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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第三章    天帝の御世    《紫緋紋綾》
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第二六七話    帝都にて Ⅰ





「ふふっ……」


 白き女帝が堪え切れないとばかりに笑声を零す。


 醜い傷の目立つ左手薬指を愛し気に撫でる姿は、絵画の如き美しさと当時に、隠し難い悍ましさを滲ませる。


 リディアは座席の対面で、その姿を黙して見つめるのみであった。


 姫将軍は帰還した。


 途中で遭遇した〈第二六四狙撃師団〉の斥候によって、リディアは発見され、共和国の領土を経由して帝国へ帰還する事に成功した。ユーリネンの後退戦に加え、リディアの既知を頼って皇国軍〈西方方面軍〉の防衛線の一部を、共和国側に展開する陸軍部隊と挟撃した事で撤退の機会が生まれた。


 幸運に恵まれたと言える。


 門閥貴族軍……厳密には〈南域征伐軍〉という巨大な餌を投げ出しての撤退であるが、彼らがエカテリーナから見て捨て石である事は明白である。門閥貴族の権勢を削ぐ為の計略に過ぎなかった。


「姉上、呼び付けておいて一時間も放置するのは酷いのでは?」


「あら、貴女。居たの? ……貴女も貴女で楽しんでるじゃない」


 リディアの手にした硝子杯(グラス)を一瞥したエカテリーナが苦笑を零す。敗戦によって立場が悪化している状況であるが、当人は(すこぶ)る上機嫌であった。瞳から滲む狂気を除けば、表面上は麗しの姫君である。


 リディアは用意されていたヴォトカの酒瓶(ボトル)の注ぎ口に、空にした硝子杯(グラス)を被せると、酒精交じりの笑声を以て誤魔化す。敗走からこの方、上質な酒精を口にする余裕も暇もなかった。止めることなどできよう筈もない。


 上機嫌のエカテリーナは侍女(メイド)を呼び付けると、追加でヴォトカを申し付ける。硝子杯(グラス)は二つ。酒豪の姫将軍に付き合う程の機嫌は前代未聞である。


「貴女が捕まえられなかった彼が、空から私に会いに来たの」


 傷付いた左手薬指を豊かな胸元に抱き寄せ、エカテリーナは白皙の美貌に霜解けの様な笑みを滲ませる。


 リディアは、その空から降り立つという神話の如き真似をしでかした少年の背中を思い起こす。



 サクラギ・トウカ。



 実に多面的な要素を見せる近代の英傑である。


 政戦に経済もできれば、弱者に暴力を振るう事を躊躇せず、敵国の首都を屠殺場に変える事を厭わない。為政者としての資質を備えた彼は、世界的な潮流すら生み出し始めている。


 だが、トウカは行方不明となった。


「しかし、その……トウカは行方不明だと……」


 言い難い事であるが、将官とて容易く戦死するのが戦争である。帝国陸軍は、今次戦役だけで実に四〇名を超える将官を失っている。門閥貴族の軍勢や海軍等も踏まえれば一〇〇は下らない。皇国軍とて例外ではなく、壊乱した師団などもある事から、複数の将官が戦死したと判断されている。


 それをエカテリーナが知らぬはずがないが、彼女はリディアの胸中を理解して一際大きい笑声を零す。


「彼なら、詰まらない死に方はしないでしょうね」


 行方不明というならば死んではないという根拠なき論法に、リディアは閉口するしかない。死ぬならば派手に諸々を巻き込んで盛大な悲劇を振りまくであろうという嫌な確信を否定できる要素はなく……寧ろ補強し得る要素ばかりが脳裏を(よぎ)る。


 運命や偶然という名の銃弾が、英傑の右胸を撃ち抜く先例がある事は歴史が示している。


 それを無視した上での発言に、リディアは夢見る乙女の片鱗を見て、何とも言えない表情を浮かべるが、脛への衝撃で表情を透明なものに戻す。ヒト離れした頑健な身体を持つとは言え、脛を蹴られては堪らない。


