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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第三章    天帝の御世    《紫緋紋綾》
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第二九〇話    皇城にて Ⅲ



「はぁ? 行儀見習い?」


 若き天帝は母狐の言葉に眉を跳ね上げる。


 理屈は理解できるものの、余りにも迅速に過ぎる動きにトウカは己の与り知らぬ要素があると睨んだ。


 皇城最下部に位置する自室に招いての会話は第一声より逼迫したものとなっていた。それは無礼や非礼によるところではなく、トウカの不得手な分野であったからである。


 貴族が大貴族に子弟を行儀見習いに遣わせるというのは珍しくないが、天帝に行儀見習いを申し込むというのは前例がない。無論、子女を売り込むべく、皇城府の侍女として差し出すという事は枚挙に暇がない事例であった。


「族長が帝国との戦争で喪われ、種族的紐帯の蚊帳の外にあった種族……安寧の途はこれ以外にありませぬゆえ」


「……お亡くなりになられた、と?」トウカは息を呑む。


 族長の死……即ち、シラヌイの死である。


 話が違う、とトウカは右隣に立つリシアを一瞥する。


 リシアは微妙な立場にある。


 抜刀に支障がない様に左隣に立つベルセリカと違い、リシアは明確な地位を与えられていない状況が続いている。秘書や副官の如く振る舞う皇州同盟軍と陸軍の後ろ盾を受けた人物。付け加えるならば、クロウ=クルワッハ公爵とも懇意にしている為、皇城府からは酷く扱いに困られている人物でもあった。トウカと肉体関係にない点が問題を一層と複雑化させており、後宮に押し込むという手を取る事も難しい。


 しかしながら、その複雑な立場と奇妙な人脈ゆえか広く国内の情報が集まっていた。


 そのリシアも知らぬと首を横に振る。


「御悔やみ申し上げる……」


 なんと口にして良いか図りかねたトウカは無難な言葉を返すしかない。


 シラヌイを始めとした天狐族はミユキの挺身によって逃がされた筈であるが、トウカは最後まで確認していない。己が逃げ出したが故であるが、今の今まで失念していた。


「皇軍将帥として北部を――」


「――良いのです。終わった事ですから……」


 憎くはないのか、と聞く勇気をトウカは持ち合わせなかった。未亡人を方面軍規模で量産した自身が言うべき台詞ではないという自覚は未だ残していた。


「……そうだな。俺が言えた台詞ではない、忘れて欲しい」


 死因を後で調査を命じなければならない問題であるが、未亡人の傷を抉るが如き振る舞いをトウカは望まなかった。ミユキが喪われても尚、マイカゼはミユキの母なのだ。その事実は尚も毀損されるものではない。


 護らねばならない。


 理屈を超えた真理として、それは存在する。


 ミユキを喪い、彼女が守ろうと試みたシラヌイもまた喪われた。この上、マイカゼを始めとした血族にまで不遇を強いるのはトウカとして断じて許容できるものではない。


 一拍の逡巡。


 トウカは意を決してマイカゼの両肩に手を沿える。


「では、天狐族のマイカゼ。貴女に要請する。皇城に登城し、我を秘書として補佐せよ」


「それは……」


 突然、現れた諸種族が伝手を持たぬ天帝に侍るという事実は、天狐族に対する最大限の援護となる。トウカ自身はそれを良く理解している訳ではないが、天帝との距離が諸種族にとって一つの権威となる事だけは元居た世界の歴史的事実から理解できた。権威主義下に於ける政治とは、権威との結合こそが最大の利益を齎し、己の身を良く助ける。


「そちらのシラユキ殿だけでなく、ハツユキ殿も連れて来るが良かろう」


 マイカゼの袖を掴み、陰に隠れるシラユキの興味深げな視線を正面から見返し、トウカは提案する。


 ミユキが喪われたが、マイカゼはシラユキとハツユキの二人の娘が未だに居る。一人が喪われた空と悲観にくれている暇はなく、二人を守り続けなければならない。よってマイカゼは重責を感じている事は疑いなかった。それ故の行儀見習いとなる。


