取る根拠が与えられるのだ。悪くはないだろう?」


「でも、航空機開発は裾野が広い。一都市だけで完結できる話でもない」


 都市規模でも航空機開発の人員は追い付かない。


 各工学の研究者に設計者、部品製造や改良を担う者も居れば、部品の材料開発を担う者も居る。燃料製造の効率化や整備環境構築に纏わる関係者まで含めれば、皇国各地から莫大な数の人員を呼び寄せる必要があった。その家族を含めれば相応の規模の都市となる事は疑いなく、人員を召集する規模から秘密にし続ける事は難しい。


 しかし、トウカは閉鎖都市でそうした部分全てを抱え込む心算はなかった。


「航空機開発にとり最重要な部分は何処だと思う?」


 答えに窮するヘルミーネ。


 初めての試みである以上、全てに注力せねばならない立場と成らざるを得なかった彼女には難しい問いである。返答が露呈して回答から漏れた部門が労働意欲を減衰させるという懸念もあるかも知れない。研究者だけでなく統率者としてもヘルミーネは相応の配慮の情を持つ。抜け落ちているのは自身への配慮のみであった。


 トウカはヨエルへと視線を巡らせる。


発動機(エンジン)ですか?」


 端的な答え。


 正解である。


 本質を見極める事すら熾天使にとっては児戯に等しい。



 発動機。



 《大日連》が第二次世界大戦中に大いに悩まされた分野でもある発動機開発は、航空機にとって最重要な部品と言える。少々の無駄と欠点があれども、発動機が強力なものであれば飛行可能であるという端的な現実。軍用機であれば発動機の馬力は速度に直結し、防禦装甲や攻撃兵器の搭載量の規模に直結する。無論、可搬重量(ペイロード)も例外ではない。


「そうだ。だが、それには軽量でいて、相当な耐熱性を持つ金属素材を精密加工する必要がある」


「材料開発は容易ではないと思う」


「現状では実用的な軍用機に至るまでの道筋を付けるだけでいい……材料工学を踏まえれば、足踏みが避けられない事は認識している」


 この世界は龍という飛行手段がある為、軽量化への熱意に乏しく、構造体強化も魔術的な技術に依存している。そうした部分を取り入れる試みは当然の如く成されているが、魔術的な機構は有効化に魔力を必要とする。防御機構や空力制御にまで魔導技術を導入した場合、魔力消費は跳ね上がる事が危惧された。それを搭乗員に負担させる事は戦闘機動や長躯飛行への制限となりかねず、それに耐え得る人員や種族を搭乗員とする事は、量産兵器として使用者を選択するという相反する特性を備える事になりかねない。


 長期的に見ても高速化や発動機の出力増大に備えるべく、金属素材の強靭化は避け得ない工程であった。


「押さえるべきは発動機開発と材料開発だ。量産ともなれば機密を維持し続ける事は難しいだろうが、発動機部分の金属素材だけは製造工場を閉鎖都市化するべきだろう」


 足りぬものは多い。


 特に優先せねばならないのは軽く丈夫な金属素材である。


軽銀(アルミニウム)軽銀合金(ジュラルミン)の開発も急務だが……後者に関しては割合が亜鉛5.5 %、マグネシウム2.5 %、銅1.6 %だったか? まぁ、その辺りだ」


「戦場での損耗は兵器の常。鹵獲は常にある可能性だと思う。閉鎖都市を造成する予算を航空戦力拡充や開発に充てるべきだし、軽銀合金(ジュラルミン)だって鹵獲されたら同じことだと思う」


 機密が露呈し、解析されて敵に航空機が戦力化される事が避け得ぬならば、航空兵力を最大化する事に注力し、敵に航空機が出現するまでに押し切って戦勝を勝ち取ればいい。ヘルミーネの主張は迂遠にそうした拙速を求めていた。


