第二七二話 誰が為の意志
トウカが天を仰ぐ様に、クレアは動じない。
「君は愚かだ。俺に負けない程に」
彼を魅力的だとする者の多くは、その先駆者として、時代の最前列を往く姿勢を称賛するが、当人は全く自己評価をしていない。見据える先が余りにも遠過ぎる上、敵は四方に存在し続けている。
彼は指導者として他に優越する力を持たねばならないという強迫観念と義務感に突き動かされて地上を彷徨う戦神なのだと、クレアは考えていた。その姿を支える道を選択した者達には、彼の姿を捨て置けないと考えた者も少なくない。アルバーエルを始めとした参謀将校などは特にその傾向がある。
トウカは多くを背負うには若過ぎ、純粋に過ぎた。
政戦以外を知らず、私生活にまでその概念を持ち込む破綻者。
しかし、それでも彼を支え、想う者達は其々(それぞれ)の心情を胸に彼の横に立ち、或いは後ろに続かんとした。
多分に軽蔑すべき要素を持つ、魅力的な人物。
酷く矛盾した人物である事は周知の事実であった。
「でも、女の子なら誰だって憧れますよ」
クレアは、苦笑を零す。
漆黒の軍装に身を包んだ軍人が戦車上から敬礼する様に憧れる婦女子は数知れない。軍装というのは憧憬の的であり、そうした立場を求めて士官学校や軍大学を目指す者とて存在する。ザムエルがそう公言して憚らない事は余りにも有名であった。
忽ちに軍司令官へと駆け上り、夷荻を打ち払った救国の英雄。
その一点だけを以てして、他を優越する。否、圧倒する。
「戦争屋にか?」皮肉気にトウカが問う。
「救国の英雄にです」クレアは鷹揚に応じる。
多くの者が認めないが、そうした感性に関しては、自身の其れが極一般的なものであるとクレアは確信していた。憲兵としては知られたくはない事実であり、同僚や戦友には隠しているが、彼女にはそうした部分がある。流行というものにも目敏く、北部の住居には色々な衣装が買い込まれたままに一度も袖を通さないままであった。
クレアは立ち上がると、トウカに背を向ける。
正面からはとてもではないが応じる勇気を持てなかった。
「勇敢な姿に惹かれました。過激な強迫観念を痛ましいとも。それを支える彼女達にも憧れてやまなくなってしまって……特別な理由なんてないんです」
それは、日常風景の延長線上にあるものでしかない。
後付けの理屈は無数とあれど、決定的な理由のあるものではない。
馬鹿な事を口にしているという自覚がクレアにはある。
陳腐な理由である。
一般市井の婦女子と変わらぬ感性の者などトウカは愛さない。
恋は落ちるものであり、不可抗力の産物である。当人も預かり知らぬものが働いて起こる現象でもあった。千差万別のそれは抗いようもなく、理不尽な感情と行動を当人に命じる。
「海軍士官の軍装に憧れる様なものか……」囁く様な言葉。
納得を思わせる声音であるが、クレアは振り向かない。理由への納得と肯定は別である。
トウカは恋というものに関してまで、必然性や蓋然性を狂おしい程に求めている。フェルゼン憲兵隊指揮官であった頃、情報部の分析結果を垣間見たからこそ、クレアは理解できる。
トウカは大きな出来事がなければヒトを愛せない、愛すべきではないと考えている節がある。少なくとも、クレアはそう考えていた。
サクラギ・トウカは複雑である。
特に、前例を踏み倒す事を躊躇しないが、前例を変質的なまでに気に掛けている。
矛盾と思えなくもないが、トウカの歴史を好む気質も前例を気に留めて止まない姿勢に根差すものであるという見解がある。踏み潰す前例を選択していると言えば聞こえは良いが、それはより効果的な演出や敵対的勢力の損失を意図しての選択であった。決して消極的理由からではなく、寧ろ攻撃的姿勢の産物である。
彼は常に遠く、大きなモノに目を向ける。
トウカは、常に大きな出来事……歴史的なもの……潮流というべきものだけを見ている。足元の潺や漣は気にも留めない。
私生活での思考にまで徹底させているそれを、クレアは正確に見抜いていた。