 侍女がヴォトカと硝子杯(グラス)を運んでくる光景を一瞥し、リディアは溜息を一つ。


「姉上、現状は宜しくありません」端的にリディアは言い放つ。


 実体験に基づく敗戦に加え、共和国戦線でも戦線の押し上げは停滞しつつある。


 役に立たない連合王国が共和国の後背を突いたものの、兵器供与と軍需工場建設への協力だけでは不足だった。弾倉を有した遊底動作(ボルトアクション)式小銃や、水冷式機関銃を装備した兵士が戦列歩兵の如く前進するという莫迦をやらかして、軒並み砲兵の餌食となっている。特に皇州同盟軍の戦訓を基にした自走砲が登場した事で陣地転換が容易となった共和国軍砲兵は、連合王国陸軍に対し、寡兵で優位な防衛戦を展開した。


 旧態依然とした指揮系統と部隊編制では、共和国の後背を食い破る事すら叶わず、工業地帯へ踏み込む事を期待した帝国の誤算は大なるものがある。


 ヴォトカの木栓(コルク)を抜き、リディアは二つの硝子杯(グラス)に酒精を注ぐ。


 二人は硝子杯(グラス)を掲げ、仄かに柑橘の薫る液体を口内へと押し込んだ。


 エカテリーナが口にするものだけあって、ただ度数があるというものではなく、柑橘の香り付けがなされており、自身が上品な生き物になったかと錯覚する程度には上質な風味であった。


 とはいえ、リディアは軍装の襟元を緩めて普段のだらしなさを見せる事を厭わない。


「国内に共産主義者、外敵に皇国と共和国……各所撃破すべきところを全方位に喧嘩を売るのでは――」


「――いいのよ、それで」


 リディアの言葉を遮り、エカテリーナは昏い瞳を眇めた。


「門閥貴族の私兵も軒並み屠殺できて、共産主義者の伸長に対応するべく陸軍を投じねばならない。そうなれば、政府や門閥貴族も停戦に合意する必要性を感じるでしょう?」


「しかし、姉上の立場も揺らぐのでは……」


 必要性は認めるが、エカテリーナの立場が悪化しては政治に影響力を及ぼせなくなる。


 皇国侵攻の失敗の犯人を求めて吹き荒れる粛清の嵐……賛成した陸軍高官や貴族の一部が追及を受けている。帝都が灰燼と帰した点を見ても、責任の所在を曖昧にし続ける事は難しく、その為に国内で暴力沙汰も尽きない。先日も帝国議会で貴族が激しく衝突したばかりである。


「あら? 私は勝算の高い戦略を示しただけよ。勝利を約束した訳ではないもの」


 責任者ではないと言い切るエカテリーナ。


 皇国との戦役での戦死者は七〇〇万名を超えると噂される。


 皇国本土に侵攻した将兵に加え、戦略爆撃を受けた複数都市や帝都の死者までが加わった推定数である。共和国戦線での戦死者が未だ二〇万名を超えない程度である事とは対照的であった。


「周囲は、そうと見ないでしょう」


「いいのよ。私の基盤である南部が無事なら。それに、土産も頂いたものね」


 危うい発言が続くエカテリーナに、リディアは眉を顰める。


 本来であれば、リディアもその発言の意味するところを理解できなかったであろう。


 しかし、巷に流布する話題を耳にしている為、思い当たる節があった。


「盆暗貴族共が噂してますよ。姉上が皇国の戦争屋と密約を交わした、と」


 リディアは溜息を一つ。


 帝都外れの離宮。その一角から窺える空はどこまでも青いが、リディアの胸中は雷雨吹き荒ぶ状況であった。


 エレンツィア空襲。それは帝国南部の貴族へ有利に働いた。


 戦時輸送だけでなく、食糧輸送の大動脈が絶たれたという意味合いが大きい。比較的食糧事情に余裕のある帝国南部の食糧を輸送できなくなる為、食糧は買い集めても輸送できずに倉庫で腐ることになる。


