第二七七話 在るが儘に Ⅲ
「君は勉強熱心だな。職務以外で肩肘張る必要はないと思うが」
食後の一時に猛然と筆記帳を取るクレア。対するトウカは食後の緑茶を啜り、その勤勉さにエスタンジア出身者の気質だろうかと、皇国臣民はどうなのだろうかと自問する。
エイゼンタールも勤勉実直な将校であるが、キュルテンなどは享楽的な人物である。個人の気質や性格というのは、民族や国家という枠組みで見た場合、大凡役に立たない。諸々の理屈以前に、定義を大きくすれば、それだけ例外の生じる余地と規模は拡大する。
そして、それを画一化しようとした場合、国家が不安定になる事は歴史が証明している。
多様性こそが国家の長句性を保全する。
ナチズムや人種差別とて所詮は表面上に過ぎなかった事からも、それは分かる。
そもそも、ナチズムの金髪碧眼長身をアーリア人とするそれは民族的起源も出自も無関係な外観による選別に過ぎなかった。一部の高官はアーリア人か否かの判断は自身の匙加減だとすら嘯いていた。
亜米利加大陸での黒人差別も、民族や出自という根拠よりも、肌色による外観差別に過ぎなかった。一滴でも黒人の血が混じれば否定する建前だが、肌が白ければ然して気にも留めなかったのだ。
兎にも角にも、ヒトは外観を気にし、それが最大の判断材料となる事は古来より変わっていない。
ただ、国家ぐるみで敵対的な教育と制度を堅持して相対する民族に妥協の余地はない。距離を取りつつ、経済的に締め上げる事が定石である。汚染された思想の除染と要する歳月を踏まえれば、国力を失わせて対抗能力を霧散せしめる事が現実的であった。他国の為に還元される当てのない予算を裂き続けるのは国民に対する政治的背信に他ならない。
翻って皇国はどうなのか?
トウカは、多種族多民族国家として世界の縮図とすら言われる皇国の特異性を読み取りつつあった。
新聞と憲兵隊の報告書、歴史書からである。
新聞は現状の世相を示し、憲兵隊の報告書は検挙率や各犯罪の発生率で問題点を示し、歴史書はそれらの発端と経緯を示す。端的に言えばそれであるものの、整合性を取るのは容易ではないが、クレアは皇国の政戦や国内問題に詳しい憲兵将校である。確認は容易であった。
外観選別が不可能であるが、外観の差異は差別や隔意に繋がりやすい一面がある。思想や理想という御題目を唱えて解決する問題ではない。
経済格差を是正すれば抑え込めるとトウカは考えていたが、余りにも多種多様な種族と民族は問題までをも多様化させる。近代に突入して金銭価値に比重が置かれ、経済という誰しもの関心事項は確かに大部分を占めるだろうが全てではない。近代に突入しても尚、思想や教義に重きを置く者達が存在する事は歴史が証明している。
経済格差という物質面での改善は重要だが、それだけでは足りない。建国当時、兵役が高位種や中位種を中心に課された事から、士族的階級に縛り付けて民間経済への関与を低減される意図があった事が明白である。各資質に秀でた者達は低位種の仕事を確実に奪う。
そうした配慮だけで当時は間に合ったのだ。
否、皇国建国時や発展時は貨幣制度が未熟であった為、精神面での保全が重視されたのだ。貨幣制度の未熟は、宗教を始めとした不可視の権勢を振るう必須条件である。
それが天皇大帝という制度の成立と、神格化、権威拡大に繋がった。
不満を抑えて基準を示し、多種多様な不可視の権勢を抑える絶対者の到来こそを喫緊の課題としたのだ。
だが、本当にそれだけなのだろうか?