だが、今のトウカは個人に過ぎない。
なればこそ、彼は個人の視点に回帰するべきなのだ。
何ものでもなくなった彼。
大きなモノを見る必要などない。
「私は貴方にどうしようもなく惹かれてしまった」
一世一代の告白である。
だが、返答は求めない。
傷心に付け入るべきではないという事もあるが、新たな関係が今を損なう事を恐れていたのだ。
しかし、トウカは答えてしまうだろうと考えていた。
それは正しい。
「やめてくれ……そういうのはもういい。いいんだ」
「知っています。それでも、私は貴方にこの恋心を知って欲しかった」
今を逃せば、二度と機会が訪れないとの焦燥が彼女を突き動かした。だからこそ、その告白は穴だらけで、上手く全てを乗せられない。
「自分勝手な女です。何も成さずに逃げ回って、恋心を引き摺るより、此処で口にして楽になってしまいたいという想いもあるんです。恋ってこんなに辛いんですね」
涙に滲むで振り返るクレア。
難儀な相手に、斯くも変哲のない恋心を抱いてしまったのかと、クレアは思わずにはいられなかった。クレアにとっては特別な恋心だが、トウカにとっては粗製乱造の恋愛小説の一つ程度の価値しかない。
トウカは、クレアを見据えて吐き捨てる。
「俺の未来も君の恋心も……俺はもう総てに責任を負わない。負いたくもない。俺にそんなものを向けるな」
忌憚なき本心を語る姿は蒼褪めた表情でいて、無秩序な憤怒が滲む。
総てを、己すらも疎ましく思うトウカに、今更クレアの恋心を背負う余地などないのだ。
「総てが面倒だ。己に始末を付けたいとすら思うよ」
それは独白に他ならない。
誰にでもない、何にもない、何れでもない……正真正銘の本心である。
「こんな世界に呼び出されて、訳の分からん国を背負えだと? 救ってやっただけでは飽き足らず、統治まで成せだと? 遥か昔に滅びた封権制度の国家を? 御前達が俺に一体何を齎したというんだ? ただ、女を奪っただけじゃないか,,,,,,」
それはクレアに向けたものではない。
彼女の恋心など、彼には路傍の石程度の価値しかないのだ。
「そんな俺に恋だと? そんな莫迦げた事が……」
クレアへの問いではない。
トウカは己への恋心が未だにある事を拒絶している。
彼にとって、己への恋心はミユキ腕に抱いて去った唯一のものなのかも知れない。
二つ目があるなど想定していなかった。
「今は良いのです。莫迦げた事とされても。でも、知って貰いたかった。何ものにもならないまま、この恋を終わらせたくなかった」
我儘に過ぎないと理解していても止められなかったと、クレアは言い募る。
己の非であると明言せねば、その事実はトウカ自身を傷付ける結果となりかねない。何かを背負う苦痛の原因がトウカ自身にあっては追い詰める事になる。
応接椅子で蹲るトウカ。
クレアは横に腰掛けて、トウカを抱き寄せる。
「今は安らかに在って下さい。混乱させて御免なさい」
トウカの背を撫で、クレアはそう囁いた。
「見た目は変わった大型客船にしか見えねぇな……」
韋駄天の異名を冠する名将は、鈍色の船舶上に在った。
強襲揚陸艦〈ロイテンマルク〉。
〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉の集結が急がれる中、ザムエル自身は〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉を指揮してはいなかったのだ。
誰しもが決戦を重要視しているが、ザムエルの目標はあくまでも余計な事を口走った議員の首であり、決戦そのものではない。重要なのは決戦に於ける勝利ではないのだ。無論、決戦に於いても負ける心算は毛頭ないが。
「唯一、通信塔の大きさが不審に思われる要素ですが……」
副官にして妹のエーリカの言葉に、ザムエルは誰が俺達を咎めんだよ?と鼻で笑う。
海軍は最近の皇州同盟の動向に対して好意的である。