 他地方からの感情的な問題はあれど、現実的に見て現地で消費する事になるだろう。倉庫で腐らせるなど買い叩いた穀倉地帯である現地からすら顰蹙と隔意を招く行為に他ならない。


 エレンツィア空襲で食糧輸送の大動脈が寸断されてしまった事を奇貨として、エカテリーナは食糧の一部を利用した劣化の遅い加工食品の生産を指示し、付加価値を付けて備蓄する道を選んだ。


 しかし、長期的な保管が可能な様に加工食品とするとしても、鉄道輸送が不可能な状況では、他地方への輸送は難しい。


 そう主張する事で、鉄道の再建と新たな鉄道網構築に必要とする予算を門閥貴族や政府から勝ち得ていた。


 控えめに見ても恫喝である。


 帝国南部は加工食品にし難い食糧を現地消費する事で例年より余裕が生じ、加工食品は生産して保管。鉄道路線の再開を以て順次発送するという状況は、余りにもエカテリーナに有利な流れである。


 帝国南部の貴族はエカテリーナの権勢を認めつつある。


 状況を最大限に利用して、帝国南部の取り分を最大化したのだ。それを成せる手腕を持つものは少なく、何よりもそれに抵抗を示す門閥貴族は軍事力の大部分を失った。


「噂を流す程度しかできないという事よ」鼻で笑うエカテリーナ。


 優雅で瀟洒な佇まいであるが、そこに並々ならぬ努力がある事を、リディアは理解している。


 食糧加工品の製造工場が突然生える訳ではく、皇国侵攻当時より食糧加工品の工場は幾つも建設が開始されている。まるで見越したかのような動きであるが、実際は産業政策としてなされたものに過ぎない。数として不足している事に変わりないのだ。


「缶詰工場の労働環境を改善させた事も不満らしいですよ?」


「でしょうね。労働者の労働時間を制限して交代勤務にすれば、より多くの者に仕事を与える事ができる。まぁ、出費はかなり増えるのだけど、貴族や官僚が中抜きし難い平民への資金の撒き方だもの」批判されて当然と断言するエカテリーナ。


 エカテリーナが経営権を持つ工場での給与支払いに干渉できる貴族や官僚は少ない。官僚に関しては特に酷い者を生贄にして掣肘を加えている状況だが、帝国南部貴族の場合は、寧ろ工場への諸々の税金を免除して工場の誘致を図っている者が多い。


 統治の行き詰りから共産主義者主導で革命……叛乱が起きた領地での、貴族の悲惨な末路が彼らの積極性を生んだ。


 門閥貴族軍が通過の際に強制的に食糧を買い上げた影響もあり、帝国南部貴族は中央政府や門閥貴族の支援を期待できないと理解した。そして、自らが領民の食糧を確保せねば袋叩きにされて市中引き回しにされるとの焦燥感から、エカテリーナの計画に協力している。


 無論、叛乱が起きた貴族領の情報を積極的に流布したのが、完全のエカテリーナであるとリディアは確信している。


「資金を集め続けた理由はこれだったのですか?」


「そうよ。邪魔者を遮った上での産業育成。好機が来たのよ」常に準備はしてきたと語るエカテリーナ。


 対皇国戦役での甚大な被害と、国内での共産主義勢力跳梁により中央政府と門閥貴族は余裕と軍事力を多く失った。帝国南部への干渉は最小限とならざるを得ない。


「それに、共産主義は腹を空かせた者に響く妄想……二重の意味で私は状況の後押しを受けている」


「苦々しく思われるのも致し方ないと?」


 リディアの問いかけに、エカテリーナは小鳥の囀りの様に典雅な笑声を漏らす。


 一頻り笑い終え、ヴォトカで喉を潤す……焼いたエカテリーナは、話題を変えて応じる。


「貴女も風当たりが強いでしょう? 私は南部に戻るわ。貴女も来なさい」


 帝国南部以外への配慮を辞めつつある点への弁解はなく、エカテリーナは陣営構築を以て帝国内での政治権力増大に向けた姿勢を隠さない。既に隠せる段階ではなく、巧遅よりも拙速を以ての拡大がより有効だと判断した。


