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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第三章    天帝の御世    《紫緋紋綾》

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第二六六話    皇都にて 漆




 応接椅子に座るトウカが、紅茶を啜りながら新聞に目を通している。


 その光景を、食器を洗いながら窺い見るクレア。


 朝食を作り、二人で口にするという行為に遅まきながら羞恥を覚えた為、調理場(キッチン)越しに声を掛ける真似などできる筈もない。


 ――夫婦みたい……ですね。


 小説でよく目にする光景に、クレアは実在したのかと思いつつも、最後の皿を水切り(ラック)へと置く。


 前掛け(エプロン)で両手を拭きながら居間へと進む。


 壁時計を見れば、出勤の時間である。


「何をしているのか……」トウカの囁き。


 新聞記事の三面記事には、怒れる海軍、と大きな表題が印刷されている。航行中の〈皇海艦隊〉旗艦、戦艦〈|魔臣ゲルラッハ(Gerlach_dea_kamrill)〉の動画が掲載されていた。


 海軍の混乱は著しいものがある。


 その経緯は、戦後を謳い予算削減を嘯く衆議院の一部に加え、帝国軍による侵攻を受けた結果、陸軍偏重となった軍事費を許容した大蔵府により、海軍予算が戦前よりも減少する事となった為である。


 それを恐れて、トウカは帝都空襲の陽動などを名目に帝国海軍との艦隊決戦を実施したのだが、政治家には、そうした政戦に於ける機微が理解できなかった。クレアも政治が理解しないとは予想していなかったので想定外に他ならない。


 対帝国戦役の戦歴を見ても分かる通り、トウカは海洋戦略を重視している。本来、活躍の余地がなかったと言っても過言ではない大陸国家・帝国との戦役で、水上部隊を積極的に運用した事からもそれは窺い知れる。


 海軍は組織内の急進的な勢力……艦隊派に賛同せざるを得なかった。艦隊や戦隊毎、下手をすれば個艦で賛同した挙句に皇都へ艦砲射撃する恐れがあった為である。そうなれば収拾がつかぬ無秩序に陥る。それならばと、海軍府長官は積極的に怒気を示し、その下で統制の取れた不満を演出するしかなかった。


 エッフェンベルク海軍府長官は政将とも言える、政治や軍政に秀でた人物である事が、皇国の議会制度を救った。


 その配慮がなくば、大蔵府と国会は今頃艦砲射撃によって焼け落ちていた事は疑いない。


 その中で、海軍は皇州同盟に急接近している。


 議会がフェルゼンで改修中の〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦二隻や、重巡洋艦以下の予備役に在った艦艇を再就役させる計画への予算まで削減されようとしている中、皇州同盟は減少した予算分を肩代わりする形で計画を継続している。海軍がこれに深く恩義を感じていた。


 皇州同盟にも海軍の建艦計画を支援せねばならない事情がある。


 建艦計画というのは、数年越しのものであり、莫大な予算と人材、資材が動く一大事業である。その一部を皇州同盟の勢力圏である北部で行うという事は、巨大な人材の流入と物流が生じるという事であり、それは各分野に波及する。工員の住居や食料、娯楽や嗜好品、生活雑貨……あらゆるものが消費され、需要が拡大する。そうなれば、それらを遠方で生産するのは非効率であり、近傍での生産へと帰結するのは経済的合理性から当然であった。


 既に初期投資として造船所や軍港を拡大している都合もあり、皇州同盟にも止まれない事情がある。金銭、物資とヒトを流入させる為、復興だけでなく、あらゆる事業を試みようとしているのだ。積極的……自殺的なまでの積極的財政は、兵器輸出や工業製品の利益を見込んだものと公表されているが、実情は戦後の株式取引によって得た含み益や、各種軍事技術を担保とした借り入れによって大部分が維持されている綱渡りに他ならない。


 他国の銀行にまで軍事技術を担保として借り入れを図る狂気。


 その狂気を振り翳し、技術漏洩を避けたくば無利子無担保で資金を寄越せと中央貴族を強請るセルアノの手腕は卓越したものと言えた。


 兎にも角にも、海軍は激怒し、皇州同盟は政府の不手際を補填する姿勢を見せている。


「まぁ、俺の責任でもあろうな……」


「閣下……」


 自らの不在による混乱を悔いるそれに、クレアは胸が締め付けられる。


 総てから逃げ出しても、彼は国防に、戦野に関わる事にある種の義務感を抱いている。何がそうさせたのか。或いは、後戻りできなくなったのか。クレアには分からないが、それは退役軍人に少なからず見受けられるものであった。


