第二七〇話 渦巻く暴力
「結局、分からず仕舞いか……」
世界間移動はベルゲンの図書館で調べた際に現実的ではない事が判明していたが、この世界への漂着が相応の頻度で行われている点にトウカは目を付けた。その人物の齎した技術や思想の発信地点を一覧表にして規則性を辿れるのではないかという目論見である。経路が開き、漂着する以上、その場に在れば逆の行為が可能であるともトウカは考えた。
――その場に居合わせて飛び込めばいい……言うは易しだな。
経路として確立しているならば、逆に辿ればいい。或いは、経路に次回に繋げるべく、空間位置座標を発信する魔導術式を打ち込むという手もある。無論、世界の壁……時空間を隔てたそれを跳躍する術式の内容を把握し、それを実施可能な魔導士を用意する必要があった。
――情勢も混乱している様だが……
配られていた号外を手にトウカは、溜息を一つ。
『ヴァレンシュタイン大将、挙兵!』
そうした題名が三面記事に大きく記されている。周囲には同様の号外を握り締めた者が多数おり、口々に不安や困惑を零している。内戦と対帝国戦役が終結したにも関わらず、未だ争い足りぬと考えているのだろう。北部臣民からすれば、内戦は帝国に対抗する為の一時的な手打ちでしかないが、他地方からすれば終結したそれを蒸し返す動きとしか見えない。
復興予算を出し、物資流通の制限も解除する。それ以上、何を望むというのか。
そうした他地方の感情を押し退け、ザムエルは再び隷下の〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉を集結させている。少なくない数の部隊が賛同し、物資集積と戦時編制を維持し続けていた。
こうした記事が出ても尚、対応を講じていないという事は、ベルセリカも黙認しているとみて間違いない。或いは、不満解消や中央への復興予算増額を意図した恫喝という自作自演という可能性もある。
――いや、恫喝ならラムケ大佐が出て来るか……
偉丈夫にして大音声、無精髭と堀の深い顔立ちは、見る者が臆するだけの威風と威勢がある。ラムケは対外的な主張をする場面で多用されていた。孤児院院長にしてヴェルテンべルク領黎明期にマリアベルを諫め得る数少ない人物という肩書を持つラムケは、各方面から重視されている。年若い装甲部隊指揮官でしかないザムエルよりも適任であると言えた。
ザムエルが兵力を集結しているなら、それは十分に軍事行動に繋がる。
彼は方面軍指揮官となり得る階級を有し、増強の続く〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉を見れば将来的には外征戦力の枢機を担う立場を期待されている事は明白である。同時に対帝国戦役の戦闘詳報を見れば、彼が未だに能動的な野戦将校の遣り様で戦略規模の戦力単位を運用している節があるとも読み取れた。
彼は軍人であり、武力による問題解決しか見ていない。
ラムケの如く武断的である事を駆け引きには使わない。強いて言うなれば、相手を打擲して殺害した後、遺体から金品を収奪する行為のみしか見ていなかった。徹底的に軍事的解決のみに意識を裂いている。典型的な職業軍人の発想と言えた。
――何かあったのか? まぁ、セリカとリシアが上手く処理するだろう。
陸軍では〈北方方面軍〉が中立を宣言し、海軍は軍拡が認められぬのであれば国防に責任が持てないと旗幟を鮮明にしていない。
皇都は無防備であった。
中央貴族有志の連合軍という話が出ているが、所詮は連携を意図してすらいなかった領邦軍の連携に過ぎない。各貴族の思惑に影響を受け、指揮系統の一本化すらされていなかった。数は多くとも実戦経験に乏しく、航空部隊も装甲部隊もなかった。近接航空支援と戦術爆撃、装甲部隊の迂回攻撃に追随できるものではない。
七武五公がどの様な動きを見せるかという点に焦点が絞られるが、迎撃を明言しているのはレオンハルトのみで、それ以外の七武五公は静観の立場を取っていた。アーダルベルトやフェンリスなどは、天帝なき皇都は只の器に過ぎないという発言をしている。
