第二七九話 朝敵なれば
「引き潰せ! 何の為の戦車だ!」
ザムエルは大音声で叫ぶ。
自走重迫撃砲の開放式天蓋から身を乗り出して拳を振り上げする姿は、正に野戦将校の本懐それである。
民間車輛で即席の阻害を構築しようと試みていた小隊規模の警務隊が、中戦車が履帯を軋ませて前進する姿に壊乱……算を乱して逃げ出す。軍人でもその圧迫感に臆する者が少なくない鋼鉄の野獣に、警務官程度が立ち向かえるはずもなかった。そうした訓練や想定を彼らはしていない。
皇都中央通りを、皇州同盟軍旗を掲げて前進する中戦車と戦車猟兵達。
その姿は威風堂々としたものであり、閲兵式さながらの隊伍を成して前進している。
我々こそが皇軍であると言わんばかりの振る舞いは、威風堂々のそれであった。
時折、接触する警務隊や皇都守備隊を蹴散らし、彼らは進む。
目指すは国会議事堂。
運河を利用して皇都の中央区画付近まで押し入った特設陸戦隊に対する阻止行動は無きに等しい。
「向こうも派手に戦ってるな。いや、図体のデカい艦に誘引されたって事か」
背後からの砲声を耳に、ザムエルは嘲笑を零す。
航空歩兵……天使達からの対地攻撃はない。遠巻きに飛行している航空歩兵小隊の姿が幾つか見受けられるものの、それは寧ろ偵察行動に近い。しかし、通信によって報告している気配はなかった。
「しかし、宜しいのですか? 陸軍への攻撃は関係を損ねる事になると思いますが……」
副官にして妹のエーリカが指摘する。
ザムエルは呵々大笑を以て応じる。
「皇都守備隊は陸軍だが、御貴族様の牙城だ。実質的に近衛軍御一行様と変わらねぇよ。陸軍として扱う必要はないって事だ」
陸軍にも中央貴族寄りの派閥が存在し、その派閥色を色濃く見せる部隊が皇都守備隊である。近衛軍の外様と言える為、陸軍の中でも陸軍部隊とは違う扱いを受けていた。
その皇都守備隊は一部が中央貴族の連合軍に同行する形でアンテローツェ伯爵領の決戦に赴いている事からも、実質的に陸軍の指揮下にはない事が分かる。
そして、少なくない兵力が抽出された事で皇都守備隊の充足率は四割にまで落ち込み、加えて大部分は外縁部の守備へと配置されていた。
敵が想像以上の悪手を次々と打っている状況に、ザムエルは全力で付け込みつつある。
「天使達は皇都の治安維持の為に進出している筈でしたが、攻撃を控えているのは何故でしょうか?」
「民衆の衝突による治安悪化を懸念しての進出で、派閥抗争には不干渉と予め宣言しているからな。これは中央貴族や政府、軍閥の派閥抗争という扱いなのだろう」
事前に派閥抗争の延長線上である事は、アンテローツェ伯爵領による軍事衝突によって一層と印象付けられた。
中央貴族と軍閥の軍事衝突。
客観的に見て派閥争いとなる。
「しかし、左派が巻き返しを図りませんか?」
「この軍旗を見てもか? 彼奴は暴徒に容赦も慈悲もなかったらしい。軍旗を見て逃げ出すだろうよ。まぁ、逃げ出さないなら逃げ出したくなる様にするだけだぜ」
左派は友好や融和という理想主義的なものを大前提とした主張を繰り広げているが、それ故にトウカとは相性が悪かった。意見を受け入れないならば、受け入れるまで殴り続けるより他ないと割り切る軍神が、終わりの見えない対話を継続してくれるなどと考える事こそが迂闊以外の何物でもない。融和は相手の厚意と譲歩を前提として成り立つ。そして、残念ながらトウカの融和と譲歩は非常識な程に高額品である。
ザムエルもトウカの振る舞いを踏襲する心算だった。
対空戦車の掃射が、市街地に於ける対人攻撃で有効なのは内戦で証明されている。
何より、彼も罪を踏み倒す為に馳せ参じたのだ。
国会議員が“害獣駆除”に言及しなければ済んだ話を、論戦如きの為に敢えて国を危うくする主張を口にした時点で、皇州同盟は議会制度の破却を決断していた。
批判を受けた虐殺は、皇州同盟軍だけではなく、皇州同盟全体での共有事項となっていた。帝国軍に人間種以外の種族が存在し、帝権に忠誠を誓って亡命を拒否したという事実自体が、皇州同盟にとって無視し得ない事実であった為である。