「中将か……何だ? まさか、俺が逃げ出した責任に嘆いているとでも思ったのか?」


 クレアに気付いたトウカが苦笑する。


「そうではない。総司令官の不在程度を補い得ないならば、所詮、それまでだ」トウカは軽やかな笑声を零す。その声音には一抹の寂寥感があった。


「俺の不在が責任などとは思わない。個人の不在程度で海軍組織の屋台骨が揺らぐのは組織構造の不備だ。俺の知るところじゃない」


「では」


 クレアは、海軍が地方軍閥に依存している事実を嘲笑したのかと考えたが、トウカの憂鬱な表情はそれを正解とは思わせない。


「〈ヘルミーネ〉型遊撃艦だろうな。あれの量産計画で政府は近海防衛が成せると見たんだろう……莫迦共め」


 遊撃艦計画は海軍の基地航空隊増強……陸上攻撃騎部隊の拡充と共に、立案された近海での漸減作戦を可能と成さしめる戦力増強計画の一つである。


 簡易船体構造によって量産性を重視し、数を揃えたそれによる皇海の閉塞作戦は、敵艦隊の皇都直撃を阻止する手段の一つでしかない。


 航空艦隊による波状攻撃による敵艦隊への波状攻撃と、友軍〈聨合艦隊〉による追撃戦こそが、神州国海軍要撃の根幹であった。そもそも、艦隊なくば反撃の余地がなくなる。


 遊撃艦は外洋に進出する船体規模ではなく、長期間の作戦行動を可能とするだけの艦内設備も有していない。速度に優れるが、追撃任務には向かなかった。


 飽く迄も皇海という限定空間で活躍できる兵器に過ぎない。


「それは……閣下が提示した計画艦なのです。過大な期待は致し方ないかと」


 クレアとしては衆議院の意見も致し方ないものがあると見ていた。


 巷の軍神が計画した兵器を量産すれば防衛は可能ではないのかと、軍事の素人が考えるのは致し方ないものがある。加えて、海上優勢著しい神州国海軍を相手に、近海防衛前提の皇国海軍が近海を超えて展開する戦力を、多額の予算を掛けて整備する事に疑問を抱く事は致し方ない部分もあった。


「俺が示せば、全てが上手くいくなどという保証はないだろうに」


「しかし、軍事では閣下でも絶大な成果を出されております」


 威光に縋るかの如く先駆者の示したモノを過大視するのは、人の世の常である。当事者には分かり難い事であり、トウカは特にその傾向があった。


「負け戦も引き分けも、副次目標の成功を強調して勝利だと嘯いた俺に騙された連中が……」


 当人にとっては意外なのだろうと、クレアは判断する。


 敵であった男を受け入れ容れる度量を持たぬにも関わらず、その男の計画を受け入れるという矛盾。無論、政治は政敵を叩けるならばあらゆるものを動員する側面を持つ。例え、それが政敵の主張する計画であっても例外ではない。


「入れ知恵をした奴がいるな」


「……そうですね。機転が利くとなると話が変わりますので」


 そこに目を付けた事実。クレアはトウカの嗅覚や直感とでも言うべきものに政戦両略の片鱗を見た。計画を利用するとは思えぬ相手が利用した以上、それを実現させた相手がいる。そして、その人物は議員という集団を誘導してそれを成し、自らは姿を見せない。


 政治家は売名の為に手段を問わないが、政敵の模倣や追従は厭う傾向にある。迎合と取られかねないという事もあるが、二番手は話題性に乏しく費用対効果で割に合わないからであった。二番煎じが話題性を確保するには相応の要素を追加せねばならない。


 実施者が考案者とは限らない。特に政治はそうした例が多々ある。


「調べましょうか?」前掛け(エプロン)を脱ぎながら、クレアは問う。


「今更だ。政治は俺のものではなくなった」トウカは首を横に振る。


 幾語か言い募るものの、穏やかな表情に、クレアの言葉は竜頭蛇尾に終わる。


 本来のトウカは苛烈な人物ではないのかも知れないと、クレアはその姿を見て卓上の軍帽を手に取り被る。


 ――私も個人として接するべきでしょうか?