トウカは号外を握り潰し、街路樹横の屑籠へと号外を投げ捨てる。
厳重な護岸工事の成された川沿いをトウカは進む。
軍用長外套を捨てる事となったが、その判断は麗かな気候を見ても正しいものであった。
人々の表情は、不吉な号外があっても尚、明るいものがある。
思想の面で相容れない帝国が甚大な被害を受け、北部地域は遥か遠くであるという意識が、彼らの危機感を遠ざけた。
対する科学技術の進展によって鉄道網と航空戦力が急速に整備されつつある北部にとって、最早皇都は以前よりも近しい場所であった。魔導車輌の民間利用が進めば、そうした動きは更に加速する。挙句に戦略爆撃部隊が存在し、中距離弾道弾開発も継続していた。
散々に煽動したトウカだが、戦後が始まってしまった以上、敵意は帝国に向け続けながら経済力拡大を推し進めるしかないとも見ていた。耕作面積拡大と工業製品輸出拡大を成し、食糧自給率と収入増加を実現するしかない。人口と所得を増加させ、軍備拡充に繋げるのだ。
無論、それらは計画として皇州同盟軍参謀本部や総司令部、皇州同盟の主要後援者に計画書として配布されている。内紛がなければ十分な成功を見込めるだけの余地は未だ存在した。
トウカの政戦は終わったのだ。
未だ政戦を考える脳裏に自嘲するトウカは、五日間の調査記録を纏めた軍人手帳を懐から取り出す。
全ての記録を記録として頭に押し込むトウカは、今回の調査以前までは軍人手帳に何一つ記さなかったが、今となっては猥雑なまでに多種多様な情報が書き込まれている。
軍服を見知らぬ兵士の者へと変えても尚、軍人手帳を持ち続けたのは、逃避行の際に火を熾す際に使用できるのではないかという現実的な理由からであったが、幸いな事に途中で遭遇した軍人達の好意によって軍人手帳は煙に転じなかった。代わりに蓮台野で軍用長外套が血塗れとなって廃棄処分となった為、等価交換の原則を意識せざるを得ないものがある。
川へと軍人手帳を投げ捨てるトウカ。
歩きながらであり、トウカは青空の下で放物線を描く軍人手帳から視線を外す。
今晩の宿はどうしたものかと考える事に意識を割く。憲兵中将の下に転がり込んでは、潜伏が露呈しかねない。
先程から幾つもの百貨店や商店や裏路地を経由し、長椅子に置かれていた何某かの帽子を無造作に被り、そして投げ捨てたりして身形を変えながらの移動を心掛けていた。もし相手が居るのであれば追跡の練達者である。寂れた公園の噴水で水浴びしたとはいえ、嗅覚に優れた種族であるならば返り血の臭いを辿る可能性もあった。それ故に雑踏に紛れている。
今後の行動へと思いを巡らせるが、何かを計画的に成そうという気が、トウカにはどうしても起きなかった。何もかもが無駄になってしまったのだ。そして、帰還は不可能であり続けた。
嘆息するトウカ。
そこに衝撃。
頭部へのそれ。
襲撃かと頭の痛みへ本能的に手を差し向けようとする動きを制し、トウカは懐の自動拳銃へと手を伸ばすと、安全装置を外し、撃鉄を起こす。無論、天下の往来で早々に自動拳銃を抜き出す真似はしない。
川側からの衝撃に、足元を見てみれば投げ捨てた筈の軍人手帳が転がっている。
「ちょっとぉ! 塵は屑籠に捨てなさいよぉ!」川からの舌足らずな怒声。
川の水面から上半身を乗り出した女性。
皇都警務隊所属を示す服装に制帽。警務府所属の水上保安隊という河川や運河、湖湾を警備する組織があった事をトウカは思い起こし、面倒な、と近づいてくる警務官に、自動拳銃の銃把から右手を離す。
いそいそと近づいてくる女性警務官。
上半身が揺れる事もなく水面にある姿で近付く姿に、トウカは川底が浅いのかと覗き込むがそうは見えない。相応の流量もある。
そして、岸へと腰掛けた女性警務官も下半身にトウカは目を瞠る。
――人魚か……初めて見るな。
