第二七八話 在るが儘に Ⅴ
「酒守、空いてるかな?」
トウカは古惚けた木材……妙に重量を持ち、油で磨き上げられた扉を開くと、長卓の隅で居眠りしている老人男性へと声を掛ける。
扉に嵌め込まれた光彩豊かな文様硝子に目を奪われたクレアを背に、トウカは店内へと足を踏み入れる。
相も変わらず、奥行きの半ばまでをも酒瓶で占有された圧縮陳列甚だしい長卓。壁一面を利用した酒棚に三列で隙間なく並べられた酒瓶の戦列。天井の古風な硝子細工の光源から降り注ぐ暖色。
何一つ変わらない光景は不変を約束されている様ですらある。
長卓の先……安楽椅子上に横たわる老人が、しょぼしょぼとした瞳でトウカを視界に捉えた。
苦笑と共に長卓に収まり、頬杖を突いたトウカ。
急ぐものではない。
そうした感情を示す振る舞いであると自覚したトウカは唾広の山高帽越しに頭を掻き、店内である事を思い出して脱帽した。
クレアも店内の年代を感じさせる調度の数々から意識を戻し、トウカの横へと着席した。
「こんな小路があるなんて、私は知りませんでした」
「そう言えば、引き攣っていたな」
トウカは幾度か足を運んだが、彼からしても不可思議な空間である。
無論、店名のない酒場である事もあるが、振り返ってみれば道順を記憶している訳ではないにも関わらず、望む時には小路へと足を踏み入れている。記憶はあるが現実感のない記憶。魔術的な隠蔽とも思えるが、天帝の御膝下でそうした事ができる筈もない。トウカからすると国賊でもある皇立魔導院の御膝下でもある以上、魔術的な隠蔽が容易ならざるは明々白々であった。
ハルバー通りに立ち並ぶのは、魔術触媒を扱う商店や異国の料理を振る舞う飲食店。呪術効果すら感じさせる装飾品を扱う宝石商や、用途不明にして前時代的な衣服を扱う服飾店……嘗ての祖国の巷で言われる幻想浪漫と呼ぶに相応しい光景が、正にこれであると言わんばかりに顕現していた。
初見のトウカも目を奪われたものであるが、クレアは禁制品の品々に眉間に皺を寄せていた。治安維持に致命的な悪影響を及ぼす類のものはないとの事であるが、そうした闇市の如き場所が皇都にあるというだけでも憲兵からすると卒倒ものである。
トウカとしては、良からぬ組織が蠢いていようが、国営に影響があろうが今となっては詮無い事であった。
しかし、逃げ込める先があるのは悪くない。
圧迫感のある左右の建造物の先から見える空には、何故か哨戒している天使の影を見受けられない。高度な隠蔽性があるのであれば、それを利用しない手はない。
重たげに安楽椅子から腰を上げる年老いた酒守。
「うん? 君かね。さぁ、どうする? 何を呑む? 何を話す? 冒険をしてきのかのぅ?」
相も変わらず、尸解仙を経た様な眉と顎髭に覆われて感情を読み取り難い酒守だが、トウカの注文を待つまでもなく酒棚へと向き直った事から来店を喜ばれているであろう事だけは察せた。
磨き上げられた黒檀の長卓に視線を落とせば、曖昧な笑みを浮かべる己が居る。
「奇怪な事になったもので……さて、何を呑むか……」
ちらりと隣席に座るクレアを一瞥する。
朱色の行燈袴に桜色の半着は着物袖、長革靴と、下ろした浅葱色の流麗な長髪。髪留めとして大きな山吹色の飾紐を付けた姿は、トウカが遠く歴史として知る大正時代の女学生を思わせた。
着物と比べれば動き易い行燈袴に、膝下丈の半着はそれなりに動き易い。腰回りが単純で細く見え、そこには紫色の腰帯が結ばれていた。軍刀はそこに差し込まれている。座した現在は隣席に立て掛けられていた。
対するトウカは唾広の山高帽に、丸縁の遮光眼鏡を掛け、人相を可能な限り隠している。羽織る薄手の塹壕長外套や胴衣、洋袴などを含めて黒色で統一され、脇には脇下拳銃嚢を吊るしていた。
全てクレアの手によるものである。
全てを審らかとするには乏しい暖色が降り注ぐ中でも遮光眼鏡を外せないトウカは、飲食店からすると胡散臭い客に他ならない。視覚遮蔽効果が付与され、使用者が光度調整可能であるとは言え、薄暗い店内で扱うには些か気が引けるものがある。
しかし、客商売と割り切っている……のではなく、気に入った客しか辿り着く事が出来ないと酒守が以前に言い放った扉は、年代を感じさせる古木に複雑な文様が刻まれ冗談とも思えない威容を示していた。
