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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第三章    天帝の御世    《紫緋紋綾》

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第二八五話    人事的混乱




「ぬわぁ……どういう事よぅ……話が違うじゃないですかぁ!」


 リシアからの酒精交じりの追及に、ベルセリカは溜息を一つ。



 皇妃アリアベル。



 字面の上ではそれらしいが、政治的混乱を指す名に等しい。


 ベルセリカは酒精強化葡萄酒(ワイン)硝子杯(グラス)を使わず喇叭飲みするリシアをため息交じりに宥めにかかる。


「皇妃ともなれば面倒も多かろう。実質、秘書や副官に比べれば共に過ごせる時間など僅かでは御座らんか」


 天帝や皇妃は自由気儘に振る舞える立場ではない。天帝とて皇権を振り翳せるが、個人としての自由など無きに等しい。少なくとも慣例に従うならば。


 即位からして異例尽くめのトウカは、冠帯すら行わずに軍帽で皇座へと腰掛けた。前代未聞という言葉に留まらず、皇室典範の規定を悉く無視している状況である。トウカの皇権を担保するのは軍事力のみであるという姿勢はそこにも垣間見えた。


 ――儀典に関わる貴族の専横の芽を摘む心算であろうな……


 皇城府の儀典……即ち儀式や祭礼を取り仕切る宮中伯を主体とした宮内貴族が自身の無知に付け込む事をトウカは懸念している。事前にトウカに伝えられたベルセリカが宮中伯の“説得”に赴いた程であった。


 ――まぁ、あの老人に野心があるとは思えぬが……


 剣聖の誠意ある“説得”に対し、舟を漕いでいた宮中伯の老人はある種の大物であった。


「側妃でよかろう? 副官や秘書を側妃として娶った前例はあろう」


 ベルセリカの指摘に、リシアは剥れる。


 一番でなければ気が済まない性格ではあるが、トウカと過ごす時間の増減に関しては一考の余地があるという様子。無論、リシアであれば皇妃が副官や秘書を務めればいいと後に言い出す事は疑いない。


 しかし、側妃という立場の自由度を踏まえれば、皇妃よりも余程に大きな権限を保持する例も少なくない。


 皇妃は子を成し、血統を存続させることを主目的としている。血縁は家臣や諸外国の王族との婚約を以て関係を持つ事を重視していた。皇国に於ける即位の特異性から永続性を重視せず、場合によっては先皇の如く皇妃を望まない事もあるが、多くの場合、有力者の娘を迎え入れ、派閥と連携する姿勢を鮮明にすることが多い。


 対する側妃という皇国特有の制度は、しばしば学生を国史の授業で困らせている。


 多面的に過ぎるのだ。


 後宮に匿われるかの様に公式行事以外は姿を見せない皇妃に対し、皇室の印象向上(イメージアップ)の為、或いは貴族との連携の為、多種多様な行事に参加する側妃は、皇妃よりも国民に広く知られた例とてある。中には武功を上げた女性将官を側妃として娶り軍への影響力拡大を成した例もあった。


 様々な側面を持つ妃……即ち側妃である。


 側室から転じた側妃がそう揶揄される立場となったのは、その特異な即位によって譲位毎に血縁関係が途絶する為、皇室が各方面と関係を再構築する必要性に迫られたという理由がある。


 つまり側妃はあらゆる立場や勢力から選出される。


 リシアであっても問題はない。


 寧ろ、皇州同盟や陸軍との関係に配慮した結果と周囲が見る事は疑いない。出身組織とはいえ、天帝ともなれば常に皇州同盟軍の動向に対して目を配れるはずもなかった。その懸け橋としてリシアを側妃として推挙するというのは、ベルセリカにとって困難な話ではない。現状では陸軍に属しているが、寧ろそれ故に陸軍と皇州同盟軍の連携の象徴と成り得る余地がある。


 リシアは側妃として十分な立場を備えている。


 加えて紫苑色の髪もあり、側妃となったならば貴軍官民の覚え目出度い存在となる事は疑いなかった。


「皇妃が側妃の様に振る舞って、序でに陸軍府長官でもいいじゃないですか」


「面倒臭い事を言いおるわ。陸軍も同盟軍も相応の階級を送ってこよう。それで満足するがよい」


 強欲が過ぎる発言だが、陸軍府長官の留任は即位時の発言から確定しており、覆す事は難しい。


 中央貴族を暴発させ、今一度、叩いて天領拡大による封権体制打破を意図するトウカ。陸海軍の戦時体制を毀損させるが如き人事上の混乱を行う筈もない。


「別に中央貴族も内戦なんて起こさないですよ。そこまで愚かじゃないはずです」


 リシアは酒瓶を抱き寄せて唸る。


 批難と憎悪の余地を与えて暴発の可能性を増大させているが、トウカは優秀な軍略家に過ぎた。陸海軍を影響下に加えつつも、皇州同盟軍との連携を深め、装備の共通化を図りつつある。


 戦力乗数に開きがあり過ぎた。


 戦力乗数とは武器や部隊の規模以外の関連し合う特性の集合であり、戦闘において軍事組織を一層効果的にするものである。公式の数式は存在しないが、一般的には航空、通信、配置、統率、情報、兵站、運動、士気、奇襲、訓練などが当て嵌められていた。つまり軍事力算出の為、計測しなければならない因子の大部分が運用に(まつ)わる部分が占めており、それは領邦軍に対して正規軍が優越する部分でもある。