下半身が魚の様な構造をしている人魚系種族は、寒冷気候の皇国北部が生息に適さない為、トウカとしては初見であった。皇都擾乱の最中にも河川を利用した偵察行動などで活躍したという報告は受けていたが、海洋での活動には限界がある種族ばかりという部分もあってトウカは重要視していない。最も行動範囲と安全潜航深度に優れた龍族系水龍種であっても、第二次世界大戦後期の〈海大Ⅹ〉型潜水艦には劣った。魔力と水の相性という欠点が彼らの欠点ともなり、魔術の行使が水面下では限定的な事もある。
対照的に、彼らに対する攻撃手段は少なく、沿岸部での隠密上陸作戦や沿岸偵察に有益でもあった。
拳銃弾などの低初速の銃弾ならば変形せずに数mほど水中を進むが、小銃弾などの高初速の銃弾の場合、着水の衝撃で銃弾は破砕される。それは対戦車小銃や重機関銃などの大口径銃弾であっても結果は変わらない。特注の水中銃なども開発されているが、それは水中戦闘に特化したもので、陸上戦では極めて限定的な性能となる。代わりに皇国製の手榴弾は、炸裂時間を選択できる。膂力に優れた種族の投擲距離に対応するというだけではなく、爆雷の如く運用して水面下を制圧するという目的がそこには含まれていた。
民間人……傷痍軍人への暴行容疑の女性警務官をトウカは見やる。
岸壁に腰掛けた人魚。
近代国家の従僕である事を示す制服は、幻想浪漫を打ち砕くに値する光景であった。
無論、トウカにとり人魚と言えば、故郷の繖山にある観音正寺の人魚伝説である。
約一四〇〇年前、聖徳太子によって繖山に開創された観音正寺。推古天皇の御代に在って、|近江国(現在の滋賀県)を遍歴していた聖徳太子が、湖に現れた人魚と邂逅する。
その人魚は「前世は漁師だったが、殺生を生業としていた事で、人魚の姿になりました。繖山に寺を建立し、私を成仏させて欲しい」と願った。聖徳太子はその願いを快諾し、自らの手で千手観音像を彫刻して堂塔を建立したとされ、人魚伝説が残る寺院となった。
正直、トウカとしては「遭遇した滋賀ではなく、何故京都の山に寺を建立するのか、胡散臭い」と寺側が繁盛の為に話を作っているのだろうと見ていた。言ってしまえば滋賀の人魚伝説を利用しようと目論んだようにしか見えない。
筒衣から伸びる魚類の尾部の様な部位が忽ちに身体へと転じる。部分的な転化と見るべきか、魔術的な変化と見るべきか判断に悩むが、人魚種というならば人間に近い姿になるのは不自然なものではない。完全な転化で魚類になるのでは人魚とは言えない。魚種という名称となる。
「公務員が暴力とは感心しないな」
巷では軍神と言われているが、所詮は人間種である。手帳を投げ付けられて痛みもないなどという頑健さは装備していない。
これがザムエルであれば、銃口を突き付けて「7.7㎜の銃弾が御前を強姦するぞ」くらいは言いそうなものであるが、トウカは文明人なので「中々の制球だ、転職を考えてはどうか?」と、人魚警務官に手を差し出す。
警務官は躊躇もなく差し出されたトウカの手を掴み、引き上げられるに任せる。
「川へのぽい捨ては禁止ですよ」
ぷんぷんという擬音が聞こえてきそうな窘め様に、トウカは眉尻を下げる。どこか仔狐を思わせる仕草は懐古の念を抱かせた。
「失礼した官憲殿、しかし投げ返すのはいかんね。これが怖い右派の小父様方なら路地裏で“話し合い”だぞ」
「それなら公務執行妨害での検挙件数が増えて、私の臨時収入が増えますよ」
検挙件数に応じて給金に加算される制度を採用した皇国警務隊は、極めて検挙に熱心であった。無論、誤認逮捕などで問題も起きているが、治安悪化に伴い、そうした姿勢は市井に評価されている。国政に興味を示さぬ者でも、自身に危害が及ぶ犯罪には大きな反応を示すのは世の常であった。
立ち上がる人魚種の女性刑務官。
「もしかして怖い小父さんの御友人だったりします?」
「そちらに転向した戦友も居るな。愛国にも其々の形があるという事だ」
先程、蓮台野で古式ゆかしい斬り合いを演じたと白状する程、トウカも聖人君子や上人ではない。無論、信仰心の篤い聖人君子の四肢を捥いで浄土に投げ込む行為が評価されるのであれば、上人と呼ばれる事も吝かではなかったが。