トウカは、公式酒瓶の気配がない酒棚から視線を下ろす。
「磯臭い独立系を適当に」
「私も同じものを」
トウカとクレアの注文に、酒守は長卓上に整列していた酒瓶を手に取ると、計量もせずに音もなく長卓に置いた硝子杯へと注ぐ。
流れるような所作は年季を感じさせるが、手にした硝子杯は先の風景を余さずに透過している。扱う品はよく手入れされ、劣化を感じさせない。
「こんなところが皇都にあるなんて……皇都憲兵隊も皇立魔導院も存外不甲斐ないものです」
クレアは滑る様に差し出された硝子杯を手に取り、苦笑を零す。
未だ政敵や競合組織の粗探しをしてしまう己の癖を自嘲したクレアに、トウカは何一つ語りはしない。良くある事に過ぎず、感傷と表裏一体のそれに水を差す無粋を彼はよく理解していた。自身がそうであるからして。
トウカが眼前に用意された硝子杯を手に取り、口を付ける。
多少の塩気に華やかな香りが鼻を抜ける。複雑な気配はあれども、トウカは大仰な表現や言葉を好まない。無論、酒に関しては他者の風聞を気に留めない為、表現する言葉を知らないという事もある。
「落ち着くな……しかし、色々とある」
同じ独立系の列は少なくない部分を占めている。企業のものか、企画のものかまでは判別できる知識を持たない。
小難しい理屈や感想を垂れ流すのは性分ではなく、そもそも酒で商売をしている相手に要らぬ半畳を打つが如き真似に他ならない。
「自慢の品揃えでずぞ。まぁ、呑みに来る客など滅多と居りませぬが」好々爺然とした笑みを零す酒守。
営業形態として万人受けしない品揃えで固めた光景に、トウカは難儀な性格をしていると肩を竦める。
難儀な性格であるからこそ、類は友を呼ぶとばかりに、自身もこの座席へと辿り付いたのかも知れない。トウカはそう考えていた。
「ト……貴方は、よく辿り着きましたね……」本名は問題だと呼び名を変えるクレア。
「さぁ、酔っ払って徘徊していたら、だからな。正直なところ、記憶も怪しい」
クレアの感心しないという視線から逃れる様に、トウカは一口、ウィシュケを口に含む。
酒守は顎髭を扱いて、仙人染みた笑声を零す。
「ここは傷付き、悩める者達が辿り着く場所ですからなぁ。入り口は何処にでもありますからして」
何処にもあり何処にもない、と嘯くそれに、トウカはシュレーディンガーの猫の様な言い草だと呆れるしかない。同時に魔導という不可思議な原理ならば成すも容易いと思える。精神への干渉は高度であれど、排除できない可能性として有り得るのが現状のの魔術とされていた。
三人を沈黙が包む。
重く質量を錯覚するそれではなく、酒精の昂揚と柔らかな暖気、視覚を刺激しない暖色の光源が背を押す穏やかなものであった。
暖色というには些か暗い光源を見上げ……視線を逃がしたトウカ。
店内の光の及ばぬ暗がりは陥穽のようでいて、何処か手招きをしている様に思える。思えは店内の光源は乏しく、不鮮明でいて輪郭の覚束無い場所すらある。長卓上は席毎に用意された瀟洒な洋灯に囚われた燈火しかない。
隣席に浮かぶ妖精の横顔は正に幻想の世のそれである。
悪くない。
その姿に、ウィシュケも一層の華やかさを見せているような気すらした。
「酒守。今の彼の傷は多少なりとも癒えていますか?」
嫋やかな笑みの下、僅かな緊張を残したクレアの問い。確信なき疑念を第三者に求める健全な振る舞いに、トウカは後頭部を掻く。未だ疑念と心配は払拭されてはいないのだ。
年老いた酒守は、ウィシュケを嗜むトウカを一瞥……というには長く視界に捉えて鷹揚に何度も頷く。
「癒えてはおりませぬなぁ……しかし、蓋は叶ったようですな」心傷は容易く癒えぬと嘯く酒守。
曰く心傷は堆積物に近く、消えず新たな心証や心傷によって下層へと……過去へと押し遣られる事で意識すらされなくなる。しかし、それは消え去る事を意味しない。心中に占める割合を減らし、過去へと押し遣る事はできても、決してなくなりはしないという経験談。
年老いた酒守は語る。
「幾年月を経ても、それを掘り起こす切っ掛けがあれば、過去は再び背後に佇みましょう」
経験談だけあり説得力があると、トウカは酒守とクレアの会話を横に硝子杯に残った僅かな黄金色の雫を飲み干す。