 兵力差もあるが、実際には兵力以上の戦力差がある。


 戦力乗数がそれを示している。


 戦力乗数で優越しているならば、敵戦力と同等の戦力で敵戦力以上の効果と威力を発揮できるのだ。


「七武五公が動かなければ六対一……しかも、分散配置で指揮系統もばらばら……各所撃破は避けられないですよ」


「であろうが、それ故に軍事以外で動くやもしれん」


 それを懸念するからこそトウカは自身の得意分野である軍事的解決を相手に強要しようとしているのだと、ベルセリカは見ていた。


 だが、相手がそれに付き合う道理もない。


 しかし、それはトウカにも言える事である。


「その内、適当に因縁を付けて武力で貴族領を接収し始めるんじゃないですか? そうなれば嫌でも暴発しますよ」


 乙女らしからぬ溜息を吐きながらも指摘するリシア。


 ベルセリカは成程、と感心する。トウカの手口を良く理解している。ベルセリカは未だにトウカの思考に及ばない。聞けば理解できるが、常識が邪魔をして踏み込めなかった。


 近世に在って軍事力を背景に言い掛かりを付けて領地を接収するというのは国内に限って言えば前例がない暴挙と言える。マリアベルもまた似たような振る舞いをしているが、それは経済的併合でしかなかった。名目上は別領地となっている。


「まぁ、領地の返還……転封を強要して暴発させるってのもありですよね。……というかそうじゃないと困るんです」


「武力に訴えるのは困るという事で御座ろう」


 経済的混乱で民衆に不遇を強いる事になれば、後の治世に響く。天帝即位によって経済活動も上向きになると期待されるであろう時期に再びの内戦では権威が揺らぐ。


 経世済民を成せない国家は、主義や政治体制に関わらず崩壊を免れない。


 リシアは頬杖を突く。


「いや、中央貴族の領地の特産物を買い占めてあるんです。混乱で価格が高騰するのはいいですけど流通網まで踏み荒らされると売れないですし、それに倉庫代が――」


「ええい! せこい真似をするでない! それでも軍人か!」


 ベルセリカはリシアの頭に拳骨を落とす。


 側妃として推薦するには振る舞いに難があるが、ベルセリカとしてはトウカの為に神々に背を向ける行いすら躊躇しないリシアを高く評価していた。有象無象の貴族令嬢とは違う行動できる側妃の誕生は皇室にとり望ましい。皇妃が飾り物として存在する以上、側妃までもが飾り物である理由はなく、他の側妃との主導権争いで優位となれる側妃を推薦する意義は大なるものがる。


 ――尤も、要らぬ行動をされては堪らぬが……


 芋焼酎騒動に代表される悪巧みの数々は、学生の思い付きの如きそれであるが、影響範囲が想像以上であった事から侮れない。側妃は国益の代弁者であり、それ以外の利益を口にしてはならないのだ。国益なき利益は売国である。


 ベルセリカは窓越しに庭園を見下ろす。


 数百年前から然して変わることのない風景であった皇城だが、戦火の跡は生々しく残り、城塞としての本懐を遂げた姿を見せている。


 一昨日の戦闘に於ける死者は六二四三名。


 全員が軍人である為、民間への被害はないものの、戦場が皇城である為、その注目度は隔絶したものがあった。


「後続部隊も続々と集結しておるな」


「遺体処理に忙しいのでしょう……」


 陸軍を主体とした後続部隊は工兵が主体となっており、皇都近傍の各師団から工兵大隊が抽出されて遺体や瓦礫の撤去が行われている。尤も、皇都擾乱での犠牲者の葬儀を終えたと思えばミナス平原会戦での戦死者の葬儀があり、未だ総てを消化し切れていない現状、葬儀場は何処も黒煙を延々と立ち上らせ続けていた。


「天壌まで棚引け、英霊の翠煙よ……とは嘯けども」


 紫苑色の髪の少女は嘯く。


 英霊の翠煙……皇城を巡る戦闘で戦死した将兵の大多数が陸軍所属である為、その軍装が暗緑色であることからのトウカの発言。


 天壌の神々に正統性を伝える英霊と取るか、天壌の神々の腕に抱き寄せられて安寧を謳歌するを願うと取るかで意見は分かれるが、ベルセリカはどちらも違えてはいないと見ていた。トウカは勇敢な者を忌避しつつも、同時に憧憬を抱いている。軍人が猛烈果敢である事を罪と考えているが、同時にそれに憧れる年若さを失ってはいない。故に二つの意見はどちらも正しいものと言えた。


「まぁ、突入に加わった将兵達は軒並み酔い潰れていますが……」


 酔い潰れる寸前のリシアの指摘に、実体験では御座らんか、と失笑するベルセリカ。


 酒精中毒でそのまま召される輩も生じるであろう宴会が皇城内では行われている。何故か交戦した近衛軍兵士も入り交じった宴会となっている無秩序だが、飲酒せねばやっていられないという心情はベルセリカも理解できないではなかった。


 皇軍相撃。それも近衛軍と陸軍を含んだ戦闘ともなれば、従軍時には想定すらしなかった惨劇である。近衛も新皇が到来したというのに銃口を向けねばならない状況に首を傾げる者は多く、中央貴族出身の将校だけが徹底抗戦を叫んだだけであった。銃剣突撃後の近接戦闘の最中に降伏する者は少なくなかった。


 ベルセリカとしては戦意旺盛な近衛軍将兵との近接戦闘は避けたいと考えていた。


 自身の戦技に自負を持つが、友軍将兵の被害は莫迦にならないと容易に判断できる。近衛軍は練兵で近接戦闘を特に重視しており、その任務の特性上、市街戦や閉所戦闘に重きを置いていた。平野や雪原での大規模戦闘を前提とした陸軍将兵を投じた場合、屋内での近接戦闘ともなれば被害が積み上がる事になる。