 しかし、それを指摘する真似はしない。


 気丈に振る舞うマイカゼ……というには若輩のトウカには露ほども悲哀を感じさせぬ仕草を黙殺し、トウカは言葉を重ねる。


「系統種族の中での立ち位置は複雑なものがあるという事だろう?」


 神狐族が行方不明で、天狐族は長く主導的な立場を取らなかった所為で狐系統種族に於ける主導的な立場は炎狐族へと移って久しい。陸軍府長官のファーレンハイトが炎狐族であることからもそれは窺い知れる。


 トウカの提案。


 天帝の庇護。


 絶大な後ろ盾と言える。


 政治を無視して権威と結び付くのだ。より直接的な権力保持方法と言える。反発が予想されるが、それは手法次第で軽減できた。宮廷政治家の如き振る舞いだが、厭離穢土を決め込んで久しい立場にある天狐族が狐系統種族の中で相応の地位を得るには穏当な方法では難しい。既に権勢を得ている種族との軋轢は必至だった。


 その程度はマイカゼも覚悟していると、トウカは確信していた。


 しかし、返答は違った。


「恐れながら、それは辞退しとう御座います。これ以上の危険は冒せないのです」


「……ああ、なるほど。被害統制(リスクコントロール)の類か」


 僅かな思考で、トウカは思い当る。武家として思い当る節があった。


 ミユキが喪われ、シラヌイも喪われた。


 天狐族の族長家系はマイカゼと二人の娘であるシラユキとハツユキを残すのみとなった。血族を後世に遺すという点では重大な危機を迎えていると言っても過言ではない。よって一カ所に一族を集めた場合、全滅の危険があった。分散は妥当な判断である。


 トウカの下に娘を置く事もまた分散……被害統制(リスクコントロール)の一環と言えた。


 自種族の繁栄もあるが、族長一族の全滅という可能性の低減も含まれていると見たトウカは、幼い姉妹を引き離す事は忍びないという感情論を飲み込むしかない。ユキの姉妹とは言え、種族の政略の前には例外とはならず、それに苦言を呈する権利はトウカにもなかった。


 各々の種族が自種族の繁栄を賭して政戦に参加している。国益を毀損しないならば天帝とて口を挟むべきではなかった。特段の寵愛は隔意を招きかねない。


 その辺りを勘案した上で、シラユキの行儀見習いが限界であろうとの判断があった事は、トウカにも容易に察せた。


 シラユキの行儀見習いだけでは命運を若き天帝に預けたとは諸勢力に捉え難い。陣営と繋がりを得れども、どちらかと言えば保険という扱いと見られる。寧ろ、二人しかいない娘の一人の生命を賭け金に若き天帝と友誼を結ぼうという挑戦的な振る舞いに過ぎなかった。


 トウカのアリアベルに対する振る舞いは既に社交界で広く流布している。そうした中で娘を預けるという行為は決して迎合とは捉え難い。例え、トウカが皇州同盟として比較的優遇していた天狐族とはいえども、彼は同胞とて敵するならば容赦しない事は内戦中の所業から明白となっている。


 賭けに出た種族と見る者が多数である。


 そうした風評すらもマイカゼは利用する。


 トウカはそう確信していた。


「いいだろう……その娘、預かろう」


 娘を一人喪う理由となった男にもう一人の娘を預ける心中はいかばかりか、とトウカは胸中で皮肉な現状を持て余す。


 牽強付会を他者に強要する立場となったトウカだが、狐だけには酷く負い目を感じていた。雲霞の如く攻め寄せる敵を鏖殺し、同胞の屍の防壁を以て国難を堰き止めた中で、狐達だけに負い目を感じるというのは筋が通らないが、天狐族に関しては厭離穢土の状態からトウカが外へと導いたという経緯がある。