気が付けば、抜け目なく用意される硝子杯。そして、先の硝子杯は酒守の掌に吸い込まれる様に長卓上をひとりでに滑る。
酒瓶の底を片手で掴み、注ぎ口を揺らす事も計量する事もなく注がれる次のウィシュケ。クレアの正面から移動せずに行われるそれに、トウカは苦笑せざるを得ない。所作に淀みはなく、黄金色の液面は揺れず、雑な振る舞いに見えてそうではなかった。
「心傷した男の彷徨を繋ぎ止めるは此れ正に難事に他なりませぬ。こうして席を共にするならば、それは貴女の献身を認め、感謝している証といえましょう」
神父や神官でも演じていた過去があると言われても納得してしまう光景そこにはある。黒の燕尾服ではなく白を纏ったならば、それらしい振る舞いと見える事は間違いない。
「女は赤裸々な確証を求め、男は感謝の言葉を軟弱であると恥じ入る」何時の世も変わらぬ営みと、酒守は莞爾として笑う。
白皙の美貌に朱を散らした妖精が躊躇いがちに、窺う様にしてトウカへ視線を向ける。
――この老人、若者の色恋にも興味がある妖怪だったか。
以前の会話で歴史と酒に造詣が深い為、そうした類の老人かとトウカは考えていたが、意外な事に俗な部分も失ってはいなかった。否、俗な部分が経年と共に生じたのか。
「若者の関係に口を挟むのは感心しないぞ。ほら、俺は心傷だ」
被害者顔をする優位性は祖国の左派が良く示した真理である。それを嗤って踏み潰せる様に教育されたのがトウカであるが、必要とあれば斯くの如く振る舞うことも吝かではない。優位性確保は全てに優先する。
クレアが俯く。冗談の類であり、白けるかと考えたトウカは、別で用意された水に口を付ける。
「成程、儂の様な老人が若者の道を邪魔しては成らぬとは心理」
意外にも同意する年老いた酒守に、トウカは眉を顰める。
碌でもない言葉が飛び出すと察したからである。軍事的に見ても余裕のある戦況での後退は次の攻撃への予備動作なのだ。
「我ら老体が喪われるまでに望む安寧という明日は、同時に若者が熱意を糧に切り開く明日でもあるという事を忘れた者も多くありましょう」
嘆かわしいと口髭を撫で付ける姿は、現状を憂うるそれに見える。貴き族が世相を憂うる類のものであるが。
「それを忘れては、残る血縁にも同胞にも国家にも、御迷惑を掛けるは必定」
話を大きくして相手を圧倒するのはトウカも多用する話術であるが、それを受ける立場となれば実に業腹なものがある。人の男女関係を大事にされているという部分も大きい。
「しかして、若人の背を押してやるのは、年長者の振る舞いとと世は嘯くものでしてな」尸解仙を経た仙人の如く笑声を零す老人。
「反省も自重もないな……」トウカは溜息を一つ。
口にするのも憚られる言葉を口にしなければならない不可視の潮流が、己の背を押している気がしたトウカは、胡乱な瞳をクレアに向ける。
不安げな瞳でトウカを一心に見つめる妖精。
森林系と氷雪系の因子を備えた妖精の健気に、トウカは酒精交じりの気恥ずかしさを吐き出す。
「感謝している。出会わなければ野垂れ死ぬか、犯罪者の手先にでもなっていただろう。俺はお前の献身を忘れないし、望むならば使い道のない残りの人生をくれてやる心算だ」
嘗て軍神だった男の忌憚なき本心であった。
何一つ残ってはいない。そんな男を欲するのならば呉れてやる。
トウカはそう決心していた。
脳裏には総てを捨てると口にした紫苑色の髪の少女が過る。
紫苑色の髪の少女の手を取る事はなかった。当時の時節と心情が、それを許さなかったと言えば、それまでであるが、確かにそうした事実は存在する。以前より愛を叫ぶ事を躊躇しなかった少女の手を取らず、因果な事に清楚可憐な妖精の手を取っていた。
慙愧の念に堪えないものがある。
向上心著しい少女もまた総てを擲つと叫んだ。その苦渋と決断は如何程のものであったのか。それを袖にして尚、清楚可憐な妖精の手を取った。
――恨まれるだろうな。
何故、そうなったのか。
それは、トウカにも分からない。
ただただ、悔悟の念だけがある。
それもで選択は成された。
在り得たかも知れない過去は後背へと消えた。
「俺には何も残っていない。そんな男を好きだという女が居る。挙句に全てを捨てて共に在ると言う。罪悪と悔恨で圧し潰されそうだ」