「遺族年金に大蔵府長官も卒倒しておろうな。無論、消費されておる酒にもで御座ろうが」


 渋る近衛軍侍従隊を押し退け、酒類の保管されている倉庫に突入を命じたトウカのそれはさながら野盗の振る舞いであった。友軍将兵達に酒を飲ませるという戦前の断言を有言実行したと言えば聞こえは良いが、既に己の財布となっている事を忘れたかのような振る舞いとも言える。


 皇城の酒類備蓄は公式行事での利用を意図して備蓄されている事は疑いないが、トウカがそうした公式行事を継続していくとはベルセリカも考えていない。


「高い酒など振る舞う予定はないとでも言うであろうがな」


 賓客をもてなすという発想に乏しいとは思えないが、間違いな酒宴ではなく軍事行進(パレード)に変更する事は疑いなかった。政治という舞台に積極的に軍事力を持ち込む事をトウカは厭わない。


「難しい話は明日からで宜しいじゃないですか」


 リシアは酒瓶を抱えて思考の放棄を提案する。


 エルゼリア候が農耕府長官などが内定しているが、人事上の混乱は明日より明確となるだろう。トウカは外務府長官を右翼義勇軍(フライコール)出身のエップに変更する心算であるが、最上位を変更した程度で外務府の体質が変わる訳ではない。間違いなく憲兵隊の査察によって他国勢力との癒着などを徹底的に調査し、見せしめの厳罰などを行う心算であろう。それでも悪質な者達は地下に潜ると推測される。


 問題は山積している。


 トウカの即位は、皇国に於ける政戦の方針転換に等しい。


 それも以前までの方針とは真逆のそれでありながら移行期間は極めて短い。各府では対応すべく各所で会議が始まっている事は疑いなかった。


 ベルセリカ自身も皇州同盟軍総司令官と近衛軍司令官を兼務する事になっており、加えて枢密院に於ける軍役方への就任まで噂されていた。


 トウカの傍仕えとして、兵権を統率する役目を負うのだ。


 枢密院は天帝の諮問機関だが、軍役方は新設されるであろう統合参謀本部議長に吸収されると、ベルセリカは見ていた。統合参謀本部議長を天帝の軍事顧問として枢密院に所属させるという流れが最も反発が少ない。


 統合参謀本部は天帝直率の軍事戦略の立案、助言を行う組織であり、議長は元帥、副議長は上級大将が親補せられる。ベルセリカとしては陸海軍の上位に立ち軍事戦略を握るというのは重責以外の何ものでもないが、トウカは統合参謀本部を行政府として長官を置く事を認めなかった。


 陸海軍から出せば一方に比重が傾き、行政府として成立させても威の伴わぬ文民が武官の頂点たる陸海軍府の長官を取り纏めるなど不可能である。


 文官を関わらせるべきではないというのがトウカの結論であった。確執と軋轢に苦しんで自殺者がでるだけとまで言い放っている。


 皇州同盟軍、陸軍、海軍から優秀な参謀を集結させて統合参謀本部を成立させるという方針だが、ベルセリカに組織の立ち上げ経験などない。第一に、政戦両略のトウカに対する軍事の助言などできる者はそういるものではなかった。即位後のヨエルとの遣り取りを見れば、熾天使を親補すればよいとすら思える。


 無論、トウカとしては信頼の置ける者を自身と陸海軍との間に挟みたいという意向があったのは疑いない。自身が陸海軍との調整を行う手間を省きつつも、将来的に高度な連携が必要となる点を鑑みて共同での兵器開発や訓練などを推進するという部分もあると推測できた。


 ベルセリカはリシアから酒瓶を取り上げ、喇叭飲みで一息に中身を飲み干した。


 願いもある。

 祈りもある。

 嘆きもある。


 しかして、それらに向き合う権力は組織間の調整と書類の山脈によって担保されている。


 本分とは言い難い分野にさしものベルセリカも挫けそうになる事もある。トウカの様に有力な参謀集団を集め、要点だけを抑える組織構築をせねば負担軽減は叶わないが、その体制を叶えるにも相応の手腕を必要とする。


 ――信の置ける者が少ない我らの欠点と言える。


 酒精交じりの溜息。


 そこでベルセリカは陸軍所属の子狐を思い出す。


 戦巧者であるかは不明だが、参謀将校としてトウカが賞賛する人物でもある彼女ならば組織構築と運営に役立つに違いなかった。陸軍との連携も期待できる。


 其々の思惑を乗せ、皇国に於ける若き天帝の世が始まろうとしていた。

 










 篠突く雨が寂びれた社の鎧戸や軒先を激しく打ち付け、硬質な音色が木材を主原料とした室内に反響した。


 この神社特有の初夏となっても尚、咲き誇る櫻もまた雨の影響を受けている。


 散り際の櫻に止めを刺し、境内の石畳横を沿う様に流れる雨水は桜色に彩られている。散り際すらも慌ただしい景色。若き天帝の振る舞いらしく雨音の魅せる静寂すらも急かされている様に耳朶を打つ。