 トウカは執務机越しに、母の背に隠れながらも自身を窺う幼娘を見据える。


「あー、なんだ。受け入れの用意はできていないが……望みがあるなら、この紫髪の女性に言うといい」


 背後に控えるリシアへと丸投げする形だが、トウカとしては幼娘への対応など知りはしない。当たり障りなく宥め賺す真似はできるが、数日と持たないという自負があった。


 実際、周囲は狐の相手ならば喜ぶと考えていた為、意外な顔をするが、トウカからするとミユキの面影のある幼娘を近くに置く事は酷く心に影を落とす出来事と言えた。


 ――そう言えば、もう一人の幼娘も呼び寄せねばならんな。


 優秀にして直截的な小狐をベルセリカが望んだ為、それを関係各部署に納得させる必要があった。特に陸軍府の対応が肝要で、陸軍軍人を枢密院に押し込めると狂喜するか、未来の参謀総長を軽々に取り上げられてなるものかと抵抗するか、トウカも判断が付かない状況である。通常ならば前者であるが、陸軍府総司令部は彼女の才覚を恃んでトウカへの対応を立案していた節があった。その場合、容易に手放さない可能性がある。


 ――逆に懐に押し込んで鈴にする可能性も捨て切れないが……


 自身の振る舞いに疑念と懸念を抱いている者が数知れず国家の枢機に居るという事実をトウカは受け止めている。寧ろ、自身の所業を賞賛する輩こそをトウカは警戒していた。自身の名の下に各々が己の野心を露わとする真似を許せば国家の腐敗を招く。


「天帝になると初めてが多くて困るな……それも予想外の初めてばかりだ」


 冗談ではないか冗談を思わせる口調に努めて見せるトウカ。


 控えるリシアは鼻で笑い、マイカゼは口元を右手で押さえて典雅な笑声を零す。ベルセリカだけは沈黙を保っている。ミユキに対する負い目ゆえか、或いは予期せぬ即位に雪崩れ込んだトウカへの負い目ゆえか。


 気分転換の為、煙草箱(シガーケース)を懐から取り出すが、子供が居る事を思い出して再び懐に仕舞い込んだトウカは、執務机の引き出しを漁る。幼娘が好みそうな飴一つ姿を見せない。


 書類と文具以外の姿が窺えない引き出しを漁りつつも、トウカはマイカゼに問う。


「ところで俺は、その娘に嫌われていないのか? 随分と奪ったと思うが……」


 奪う事は最早、トウカの専売特許と言える。軍旗と共に掲揚しても不審なき程に人命を奪いに奪った。少なくとも諸外国の近代史に名を残したという自負をトウカは持ち、その才覚を今後も遺憾なく発揮してゆく心算である。


 喪っただけのモノに見合うだけのナニカを手に入れねばならない。


 引き出しを漁る手を止める。


 果たして、世界という引き出しには、喪っただけのモノに見合うだけのナニカが隠されているのか。


「まだ幼いので夫とミユキの死を良く理解していませんので……」


「その辺りすらも理解できぬ者を行儀見習いに……珍しい事ではないのだろうが……」


 武士が幅を利かせていた時代の祖国の仕来りにも見受けられるそれに対し、トウカは好意的ではない。優れた教育や主君筋に物心ついた辺りから仕えさせる事で忠誠心を植付けるというのは実に優れた手段と言える。しかし、国家主義を重視するトウカからすると忠誠心は国家元首を通して国家に預けるべきものであって、分散させるべきものではなかった。


 然れども今の自身が、その国家元首という存在である事に思い至ったトウカは頭を掻くしかなかった。


「俺の教育方針は碌でもないと自負しているが――」


「――御主に教育させる筈なかろう」


 ベルセリカがトウカの自負心を一刀両断する。そこに天帝尊崇の精神はない。


 剣聖はミユキをハツユキに重ねて幻影を見ていると感じたトウカだが、皇城で脾肉の嘆を託つのならば、幼い狐娘の育成に励むというほうが建設的と言えた。トウカはベルセリカに枢密院での活躍を期待している訳ではない。