ふわりと放熱する衣服と身体が忽ちに乾燥する光景を尻目に、トウカは面倒な事になったと頭を掻く。
周囲を見回しても、二人の様子を注視している者はいない。珍しい光景ではないとも取れるが、今朝より警務官の巡回が頻繁である程度はトウカも察していた。
――まぁ、内戦再開で浮足立つ組織への権勢だろうな……
主義主張や思想を別にしても、暴力沙汰が大規模になれば暴動や略奪に繋がりかねない。事前に抑止するという方策は真っ当なものであった。皇都に大規模な暴動や略奪に掣肘を加えるだけの警務官が存在しない事は皇都擾乱で証明されている。警務府は先手を打った。余程に皇都擾乱での被害に懲りた様子が垣間見える。機先を制する為、各公爵家や新聞社に刑事が張り込んでいる可能性とて有り得た。
「警邏御苦労、主義者の衝突回避が目的か?」
「そうですよ。争いなら賭博なりではっきりさせればいいのに。貴方も」
各種資源を消耗しない極めて健全な意見であるが、消耗したからこそ相手が妥協を受け入れるという側面を忘却した物言いでもある。
「俺は真っ当な傷痍軍人だよ」
丸縁の遮光眼鏡を掛けた傷痍軍人という時点で胡散臭いものがあるが、砲隊鏡と連動し、測量術式の付与された眼鏡などを利用する砲兵は長年の癖で視力に関係なく眼鏡を常用している者も少なくない。
「ふぅん、手帳に不審なところはありませんけど……」
拾い上げた軍人手帳の認識を確認して唸る女性警務官だが、捲り続けてトウカの記した夥しい調査記録に首を傾げる。日本語は神州国の言語ともある程度近しいが、漢字に関しては大きく違う。解読は容易ではない。
「辺境出身なものでね」と、トウカは女性警務官の手から軍人手帳を摘まみ上げる。
「あ、私も東部の田舎なんですよ」
話が一々脱線するところに妙な愛嬌が滲む姿は、警務官としての資質があると言えなくもない。高圧的な官憲は民間との協力関係を形成し難いものがある。
「それで? まだ引き留めるのか?」
「あ、傷痍軍人の方々にこれを配ってるんですよ」
肩から下げた黒鞄から防水書類を取り出してトウカへと手渡す女性警務官は変わらぬ笑顔。トウカは、人材不足を補う為に見目麗しい女性警務官を中心とした勧誘をしているのではないか、と疑うが、笑顔に引かぬ力強さを見て受け取る。
「傷痍軍人を集めて部隊編制するなんて話があるみたいですね」
「成程、皇都の危機に政府が警務府の枠組み内で部隊編制を……内戦中にでもするべきだったな」
巧遅に過ぎる、とトウカは書類の内容に失笑する。
警務府の予備戦力……言わば警察予備隊の如き扱いの戦力である。
大日連では、戦後まもなく強大化した陸海軍を掣肘するべく政治主導で警察予備隊が編制され、後の東京擾乱の遠因となった。軍を当てにできぬ以上、自前で戦力を保持しようとする事は理解できなくもないが、軍からすれば己の職分を侵食する対象に他ならない。兵器供与や練兵での協力は極めて低調となる事が予想される。
しかし、戦時下であるならば話は変わる。
軍が動員された事で手薄になった首都防衛や治安維持を名目に編制を軍に認めさせる方向に話を転がす事は容易である。軍としても後方への戦力配置を軽減できるという利点があった。前線へ一兵でも多くの戦力投射を実現したい戦時下の軍相手であればこそ、そうした提案は同意させ得る余地が生じる。
ファーレンハイトとエッフェンベルクの両陸海軍府長官が黙殺する事は容易に察せる。
だが、現状、大前提として給金が良くとも傷痍軍人が集まるはずがない。
「馬鹿げた事だ。あの戦役を戦った者が皇州同盟軍相手に皇軍相撃など」
随分と残虐非道にして悪鬼羅刹と振舞った自覚がトウカにはある。真に驚愕すべき事であはあるが、彼はそれを自覚していた。だからこそ、その先兵として殺戮の限りを尽くした皇州同盟軍の軍勢と衝突する事を前提に編制される軍に実戦経験のある者達が参加するはずもないと理解している。それは迂遠な自殺志願に他ならないのだ。
