第二六八話 帝都にて Ⅲ
「意外と被害は少ないな……」
腰まで下ろした銀糸の如き長髪に、寒冷気候の大地には珍しい褐色の肌をした長身痩躯の女性が、帝都の大通りを歩いていた。体幹と歩き方で見る者が見れば軍人であると察せる颯爽として肩で風を切る姿は些か目立つものがある。無論、軍狼兵将校の退役軍人でしかない彼女には気付きようのない事であった。
イシュタル・フォン・イシュトヴァーン。
ヴェルテンベルク領邦軍司令官を務めた前歴のある女性であった。
長外套の裾を揺らして歩く彼女は、雑踏の中から帝国の高層建築物を見上げる。
――建造物の一部が崩れただけか……
夥しい死者数を出した帝都空襲だが、実際の被害は帝都外縁の低所得者層の区画に集中している。帝城と官庁街のある中央区画を重点的に攻撃したものの、低所得者層主体の帝都外縁は木造建築物が多く、飛び火は極短時間で大火となった。
意図した結果ではなく、寧ろ航空爆弾の投射量は大部分が中央区画に集中している。しかしながら中央区画は石造建築物が大半で、土瀝青の延焼などによって被害が拡大したとはいえ、木造建築物の群れ程ではなかった。
消防技術の不備が被害を拡大させた。
それは帝国中央政府も承知しており、大規模な区画整理や各種消防施設の増強が復興と共に行われている。
――さぁ、どうする軍神? 御自慢の戦略爆撃は弱者ばかりを焼いているぞ。
国力を削ると言えば聞こえは良いが、敵国の全ての層に敵意を抱かれる戦略爆撃に踏み切った彼の胸中には、軍事力をいかに行使して敵国を毀損するかという合理性のみが渦巻いている。その点を彼女は懸念した。
狼種黒狼族の特徴である漆黒の狼耳と尻尾を隠蔽術式で隠し、帝都の雑踏に紛れるイシュタルは観光気分で市場や酒場に顔を出していた。
実情として観光に他ならない。
彼女は〈北部統合軍〉成立後、骨抜きとなった領邦軍司令官を辞した。使えるべき主君を失って尚、居座る事は士道に反するものであるという価値観からである。少なくとも辞表にはそう記し、周囲の近しい者達にはそう伝えていた。
市場の端に並ぶ猥雑な飲食街を進むと、香しい香りが各所から漂う。喧騒には笑声や怒声が混じり、人々の表情は一様に明るい。
貧困層が数多く失われ、傷付いた帝都には復興という名目で数多くの仕事があった。周辺都市だけではなく、遠方からも職を求めて多くの者達が集まり、帝都は嘗て以上の喧噪に包まれているという皮肉。
トウカが焼いた貧困層など、帝国には短期間に補填できる程度の被害でしかないのだ。寧ろ、養うべき者達が減少した事で食糧事情が改善している面もある。
無論、それは政治的な諸問題を無視した人口面からの評価でしかないが、通常の国家では叶わない事であるのも確かであった。
露店の野外席に座る。
眼前では黒髪の美しい女性が優雅に……という事はなく、酒瓶に直接口を付けて麦酒を楽しんでいた。
“鴉の濡れ羽色”をした腰を過ぎるまでに伸びた長髪は、先になればなるほどに波打っており、何処か柔らかな雰囲気を帯びているものの、その黄金山吹の色に輝く瞳は荘厳な気配を静かに感じさせる。そして、その長身にして女性として成熟した妖艶な身体を包む服装は、黒に統一された背広と長外套であった。細身である事を強調する形の衣装は特注されたと一目で分かる上質な布地を使用して設えられていると分かる。
飲み干した酒瓶を机に置き、次の酒瓶の王冠を歯で開け放ち、堂々たる姿で麦酒を煽る姿は何故か周囲に溶け込んでいる。それでいて、その動作には、確たる自信と、抗い難い色香が滲み出ていた。
揚餃子を銜え、イシュタルを招き寄せる男装の麗人に、イシュタルは溜息と共に駆け寄る。
「ミリアム……」
「おう、遅いではないかえ? 早う座れ」
ばしばしと机の天板を叩いて着席を促す男装の麗人。皿上の揚餃子が揺れる。
ミリアム・S・スターリン。
帝国を揺るがす労農赤軍の指揮官にして、稀代の謀略家である。煽動と謀略によって一群を編制し、各貴族領に侵攻して貴族を殺害し、富を収奪して民衆に分配する義賊。
一般的には、そうした印象が定着しているが、実情は冷酷にして残忍な指導者である。