人間種の優越性を掲げ、殺戮を以て他種族を排除しようとした帝国に対して降伏の余地があると将兵が考える可能性への焦燥。加えて国内の諜報活動で人間種以外の種族が多用されている可能性への対応が喫緊の課題となった為、軍内部の問題には留まらなくなった。
企業は全ての容姿で人間種と大きな差異のある種族を然したる経歴確認もせずに雇用していたが、そうした部分への見直しが必要となり、北部のあらゆる組織が警戒の為に大きな労力と予算を必要とする事態になった。
しかも事実を隠して時間を捻出しながらの対策構築である。
その期間の最中に暴露されたのだ。
帝国との最前線として常に危険に曝され、多額の予算を投じてきた中で、背後からも“攻撃”を受けたと皇州同盟は判断していた。
画して遺恨と恐怖は再燃した。
陸海軍もこれは庇い切れない……議会制度への不信感を抑えきれなくなった。前線に軍を投じる彼らにとり、交渉の余地のない帝国との戦争という大義名分が揺れかねない案件を論戦如きで扱われる事への憤怒があった。血を流して帝国軍を退けた陸軍には関係者も多く、その点が一層と皇州同盟軍に肩入れをする結果となる。
怒りを巻き散らして叫ぶザムエル。
少なくない数の戦友が、彼の振る舞いに賛同した。
〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉という皇州同盟軍の外征戦力として編制中であったそれが、賛同した意義は大きい。
しかし、航空艦隊の賛同や戦時体制への移行はベルセリカの決断あってのものである。
ザムエルは長大な斬馬刀を抱えて隅に座るベルセリカを一瞥する。
――何を考えているんだか。
天頂部の鋼線が抜き取られて萎びた軍帽を、ザムエルは被り直す。
ベルセリカによる政治を意識した動きは、酷く唐突感のあるものであった。忽ちの内にザムエルによる独断の軍事行動が追認され、あろう事か投入戦力が追加され、戦時体制まで宣言される事態。
己の思惑に寄り掛かる形で新たな思惑が追加された事を、ザムエルは感じざるを得なかった。
「重迫に国会議事堂を撃たせろ。曲射ならば行けるだろう」
あと少しで国会議事堂に対し、戦車砲の射角を確保できる位置にまで進出した特設陸戦隊。ザムエルは一拍の思案の後にエーリカへと命令する。
「正気ですか? 正気ですね……了解。重迫撃自走砲小隊に命令! 攻撃用意! 目標、国会議事堂!」
『一番槍、光栄です閣下!』
通信越しの重迫撃自走砲小隊長の歓喜の滲む言葉を、ザムエルは気のない返事を以て押し退け、野戦机の戦域図に視線を落とす。
「さてさて、何人殺せるのか。秘匿された逃げ道がないとも思えねぇが……」
「攻撃は突入まで控えたほうが賢明であったかと」
エーリカの指摘に、ザムエルは、同じことだろうよ、と吐き捨てる。
国会議事堂に逃げ道がないはずもなく、それを押さえずに突入して目標を殺害できるとも思えない。
これは演出に過ぎない。
故にザムエルは不貞腐れていた。
自らの拙速ゆえに情報部との連携も乏しい儘に突入となった弊害である。
「適度に国会を破壊して終わりだ。詰まんねぇな。怒りを建造物にぶつけて終わりかよ」
「佳い。それに関しては問題ない。後は某に任せるがよい」ベルセリカが呟く。
二人は国会施設への攻撃を所詮は建造物への攻撃に過ぎないと考えていた。
軍人と騎士。
それ以上でもそれ以下でもない立場から軍を統率する二人は、政治に対する配慮など御座なりであった。我ら軍閥、軍事力を振るう事こそ本懐であるという武断的姿勢を背景とした攻撃は、今後の政局に大きな影響を齎す事になるが、二人はそれを理解していなかった。
否、最早、致命的なところにまで踏み込まねばならないと肚を括っていたのだ。
軍神亡き時代であっても、皇州同盟軍は狂信的な軍事勢力であると示し続けねばならないと。
将来への展望などない。
思う儘に殴り付けるのだ。
其々に思惑はあれど、大前提として軍神の死がある。
力を示してこそ政治を従える事が叶うと、軍神は天下に示した。