「まぁ、あれだ。同年代……若しくはそう見える狐に当てがないでもない。最悪、それなりの数を集めておけば淋しい思いをする事もないだろう」


 余りにも雑な方針だが、友人というものが酷く教育に宜しい要素である事は、それを持たなかったトウカ自身が良く理解していた。


 天狐族の娘の為、系統種族の狐を集めるというのは、天狐族を狐系統種族の中で特別視していると周囲に印象付ける事となる。その程度はトウカにとり許容できる政治的危険性(リスク)であった。何より天狐族は好機を生かすだけの社交界の紐帯を持たず、要職に就く者もヴェルテンベルク伯となったマイカゼ以外には存在しない。


 政治的脅威とはなり得ない。


 マイカゼもまた狐系統種族内で主導権を握るなどという無謀は、少なくとも短期的には想定していない筈であった。


「雇用と賃金、流通が上向けば何とかなるでしょうが、当座は陛下に傅いて凌がねばなりませんので……」


「此方とて無理は言わん。確かに当面のヴェルテンベルクの統治には皇権を匂わせるくらいの根拠が必要だろう」


 マイカゼによるヴェルテンベルク領の統治は順風満帆とは言い難い。


 マリアベルの治世が峻烈に過ぎた為である。


 激情型……劇場型政治家として優れたマリアベルは、魅せる政治に秀でていた。


 その熱狂と演出に囚われた者は決して民衆だけではない。有力者……領内の士族にも多く、それは信奉者と評して差し支えなかった。


 最終的な破綻を見なかったのは、その死によって悲劇の領主としての印象を得た事と、全ての破綻を齎す筈であった北部内戦をトウカが実質的に痛み分けに終わらせた為である。破綻は回避され、皇州同盟の権勢は維持された。よってマリアベルの所業は巷で致命的な程に毀損されていない。


 マリアベルの嘗ての振る舞いは、彼女を信奉する者にとり絶対的な基準となった。


 マリアベルの治世とは乖離の激しい穏当な政治姿勢に不満を持つ者が出ない筈もない。現状で不満が最小限に抑えられているのは、トウカがマリアベルの姿勢を継承したからに他ならない。


 だが、トウカは至尊の座に在って総攬者となった。


 今までの如き批判と苛烈な振る舞いを常に成せる訳ではない。特に国内へは。


 そうした中でマイカゼは己の統治に不満の矛先が向くであろうことを見越した上で、シラユキをトウカに預けるという選択をした。内政での反撥と横槍への牽制である。


「全てが終われば陛下に総てを御預けいたしますゆえ、どうかお力添えを――」


「良い、北部鎮護は喫緊の課題である。北部戦線にも差し障る上、エルライン要塞再建を踏まえれば北部産業の進展は不可欠だ」


 トウカは全てを預けるという発言を退けつつも、合理性を説く。


 場合によっては与えられる事もまた傷になるのが政治である。マイカゼはそうではないが、無能な味方が政略を台無しにする場面は確かにあった。特に理想主義に傾倒する傾向のある左派や、急進的な右派に多い。


「実情として北部の重工業は発展させざるを得ない。次は北部が後方になる番なのだ」


 迂遠に帝国侵攻による領土拡大を匂わせる発言に異論はない。


 北部の発展と帝国侵攻は一つの政策として皇国の枢機では扱われる事になる。


 北部は帝国と地政学的に見て近すぎる為、航空技術の発展に経空脅威の規模は上昇していく事になる。それだけではなく将来的には弾道兵器の脅威もあった。現状でも、列車砲や多薬室砲は歴史上に姿を見せており、魔導技術による仮装延長砲身を追加した場合、エルライン連峰越しに曲射弾道を以て皇国北部を直撃できる可能性はある。