 それは、門閥貴族と事を構える覚悟をしたと言える。


「それは……軍を辞めろと?」


 厳密には陸軍元帥は終身官なので予備役編入という形になるが、現状では敗残の将に他ならないリディアは未だ責めを受けていない。


 無数の理由と状況が複雑に交錯した結果であるが、門閥貴族の連合軍までもが然したる戦果もなく敗走し、それを逃がすべく陸軍の〈南部鎮定軍〉が後衛戦闘を行ったという部分が大きい。結果は惨憺たるものであるが、陸軍は門閥貴族に貸しを作った形である。


 無論、帝族であるという理由で安易に罰せない……帝室への咎にまで踏み込む事を懸念したと見る平民も少なくないが、実際は帝族である事はこの場合、不利に働く。厳正な国家。信賞必罰は帝族でも例外ではないと示す為、リディアを処分するという意見も政府や宮廷貴族には一定数存在したのだ。


 しかし、リディアという将兵に絶大な人気を有し、皇国の軍神に肉薄した将官を失って国防に自信が持てないという陸軍の事情もあった。精鋭である〈南部鎮定軍〉の大部分を失い、門閥貴族までもが殲滅に等しい被害を受けた。この期に及んで泥沼化しつつある共産主義者の鎮圧で戦力を削がれる中、国境を護る戦力を低下させる真似はできない。


 帝国陸軍は、トウカに限界まで喰らい付いたリディアを評価している。


 厳密に言えば、トウカに迫っあった実勢を持ち、貴族将校を押さえ付け、政府の意向を跳ね除ける帝族将校という評価である。もし、〈南部鎮定軍〉が他の将校であれば貴族や政治の求める要素に配慮していれば、ベルゲンへの急進すらできずに包囲殲滅の憂き目にあっていたと判断されたのだ。


 無論、そう結論付ける事で、今次戦役の敗戦の責を政府や門閥貴族に負わせようという目論みがあったが、完全な濡れ衣という訳でもない。門閥貴族の雑兵が輜重線の負担を増大させた挙句、前時代的な大軍は航空攻撃の前に溶けて消えた。


「心配しなくても、彼なら暫くは踏み込んでこないでしょう」左手薬指を撫で、エカテリーナは囁く。


 軍事的に見れば、無理をしてでも踏み込むべき場面である。軍事を最優先してきたトウカであれば、帝国への逆侵攻を強攻するとリディアは考えていた。〈南部鎮定軍〉は帝国南部に侵攻したが、その戦果は強攻したが故に限定的であった。広範囲に被害が広がっている訳ではない。


「国内の立て直しですか?」


「あの国は近代国家よ。喪われて簡単に取り戻せるものばかりではないの」


 エカテリーナの推測に、リディアは首を傾げる。民間の生活水準を支える公共施設(インフラ)の充実はリディアも目にしていたが、確かに帝国とは質も量も違う為、修復は容易ではないと言われれば納得できるものがある。


「物流や通信も我が国とは大きく違うわ。高度であるが故に複雑……簡単には取り戻せない。我らが勇敢な不正規戦部隊も勇戦しているもの」


 不正規戦部隊……匪賊化した敗残兵を指しているだろうそれにリディアは眉を顰めるが、その敗北が自身の下で成されたという自覚から口を噤む。


 匪賊が跳梁跋扈する中では物流の復活は難しく、修理や補修を担う民間人も及び腰にならざるを得ない。


「それに、放置すれば共和国が消耗してくれるのよ? 少なくとも共和国と帝国の争いが収まる……寸前までは皇国にとって時間は友軍でしょう」


 客観的に見て、帝国の消耗を座視してからの攻勢がより効率的と言えた。


「エレンツィア空襲の被害で鉄道網……その大動脈が切断された事で輜重線が寸断された。共和国戦線の押し上げは難しくなったそうよ」


 停滞を余儀なくされた共和国戦線だが、逆撃に転じた共和国陸軍と一進一退の攻防が続いている。砲弾不足による砲兵火力の低下は、共和国軍に戦線整理の時間を与える結果となった。