紛れもない本心。
新進気鋭にして優秀な軍人を流浪の立場に巻き込もうとしている。皇国への義理や義務に依る感情ではなく、ただ現在の立場に至るまでの苦労と時間、流した血涙を無駄にさせるという部分への感情があった。
「それは……私が望んだ事です」
クレアは、既に決めた事です、と長卓上のトウカの手を取る。
自身の価値など有りはしないと、トウカは信じたが、彼女自身の価値に全てを擲つと決断した。己の不明を恥じる真似はできない。
「ありがとう」
トウカは囁くように感謝した。
そして長卓へと突っ伏す。
羞恥と安堵に揺れる表情を見られる事に耐えられないトウカは、長卓上でうんうんと唸る。
「私も……嬉しいです。貴方の本心を聞く事が叶って」淡く微笑む妖精。
トウカは視線を逸らして語らない。
年老いた酒守は、好々爺の佇まいの儘に手元の硝子杯を磨き上げている。言葉を求めてる女性の心情を語っておいて尚、その結果には無関心の様子を貫徹する姿に、トウカは怒りが込み上げるものの、採点や意見を付け加えられる真似をされては、顔が長卓から離れなくなってしまう。
暫しの沈黙。
クレアは第三者の居る中での言葉であった事に思い当たったのか、硝子杯に残ったウィシュケを一息に飲み干す。酒精を煽れば、頬の色も誤魔化しようがある。
話題を変える為か、年老いた酒守は、小さく喉を鳴らす。
「しかし、今にして思えば、あの日……最初に来店なされた日は、特に傷付いておりましたな」
顎髭を撫でて思案の仕草を見せる姿に、トウカは別の難題が来たと顔を顰める。
レンダイノに於ける“小競り合い”に巻き込まれて間もなくであった。
思うところがあり、彼らの愛国心と自負心に圧倒されていた。
国家への挺身を疑問なく果たす程に、トウカは無知にして無垢ではなかった。皇国や土地への自体への執着もない。彼らの熱に浮かされた様な振る舞いは、トウカにとり酷く眩しく愚かしく思えた。
「……まぁ、レンダイノで揉め事に巻き込まれたもので」
「あの主義者の衝突の場に……よく無事でしたね」
憲兵として把握している事件なのか、クレアは口元を押さえて驚く。
翌日の三面記事になる程度には、悲惨にして大規模な抗争であった事も確かである。トウカからすると万単位の動員兵力での戦闘を無数と統括する立場に在った為、小隊規模の戦闘は然して大仰に捉える程のものではなかった。
――まぁ、民間人の争いと見れば……いや、それも皇都擾乱を経た今となっては霞むだろう。
民間人が大規模に殺し合いを演じた皇都擾乱の規模と衝撃と比較すれば、然したるものではない。
「一方が知り合いだったものでな。義理と人情を気取ってみようと思った訳だ」
トウカは、新たに用意された一杯に口を付ける。
酒精が先立つ刺々しさに、熟成年数の若いものだとトウカは苦笑する。彼は熟成年数の若いものを好んでいた。六年から八年辺りを特段と愛飲している。
レンダイノに於ける一連の争乱以降、皇都では主義主張の違う勢力による暴力沙汰が頻発している。
トウカも新聞を目に通していたが、実情は新聞に記されている以上に深刻であった。最たる理由は〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉の接近に対応すべく治安維持を担う兵力の大部分が引き抜かれた為である。対応すべく在郷軍人会を中心とした退役軍人などを治安維持に充てたが、その結果が情け容赦ない争乱であった。恐るべき悪手と言えるが、最早選択肢などない状況下で官僚機構は最善を尽くそうとしている。
伝統的に右派の多い在郷軍人会が治安維持という憎まれ役を進んで行うならば、官僚や政治家にとって国家への被害は最小限に留まる。そこには、犠牲者を数として扱う冷徹な計算が合った。混乱の最中に在っても、国家という統治機構は血塗れの最善を尽くしている。
そして、そうした現状こそが二人にとって絶好の脱出機会に他ならない。
「ああして争うのも悪くない。刀剣の時代に惹かれる者が多い訳だ」
「銃火器は英雄を容易く打ち倒しますから……」
咎める気はないクレアが、端的な事実を口にする。
トウカは近代史の欠点に天を仰ぐしかない。