トウカは自信を失っていた。
己の知る歴史や制度を当て嵌めて考えた結果、地方軍閥止まりが精々であると示された故に。実情は兎も角として、トウカはそう信じて疑わない。
「君は初代天帝が何故、神聖不可侵を標榜する……至尊の座に就いたと思う?」
トウカの突然の問い掛けに、クレアは眦を下げて困り顔。陛下と付けるところを略した点を指摘するべきか否かという逡巡である事を、トウカは察する。
二重の意味で敬意を払う必要はなく、トウカは重ねて問う。
「答えるに難いものか?」
「建国時の混乱、後に続く周辺諸国との戦争を乗り切る為の権力集中の一環と我が国では言われています。隣国では権力欲に囚われて、と言われていますが……」
クレアは筆記帳から視線を外し、下した浅葱色の毛先を弄ぶ。
隣国とは共和国の事を指す。彼の国にとり初代天帝は複雑な人物である。民主共和制を確たる形にした人物であり、見限って権威主義国を建国した人物……客観的に見ても波瀾万丈の振る舞いと言えた。
「貴方はどうお考えに?」クレアが問いを返す。
単純な興味や関心に留まらないものが瞳に窺える。
トウカがそうした立場に在るならば、いかなる体制と制度を構築するのかという判断材料と成り得るという思惑があるのか。或いは惹起の輩の根底を見極めるという意図があるのか。
「当人の野心という点に関しては有り得ない、だろうな」
クレアは小首を傾げる。
明晰な憲兵総監ならば、必要がそれを求め、野心と結合したが故に、建国時の困難と周辺諸国の干渉を跳ね除ける原動力となった、辺りの理屈を考えているのかも知れない。必要性と野心の両輪が揃えば絶大な影響を周囲に及ぼす。
「その必要性から天帝となり、場当たり的に対処し続けた、辺りだろう」
野心があるならば、彼の影響力の爪痕は皇国各所に存在しただろう。
実名を残す事を否定し、御真影も曖昧なものが僅かに残る程度となるはずもない。彼ほど虚栄心のない指導者も居ない。神聖不可侵も立場に対するもので、個人のものとは考えていなかった節がある。
「初代天帝は、何処とも知れぬ出自の若者でしかなかった。当時の戦乱の世を憂えて、諸勢力を糾合し、一般的ではなかった民主共和制の不備を補い、民衆の権利拡大を実現する。しかし、教育と理解が制度に追い付かなかった。行き着く先は衆愚政治。政治的混乱と社会的混乱は全てを飲み込んだ」
後に初代天帝となる男が、民主共和制の制度実現に合わせて権力の座から若くして退いたという点にも問題がある。理念に基づき、自身で考え投票するという選挙制度の価値を毀損しかねない絶対的な者が立候補するという事を避けた点は思想的に正しくはあるが、後に見かねて首相になった際には全てが手遅れだった。
否、そもそも通信技術が原始的な時代に広大な国家を民主共和制で統治する事に無理があった。情報は遅れ、対応も後手に回る。ただでさえ意思決定の速度に劣る民主共和制には難しい時代であった。
「彼は、その中で是正すべきと考えていた差別が改善されぬとも察したのだろう。そして、種族や民族、その気質や能力を無視した職種の流動化は長期的に見て経済格差を撒き散らした」
当時の彼は典型的な民主共和主義者である。時間は掛かるが、問題を致命的に間違わずに一つ一つ潰していくだろうという根拠なき確信を抱いていたに違いない。
「彼は崩壊した国家を去った。差別を受けた者を糾合し、後世への遺恨を最小限に留める為、多くの種族を引き連れて」
多種族共存の状態を放置できぬと判断し、看過し得ぬ軋轢になる前に、先んじて分断を図った。それにより、現在の共和国は種族毎の軋轢は少ない。外観による大きな差が乏しい種族しか存在しないという事もあるが、資質に優れた種族が皇国へと逃れたという部分が大きい。
或いは即戦力として期待したのか。そのどちらでもある可能性もある。有象無象を引き連れて食糧消費で圧迫を受けるよりも、一騎当千の資質を持つ種族を優先的に逃避行に組み込んだと見るのは不自然な事ではない。建国時の要職に在った面々は軒並み高位種で、人間種は気に敏い商人が同伴し、後に通商関連の省庁を采配する者となったくらいである。