「挙句に皇州同盟軍は連合王国戦線への航空艦隊派遣を示唆したそうよ」


「それは……」


 連合王国戦線へ航空艦隊が派遣されれば、共和国軍は反撃に転じる事は疑いなく、寧ろ旧態依然とした連合王国の軍備を粉砕し、首都へと雪崩れ込みかねない。航空攻撃の前では対空兵器なき地上部隊は的でしかなかった。


「皇州同盟は共和国と帝国を積極的に相争わせ、尚且つ、共和国に恩を売る心算なのでしょう……面白くないわ」


 先程までの機嫌が一転して拗ねた様に変わり、エカテリーナは唇を尖らせて頬杖を突く。


 それでも尚、美しさは損なわれず、可憐な仕草に変わる。麗人の特権は遺憾なく発揮されていた。


「貴女が即座に見抜ける程度の政略よ。彼じゃないわ。不在の根拠の一つね」


 陸軍元帥であるリディアに対して随分な物言いであるが、政略に秀でたエカテリーナの発言ともなれば否定する事も出来ない。軍事力行使という予算を必要とするそれではなく、示唆する事による恫喝で連合王国を抑止しようとしている点も、トウカのものとは思えぬものがある。トウカであれば、状況が許す限り潜在的脅威は漸減すると、リディアは確信していた。


 傍目から見れば、夫が行先を知らせずに家を出て不機嫌になる新妻というそれに、リディアはヴォトカを煽るしかない。


 リディアも両手で硝子杯(グラス)を掴み、ヴォトカを飲み干す。可愛げのある硝子杯(グラス)の持ち方に不釣り合いな呑み様であった。


「何処に居ると思うかしら?」


 酒精交じりの息を以て吐き捨てる様に問う白き女帝。


「はぁ……?」


 そんなことを聞かれても答えようがないリディアは、気の抜けた返事しか返せない。それが分かれば、諸勢力も苦労しない筈である。皇国国内の混乱の一部は帝国にも聞こえており、内戦再びかという期待を持つ将校も少なくない。状況次第では、帝国陸軍は立て直す時間を得る事ができる。


「共和国や神州国の可能性だって十分にある……我が国の労農赤軍と非公式協議だって有り得るわ」


「それは流石に……他国との協議や謀略の為に総司令官が他国に赴くなど軍事の常道に反します。酔っておられますよ、姉上」


「貴女こそ酔ってるでしょ、愚妹。天帝招聘を妨害する為に陸軍元帥が潜入任務なんて莫迦をやらかした……それが貴女よ」


「ぐふっ」


 リディアは「あの頃は若かったのです」と応じる。実情としては、兄の謀略に絡め取られた結果であり、エカテリーナもそれは理解していた。寧ろ、兄の謀略もエカテリーナが誘導したものではないかと、リディアは疑っている。


 そうした思惑を押し込み、リディアは純軍事的な視点で推測する。


「国内でしょう。次点で共和国。神州国は論外として、労農赤軍は捨て石です」


 共和国との連携は節々に見られるが、航空戦力による助力ばかりが目立ち、神州国は海洋国家であり現時点での脅威度は低い。労農赤軍は武器と資金さえ与えておけば良い。リディアの様な個人で突出した戦闘能力を有するのではなく、政戦両略のトウカに関しては、総司令部に詰めて影響力を行使される事が最大の脅威となる。


「まぁ、そうでしょうね。だからこそ、態々、行方不明を宣言する理由が読めない」エカテリーナは小首を傾げる。


 トウカの矛盾を読み切れない事を、エカテリーナは楽しんでいる。表面上は不機嫌を装っているが、その矛盾や謎すらも愛おしいという感情を滲ませていた。貴族の若者達が最近のエカテリーナには親しみを感じられると嘯いていたが、その理由をリディアは察する。