ウィンストン・チャーチル曰く、戦争から煌めきと魔術的な美が遂に奪い取られてしまった。アレキサンダーやシーザー、ナポレオンが兵士達と共に危険を分かち合い、馬で戦場を駆け巡り、帝国の運命を決する。そんな事はもうなくなった、との事であるが、それは正に異世界でも例外ではなかった。実際に魔術のある世界でも魔術的な美が奪われるとは皮肉に他ならない。或いは、魔術的な美そのものが、赤ら顔のジョンブルの妄想に過ぎなかったのか。トウカは興味深いと考えた。
感心しないというクレアの横顔に、トウカは硝子杯を掲げる。
「そんな顔をしないでくれ。もうしない。きっと、多分、恐らく……」
確証はない。
衝動に身を任せる事もあるだろう。身軽に世を流離うとは、そうした意味でもある。
クレアは懇願する事もなければ、批難する事もない。当然、引き止めもしない。
「繋ぎ止めるなんて言いません。私も後を追いますから」苦笑する浅葱色の妖精。
仕方ないです、男の子ですからね、と緩やかな微笑を湛える妖精は、何処か諦めているようでいて、トウカが臆する狂信的な何かを滲ませる。天使や妖精の類が善なる立場として語られて尚、ヒトと一線を画す生き物として捉えられている理由がそこにはあった。
「大丈夫ですよ。私、荒事には自信がありますから」
干した硝子杯を掲げ、次のウィシュケを所望するクレア。彼女の好みは貴腐葡萄酒の樽で熟成させたものであった。トウカとは正反対と言える。
「俺を組み伏せる事も容易いだろうな」トウカは肩を竦めるしかない。
昼間、二人して戦略爆撃航空団による宣伝紙の散布を見に行ったが、その最中、クレアが周囲の者達を押し退け、人混みでの自身の負担をさり気無く減じた振る舞いにトウカは気付いていた。憲兵である為かヒトを往なす術に長け、トウカの手を引いて進む姿を周囲はどう見たか。
最早、矜持も何処かで落として不在となったトウカだが、女性に組み敷かれる事に何も感じぬ訳ではない。性差よりも種族差の影響が遥かに大きい皇国では然して珍しくもなかった。
そうした事実を踏まえると、トウカが臥所を共にした女性達は総じて彼に対する大きな配慮をしていたと言える。硝子細工を扱うかの如く。
「無様な事だ……」
そうは自嘲すれど、今となっては己の覇権が彼女達の善意の産物であったと、トウカも理解している。痛感している。
「それでも尚、私は貴方と共に在ります」
「否定しないところは救われる」
無様である事は遠のく理由に成りはしないと示すかの様に、クレアは長卓上のトウカの手を握る。
「軽蔑してくれても構わないぞ」
「貴方がそれを望むというのであれば」
その言葉は気遣わし気でいて、どこか狂気が滲む。
栄華を喪っても尚、ダモクレスと同様の重圧からトウカは逃れ得なかった。
トウカは、クレアが差し出した手を取る。
何をしているのかと思えども、トウカはその手を振り払えない。美貌の妖精が気恥ずかしさを隠せないままに手を差し伸べるのだ。無論、好き勝手に振舞った己を受け止めた相手を拒絶し難いという感情もある。
しかし、この美しい生き物が向ける笑顔と感情に無関心ではいられないという事実もある。
それは恋の様でいて、愛の様でもあるが、明確に違う。
代償行為に他ならない。
二人の女性を喪い、その代替として彼女を求めたのだ。
それでも良いと、見目麗しい妖精は言う。
「着崩れはありませんか? 少し不安です……」
白皙の美貌に朱を散らす浅葱色の妖精。
トウカは先を促し、左手でクレアの手を引く。
革製の行李箱を右手に、薄手の塹壕長外套を翻して進むトウカ。愛用の軍刀は偽装の為にクレアが佩いていた。
トウカはクレアの服装を一瞥する。
宿に逗留した為、昨晩と装束は変わらない。
しかし、陽光の下で目にすれば、それは華やかさを伴う別の一面を垣間見せる。
「良く似合っている」
朱色の行燈袴に桜色の半着は着物袖、長革靴と、下ろした浅葱色の流麗な長髪。髪留めとして大きな山吹色の飾紐を付けた姿は、トウカが遠く歴史として知る大正時代の女学生を思わせた。
着物と比べれば動き易い行燈袴に、膝下丈の半着はそれなりに動き易い。腰回りが単純で細く見え、そこには紫色の腰帯が結ばれていた。軍刀はそこに差し込まれている。
――女は服装一つでこうも変わるのか。昨日見たとは言え……