――陸海軍が総司令部を移転させたなら事だが……
政治的に見た場合、それは陸海軍が政府の崩壊を黙認するという宣言に他ならない。予算編成の時期を終え、至近に迫る脅威は次の予算編成よりも遥かに速い。臨時予算で釣り上げるには、未だ選挙後の混乱を脱してもいない。
選挙は、トウカが皇都を彷徨う最中に終えた。
結果としては、右派の大躍進に終わった。
しかし、政府は機能不全に陥った。
野党であった右派は三党あり、主導権争いが始まったのだ。一党が圧倒的な議席数を獲得できた訳ではない以上、連立政権は避け得ないが、その連立政権成立への道筋が立たなかった。
右派政党にも国粋系や社会主義系、軍国主義系の三つがあり、そのどれもが議席数を伸ばし、ずば抜けた政党は現れなかった。それ故に主導権争いが短期間で終結しなかった。
これはトウカも想定していない事態であった。
首相の座を追われたシュトレーゼマンに比肩する人材は現れず、寧ろ国粋系と社会主義系の衝突は激しさを増していた。
皇都擾乱時のトウカは、右派の躍進に重きを置き、対外的軍事行動に賛同する者達を強力に擁護したが、強いて言うならばそれだけであった。彼にとり政治の混乱は望むところであり、政治への不信感こそが主導権を握る好機であると理解していたからである。第二次世界大戦前夜の大日連の如く。
しかし、トウカは政戦の舞台を去った。
陸海軍は政権への関与は及び腰であり、中央貴族は右派ばかりの政権から距離を置いた。七武五公は不明瞭な姿勢を崩さない。彼らは一様に混乱の後、諸勢力と連携した上での連立政権の樹立を目論んでいる。
今まで多数派となった事のない右派政党の無様は目を覆わんばかりであり、不手際が相次いでいる。元より議員資格が怪しいものや犯罪歴が明るみになる程度は序の口であり、情報漏洩や予算の私的流用が短期間の内に相次いだ。
これ程までの無様を、意外な事に諸勢力は想定していなかった。トウカからすると議会政治の過大評価でしかないが、彼らは一様に国会議員が最低限の愛国心と素養を有していると無邪気に信じていたのだ。
彼らは議会政治に期待していたのだ。
しかし、下限を見誤った。
そもそも議会政治に即効性などあるはずもなく、政治家とは本来、税金と時間を費用対効果として議会で育成するものである。議員経験のない者を量産した結果、政治は漂流する結果となった。
結果として、訪れるのは失敗を糊塗する為の強硬論である。
それが外征に繋がる事をトウカは期待していた。
「まぁ、僅かになった左派を吊るし上げて終わるだろう。残念ながら俺は不参加だ」
戦友に向ける銃口を持たないなどという高尚な理由ではなく、内戦時以上に勝算が低いそれに迎合する理由がなかった為である。今のトウカには戦う理由などないのだ。
「貴官が今少し佳い女ならば、考えたのだがな」
「むっ、愛国心が足りないですねぇ~」
そうは言いつつも、返された書類を笑顔で受け取る女性警務官。義務として声を掛けているという姿勢を露骨に見せるのは、彼女自身も警務府が準軍事組織となる事を望んでいないと取れる。或いは、無駄死にする者が生じることを厭うているのか。
「ま、ぽい捨ては駄目ですよ。それじゃ、小官はこれで」
軽薄な敬礼と言葉を残し、女性警務官は河へと飛び込む。
一度も浮かび上がる事なく消えていくそれに、トウカは肩を竦める。皇州同盟軍が皇都に来襲すれば、彼女の様な警務官すら動員して防禦行動を取るのだろ。拠点防衛すら儘ならないのは疑いなかった。
――しかし、ザムエルも一体、何を考えているのか。
トウカは政治情報を進んで得る事を止めており、詳しい経緯を知らなかった。当然、ザムエルによる軍事行動示唆の理由も、諸勢力が沈黙を保っているだけの理由がある事にも思い至らなかった。無様な政治は軍事力で覆されても致し方ないという姿勢のトウカは、諸勢力の黙認を当然のものだと捉えている。