 ――なんだ。ただの恋煩いか。


 父に当たる帝王が何と言うか興味があるが、軍事的面倒が増えては堪らないので、リディアは胸の内に仕舞っておく事を決意する。


「まぁ、暫くは我々と帝国にも猶予があるのは重畳です」


 それすらも謀略であるという懸念を拭い切れないリディアは、懸念と恐怖を押し込むようにヴォトカを一息に煽る。


 対するエカテリーナは、その謀略すらも悦楽を以て迎え入れるのだろう。


 リディアは帝国の行く末を憂えた。











「帰還後に拘束されるかと思ったが……」


 ユーリネンは彫刻の様な表情を歪めて周囲を見渡す。


 帝国陸軍総司令部の赤煉瓦による瀟洒な洋館の如きそれは、先の帝都空襲の際の影響で半壊している。しかし、崩れる気配がないことから継続して運用されていた。主要部が地下にある事が幸いしたという点もあるが、総司令部が帝都から離れた地域に居を構えるというのは、敗北を認める事と同義と捉えられかねない。風評を恐れて、総司令部は未だ意地を見せていた。


 ――愚かな事だ。


 戦略爆撃が標的にしたのは付近の通信施設であり、それは巨大な空中線(アンテナ)が目印として機能したからであった。その爆撃が外れて陸軍総司令部を直撃した。利便性を追求して重要施設を集中した代償と言える。


 もう一度、空襲があれば、陸軍は指揮系統を喪失する事になりかねない。


 尤も、中央政府や門閥貴族に戦略や指揮系統を恣意的に歪められる事を許すのならば、一度壊滅した後、新進気鋭の将官を主体として再構築させるべきである。革新性の名の下に、暴力的なまでに既存の能力以外の要素で抜擢された人事を覆し始めるだろう。混乱で暫くは軍事行動が儘ならなくなるが、後の被害を踏まえればやむを得ぬ事である。今、この時、大きな混乱時こそが、積極的な人材登用の好機なのだ。


 しかし、未曽有の混乱は想像を絶する規模であった。


 陸軍人事の再編制を行うには被害が甚大に過ぎ、書類上にのみ存在する無数の師団や将官……人事変更と野戦昇進させた端から戦死の報が届く中での人事が容易なはずもない。皇国との戦争は銃後すらも巻き込み、後方支援を担う人材にも多大な被害を与えた。オスロスクを始めとした三都市への空襲では、皇国侵攻の為の兵站の要衝であった事もあり、後方勤務者も多く巻き込まれた。


 優秀な士官が軒並み神々の御許へと転属したと言える。


 皇国侵攻の為に編制された〈南部鎮定軍〉は帝国陸軍の最精鋭を集結させた戦力であった。リディアが求める要求の結果という事もあるが、陸軍総司令部の思惑としては、皇国侵攻に於ける戦果を以て実力ある将校を昇格させ、門閥貴族出身の将校比率を低減させる事を目論んでいたが、現実は実力を持ちながらも機会を得られなかった将校達を軒並み火葬場に投げ込むも同然の結末を見る。


 皇国の軍神曰く屠殺場となった皇国北部は、帝国陸軍の未来をも閉ざした。


 少なくとも、そう考えていることは陸軍総司令部周辺を行き交う将兵の表情を見れば理解できる。赤煉瓦主体で構築された見目麗しい地区は煤と炎に捲かれて薄黒く染まり、焼け焦げた臭いが肺を犯すが、それだけが理由ではない。


 気分が滅入る、とユーリネンは軍帽を被り直すと、衛兵の誰何に朗々と応じ、総司令部の敷地内へと足を踏み入れる。


「お待ちしておりました、ユーリネン中将閣下」


 荒れ果てた庭園を横目に歩くユーリネンに敬礼する見目麗しい女性将校。


 階級章は中佐を示し、その顔立ちに既視感を覚えたものの、ユーリネンは喉を鳴らして答礼するに留める。軍階級と宮廷序列が不可分の帝国では、階級章を以て居丈高に振舞う真似はできない。特に貴族然とした立ち振る舞いの将校ともなれば猶更である。立ち振る舞いは短期間では容易に身に付かない。