他者の好意を前提とした軍事行動という訳ではないが、航路の安定を担う組織が好意的であるという点は、軍事上の柔軟性を飛躍的に上昇させる。
潮風に吹かれる上甲板で、ザムエルは大海原を睨み付ける。
「彼奴の言葉は何時だって正しいって事か」
海を制するものは自由を得、思いのままに戦争を統制できる。
燻製肉を口にしながら、そう嘯いていた軍神の言葉の意味をザムエルは思い知る。
皇州同盟軍は、トウカの海洋戦略重視の姿勢を堅持し続けている。他勢力や他国への干渉では海路保全が重要になるという判断もあるが、海上からの侵攻を警戒するという部分もあった。神州国に対するトウカの警戒心は有名なもので、彼は「何れ雌雄を決する運命にある」とすら口にしている。
「まぁ、軍事に関わる事だけじゃがな」
背後からの声。
ザムエルは振り向かない。
並び立つ長身の女性。
「何すか? その恰好?」
深紅に染められた第一種軍装を纏うベルセリカに、ザムエルは困惑を隠せない。
彼女は、この一連の出来事に在って公式発言もなく、旗幟を鮮明にすらしていないが、それは擬態である。寧ろ、北部で最も激怒していたのがベルセリカである。周囲に不満を零すという真似はしないが、皇州同盟軍総司令部では彼女の無言の剣幕に司令部要員が怖気ついていた。
「どうせ血塗れになろう。ならば元より紅く在ればよい」
酷く血生臭い意見に、エーリカが眉を顰める。
ザムエルとしては、この歩く精肉機械を皇都に投げ出して済むのであれば万々歳であるとすら考えていた。自身が激怒して総司令部に赴けば、自身以上に怒髪天を衝く有り様のベルセリカに「手緩い!」と叱責と拳を受けるなど想像の埒外である。
挙句に自身の機動戦前提の皇都侵攻に異を唱え、トウカの書き散らかした作戦計画書の一つを持ち出してくる有様である。
「貴女は静観すると思ってたんですがね」
「阿呆ぅ抜かせ。国是を危うくする輩を逃す訳に行くまい」
ベルセリカは政治への干渉に抑制的である事もあるが、皇都での市街戦も已む無しと考える自身には迎合しないと考えていた。手打ちにされる覚悟で赴いたが、ベルセリカは「遅い!」と一喝するのだ。ザムエルとしては、自身が理不尽を振り翳そうとしている事を差し置き、理不尽極まりないと思わずにはいられなかった。
ベルセリカに背負われた斬馬刀と思しきそれからは酷く邪悪な気配すらする。柄に仰々しい護符が張り付けられており、ヒトを斬り過ぎて妖刀の類になったものに違いないとザムエルは溜息を一つ。
多種多様な種族の為、皇国製の船舶は諸外国で建造されたものよりも通路が広く設計されているが、よく艦内で長物を背負って移動できるな、と見当違いの感想を抱く韋駄天。
「しかし、あれの部屋を漁ったってのは本当で?」
「行方不明では御座らんか。手掛かりを探す必要性があろう」
方便としては成り立つ。
戦場とは言え、行方不明である以上、意図的に軍の指揮系統から離脱したという可能性も有り得た。行方不明は一定期間経過すると戦死扱いとなり、その時点で遺品は処理されるが、早々に個人の私室に踏み込むベルセリカの判断速度には敬意を表せざるを得ない。
「遺書はなかったんですかね?」
「ない。個人の動向を示すものも」
代わりに無数の作戦計画書と今後数十年に渡る兵器の発展を示す諸々の書類。そして、世界大戦を危惧し、その世界大戦で第三極として勝者となるべき狂気の計画。
トウカの私室には、皇国の、世界の未来が詰まっていた。
そう語るベルセリカは、そうした資料全てを皇州同盟軍参謀本部で精査させている。
結論としては、参謀達の精神状態を非常に危うくしつつも、大部分が有益であると判断された。
特に将来的に航空兵力として航空機が台頭し、航空騎が排除される運命にあるという点を、噴進式戦闘機の基本性能と構造を具体的に提示したそれに航空参謀であるキルヒシュラーガーなどは卒倒した程である。砲兵参謀のクルツバッハも噴進弾の精密化によって既存砲兵の優位性が酷く低下するという言葉に動揺を隠せないでいた。火力増強の為、野戦砲の大量配備が叫ばれている中での出来事なのだ。