実情としては、帝国に存在する獣人系種族が明確な意思を以て皇国侵攻に参加したという点を表面化させようとした議会に対して距離を置いた。或いは、そうした事実を覆うばかりに苛烈な行動を取ろうとしているザムエルによって、国民が事実を重視しない事を期待しての沈黙であった。
重大な真実は、それ以上に大きな話題で打ち消すに限る。
獣人系種族の捕虜を殺害したザムエルを証人喚問すべきと嘯いたのは左派政党であるが、それを止め得なかった右派政党に対する失望も諸勢力にはあった。右派と左派の区別なく、国内諸勢力は皇国議会を見限りつつあるのだ。
だが、トウカは皇国議会で主導権を握るのが右派である以上、ザムエルの行動に迎合してより軍備拡充に傾倒した姿勢を見せる事で事態が収束すると考えていた。ザムエルの行動が皇州同盟の利益を拡大する為の駆け引きであると、トウカは信じて疑わない。
不足した情報、不正確な情報からは不正確な解しか導き出されない。
トウカは皇国議会が軽い神輿である事を望んだ。
しかし、神輿が想像を超えて軽量化している事実をトウカは知らない。
議会政治を最も唾棄しているトウカが、現状の皇国諸勢力指導者の中で最も皇国議会を評価しているという皮肉。
政治的悲劇とは往々にして、起こるべくして起こる定命にある。
クレアは毛布に包まり玄関に座り込んでいた。
トウカが行先を告げずに居なくなって既に一週間近い。
長く共に過ごす事になると、クレアは根拠もなく確信していたが、それは幻想に過ぎなかった。総てから逃げ出した男が己の元からは逃げ出さぬなどと考えていた過去を、クレアは疎ましく考える。彼にとって己が特別であるなどという根拠はないというのに。
最近は軍務すら上手くいかない。
議会政治の無秩序が表面化しつつある中、憲兵隊の職務も熾烈なものとなりつつあった。
遺恨のある警務府が治安維持だけでなく、皇都を自前で防衛する為の戦力保持を求めて蠢動している事も大きい。そうした向こう見ずな計画に人材を割いた結果、治安維持に支障が出ている。その穴埋めに憲兵隊が動員され、多忙となりつつあった。
重装憲兵聯隊への協力要請もあったが、そもそも再配置で北部に帰還したそれを再展開させるには二カ月近い時間を要する。重武装であるという事は輸送にも相応の準備を必要とするのだ。鉄道の走行計画調整という問題もあった。緻密に組まれたそれを突然に変更する真似は不可能に近い。
そもそも、クレア自身が皇州同盟軍所属であり、隷下の二個重装憲兵聯隊も皇州同盟軍所属である。友軍と干戈を交えるだけの理由もない中で、戦意を保持できる筈もない。ましてや憲兵隊と装甲部隊では打撃力に多大な差がある。
多忙に加え、そうした要請を振り払う事にクレアは疲れ切っていた。
そして、帰宅すればトウカを待つ為に玄関で待つという日々。
身体的にも精神的にも消耗が続いた。
重い瞼が彼女に休息を促す。
夢と現の境界線が曖昧となる。
忽ちに意識は途絶えた。
「困ったな……」
トウカは軍帽の上から頭を掻く。
毛布に包まり、壁に背を預けて眠るクレアを玄関先で見つけたトウカは、予想外の展開に酒精交じりの溜息を吐く。
行く当ても金銭もないトウカだが、最後にハルバ―通りで飲み屋を梯子した事で懐の金銭が底を突いた。計画性などない浪費であったが、最早計画的な生き方を必用としないトウカは後悔していなかった。
しかし、寝床は必要である。
何より、合鍵と荷物の一部を置いたままであった為、一度はクレアの官舎に戻らねばならない。行軍の為の装備が入った背嚢があれば、雨露を凌ぐ事も野外での調理も容易であった。
そうした経緯があり、深夜まで待ち、官憲の眼を避ける形で訪れた。
「仕方がないな」
トウカは軍靴を脱ぎ、床で眠るクレアを抱き上げる。
いそいそと寝台へと運ぶ。扉を足で開け、クレアを何処かにぶつけぬ様に運ぶだけでも、酒精の入った身体には辛いものがある。最近、鍛錬を疎かにしている事も原因であった。皇州同盟軍総司令官時代も主敵は書類であり、鍛錬は疎かになり気味であったが、逃げだして以降は全くしていない。
身代に横たえたクレアは軍装の儘なので、襟首を緩め、身体を冷やさぬ様に毛布を掛ける。