「では、閣下……いえ、サクラギ卿。私は軍務に参ります。合鍵を渡しますので……」


「……そうか」青年の逡巡。


 クレアは合鍵を卓上に置き、敬礼……しようとして辞める。上官に対する姿勢の染み付いたそれは、今暫く直す事に苦労しそうであった。


「貴官に武運を」


 木漏れ日の差し込む居間。トウカの言葉を背に受け、クレアは出勤した。









「貴女……思ったより冷静なのね?」


 リシアは首を傾げて見せる。


 そこには多分に皮肉を含んでいるが、その一言を受けた憲兵総監は動じない。


 皇都憲兵隊司令部を訪問し、トウカの行方不明に於ける“公式発表”の経緯をクレアに説明したが、反応が鈍い事にリシアは苛立つ。大規模防空演習での憲兵隊動員の経緯を尋ねようとしていたが、クレアは陸軍府からの命令に従っただけであるとしか返さない。


「私はセラフィム公の回し者ですよ? まさか、知らぬと思っておられましたか?」


 紅茶を嗜む姿は深窓の令嬢とも思えるが、クレアには以前にも増して鋭さがあった。


 憲兵として極めて優秀な人物とされるクレアだが、リシアは彼女を警務官寄りの人物であると考えていた。戦時下の憲兵としては苛烈さが足りないと見ていたからである。


 秩序を重視していると言えば聞こえは良いが、戦時下の軍人は超法規的判断の連続である。予防的な判断を以て、事を成す必要性もあった。


 しかし、クレアは優秀であるものの、そうした判断ができない。無論、憲兵にそうした判断が必要とされる局面が多々ある事は問題であるが、リシアは内戦時以前から帝国の間諜の跳梁を許していた事から評価し難いと考えていた。彼女にとり、間諜の跳梁を許した時点で憲兵の評価は大きく低下している。


 義務を果たさぬ者に厳しいのは軍神の御代からの“伝統”である。


 リシアであれば、怪しげな振る舞いをした者を軒並み逮捕拘禁していた。クレアも重装憲兵隊によって反社会勢力を蹂躙した経歴があるものの、内戦中や皇都ではそうした姿勢は垣間見えない。


 内戦中、経済的萎縮を理由に低調だった間諜摘発は、憲兵ではなく情報部による防諜戦となっていたが、内戦突入前に苛烈な摘発に転換すべきだった。軍事的敗北が続けば経済基盤そのものが吹き飛ぶというのに、配慮などしている余地はない。皇州同盟が滅亡したならば、経済も滅亡するのだ。


 だが、彼女には北部が失われても再起できる場所がある。


 クレアは北部出身者ではないのだ。


 トウカの如く、苛烈に戦火に身を晒した者でしか信用を置かない。それはリシアだけではなく、長きに渡り不遇を強いられていた北部出身の軍人に見られる傾向である。


 トウカとマリアベルが、クレアの方針を咎めなかった事も、リシアは気に入らなかった。そう、気に入らないという感情がそこにはある。


 総力戦を口にしながらも、経済に配慮した形で、という文言をリシアは嫌悪している。


 企業が議会に影響力を行使し、労働者の権利と給与を抑え込もうとする姿は長く続いている。北部の様に領主主導による企業運営にするべきと、経済は国家や地方領主の統制下に在って然るべきと、リシアは考えていた。国家の保全より企業の利益

を追求する議員など謀殺して然るべきであるとすら吹聴している。


 リシアはトウカへの愛情を隠さないが、同時に全てに納得と同意をしている訳でもない。


「どう動くのかしら? 北部の混乱は抑えられた。でも、全ては帝国の謀略という事になる」


 つまるところは、それである。


 ヨエルの動きが分からない。意図も不明である。皇州同盟は、その点を危険視していた。


「中央は戦後復興の予算を握り締めて、それを抑えようとするでしょう」


 中央貴族や政府は帝国軍の戦力を漸減したと判断し、帝国領への侵攻に否定的である。少なくとも二〇年程度の猶予があるとみて、北部の復興と経済の立て直しを主張していた。


「あれだけ軍事予算を削っておいて、経済の一つも立て直せなかった連中を北部は信じない。……引かないわよ?」


 北部としては、軍事費を減少させた挙句に経済の立て直しも失敗した政府に対しての期待などなく、今一度、そうした努力を許す心算は毛頭なかった。これは皇州同盟に限らず、北部臣民の一般的な意見ですらある。