民衆を蜂起させ、後戻りできない様に貴族の銃殺を強制させ、捕らえた領邦軍士官の銃殺や埋葬を行わせる事で精神的に退路を断つ。裏切りや叛乱を抑止し、勇敢に戦わざるを得ない状況を創り出すのだ。埋葬を何処かの軍神の様に鰯缶方式で行うなどの姿勢は、人間性を一切考慮しない効率主義に裏打ちされた指導である。
海魚の燻製を一切れ、口に運んだ男装の麗人。麦酒で塩気を押し流し、イシュタルへと酒瓶の飲み口を向ける。
「どうじゃ? 帝都は? 栄えておろう?」嬉し気に誇る売国奴。
帝国を蚕食する労農赤軍だが、現状では決戦を避けて不正規戦に終始している。人種と種族の平等を掲げ、階級間の分断を煽動し、民衆の団結を阻害する帝国政府への批判を謳いながら、賛同者を募りつつ襲撃を繰り返していた。
当の指導者であるミリアムは、帝都で安穏とした生活を享受している。
中央政府や門閥貴族に対する諜報活動によって、襲撃行動を行う場所を選定する。財産や食料の収奪というだけでなく、政治的な混乱や分断を期待できる地域を狙っての襲撃行動であり、その選定には高度な状況判断が必要とされる。
「貴女こそ無事なの? 前代未聞よ。こんな馬鹿げた事は」
敵国の首都から叛乱軍に命令をしているなど敵味方双方にとっても想像の埒外である事は疑いない。多数の人口を擁する故に潜伏が容易であると言えど、憲兵隊や情報部の本拠地もある都市に潜伏するのは相応の危険がある。
「同胞も努力してはくれておるが……些か数が不足しておる。妾が直接、見聞を広めて対応しておるが、そろそろ限界であろうな」
諜報活動に於ける限界は近い。流石の帝国も間隙を縫うが如き襲撃行動が続けば、中央政府や門閥貴族も情報漏洩や諜報活動を想定する筈であった。実際、中央政府官僚の周辺を憲兵隊が固め始めている。
とは言え、貴族向けの高級料理店に行けば酔った貴族が聞いてもいないに関わらず重要情報を酒精交じりに垂れ流している状況は変わらない。
「決すると?」雌雄を、とはイシュタルも口にはしない。
「阿呆ぅ抜かせ。僅かな数では抗せぬよ」
男装の麗人……ミリアムは、歳若い……少女と言える年齢の給仕を呼び止めて追加注文を願う。優先して用意して貰える様に心付けを渡す事も忘れない。銀貨を胸の谷間に押し込むという行為は下品極まりないが、男装の麗人が足を組み、片目を瞑ってそれを成せば、不思議と風格すら思わせるものがある。
「妾、成り金商会の女主人じゃからのぅ」
イシュタルの非難がましい視線に、片眼鏡越しの瞼が今一度、ぱちりと動く。
実際、帝国内で急成長している商会の女主人というのは事実で、ミリアムは突然、商会の会長に就任し、その業績を大きく成長させた。
帝国東部から河川を用いて鮮魚を仕入れるという以前までの帝国ではなかった方法で財を成したのだ。高速力の河川用船舶を買い占め、鮮魚を輸送するという行為は、ヴェルテンベルク領に於けるシュットガルト運河の運用と類似したものがある。模倣と言えた。
航空攻撃で鉄道路線は破壊できるが、河川は破壊できない。
河川用船舶に水上迷彩を施し、航空偵察への偽装まで行うそれを以て、ミリアムは帝都への物流を支えている。帝国政府から見れば、制限はあれども鉄道輸送の一部を補い得る手段を提示したミリアムは愛国者に他ならない。
無論、商会で得た資金は河川輸送の増強に充てられ、労農赤軍には一切流れない。金銭の流れは辿る事が可能であり、情報収集の常套手段と言えた。商会と労農赤軍は表裏両面で一切の関係がない事となっている。
「それなりの数にはなったと思うけど……」
正面戦力だけを見れば、五万名を数え、後方支援や現地協力者を含めれば二〇万名を超える大所帯となっている。装備に装甲車輌はなく、軽火器主体だが、それは一撃離脱と移動距離を重視する不正規戦であるからこそ。治安維持を担う軽武装師団相手の運動戦ともなれば、勝機は少ないながらも存在する。労農赤軍は未だ民兵同然だが、帝国軍も精鋭を外征で数多く失い、練度が大幅に低下している。共和国戦線は未だに精鋭を飲み込む大海嘯として帝国の戦力と国力を貪食していた。
「経験もあらねば、統率者も居らぬでは首が回らぬよ」