 美しい女性……典型的な帝国子女とも言える容姿の中佐は、ユーリネンの疑念を察して口を開く。


「陸軍総司令部付、調整官。ナタリア・ケレンスカヤ中佐です。閣下の御案内を申し付けられました。何なりと御用命を」


 緩やかな笑みを湛えた言葉に、ユーリネンは何とも言えない表情をするしかない。


 ナタリアを以前に見かけた事を思い出したからである。


「そうか、そうだ。貴官、確かトラヴァルト元帥の……」


「はい、副官……の様な事をしておりました」


 些か不明瞭な物言いであるが、副官というには距離が近く、〈南部鎮定軍〉がエルライン回廊攻略戦の最中に在っても帝都との連絡を担う立場として、頻繁に姿を消していた為、ユーリネンは覚えがあった。


 ――トラヴァルト元帥に近く、帝都の有力者にも繋がっている可能性がある。


 姓名から貴族でない事は明白だが、有力者に伝手を持つ人物である以上、軽視し得ぬものがある。


「昇進、おめでとう。ケレンスカヤ中佐」


「有難うございます、閣下。昇進を祝って下さったのは閣下だけです」


 曖昧な表情で感謝を口にするケレンスカヤに、ユーリネンは言葉を返さない。返答に悩んだ。


 二人は総司令部建屋に足を踏み入れる。


 昇進が単純に喜ばしい事であるとは限らないのが戦時下である。何かの代償、或いは補填としての昇進もあれば、口封じの為に、若しくは死地へと赴かせる為の餞別という場合もあった。であるからこそ、帝国軍人には政治的感覚が必要とされる。政敵の思惑で貴族将校が死傷率の高い戦線の部隊に配属される例は枚挙に暇がない。


 ――ふむ、女の場合は異性との縺れもあるが……


 考えれば考えるほどに理解が遠のくと判断したユーリネンは、早々に思考を放棄する。


 自らの生命を心配せねばならない立場に在る身の上で、他者の背景に時間を割く余裕はない。


 副官を連れて訪れなかった理由もそこにある。


 無論、帝都に獣人系種族のリーリャを連れ立って訪れる危険性を理解していたからでもあるが、いざとなれば銃撃戦を承知で撤退しなけれがならない。彼は国家の為に死ぬ気もなければ、然したる交流のない他者の為に生命を投げ出す奇特な人物でもなかった。


 世界的に見て、遅い春が訪れた帝都であるにも関わらず、冬用の軍用長外套(ロングコート)を身に纏っている理由はそこにある。下には皇国から持ち帰った短機関銃を吊り下げていた。


「此方です」


 案内を受けて複雑な屋内を進んだ果てに、一際と厳重な鉄扉の前で止められたユーリネンは、前に立つ衛兵に視線を向ける。総司令部警備に相応しいだけの眼光と隙の窺えない所作は称賛に値するが、円型弾倉(ドラムマガジン)を構える様は滑稽に感じる。


 伸縮銃床を備えた短機関銃の集弾性と低反動(リコイル)による優位性を備えた皇国性の短機関銃が相手では不利は免れない。挙句に、皇国臣民の大部分は諸外国の国民と比して膂力に優れる。人間種と法律上は定義されていても四世代前の混血は少々の恩恵を齎す。そうした者達が扱えば、命中率は大きく向上する。


 帝国にこそ短機関銃は必要なのだ。


 ――なんとも、まぁ軍神も意地が悪い。


 帝国に必要なものを製造し、対帝国戦役に投入するという皮肉。授業料は数百万の生命。皇国の新聞の内容通りであるならば、軍神は大層な皮肉屋であるが、それは相手を選ばぬ狂信とも言えた。


 膂力に劣る人間種に合わせた設計思想による性能低下に目を瞑ってまでも汎用性を堅持するという合理主義者。だからこそ帝国を分断するかの如き政戦を展開する軍神に対する術をユーリネンは思いつかない。