 史実でも初期の超巨大砲(スーパーガン)として登場した巴里(パリ)砲は、その運用に多大な制限があったものの、約一三〇kmの射程を有した。


 《大日連》でも一四式五一㎝大陸間戦略砲として超巨大砲(スーパーガン)は採用され、多薬室砲の原理により、対地誘導弾を撃ち出すという計画があった。砲撃時の衝撃から誘導弾を保全する困難に加え、費用対効果と科学技術の進展による大陸間弾道弾の高性能化によって計画は凍結された。しかしながら、後に静止衛星軌道上の軍事衛星に対する安価な攻撃手段として短期間ながら再就役した経緯がある。


「国内も落ち着かぬ中での侵攻となれば、家内の混乱に背を向けて出勤する夫と変わらぬでは御座らんか……」呆れ顔のベルセリカ。


 凛々しい佇まいの剣聖の呆れ顔は、男役を演じる女優の如き仕草を思わせる。対するリシアは、それに対して鼻を鳴らして野戦将校に相応しい粗野な仕草を見せた。


「出兵を揺動として反動勢力の激発を誘う、辺りですか? 前線の兵力を短時間で国内に再配置させるのは帝国の輸送事情では困難かと」


「構わない。寧ろ、多くの者がそう考える事こそが好機だ。何も大返しは陸上戦力だけの特権ではない」


 リシアの言葉に、トウカは情報将校という立場が成長させたのか、アーダルベルトの指摘があったのかと脳裏を過るが、鷹揚に頷くに留める。


 実情として、リシアの読みは国内を主眼としたものに過ぎなかった。


 国内の叛服常無い者達の激発を誘うという目的もあるが、同時にそうした国内の動乱を以て帝国に反攻作戦を決意させるという目的もあった。


 トウカの帝国侵攻における危惧は、帝国軍による反抗がない事にある。


 市町村の占領は重視しないので人民の焦土作戦は恐れるに値せず、寧ろ、皇国軍は居住地を避ける形で進軍する事になる。物資集積所を各地に展開し、十分な護衛の下で補給線を構築する予定であった。場合によっては市町村を避ける形で工兵による仮設道路が敷設する事も検討されている。


 エカテリンブルクまでの侵攻という制限があってこその負担軽減であるが、焦土作戦で民衆の食糧事情に責任を持つ負担と比較すれば安価に済む。それ以外にも占領地の現地住民との交流によって生じる諸問題を低減できるという利点があった。


 無論、人口が希薄で居住地間の距離が長大な帝国南部であるからこその決断であった。


 トウカは自由の旗も民主的な思想も掲げてはいない。


 そうした者の侵略を相手に焦土戦術は有効とは言えないが、トウカは批難を避ける為、居住地を可能な限り避けて進軍する心算であった。


 なにより市街戦は兵力を著しく消耗させる。


 航空艦隊の戦術爆撃と、戦略爆撃航空団の戦略爆撃で要衝である都市に関しては粉砕する心算であった。不正規戦は、都市部を抱え込まないという前提であれば小隊規模の軍狼兵や装虎兵による哨戒行動で対応できるという目算があった。


「エカテリンブルクまで装甲軍団が駆け抜ける事になる。敵軍の戦線を各所で突破し、補給線を蹂躙する。敵軍の機動力を短期間で奪えば非正規戦も小規模に留まるだろう。


 前提として、帝国領侵攻は政治的成果と帝国南部の領有を求めてのものとなる。


 居住地の占領は重視されない。


「莫迦な。後方を放置して争うなど……博打では御座らんか」


 補給が途絶する危険性がある事も確かである。だからこそ北部自体は相応の策源地として機能する程度には戦争の被害から回復して貰わねばならない。


 しかし、成功すれば全てが回天する。


「ですが、帝国が元は属国とは言え、自国領土の割譲を認めるでしょうか?」


 認めなければ泥沼化して最終的に兵力を消耗する事になる。


 強権的な帝国主義国家として存在する帝国に取り、領土割譲は国営を危うくしかねない危険性を孕んでいる。帝国の弱体化と見られた場合、他国による侵略を助長させ、国内の不穏分子の叛乱を招きかねなかった。


 帝国が継戦を選択すれば、大陸に深入りした《大日連》陸軍が湯水の如く兵力と予算を蕩尽した悲劇を再現する事になるだろう。


 だが、そうはならない。


「エカテリンブルク近傍からであれば、戦略爆撃騎の行動半径に帝国中央部の大半が収まる事になる。搭載量を減らせば帝国北部にも届くだろう。それを教えてやればいい」


 無論、物理的に……愚者は経験に学ぶ事になる。


 マイカゼはシラユキを抱き寄せるだけで言葉を発さない。


 巨大な経済活動である戦争の策源地にして動脈となる北部は、その中で急速な発展を遂げる事になる。地政学的に見て製造と流通を担う以上、大量の予算が投じられる事は疑いなかった。そこにヒトが集まり商機と機会が生まれ、更にヒトが集まるという循環が生まれる。


 北部発展と帝国侵攻が一つとなるからこそ北部貴族は戦争に賛同する。


 大義名分があれば、トウカも莫大な国家予算を大手を振って投じられる。


「それは……成程、今回の侵攻自体が戦略爆撃航空団の足場を作る為のもの……だからこそ占領地の拡大は限定的で良いという事ですね」


 恫喝の意味もあるが、それだけではない。


 エカテリンブルク近傍からであれば爆撃可能な穀倉地帯が複数ある。化学兵器の散布で食糧自給率を低下せしめれば、孤立主義的な帝国は食糧輸入に頼らざるを得なくなる事は明白であった。講和条約に食糧の“有償”での譲渡を含めれば優位を確保できるとの目算もある。


「じゃが、それで和睦の席に就くとは限るまい。ましてや、領土割譲など受け入れてあの国が持つとは思えぬ」


「その時は国家体制を維持できなくなるまで戦略爆撃を加えるだけだ。戦略爆撃に耐え得るのは思想的に統一された国民と中央集権機構を持つ国家のみだろうからな」


 帝国は封権主義的な国営を行っており、現在の皇国よりも中央政府の権力が強いとはいえ、戦略爆撃の目標と成れば離反が相次ぐ程度には地方貴族に独自裁量がある。独自に領地が運営されているという事は、領地が高い完結性を有しているという事であり、統治機構を国家に依存していないという事でもある。


 独立問題で生じる最大の問題とは、統治機構の整備にある。


 トウカの元居た世界でも蘇格蘭(スコットランド)は長年、独立問題が燻るが、現地行政の貧弱さから独立は現実的ではなかった。公共施設(インフラ)を維持する人員も乏しい。対する西班牙(スペイン)に於ける地中海帝国の末裔達は、高度に独立した行政機構を有しており、独立直後の内政に於ける混乱を最小限にできる余地がある。


 独立は熱意と税収だけで実行できるものではない。行政機構とそれに携わる十分な数の人員を有してこそ初めて統治可能となる。そしてそれらは短期間で整備できるものではない。最低でも一〇年は要する。


 ――まぁ、原子力潜水艦の基地がある蘇格蘭(スコットランド)の独立を英蘭(イングランド)が認めるとは思えないが……


 クライド海軍基地は〈ヴァンガード〉型戦略原子力潜水艦の根拠地となっている。軍事戦略上、容易に独立を許す事はできなかった。示威(デモ)活動に対して官憲を動員し、数百人単位で逮捕者を出す程度には、重要視されている。


 閑話休題。


「封権制度は戦略爆撃に対して極めて貧弱であると言わざるを得ない。総力戦の足枷にもなれば、税制と教育の格差をも招いている。軍事上でも内政上でも看過し得ないが、その理由を帝国本土で示す事は大いに意義がある」


 封権制度の脆弱性を喧伝する政治効果を意図した言動に、帝国侵攻が今後の政局の前提ともなっているのだと理解したベルセリカは沈黙する。封権制度による閉鎖性が種族間の交流を限定し、それこそが嘗ての彼女を阻んだ。そこに繋がる以上、反論はし難い。


 ベルセリカの逡巡。


 剣聖が皇都侵攻による決戦を強要しようとした目的はフェンリスへの遺恨だが、封権制度の根幹とも言える七武五公の一角が崩れたともなれば国内勢力の再編に話を持っていくことも不可能ではなかった。可能性は低いが、そこを見ての侵攻であった可能性は高い。


「閉鎖性は力によってのみ短期間で粉砕できる。御行儀よくしても遺恨は長々と続くだけだ。解決できる問題を、子孫に残すのは怠惰に他ならない」


 現状で解決する為に必要な資源と時間は、解決の時期が延びる程に増大する。それは国益の毀損に他ならなかった。


「子孫の不遇を許容するならば、今この時、国民に流血を求める、と?」


「然り。天帝たる我は、過去の天帝が怠った諸問題を可決すべく、今この時、流血を国民に求めるものである」


 種族間の閉鎖性に関しては、トウカは性急な解決を求めていた。多民族国家内の確執の結果を知るが故である。


 トウカは客観的に見て民族的差異よりも種族的差異がより大きいと見ていた。


 肌の色以上に異なる部分が多数あり、その上、文化的にも大きく異なる種族は、民族以上の隔たりがある。事実として、皇国では種族的差異が重視され、民族的差異は誤差と見られる傾向にあった。


 特に外観的差異は大きい。


 歴史を紐解けば《独逸第三帝国(サードライヒ)に於ける猶太(ユダヤ)人に対する処遇も、実情は猶太人“らしい”人物への排斥活動であった。外観による判別で猶太人が猶太人でなくなる例も多々あり、猶太人“らしい”外観から不遇を強いられた者も存在する。歴史的経緯から見て独逸に純粋な独逸人などいるものか、と吐き捨てた同盟国の伊太利(イタリア)王国、統帥(トゥーチェ)の言葉は正論であった。


 トウカはそれらの経緯から、差別の根源は外観的差異に依る所が大きいと見ていた。


 曖昧な民族性の差別化を外観に求めたのは、ヒトが判断に当たって視覚情報を重視する傾向にある為であった。五感の中で最も情報量の多い視覚からの情報を以て訴え掛けるというのは、道義と結果は兎も角として政治的に見て何ら不自然な事ではない。


「通信技術が発展して以降の内乱などあってはならない」


 ただでさえ通信技術の発展による民意の暴走を招く時代に立ち向かわねばならない中、種族対立を放置し続けるという選択肢はなかった。挙句、軍事技術の発展は内乱の被害と遺恨を大きくし、種族対立からなる衝突は戦場を選ばない。民衆の遺体が市街地に積み上がることは間違いなかった。


 通信技術の国営化への法整備を後々、行わねばならないと嘯くトウカに女達は顔を見合わせる。トウカが危機感を露わにす事は珍しく、それが海のものとも山のものとも知れぬ通信分野ともなれば尚更であった。


「見ているものが違ごうておるなぁ」剣聖の嘆息。


 トウカは執務椅子上で胸を逸らして鷹揚に頷く。


 彼からすると同じものをみているのであれば、その者を宰相に任命していた。ヨエルも技術としては多くの事を知っているが、その発展が何を齎すかは断片的なものでしかない印象をトウカは得ていた。彼女は多くの分野の知識を有しているが、それは皇紀二六六〇年以前のものに集中している。


 ――初代天帝はその辺りの時代の人物か。


 トウカとしてはあまり興味のない事であるが、ヨエルの主張から推測できる為人は、相応に政戦に詳しいものの、軍事に偏りのある人物であるというものであった。少なくともトウカ以上に政治や技術に疎いながら、軍事戦略に熟達している事から職業軍人かそれに類する立場の人物であろうとトウカは見ていた。


 ――シュットガルト湖を近つ淡海と呼び、明らかに祖国の失敗を鑑みた戒厳令が明文化されている。


 日本人である事も間違いなかった。それも近つ淡海とは琵琶湖の古称である。浜名湖を“遠つ淡海”と呼ぶ事に対し、都に近い湖の意として用いられた。


 それらの背景から見るに近江県周辺の出身の職業軍人である公算が高い。首都である京都に近い為、舞鶴鎮守府もあれば大阪陸軍造兵廠や名古屋陸軍造兵廠もある。近畿は軍事的要衝と言えるので軍務に従事する者は多い。


 若き天帝は天井を仰ぐ。


 詮無い推考であると会話に戻る。


「強大な種族達と先達の挺身によって猶予はあるが、予算は幾らあっても足りん上に、人的資源の選別は仕組みからの構築になる……先が思いやられる」


 皇州同盟軍の際は軍事偏重以外の選択肢はなく、その土台となる組織は既に北部統合軍成立以前より各領邦軍として存在していた。連携と装備に差異はあれども、独立大隊として見た場合は最低限の能力を備えており、その効率的運用が主な問題となっていた。無論、当時は弾薬不足と内政面の足並みが揃わない点などに悩まされたが、一国を統率して成すべきことが指数関数的に増えて手に余る事と比較すれば些事に過ぎない。


 ――まぁ、熾天使や枢密院が動き出せば解決していくだろうが……


 皇国は封権制度下でも相応の方向性を各貴族に押し付ける為に強力な行政機構と、各種種族による額面の人口以上の人的資源を有していた。前者は天帝不在で機能不全に陥り、後者は半ば放置されていたが、金銭と物資の流動性が増せばヒトもまた交流が増加する事になる。


 封権制度と種族間の閉鎖性さえ是正できれば、巨威力な行政機構による人口以上の国力を以ての政戦に臨む事ができる。


 そうした状況に持ち込む為の時間を圧縮するべく、トウカは腐心する事になる。


 先皇の融和路線に毒された官僚を一掃し、国益の漏洩を阻止しつつ、重工業化による内需拡大を指向しなければならない。


「既に提言している政策もあるが、まぁ正しく受け取る輩がどれだけ居るか見ものだな?」


 己の為に自己解釈を繰り広げるならば、誰であれ排除せねばならない。


 何よりトウカの示した指針が正しく浸透するには相応の時間を要するのは間違いない。大規模な方針転換という以上に、官僚達からすると前例のない方針は混乱を招くものである。


 先皇の影は未だ行政機構の各所にある。



 秩序を代表する人物の意見が通るには、あらゆる幻影が消え去るまで待たなければならない。



 先の指導者の方針と思想に引き摺られるのは致し方ない。簡単に変更できるものではなく、人員を大規模に入れ替えては行政機構自体の機能不全を招く。


 そして、こうした混乱に付け入る事で利益を得ようとする官僚は少なくない。


「天帝不在で馬鹿げた天下りも増えたようだからな。御望み通り輸送騎からの天下りをやらせてやるさ」


 物理的天下り……空挺降下で地面に叩き付けるしかない。


 政略に見せしめは必須である。


「成すべきことは多い。時間も無駄にはできない。ならば、俺の足を掴まんとする輩の手は悉く斬り払うべきだ」



 汚職する者の手を切り落としてしまえばいい。そうするだけで、賄賂を要求する様な手はすぐになくなる。



 中世の如き振る舞いを以てして綱紀粛正を図らねばならない。混乱を承知で国家方針を変更するとはいえ、その混乱を放置するのは民衆からの支持を失う結果になりかねなかった。厳罰を以て対処する事で公正な姿勢を演出する事もできる。


 つまり、未だ苛烈な姿勢は堅持せねばならなかった。


「離れるなら今の内だぞ? 巻き添えを否定できる程、万全な体制ではないからな」


 多くを得て、多くを喪う振る舞いは今暫く続くことになる。






「秩序を代表する人物の意見が通るには、あらゆる幻影が消え去るまで待たなければならない」

  

              《仏蘭西帝国》 皇帝 シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト





「汚職する者の手を切り落としてしまえばいい。そうするだけで、賄賂を要求する様な手はすぐになくなる」


             《露西亜連邦》第二、四代大統領 ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン



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