ちなみに、その建国時の通商関連を一手に引き受けた者の末裔こそが、ベルセリカのかつての主君である。
因果は巡る。
その点に気付いたトウカは、初代天帝の長命種による統治を護る為に動いたフェンリスが、ベルセリカの主君と仰いだ人物を建国理念から排除しに動いた可能性に思い当った。当代で落ち度はなくとも、種族的短命による頻繁な世代交代を危険視するのであれば、排除の時期は対象の能力の多寡に影響を受けない。
ベルセリカが人魔平等に固執するのは、そうした部分もあるのだと取れる。
政治面での平等は、建国から続く政治や思想に根差した部分と衝突する。
トウカはなくなった紅茶を急須から継ぎ足す。
昼時に背筋の凍る話である。
数千年単位の遺恨を巡って争うなど、トウカの知る歴史にはない。日本の隣に自称四千年の歴史を持つ国家も存在するが、それも国民すら信じていない与太話の類である。
「その辺りは皇国史にも書かれていますね。事実上の転戦ではあった様ですが」
多種族による連合に経済格差からの遺恨、諸勢力と衝突しながらの逃避行であった事は疑いない。当時の種族がどの様な考えを秘めていたかは不明だが、少なくとも現在の共和国とその以西の国家に人間種以外の種族がまばらである事を踏まえれば、初代天帝の人望は国家を見限っても尚、健在だったのだろう。皇国建国前後に合流した種族も、彼の下に集まったという点に変わりはない。
トウカは紅茶を啜る。
「彼は後年……長征の前に見かねて選挙に立候補。首相になったが、終身独裁官にはならなかった。終身独裁官として権力集中を実現し、共和制を持続可能な体制として道筋を付ける事に成功したならば、稀代の政治家として共和国の歴史書に記されただろうに」
彼の実績と民衆からの人気であれば、終身独裁官への就任は十分に実現可能であった。批判はあれども、混乱収束に導けるならば、彼の名誉も立場も何ら毀損される事はなかったはずである。
寧ろ、社会的、政治的混乱があればこそ、嘗ての英雄には返り咲く余地があり、賞賛の機会は増える。
終身独裁官とは、事実上の独裁者である。後世で独裁の語源になった以上、そうした部分は否定できない。
トウカの良く知る独裁官とは古代羅馬時代に、ガイウス・ユリウス・カエサルが就任した階級である。
羅馬での行政の最上位は、毎年二人が選出される執政官であった。
だが、政治的混乱は勿論、辺境での蛮族侵入や疫病流行などとも、世界史に冠たる古代羅馬とて無縁でいられなかった。逆に領土拡張と比して、そうした場面は増大した。
非常事態発生時に、権力が分散していると問題解決には非効率である。
そうした部分を危険視した羅馬は、そうした場合に一人に絶大な権限を付与して事態を収める制度を構築した。
それが、独裁官誕生の経緯である。
そうした前例を知るトウカからすると、初代天帝が終身独裁官にならなかった理由は理解できなくもない。
古代羅馬の独裁官は、その者が無制限に権力を行使、保持させない様に任期が通常六カ月と決められていた。元老院が非常事態を発令した際、その要請によって執政官が任命される。
公職に就く全ての者への指揮権や、他の重職……護民官ですら覆せない優先権を持ち、|国軍に対する統帥権も有した。その補佐として騎兵長官を任命する権限を持ち、独裁官自身が主力歩兵部隊を指揮し、騎兵長官は騎兵部隊の指揮を以て外敵に当たった。
羅馬は建国以来、領土拡大の為の外征を頻繁に行っており、それは帝政から共和政へと移行して以降も国是として健在であった。有事の指揮統率の一本化の為、独裁官という絶対者を時折、必要とする。
最初は辺境蛮族の脅威に対して独裁官が任命されたが、ポエニ戦争によって地中海の覇権が確立して以降は長らく必要とされる状況が生じなかった。
しかし、支配地域拡大に伴い貧富の差が拡大し、それに対して兄弟の護民官が平民の経済状況改善の為の改革を行おうとするが、元老院の反発によって失敗。両護民官は追い詰められて命を落とす事になる。