 否、実際は思いついていた。


 最早、帝国という肥大化した国家を分割するしかないのだ。


 最小限の被害とするべく、利益の生じない土地と国民を積極的に放棄し、棄民政策を推し進める。生産に寄与しない土地と国民を削り、財政健全化と国境線の縮小を行う事で戦線整理と緩衝地帯成立を断行するしかない。無論、その必要性を認める事も、実行する事も容易ではない。愛国心も帰属意識もないユーリネンであるからこそ下せる客観的判断であった。


 結論として、帝国は無様に分裂するだろう。


「閣下、申し訳ありませんが武器の携帯は……」


 ナタリアが、ユーリネンが腰に佩いた曲剣(サーベル)に視線を向ける。


 流石に総司令部ともなれば、武装解除を求められるのも致し方ない。国内の擾乱から暗殺事件が相次いでいる事もそうした動きに拍車を掛けた。


 ――ふむ、やはりそう上手くはいかないか。


「ああ、これも忘れていたよ」


 ユーリネンは皇国製の短機関銃の弾倉を抜き、用意された机に置いた。


 誤解を招く動きを見せることは得策ではない。糾弾され、そのまま処刑場に送られるなどという真似は、流石の帝国にも“あまり”ない事であるが皆無ではない。何より、帝都内に擬装浸透させた隷下部隊が存在する。民衆に紛れた一個中隊だが、種族的特徴を隠した獣人系種族の戦闘能力は帝国軍の戦闘単位で見ると高い。その上、装備は鹵獲した皇国製装備で統一している。時間を過ぎれば突入する算段となっていた。


 衛兵とナタリアは、何とも言えない表情をする。


 他国製の装備……それも将校が装備するには過剰なそれに対する驚きであろうが、ユーリネンとしては、自らが手段を問わず、装備を整えているという事実を伝えるには良い機会であった。


 野心や危険性を気取られても、武力と武名を謗られてはならない。


 荒廃する国家で最大の抑止力となる要素を易々と捨てる真似はできない。


 何より、エカテリーナやリディアが好意的である事は、帰還後の扱いから容易に想像できた。生粋の軍人ではない配慮というものは、軍歴の長い者には察するに易い。部隊への勲章授与や配給、恩賞などの規模や種類は無名の篤志の(かお)を形作る。


「貴官らもそんな当たりもしない玩具ではなく、使えるものを装備させるように上申しなさい」


 渾身の笑顔を以てユーリネンは軍帽を被り直す。


 顔を見合わせて、どう返答したものかと悩む彼らを尻目に、ユーリネンはナタリアに「もう入室してもいいのかな?」と肩を竦めて見せる。上官を待たせるのかという催促がそこにはあった。


 ぎこちなく頷いたナタリアに、衛兵が両開きの扉を開ける。


「ふむ、扉があるのか。帝都はまだ余裕があるという事だな」立派にして頑丈な扉板を見て、ユーリネンは鼻を鳴らす。


「それは一体……」


 司令部へと続く秘書室へ足を踏み入れた二人。


「空襲が続けば、担架も足りぬし、諸共に吹き飛ばされる。だから、そこいらの扉を手当たり次第に拝借して使うのだよ」


 後送の規模が拡大し、後送する兵士や衛生兵も航空騎は容易く射程に収める。前線を超えて、後方に高速で浸透するそれは、負傷兵の生存率を大いに低下させた。荷物となり重量物として扱われる負傷兵の輸送で迅速に対応するというのは難しく、地上襲撃の格好の標的となったのだ。


 執務室へと続く扉が秘書官によって開けられる光景に、ユーリネンは軍帽を脱いで小脇に抱えると、口を開こうとした秘書官を制する。


「〈第二六四狙撃師団〉、師団長。アレクサンドル・ドミトリエヴィチ・ユーリネン中将。御呼びとの事で罷り越しました」


 ユーリネンは良く通る声音を敢えて張り上げ、閉ざされた扉に入室許可を求める。


「同胞に閉ざす扉はない。入りなさい」


 想像とは違う柔和な声音に、ユーリネンは僅かな驚きを覚えつつも、秘書官によって開けられた扉を潜る。




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