司令部人員に類する人材が存在せず、不正規戦であるが故に、精々が大隊規模運用に留まっている。聯隊や師団としての運用経験も人材も用意がなかった。退役将校や現役将校も合流しているが、佐官以上の人材は極僅かであった。金銭的に恵まれている者が共産主義者に転向する例は少ない。
先程の給仕が大きな盆に料理と酒瓶を乗せて駆けて来る姿を一瞥したイシュタルは、次善の策を口にする。
「既に網が狭まりつつあるわ。一部は網に囚われて消えた。捲土重来を期して辺境に移るべきよ」
帝国陸軍や各領邦軍も無能ではない。
出現地点を割り出すべく哨戒や警備を厳重とし、即応可能な軽騎兵大隊が分散配置されており、迫撃を受けた一部の部隊が壊滅している。既に奇襲効果は失われ、対策が講じられつつある。烏合の衆でしかない労農赤軍は優位性を失いつつある。
給仕が肉料理と魚料理を幾つも並べ、酒瓶を置いていく間、二人は沈黙する。
「……ここまでかの?」
麦酒を煽り、去っていく給仕の背中を見つめるミリアムに、イシュタルは言葉を返さない。武辺者に過ぎないイシュタルに政治を含めた部分までの損益を推し量れない。軍事的に許容できない被害も、政治が加われば已む無しとなるのが政戦である。
「良かろう。しかし、只では終わらせぬ」
ミリアムは懐から封緘書類を取り出す。手紙程度の大きさであるが、そこに記されている内容が苛烈なものであるとイシュタルは容易に察せた。帝国中央から撤退するのであれば、現地での後の潜伏を考慮する必要はない。
共産主義は愛に非ず、共産主義は敵を叩き潰す槌なり。
その事実を世界に知らしめねばならない。
「派手な火遊びに興じようて。宣伝は刺激的であるべきであろう?」
のぅ?、と無邪気に笑う麗しの売国奴。
嘗てよりも一層と積極性と、苛烈さを得た彼女は、世界を舞台に争乱と狂乱を撒き散らす。それが使命であるかという様に。
封緘書類の内容は簡潔であった。
帝都に五日以内に大隊規模の戦力を集め、それを以て帝都中央区画を襲撃する。
専制政治の楼閣に鎌と槌の軍旗が翻ようとしていた。
「あんの御老体め……」
ユーリネンは軍帽の上から頭を掻き毟り、飛んできた面倒に蒼白表情を以て応じるしかない状況に追い遣られた。
――何が、先方に御挨拶を済ませておくべきだろう、だ。
謀略と政略に秀でた帝族への面会など精神的負担しかなく、ましてやそれが帝城で行われるとなれば“参内”に他ならない。貴族としての栄誉や見栄としては最良の出来事だが、中央政治への関与を拒むユーリネンには面倒ごとでしかなかった。
往年の形状を大きく毀損された帝城を見上げ、ユーリネンは胸中で、完全に崩壊すればよかったものを、と軍神の詰めの甘さを詰る。或いは、後衛戦闘を以て散々に邪魔をした腹いせではないのかと邪推までしてしまう。無論、時系列的に見て有り得ない事であるとも承知の上である。
「閣下、御待ちしておりました。小官が案内致します」
ナタリアが帝城の玄関口から姿を見せる。屈強な衛兵二人を引き連れての登場に、ユーリネンは面倒の予感を一層と強くする。衛兵の所属を示す袖章が帝王に近しい事を示していたからであった。
「もしかして見目麗しい姫君に使えるに相応しいか、ほご……帝王陛下が見定める、などという事があるのかな?」
危うく保護者と言いかけたが、ナタリアはユーリネンの心情を察してか言及しない。
帝王が特に優秀な子供達を可愛がっている事は有名な話であるが、どこまで踏み込むかはユーリネンにも想像が付かない。もし、良い歳をして一緒に入浴したり就寝したりするともなれば、ユーリネンは明日にでも武装蜂起する用意があった。
「そうした事は聞き及んでおりません……先の攻撃で指揮系統と人員の損耗が激しく、未だ再編制の途上なのです」ナタリアの背後で無表情を維持する衛兵も何処か所在無さげである。
そうした会話を交わしつつ、ユーリネンとナタリアは衛兵二人を引き連れて帝城内を進む。
崩壊した廊下に規制線が張られ、窓には木板が打ち付けられ、各所には消火剤が充填された金属筒が配置されている。侍女に使用方法を講習している衛兵の姿もあった。
「修理はしないのか?」