故にザムエルは、往かねばならないと確信している。
結末を示さずに去ったが、皇州同盟という他勢力に軍事力を行使する事を躊躇わぬ軍閥であるという事実が、北部を救うと彼らは信じて疑わない。工業化と経済基盤の増強は道筋が用意されており、ザムエルはそれに要らぬ半畳を入れさせぬ為に、手中にある軍事力が油断ならぬものであると世に示し続けねばならなかった。
――いや、違うな。俺は気に入らないんだよ。
ザムエルは溜息を一つ。
あの偏屈にして皮肉屋で破綻した思考の戦争屋に縋るしかなかった北部は、彼に何ら報いるところがなかった。郷土と義母に等しい人物を献身的に支えた戦友に対する恩義をザムエルは忘れない。
「攻撃開始! あの不愉快な建造物を瓦礫にしろ!」
少なくとも軍神が残そうとした国家を遺さねばならない。
その目的に対し、議会政治は無用の長物に他ならない。外交と軍事を理解せず、国民の動揺を誘う真似をするのであれば、皇国という国家に在って議会政治の命数は尽きたと判断せざるを得ない。政治家は政治力に乏しく、国民は選良を選出できない。議会制度は皇国にとり危険と危機の温床となりかねなかった。
気に入らない上に大義名分もある。
重迫撃砲の鈍い砲声を耳に、ザムエルは握り締めた拳を戦域図へと叩き付けた。
「そんな! それだけはなりません! 国が割れます!」
叫ぶ大御巫に、紫苑色の髪の少女は、短くなった己の髪を弄び思案する。
国が割れる。
リシアは、その点を重視していなかった。実情に肩書きが伴っただけであると。
そもそも北部は孤立が続いており、事実上の独立国であったという部分がある。無論、各貴族による統治で統一された行政府があった訳ではないが、今は皇州同盟の下で制度や公共施設などの規格化が準備されており、その予算は潤沢なまでに集まりつつある。
その予算の大部分は政府ではなく、国内外の銀行からの担保によって賄われる事になる。無論、政府の予算編成に組み込まれた復興予算も多額であるが、皇州同盟が軍事技術を担保にした借り入れの規模に比較すれば霞むものがある。そこにセルアノやトウカによる盛大な金銭遊戯による利益まで加わるとなれば尋常な規模ではないものとなった。
「さぁ、剣聖の思惑なんて知らないわよ。独立すれば借款も踏み倒せるなんて首席政務官が言い募ったのかもね」
金の為に騙しもすれば殺しもする首席政務官は、最近は本来の姿で辣腕を振るっている。小さな妖精だが口が悪く、苛烈な物言いは往時と変わらぬままであった。故に可能性としては排除できない。
リシアは砲撃によって崩壊した議会の中枢を双眼鏡で確認し、背後の護衛二人へと頷く。
隷下の〈北部特殊線部隊〉による脱出した政治家の殺害は順調に推移している。
基本的に衆議院議員の殺害のみに重点を置いており、そもそも攻撃開始の時間帯は衆議院議員のみが集まる日時に設定されていた。無論、不運な関係者には議員達の死出の旅路へと帯同して貰うことになる。
「愈々(いよいよ)と軍閥らしくなってきたわね」
政府の要職に就くものまで手に掛ける振る舞いは、正に一般市井の者達が思う軍閥のそれである。
皇州同盟は、その起源を見れば軍閥であるが、指揮統制の低下や策源地での支持を重視して規律を重視し、有力な憲兵隊を編制していた。装備も重装備を正規軍に劣らぬ規模で装備し、水上部隊も相応の規模で保有している。軍閥と呼ぶには些か体裁が整い過ぎているが、それは紛れもなくトウカの方針であった。
軍はある。地方行政を担う各貴族とその家臣団も居る。中央行政を担う組織だけがない。
現状の北部は、そうした状況にある。
しかし、中央行政は皇州同盟が莫大な予算の拠出を餌に行政として主導的な立場を担いつつある。
国家として致命的に不足する部分は最早ない。
既に軍閥という範疇を超えつつある。
そして、軍閥の目的とは独立であることが多い。
些か毛色は違えど、軍閥たるの本質と本懐を踏襲していると言える。
「国家が割れれば、付け入られる隙も増えるでしょうね。剣聖はその辺り、どう考えているのか」リシアは疑問を呈する。