 意外な事に、クレアも「そうですね」と同意する。


 少なくとも政府の経済政策が成功するとは見ていないとの言葉に、リシアは虚を突かれる。


「中央貴族や政府は、北部の消耗を好機と見ています。……ですが、政府の焦燥に付き合っても良いのではないでしょうか?」


「帝国侵攻を遅らせるべきということ?」リシアは眉を顰める。


 しかし、同時に現状の戦力で帝国軍に挑む事は疲弊を押しての軍事行動となるのも事実である。同時に、現状の戦況を踏まえれば、共和国との連携が期待できた。現に共和国からは帝国侵攻に対する要請を、皇国政府と皇州同盟に矢の如く続けている。


「一か月後に統一選挙があります。結果は見るべくもないでしょう」


 左派の無策で本土侵略を許し、あまつさえ天帝招聘の儀に間諜の干渉を許した。


 右派と皇州同盟の言い分であり、前者は軍事費削減を指し、後者も失敗自体が明らかになった事で左派は致命傷を受けている。後者に関しては弁解の余地があるものの、皇州同盟は皇都に本社を置く主要新聞社に影響力を発揮して、声高に左派の不手際を喧伝していた。一つの大きな失敗を成した者が猜疑の目を向けられるのは当然で、皇州同盟軍情報部はそこに付け込む形で左派に罪を着せた。


 次回の統一選挙で左派は大きく議席を減らす事になる。確定事項であった。


 リシアは応接椅子に深く腰掛け、溜息を一つ。


 北部は統一選挙を伝統的に重視しない。人口比から北部は軽視され、国会議員に選出される数は僅かで、北部の主張が大勢を占めることはないからである。それはリシアも例外ではなく、選挙結果など気にも留めていなかった。


「セラフィム公も、そのあたりを重視しているのかも知れませんね」


「……貴方、どちら側なのよ? 胡散臭いわね」


 漏らす事を避けているのか、或いは本当に知らないのか判断しかねたリシアがぼやく。


 他人事であるかの様な視点。ヨエルの行動に対して予測や推測らしき意見が続くとなると、リシアは然して情報を持っていないのではないかと判断せざるを得ない。


「どちらかと言われましても……無論、サクラギ元帥閣下に受けた恩顧を返さねばならないと固く誓っておりますが」


 そこだけは信用できる事が、リシアのクレアに対する評価や状況を理解し難くしている。


 トウカへの思慕を健気なまでに見せるクレア……視線や表情のそれが憲兵ではなくなる為、周囲には察している者も少なくない。


「セラフィム公は優れた政略家です。皇州同盟との橋渡しを望む相手に必要以上の情報は与えませんよ」苦笑を零すクレア。


 舞踏会でも幾度と猜疑を向けられた為、既に慣れていたクレアは、動じることもなく、リシアの言葉に正論を返す。


優れた政略家の天使。


「……まさか、あの天使が政権を取りに掛かる?」


 政略家としての実力と実績の果て。その行き着く先は政治権力の確保である。


 議席を一度の選挙で十分に確保して、政党を形成するというのは皇国成立以来前例がないが、熾天使ヨエルであれば不可能とは言い切れない。それだけの影響力が皇国開闢以来の公爵家と天使系種族の統率者という肩書にはある。


「あくまでも予想ですが……情報部を使って確認してはどうでしょうか? 複数人を立候補するのです。何かと入用でしょう」


 天使系種族の種族的紐帯が全体主義者も顔を引き攣らせる程のものである事は疑いないが、選挙ともなれば得票数の問題から単一種族の専有物とはし難い。選挙準備に関わる発注や物品の確保。人員や各方面への協力要請を完全に非公式得票数し続ける事は現実的ではなかった。