惜しむらくは政治的な方向性が軽く記されるに留められている事である。
それでも、航空兵力の転換で、龍系種族の地位の相対的低下で現状の権勢は続かないとの見通し“程度”は記されており、参謀本部内に大きな波紋を投げ掛けた。
「家探しの結果、我が国は進むべき未来を知ったって訳か」
世界一費用対効果のある家探しを、ザムエルは、両手を挙げて賞賛して見せる。皮肉であった。
「航空機の発展を示すだけで、国内政治に致命傷を負わせ得るとは愉快では御座らぬか」
ベルセルカは快活な笑みで、ザムエルの皮肉を受け入れた。
軍事力以外で脅し付ける事をベルセリカは躊躇わない。彼女にとって民衆への被害を最低限にできるのであれば、政治闘争は十分に許容し得るものに過ぎないのだ。
「七武五公も存外役に立たぬ。今となっては某が立つしか御座らぬよ」
それすらも見越した皇都侵攻である。
意表を突く奇襲で終わらせる事で民衆の被害を最低限にしようとしている事はザムエルにも察せたが、ベルセリカ自身が皇国諸勢力を束ねると言わんばかりの発言をすると考えもしなかった。
「貴女は北部の英雄であって、皇国の英雄じゃない。他地方じゃ認めないぜ? その理屈」
「で、御座ろうな。じゃから、経済の不均衡と北部の発展……北部の公国化を求める心算なのじゃが」どう思う、とベルセリカが問い掛ける。
ザムエルは内戦中、北部独立に言及したトウカのそれを思い出す。
端的に言えば、中身のない妄言に過ぎなかった。
独立への言及は、他勢力に屈しはしないという発言の形の一つに過ぎず、実際に独立を指向した発言とは言い難い。何より、現状でも、戦災復興の名目で税金は殆ど免除されている。独立を持ち出すならば、税金免除の期限が迫ってからでよい。支払いを踏み倒すならば、期限直前にするべきである。態々、事前に騒いで複雑化させる必要はなかった。
「税制を完全に別物にすると? まぁ、良い事の様に聞こえるが……」
将来的に見れば、魅力的な案件ではある。
国家予算と領地運営に分かれた税金制度は不満も多い。為政者側の二重取りにしか見えない。無論、合計したとしても他国の一般的な税金の額とそう変わらないが、民衆とは常に現状に満足しない生き物である。
「皇国陸海軍の軍事力を当てにせざるを得ない我々には得策とは思えません」
今まで沈黙していたエーリカの指摘は正しい。
皇国と連邦制に近い別国家となるならば、以前までは皇国が行っていた事などを公国内の予算と人員で行わねばならない。公共施設整備や外交分野……関係構築や人員育成などは莫大な予算を必要とする。
尤も、それらは以前より自前でしているに等しい状況である。
だが、最大の問題はエーリカが口にしたように軍事力である。
「北部単独で帝国や共和国、神州国に抗する軍事力を整備する? 不可能です。航空兵力の大部分とてクルワッハ公の紐付きですよ。水上部隊は無理して巡洋戦艦と航空母艦を起工したばかり。復興を考えれば二〇年は皇国という国家の看板は必要です」
「軍事以外、内戦以前の政府が北部に何を齎した? 軍事力の不足さえ解決すればいいのじゃ」
諸外国を抑止するだけの軍事力を北部地域だけで担保する。
控え目に見ても無理難題である。
「戦略爆撃騎部隊は、北部出身者で固めておるし、抑止力を期待できよう。神州国は捨て置け」
「何を莫迦な、あの国の艦隊は」
世界最強である。
しかし、ベルセリカには打算があった。
「木造建築物が殆どの国じゃ。よう燃えるでは御座らんか。そろそろ、焼夷弾も生産工程に乗ろう。艦隊など飛び越えて根拠地を燃やせばよい」
手始めに、内戦前に占領された島嶼に造成されつつある海軍基地を高高度爆撃で排除するべきであると嘯くベルセリカ。
確かに渡洋爆撃の訓練は既に陸海軍航空隊と協同で開始しており、成果が出始めている。航続距離も対帝国戦役時の都市爆撃である程度は諸外国に知られており、神州国本土とて安全地帯ではないという事を突き付ければ、十分な抑止力と成り得る。