ベルセリカの乱心……往時はトウカを嗜める立場にあった彼女が、今ではトウカと変わらぬ粗暴な振る舞いを以て政敵を掣肘せんとしている。心変わりと言えばそれまでであるが、その理由や思惑に思いを馳せる事をリシアは止められない。
「剣聖は愛想が尽きたのでしょうか?」
アリアベルの問い。
それは自身か。
それは政府か
それは国家か。
リシアは一切合財悉くを鼻で笑う。
そんなものは疾う昔に見放している。
少なくともリシアはそう感じていた。
「意外と後悔や贖罪かも知れない……元帥閣下だって軍神に依存していたもの」
何かしらをトウカに託している節がある事は、皇州同盟軍参謀本部の誰しもが知る事実である。大部分の者は遺恨のあるフェンリス殺害辺りであると考えているが、今回の政治家に対する懲罰を見れば、それも怪しく思える。無用の警戒を招き、好機を逃すばかりの振る舞いでしかないのだ。
――殺すならヴィトニル領に直接攻め入ればいいもの。
政治家など七武五公からすると替えの利く代弁者程度の価値しかない。皇国政治の本質は宮廷政治である。皇城に於ける長命種の長達による合議こそが政治決定に大きく影響する。彼ら自身が皇国議会で直接、権勢を振るわないのは、直接的な批判を避け、矢面に立たぬための方策であった。
王族などが古来より藩屏として貴族を擁立したのは、統治の補佐だけではなく、そうした部分もある。指導者への批判が体制を揺るがすのは世の常だが、間に政治家や貴族を挟む事で直接的な批判を避け、或いは回避する。古来より使われる手で、それを前提とした体制も歴史を紐解けば珍しくない。
皇国議会は茶番でしかない。
国家を動かす為の意思決定機関ではなく、国内外への印象付けに使われる程度の存在に過ぎない。それが重みを増したのは、天帝不在による長命種の動揺と意思決定の鈍化が原因である。主体的に国営に関わる断を皇国議会が下し始めたのだ。
結末は眼前で瓦礫となっている。
皇都の高級百貨店の屋上より、皇国に於ける議会制度の崩壊を見下ろすリシア。
戒厳令もない儘の混乱であるが、ザムエルが将旗を掲げて進む中戦車に抵抗を試みる民衆は皆無であった。警務隊や皇都守備隊が道中、問答無用で蹴散らされている事もあるが、以前の皇都擾乱に於ける皇州同盟の慈悲も許容もない振る舞いを忘れていない事が大きい。
対空戦車や戦車猟兵を始めとした戦力で警戒網が敷かれる広場をも一望できるが、ザムエルの部隊に興奮の色はない。
「あれ、フェルゼンの市街戦で活躍した兵士を中心に編制した戦車猟兵中隊ね」
市街戦の経験と実績のある兵士は貴重である。
悲惨である事は議論を待たない市街戦だが、遮蔽物の数と高所からの狙撃に地下道を利用した背面攻撃、地の利のある民兵の敵対……野戦や塹壕戦などよりも危機への対処能力を必要とする市街戦では経験と資質を必要とする。特に聴覚に優れた機動的な資質を持つ種族が好ましい。
殺意が漲る編制と言える。
歩兵戦闘車を潤沢に用意し、戦車跨乗を行えば十分に車輛による機動を全軍で行えるだろう事は疑いない。
「あ、撃った。……狙撃兵を部屋ごと吹き飛ばしたわね」
歩兵戦闘車の四〇㎜機関砲が唸りを上げて高層建築物の一部屋を掃射した光景に、リシアは非戦闘員への許容被害も已む無しと判断しているのだと気付く。トウカの方針を堅持するならば妥当な判断と言えた。
「方針変更はなく、剣聖は軍神の途に続く事を決意した、というところね」
意外と可愛いところもある、とリシアは苦笑する。
アリアベルは戦争屋達の饗宴に蟀谷を押さえているが、彼女の立場では選択肢などない。神祇府の権威は内戦によって大きく低下した。今では皇州同盟への協力を変節間と罵倒する者すらいる始末である。
「あらあら、政治家相手に銃殺隊? 止めてようとしているのは貴族院の議員かしら?」
「あれは……確かブランバルト宮中伯……」
たった今、兵士に小銃の銃床で殴り倒された中年の人相をした男から、アリアベルは顔を背ける。