「そうなると、状況は変わるわね」


「ええ、天使種は政権で主導権を取る事になるかと」


 全体主義者が羨望して已まない統一された意志による政治体制の成立である。人間には成し得ない形での全体主義とも言えるが。


「恐らく……クルワッハ公との連携があるかと思います」


 有翼種全体での政権獲得を目指すという名目での連携は有り得ぬ事ではなかった。航空優勢の顕在化以降、常に噂はあった上に、航空兵力の拡充と保持には多くの有翼種の協力を必要とする。それと引き換えという形での権利拡大は、トウカも黙認する姿勢を見せていた。


「それは! ……いや、あの糞爺……まさか」


 リシアは、知らぬ存ぜぬを通しながらも、己を上手く誘導しているのではないかと疑う。


 アーダルベルトは嘘を口にはしないが、誤解を誘う真似はする。嘘も方便と嘯くトウカよりも性質が悪い。


「困りますね。貴女の後ろに仮装行列の様に間諜が行軍しています」


 この司令部にも張り込んでいますよ、とクレアが苦笑する様に、リシアは頬を引き攣らせる。


 ヨエルとアーダルベルトの連携を訝しむ勢力が、リシアを監視する事は理に適う。リシアとアーダルベルトの表面上の関係は非公式なものではなく、式典や会議で言葉を交わす事も少なくない。近しい関係であると見る者がいても不思議ではなかった。


「何かしら理由を付けて、逮捕拘禁して頂戴」


「もうしております。情報参謀を付け回すまでは許しますが、憲兵の牙城を見張るが如き真似を赦す訳には行きませんから。尤も陸軍や我が軍の情報部も混じっていますので」挽肉にして主犯格に郵送する訳にも行かない、とクレアは用意された焼き菓子を頬張る。


 中々に過激な人物であると、クレアの評価を上方修正しつつ、リシアは席を立つ。


 アーダルベルトが周囲の間諜をリシアとクレアに誘導する為、二人での密会を漏洩させたと見れば無理はない。リシアとアーダルベルトの密会があり、一般的に連携していると見られているヨエルに近しいクレアと、リシアが接触する。何かあると考えるのは無理からぬ事である。


 アーダルベルトとヨエルが顔を合わせては周囲を刺激すると考え、互いに信頼の置ける者を代理で会合させた。辻褄は合う。


 だが、実情として、そうした事実はない。


 クレアも詳しい事情を知っている様にも見えず、二人は注目を受け、結果として間諜を押し付けられたに過ぎなかった。それ以外の意図はリシアには見えない。


「セラフィム公の軍事支援を今後も取り付けられるか聞きたかったのだけれど」


「選挙に勝てば、軍拡路線は必至。それを理由に開戦時期を遅らせるのが現実的ですね」数年後であれば、セラフィム公も頷かれるでしょうと、クレアは付け加える。


 確かに現状の軍備の儘に殴り付けるには、未だ帝国という国家は強大に過ぎた。共和国とも交戦し、帝都空襲を受け、掻き集めた航空戦力を漸減された今この時、好機ではある。


 だが、皇国もまた疲弊している。特に陸軍や皇州同盟軍の再編制は未だ完了しておらず、本音を言えばあと五年あれば強大な戦力を整備できる。帝国侵攻に於ける後背地となる北部に軍需産業の一大拠点を誘致して、産業の起点とする事も望めた。


 しかし、戦勝によって帝国への報復を叫ぶ者も少なくないのが現実である。


 北部は余りにも多くを喪い過ぎた。傷を癒す時間が必要であるが、喪って報復を叫ぶ者とて少なくない。それを同時に成せる程に北部経済は強大ではないが、それを理解する者、或いは理解をしようとする者は多くない。


 北部は一度、奇蹟を見た。


 無邪気にも二度目があると信じている。その奇蹟の体現者は喪われたというのに。


「取り敢えず、資源集中で戦略爆撃騎部隊を拡充させて、戦略爆撃を本格化させるべきでしょう。航続距離内の中都市以上を焼くべきかと」


 理には叶う上、その意図を以てして、リシアも口添えした都市攻撃が行われた。共和国支援を意図した輜重線寸断や国内に於ける食糧の鉄道輸送阻害を目的とした都市への戦略爆撃……エレンツィア大空襲。新機軸の装備などを盛り込んだ上、艦載砲の榴弾を改造した爆弾まで急造して強行したが、装備の問題点や航空爆弾の不足が顕在化した。