それ以来、羅馬では元老院派と民衆派が対立し、共和政は運用上の危機を迎える。
そうした中、紀元前八一年、民衆派を壊滅させ、権力を一手にした元老院派のルキウス・コルネリウス・スッラが無期限の独裁官となる。以前までの期限付きの独裁官とは違う事実上の終身独裁官の前身が歴史上に姿を現した瞬間である。
だが、スッラは様々な方法を使って元老院の権限強化を成すと、早々に辞任する。元老院体制を堅持、君主制の余地を生じさせない事が彼の思惑である。元老院中心の安定の為に独裁者となった以上、目的を達成した彼は独裁官の座を早々に捨てた。
スッラという男は端倪すべからざる政治家であった。
目標達成を実現したからと権力を手放す事ができる者は少ない。
野心や欲望という問題だけではない。
権力の間隙は別の権力で補われねばならない。そうでなくては政治が機能不全を起こす。しかし、そこに……別の権力を当て嵌める為の権力者達による権力闘争の余地がどうしても生じる。権力とは組織運営上、穏便に手放す事もまた難しいのだ。それを成すというのは難事に他ならない。
こうして羅馬は安定を取り戻した。
しかし、前例ができてしまった。
圧倒的権力を無期限で振るったという前例。
そうして、歴史の必然として、その前例に倣う形で正反対の立場にあるガイウス・ユリウス・カエサルは終身独裁官となり、羅馬は帝政転換へと舵を切った。
後にカエサルは暗殺されて内戦となるも、最終的にはカエサルの派閥が勝利し、その派閥の領袖であったアウグストゥトスにより共和制は終焉を迎えた。
カエサルの死後、元老院で廃止の動議が出され、制定されたアントニウス法により独裁官という官職は廃止された。
そして、全権力を掌握したアウグストゥスに対し、元老院からスッラやカエサルと同等の権力を持つ独裁官の地位が与えられんとしたが、アウグストゥスはこれを拒否。独裁官という官職は歴史上のものとなった。
アウグストゥスは独裁官のような官職には就任しなかったが、実際は全権力が集中する立場を堅持し、羅馬の独裁者として治世を開始。後に血統者にその地位を継承。帝政羅馬が歩みを始めた瞬間である。
「危機に於いて独裁的な立場の者を擁立する事を初代天帝は忌避した。己がなる事すらも」
愚かしい事だ、とはトウカも思わない。
前例が凄まじい効果を発揮する事は、トウカも皇州同盟という組織を運営した上で実感していた。前例の有無で理解や承認の速度が明らかに変化する以上、無視し得る要素ではない。
ヒトという存在は前例主義的生物なのだ。
カエサルも自身が独裁的権力を得る過程で、スッラによる前例を大いに利用した事は疑いない。
トウカは、初代天帝を端倪すべからざる政戦の巨人であると、賞賛せざるを得ない。
あの時代の政治家が、そうした政治力学までもを理解している。
奇蹟の連続を成した者であればこそと言える。そして、それは奇蹟や幸運ではなく実力の産物に過ぎなかった。
運が常に貴方の側にあると思い込んではなりません。分別ある人間は、勝利を当てにならないものと看做すだけの慎重さを持ち合わせています。
彼のツキディデスの言葉を引用するならば、初代天帝は実に分別のある人間であった。
民主共和制によって、最小限の政治闘争で試行錯誤を成せると考えていた一点を除いて。
それが致命的だった事を踏まえれば、真に皮肉である。それ以外は完璧だったのだ。
「あの時代の人間の視点ではないな」
「次元漂流者であるとする説も根強いです。成熟した民主共和制国家の者であった可能性もありますね」
それはどうだろうか?と、トウカはクレアの指摘に疑問を呈する。
民主共和制が継続する余地を最大化しようとしたが故に、初代天帝の望んだ民主共和制は崩壊した。その点だけを見れば、彼は民主共和制の信奉者と言える。