トウカも情勢が怪しいとは理解しており、巻き込まれぬ様にクレアが諸勢力から距離を置いているものとばかり考えていた。
皇都にザムエル隷下の〈ヴェルテンベルク統合打撃群〉が雪崩れ込めば、状況次第で交戦に巻き込まれる可能性がある。皇都から逃げ出さずとも、皇州同盟軍から派遣されている者達は自宅待機を命じておく場面であった。寧ろ、警務府が情報漏洩を懸念して自宅待機を要請する場面となっても不思議ではない。或いは、皇州同盟側の者達が皇都に居るという事実を以て抑止力になるのではないかという期待があっての事かも知れない。無論、クレアがそれを期待しているという可能性もある。
寝台のクレアを見下ろし、トウカは「不器用な事だ」と軍装を翻す。
暗い廊下を進み、トウカは今後に想いを馳せる。
燻された虫の如き有り様で不愉快であるが、皇都が戦場になるのであれば逃げ出すという選択肢も生じる。危険性があるという事もあるが、皇都から逃げ出す者が多ければ、紛れて脱出する事も容易になるという事もあった。公表できない人物の捜索であれば、都市圏への流入と流出を重点的に監視する筈である。ましてや皇都もまた皇国の大都市がそうである様に城塞都市である。出入りの経路は限られ、監視は容易であった。
「さて、どうしたものか……」
居間へと戻ったトウカは応接椅子へと腰掛ける。
何かをしたいという願望はない。しかして自身の限界を見てしまった。長命種による政治体制という天井をトウカは崩す事ができない。彼らは保守的で、慎重。堅実でいて無理をしなかった。彼の嫌う部分と、彼の望む部分を併せ持つ存在として立ち塞がり、トウカの急進性と軍事力を上手く使い捨てて見せた。
皇国の脅威は長期に渡って打ち払われ、後に残ったのは荒廃した皇国北部と、戦力を減じた皇州同盟軍であった。他地方の被害は軽微であり、相対的に北部との各種資源の差は大きくなった。北部復興や皇都擾乱、軍備拡大に於ける負担の増加での消耗はあくまでも金銭的なものに過ぎない。
トウカは政治戦略で負けたのだ。
本土決戦という賭けに出たのは間違いだった。早々に全力の航空攻撃で粉砕して攻め入るべきだったのだ。帝国に妥協を迫る、或いは臨時政府設立を求めて踏み込むほうが被害は軽減できた。
軍事的勝利はトウカに権威を齎した。
しかし、利益と支持は期待したそれに満たなかった。
封権体制による領邦の乱立は、ある種の閉鎖性と情報伝達の遅れと誤差を齎した。
《独逸第三帝国》に於ける総統が成立した経緯からみても分かる。伍長上がりの総統の支持は数値化するとある種の傾向があった。
無電の普及率と連動しているのだ。
大規模な公共工事や狂信的な演説が支持の根源となったと思われている《独逸第三帝国》に於ける総統だが、最新の研究からは別の側面が見えていた。
一九三三年に首相となった彼は高速道路の建設計画が発表され、大統領死去に伴い一九三四年、彼は総統へと就任した。しかし、その時期に高速道路は、未だ一か所として開通していなかったのだ。つまり、その巨大構造物は総統就任時に能力面で民衆の生活に何ら寄与していない。その効果を見た民衆が彼を評価した訳でないのだ。
現時点で存在していない、或いはありもしないものをあると喧伝して彼は支持を得た。彼は政治の基本を良く踏襲していると言える。それは政争に於いて主導権を握る才覚に他ならない。
それらしいモノを用意すれば、それを根拠として支持を取り付ける事は不可能ではない。無論、直ぐに露呈するできもしない公約や政策は論外で、相応に肉付けした内容でなければ、短期間の内に政治的主導権を失う事になる。
彼は成功したが、トウカは失敗した。
そうした研究成果に基づく見解をトウカも重視していたが、異世界の環境はそれが通じなかった。
彼もトウカも相応の計算に依って立つが、両者共に全てが上手くいった訳ではない。
彼を支持しなかった者も少なからず存在する。公正な選挙とは言い難いものであったが、それでも尚、支持しなかった者は相応の数と言えた。