 何より、ベルセリカが民間人の殺傷を目的とした都市攻撃に否定的である。


「……簡単に言ってくれるわね」


 剣聖の説得は難しい。トウカでなければできない。


 皇州同盟軍航空参謀のキルヒシュラーガー少将も、装備と練度……何よりも知見の不足から反対している。クルワッハ公の支援が航空戦力の増強に具体的効果を表すまでは避けたいというのが主張である。代替を用意する事が難しい中で、実戦経験のある戦力を消耗させたくはないとの意見は尤もで、後の戦略爆撃騎部隊育成に響く。


 何より、キルヒシュラーガー少将は、百騎程度の戦略爆撃騎部隊で帝国南部の中都市以上を全て焼き払うには年単位の時間を要する点を問題視した。戦略爆撃騎自体の疲労に加え、対策を打たれた場合、それを避けるべく高高度爆撃となるが、その際の命中精度を保証できないとの主張がなされている。


「もし、戦略爆撃を強行するならば、最低でも六〇〇騎は必要ですか?」


「あら、会議での紛糾も知ってるのかしら?」


 トウカの下で計画されていた戦略爆撃作戦の一部であったエレンツィア空襲だが、キルヒシュラーガー少将は頑強に抵抗した。


 共和国が帝国に屈した場合、皇国西部まで帝国と国境を面する。戦線の増加は戦力の分散を招く上、現状の皇国にその余裕はなかった。加えて、国内情勢での不利が目立つ中、共和国との連携の余地は残して起きたいとの政務部の判断もある。


 それらを踏まえた上で、尤も費用対効果(コストパフォーマンス)に優れている作戦計画が、エレンツィア空襲であった。


 地上侵攻を前提とした作戦では準備期間が長く、前線で帝国の過大な反応を招く恐れもある。地上戦の大規模化と長期化を招きかねない。


 対する戦略爆撃であれば、敵中深くへの航空攻撃であり、投入戦力と費用を抑えられる上、輜重線寸断と食糧危機からなる不和を期待できる。


 両者の意見は真っ向から対立した。


 どちらの意見にも理がある。


 参謀の八割は戦線増加という言葉を重く見てリシアに賛同したが、二割は現状で補充の利かない戦略爆撃騎の消耗を恐れてキルヒシュラーガーに賛同した。


「私、キルヒシュラーガー少将に平手打ちされたわ」


「存じております。殴り返したとか」


 元より戦略爆撃という敵の継戦意志を挫くという建前のそれが、実情として民間人の大量虐殺であるとキルヒシュラーガーやベルセリカは理解している。他の参謀達は知った上で構いなしと断言する急進的な軍人達だった。トウカの選択した参謀将校達なのだ。能力に秀でているという事もあるが、軍事的妥当性が人理や道徳を優越すると信じて已まない面々であった。そうした姿勢は、平時では往々にして人格面に問題ありとの烙印を押されるが、トウカが彼らを評価し、参謀将校として引き上げた。


 故に参謀将校達は、トウカが帝国軍に襲撃を受けた事を激怒している。


 自らを評価し、引き上げ、活躍の場まで与えた。


 そうした人物を喪った彼らは怒髪天を衝くと表現して差し支えない意見を口にする事を躊躇せず、当時に不安を感じていた。


 ベルセリカは(いにしえ)の騎士である。


 資本主義と効率主義に道徳心が蚕食される以前の時代の武人である。戦場を効率的な屠殺場に変えるべく注力する現代の総司令官としては不適格であった。彼女に求められるのは権威であって、近代軍事学に基づく判断ではない。トウカはそう割り切っていた。