運悪く逃げ遅れて捕獲された議員……手足を縛られて転がされた者達が特設された銃殺隊に次々と射殺される光景に、リシアは首を傾げる。
「右も左も関係なしともなれば、議会制度の粉砕自体を目的である事は疑いなしね」
「貴族院議員は、その排除しないのですか?」
アリアベルの問い掛けに、リシアは首を傾げる。
それは大御巫の疑問に同意するが故のものではない。その疑問が生じる要因に対してのものであった。
貴族……それも貴族院に名を連ねる高位貴族を多数殺害すれば、敵意を買い過ぎるからかも知れないと考えているであろうアリアベルに、リシアは、ああ、そういうこと、と納得する。
「ああ、そうね。北部と他地方の認識の差、かしら」
北部地域では皇国議会を議会という枠で認識せず、衆議院と貴族院で分別して見ている部分がある。どちらも鼻持ちならない連中であるという認識に変わりはないが、貴族院に関しては中央貴族の傀儡と認識され、余り重視されていなかった。
対する衆議院は頗る印象が劣悪であった。
自らの意思で選挙を経て態々、北部に敵対的な連中という印象ゆえである。貴族院に関しては傀儡である為、意思のない連中と判断されていた。
「まぁ、衆議院は議員になってまで北部に敵対的な動きをする連中の巣窟なんて思われているから、当然ね。貴族院は傀儡の盆暗が大部分と見られているから、捨て置けとでも思っているのでしょうね」
「ですが、国会への攻撃に巻き込まれ貴族院議員も居るかも知れません」
「それは運が悪いわね。でも、傀儡なのよ? 見逃してはやるが、助けてやる程ではないというところかしら」
あんまりな言い草に、アリアベルが天を仰いでいる。
正直なところリシアとしては、衆議院が敵視されていたのは選挙前の左派議員が大多数だった頃で、現在の衆議院の大部分は右派議員となっているので、大部分がとばっちりであるとも考えていた。
しかし、汚名からは逃れられない。
構成員や名称が変更された程度で濯げる汚名ならば、殺戮までの行動には繋がらない。
「それに、あの無様を考えれば殺してしまったほうが、陣営の傷は浅くなると考えているのでしょうね」
本来は政治家の資質に乏しい者達が皇都擾乱を始めとした一連の国内情勢変化によって国会へと押し込まれた。その無様は酸鼻を極め、そうした者達によって皇州同盟の名誉と権威が棄損される事を恐れたからこそ参謀本部も賛成したのかも知れない。
――今頃、連携企業への説明で大忙しでしょうね。
迅速なる危機対応能力を賛美しつつ、国会への攻撃を正当化するだろう。中央への政治的干渉に成功して混乱を拡大し、相対的に皇州同盟の軍事力が重視される情勢を形成する事に成功した。しかし、遺憾ながら右派議員の多くは同胞たるの資質を備えず、放置すれば皇州同盟の名誉が棄損される。止むを得ず之を排除する決断をした。
屁理屈としては、その辺りが妥当であろうと、リシアは見当を付ける。
一部の企業は衆議院議員に賄賂などで渡りをつけようと、或いはつけ始めていたところであろうが、そう言い募れば納得するはずである。未だ癒着して利益を手繰り寄せる段階ではない。賄賂程度の損失ならば許容されると見て差し支えなかった。
これからの経済活動を支える軍事的権威は、北部企業の生命線でもある。抗弁はし難い。
「独立にまで話を拡大してしまえば、再び流通は制限されて……」
「戦略爆撃に電撃戦……十分に脅迫の材料はあるわ。雌伏を選択する必要はないのよ」
最近はフェルゼンを中心とした造船所から進水する商船団による他国との交易は軌道に乗りつつある。
勝利により優秀な兵器が喧伝された結果、兵器の売買契約は急速に拡大している。その資金を以て重工業化を推進し、工業製品の輸出にまで移行できれば、持続的な輸出を実現できた。
造船業を強力に擁護し、拡大させ続けたマリアベルの成果である。
海軍も艦艇建造を行う造船所に喘いでいる状況での敵対が愚策であると理解している。敵対は現時点で成約している艦艇の建造計画の白紙を意味する。そうしたトウカによる国軍との結び付きの強化は、政府の統制力低下に付け入る形で行われたものであり、同時にそれは相互依存を促進させる産物であった。