――しかし、剣聖が都市爆撃を容認するとは。
ザムエルとエーリカは顔を見合わせる。
諸勢力からは皇州同盟軍の(比較的に)良心であるとすら言われるベルセリカの言葉は、皇州同盟の基本戦略の転換を意味する。大事で有った。航空参謀のキルヒシュラーガーなどの反応も気に留める必要があった。
ベルセリカは、二人の視線に顔を顰める。
「御主ら、某が古の騎士の道理を政戦に持ち込んでおると思っておるまいな?」
「いやいや、ばっちり漏れなく持ち込んでるでしょ。その斬馬刀と言い、その軍装と言い」
ザムエルの反論に、エーリカも何度も頷く。
「ええい、五月蠅いわ。これは美学じゃ! 政戦に感情論は持ち込まんと言っておるだけじゃ!」
ええぇ、ほんとぅ、と言わんばかりにエーリカの視線が胡散臭いものを見るかの様なものに転じるが、ザムエルとしては過去の発言との明確な矛盾を無視できなかった。
「帝国への戦略爆撃は否定的だったじゃないですか」
〈南部鎮定軍〉壊滅後のエレンツィア空襲ですら難色を示した。リシアとキルヒシュラーガーの猫試合に発展したそれは、軍の統制上の問題に等しい。ザムエルが路上で全裸となって女性記者に迫る事とは訳が違う。
「あれは当たり前じゃ。御主らは故郷を焼かれて死兵となった輩共の抵抗を知らんからそう言えるので御座ろう」
彼女の戦略爆撃に対する否定的な言動は、決して感情だけに依るものではない。寧ろ、経験と過去に依るものですらある。
「帰るべき寄る辺を失った兵は強い。此度は航空攻撃と砲兵火力が上回ったやも知れぬ。しかし、塹壕戦での死傷者は無視し得ぬ程に出ておる。あれは、その辺りが原因であろう」
〈南部鎮定軍〉内でも帝都空襲や諸都市爆撃を隠蔽しようとしたが、大軍内での噂話を易々と封殺できる筈もない。挙句に皇国側が積極的に戦果を喧伝し、将校の動揺がそれを補完した。
そうした場合、二手に分かれる。
帝国への帰還を望む者と、報復を叫ぶ者である。
何も前者ばかりではないのだ。己の命以外を失ったと考える者は酷く攻撃性を増す場合がある。只では死なぬ。貴様も道連れだと叫ぶそれをベルセリカは恐れた。
焼けた故郷を背にして全滅するまで抵抗した民兵の恐ろしさを彼女は経験している。
それ故に戦略爆撃に抵抗を示したのだ。
「なれど、今となっては是非もなし。神州国が島国である事も良い」
実際に都市攻撃を行うかは神州国の出方次第であるが、神州国の地政学な部分もベルセリカはよく見ていた。
「海軍艦艇の乗員は専門職じゃ。そこらの速成訓練をしただけで乗せても性能を満足に発揮できん。復讐に燃える輩共との陸戦は少なかろうし、航空哨戒を避けての大規模な揚陸は難しかろう。補給も続くまい」
雲霞の如く攻め寄せる復讐者をベルセリカは恐れているのだ。
ヒトは誰しもが海上を歩ける訳ではない。
大星洋という自然の要害が、有象無象の進出を困難とさせる。
「まぁ、確かに航空艦隊で戦艦を容易に沈め得るって彼奴は断言してたが……いや、皇国海岸線の大部分は東部地域か。皇州同盟軍の防衛範囲は限定的だな」
ザムエルはよく考えられていると感心する。
大部分は海軍が防衛すべきとなり、皇州同盟軍はベルネット海峡やシュットガルト運河の防衛さえ叶えばよい。
そもそも、神州国艦隊が近海に現れたならば、海軍航空隊と皇州同盟軍航空隊で要撃すればいいのだ。トウカが雷撃で戦艦を撃沈し得ると断言していた事もあるが、戦車に航空爆弾を命中させる訓練を受けている面々が小型の駆逐艦でも全長一〇〇Mを超えるそれに命中させられない筈もないという皮算用もあった。
数千騎による波状攻撃で神州国艦隊を漁礁に変えてしまえばいいのだ。
無理でも撤退や講和を考えざるを得なく成る程度には、被害を与えられるだろうとザムエルは見ていた。無理でも航空攻撃が戦闘航海中の艦隊に有効かという確認になる。今後の艦隊整備計画にも繋がる話であった。
「彼奴が海上戦力増強を重視していた意味が嫌でも分かるぜ」