 戦争で最初に戦死するのは戦争計画に他ならない。


 トウカも立案能力には定評がある様に陸海軍からは思われているが、不備と遅延は航空戦力の汎用性で補う事を前提にしているに過ぎない。少なくとも当人はそう考えていた。


 指導者の誰しもが戦争の長期化を見越した上で戦争に踏み切る事などなく、少なくとも計画上では短期決戦を指向する。


 実情と結果が伴う事が大半であるが。


「ならん……皆が求める航空機、その心臓部を作る閉鎖都市。その看板が必要なのだ」


 航空機は将来、空を支配し、戦争の趨勢を決定付ける主戦力となる。その際、諸外国が研究開発や生産の拠点に視線を向ける事は避けられない。


 その点を利用する。


「航空機開発を行う閉鎖都市を餌として、核兵器開発を行う別の閉鎖都市を隠蔽するのですね?」


 ヨエルの指摘に対し、トウカは鷹揚に頷く。


 隠蔽した航空機開発の閉鎖都市よりも高い機密性を持った核兵器開発の閉鎖都市を用意する。間諜を前者に誘導し、後者へと辿り付かせない。


「確かに航空機の基本構造は後に露呈するだろう。数を必要とする兵器である以上、関係者も増大を余儀なくされる」


 整備などの維持管理に関わる者からの漏洩を完全に防止する事は現実的ではなく、展開数を踏まえれば防諜を完全に実現するなど妄想の産物に過ぎない。


「情報漏洩の遅延に対する努力には、周辺国の有力な航空戦力獲得以外の理由もあるということだ。無論、航空機生産と開発を各社に委託した後は弾道兵器開発に注力させるが」


 閉鎖都市の役目は航空機開発のみに留まらない。


 寧ろ、核兵器が姿を見せる時期に合わせて弾道兵器を実用化しておかねば、諸外国の防空網を突破して都市へ核攻撃を行う任務を航空機に負わさねばならなくなる。


 トウカは戦略爆撃機がいかに高価で国家を傾ける代物えあるかを理解している。


 戦略爆撃航空団などは空飛ぶ空母機動部隊と呼んで差し支えない価格であり、多大な負担を齎すが、迎撃により多大な被害を受ける兵器でもあった。その任務と構造上、鈍重と成らざるを得ない戦略爆撃機は迎撃を受け易い。防空装備の劣る《大日本帝国》が本の上空で撃つ撃破含めて四割の被害を敵戦略爆撃機部隊に与えた事からもそれは窺い知れる。戦略爆撃機の高高度飛行による優越は絶対的なものではなく、ましてや魔導技術のある世界では対策の難易度は低い。


 トウカは少なくとも帝国による航空機の模倣を心配してはいない。


 大規模な工業力を有するも、それは人口比で見た場合、少ないと表現して差し支えない規模であり、いかに非効率的な産業体制であるか窺い知れた。技術力の伴った工業力ではない。


 何よりも大前提として帝国に模倣の時間的余裕はない。


「帝国は攻め滅ぼす」


 明確に皇国が引導を渡す真似はしない……費用対効果の面から難しいが、少なくとも周辺諸国が好機とばかりに蚕食し、持続的な国営ができない程度には漸減する。


 ヨエルとヘルミーネに驚きはない。


 辺境などでの実情は兎も角として、異種族の排斥を掲げている帝国の存続を危険視するのは皇国に於ける有力者としては健全な思考である。トウカの振る舞いを見れば一目瞭然であり、それは即ち今後の皇国の基本方針と言えた。


「しかし、帝国の侵攻能力に今一度、一撃を加えたならば、返す刀で部族連邦にも攻め入り、これを保護占領する」


『!』


 二人が驚きの表情を浮かべる。


 ヨエルまでもが驚きを隠さない理由をトウカは予め予想していたが、武断的な姿勢を変える心算など毛頭もなかった。


「帝国南部に衛星国を建国する。しかし、食糧不足に喘ぐ帝国本土の土地を切り取ったところで、餓えさせては統治とは呼べない」


「その食糧を部族連邦から収奪するの?」


「厳密には違う。陸軍兵站部本部に照会したが、帝国南部一帯の人口を確実に養うだけの食糧輸出は皇国の生産量でも十分に叶うそうだ」


「なら……」


「だが、通商府は断固として認めないだろう。国内価格の高騰を招くだけの輸出は、国民生活に影響を及ぼす。納得できるか? 己の取り分が事もあろうに、己に牙を向いた相手の取り分になる状況を」


 断じて納得できない。


 国民感情を持て余した挙句、無秩序な開戦に踏み切る羽目になった国家を知るトウカとしては国民と言う“資源”が同時に“脅威”でもある事を知悉していた。指導者と国民の関係は、いかなる思想を掲げた国家であっても指導者が絶対性を有するものではない。