マリアベルにもそうした部分はあったが、クレアはそれを上回ると、トウカはその姿に瞠目した。
服飾と着飾る事が趣味という女性らしい一面は、トウカの周囲の女性には無きに等しいものがあった。無論、色気より食い気の仔狐や、麗人という佇まいと服装であった廃嫡の龍姫などは勿論だが、貴族や軍人という立場の女性達は、女としての部分よりも立場や振る舞いを示す服装を選択する傾向にあった。
「俺の服装も良い。流行は知らないが、細めの姿が好まれるのだな」
トウカは唾広の山高帽を被り、丸縁の遮光眼鏡を掛け、人相を可能な限り隠している。羽織る薄手の塹壕長外套や胴衣、洋袴などを含めて黒色で統一され、脇には脇下拳銃嚢を吊るしていた。
裁縫に荒さはなく、布の手触りは嘗て戦争屋と呼ばれていた頃の軍装よりも心地よい。傍目にも良い生地を用いている事が分かる。
「良かったです……」
一層と深い含羞の横顔を見せる浅葱色の妖精。
トウカは苦笑を零す。
心配は数えきれないが、寝台の上での振る舞いは流石に過ぎたるものがあったとトウカも自覚している。それ故に肚が決まった面もあるが、それでも尚、そうした仕草を露ほども感じさせないクレアに深く感謝していた。
残りの人生を浅葱色の妖精の望む儘に振舞う事も吝かではない。
そう考える程には感謝していた。
無論、最終的にクレアがエスタンジアに赴く事に頷かなかった事も大きい。何処か破滅主義的にして自罰的な部分が心の奈辺に潜む。
しかし、それでも尚、絶佳である。だからこそ、彼女達の先達がヒトの手によって産み落とされたのだと実感する事ができる。
神は、移ろいやすいものだけを美しくした。
長い生を与えられた彼女達は、神々だけでは成し得ない顔佳人でもあった。成功と失敗を繰り返し、幾千幾万の犠牲を踏み越えて辿り着いた技術の粋を以てヒトが作り出した人造の隣人なのだ。己に伴わなかった移ろわぬ美しさを与え、使役された時代は遠い昔。彼女達は、遥か昔の因子を未だに内包した同胞に過ぎなくなった。
トウカは、クレアの手を一層と強く握り締める。
「先ずは鉄道で東部に移動する。その後は現地の情勢次第だな」
皇都の情報に疎い……新聞という定かならぬ情報を喚き立てる媒体を当てにする程に愚鈍には堕ち切れなかったトウカは、相応の手段での脱出を考えていた。
「鉄道憲兵隊も皇都防衛への参加を決めたようですから……」
「私服での巡回はしていないのだろう? 軍装ならば遠目にも分かる」
クレアが〈皇都鉄道憲兵隊〉の大部分が皇都外縁の治安維持に抽出されたとの情報を得たので、トウカは鉄道での移動を決意した。街頭の移動時間と発見率は比例するとの判断である。鉄道の乗り継ぎで短時間の内に欺瞞行動を連続させれば追跡も難しい。
――天使も移動中の鉄道車輛を覗く真似はしないだろう。
野鳥の群れが如き哨戒回転翼機の大群から遮蔽したままに移動できる手段としては、鉄道が最も確実で一度の移動人数も多く、周辺の印象に残り難い。
無論、皇都の防諜網が半ば壊乱状態にある事もある。
〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉は中央貴族による連合軍を突破した。詳しい戦況は不明だが、皇都の混乱からそれを察する事が出来る。無論、時間的に見て包囲殲滅の余裕はなかった事から、突破と見るのが妥当であった。
近接航空支援能力の差が如実に出る野戦であれば、〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉に敗北はない。内戦と対帝国戦役を経て実戦経験を得た複数個の航空艦隊による地上襲撃に抗し得る規模の航空戦力は、陸海軍とクルワッハ公爵領邦軍しか有さなかった。押し留める事は困難である。
二人は皇都に無数と張り巡らされた小路を進む。
「思ったよりも混乱が大きい。追撃戦になったのかも知れんな」
「しかし、限定的なものに留まるのでは?」
寧ろ、敵中での孤立の危険性が顕在化するというクレアの疑問に、トウカも、通常であれば、と同意する。
〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉は優先的に戦力補充が成され、その充足率は皇州同盟軍に在って最優に他ならず、戦役後で大部分の部隊が定数を見たしていない中では稀有な事であった。