海上戦力は矛である。
陸戦以上に攻撃側に主導権があると、ザムエルは感じた。攻撃側が攻撃地点を陸戦以上に選択する事が可能で、陸戦よりも敵の行動に制限を加える術が少ない。
挙句に陸戦よりも展開で制限を受け難く、広い海洋では遭遇戦に近い刹那的とすら言える戦闘が展開される。より投機的で攻撃的な戦闘となるのだ。防御ではなく、攻撃的な意思同士の衝突に近い。
瞬間的な火力投射の応酬である。
射程と威力から航空攻撃が優位性を持つのは当然の帰結かも知れない。
「それもトウカの部屋で見つけた計画書からで?」
「うむ、一番犠牲者が少ない、北部の利益を最大化する方法で御座ろうな」
最悪、神州国の諸都市を戦略爆撃で灰燼に帰する可能性がある計画でも犠牲者が最小単位であるとするそれに、ザムエルは目が眩む思いだった。被害が最大化する計画が気になるところである。
「まぁ、概要は分かりました。別に独立は今回でなくともいいでしょうよ。神州国の造成している海軍基地を航空攻撃で破砕して出方を窺うというのは賛成ですが」
「最強の艦隊を誘い込むのですか?」
エーリカの不安も当然である。神州国とは海を総べる国家の称号とも言われる。主要国の艦隊が集結しても勝利を得る事は難しいとされる海軍を有し、商用航路の守護者にして支配者として君臨していた。それは詰まる所、経済の動脈を掌中に収めているに等しい。
航路が閉塞されれば、勝利できたとしても容易に勝者の居ない戦いになる。
それでも占領された島嶼だけは取り返す意思を見せておく必要がある。既成事実化を許す真似は、他国の侵略行為の助長を招く。神州国艦隊が既存の政治姿勢を踏襲して近海で砲艦外交を行うなら、寧ろ絶好の攻撃の機会となる。
神州国海軍は強大だが、海軍という矛を一つしか持ち得ない部分もある。
圧し折れば、選択肢は極めて限られる。
「もしかして、宣戦布告を皇国にさせる事が難しいから独立させたいと考えたりしてませんか?」
大艦隊で領海侵犯したならば、宣戦布告なしで攻撃する名分とならぬ事もないが、砲艦外交で神州国海軍が領海にまで踏み込んだ実績はない。
攻撃を正当化させるには、宣戦布告が必要なのだ。
双方の利害衝突は大規模な戦争をする程ではなく、だからこそ神州国海軍も決戦は想定していないだろう。無論、当初の領有権を巡っての宣戦布告は国際的に見ても非常識なものではないが、公海上を航行の艦隊に宣戦布告を行わずに攻撃を行えば、国際的信用を失う。
だからこそ分離独立した皇国北部を攻撃する方向に持ち込む。勢力として小さくなり攻撃目標としては容易になる。
「ほぅ、分かるか?」ベルセリカは口角を吊り上げる。
それはトウカの笑みと酷く似ていた。
攻撃的姿勢の組織を引き継いだが故に前職の思惑を踏襲したのか、ベルセリカの本来の野心と愛国心が彼女に苛烈な決断を迫ったのか、ザムエルには分からない。
しかし、参謀本部では相応の議論が成されたであろう事は分かる。
「貴女は変わった」
「権力を持つという自覚と覚悟ができた。あれは常にこうした重圧を受けて負ったので御座ろうな」
蒼褪めた貌が直面した現実を吐き捨てる。
ベルセリカにとって皇国の存続は最優先事項であるが、全てを損なうのならば分割も已む無しと覚悟させる程度には現実は厳しい。
だが、神州国海軍に致命傷を負わせれば、帝国は既に外征戦力を多く失い、共和国は他国との戦争に忙殺されている。南の部族連邦は他種族の坩堝で好戦性に乏しい点を鑑みれば、最後の脅威は神州国のみとなる。
その打倒に重きを置くのは軍人として至って自然な流れである。
国土を蹂躙されるなら、国家を分割してでも強引に戦争の主導権を握り始末を付けるというそれは、今までのベルセリカならば有り得ぬものであった。彼女は皇国を愛しているとザムエルは確信している。それが今になって姿勢を変えた事には相応の理由があるはずであった。
「今更ながらに分かる。サクラギ・トウカは真の軍神であった」