 狂騒を押し流すかのような紅雨だが、紅い花は地に咲いた血涙それ自体である。


 皇城に於ける攻城戦に於いて積み上がった遺体の山は排除されつつあるものの、石畳や地面に撒き散らされた血涙と臓物、骨片はいまだ皇へと続く道を彩り続けている。


 地に染み付いた悲劇の痕は紅雨によって押し流され、皇城外郭を囲う深堀へと注がれるだろう。


 皇軍相撃。


 口にする事も悍ましい惨劇。


 内戦から続き、皇都擾乱、血の即位……同胞が相争う悲劇が短期間の内に二度も皇国を襲った。


 臣民は新たな天帝が即位して状況を安定に導くと無邪気に喜んでいるが、同時に危機感を抱いている者も少なくない。


 トウカほどの強権的にして軍国主義的志向を持つ天帝は近年では初めてと言える。


 実際のところは、客観的に皇国史を俯瞰した場合、初代天帝以来という表現となる。


 初代天帝は建国と黎明期を乗り切る為、数多くの強権を振るい、それは同時に軍国主義的志向に端を発した振る舞いであったとされている。武を以て多くを成した初代天帝は軍国主義的志向を持った名君であった。


 武装集団を率いて実力で国家指導者にまで上り詰めた以上、国営もまた得意とする軍の指導に重ねて行われる傾向があるのは不自然な事ではない。ヒトは意識的にしろ無意識にしろ成功体験に依存する。


 さりとて初代天帝がトウカの様に危険視されていたかは今となっては歴史の彼方である。


 小狐は縁側に腰掛ける。



 ネネカ・フォン・シャルンホルスト。



 陸軍参謀本部の俊英……小狐参謀と呼ばれる彼女は春も終わりつつある中での雨に憂鬱な表情を隠せないでいた。


 ネネカはトウカを危険視していた。


 政戦両略を評価しつつも、その武断的な姿勢を危惧してもいた。それを隠す事もなく周囲に指摘したのは、トウカの手が皇都……陸軍参謀本部まで伸びる事はないという確信があったからである。各勢力が跳梁跋扈する皇都に短兵急に踏み込む可能性は低く、加えて皇州同盟軍と陸軍は連携しつつあった。ネネカがトウカを危険視し始めた時点で、自身に危険が及ぶとの認識はなかったのだ。皇都擾乱に於ける段階になっても、両軍が連携体制を取っている事から自身への危険は少ないと見ていた。


 しかし、トウカは天帝となった。


 国家の全てを握る立場になったのだ。


 ネネカをどう扱うかトウカ次第なのだ。


 トウカを調査する過程で判明した残虐非道な振る舞いを知るネネカは、トウカを本当に恐れている。


 北部企業と経済連合との軋轢からの水面下での衝突は、皇州同盟軍情報部の介入で悲惨な事となった。数多くの民間人の遺体が国内に散乱した事件をネネカは詳細に調べた。


 家族諸共の事故死や非合法組織の殺害と見せかけた経済人の死は衝撃的なものばかりであった。皮を剥がれて針金で吊るされた遺体などは燻製にされた肉の如き有り様であった。戦場以外で赦される筈のない尊厳のない死に様。


 串刺しにされた者も居れば、路地裏で磔にされた者も居る。自宅で散々に輪姦された上で殺された母子が居れば、四肢を捥がれて畜産場の餌箱に投げ込まれた者も居る。


 自国民に対しての残酷な振る舞い。


 吐き気を催す程の惨状だったと警務官の報告書には記されていた。


 確かに長年の軋轢から中央部の者達に対し、自国民などという感情を持ち合わせていないかも知れないが、トウカはそうした北部臣民の感情を加速させた。その上、自らも残酷さを好んで臣民に用いたという事実が、ネネカをして受け入れ難いものとしている。


 しかし、陸軍の皇州同盟への依存は止まらず、増していくばかりであった。


 ファーレンハイトなどはトウカと連携して利益を生じさせつつも、ネネカを利用してその動きを掣肘しようと試みていたが、それはネネカばかりが不興を買う行いでしかなかった。


 上官の意向という美名の下でネネカはトウカを批判し、同時にそれは遠方の名将の振る舞いを非難する程度のものに過ぎないと軽視していた。


 そうした中で、トウカが行方不明となった。


 ネネカとしては予想とは違うものの、トウカの凶刃を警戒する必要性がなくなったのでその情報に安堵した。己の出世への道が開けたと確信すらしたのだ。


 しかし、トウカは再び歴史の表舞台へと躍り出た。


 悪夢である。


 狐系種族に寛大だという噂もあるが、残虐非道の振る舞いをする人物である事も確かである。寛大な処置を望むには余りにも血腥い相手であり、ネネカにはその勇気も度胸もなかった。


 何よりネネカには護らねばならないものがある。


 両親。


 苦しい中でも己を養い、陸軍士官学校にまで進学させてくれた恩義もあれば、家族としての愛情もある。決して裕福ではなかったが、暖かな家庭であり、母は良く父を支え家庭を守り、父は日々遅くまで労働に勤しむ家庭であった。ネネカは二人を献身的に支えるどころか軍人の道を志し、金銭的負担を強いている。


 良い子供であったとは考えない。


 だが、父母はそれに不満一つ口にする事なく、昇進の度にネネカを叶う限りの御馳走で祝った。ネネカも可能な限りの仕送りをしているが、両親が将来の為にと貯金に回している事を知っている。


 何ら報いてなどいない。寧ろ、迷惑と負担ばかりかけている。


 そして、今回は極めつけだった。


 父は警務官であり、母は一般主婦に過ぎず、非合法な振る舞いに対して無力である。平時なれば旅行にでもとネネカも考えたが、今は皇城での攻城戦があったばかりであり、交通機関は麻痺していた。鉄道などは混乱による物流の改善の為、陸軍鉄道部による運行統制が開始されている。消費財の欠乏による民衆の不満をトウカは最小限に留めたいと考えており、大型騎なども動員される輸送は陸軍兵站統括部の試練の到来であった。


 父母を不審なく皇都へ逃がす事は難しかった。


 ネネカは参謀将校に過ぎない。輸送手段を己の権限の範疇に留める形で用立てる事が可能な立場ではなかった。陸軍は皇州同盟軍の様に軍令と軍政が曖昧な組織ではない。


 だからこそ、誰かに縋るしかなかった。


 見え始めた和傘の先端。


 鳥居へと続く石畳を上りつめつつある人物を認め、ネネカは立ち上がる。


 軍帽を小脇に抱え、髪と狐耳を整えてネネカは強張った顔に笑みを張り付ける。


 見えた人影。


 初老の影。内胴衣(カマーベスト)の上に草臥れた燕尾服を着こなす姿は、然して肩肘を張らない洋食屋の支配人とすら思える。


「久方ぶりに御座います」


 一礼するネネカだが、老人の手が伸びて狐耳の間の頭を撫で回す。


「おぅおぅ、大きくなったのぅ……」


 娘に邂逅した祖父の様な振る舞いを見せる姿に、ネネカは何とも言えぬ表情をする。



 ルシウス・レイ・フォン・バルトシュヴァルツァー宮中伯。



 所在不明の宮中伯とも呼ばれる宮廷貴族であるが、その才覚から影の宰相とも呼ばれる人物であった。彼を知る軍や政治の高官は極めて少ないが、皇国政治に於ける彼の思惑の介在は絶大な意味を持つ。


 そう、軍神の異名を持つサクラギ・トウカの政治的躍進を阻んだのはルシウスであった。


 度重なる軍事的勝利も政治的蠢動も他地方では有耶無耶となり、ただ漠然とした危険視と不安視のみが残る世論となった


 服に負けぬ程に草臥れた佇まいのルシウスは、白髪に長い眉毛が自重に負けて糸目となっているかのような印象を受ける。纏う衣服が違えば仙人とすら思える人相であった。


 重力に耐えられぬとばかりに縁側へと寄り付いて腰を下ろすルシウス。


 ネネカも促されて横へと座る。


「新皇陛下の事かの?」直截な物言い。


 何時もはのらりくらりと歴史の蘊蓄が枕詞となるルシウスも、今回に限っては迂遠な仕草は見せない。


「はい……その私は色々と確執が……」


 いざとなれば口にする事も憚られると、察してくれと言わんばかりに匂わせて見せるネネカだが、ルシウスは動じない。長い眉尻を人差し指と親指で口髭を撫でるかの様に撫でてみせる姿は気負いも疑念も思わせないものであった。


 ネネカは焦燥に尻尾を揺らす。


 大きな齟齬がある。


 或いは諦観。


 瞳の所在が不明瞭である為、睡魔に屈したのではないかとすら思えるが、それは往時から変わらぬ者であった。覚醒を促す為に後頭部を一撃するという選択肢はない。


 一拍……というには長い、単位が変わる程の間を置いてルシウスは首を傾げる。


「そうかの?」端的な一言。


 言葉は続かない。


 ルシウスは不満が奈辺に在るのか掴めないのか、言葉を促すでもなくただ沈黙する。


 言い難い言葉を待つという姿勢。


 もどかしく思いつつも、ネネカは慎重に言葉を紡ぐ。


「新皇陛下は皇都で酷く、その攻撃的な振る舞いを為さりました」


「報復を、いや謀殺かの?」


 飛躍した意見だとばかりに驚いて見せるが、それはあくまでも皇国に於ける権威的儀礼からなるもので本心からではない。政治の場面では珍しいものではなく、その意図は明白な程に伝わる筈であった。


「小官は怖くてたまりません」


「率直たるは称賛に値する美点なれど、儂にはとても真似できぬのぅ……」


 勇気がないという声音ではなく、話を脱線させるという意味での真似であろうそれに、ネネカは宮廷政治の怪物たる片鱗を見た気がした。他者を顧みず、己の在り方を当然とする。それは意外と困難な事であった。


 ルシウスはネネカを一瞥する事もない。


 櫻の花弁が舞い散り、それは神の社たる姿を確固たるものとしていた。その中にある老人と小狐参謀の姿は花見をする祖父と孫娘としか見えない。ネネカが軍装でさえなければ。


「確かに狐であるしのぅ。側室にと迫るやも知れぬなぁ」


「それは流石に……」


 ない。


 とは言い切れない。


 皇都擾乱の最中、戦車の天蓋上で尻尾を撫で回された記憶が蘇るネネカ。実に手慣れた扱いにして、驚ほどに気持ちの良さであった。獣系種族の高位種が幾人も侍る理由の一端かもしれないとネネカが得心する程度の技量である。


「栄達よな?」端的な指摘。


 其処には揶揄する気配も、茶化す気配もない。純粋にネネカの昇格に対する意欲を知るが故の指摘であろう事は疑いない。


 トウカの狐に対する執着は並々ならぬものがある。


 理屈を超えた優遇と言えば聞こえが良いが、実情としては執着に近いものがある。正邪もない純粋な好意は押し潰さんばかりに強大でいて、多大な幸福と不幸を同時に齎す。現在の天狐族がそうである様に。


 天狐族を中心とした派閥形成に呼応して狐系種族が北部に集まりつつあるが、それに反発する種族も少なくない。北部という土地は新たな勢力を迎え入れるには困難が多くある。復興の最中での移住などは弱みに付け入る行為と見られかねない。特にグロース=バーテン・ヴェルテンベルク伯爵領は先代伯爵の病死の後、天狐族女性が後継者となっている。ただでさえ武断主義的な先代伯爵の後継者となった以上、舵取りは困難を極める。ましてや戦後、復興という難事に当たりながら家臣団の政治的意思統一など容易ではない。


 それでも尚、天狐族とそれを中心とした狐系種族の派閥形成に、正面切って敵対する者は居ない。


 トウカの存在がそれを抑止した。


 戦闘中行方不明による不在は僅かな時間であったが、ヴェルテンベルク領を不穏な空気が過った事も確かである。複数の周辺貴族領を経済的に併合し、事実上の属領としたヴェルテンベルク領は武力によって睥睨する事で維持されている側面がある。そうした中で皇州同盟軍成立に当たって大部分の戦力を領邦軍から引き抜かれた都合上、弱体化していた。その皇州同盟軍を事実上、総指揮していたトウカの戦闘中行方不明は指揮系統の混乱を齎す事となった。


 蠢動は自明の理であった。


 しかし、参謀本部がヴェルテンベルク領での擾乱を想定した為、作戦計画に基づいて動員された憲兵隊によって顕在化する事はなかった。重機関銃や迫撃砲、装甲車を有する重武装の憲兵隊の展開は十分な抑止力として機能した。


 トウカの狐への執着は、政治的影響すら生じているのだ。


 ネネカも己に対する処遇として、トウカの個を押し潰すが如きの執着を否定できない。


「己の力量で立場を得たいのです……愛玩物として与えられた地位など……」


 笑止千万な事である。


 ただ飼われる儘に腐り果てるなど御免蒙るが、それで父母が助かるならば、ネネカは喜んで侍るだろう。


 しかし、大前提としてネネカはトウカが自身にそうした立場を望む筈がないと確信していた。


 天皇大帝たるトウカ。


 望めば絶世の顔佳人とて抱き寄せるが儘の立場に在って貧相な狐を選択する理由などない。


「……美しい狐など他の系統種族に無数とあります。こぞって押し付けてきましょう」


 陸軍参謀本部の参謀将校でしかないネネカを所望するなど正気の沙汰ではない。小狐族は中位種ではあるが、その中でも下位に位置する少数種族である。成立起源は不明だが、高位狐系種族の研究開発の過程で少数生産された種族という通説が歴史家の中では大勢を占めていた。特筆すべき点は少なく、強いて言うならば成体となっても成長が抑えられている為に小柄であるという点である。


「まぁ、側妃など有り得ぬであろうな」


「分かっているならば、茶化すのはやめてほしいです」


 余裕のない状況で聞きたい冗談ではないが、ルシウスは変わらぬ仕草を其の儘に喉の奥から笑声を零す。


「どうも深刻に捉え過ぎておるなぁ」深い溜息の老人。


 政敵の悉くとは言わないまでも、自身より劣る立場の者は可能な限り殺害している。後腐れがないようにという部分よりも、残酷さが際立つ点を見るに抑止力として利用している事は明白であった。隔意や遺恨すらも恐怖で抑え込もうとするのは、暴発を招く危険性があるが、叛乱や抵抗の発生率は低下する。敵対後も赦すと見られれば、敵対への難易度は低下するのだ。


 トウカはそれを良く理解している。


 心理的な部分で自身への敵対化の費用対効果(コスト)を最大化させる事に腐心している。


 ネネカなどは手頃な相手と言える。


 陸軍への綱紀粛正……遺恨や有反感を拭えない将校への牽制……見せしめとして“排除”する事は決して難易度の高い行為ではない。ファーレンハイトも新皇との関係悪化を恐れて座視する公算が高い。


「共に急進的ではあろうが、左派共と新皇陛下は違う」


「政治思想でしょうか?」


 両者を比較した場合、最大の差異は政治思想である。


 多くの者が勘違いしがちだが、右派であれ左派であれ急進的な者の行動は類似している場合が多い。敵対者の攻撃に重きを置き、理論や理念の理解に乏しく、目指す結末もまた近しい場合が多かった。無論、結末の概要は其々の理論や理念で梱包されたものであるが。


「違う。新皇陛下は成せると踏んでいるから成す。ヒトの命も数として割り切る。酷く醒めた現実主義者であろうな」


 眉を揺らして評価を下すルシウス。


 現実主義者。


 自身の見解とは正反対であるそれに、ネネカは尻尾を揺らす。


 ネネカの見たところ、トウカは度を過ぎた理想主義者である。


 なまじ実力があるが故に己の理想を押し付ける事に成功し続けている姿をトウカの躍進に見たネネカ。軍事的な新機軸を振り翳して政治的隷属を迫る姿は狂信的軍国主義者のそれである。目に見える力だけを信奉している性質(たち)の人間……政治指導者とするには最も危うい人物であるとネネカは判断していた。


 ネネカの仕草に同意に非ずと見て取ったルシウス。


「新皇陛下の現実と儂らが見ておる現実は違う。些か物事の本質が見え過ぎておる」


「それは思いますが……果たして己しか見えぬ現実は現実でありましょうか?」


 現実は政戦に於いて共通の認識があって初めて意味を成す。


 共通認識のない現実は妄想に他ならない。


 認める者が僅少な現実は理想や妄想として大多数からは見られる。トウカの場合、結果を伴わせた実績が複数ある為、現状は現実がトウカに合わせようとのたうち回っている状況であった。トウカの理想たる現実を共通認識とするには少なくない時間を要する。それは現実主義者の所業とは言い難い。


 そして、トウカの示す新たな現実が今後も成果を出し続けられるだろうか?


 天霊の神々に推認された天皇大帝という指導者は総じて名君であるが、直近の天帝による融和政策が大きな軋轢を齎した事も確かである。その失敗から見てトウカだけが扱える現実であっては意味がない。トウカのみが扱えるならば、彼が喪われればそれは忽ちに幻想となる。


 現実は共通化されてこそ意味を持つ。


 大多数の共通認識による強固な承認こそが現実の正体である。


「違う何処かの世界では、あれが現実なのやも知れぬぞ?」


 耄碌したと見ても不思議ではない風体だが、宮廷政治の怪物が意味のない言葉を吐くとも思えず、ネネカは困惑する。


「……御冗談を……次元漂流者だとでも?」


「さて、それは何とも……しかして些か似すぎておるの」


 懐古の念。


 過ぎ去りし、時代を幾度と見てきた男の独白。


「振る舞いも信条も好かぬ。しかし、あの顔で言われてはな……”仕方がない“」


 政戦に仕方がないなどという言葉を持ち込む老人ではない筈であった。


 少なくともネネカは、ルシウスの呵責なき政治を知っている。


 自身に政治の何たるかを教えた男がルシウスであり、ネネカは彼の安定した政治手腕に全幅の信頼を置いていた。


 自領の安寧を重視し、中央政治を軽視する傾向にある中央貴族を影より誘導し、国内の軋轢を最小限に留め続けた手腕は特筆すべきものである。北部貴族は理解しなかったが、北部が内戦で主導権を取れたのは、中央貴族が纏まりに欠ける状況を演出し続けたルシウスの成果によるものである。


 ルシウスにとり、中央貴族とは全幅の信頼を置ける相手ではない。


 国家という枠組みでものを見ず、封権的な紐帯に終始する中央貴族。国家の中央として国内での発展が最も早くあったが為、独自の権益を持つ中央貴族は現状維持に傾倒している。そうした姿勢を前提とした政策に政府が流れる以上、他地方の反発は自明の理で、その急先鋒が北部であった。


 しかし、北部は急進的であり過ぎたが故に、他地方との連携の余地を失った。


 ルシウスもネネカも、北部が他地方と連携しつつも中央と政府に圧力をかけて譲歩を迫ると見ていた。


 だが、マリアベルが頭角を現した事で目測が狂う。


 北部の過酷な環境が生んだ全体主義的民意と貴族の武断主義を上手く誘導したマリアベルは短期間で内戦にまで状況を持ち込んだ。


 それでも、そこまでは織り込んでいた。


 そうした中でトウカが現れた。


 過去と経歴の一切が謎に包まれた戦争屋。


 さも当然の如く数倍の敵軍を撃破し続ける戦略に於ける常道の破壊者は、内戦に於いて緩やかな軍事力への傾倒を齎す。後の条件付き降伏と言う政戦に於ける軟着陸を意図していたルシウスの想像を裏切る結果となった。


 ネネカはルシウスを優れた宮廷政治家だと考えているが、同時に優れた軍略家であるとも見ていた。


 内戦時に流れを当初の予定に引き戻さんとすれば、中央貴族の領邦軍からなる連合軍を早々に編制して投入するべきだと考えるべき場面であった。当時のネネカも投入と座視で苦悩した。


 しかし、ルシウスは座視した。


 それは正しい判断だった。


 戦争屋に烏合の衆をぶつけても餌を投げ付ける様なものである。


「長ごう生きた、生きるに生きた五千年……あの時と同じ鉄火の時代。それを思えば良い指導者を得られたと言えよう」


「人治と善意では国事は定まらぬと……そう仰るのですか?」


 トウカを認めるという事は、経済が悪化すれども、内戦が起きるまでは大乱なく安定と安寧を享受してきた過去を否定するという事に他ならない。経済の問題も鈍い歩みとは言え、徐々に是正されつつあった。安定と安寧からなる発展よりも、急進的な指導者に率いられた血と炎の歩みを許容する。


 嘗て望んだ未来とは相反する未来を認めたのだ。


「神々も皮肉な真似を為さる」


 望んだ事ではないと、存外に嘯く。


 ルシウスはトウカを受け入れている。否、受け入れざるを得ないと考えている。二人が相争えば、皇国が割れかねないという危機感があるのだ。政治は意を決した軍事には叶わない。ただ未来のない蹂躙だけがある。


