第二八〇話 軍神の義務
「莫迦め、莫迦者め……」
なんて事だ、とトウカは右手で山高帽を押し潰さんばかりに頭を押さえて呻く。
恐ろしい事になった。
それ以外の言葉は……否、言葉すら口先に出せない程に理解できる結末に、トウカは例え様のない圧迫感に息を吐き出せないでいた。息を押し込み、トウカは左手で胸元を抑える。
ベルセリカが何を考えたか、トウカには推測できる。
北部は追い詰められている。
戦争の為に喪われた資源を回復できずに、次の困難に立ち向かおうとしている。周辺勢力や国家を脅し付けながら安定的な繁栄を目指す事は容易ではない。悪名と汚名を以て抑止力とするというトウカの姿勢を継承しようとしているベルセリカの姿に、例えようもない痛々しさを感じた。
「それは悪手だ……暴力を愉しめる女じゃないだろう、御前は」
自身の負担を大前提とした振る舞いに先はない。特にベルセリカは騎士であって指導者ではない。総司令官などの職責は、剣聖という肩書を利用する為の顕職に過ぎなかった。実権はトウカにあったのだ。
ベルセリカ・ヴァルトハイムは大きな決断を下せる人物である。
しかし、当人は道義にそぐわない命令を下す事を負担と感じてもいる。
騎士としての生き方が、軍人としての生き方を妨げるのだ。
蒼褪めた表情で不退転の決意を吐き捨てる剣聖。
寄り添う韋駄天の異名を奉る若き将軍に、紫苑色の髪を持つ情報将校が左右を固める。皇州同盟軍……旧ヴェルテンベルク伯爵領邦軍の威勢を示す姿は、異邦人のトウカですら胸に迫るものがあった。
嘗てマリアベルを中心に、郷土防衛を成さんとした過去を彷彿とさせる。
しかし、それは未来がない。
宮城突入は禁忌である。
国内勢力が明確に敵対する。
北部であれば決意を示したと賞賛する者も少なくないが、他地方は皇室尊崇の精神を支柱とした教育制度から、相応に天帝への敬慕の感情を有する。明確な敵意として形を成す事は疑いない。
トウカは知っている。
大日連も帰属問題を主な要因とし、皇室尊崇の精神に地方毎で濃淡がある。
そうした問題から巻き起こされる混乱が尾を引き、武力鎮圧へと突入した例もある。
だが、北部の場合はそれ以上に分が悪い。
皇国臣民の大部分が敵意を持ち、それらが住まう各地方には各貴族の領邦軍が存在し、陸海軍は各地方からの志願兵によって成る。陸海軍司令部が皇州同盟の有用性や北方鎮護の意図を解いても、将兵や民衆が納得する筈もない。
――独立が狙いか……
他地方の民衆の納得など最早期待していないのだ。
他地方の民衆は、北部の貴族や民衆の心情など理解しない。追い詰められた者達の立場など斟酌しないのだ。それは自らが今まで北部にも割り振られるべきであったはずの利益を享受していたと認める事になる。不特定多数となった民衆は負い目を嫌う。或いは、負い目に酔う。決して負い目を正視しない。
民衆という不特定多数は責任を負う事を嫌い、酷く感情的である。
議会制民主主義という統治形態を持つ国家の歴史を紐解けば、それは民意の暴走という形で理解できる。
独裁制を選択した歴史上の多くの独裁者は、議会制を運用面から困難であると判断したに違いない。大衆の無責任や政治家の過度な迎合から衆愚政治に陥り易い、と。
主権者である国民が、常に効率的にして理性的な判断を下せなければ機能不全を起こすという制度は、余りにも理想が過ぎるのだ。
制度上、支持率を無視し得ない議会制の政治家にとり、主権者の思惑や主張は重視せざるを得ない。故に国民という主権者が理性を欠いた感情的な判断を主張すれば、政治家も民意の下でそうした動きに迎合せざるを得ない。加えて、ヒトの本質として、群体となった場合、理性を放棄し、無責任な判断を下す傾向にある事を歴史が証明している。ヒトは集団化すると付和雷同の傾向が色濃く生じる。
「無責任な妄言を騒ぐ民衆を流血なく押さえ付ける者など……」
天帝しか居ない。
だが、不在の権威など当てにはできない。
必ず武力に頼る事になるが、それは最終的に全ての支持を失いゆく道である。
しかし、今更、主権を国民に渡すという真似もできない。
そもそも主権に対する意識は人口によって等分されてしまう。母数たる国民の数が増大すればする程に軽視される傾向もある。少数の内の一票と多数の内の一票。同じ価値とは心情的に思えないのだ。それによって投票率は低下し、政治への関心も低下する。そうした中で政治家達は選挙で勝利する為、現実不可能な妄言を謳い、国益に相反する意見に迎合する事も厭わなくなる。統治に於ける効率性と妥当性は喪われ、全ての分野に影響が波及した。
よって議会制という統治形態は、大きな不備を抱えた制度と言える。どれ程に高度な教育制度を展開しても、群体に於ける遍在性の常として無責任は潜む。ヒトがヒトとしてある以上、議会制民主主義は理念通りに運用される事は在り得ないのだ。
悲劇と混乱は、群体として責任の所在と罰則が曖昧であるが故に生じる。
責任の所在と罰則は明確であらねばならない。
「選択肢などないという事か……」
いかなる制度であっても、政治とは主権者の実力次第であるが、主権者の総数には差がある。独裁制であれば個人、議会制であれば多数、寡頭制であれば少数……統治形態の本質的差異は統治者の総数にあった。
であれば主権者の責任が明確である独裁制こそが、最も責めを負わせ易く、明快である。
責任の所在が明確であるという点で、独裁制は他全ての制度に優越する。
そして、それ故に独裁者は最善を尽くす義務を認識せざるを得ない。
違えた決断の責任が己の生命に直結する為である。違えて命を落とした者も歴史上には少なくないが、それは責任を取った、或いは取らされた事を意味する。それこそが、独裁者と大部分が退任後も責任を負うことがない議会制民主主義の議員達との違いであった。
政治的決断に責任を。国益の毀損に死を。
しかし、その責任を一手に引き受ける存在が現在の皇国には不在である。
責任者……主権者不在の政治。
それは無責任と自己弁護、欺瞞の極致である。
責任を伴わない曖昧な批判と敵意。
そうした無責任の濁流が北部を襲うことになる。利益もなく損失しかないと知りながらも各公爵や陸海府軍上層部も流されることになるだろう。
皇室に弓引くという事は、権威主義国に取りそうした意味を持つ。
ベルセリカを助けるには、皇州同盟を援けるには、無責任な国民の政治的主張を押さえ付け、一切合切を引き受け持ち、総てを是正する至尊の指導者が必要なのだ。
「莫迦め、莫迦者め……」
還らざる行軍に、トウカは呻く。
路地裏から窺える中戦車と戦車猟兵の行進は勇壮の一言に尽きる。兵士達は一様に蒼褪めた横顔に戦意を湛えていた。彼らもまた理解している。総てを敵に回して戦い続ける途への行軍であると。
しかし、歩みは止まらない。
軍隊という巨大な暴力装置の常であるが、それ以上に、今迄に流された血と涙が彼ら彼女らに明確な形での利益と意味なければ止まれないという強迫観念を与えていた。
そして、血と涙は流され続ける。
履帯が皇都中央大通りの石畳を踏み締め、軍靴が打ち鳴らされる。
阻止行動がないのは、纏まった戦力で応じねば各所撃破されると判断しているからであろうが、皇城突入を目論むのであれば、そもそも近衛軍の有力な地上部隊と衝突する事になる。
現在の皇都内に展開する近衛軍は一個聯隊だが、近郊の駐屯地を合計すれば二個師団規模の戦力となる。
皇城の一個近衛聯隊は紛れもない精鋭である。
国家中枢を鎮護する最後の砦たる将兵なのだ。
近衛は実戦経験もなく、貴族子弟の巣窟である事も確かであるが、同時に天帝の盾である事も確かである。実戦経験はないとはいえ、精鋭部隊を有していた。
ベルセリカが直卒する装甲部隊と戦車猟兵部隊も精鋭である事は疑いないが、兵数に劣り、攻城戦となると勝算は乏しい。皇都内の各公爵邸に詰めている幾人かの公爵が動けば、勝機はないに等しかった。
軍事的勝利が目的ではないのだ。
総てと争う意志があると示す事こそが目的なのだ。
銭を出し渋る官僚も政治家が消し飛び、皇権に吝嗇が付いたとなれば、忽ちは譲歩せざるを得ない。そもそも、意思決定を担う政治家の大部分と天帝不在の中、承認する者など居はしない。残った政治家も再びの武力行使を恐れて黙認する事は疑いなかった。
皇室尊崇の念に唾を吐いた事による悪感情など銃口を向ければ噤む程度の問題に過ぎないとの割り切りがあるのだ。独立に当たって毟れるだけ資金を毟ろうとの意図がある事は明白である。
先立つものの為、皇室を奉る勢力に背を向けたのだ。
セルアノが悲観的な事実を殊更に強調し、ベルセリカへと吹き込んのだのか、或いは新たな懸念が顕在化したのかまでは判断が付かないが、嶮しい未来へと踏み出そうとしている事はトウカにも理解できた。
己が止めるべき場面であると、トウカは自覚する。
否、今迄流した血量が己に責任を取れと、同胞達を導いた責を最後まで全うせよと叫ぶのだ。
――俺が去った結末がこれか!
前任の方針を理解できないままに方針を引き摺っている。
トウカはそう見た。
死した敵に対して義務や意志の継承を確信するのは自己満足の産物だが、自身の指揮統率の下で戦死した総ての将兵に対する責任からは逃れられない。
知った事かと吐き捨てて尚、トウカは戦士達への義務感を脳裏より拭えなかった。
「トウカ君……」クレアがトウカの手を取る。
後ろから包み込む様に握られた右手。
トウカは口を開くが言葉が見つからない。
しかし、クレアは苦笑と共に、仕様の無いヒト、と囁くと、トウカが移動時に汗を感じて小脇に抱えた長外套をそっと手に取る。
「済まない……」
全てを吐き出すかのの様な謝罪。
「こんな気はしていました。時代は英雄を捨て置く筈がない……ですから」
トウカの肩に馴染みの重みが加わる。
先程まで小脇に抱えていた長外套ではない。
羽織る様に掛けられた軍装の上衣。
ヴェルテンベルク領邦軍から皇州同盟軍へと変遷を遂げて尚、戦野を彷徨する軍装。漆黒のそれは死を撒き散らす象徴として、周辺諸勢力から恐れられている。肩の階級章は元帥である事を示し、正にそれはトウカの為の軍装であった。
トウカは振り返る。
そこには軍帽を抱え、涙を瞳に目一杯と湛えた妖精の姿があった。
軍袴は然して変わらぬ黒色であり、軍帽まであれば、皇州同盟軍元帥の身形としては相応のものとなる。
足元に置かれた山羊皮の行李に、そうしたものが仕舞い込まれた事など、トウカは与り知らぬ事であった。
だが、クレアはこんな時が訪れると覚悟していたのだ。
軍神は遮光眼鏡を外すと懐へと仕舞い込む。
「往くよ、俺は」
麗しい妖精の頬に手を伸ばす。
そして、両腕に抱き留められた軍帽をそっと抜き取る。
同意を以て軍帽を受け取る真似はしない。離れていく男の振る舞いを後押しさせる真似はさせられない。卑怯者と罵倒する理由を与えて然るべきだと、トウカは信じて疑わない。それが男だと、女の下から逃げ出す男の振る舞いだと確信して已まない。
――佳い女だ……
後に続くとは言わない。
クレアが匿っていた事が露呈しては、トウカもクレアも立場が悪化する。そして、トウカはクレアを政争の舞台に巻き込む事を望まない。天帝という立場の不安定なるを理解し、それ故に即位を望まず、それはミユキの為でもあった。
ミユキは喪われたが、その立場にクレアが居ては意味がない。代理の犠牲者とするには、トウカはクレアを知り過ぎた。
身代わりの代替品として置く事をトウカは望まない。クレアはそれを理解している。自身の自惚れかと思いつつも、クレアがそれを望むのではないかと胸中の奈辺で考えていた。
「一時でも貴方の宿木となれた事……嬉しく思います」
銀の雫を零してトウカの胸板へと飛び込んだ妖精。
隣を居場所として望み、しかしてそれをトウカが望まないと察した妖精は送り出す途を選んだ。
「莫迦者め……こういう時は罵倒すればいいんだ」
トウカはクレアを強く抱き締める。
健気な女。
それを酷く愛らしいとトウカは感じだ。
喪い往く時、別れ往く時にこそ、ヒトは輝くのかも知れないとトウカは想う。
軍靴と履帯の、狂気と郷土愛の四重奏が近づく。
トウカはクレアの両肩を掴み、そっと距離を取ると、クレアが差し出した乙女の雫に濡れる軍刀を受け取る。
「クレア……いや、憲兵総監。また何処かで逢う日まで壮健で在られよ」
軍帽を被ると、トウカは敬礼する。
妖精は涙をそのままに答礼する。
トウカは軍装の裾を翻した。
皇国は転換期を迎えようとしていた。
すいません。咳と酒にやられて更新ができませんでした。しかし、香草を付け込んだ酒は喉に効くと思ったんですが、気のせいでしたね。七草粥なんて七種類しか入ってないのに、イエーガーマイスターなんて八倍の56種類も香草入ってるんだからめっちゃ効くと思うじゃないですか。狐は悪くないです。
短いのは、はい、悩んでいるからです。
ここで、次章にするべきか否か……
しかし、トウカ君は何と言いますか完全に銀河帝国初代皇帝ですね。自己の無謬性を酷く恃んでいる節があります。それ程に民衆というものに失望している訳です。