未だ兵器工廠から産み落とされた兵器は産声を上げ始めたばかりに過ぎず、国軍に受け渡された数は微々たるものでしかない。陸海軍は内戦と対帝国戦役で喪った兵力と兵器を未だ回復出来てはおらず、長い平和は軍需産業を弱体化させた。短期、中期的に見てその不足を補い得る存在は皇州同盟しかない。
皇国は分断され、積極的な動きを取れなくなると予想された。
「でも、政治の舞台まで血塗れにしてしまえば、もう全てが赦される事になってしまいます」
箍が外れるというアリアベルの指摘に、リシアは、今更ね、と苦笑する。
商人を殺害し、企業を恫喝し、都市を焼却した。
最早、政治の舞台で血を流すが如きを特別視する程に、北部臣民は繊細ではなくなっていた。内戦前ならいざ知らず、トウカによる苛烈な全体主義的姿勢の下で行われた弾圧や統率に慣れたが故である。元より過酷な気候の地域である為、資源分散を招く争いを避け、才覚のある指導者に付き従うという風潮がそれを助長させた。
結果、彼らは既存の常識に縛られない敵の打倒方法に驚きを示す事がなくなった。
「確かに政治は議場という戦場で血を流さずに済む戦争かも知れない。でも、それは決断によって何処かで血が流れる事から目を背けているだけよ」
そもそも、血は流れるものなのだ。
本質的に聖域などありはしない。
権力者の決断とは本質的に流血を伴う。
そこに是非はない。
議会が流血と不可分であるという甘えを公言する者達が主導権を握るならば、国家は命数を使い果たしたに等しい。
例え議会政治であっても血を流す覚悟だけは喪ってはならない。
「まぁ、斬ったの張ったのを若い頃にしていた者ばかりが貴族の北部の考え方なのだけど」
しかし、そこに緊張感と決死の精神が生じ、彼らは領地運営に裂帛の精神を以て望んだ。故に彼らは領民に支持され、幾多の困難を切り抜けた。
初夏の若葉の匂いを嗅いでも、この血涙を伴う政治の薄汚さを灌げないと感じたリシアは、突き抜ける様な青空を見上げる。
古来より陽光は邪悪を祓うという。
しかし、政治の闇を祓いはしない。
近代化による政治の複雑化と多角化は、一層と過去よりも闇を深くしたが、それを祓うだけの好機は早々に訪れなくなった。寧ろ、法律と制度は闇を強力に擁護する産物として扱われる。
ヒトの信仰が減じた事で神々が衰退したと言うならば、それは陽光でヒトの世の闇を祓えなかった神々の実力不足に依るところである。
ヒトの世の闇は、ヒトに生まれ堕ちた指導者による剣と覚悟によってのみ祓われる。
リシアはそう確信して疑わない。
「剣聖殿も気付いたのよ。最早、己が立たねば北部は護れないって」
「融和の流れがあったのではありませんか?」
それは懐柔によって北部内に浸透する方策であると看做す者が少なくない。事実としてそうした側面もあり、対帝国戦役に於ける数か月の大規模避難程度では北部臣民の不信感は融解しなかった。
そもそも、大規模避難も事実として大袈裟に語られている節がある。トウカが避難民を中央貴族に押し付けるにあたって皇州同盟の協力企業や貴族への方便として喧伝した結果であった。一側面としてそれは間違いではなかった事も、そうした主張を広げる要因となる。
内外で主張を使い分けるのは正に政治のそれである。
トウカは避難民を押し付けて、中央貴族に負担を強いるという方針を取ったが、同時に帝国軍誘引を意図し、帝国軍は短兵急に事を進めた。
結果、北部の避難を有する地域は大きく限定され、総数で言えば一〇〇万を超えない程度に過ぎなかった。それでも負担に変わりないのは確かであるが、皇州同盟軍参謀本部は中央貴族が短期的に受け入れられる人数を算出し、適度に押し付けるに留めた。
過度に押し付けて凍死者や餓死者が生じた場合、責任の一端を被る事になるという保守的な判断からであった。トウカは被害も責任も已む無しと主張したが、セルアノが強く抵抗した事から折れた。
避難民が戦後に戻ってくる保証在っての避難か?
つまるところはそれである。
震災によって焼け出された避難民が、故郷への帰還を諦めて避難先に定住する可能性を、セルアノは恐れた。人口は歳出に影響し、他地方への流出は働き盛りの若者が多数を占めるであろうと見たからである。
トウカも、その主張には同意せざるを得なかった。
「北部の遺恨は簡単には拭い去れないわよ。対帝国戦役で早々に大規模動員と貴族の連合軍が結成されて決戦にでも持ち込んでいれば話は違ったでしょうけど」
それをされた場合、皇州同盟は大きな支持を得られず、ヴェルテンベルク領周辺を策源地とするに留まっていたとリシアは見ていた。
誰も助けてはくれないという危機感が皇州同盟を成立させた。
トウカがその意識を扇動し、そうした情勢へと誘導した。
しかし、それを払拭する動きさえ見せなかったのだから、北部の結束という結果はトウカの有無に関わらず変わらないはずである。
同時に結束まで極短時間であった事が、対帝国戦役までに皇州同盟軍という反抗の刃を鍛える時間を与えた。
その実績こそが皇州同盟の強権を現在も北部に認めさせる根拠となっている。
「見捨てられたという考えを払拭できなかったのですか?」
「違うわ。己の力のみが、真に己を援けると確信しているのよ」
アリアベルの言葉もまた間違いではない。
だが、リシアも北部を故郷とするものである。弱さを認めてはならず、有利な一側面を掲げて強弁するしかない。北部はそうして生き抜く事を決意したのだ。
「私もこの騒乱が終われば北部に戻るわ」
次の内戦に備えて、とは口にしない。
そうあって欲しくないという願いと、必要ならば躊躇してはならないという確信が、リシアの胸中で鍔迫り合いを繰り広げていた。
もう北部の疲弊は隠しようがない。
民衆の貧困に目を背けてまで戦っては、何を護る為の戦いか分からない。最早、停戦や停滞を求めた軍事戦略を展開すべき場面である。ベルセリカは、優位性を確保したままに休戦状態を作り出す為の軍事行動と主張しているが、リシアには度が過ぎるものと見えた。
リシアは皇都や中央部の豊かさを目の当たりにし、北部の痩せ我慢の連続が限界だと確信している。余りにも差が大きい。
それでも尚、それを認める勇気を北部貴族や北部臣民は持たない。
軍備と自治を喪っては、全てを喪うと確信しているからである。
「再戦ですか?」大御巫の問い掛け。
紫の髪の少女は肩を竦めるしかない。
それを決めるのは人々の戦意と悪意のみであるとリシアは信じて疑わなかった。
「宮城突入を行う。近衛を蹴散らし、場内の逃げ道を確保する」
ベルセリカは斬馬刀の刀身を砥石で磨きながら、遠目に窺える皇城を一瞥する。
その一言にザムエルやエーリカを始めとした将校達が絶句するが、ベルセリカは議員を少々、銃剣で小突き回す程度で満足したのかと驚きを返すしかない。
最早、全てを敵に回して悪名を保つしかない。
悪名こそが北部を護るのだ。
名誉なき孤立こそが、皇州同盟の未来に他ならない。
「それ、事実なんで?」ザムエルの問い。
命令に対するものか、皇城内への抜け道に関するものか、ベルセリカは測り兼ねた。怖じ気付いた姿に前者であろうとは考えたが、ザムエルの名誉の為、後者を尋ねられたとして振る舞う。
「リシアに調べさせた。真偽の余地は御座らんよ」
瓦礫の国会跡から再集結を始めている戦車猟兵達の姿を、上面開放式天蓋の箇所より上半身を乗り出して眺めるザムエルは、その戦力で軍事要塞を落とせるかとの逡巡が背中に透けて見える。
「まぁ、あの大御巫も居るとなりゃあ、真偽を確かめるのは容易でしょうがね……」
上面開放式天蓋の縁に肘を突いて呆れて見せる韋駄天。
「変わったもんです。野心が鎌首を擡げたんですか?」
至誠の人と専らの噂である剣聖が斯様な振る舞いをするなどと、ザムエルは思っていなかったのか、その声音には多分な呆れがある。
「まさか。野心など御座らぬよ」
ベルセリカからすると、自身が清廉潔白にして明朗闊達な人物であるという確証はない。加えて、それを心掛けた記憶もない。ただ、かつての主君がそう願った様に生き続けた結果に過ぎず、それが一般市井で言われる清廉潔白や明朗闊達であったに過ぎなかった。