しかし、現在の皇国版図への“大遠征”の困難を思えば、民主共和制が鼻白む規模の独裁があった事は間違いなく、皇国建国期に関しても同様である。どちらも酷く指導力を必要とする事業であり、民主共和制の信奉者が容易く成せるものではない。思想的にも技能的にも疎かな分野である独裁と、後に続く専制君主制。
その割に、彼は独裁者として大過なく振る舞い、また独裁制の弱点を知悉していた。
どちらの政体も当事者として長く実体験していたかの様である。
トウカはそうした国家に心当たりがある。
《大日本皇国連邦》
専制君主制と民主共和制の混合物。
法的にも曖昧で、どちらの顔も覗かせる不可思議な国家。
曖昧で明文化されていない権威と、法的に設置された議会制度の同居する国家として、諸外国の者達が怪訝な顔をする政治体制。時折、臣民が望まず、高確率で国家を弱体化する法案が議会に提出されようとした場合、御簾の奥より紡がれる“御言葉”を以て霧散させるという不可思議な政治を行う国家。法的権限の伴わない“御言葉”に政治家も臣民も従うのだ。その議会の権力や法的拘束力を遥かに優越する圧倒的権威のある状態。専制君主制の介在した状態での民主共和制とも、専制君主制の下で赦された民主共和制とも言える。
その政治情勢の形成は、第二次世界大戦戦中と戦後の混乱期を乗り切る上で、議会制度の不備と失態……政治的混乱を御簾の奥より紡がれる“御言葉”が幾度も収拾した実績からに他ならない。
古来よりの権威と、近代での実績が高御座の総攬者に法律を超越した権威を与え続けた。
故にどちらの政体にも、相応の知識と不信感を持つ。
「まぁ、その辺りの推測に意味はないだろう」
――ヨエルの妄言を補強する材料にはなるが……
その人物の過去を推測でしか補えないならば、それは妄想と言う形になる。判断材料がないならば棚上げにするしかない。
「とはいえ、彼が独裁者に上手く転身したことは確かだ」
“大遠征”と建国……皇国首相になり国家元首を兼任し終身独裁官となった。天皇大帝として即位宣言をしたのではなく、彼は議会を成立させ、法的同意の上で即位するという形を取った。民主共和制から専制君主制が生まれたと宣言したのだ。
法的根拠を求めたという事もあるが、同時にそれは民主共和制との決別だった。民主共和制が失敗し、専制君主制の合理性が制度として優越すると天下に確たる形で示したのだ。民主共和制の制度化を推進した男の敗北宣言という意味合いも即位にはある。
最早、戻らぬ、と。
最早、顧みぬ、と。
最早、願わぬ、と。
「そして神聖にして不可侵なる天皇大帝となった」
その辺りにトウカは非常な興味を見い出していた。
「或いは、その時点で終身執政官となれば、民主共和制の再構築は可能だった公算が高い。無論、長命種による議会制を民主共和制と呼称するのであれば、だが」
そうした分岐点があったにも関わらず、彼は民主共和制を廃し、《ヴァリスヘイム皇国》を建国したのか。何故、神聖不可侵なる天皇大帝への途を進んだのか。
クレアは、酷く怯えた表情をしている。
個人の妄想に過ぎないにも関わらず、国家成立の根幹が語られようとしているとでも勘違いしているのか。
「心底と民主共和制……いえ、議会制度に嫌気が差しただけではないでしょうか?」
「成程、有り得る話だ。だが、その場合、皇国議会を維持した事と整合性を取り難い」
議会制度がしばしば不手際を起こすと民衆に示す為の舞台装置を穿った見方をしたとしても、議会制度が一定の権力を持つ事を認めるとは考え難い。
「俺は、そもそも彼に選択肢がなかったのだと思う」
「選択肢、ですか?」
トウカは皇州同盟が軍事的勝利を得れども、政治的に追い詰められた事で新たな視点を得た。
「何故、彼が独裁者に転身したのか? まぁ、それまでの振る舞い上、野心や欲望に依る所ではない事は明白だ」
まさか、“大遠征”という苦行を経て野心や欲望が生まれ出たとは考え難い。もし、そうした感情が生じるならば、民主共和制を立て直すべく首相となった辺りである筈である。絶好の好機であった。機会があるから欲望は鎌首を擡げる。
「彼を天帝に推したのは“大遠征”を乗り越えた者達だった。差別と艱難辛苦を共にした権力者達。そうした者達が望んだのだと俺は思う」