 国民とは愛すべき脅威である。


「あの国の食糧生産の余剰と皇国の余剰を含めれば、皇国の食糧価格を据え置いて尚、十分に帝国南部を養える」


 軍事的視点から南方の安全を確保したいというトウカの思惑もそこには潜む。国家というには各種族が部族として各地を統治する部族連合は、有力部族による合議制だが、内情は皇国の封権体制よりも緩い紐帯の国家である。各所撃破は容易であり、地形的に見ても峻険な地域は存在するが、大部分は平地であった。大軍の進軍を妨げる要素は少なく、そこに近接航空支援が加われば、優位性は明確なものとなる。


 非正規戦に繋がる可能性もあるが、部族毎の切り崩しと公共施設(インフラ)整備による利便性向上を以て元より希薄な国家への帰属意識を打ち砕く事は困難ではない。皇国への帰属意識醸成には相応の時間を要すると思われるが、同種族と類似種族が数多く存在する国家同士である以上、種族的な隔意が生じる危険性(リスク)は低い。


 だが、急進的な行動には危険も隙も生じる。


「貴方の敵はそう甘くはないのでは? 積極的に難民を押し付けて食糧消費に負担を掛けてくるのではないでしょうか?」ヨエルの指摘。


 間違いではなかった。


 トウカはそれを予想していた。自身が帝国の指導者、或いはそれに近しい立場であるならば、必ず難民を衛星国に誘導して押し付ける事で食糧供給を飽和させる。自国の食糧自給率も改善して一石二鳥である為、帝国は危険性(リスク)を負わず利益を享受できる。難民の扱いに対して皇国を非難する余地すら生まれるのだ。


「だろうな……カチューシャはそう甘くはないだろう」


 トウカが警戒するエカテリーナの名を伏せたヨエルの配慮を、トウカは肩を竦めて端へと追い遣る。ヘルミーネから漏洩する事への配慮はトウカにとって意味を成さないものであった。


 敵は敵でしかない。


 ただ、一人の女となって喪われるならば奪い取るという話に過ぎない。


 互いに相手の生存を望みながらも死を求めて蠢動する。


 大いなる矛盾。


 それをトウカは愛している。


 美しい女と矛盾した成果を互いに突き付け合う事こそが、トウカをこの上なく心躍らせる逢瀬である。


 トウカは嘲笑を以て応じる。


「己の取り分を奪う輩を衛星国政府が許すならば、だが」


 衛星国に渡す食糧は自国民を養うに十分だが、難民を養うまでは渡す予定はない。無制限の譲渡に耐えられる程の余裕まではないと言えばそれまでだが、代わりに国境防衛の為の小火器は潤沢に“有償”貸与されるだろう。


 彼らは小銃を手に理解するだろう。


 己の食い扶持は己で守らねばならないと。


 当然、皇国側は残忍な命令など行わない。ただ、国境警備に“自助努力”を求めるだけである。帝国の批難があれば、衛星国に伝えるとの一言で他国の問題であると抗弁する心算であった。そうした諸問題を解決する為にこそ、皇国は帝国南部を衛星国として独立させるのだ。


 トウカとしては若い男女を労働者として受け入れ、それ以外は草生す骸とさせる心算っであった。尤も、大規模侵攻ではエカテリンブルクやエレンツィア以北の交通網を戦術爆撃騎による徹底的な空襲で使用不能とする心算であり、体力に劣る者が越境するのは困難と見ている。例え、帝国が衛星国の負担増大を意図して難民の車輌輸送を試みたとしても、それは困難を極めるだろう。踏破性の高い軍用車両を纏まって用意できない程に彼らの軍は侵攻で被害を受ける事になるのだから。例え、用意できたとしても自国民を難民として積極的に他国に押し付けようとする行動を声高に非難する余地が生まれる事は、皇国外交上の優位として利用できた。


 そうした諸々のトウカの思惑を先の言葉で察したヨエル。


「難民の屍を国境に積み上げて明確化させる事になる、という事ですか?」


 ああ、なんて酷い、と右上翅で目元を隠して鳴きまねをして見せるヨエルだが、隠しもされぬ口元は聖女の如き笑みを示す曲線を描いている。隣のヘルミーネはヨエルの目元が見えるのか、僅かに腰を浮かせて距離を取った。


 ヨエルの目元が一体、いかなるものか気にはなるが、トウカは黙殺する。


 神の御使いと称される相手ならば“触らぬ神に祟りなし”を適用するべき範疇である。少なくともトウカはそうした理屈で言及を避けた。


 ヘルミーネは沈黙を守っている。


 帝国の難民。


 相当な数となる事は明白であった。


 三億を超える人口があるという事実以上に、建国直後とは言え、相応の規模を持つ国家一つを難民で傾けようという以上、数個方面軍規模となる事は疑いなかった。


 皇国が直接手を下さぬ……トウカは衛星国に貸与する兵器も帝国からの鹵獲品を主とする事で皇国の気配を最大限に減じる心算であったが、そうした方向に誘導したという事実は消えない。


 トウカはヘルミーネへと微笑む。


「気にする事はない。帝国では貧困層や政治犯と言われている者達が主となるだろう。どの道、帝国の食糧事情を踏まえれば口減らしされる。衛星国の労働人口を鑑みて受け入れ枠も用意しているのだから、寧ろ助けている側だ」


 客観的事実であるとはいえ、聖職者が聞けば卒倒する理屈である。


 しかし、トウカは善意であるという姿勢を崩さない。


 それこそが為政者の振る舞いであると知るからである。


「奴らの宗教に基づくならば、楽土に赴く手間を此方は国家予算を裂いてまで幇助している事になる。寧ろ、俺としては生前から聖なるものと賞賛される事も吝かではないぞ」


 帝国で広く信仰される戦神教会の概要を知るトウカは一切の妥協がない。帝国の排他性を決定的なものと成さしめた宗教に対する弾圧を厭う筈もなかった。宗教の布教が保証されるのは、それが国益と臣民の生命を脅かさない範疇に限る。逸脱するのであれば弾圧するしかない。


「私、貴方のそういうところ嫌い」


「そうしてくれると助かるな。俺がそうした振る舞いを好む輩ばかりを侍らせていると思われては困る」


 狼娘の言葉を大いに肯定し、小鳥の囀りの如き笑声を零し続けている熾天使を一瞥する若き天帝。


「だが、それでも御前は研究と国家の為とあらば協力は惜しまない。違うか?」


 むすっと頬を膨らませて顔を逸らす姿は狼よりも子犬を思わせる。


「協力して欲しいなら、引き籠りの指導者なんてところだけは直して欲しい」


 風評に障るのは良くない、と指摘するヘルミーネ。


 ある種の籠城をしていると自覚しているトウカとしては痛い指摘だが、招聘の儀以降、盛大に放り出された挙句、未だ継承の儀を受けず権能を得ていないトウカは路傍の低位種にも圧倒されかねない。人間種とは本来、脆弱な種に他ならない。トウカが戦場で優位を維持できたのはこの世界の存在しない武芸と集団戦に依るところが大きかった。そして、可能な限り不意を突く……奇襲であることを前提とした行動を心掛けている。


 狐耳の恋人に膂力で負けて押し倒される事も少なくなかったが故に、実体験を伴う経緯からトウカは己の身体的不利を自覚していた。当然、浅葱色の妖精がトウカを圧せぬ様に気遣っていた事を察した点もその経験に依るところである。


「なんだ? そんな事を言う輩がいるのか? 事実ではあるが」


 隠し立てするには些か無理がある事実。


 計画的に襲撃を受けては防護できない。


 トウカは口にはしなかった。


 これを口にしたのは遅ればせながら皇都に訪れたラムケであった。


 皇州同盟軍司令部……武装親衛軍へと改名が決まっている司令部要員達が明言を避けた一言を堂々と言ってのけるラムケを、トウカは呵々大笑を以て受け入れた。司令部要員が権威に屈して当たり障りなく明言を避けた点を非難すべき場面ではあるが、トウカは今後を踏まえて度量を示す事で上申し易い環境を用意する事を優先する。


 己が北部で見い出した知性の牙城を自らの振る舞いで不安定化させる余裕はトウカにはなかった。


 その後、些か残虐にぃ振る舞われ過ぎましぃたなぁ、と笑い飛ばすラムケには流石のトウカも先の無理した呵々大笑ではなく、本心からの呵々大笑を漏らす事になったが。


 トウカは警護上の理由から皇城の最奥に位置する一室を執務室として過ごしていた。時計の針以外に時間を示す要素がない環境に気を病むなどという事はなく、寧ろそれは北部内戦や対帝国戦役の頃からの変わらぬ状態であった。総司令官や参謀総長が徘徊する様では将兵の士気に関わる。


 しかし、天帝は総司令官でも参謀総長でもない。


 軍事的資質と軍事的成果のみを以て語られる事が多い軍人ではなく、指導者とは政治的資質と政治的成果に加え、権威をも求められる。


 畏敬を抱かせる形なき強制力。


 トウカの場合、軍人に対しては諸勢力関係なく有しているが、民衆に対しては疑問符が付く。


 政治的な成果も経済を中心として十分に存在するが、それは戦時経済を理由に敵対的な経済団体を弾圧した行動に圧倒されて陰りを帯びている。労働問題に先鞭を付けた点や重工業化の推進なども北部でしか示されておらず、その上、未だ北部ですらその効果を実感している者は少ない。


 政治的効果とは即効性に乏しい。


 金銭のばら撒きも実情としては有効とは言い難く、寧ろ費用対効果として見た場合、乏しいものがある。


 民衆はこの効果の意味を未だ知らない。否、既に制限されている以上、実感する事は今後もない。気付くのは、民主主義的な政権を維持する共和国の経済格差が明らかとなる後年である。逆に現状では、商業形態としての“中抜き”や“下請け”を制限する事で労働に寄与しない部分に対して利益が流れる事を大きく阻みつつあるトウカを敵視する経済団体からの圧力や誹謗中傷による影響力の低下がより大きかった。


 無論、トウカは更なる悪評を承知で、勅令に従わぬ企業を憲兵隊を同行させた査察で黙らせている。経済団体という民間と同じ土俵に立っての議論などあってはならない。それは相手の意図するところであり、結局のところ国家の行く末や国益よりも自身の利益の最大化を求める相手への妥協は更なる妥協を招く事になる。金銭と天下りを以て陣営の切り崩しを図られては民衆からの一層の印象悪化は避けられず、それならば相手の有さない武力を以て応じる事がより政治的被害を減じる事ができるとトウカは信じて疑わない。批判の長期化こそが最も恐れるべき事態なのだ。


 議論は同じ方向性を持つ者同士の間でしか成立し得ない。特に政治思想(イエオロギー)などが違う場合は、議論による解決などと言うのは愚かな理想主義者の妄想に過ぎなかった。


 歩み寄りなどというものは存在せず、それは一方の優位からなるもう一方の妥協に過ぎない。



 この世で通ずる理屈によれば正義か否かは彼我の勢力伯仲のとき定めがつくもの。強者と弱者のあいだでは、強きがいかに大をなしえ、弱きがいかに小なる譲歩をもって脱しうるか、その可能性しか問題となり得ないのだ。



 トウカは無駄を嫌う。憎悪している。


 国益を配慮しない相手の感情を慮る為の時間など踏み潰すべき無駄でしかない。


 そうしたトウカの労働者重視の姿勢に否定的な勢力からすると、即位以降姿を見せないトウカを怯えと取って否定的に主張するのは当然の結末であった。トウカですらそれを好機と見る。だが、誹謗中傷など気には留めぬトウカは、ただただ勅令を企業に遵守させる事を主目的に憲兵隊の拡充すら命令している。


 ヘルミーネの心配は、その辺りを含めた点にあるとトウカは十分に理解していた。今一度、皇都の通りを戦車隊で遺体と血涙で舗装するという点にある事は疑いない。


 ――困った事だ。無意味に殺す真似はしないのだがな。


 逆に言えば、必要と思えば断じて殺す。其の境界線に国益を根拠として明確に定めているからこそ、事が起これば一切の容赦はない。


「引き籠り予備軍と呼ばれるようになる」


「引き籠り正規軍がそれを言うのか?」


 研究室に籠城する相手が、執務室への籠城を心配するというのは滑稽ですらあった。






この世で通ずる理屈によれば正義か否かは彼我の勢力伯仲のとき定めがつくもの。強者と弱者の間は、強きがいかに大をなしえ、弱きがいかに小なる譲歩をもって脱しうるか、その可能性しか問題となり得ないのだ。


       古代アテナイ 歴史家     トゥキディデス

 




 申し訳ない。勤務形態の度重なる変更で平日に書く暇がなかったです。別に更新頻度が減ったからとて「すわ書籍化」などということはないです。というか、皇立魔導院の解体の話を出している時に日本学術学会という実にタイムリーな話が出てきていやもうなんというかね……


 しかし、最近はイベントが多い……休日も酒とか釣りとか即売会とか。


 そう言えば、健康診断引っ掛かりました。何でも悪玉コレステロールの総数が下限値より下だそうで……それってアカンのだろうか?



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