トウカ当人が微妙な表情をする軍神という異名。それを口にしたベルセリカ。
それは称賛と畏怖と憎悪が入り混じり潮風を汚した。
「彼奴め、天使と龍を天秤に掛けた上で政戦をしておった。軍事戦略上で龍種を消耗させ、天使に航空機を与えようと目論んでおるなど想像もしておらなんだ。某には叶わぬ真似であるな」
天使系種族は対地攻撃に特化した運用となる航空歩兵であり、龍系種族は航空分野全般を範囲とする広域な運用がなされる。分野も被っているようでいて実際は違う。
「戦争で龍種を使い潰したかったって事かよ。やるなぁ、軍神様も」
「しかし、航空行政全般を牛耳る構えを見せている龍系種族は脅威かと。母数を漸減するのは政治的に有益です」
ザムエルはトウカの腹黒さに呆れる思いだが、エーリカは政治的観点から妥当性を指摘する。
龍種も消耗を気にするであろうが、攻撃的な運用が齎す戦果に目が眩み、深みに嵌る事は目に見えていた。今まで虎系種族や狼系種族の後塵を拝する状況が続いていた中での好機なのだ。少々の無理は、と考えるのは容易に察せる。
戦果が立場を強化する。
代償は龍種の生命。
現在の撃墜対被撃墜比率ならば長期的に見ても問題とはならない。それ程に一方的な航空戦を展開している。
しかし、五年後、十年後、航空攻撃への対策を諸外国がしていない筈もない。戦場で得た余りにも高価な教訓を糧に、それ相応の対策を講じてくるのは確定している。
数十年の期間を前提としたトウカの長期戦略だったのだろう。
「あれの如く外敵を打ち払える者など最早、居らぬ。なれば先手を打つしか御座らん。御主らも手伝うがよい」
勝率を求め、劣勢でも主導権を握るべく能動的である事は、歴史的に見ても珍しい事ではない。成功するか否かは諸々の要素の依る所であるが、勝算なき守勢を続けるよりかは建設的である。
「戦後に海軍が残っていればいいですがね……」
「必要性は認識されよう」
「商用航路の脅威が無くなれば、経済も上向くかと」
三者三様の意見であるが、考えれば考える程に上手く行く気がしてくる事に、ザムエルは軍帽の上から頭を掻く。気が付けば己の憤怒は、国家の興廃に圧し潰されていた。個人の感情など取るに足らないとは正にこの事。個人の感情を政戦に押し込んで見せたトウカの狂気とでもいうべき実力を痛感せざるを得ない。
失われて初めて分かる。
軍神の計略が、北部に限界を超えた活躍を求めていた。
その是非を示すのは、後任のベルセリカである。
トウカとミユキを失った剣聖はそれを痛感しているのだ。
だからこそ、状況を打開する事に積極的である。
「その辺りを上手く利用して議会を納得させると?」
情報漏洩を踏まえれば、対神州国への攻勢は提示できないが、財政立て直しを根拠とした一時的な公国化は可能性がない訳ではない。右派政権としては、剣聖の提案を拒めないだろう。ベルセリカはトウカの盟友と見られている。否、一部には過去の定かならぬトウカを、剣聖こそが軍神を見出したと吹聴する者とて存在した。
「天帝不在の中で、国内に致命的な溝のある勢力を併存させる危険性を説くという方策も御座ろうがな」
北部での公国成立は連邦国家の枠組みの範疇に過ぎない。完全な別国家となる訳ではなく、税制や行政を分割したいという意向からである。天帝を上位に置く点は変わらない。
「まぁ、今更ですが……」
「現状、曖昧な状態で税制は分離したままです。勿論、軍備も」
実情は既に分離しているとエーリカは指摘する。元より分断があった為、行政の混乱は少なく、軍事は陸海軍との協力を継続するだけで良い。
無論、国家分割があったとしても、復興費用は可能な限り拠出させるという方針は変わらない。都合が良すぎるものの、軍事力を背景に押し通すしかなかった。
「国名が居る。我が軍が神州国を殴り付ける為の国名が」
ベルセリカは腹を括っていた。
指導者という立場になって見渡せる光景があるのだ。そして、それは決して明るいものではなかった。ザムエルも、是非に及ばず、と腹を括る。