「それはその通りだと思いますが、トウカ君の主張を聞けば、あれ程の民主共和制の信奉者を翻意させるのは簡単な事ではないと思いますが……」
初代天帝が裏切ったのではない。
初代天帝と共に“大遠征”を乗り越えた政治権力者達の民主共和制への忌避感がどうにもならない程になったからこそ、彼は民主共和政を諦めざるを得なかった。
意外と初代天帝は、初代天帝という立場を不本意に感じていたかも知れない。
「当時の政治権力者達が怖れた、或いは憎悪したのは何か? どう考える?」
「……議会の空転、種族差別の再発、でしょうか?」
つまるところは衆愚政治。
若しくは、政治的、軍事的混乱。それは社会不安を招く。社会不安が捌け口を求めて差別を生む事を彼らは実体験として理解していた。
「この世界では初めての試みである民主共和制国家、《ヴェルリンギア第一共和国》は初代天帝という超越性持ち主によって成立し、衆愚政治によって崩壊した」
共に民主共和制という夢を見て……その末に夢見果てた政治権力者達は、民主共和制の理念に背いた首相と国家元首の兼務……終身独裁官の下での政治が諸問題を解決しつつある事実を痛感していた。民主共和制が非常時に脆弱で、優秀な独裁者による指導なくば新たなる国家の建国と維持は叶わないと。
彼らは独裁制已む無しと、或いは脆弱な民主共和制を見限ったのだ。
トウカはそれを非難できない。
民主共和制は権力集中をさせない政治制度に他ならない。民間より選出された権力者達による相互監視による権力集中と暴走を抑止するという点を基本としている。だが、それ故に大規模な政策転換や身を切る改革を採用し難い政治制度でもあった。専制君主での暗愚が権力を握る恐れがある様に、民主共和制は衆愚政治に陥る可能性を持っている。一方の制度が優れているという事はないのだ。時代と技術、教訓により、上手く扱うしかない。
《ヴェルリンギア第一共和国》は、制度上の不備を乗り越えられなかったのだ。
教育制度の不備と、新たな政治思想であった民主共和制に対する無理解が、それに拍車を掛けた。
「そうした困難を乗り越えた皇国建国後の政治権力者達は、将来の混乱を恐れた」
「もう一度、非常時には終身独裁官を……いえ、それは困難ですね」
クレアは政治的命題に唸る。
首相と国家元首の兼務を認める終身独裁官を任命すれば解決できるが、双方を合法化しても、国民や議会がそれを承認するか否か判断できなかった。否、判断をさせる訳には行かないと考えた筈である。何よりも、初代天帝に匹敵する人物が、その危機に際して現れるとは限らない。歴代天帝の推命が神々に委ねられたのは、初代天帝と二代目天帝の邂逅……初代天帝の死の間際である。当時の彼らは初代天帝が寿命を迎えた後の事を懸念していた筈であった。
「彼は独裁者としても優秀に過ぎたのだろうな」
初代天帝が為政者として優秀であればある程に、終身独裁官による統治が優れたものであればある程に、彼らは両者を比較し、民主共和制が、議会が政治的主導権を握る事を懸念した。社会的混乱を収拾できない政治が再来するのではないか、と。
「彼らは将来への恐怖、そして権力集中の有効性から政治体制を維持する事を願った。いや、強く初代天帝に求めたのだろうな」
つまりは《ヴァリスヘイム皇国》成立である。
彼らは《ヴェルリンギア第一共和国》という失敗で、制度に最早選択肢がないと考えたのだ。
「野心も名誉も欲望もない。必要とされる強権を民主共和制では必要時に実現できないと見た、ある種の必要性の産物だったのだろうな。現状の政治体制は」
終身独裁官の常設も有り得ただろうが、それは最早、民主共和制ではなくなる。
そして、社会不安は道徳的腐敗と国民の無知から生まれる。共に間違った決断を助長する存在でもあると、当時の政治指導者達は一度の失敗で痛感していたに違いなかった。そうした社会不安のなか国民と議会が正しい判断ができるのか。彼らは疑問視したのだ。