それは、トウカが即応性のある機動力に優れた一軍を求めたからに他ならない。
即効性のある効果を以て他勢力の政治に干渉する為、装甲戦力を主体とした一軍を常に実動体制としておくという判断は、皇州同盟が武力によって政治を従える姿勢を端的に示していた。
その存在自体が抑止力にもなり、交渉時の手札にもなる。
航空戦力だけでは地上制圧は不可能で、戦車部隊は敵の策源地を極短期間で襲撃できるある種の戦略兵器でもある。双方が在って初めて、その存在感に重みが出る。
「何がどうなっているのか……情報がなければ分からん」
「しかし、鉄道が動く内に行かねば足止めされかねません」
クレアは虹色の光を放つ乗車券を、トウカへと手渡す。
クレアが語るところでは、魔術的な偽造防止を意図した術式が付与されているとの事で、重力の頸木から解き放たれる蒸気機関車への乗車券ではなかった。
湾岸区画に併設された駅は皇都の流通を支える有力な輸送路でもあった。その規模は極めて大きく、無数の線路が張り巡らされ、数え切れない程の分岐点が点在する。乗降場は鏡合わせであるかの様に立ち並び、標識の数は数える気すら起こさせない。
そこで圧し合い圧し合う群衆の姿がある。
動乱の気配のある皇都から逃れようとする群衆の姿に、トウカは祖国の民衆を思い出して目を背ける。危機意識の欠如の対価は、何時の時代も生命であった。金銭で済む例など稀有なものに過ぎない。
「一等客車か? 逆に怪しまれる気もするが……」
切符を見れば、随分と装丁は丁寧で、過ぎ行く乗客達が手にする切符とは明確な差異がある。文言に目を通せば、最上級のそれを窺わせる二人部屋の寝台である事が見て取れた。
――高速鉄道……いや、寝台特急か……
珍しい、というのがトウカの所感であった。
トウカの知る弾丸列車……近年では新幹線と呼ばれる国鉄車輛と比較すれば、車輛の最高速度で劣る。夜を超えて運航する事を避け得ず、寝台を排除できないという事情があるが、それはトウカの知るところではない。異様な高速化によって国内空路の少なくない部分を日帰りで代替する新幹線の登場によって、寝台列車を遥か過去とした時代の国家を祖国としたトウカには、懐古の念を思い起こさせる事も難しい遥か歴史上の産物と言えた。
クレアは慣れたものであるのか、人混みを横目に空いた乗降場を澱みない足取りで進んでいる。
一等客車の乗降場は別であり、後で連結される上、他の客車とは独立している。上客の安全委配慮した構造をしており、貴族の輸送を前提としたものであった。
「空路という選択肢もあったのですが……」
「ノナカ少将経由だろう? 事情を話す訳にもな」
クレアの選択肢の提示に、トウカは渋い顔をして見せる。今更の提案を賞賛されてはクレアも困惑するだろうという配慮と、そもそも空路は天使達の支配下にある。
戦略爆撃騎を用いて空路で皇都離脱を図るというのは、一見すると妙案に思える。喋る荷物扱いで搭載されて北部に逃れる事が叶うならば、皇都の哨戒網は問題とならない。
しかし、トウカは一部の天使が飛行中の航空騎に飛び乗る事ができると帝都空襲の戦訓から理解していた。船舶に臨検を行う感覚で飛行中の航空騎にも臨検を行いかねない。現にそうした事例が新聞に記されていた為、トウカは空路という選択肢を排除していた。
一等客車……外観に然したる違いは見受けられないそれを前にし、トウカは優雅な転落人生が始まると、山高帽を被り直す。
「お手を」
「可笑しいな。普通は逆のはずなんだが」
一足先に乗り込んだクレアが差し伸べた手を、トウカは皮肉を以て受け入れる。
否、受け入れようとした。
だが、トウカクレアの腕を掴んで一等車輛から引き摺り下ろし、乗降場へと共に倒れ込んだ。
続く爆発音。
遠目に窺えた装甲列車の砲戦車輛が火を噴いて宙を舞う。
「海側! 二〇㎝だ!」
周辺の乗降場から響く悲鳴の中、クレアの頭を抱き寄せ、トウカは叫ぶ。
軍用艦艇からの艦砲射撃。
皇州同盟軍や陸軍が多用する八八㎝対戦車砲や一五五㎜野戦砲よりも大きな着弾音と飛翔音に、トウカはその概要を察した。
重巡洋艦の主力兵装と思しき口径の火砲により、海上から砲撃を受けている。