 そうした中でネネカを問題として衝突の余地を作るなど愚策である。


「無制限に伸びる力に対しては、それが何であれ、抵抗しなければならない。そうではありませんか?」


 尚も説得を試みるネネカ。


 政治は無制限に伸張する力を抑制し、均衡を保つ事で各方面に対して均等に力を発揮する。一方への傾倒は、多くの分野を犠牲にする行為であった。


「北部からは、他地方からは中央こそが無制限に富を吸い上げていると見ておる。潮時であろうな」


 そうした不満が衝突の最中に醸成される事をルシウスは恐れているのだ。富の再分配能力の是正よりも、燎原の火の如く広がる不満が速度に於いて優越すると見た。


 トウカは姿の見えぬ相手の政治力に負けたと見た。


 それ故に軍事行動による成果に偏重したが、実情としてその振る舞いは無駄ではなかった。各地域で方向性を得なかった漠然とした不満は燻り、中央への猜疑が生じつつある。


 トウカは煽動に対して動きが乏しいと、他の意思の介在を見た。


 その正体はルシウスである。


 しかし、ルシウスもトウカの他地方への情報戦に対し、決して万全の対応を成せた訳ではない。実情として、寧ろトウカの失策に付け込んだと言える。


 トウカは民衆に対して不満を植付けようとしたが、ルシウスは各地方の有力者が動けぬ様に不利益を流布し、活動家の動きを抑制すべく周辺調査を徹底した。民衆が不満を持てど、それに明確な方向性を与える有力者や活動家が現れぬ様に対応したと言える。各地で指導する者が現れて初めて活動は形となる。情報が忽ちに流布する時代でもなければ、情報の伝播に時間を要すれば要する程に各地で取り纏める者達の数は必要数を増す。情報の伝播速度は人数で補わねばならない。


 トウカとてそうした点に関しては理解していた。


 ただ、余りにも状況の進展が早く、民衆への浸透のみが進展する形となった。後に行う予定だった筈の有力者への浸透は人員的余裕がなく、また防諜戦の拡大によって挫折している事もある。


 封権制度下に於ける民衆が主体的意思を持ち自ら行動する可能性が低い事を、トウカは正確に認識してなかった。彼の想像以上に民衆の動きは鈍かった。皆無と言っても過言ではない。議会制民主主義の下でも民衆が己の主張を強力に遂行する者を支持すれども、自ら動こうとする者がいない点を軽視していた。封権制度下では想像を超えて民衆は主体性を持たない。



 民衆が反抗の勇気を示すのは、苦痛が限度を超えた場合だけである。



 封権制度下であれども、民衆の生活水準については最大限の配慮をしていた地方貴族に抵抗するだけの気概と不満までは持ち合わせなかったのだ。


 だが、そうした中で北部の代表者であるトウカが即位する。


 富の再分配を叫び、地方の発展を叫ぶ天帝の到来である。


 地方民からすると期待せざるを得ない。


 それに抵抗する地方貴族と民衆の軋轢は容易に想像できる。


 トウカ自体が天帝という権威を得た事で、各地方の民衆の不満の核となる余地が生じたのだ。権威は戦争屋に正統性を与えた。


 天帝と民衆に挟まれる状況を地方貴族が望まないとは容易に想像できる。


 トウカが想像するよりも今後、遥かに地方へと影響が生じると、ルシウスは考えてい居た。


 トウカは拙速に過ぎる。


 成否の判断が余りにも早く、待つという行為を悪と考えている節がある。幼少からの教育による姿勢か、或いはマリアベルという急進的君主の影響によるものかまでは判断しかねるが、ルシウスはトウカの拙速な姿勢に複雑な思いを抱いていた。


 拙速にして苛烈である事は、結果を別として支持を産む根拠となり得る。それは民主政治に於ける熱狂的支持を受けて成立した指導者を見れば一目瞭然であった。


 

 世論は有能なる人物よりも可愛げのある人物を好み、実のある議論よりも浅薄な公約に惹かれる。政治家の方もこれを魅了せんと秘術を尽し、時代に迎合して都合の良い事ばかり語る。そして政治家の陰謀と誓約の波状攻撃を受けて世論は遂に征服され、彼に政権を授与する。



 力強い意見と外観こそが良く支持を集める。


 内容は二の次とされる。民意が反映される議会制民主主義に於いて顕著だが、それは君主制に於いても無関係ではない。


 実情として、歴代天帝と比較した場合、トウカはどちらをも可愛げも浅薄な公約も持ち合わせていない。


 しかし、利益を提示し、軍事的成果を持ち、政敵を文字通り血祭りに上げる人物である。


 有言実行の戦争屋。


 軍事勢力の支持を受け、利益の集中を是正すると軍事力行使を躊躇しない天帝。


 成立時点で実績を持ち、棍棒を携えた指導者というのは、建国時の専制独裁制国家などでは少なくないが、成立して成熟期を迎えた国家に在っては希有なものと言える。無論、簒奪によるものであれば話は変わるが。


「巻き返せぬのですか?」


「天帝陛下を相手に? それは勇敢な意見ではあるのぅ」ルシウスは苦笑を零す。


 好々爺然とした振る舞いの中に、窺える感情はない。笑声は笑声でありながらも感情が滲まない。


「方向を是正する様に促すしかあるまいな。まぁ、あれはあれで聞く耳を持っておる」


 ネネカはルシウスが、トウカを誘導できると確信している事を察した。


 しかし、ネネカの身の安全は含まれない。


 心配には及ばないという存外の主張は汲み取れるものの、ネネカはそうは思えなかった。


 結局のところ、ネネカ・フォン・シャルンホルストに逃げ道はなかった。


 





無制限に伸びる力に対しては、それが何であれ、抵抗しなければならない。  


                《大英帝国》 政治家 ウィリアム・ユワート・グラッドストン




民衆が反抗の勇気を示すのは、苦痛が限度を超えた場合だけである。


                《帝政露西亜》 革命家 セルゲイ・ゲンナジエヴィチ・ネチャーエフ




世論は有能なる人物よりも可愛げのある人物を好み、実のある議論よりも浅薄な公約に惹かれる。政治家の方もこれを魅了せんと秘術を尽し、時代に迎合して都合の良い事ばかり語る。そして政治家の陰謀と誓約の波状攻撃を受けて世論は遂に征服され、彼に政権を授与する。


                《仏蘭西第五共和制》 大統領 シャルル・ド・ゴール


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