議会制度……それも短命種主体の議員集団に主導権を握らせてはならない事からも、それは察せる。
「ですが、そうなると議会成立は矛盾しませんか? 場合によっては潜在的脅威ですよ? 即位の正当性を印象付けるとしても、情勢を見て廃止するべきだと思いますが……」
初代天帝の即位宣言と皇国議会成立は同日に成された。
民主共和制の土台、或いは自身の政治権力を脅かすであろう議会を成立させるのは危険性の増加を意味する。
「そうだな。衆愚政治を示す為の舞台装置と見る事も出来るが、当時は短命種である初代天帝の崩御後に円滑な権力継承が可能か危ぶんでいたのだと思う。合議する場……少なくとも国民の代表者が集ってが合議したという印象を形作る為の舞台装置の必要性を見たのだろう」
その後、貴族制度が整備され、高位種や中位種の多くは貴族階級という階級制度で権威の下にある事を意識付けされたが、これは議会成立後……皇紀一〇年辺りからである。反発を受ける懸念、事実として反発を受けながらも貴族制度の整備は強行された。しかし、建国後十年も経過してからの特権階級成立は如何なる意味を持つのか。
無論、初代天帝が皇妃を迎えず、後継者を作らない事を不安視した事もあるが、トウカは貴族制度成立による議会での貴族院の優位性確保が目的であったと見ている。
政治には金が要る。
清廉潔白を吹聴する者達は清貧を旨とするが、客観的に見るならば政治力は資金力と直結している。故に権力者は金銭を求める。金銭は多種多様なチカラを産む。
金銭にヒトは集まり、ヒトが集まれば自身の陣営を盤石なものと成さしめる事ができる。端的事実として、困難を退けるにも、理想や思想を制度化するにも金銭がなければ叶わない。
故にトウカは資金集めに熱心な権力者を否定しない。寧ろ、そこにはある種の誠実さがあるとすら考えていた。集めた資金を以て配下の者達を養うのならば。配下の境遇を思えば、資金集めは権力者の義務であるとすら言える。
「貴族院に属する貴族の資金力での優位性を保持する為だろうな。貴族が属領を持ち、自身が影響力を持つ種族やその系統種族の票を固定化して衆議院の選挙に干渉できる様になる」
貴族として自前の豊富な資金を持ち、平時よりそれを利用した公共工事や福祉事業などを成せば、それだけで民衆は貴族側の恩恵を重視するだろう。結果として、衆議院側は社会的に見て一段低い立場に見られるようになる。
「終身独裁官……いえ、次代の天皇大帝の即位で衆議院が要らぬ半畳を挟まないようにですね」
制度ではなく、資金力に差を付けて優位性があるという印象を軽減する。そして、各種族を効率的に取り纏める為に貴族制度を利用したのだ。各貴族家に集まる形で各種族の派閥がある事からもそれは見て取れる。
「種族間の融和を当代のみで図れないと見たか。間違いではないが……」
当代、或いは数代で天帝自身が全ての種族に絶大な影響力を及ぼす権威の確立は難しく、今に至るまで成功していない事を見れば正しい判断と言える。種族毎の派閥化と、各派閥の長を貴族として統率するだけであれば遥かに難易度が低い。無論、《ヴェルリンギア第一共和国》内で種族間抗争が頻発した事を重く見て、種族間交流を緩やかなものと成さしめる為、問題のある種族の領地を離すという思惑もあったのだろう。各種族の領地化による居住地域固定。
「近代に突入して経済格差が再燃しましたが……」
「それを揉み消そうと起きたのが北部の敵視と、帝国との確執だろうな」
皇国としては双方に対して消極的であったが、それが問題であった。前者は経済問題を放置され、低位種が多い入植地であり、放置は自国民に遺恨を招く。人口の多い他地方の経済格差への対処は時間を要した。その間に北部では貴族の下で独自の対策が取られ、それは独自規格や独自方針、独自教育の始まりとなる。
つまりは独立独歩……地方政府化の始まりである。
他地方に莫大な投資と公共施設整備を終えた頃には、北部は安定の兆しが見え始めていた。