重巡洋艦を保有する組織は海軍と皇州同盟軍しか存在しない。無論、極短時間の内に神州国より宣戦を布告され、先制攻撃を受けたともなれば話は別だが、皇都はフェルゼンと類似した地形にあり、周辺諸国の戦闘艦艇が誰何を受けずに進出できる位置にない。
次々と着弾する艦砲と思しき砲撃。
駅舎など遮蔽物の影響を受けて沖合の艦艇を確認する事はできないが、飛翔音と砲撃音から逆算するに近距離からの砲撃である事は疑いない。
観測要員が潜んでいるか、或いは偵察騎による着弾観測が行われているのか。乗降場の屋根に遮られて確認はできないが、或いは何処かの天使が着弾観測を担っている可能性とてある。皇都は政治の坩堝に他ならない。可能性は奈辺に散乱している。
初弾から効力射を撃ち込み、十射程度で満足したのか、砲撃は停止したものの、鉄道の運行が何事もなかったかの様に再開するはずもない。
トウカは周囲を見回して安全を確認すると乗降場で胡坐を掻くと、何時の間にか落ちていた山高帽を被り直す。
そして、クレアを抱き寄せて座らせると、溜息を一つ。
「逃げ遅れたな……海からとは」
理屈は分かるが、とトウカは胡坐を掻く。
〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉が陸上から攻め寄せると判断した皇都鎮護を担う諸戦力は、釣り出される形で逆方向に誘引された。防禦戦力の乏しい湾岸地区は容易に突破を許すだろう。
――いや、艦艇で運河を遡上する心算か。
シュットガルト運河と比較すれば細やかなものであるが、軍艦数隻程度がある程度まで進出できる河幅を備えている事は放浪する最中の記憶にあった。
内戦中に遡上する艦隊を迎え撃ち、運河沿いの都市を艦隊戦力と共同して攻略したトウカ自身が、それが皇都でも可能であると判断した。
――まさか、それをするとはな。
挟撃の形となれば、敵は浮足立ち、〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉が突破を諦めても、戦力誘因で皇都は手薄になる。そう言えば聞こえは良いが、実情としては時期が合わねば各所撃破の可能性が高く、連携はそもそも容易ではない。予定通りに進む戦などないのだ。ましてや海側に纏まった航空戦力あるとは思えず、それがなければ不整合を押し込む真似などできない。
トウカは戦場で複雑な戦略を採用しなかった。
練度への不安に通信の誤差、指揮統制の限界……問題点を上げれば際限がないが、それらの諸問題が顕在化しても尚、勝利できたのは、航空攻撃で押し込んだ結果に過ぎない。
敵の対応を飽和させ、奇襲効果を最大化させる。
「莫迦め……夢を見過ぎだ」トウカは嘆息する。
海軍が沈黙を選択し、皇都に集う貴族達が黙認するかという問題もある。海軍は兎も角、後者に黙認を余儀なくさせるだけの政治力ああり、或いは謀略が行使できたならば内戦など生じなかった。
遡上する先にある国会が目標である事は容易に想像できた。
トウカはクレアの手を取り共に立ち上がる。
「あの装甲列車。恐らくは近衛のものです……」
クレアの指摘に、トウカは眉を顰める。
近衛軍とは鳳輦供奉と禁闕守護を担う天帝直属の兵力に他ならない。その性格から貴族将校が多数を占め、潤沢な装備と高い練度を誇る。命令系統が天帝の直下にある為、天帝不在の御代である今現在、その動きは低調であった。
皇都擾乱ですら動きを見せなかった近衛軍を攻撃する理由などない。
「近衛だと? 近衛を排除しただと?」
偶然ならば良いが、明確に近衛軍を排除する理由があるのであれば、それは皇権への挑戦という意図があっても不思議ではない。
現状で尚も敵を増やすが如き振る舞いをする意味を、トウカは図りかねた。
――誤射か? まぁ、今はこの混乱を利用する事が先だ。
塹壕長外套の汚れを払い、トウカは襟元を緩める。
「逃避行を祝う盛大な祝砲だな」
――或いは、混乱と狂騒の始まりか。
トウカは歩き出す。
見通せない世界を、若者は歩いていた。
神は、移ろいやすいものだけを美しくした。
《独逸連邦》 文豪 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ




