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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第三章    天帝の御世    《紫緋紋綾》

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第二九一話    城下にて




「こんな事になるなんてなぁ……」


 皇州同盟軍第一種軍装を纏い、中尉の階級章を縫い付けた青年は、皇都中央大通りの雑踏を進む。


 行き交う人々の表情は一様に明るいが、戦禍の影は皇都の各所に見受けられた。


 特に皇城へと続く通りは激戦の後が見受けられる。


 皇州同盟軍と近衛軍による軍事衝突の影響である。


 近衛軍は戦技に優れた種族を中心に編制されており、市街戦では優位を確保できるという触れ込みであったが、北部が誇る軍神と韋駄天の前には市街戦の余地などない。軍神が天帝の資格を掲げて踏み込んだが故の混乱は皇都での市街戦に備える時間を喪わせた。行き成り皇城に対する攻城戦となったが故であるが、皇都中央大通りは補給線となり重砲による砲撃を受けていた。皇州同盟軍などが重砲を平射砲の如く水平射撃を行った点を見ても分かる通り、皇城攻城戦は砲兵戦の様相を呈していたと言える。


 火力優勢と航空優勢こそが総てを決すると言い放った軍神……今上天帝の言葉は正しかった。攻城戦に於いても空挺降下は一時的な航空優勢を前提に行われている。


 しかし、それは多大な二次被害を齎した。


 榴弾で抉られた道路は簡易処置として土砂で埋め戻され、圧し折れた街燈と街路樹は撤去されている。信号機の代わりに警務官が交通整理を行い、憲兵が交差点で治安維持の為に小銃を手に歩哨を務めていた。


 日常を取り戻すべく、奮闘する者達の光景は眩しいものがある。


 自身の手で破壊しておいてそれを口にする程に、彼は狂信的な人物ではなかった。


 店先で井戸端会議に勤しむ主婦や駆け回る子供……喧騒を背に受け、彼は目的の公園に足を踏み入れる。


 初夏の白昼ともなれば熱く、彼は公園の出入り口の物売りから購入した冷えた果実酒の瓶を二つ手に持ち、噴水近くの長椅子(ベンチ)へと腰掛けた。


「フランツ」


 彼の名を、フランツ・ゼーベック大尉の名を呼ぶ声が響く。それは一陣の風の様に涼やかで、その為人を思わせた。


「オットー」


 彼……フランツは、私服姿の友人……オットー・アーレンスの名を呼ぶ。


 オットーは近衛軍中尉として皇城攻城戦に参加しており、フランツは皇州同盟軍側で参戦していた。


 友人二人が皇城を巡って相争うという悲劇だが、知る者は居ない。共に故郷は南部であり、家族の都合で違う地域に移り住んだが故の事であるが、フランツの様に北部に移住したという例は少ない。寒冷で仕事も少ない土地に移り住む者は少なく、彼の一家が金貸しから逃れるという理由がなければ有り得ぬ事であった。


「元気そうで何よりだ」フランツは微笑む。


 差し出した冷えた果実酒の酒瓶を受け取ったオットーが、フランツの隣へと腰掛ける。


「勝っても負けても大変だね。どちらにせよお互い関わったのだから運がないという他ないよ」


 肩を竦めるオットーを尻目に、フランツは果実酒を煽る。良く冷えた果実酒が喉を潤す。


 護側も攻める側も、トウカに関わったが故に騒乱に巻き込まれたと言える。中立でも巻き込む軍神が相手では、職業軍人となった時点で第三者の立場は望み薄と言えたが。


 フランツは砲兵の曵火砲撃で耕された庭園に座り込む友人が武装解除を受けている姿に衝撃を受けた。戦塵に塗れた姿は戦野でよく見かける将兵のそれだったが、学生時代に疎遠になった友人ともなれば衝撃を受けざるを得なかった。挙句、階級章を見れば同じ砲兵である。つまり、共に砲兵将校として知らぬ内に盛大な砲兵戦を行った事になったともなれば、フランツとしても天を仰ぐしかなかった。


 幸いな事に近衛軍に於いて処罰を受けたのは抗戦を主導した高級将校のみで、それも一族連座もなく、それ自体を単独で見れば穏当な処置と言えなくもない。無論、貴族軍高級将校の領地が数日の内に謀反の企みありと、装甲部隊の進駐を受けて爵位簒奪と領地没収を受けた点を見れば、貴族家を御取り潰し……断絶にしたと言える。生命は保障されたが、貴族としての存続を断たれたというのは一族の“一部”が連座するよりも重い判断であった。


 ――妙なところは、民衆は生命を安堵された事を見て寛大であるなどと“錯覚”してしまうところだな。


 皇室の藩屏として家名を後世に遺すという点を最重要視する貴族は、血脈が絶たれぬのであれば爵位簒奪よりも軽いと見る。フランツは、トウカが民衆と貴族の価値観の差を利用して印象(イメージ)を取りにきたと見た。


 気付く者が少ない変化だが、その意味は大きい。


 少なくともトウカは民衆に対して配慮している。


「まぁ、あそこまで貴族を叩くとはね。僕はね、今上陛下が恐ろしいよ」


「おいおい、滅多な事を言うなよ。小煩い憲兵に聞かれては事だぞ」


 そうは口にして注意しつつも、フランツは上官への悪口に鷹揚な皇州同盟軍の尉官として慌てる程の仕草は見せなかった。成果主義蔓延る皇州同盟軍では、悪口や振る舞い、外観を含めた少々の奇抜さは黙認される傾向にある事が身に沁みついているからであった。


 対するオットーは、フランツのそうした“余裕”に怪訝な顔をする。


 近衛軍や陸海軍では有り得ない規律の緩さをフランツは自覚していたが、トウカの場合は輪を掛けて自身の風評を気にしていなかった。天帝となって以降の振る舞いから自覚が芽生えたと安堵した訳ではないが、皇州同盟軍時代もマリアベルの継承者らしく風聞などに左右されない覇道を往く者であったという点が大きい。


 それは、トウカ自身の、実績があれば風聞など砲声が掻き消す程度のものとしかなり得ない、との発言からも窺い知れる。


「近衛の偉いさんみたいに見せしめにされても庇えないぞ」


「分かってないなぁ……まぁ、僕は平民だから気楽なんだけど、連座にしなかったのは謀略の類だよ」オットーの揶揄するかの様な声音。


 フランツは果実酒を口に含む。


 子供達の喧騒はどこか遠い。


 謀略と聞けば致し方ない。


「穏やかじゃないな。まぁ、遣ること成すこと全てが謀略に見えても致し方ない御方ではあるが……」


 一介の砲兵将校に過ぎないフランツが聞き及ぶ程度では高級将校の目論む謀略とは言い難い。相応の秘匿性があってこその謀略である。


「僕は貴族将兵の多い近衛に長年居たからわかるんだけどね、貴族の家名に懸ける熱意というのは凄いよ。それこそがあの鉄の意志と忠誠心、勤勉な姿勢の源泉なんだろうね」


「北部では違うがな。正直、血縁上は断絶しているも同然の家も少なくないと思うが……」


 北に侵略国家がおり、地域には匪賊の影が窺える状況が長年続き、一所懸命の精神を以て戦野に臨んだ貴族家の血は痩せ細り、実際には血縁があるか否かも怪しい分家が主家を継承したという例は少なくない。そうした貴族家は揺らぎ、最終的に他の優れた力を持つ貴族家の支援や庇護を受ける事となった。それがダルヴェティエ侯爵家やエルゼリア侯爵家、シュトラハヴィッツ伯爵家などである。一部の貴族家が北部で主導的な立場を得たのはそうした理由があった。


「だから家を潰されるのは断じて避けないといけない……少なくとも当人たちはそう思ってるみたいだね」


 硝子瓶のなかで、涼やかな音を立てる氷を揺らし、オットーは貴族の覚悟を語る。そこに鬼気迫るものはなく、飽く迄も他人事の範疇でしかない。


 フランツとしては、血筋ではなく何を成すかであると考えるが、それは優れた力量こそが郷土を救うと実力主義に危うい程に傾倒した北部の倫理観の産物であった。その倫理観こそが郷土を良く守り、そして内戦を起こすに至った事を思えば皮肉である。


「そんな、家名を失いながら命は喪わなかった貴族だった者達は親族に庇護されている」


 初耳であるが親族を頼るのは一般的な感性で言えば不自然な事ではない。


 首を傾げるフランツ。


 話の経緯からすると、貴族の場合は問題のある行動という事になるが、北部では戦時に於いて一門の全滅を避けるべく女子供は出征に当たって積極的に他家へと預ける。更には養子として差し出す事も珍しい事ではなく、北部貴族が系統種族毎とはいえ混血化著しい理由はそこにあった。


「どうなる?」


「不穏分子を抱え込んだという批難材料になるよ。陛下はそうする」


 有り得る事だと、フランツは嘆息する。


 戦争の様に明確な勝利条件に乏しい政治では、相手を叩き伏せて終わるという訳には行かないが、トウカは政治であっても明確に敵の“撃滅”を指向する。敵野戦軍の包囲殲滅を意図する事と同列に扱っている節があるのはフランツでなくとも感じている事であった。トウカだけの問題ではなく皇州同盟軍でもそうした姿勢の軍人は少なくなく、単純に政敵と言うには、内戦で干戈を交えている為の軍事的脅威とも扱える事がそうした姿勢を助長している。


 フランツは砲兵科であるが、軍に於いて戦闘部隊の大部分を占めるのは歩兵科であった。


 前線での熾烈な白兵戦に投じられる事もある歩兵は、敵と極至近距離で命の遣り取りをする。そこには数多の悲劇が積み上がり、無数の遺恨が撒き散らされる事は避け得ぬ事であった。


 特に皇州同盟軍は貴族将校も積極的に戦野に身を投じる為、軍内の最大派閥である歩兵科の意見にどうしても引き摺られる傾向にあった。軍とは言え、貴族の影響を廃せる訳ではない。ましてや皇州同盟軍は各貴族領の領邦軍編制を発展させたに過ぎず、部隊は郷土毎に編制されている。配属されている貴族将校の意見に部隊がどうしても引き摺られてしまうという弊害があった。


 トウカはそれを苛烈さと憲兵を以て統率したが、そうした感情を封殺できる訳ではない。


 オットーは眼鏡を外して硝子を拭く。その横顔には憂いの感情がある。


「恐ろしいね。不満を口にすれば、他の不満を持つ者が集まるのは世の常だよ。それは次の御取り潰しの大義名分になる。でも、親族だった彼らを追い出せば、一門の者達は危機に際して切り捨てられるんじゃないかと不信感を抱く」


「成程、陛下からするとどちらでも構わないという事か」


 隙のない手を打つとフランツは感心すらする。


 不満を燎原の火の如く燃やさんとする意図が窺えるが、封権制度による弊害を短期間で是正するには、激発を誘うというのは間違いではなかった。


「生き急いでいるように見えるな。いや、失敗を恐れなくなった?」


 廃嫡の龍姫を失い、恋人を失った。


 護るべき者の亡くなった者が長期的な部分から目を背ける事は軍務に就いていれば度々、見受けられる光景と言えた。トウカに類似する部分がないとは言えない。即位後の新法の布告や各府への命令の数を見れば尋常ではない執務量である事は疑いなかった。目先の職務に傾注……傾倒している。


「その辺りは分からないけど……陛下が貴族社会の構造を良く理解している事は事実だね。出身国が気になるところだよ」


 少なくとも議会制民主主義国の出身ではない。身分制度に於ける権力者の付け入る隙を心得ているとオットーが指摘する。


 皇都での戦闘に当たって伐採されたであろう木々に攀じ登り遊ぶ子供達を尻目に成される会話は不穏なものであったが、気にしている者も多い話題でもあった。


 出自が分かるならば過去が分かり、その思惑や思想の一端なりを掴む事ができ、家族や親族を押さえれば事を優位に運べるかも知れない。ただ、祖父に関しては当代無双とトウカが恋人に吐き捨てている光景が知られている為、齟齬が生じている事も確かであった。軍神が当代無双と評する人物が無名である筈もないが、現実にはサクラギの姓を持つ戦巧者はトウカ以外に存在しない。


「出自は知らぬが……あの若さであの造詣ともなれば空恐ろしさを感じる」


 人間種であるという自己申告が確かであれば、政戦への知識を若くして身に付けているという事になる。天才は先天性を根拠とできるが、知識は後天性に限られる。知識があるという事は相当な教育を受けていたという事になる。


「神様にでも指導されていたのかもね」


「軍神だけに、か?」


 肩を竦めるオットーに、フランツは含み笑いを見せる。


 実際、フランツはトウカが継ぎ接ぎだらけの人物であるとみていたが、皇州同盟軍の軍人として自軍を勝利に導いた人物に疑義が生じる発言はできなかった。少なくとも敗北である筈の結末を回天させた点に変わりはない。問題はあれども北部にとり英雄なのだ。


「陛下はヒトという生き物の本質が弱さにあると見ているように思えるよ。自らが人間種であることを愧じる素振りもなければ、北部の土着信仰を弾圧する事もなかったからね」


「人間種である事への劣等感は確かになかったが、土着信仰だと?」


 関係があるとも思えない思想が飛びて出てきた事に困惑するフランツ。オットーはいつもフランツを驚かせる視点でモノを見ているが、二人は不思議と友情が続いていた。


 オットーが、歩こうか、と立ち上がる。軍人の性として与えられた休日での怠惰が贅肉に変わる事への恐れ。反覆業務(ルーチンワーク)の多い軍人にとり、突然の休日はある種の恐怖と違和感が付き纏う。脂肪ほどに忠誠心が高く、筋肉ほどに移り気な存在は滅多とない事を彼らは良く理解していた。


「本来、北部を纏めるなら、弾圧は反感を招くにしても、土着信仰にも好意的であるべきじゃなかった筈なんだ。少なくとも色を薄める動きくらいはするべきだった。己以外に縋る対象を残すべきじゃない」


 北部にも土着信仰はある。


 寧ろ、皇国各地方を比較した場合、北部は多い傾向にあった。宗教として確たる勢力を形成するに至らない、経典も有さない不定形の土着信仰たちが各地で根付いている。


 路傍の小さな社に、裏路地の石碑、軒先の木造……生活風景の一角に佇む名すら知られぬ信仰とて珍しくない。


「画一化されていない信仰は脅威になるからね。何処かで良心と安寧があの方に続こうとする者達を思い留まらせたはずだ……少なくとも都合の良い方向に纏めるくらいはするべきだったよ」


 元来、信仰とは安寧の為にある。利用されて本質を損なう事もあるが。


「至尊の座への階が見えぬならば、足元の信仰……思想を統制しに掛かる事が順当(ベター)という事か? 確かにそうした動きはなかった気がするが……」


 即位に計画性がなかった以上、即位を前提とした信仰の座視は考え難い。


 奇襲的な即位であったが、泥縄式の空挺と皇城に於ける攻城戦までの国会襲撃などを踏まえると明らかに偶発的なものと見えた。フランツも攻城戦での砲弾確保に苦心している。補給線が貧弱……錦の御旗を掲げて陸軍兵器廠を制圧するまでは基数の減少を気にしての砲兵戦であった。


 近衛を始めとした皇都の勢力に根回しもなかったことも、計画性の欠如を示している。


 つまり、天帝即位への意志は突発的なものであり、少なくとも対帝国戦役中にはその意図はなかった。トウカであれば天帝の資格があるならば活用していたであろう事は疑いないので、それを知った事も極最近である筈である。


 北部の統率……信仰や宗教に対する対応は即位の資格を前提とせずに行われていた。


 喧騒と雑踏を避け、大通りを迂回して小路に逃れた二人は、石畳に軍人らしい規則的な打音を刻む。


 目的はなかったが、蛋白質の焼ける臭いに立ち止まった二人は顔を見合わせて頷く。


 腸詰め(ヴルスト)の焼ける臭いには抗い難い魅力があり、当然そこには麦酒(ヴァイツェン)もあった。小路を窺う座席へと腰掛けた二人は脂肪の忠誠心を黙認する事も已む無しと諦める。今日の不摂生を明日の運動で取り戻せると不安を抱く程には二人も老いていなかった。


「どうかな? いいかい、フランツ? 陛下が叩いたのは天霊神殿だけだ。でも、それは政戦に関与したからだけじゃない。信仰が無意識に人々の常識に根付いていたからだと思うんだ。絶対的な示準ではないと示し続ける行為が天霊神殿を北部から排斥しようという動きだったんだと思う」


 北部では天霊神殿の勢力は他地方よりも限定的であったが、長く皇国で主要宗教の位置を堅持していたが故に、その概念の一部は人々の生活や思考に根付いていた。それは極自然に寄り添う形で人々の性格や感情の一部となり日常となっている。


 ――新しい主張だな。


「絶対ではないと示しながらも排斥はしなかった。決して宗教や信仰を認めなかった訳じゃ……人々がナニカに縋る事を認めなかった訳じゃないんだ。天霊神殿以外への干渉がなかった事がそれを示している」


 或いは、天霊神殿も信仰と人心を舞台としているだけなら放置されていたかも知れないという推察。


「信心深い者達は宗教や信仰を危険視するから全体主義者だと言うけれど、いや、実際に全体主義的なんだけど……何と言えばいいのかな……決して信仰が寄り添う事を認めていない訳じゃない……気がする」


 ほろ酔い気分で指摘するオットーの発言は散文的で理解し難い部分もあるが、トウカが宗教や信仰に否定的ではない事を不可思議に感じているとだけはフランツにも理解できた。


 だが、土着信仰の排斥や統合を図らなかった点のみを見ての主張とするならば弱い。それを自覚しているのかオットーの声音にも自信の影は窺えない。


「宗教の余地を認めているか……陛下に対する風評としては珍しい主張だな」


 トウカの望む近代化は神々への信仰を喪わせる。


 寛大や無関心は放置に等しいが、積極的に保全するのであれば話は変わる。擁護者として振る舞うならば、決して科学偏重だけに留まらない指導者という印象を得る余地があった。


「即位直後に信仰への言及がない以上、放置なんだろうけどね……そうした中でも信仰者が多い貧困層を放置しない政治姿勢は明確に打ち出している」


 フランツは一拍の思案。


「……ヒトの弱さを認めているからこそ、それを強靭な制度で支えるべきだと確信している、ということか?」


 強さを証明する為に無理を強いるのではない。弱さによる不利益を阻止する為に無理を強いる。トウカの政治姿勢にはそうした部分が見受けられた。


「そうだね、そういうことかな? 人間種は弱くない。そんな言葉が陛下の活躍を根拠に朝野に溢れているけど、陛下はきっと誰よりもヒトの弱さを確信していると思うよ」


 宗教がその揺り籠になるならば構わない。しかし、政治への口出しは破却を以て応じる。


 端的に言うなれば、その姿勢であろう。


 運ばれてきた腸詰め(ヴルスト)を砲兵科らしく不器用に切り分け、腸の皮を剥いて咀嚼するフランツ。対するオットーは麦酒(ヴァイツェン)を口に含んで満足していた。


 太陽が姿を地平線に隠れぬ間の休日に飲む酒は格別であるとの共通見解に頷き合う二人。


 それでも懸念を振り払うには酒精(アルコール)は足りないと、追加注文する。


「ヒトが弱いものと理解しているから陛下は国民に干渉する。過ぎたる自由は貧困を親から子に継承させ、自己責任という名において不均衡を肯定させると見ているんだろうね。言動を見ればわかる。野放図な自由を憎んですらいるよ。まぁ、協商国の経済格差を見れば否定できない」


 《アトラス協商国》は重商主義から財閥による連携によって金銭による価値のみが突出する形へと変化しているが、その結果として民衆は貧困に喘いでいた。出自によって生涯年収に大きな乖離があり、獲得できる機会にも大きな差がある。それを自由と言う名の自己責任が擁護して是正が進まない。


 過度な自由は安定の敵である。


 個人ならば兎も角、民衆という不特定多数は自由を安定して扱うだけの知性など持ち合わせていない。


 自己責任という大義名分を自由の根拠とする者に赦してはならない。それは無制限の格差を招く。


 トウカは人間の弱さに否定的ではなく、寧ろ肯定的であり、それを制度によって補助し、格差を低減しようとしていた。信仰染みた自助努力が大多数にとり妄想に過ぎないと確信しているのだ。


 歴史上の英雄達とは対照的であった。


 神の名を唱えども、大多数の英雄は己の力量を強く恃み、実力の信奉者として精神上は宗教と距離を置く。


 しかし、英雄は称賛に値するものの、貧困者達はトウカにこそ親近感を抱くだろう。


 ヒトの数だけ境遇があり、誰しもが機会を得て確たる立場を得られる訳ではなかった。寧ろ、誰かが得れば誰かが喪うのが現世であり、富が一部に集積すれば、遥かに多数の者達が富を失う。


 其々の事情からヒトは神々に掬いを求める。


 欺瞞だと糾弾するだけで利益を、金銭を齎さない知性と理性溢れる者よりも、己を掬う神に逃れるのは当然と言えた。誰しもが困難と不遇に立ち向かう勇気がある訳ではない。弱きヒトには縋る存在が不可欠であった。


「陛下は宗教が人心の拠り所になるのであれば構わないと見ていると思うよ。陛下は自身が全てを(たす)けられる訳じゃないと考えて宗教を残すんじゃないかな? その宗教が急進性を説くならば潰すだろうけど」


「宗教や信仰との対立は起きないと?」


 天霊神殿に対する制限を見て一部で噂されていた対立が画餅に過ぎないともなれば、宗教家達も伸長の好機を失う。他者への批判こそが組織を強大にする好機なのだ。


「陛下は自信があるんだ。己の齎す格差是正があれば宗教や信仰に傾倒しなくなると」


 困窮がなければ宗教への依存は限定的なものに留まるという確信を以てトウカは所得増加と労働環境改善に臨んでいる。オットーの言にフランツは金銭的余裕と心理的余裕に相関がある事を人生経験から思い起こす。


「怖いな。宗教に(へつら)う左派は完全にお株を奪われた訳だ」


「そうだね。貧困や労働環境なんて左派の大好きなお題目だ。陛下が率先して動けば左派の主張は在野の喧騒に掻き消されてしまう。もしかすると左派と宗教勢力の分断という思惑もあるのかもね」


 トウカが漸減した左派の重視する部分をトウカが重視する。偽善的自作自演(マッチポンプ)の産物と思えるかも知れないが、左派はそれを実現する為に諸外国との平和的共存を望み、トウカは敵性国家の弱体化による安定を望んだ。結果は同様でも過程が異なる。


「左派の凋落も酷いからな。放置しても孤立していくと思うが」


「威丈高だからね。知識人の鼻に付く発言は逆効果だよ。凋落して尖鋭化するとそれも分からないらしいね」


 相応の言葉で取り繕ったとしても、本質的には、右派に投票した者は愚鈍、や、真っ当に考えれば主張に賛同する事は当然、という感情が透けて見える意見は顰蹙を買うだけであった。自身の主義主張に基づいて右派に同調した者は激怒し、然したる確信もなく右派に投票した者も反感を抱いた。正論が常に受け入れられる訳ではなく、今日の正論が明日の正論という訳でもない。それを左派が選出した自称知識人は理解できない。


「とは言え、右派は元から剥き出しの極論も少なくない」


 本来ならば机上の空論と切って捨てられるそれらを、可能であると思わせた人物こそが今上天帝たるトウカである。


 トウカ自身、右派への迎合をしているかと言えば、選挙後の右派を無様に切り捨てたベルセリカやザムエルを咎めない点を見るに疑問符がつく。寧ろ、貧困層や労働者への政策をみれば左派に近く、寧ろ左派よりも踏み込んでいる。


 右派と左派の極論を振り翳すトウカだが、左派への弾圧と右派の切り捨てを見て困惑している者も少なくない。


 敵するには危険で、組みするには不明瞭。


 旗幟を鮮明にしていない勢力は多い。


 そうした中で皇都に近い幾つかの貴族を強引に御取り潰しにした。


 政治勢力として国内を統一しようという意図が見受けられない。強権を振り翳す暴君が貧困層や労働者の支持を受けて己の政策を権力者に押し付けようとしている。それは傍目に見れば共和主義国家に於ける煽動政治家の振る舞いに等しい。最高権威者が権力者を飛び越えて臣民を煽動し、権力者達の動きを牽制する。


 国事行為全権統帥官たるの天皇大帝という肩書を持つ者としての振る舞いではない。


 即位の経緯から少なくない数の貴族と距離を置いている点を見れば致し方ないが、積極的に敵を作り敵対関係を演出する事で支持を獲得する事は為政者の振る舞いとしては危険なものがある。


 現状は結果が伴っているが、結果が伴わなくなった時、貴族がどの様な動きを見せるか。


 フランツは大いに懸念していた。間違いなく北部は運命を共にする事になる。


 重苦しい話に酒が進む。


 二人にとり困難に在って縋るのは宗教ではなく酒であった。どちらが健全であるかは後世の歴史家にも判断の付かない命題である。


「御伽噺として見るならば、内戦終結で終わることが美しかったのだろうね。救国を成し、若き英雄は恋人の死に失意の儘に表舞台より去る。嘗ての剣聖の様に……悲しくもヒトを惹き付けて止まない結末。軍神サクラギ・トウカの物語は愛と勇気の御伽噺として後世に語り継がれただろうさ」


「或いは、彼もそれを望んでいたかも知れないな」


 嘘だ、と叫び出したい心を押さえ付け、フランツは苦笑を零す。


 具体性はなくとも敵対した総てを叩き伏せて覇を唱えるという覇権主義的姿勢を露わにしていた彼は常に怒りに打ち震えていた。


 常に争わねばならないという狂信的な強迫観念の下で北部を指導したトウカが生ある限り戦いを止める筈がなかった。周辺全てが敵であると信じて疑わなかった北部ですら畏れる程の強迫観念をフランツは忘れない。そうでなくては実現できない程の狂信性を、フランツは曵火砲撃の先に見た。


 二人は新皇に憐憫を抱く。


 若くして恋人を失うという悲劇は戦時下で量産された出来事に過ぎないが、それでも若き軍人に振り掛かった悲劇として無関心ではいられない。


「だが、物語は完結しなかった。当たり前だ。我々は現実に生きている。悲しい程に」


 蒼褪めた表情で吐き捨てる様に若き砲兵将校は告げる。


 叙事詩的現実の一翼を担った砲兵将校であるからこそ、フランツは知っている。


 それ故に戦争当事者の意見を絶対視する風潮を危険視してもいた。


 軍神たるトウカは前線での戦闘も少なくなく、左派が好んで用いる、後方で戦争を煽動する、という批判を使えず、寧ろトウカは前線に立った事実を利用して大々的に主張を展開した。あたかも死地を躊躇せぬ勇士であるならば、極論とて聞くに値するとでも言わんばかりの姿勢。


 右派からしても従軍経験や恋人、家族の戦死は強力な正統性と考えている節がある。右派政党の関係者に退役軍人や遺族が多いのは、そうした主張を感情論で押し込む有効性を以て立場を得た者が多い為でもある。国家の為に死したという大義名分は大凡の意見に優越した。


 有事体制の国家にとり、戦場で血涙を以て抗した者達の言葉は色褪せる事はない。命懸けの挺身は幾万の言葉に優越した。


 それを最大限に利用したのがトウカである。


 そして北部は勇士を尊ぶ気質がある。


 悲劇を添えられた英雄は斯くも批判し難く支持を取り付け易い。


「御伽噺の英雄は現実へと躍り出た。幾多の怪異を屠り去った神剣という名の軍事力を手に、現実に己の理想を投影し始めた」


 戦勝を齎した者としての権利を声高に主張し、統治機構に激烈な変化を要求した。


 英雄とは変化をもたらす者。


 しかし、その変化を万人が受け入れ、納得する訳ではない。大いなる事業には損失を蒙る者が必ず伴う。


 故に英雄には有形無形の強敵が立ち塞がる。


 トウカはその全てを打ち払う事が叶うのか?


 手元の麦酒は冷たさを失っていた。

 





書きたい事が多すぎて書けない。


総合評価が一万ポイント超えたら、記念に遥か未来のお話を書きます。プロットが10年前のものなので手直しは必要ですが……皆さん、驚くと思います。想像の斜め上の未来なので。

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