しかし、中央政府はその安定を見て、それまでの税制優遇を解除し、他地方と同率の各種税金を課そうとした。反発は必至だった。北部からすると放置された挙句、自前で持ち直したと思えば、税金を課すのだ。皇国政府や中央に対する反発は想像を絶するものがあった。
北方方面……今の帝国領土での群雄割拠を重く見て、北部地域が全体で軍事分野への投資を怠っていなかった事も、そうした姿勢に拍車を掛けた。
予算に限界がある以上、優先順位としては正しいが、反発の軽減策を講じていなかった点は明らかな失策である。
多くの問題が放置され、根本的問題である種族間の格差は埋没した。
――今の今に至るまで種族間交流が低調である事は予想していなかっただろうな。
初代天帝は時間が諸問題の特効薬であると考えている節がある。
風化と世代交代を踏まえればそうした部分は大いに頷けるが、長命種も居れば種族的特徴による精神性、経済性、外観の差異も大きい。甚だ甘い目論見と言える。
未来が状況を改善した世となると確信するのは、指導者として最大の罪である。
「だからこそ、あの男も、或いはあの男を支えた周囲も、神聖にして不可侵なるなどと嘯いたのだろうな。後継者に錦の御旗を与え……いや、自身を納得させる理由を欲したのかもな。嘗て信奉した民主共和制に背いた事も、専制君主制が優れた政体などと嘯いた事も、あの男と周囲は詭弁だと理解していたのだ。それを自己弁護し、周囲に正しいと宣言する文言がそれだったんだろう」
専制君主制と権威の誇示が限定的であった事から、初代天帝の民主共和制への未練と後悔は感じ取れる。故に後世に後ろ指を指される事を恐れたという可能性はあった。
彼は統治能力を以て示せばよいものを、文言を以て示そうとしたのだ。
或いは、総てを成しておかねば安心できなかったのか。トウカであれば、己の優位性を誇るよりも他国の失敗した民主的統治を非難し、罵倒する方が相対的優位を獲得できると判断しただろう。トウカはヒトが他者を批判する事が好きで堪らない生き物だと良く理解していた。
「それはちょっと捻くれた見方が過ぎる気が……」
「君も初代天帝に幻想を抱く輩か? ……ああ、こういう時、女ならば、あの女と私どちらを信じるの?と叫ぶらしいな」
トウカは肩を竦めて立ち上がる。
酷い物言いをした。
愛の言葉に何かを返す事もなく、彼女の愛を比較しようとしている。
実際、トウカの意見は推測を多分に含んでいるが、今迄の暇で読み明かした書籍の情報を繋ぎ合わせ、ある程度、背景を読み取った相応の真実でもあった。
彼女は、それをどう捉えるのか。
「……私は目にした事もない男よりも貴方を信じます」搾り出された誠意、否、愛情。
愛国心に篤いクレアであれば、言わぬと考えたが、トウカの想像を超えて彼女は献身と狂信を備えていた。
トウカは頭を掻きながらクレアの座席の背後へと回る。
「俺は今、心の在り処を試した悪い男なのだろうな」
俯いたクレアの肩に手を乗せるトウカ。
実際のところ、トウカは彼女を、初代天帝すらも批難している心算はない。
少なくとも四千六百年の歳月の間、天皇大帝を中心とした専制君主制……“皇権神授に依る極めて天帝の権限が強い立憲君主制”は有効だった。
幾多の困難と狂騒はあれど、国家滅亡の危機と呼べるものは僅かで、分裂も滅亡も起きなかった。無数の国内勢力や軍閥が伸長し、時の政権に影響力を行使したが、それは皇権という箱庭の中での出来事に過ぎなかった。天帝の臣下として、天帝の権威を背にして権力を振るったのだ。
トウカの知る限り、有史以来、四千六百年もの時を歴史に刻んだ国家は存在しない。その黎明期から提唱された、神聖にして不可侵なる、という建前は現在に至るまで絶大な能力と実績を有している事を証明し続けている。
軍神が築いた地方軍閥よりも、遥かに能力と実績があったのだ。
「運が常にあなたの側にあると思い込んではなりません。分別ある人間は、勝利をあてにならないものとみなすだけの慎重さを持ち合わせています」
《古代アテナイ》 歴史家 将軍 トゥキディデス