他国の承認無き国家の宣戦布告に意味があるか否かという点は重要ではない。艦隊を砲艦外交宜しく沿岸に進出させる連中を殴りつける国内向けの方便があれば良いのだ。事を成せば、後は航空戦力が周辺諸国への無言の圧力となる。龍種の今暫くの増長を助長させるにも、更なる戦果は望ましい。
しかし、ベルセリカは大前提を忘却している。
「国家分割を右派政権が認めると?」
馬鹿な暴露をした左派の一部を物理的に切除するのは致し方ないが、国家分割には右派政権も容易に頷くと思えない。国体護持と国家保全に重きを置く大前提あっての右派である。
「反対した奴は、その場で頸を刎ねる。議会制度に殉じるが良かろう」
議会制度が機能していた場合、内戦勃発はなかった公算が高い。
ベルセリカは義務を果たさない権力者に容赦しない。七武五公への擁護や連携が消極的である事からもそれは窺えた。
「行き当たりばったりだなぁ」
ザムエルの忌憚なき意見に、ベルセリカは鷹揚に頷く。
当人すらもそう考えるそれを実現せねばならない立場に追いやられつつあるザムエルは軍帽を脱いで頭を掻く。
「少なくとも皇都……国会は制圧可能で御座ろう?」
強襲揚陸艦〈ロイテンマルク〉は現在、独航艦として皇都を目指し、大星洋上にある。
護衛艦もなく単独航海なのは発見されぬ為、そして発見されても騒ぎ立てられぬ様にする為である。領海上で皇国国旗を掲げて航行しているものの、それ故に発見時に皇国海軍からの臨検要請があれば避け得ない。遭遇した相手が駆逐艦や軽巡洋艦であれば、速力差から振り切る事もできない。
何より、哨戒騎による積極的な海上哨戒が海軍によって開始されている。
航空騎による哨戒網を誤魔化す事はできない。皇国海軍は渡洋飛行訓練を兼ねて過密な哨戒網を形成していた。
商用航路で商船に紛れる形で皇都に迫るしかなかった。
少なくとも、今作戦に於ける強襲揚陸艦一隻と揚陸艦八隻は商船構造で外観も、商船に近いものがある。かなりの接近がなければ気付かれる事はない。
無論、〈ロイテンマルク〉に関しては、艦尾に船渠式格納庫を備えている為、些か外観構造が違うものの、それとて大きなものではない。
「皇国海軍は見逃してくれるでしょうか?」
エーリカの問いかけに、ザムエルは答えない。
相手次第である。
商船で誤魔化せなくなれば、皇州同盟軍による訓練航海と表明すればいいが、その場合、最初に商船として振舞っていた点を不審に思われる。
接触時は思案のしどころである。
一隻や二隻が把握されるのであれば、練習航海という名目も納得されるが、それ以上の数であれば偶然ではないと判断される公算が高い。
当然、比較的友好関係と言える皇国海軍であれば、権利はあれども関係を損ないかねない臨検は避けるのではないかという打算もある。政府への予算枠に対する口添えもあるが、皇州同盟軍で不要とされた艦艇の引き渡しは未だ続いており、大星洋海戦に於ける消耗著しい皇国海軍が関係悪化を招く動きを見せるとは考え難い。
しかし、臨検とは現場指揮官の判断に委ねられる場合が多い。
政治的機微を察せる現場指揮官である事を祈るばかりである。
もし、臨検ともなれば、直前に魔導砲撃で海軍艦艇の通信塔を圧し折り、移乗戦闘宜しく飛び移ったベルセリカによる“説得”を行うという危険性の高い対処とて考慮せねばならない。
「あの日あの時あの瞬間、成功したんだぜ? 二度目ができない訳がねぇよ」
内戦中、意表を突く為、一度、シュットガルト湖畔で行われ、最近、マリアベルが主導していた強襲揚陸艦も完成した。
ザムエルにとり、今作戦でトウカの戦術を踏襲する事は義務であった。
軍神の意志を忘却しないと示す為にも。
消え失せて尚、軍神の権威は健在である。
「海を制するものは自由を得、思いのままに戦争を統制できる」
〈大英帝国〉 哲学者 初代セント・オールバンズ子爵フランシス・ベーコン
ポイントをもらえたので頑張りました。お盆はどうだろう。意欲次第かな?