そして、今、彼女は己の本心の為に力を振るおうとしている。
それが願いであり、手向けであると確信しているからである。
中央政府の為、二度も失った女の意地でもある。
妹が堪りかねてザムエルの両肩を掴んで揺さぶる。副官の振る舞いではないが、周囲の将校達も止めない。寧ろ、同意を示した。
「ちょっと兄さん! そんな事をすれば国賊で売国奴ですよ!」
模範的な皇国臣民の意見であり、それは北部臣民の中でもそれなりに効力を持つが、他地方と比較すれば形骸化著しい事も確かである。不敬であるという感情よりも、己の立場への懸念が先立つ事からもそれは窺えた。
しかし、見極めの早いザムエルは、そうした部分への見極めとて例外ではなかった。
「どうせ国を割るんだ。それに俺達が裏切ったんじゃない。皇国が先に俺達を裏切ったんだ」
吐き捨てる機甲戦の名手。
エーリカや周囲の将校達も沈黙する。
周囲を警戒する戦車猟兵達も耳を傾けている。
「今更取り繕ってもしかたないだろ? 俺達は疾うの昔に朝敵だぜ?」吐き捨てる韋駄天。
ベルセリカは野戦机に拳を叩きつけて立ち上がる。
凹む野戦机と、軽合金が拉げる打撃音に視線が集まる。
「然り! 然り! 奴腹めらが背いた!」
叫ぶ剣聖。
我らに非などありはしないとベルセリカは断言する。
偽らざる本音であるかと言うように。
免罪符になり得るのだと言うように。
最早、逃げ道などないと言うように。
一息に飛び上がると、隣に停車する中戦車の砲塔天蓋へと降り立ち、朗々と嘯く。
「某はベルセリカ・ヴァルトハイム! 剣聖にして朝敵である!」
独立。
それは北部貴族と臣民がいつかはと期するものである。
行政府と税制は既にあるのだ。
確かに暫くの間は皇国の版図に在って利益を享受する事が得策であると言える。
しかし、連携や融和が進めば進む程に人口流出が起きれば話は変わる。トウカは、然して起きないと判断し、セルアノは大規模に起きると見ていたそれを、ベルセリカは懸念していた。
焦燥に駆られていたと言ってもいい。
割れた意見にトウカは明確な意見を返さなかった。その意図するところは分からないが、既に人口流出の予兆はある。誰しもが郷土愛に燃えて気炎を吐く者ばかりではないのだ。煌びやかな都会の光景に誘蛾燈に群がる蠅の如く憧れる若者は少なくない。労働者にして防人としての役目を担う若人の流出は看過し得ないものがある。
結局のところ、独立に行き着く。
それを求めたのはセルアノである。
彼女は銭勘定だけの妖精ではない。長期的視野を以て郷土の行く末を俯瞰できる人物であり、彼女は融和が進めば進む程に人口流出が進むと見ていた。他地方に劣らぬ公共施設を整備し、利便性を獲得するまでに要する予算と期間は人口流出次第で更に拡大する可能性もある。
トウカによって推し進められている北部の縦断鉄道や高速道路の敷設は間に合わない。
独立し、国境を閉ざすしかない。
行軍を開始した特設陸戦隊。
「北部を独立に導く為、諸君らと共に歩むものである!」
斬馬刀を掲げ、ベルセリカは断じる。
北部の未来の為、国家を成立させ、閉鎖的な政策を堅持せねばならない。
北部維持の為、北部臣民に負担を強いるのだ。
最早、手段と目的が逆転している。
だが、それだけではない。
ヒトを突き動かすのは義務や熱意とは限らない。流された血量と後悔、慟哭によるものかも知れない。犠牲と後悔なしには前に進めないヒトもまた存在する。
結局、ヒトは愚かな生き物なのだ。
ベルセリカは想う。
進むべきではない。去れど進まねばならない。
そう考える己の軽佻浮薄と皮相浅薄を、彼女は胸中深くに押し込んで進む。
「皇州同盟軍、前へ! 独立宣言を皇主なき玉座に叩き付けに往くのだ!」
だが、進み往くならば、せめて力強く在らねばならない。
嘗ての軍神の様に。
ベルセリカは腹を括った。
誰もが不幸となる途を往くと。
それは一つの分岐点。
しかし、それを認めない男が居た。
「その独立宣言は受領できない」
軍神は舞い降りた。