「陛下が無駄だと止めたそうです」
残念ながら今上陛下は、優秀な指導者であった。
ユーリネンが同じ立場であれば、同じ命令を下した。無意味どころか、多額の予算と人員を無駄遣いする余裕は今の帝国にはない。焼き出された貧困層の反感を買う点も見逃せなかった。
「御英断ではある」
「損なわれた権威の象徴を放置するのは問題かと思いますが」
貴族が声高に叫びそうな意見であるが、権威とはそうしたものである事も間違いではない。
軍事強国の指導者が住まう居城が損壊したままであれば、他国に侮られる結果となりかねない。その不利益は政戦と経済に影響を及ぼす。
しかし、ユーリネンは違う意見を持っていた。
「帝国に戦略爆撃を防ぐ術はない。修繕しても防御手段が確立しないならば、再び標的になる程度の意味合いにしかならぬし、二度目を受けては余計に権威が損なわれる」
無価値だと思われたほうが、まだ攻撃を受けずに済む可能性がある。寧ろ、帝城への戦略爆撃は権威の毀損以上の意味はなかった。あわよくば帝王と帝族を殺害できるかという副次目標はあったかもしれないが、飽く迄も主目標は権威の毀損にこそある。今一度、守れもしない権威の象徴を作り出すのは政戦に於ける自滅行為でしかない。
帝王がその辺りを判断できるのか、或いは優秀な廷臣が控えているのか。ユーリネンは興味を抱いたが、辺境に影響のある事とは思えないので放置する。
造成物の一部が倒壊した庭園へと案内されたユーリネンは春の日差しの中、優雅に老人と茶会をしている女性の姿が窺えた。
純白の長髪と衣裳が春風に揺れ、木漏れ日が純白を彩り陽光を散りばめる。
天使系種族や妖精種の類と思える程度には人間離れした光景に、ユーリネンは臆するものがあった。同時に、それすらも計算されているのだろうという確信と諦観が彼にはある。
「御機嫌麗しく……はないでしょうが、礼儀として御機嫌麗しくと言わせていただきます、エカテリーナ帝女殿下」
「あら、私は御機嫌麗しくてよ。軍人の方々と違って」
二人して苦笑。
慇懃無礼を咎めるべきところ、軍人としては何とも返し難い言葉で応じられた為、背後のナタリアも身動ぎの音をさせるに留まる。衛兵は衣擦れの音すらさせない。
白き女帝に着席を促されたユーリネンは、貴族教育の精華を思わせる仕草で座するが、武辺者として接するべきであったかも知れないと、エカテリーナの左手薬指に思う。
エカテリーナと軍神の邂逅が帝都空襲の最中に在った。
空襲の最中に左手薬指を負傷し、醜い傷が残った点を以て、エカテリーナが治療よりも帝王の安全と、事態の収拾を優先したという噂が巷には流布している。元より自領の開明的な運営と、労働者を比較的優遇している事から、下級貴族や市井には慈悲深い帝女として見られているが、帝都空襲はそうした印象を一層と強くさせる事態となった。
ユーリネンはそれすらも計算ずくの事であったと確信している。
帝女が臣籍降下した場合、嫁ぎ先の貴族に主導権が生じる余地ができる。加えて、外戚として権力を振るう存在と成り得る可能性があり、継承権争いの複雑化を招きかねない。
帝王の女婿を務めるという重責はあれど、己の子を帝位に就けられる好機を望む貴族は多く、その野心の下で生じるであろう混乱は看過できない。そして、輿入れ先の最有力候補は主要な門閥貴族家であった。
帝国政治に於ける危険性の発生である。
己が傷物になったと、それも婚約指輪を嵌める左手薬指ともなれば、前代未聞であるものの、婚約を固辞する理由としては相応のものがある。悲劇を謳う帝女という肩書は門閥貴族からの婚約という面倒を避け、自身に下級貴族や市井からの同情を取り付けられる。
それにしては、妙に右手薬指を撫でるエカテリーナの瞳が熱に浮かされているが、ユーリネンとしては隣の老人に視線を奪われた。
容貌と肩の元帥を示す階級章から第二陸軍卿の要職を担うスヴォーロフ元帥であると判断したユーリネンは、彼に対して直立不動の敬礼を以て立場を示す。
スヴォーロフは眠たげな視線をユーリネンへと巡らせた。
「君かね? 噂の英雄とやらは?」
その問い掛けにユーリネンは眦を下げる。
無様な大敗の中、諸々の指揮系統や軍規を逸脱して、それなりに体裁を整えた後退戦を演じて見せたものの、彼自身はそれを英雄精神の発露などとは考えていない。生き残る為、戦友や得た既知の者達を逃す為に最善を成しただけである。それでも多くが多くが失われた。
「英雄ではありません、閣下。ここに居るのは敗残の将に過ぎません」
敗北の中でこそ英雄が必要とされる側面が政治にはあるが、それに付き合う心算はユーリネンにない。祭り上げられて御輿になれば、それを不利益とする者も必ず生じる。行き着く先は政治闘争である。故郷から遠く離れた帝都での政治闘争に、ユーリネンは価値を見出せなかった。
「向こうにも年若い英雄がいる。こちらにも英雄が在ったほうが便利と考える輩もおるが……」
二十歳に満たないとされる軍神に対し、ユーリネンは三十路に届こうかという年齢である。些か対抗馬としては無理がある。無論、二十歳に満たない元帥号保有者など王族でもなければ存在し得ない。挙句に遍く実力を示しているとなれば皆無に等しかった。
「果たして小官如きが天魔波旬の輩に勝ち得ましょうか?」
善行を成すヒトを惑わす輩に、ユーリネンは勝利できる自信がない。
憎悪や遺恨を振り翳す軍神は狂気に他ならない。ヒトという種が総てを圧倒する為に生み出した絶対悪であるとすら考えていた。
そうした人物が人間種の優位を掲げる帝国ではなく、天帝の下に人魔平等を掲げる皇国で立身出世を成し遂げるという皮肉に、ユーリネンの胸中には語源化し難い感情が渦巻いている。
――彼が、彼が帝国東部にさえ生まれていれば……
スヴォーロフの返答を待つまでもなく、エカテリーナが応じる。
「国家の保全こそが勝利よ」
存外にユーリネンの軍事的勝利だけが目指すものでもないと避けた言葉に、ユーリネンは政略化としての答弁だと苦笑する。
軍人としての矜持を毀損しかねない一言であるが、ユーリネンはトウカと衝突して勝てるなどとは夢見ていない。現実主義的な戦略家であるトウカは規則無用の争いで敗北することはないだろうと、ユーリネンは見ていた。勝利する為の算段を、その異様な発想と知識、才覚から持ち出して争えるなら彼は負けない。
そして、トウカが規則……法律や憲法、条約、規範、基準などを軽視するのは、それが己の手足を縛るものであるからと良く弁えているからである。彼は必要でないならば、絶対に相手と同じ土俵には立たない。
彼に制限を課さねば勝利は覚束ない。
だが、政戦に於いて盤石化しつつある彼が戦場に姿を見せる可能性は、時が経つに連れて低下する。
皇国の政戦に於ける枢機へと至れば、彼は遺憾なくその戦略的視野を政戦で発揮するだろう。
彼に軍事的勝利を渇望する帝国軍人は多いが、ユーリネンは、寧ろ、一軍閥指導者として辺境に在り続けるのであれば、放置しておくのが上策であると考えていた。帝国軍が戦果を計上して彼の権威形成を助ける真似は厳に慎むべきである。
「放置すれば宜しいのです。あちらも夷狄を退け、国内に目を向けているはず……」
「それならいいのだけど。彼、行方不明よ?」
ユーリネンの言葉に、エカテリーナは楽し気に応じる。
行方不明。
それ自体を欺瞞であると見る者は帝国に少なくない。
謀略の一環であると見るのは、彼が野戦将校として比類なき勲功を上げ、あまつさえ自ら帝都にまで空挺降下を行った経緯からであった。次の作戦行動に於いても彼自身が直率するのではないかという恐怖と疑念が帝国貴族内を吹き荒れている。帝都が空襲と空挺降下を受けた以上、帝国内に安住の地はないと見るのは自然な事であり、大都市を擁する大貴族ともなれば特段の危機感を抱いていた。
「行方不明であるならば、余計に刺激する必要はないかと」
刺激した挙句、大都市を次から次へと戦略爆撃に晒されるというのでは、余りにも費用対効果に乏しい。どの道、航空騎が主体になった軍事行動が行使された場合、帝国陸海軍に之を阻止する術はなく、都市などは回避行動すら取れなかった。
「空襲でも下手に避難などすれば、膨大な焼け出された民衆を抱える事になります」
空襲ですら放置すべきなのだ。無論、表面的な要撃行動や消火活動は行うべきだが、根本的な解決手段がない以上、短期的な効果を無理に求めて予算を失う真似は避けるべきである。
「総てを放置せよ、と?」
スヴォーロフの眼光に、ユーリネンは鷹揚に頷く。
「悲劇も政府も貴族も、全てを放置して今一度、機会を窺うしかないかと」
対案の用意されていない批判や批難など考慮するに値するものではなく、軍事的妥当性の下でのみ軍人は相手の優位と優越を認めるのだ。
「どの道、御国の崩壊を放置し続けた先達の主張など聞くに値しませんよ」
いえ、無論、閣下の事では御座いませんが、とユーリネンは肩を竦めて見せる。
《スヴァルーシ統一帝国》の歪な社会構造と富の再分配能力の欠如を放置し続けた責任……より国家体制の腐敗が目立ち始めたのは一〇〇年前程前の為政者達の時代である。
過去を踏襲する姿勢を崩さない中央政府や門閥貴族の意見など聞くに値しない。
現在の利権や利益に固執するあまり、滅びつつある現状を直視しない以上、ユーリネン達に取り得る選択肢はない。能力があれど、帝国の国家方針を是正するだけの権力を有さず、中央政府や門閥貴族に抗するだけの権力もなかった。
国内で政治的解決を図れず、外征による実績からなる権力増強は躓いた。既に逼塞するしかない状況である。下手に勝てぬ権力闘争に身を投じ、混乱を助長させる真似では得るものがない。
武装蜂起という手段もあるが、軍事的混乱では門閥貴族と正規軍、労農赤軍の三つ巴と成りかねない。国家が割れる。最悪、群雄割拠となる。それは好機とも言えるが、危険性も大きい。
選択肢などなかった。
辺境に逼塞し、機会を窺うしかない。
――この二人を辺境に連れていく心算はないが。
少なくともエカテリーナはそうした状況にあり、エカテリーナも客観的に見て近しい状況にあった。スヴォーロフは不明であるが、第二陸軍卿という役職は御飾に過ぎず、実権は然してない。
「失礼ながら、閣下の旗幟はどちらに掲げられておりましょうや?」
「……可憐な純白の姫君が掲げておるよ」
何とも言えぬ表情でエカテリーナを一瞥したスヴォーロフの一言に、ユーリネンは御老体方を酷くその気にさせる白のき女帝に辟易とする。ドルゴルーコフやクトゥーゾフの彼女に好意的であり、軍全体としての信頼ではなく、要職を司る者達を良く押さえていると感心すらした。
着席を促されたユーリネン。
侍女が紅茶の用意をする中、暫し無言となる。
――大事になった……軍の機械化以前の英雄までもが出て来るとは。
措定外の名前が辺境に名を連ねる事になる。目立つ行いを避けたいユーリネンとしては好ましい状況ではない。白き女帝という名前だけでも過大な中、錚々たる英雄達が名を連ねるとなれば、否が応にも注目を受ける事となる。
「しかし、帝女殿下が辺境に赴かれると聞きましたが、一体何を為さる御心算でしょうか? 存念をお聞きしたく御座います」単刀直入に切り出すユーリネン。
エカテリーナとスヴォーロフが顔を見合わせる。
困惑と疑問の滲む二人の横顔に、ユーリネンも疑問を浮かべる。
三者三様の疑問と困惑。
「……少し誤解があるようですね」悲しげな表情のエカテリーナ。
ユーリネンは気の抜けた声で「はぁ?」と応じるしかなかった。美しい女性の嘆きそれ自体に男性に酷く罪悪感を抱かせる効果があるのは階級を問わない心理であるが、獣耳と尻尾がない時点でユーリネンに取り赤点である。ユーリネンにとり、エカテリーナには獣臭さが不足していた。
見かねたスヴォーロフが二人を遮る様に、エカテリーナの言葉を引き継ぐ。
「我々は卿が望む辺境繁栄を後押しする為、辺境へと赴くのだ。卿の友軍として」
「……御冗談を」
帝女と英雄の権力争いの要素に辺境がなると、ユーリネンは受け取った。
――冗談じゃない。辺境は放置されたままでいいのだ。後ろ盾など必要ない。
ユーリネンにとり帝国東部辺境地帯とは、放置されて目も向けられない事を利用した経済活動と繁栄を掴む土地である。目を向けられ、繁栄が知られてしまえば、苦境に喘ぐ中央政府は増税を行い、門閥貴族は傘下に組み込もうと権力を伸ばしかねない。
予算を勝ち得てくる優秀な人物は望ましいが、それで目立つのでは意味がないのだ。
中央政府への申告に当たって、諸々全ての数値を誤魔化すというのは辺境貴族の伝統ですらある。苦境を数字で伝えても改善しないならば、吸い取られるばかりの税を低減するしかない。幸いにして辺境の貧困は事実であり、偽装は容易である。
そうした行為が難しくなる事を、ユーリネンは恐れた。中央より派遣される徴税官に銭を握らせるだけでは難しくなる。目立つ存在が居るならば、その周囲に探りを入れるのは当然で、その最中にそうした部分が露呈しても不思議ではない。
エカテリーナが望む鉄道網の敷設は帝国東部まで行われる予定で、確かに経済活性化や技術流入を期待できるが、それすらもユーリネンは懸念していた。交通網の整備は人口流出を招くのだ。そうした事例は帝国だけでなく世界各地に存在する。
獣人系種族に寛容ではない他地方で一般的な帝国人の感性を育んだ者達が流入するというだけでも脅威であるが、人口流出の最中に獣人系種族の存在が広く流布する事も脅威であった。辺境で細々と過ごしており、尚且つ、大部分の帝国人の眼には触れないという大前提を崩せば、種族間抗争が辺境で生じかねない。
帝国東部辺境貴族は、帝国と決別して抵抗する道を選択するだろう。隠れ潜む様に生活する獣人系種族による恩恵によって得た恩恵が己を生かしていると彼らは理解している。利益も渡さないのに、致命的なものを放棄せよと迫るならば武装蜂起しかない。
ユーリネンが望むよりも数十年単位で早い蜂起である。
「正直、申しましょう。迷惑です。辺境は放置される事を望んでいる。中央の揉め事に巻き込まれるなど冗談ではない!」吐き捨てる様に心情を吐露するユーリネン。
スヴォーロフが眉を顰め、エカテリーナは思案の表情。
「ユーリネン中将閣下! 不敬です!」堪りかねたナタリアが叫ぶ。
近衛兵が長剣を抜刀するが、ユーリネンは座した儘に一瞥して鼻で笑う。
不愉快が過ぎた。
ただ、放置しておけばいいものを、干渉するというのは帝国東部辺境の貴族にとって一線を超える。
「不敬! 勿論、不敬だとも! 利益も与えず敬意を勝ち取れるものか! 御前等が辺境に何を齎した! 貧困と税金だけではないか!」
近衛兵如きに後れを取る心算は毛頭ないと、ユーリネンは椅子を蹴倒して立ち上がる。長手の黒革の手袋には鉄板が縫い込まれており、相応の打撃力を提供した。彼は帝国東部辺境で獣人系種族と共に育った者である。膂力と速度に優れる者達を相手にしての修練に恵まれた者である。城に籠って人間種ばかりの訓練しかしていない近衛兵に後塵を拝する心算はなかった。
意地を通さねばならない。ドルゴルーコフの言葉に従うのが不愉快であろうとも。
少なくとも、中央が干渉する事を辺境が望んでいないという現実を突き付けねばならない。帝国東部辺境貴族と獣人系種族の存続に関わる話なのだ。
奪うばかりか政争の道具にまでされては敵わない。
ユーリネン子爵家は、その家格や宮廷序列からすると辺境でも決して上位ではないものの、帝国東部の少なくない数の貴族家を取り持つ立場にある。利益と問題を調整し、百年近くに渡り帝国東部で相互扶助の精神の歯車となった子爵家であった。
何より、彼は辺境軍にも関わらず、陸軍からの要請で出征に参加した。獣人系種族が多種族国家への侵攻で役立つと考えたが故の命令だったのか、戦力不足を懸念しての事だったのか、或いは獣人系種族の漸減を意図したものなのか。或いは、その全てであったのか。それはユーリネンにも分からない。
結果として、多くの東部辺境軍将兵が戦死した。
自らに何一つ与えぬどころか、奪って当然と考える抑圧者の御機嫌伺の為の戦死である。
不満も憤怒も慟哭も胸中に押し込んで彼ら彼女らは出征したのだ。
帝国東部辺境の各貴族家と各獣人系種族の不満を抑え、尚且つ自身も出征する事で何とか認めさせたのだ。〈南部鎮定軍〉という強大な戦力が帝国東部に向けられぬ様に彼は苦心した。
だが、蓋を開けてみれば〈南部鎮定軍〉は皇国北部で溶けて消えた。門閥貴族も雑兵も同様で、挙句に帝都を始めとした複数都市が灰燼に帰した。
己の努力は何の為にあったのか。
ユーリネンには分からない。
彼の軍神の如く絶対悪の体現者であると嗤えば、敵対者の総てを殺戮してこそ平和が訪れると叫び、ただただ軍事力を恃みに怒り狂えば、後々の未来に遺せるものもあったのではないか。
例え、一時の死山血河であっても、後の時代に帝国東部が繁栄するのであれば、許容するべきではなかったのか。終わりなき抑圧に立ち上がるべきではなかったのか。
自らの指揮の下で遠く異国の地で肥料とならざるを得なかった同胞に、意義のある死を与えられたかも知れないのだ。死ぬならば、彼ら彼女らには相応の理由があって然るべきなのだ。納得できずとも、そうでなければならない。それが貴族として領民を紅蓮の戦野に投じる者の義務であると、ユーリネンは疑わない。
「労農赤軍だけでなく、東部辺境まで敵に回すか? この俺を敵に回すという事はそういう事だ! その度胸がないならば、城の調度品を続けていろ!」
朗々と応じ、仁王立ちするユーリネン。
ユーリネンは自負している。
帝国東部辺境を纏めているという自負である。
少ない資源を分け合い、時として訪れる食糧不足に在って補い合い、数世代に掛けて共に街道を整備した。国家が成すべき事すら自前で行うべきそれを可能にしたのは、ユーリネン子爵家が帝国東部辺境を駆けずり回り、各貴族家や各獣人系種族の族長を説得したからである。
それが喪われるという事は、多くの無理と困難を避け得なくなるという事である。
早晩に武装蜂起を選ばざるを得なく成る有ろう。
民衆の腹を満たす為、自らの家の存続の為、帝国東部は軍事力による解決を決意するだろう。
イーラッハ伯爵家にレルヒェーリン伯爵家、ゼレノイエフ男爵家……武断的姿勢の貴族家も帝国東部辺境には存在する。東部辺境軍の要職を数十年の時を掛けて息の掛かった人材に入れ替え、指揮系統を蚕食した意味は来たるべき蜂起に備えてのものであった。各貴族家の領邦軍に東部辺境軍による聨合からなるそれは、実は皇国に於ける北部貴族よりも積極的な連携と取り決めが成されていた。それは一重に貧困の度合いが死命を制する程であったからに他ならない。
貧困と予算不足を理由に装備を統一し、連携訓練を行い続け、有事の際の指揮系統も非公式に策定されている。臨時政府の人員も取り決められていた。
動揺し、沈黙した衛兵に背を向け、ユーリネンは再び着席する。
「国を割りたいというなら結構。大いにやらかすと宜しいでしょう。我々は南の友人達と連携して、我々から収奪を目論む輩総てに抵抗する」
皇州同盟に《南エスタンジ国家社会主義連邦》と連携し、全てを打ち砕くのだ。《北エスタンジア王国》は王都を占領され、今や風前の灯火。《南エスタンジ国家社会主義連邦》を経由して皇州同盟と地続きとなれば、その強大な軍事力が帝国辺境東部に展開する事を期待できる。
「貴き族の、貴族の義務を我々は果たす。領民の腹を満たし、子孫に肥沃な土地を引き継ぐ。そこに民族や種族の貴賤はない」
《南エスタンジ国家社会主義連邦》の影響で社会主義的な貴族が帝国東部辺境で増えつつある現状、各貴族家は国家社会主義的な統一的意思の下での繁栄を望んでいる。
貴族は嘆けど社会主義。
資源や資金を溜め込む企業や商会に掣肘を加えるべく、労働者の権利を強力に擁護し、東部全体で大掛かりな事業を展開して資源や資金を労働者層へ還流させる事を彼らは望んでいた。無論、その資源や資金は帝国産である必要性はない。
最早、専制君主制の貴族政治ではなく、血統による社会主義政治に他ならない。
それ程までに追い詰められていると言える。
特に食糧不足からなる食糧輸出の強制が暗い影を落としている。幾ら数を誤魔化せども膨大な量である事は変わりなく、それは東部辺境の食糧価格高騰を招いていた。
「我々は、最早一歩たりとも譲歩しない。そこは理解していただこう」
既にユーリネンは腹を括った。
広げた大風呂敷を実行に移す覚悟を固めていた。
意気込んで言葉を重ねようとするユーリネン。
しかし、それは野砲の炸裂音に掻き消される。
帝都擾乱の始まりであった。
共産主義は愛に非ず、共産主義は敵を叩き潰す槌なり。
共産主義のハゲ 毛沢東