その点に目を付け、以前の選挙との比較……彼への支持率が急伸した地域と、高速道路の敷設地域との関連性を示す為、敷設地域を数値化。
その結果、注目されたのは高速道路との距離であった。
高速道路との距離と彼への支持率には強い相関があり、近くであればある程に支持率は上昇した。一見すると、失業者対策の効果が大きい地域の支持率が伸びたかの様に思われたが、統計による分析の結果、然したる効果がない事が判明した。
大凡の予想とは裏腹に、無電の受信状況に優れる地域程、高速道路を利用した宣伝戦の影響が大きい事が分かった。
高速道路までの距離と無電の受信状況こそが支持を取り付け得る要素だったのだ。
高速道路を無電で積極的に喧伝可能で、尚且つそれの存在を意識できる地域こそが、支持率が上昇する傾向にあったのだ。そうした事実から判明した事は、高速道路建設や失業者対策が支持を増加させたのではなく、宣伝戦の材料として箱物に過ぎなかった高速道路が有効活用された結果の支持であったという事である。
トウカは高速道路に変わる要素として戦勝を求めたが、それを宣伝する事を軽視した。否、そもそも領邦体制で情報の伝播が遅く、上意下達の情報経路が既定化されたいた事が、トウカの支持に陰りを見せた。情報経路は各貴族領の貴族が主導権を握っている。
無電などの早急にして直接の情報伝達手段が民間に少なかった事が、トウカの支持を限定的なものと成さしめた。
トウカは悲観し、既に見限ったものの、長期的な視野で見た場合、大陸の不安定な情勢を鑑みれば武断的な姿勢や国粋主義的な政治が台頭する事は避けられないものがある。
貴族が有能であれども、現在までの内向的な政治姿勢によって対外的な影響力は限定的である。国際情勢を短期間で左右する事は困難であった。
朧げに察していたが、内戦と対帝国戦役の最中に利権が複雑に絡み合う各貴族領に膨大な数の通信塔を建築し、それを運用して整備する人材を用意する事は不可能である。平時でも研究開発を踏まえれば最低一五年は見積もらねばならない。挙句に肝心の民間に販売できる程の小型にして安価な無電の開発も必要であった。魔導技術を含めた技術的な模索である以上、トウカの知識では全く足りない。科学技術も通信分野に関しては、概念は理解していても、電子部品に関しては極表層しか理解していない上に、製造方法などは門外漢であった。
応接椅子の柔らかさに埋没する身体を起こそうとするが、トウカは早々に諦める。
酒精と疲労が脚力の抵抗を圧倒する。
なんという無様であるかとは、トウカも思わない。逃げる為に酒を選択している以上、身体機能の低下は宿命である。健康な心身は要らぬ現実を突き付ける。現実を直視するだけの精神も体力も今のトウカには不要なものに過ぎなかった。
「まぁ、荒れ狂う北部を中央の連中が止められるか……見ものだな」
狂犬と蔑むには強大な武力と対応し難い戦略を行使するそれに、他地方の貴族がいかに対処するかという点だけは興味があった。
気楽なものである。
傍観者、それも政戦を傍観するというのは酷く愉快なものであった。
皇州同盟に政治的な搦手は通用し難い。排他的で孤立主義であるが故に、例え敵意に乏しい相手でも距離を置く集団である。解決は軍事力でしか有り得ず、中央貴族は装備も指揮系統も一本化されていない。
皇州同盟が、ただただ軍事力のみでも解決を決意した場合、中央貴族は不利を免れない。皇州同盟も国内の混乱を収拾し得ぬ立場に置かれるが、それでも尚、彼らは食い下がらないだろう。
皇州同盟は国内諸勢力に首を垂れる真似をしない。
そう在れかしと望んで成立したのだ。
ベルセリカやマイカゼに事態を収拾できるか、否、事態が制御不可能となりつつある事を理解しているのか。その辺りは不明であるが、トウカとしては傍観者となった事で組織的な殺人合戦を愉しむ余裕が生まれていた。
「好きに……すれば……いい」
重くなる瞼に、そう呟いたトウカは寝息を立て始めた。