 しかし、今この時、ベルセリカは名実共に皇州同盟軍の総司令官となってしまった。


 騎士道を近代戦に持ち込んで貰っては困る。


 ベルセリカを揶揄した言葉でもあるそれに、キルヒシュラーガーが椅子を蹴って立ち上がる。


 リシアも長机を蹴り飛ばして応じた。


 剣聖を御前にしての取っ組み合いである。


 膂力で劣るリシアだが、ベルセリカを背後にするなどしてキルヒシュラーガーの力を削ぎつつ応じた。無論、周囲の勇猛果敢なる参謀将校達は盛大に煽る。


 リシアは最終的に殴り倒される結果となったが、ベルセリカは飽きれ顔でエレンツィア空襲を認めた。










「? この御弁当……味付けが何時もと違いますね」


 副官のアヤヒが、自身の昼食の弁当から唐揚げを摘まみ上げて略奪して咀嚼する。


 飛行系種族が短機関銃や魔導杖を抱え、四六時中警戒行動を続けている軍官舎の立ち並ぶ地区ならいざ知らず、無数の軍人が昼食を取るともなれば、周囲の飲食店に無数の軍人が分散する事になる。警戒と防諜面から好ましくない。よって昼食は弁当が推奨されている。


 因みに食堂もあるが、好意的に言うならば常在戦場を拗らせた……事実を端的に言うなれば、予算削減によって酷く食材と味の質が低下している。そこを利用しようとする猛者は少ない。選択肢としては、自身か家族による弁当か、専門業者が販売しに来る弁当を購入するしかなかった。


 クレアは自炊弁当である。


 女性として手料理の腕を錆び付かせたくないなどという理由ではなく、皇都憲兵隊司令部へ弁当を販売しに来るそれの味付けが薄い事を嫌った為である。


 ヴェルテンベルク領邦軍入隊以前はクレアも皇都在住であったが、入隊後の生活が彼女の味覚を変えた。


 北部は、その気候や食材の都合から濃口の味付けとなっている。加えて北部地域では、陸海軍と違い軍隊の性別比率が男性に傾いていた。


 結果、好まれる味付けは塩胡椒などの調味料を多用し、脂分と分量が豊富なものが望まれた。


 後方勤務者(テクノオフィサー)としては下腹部が苦しくなる環境であった。


 幾ら北部では本土決戦……領都決戦已む無しという軍編制をしており、後方勤務者ですら相応の戦技訓練を課されるとはいえ、月間の熱量(カロリー)換算をしてみれば収支が合わない。


 そうした環境下で生活してきたクレアである。


 自炊弁当は手慣れたものであり、味も見た目も相応であった。


「唐揚げは醤油と味醂を使ったのです。付け置きしておいたものを揚げるだけですね」


 クレアは口元に手を当て、深窓の令嬢然とした笑みを零す。


 目を丸くしたアヤヒ。献立に不自由する女に思われていたのかと、クレアは眉を顰めるが、アヤヒは蟀谷を掻いて白状する。


「今日の閣下は屈託のない笑みを見せられる。良い事です」


 次はクレアが目を丸くする番であった。


 各々の座席で弁当を開いている者達に視線を向けるが、彼ら彼女らは気付いていない様子を装って視線も言葉も返さない。


 普段であれば、「以後、引き締めるとしましょう」と思案顔に変えた上で返すところであるが、今となってはそうした言葉を口にすべきとは思えなかった。


「もう一つ、どうですか?」


 実は唐揚げはトウカが作ったものである。


 早朝から二人で弁当を作ったのだ。


 昼休憩に幸福を御裾分けする程度は許すべきだろうとの感情がクレアには芽生えた。


「まぁ、閣下の料理の献立が豊かとなった事は慶事に御座いますが……近頃の左派残党、どう処理しますか。纏めて|上げ(揚げ)てしまい所ですが」


 逮捕を示す隠語でもある上げるという一言に、皇都憲兵隊司令部内の皇州同盟軍憲兵隊司令部から物音が消える。


 クレアの一言で、皇都憲兵隊が動く。


 陸軍の命令系統に在れど、連携組織である皇州同盟軍からの“要請”を無碍にはできるものでもなく、同時に彼らにとっても頭痛の種である左派集団を強権を以て“撃滅”する大義名分の一つとなる。


「……からっときつね色に|揚げ(上げ)たいところですね」


 朝にトウカが口にしていた一言と共に、最後の唐揚げを頬張るクレア。


 撃滅するのは容易である。


 罪状もそれなりに揃っており、皇州同盟軍情報部が寧ろ追い詰めた効果が表れていた。左派団体を皇都擾乱の際に暴発させたクレアだが、証拠物件を用意するのは相応の苦労と面倒があった。しかし、暴発だけでなく、現在の散発的な報復行動で、民衆は危険な団体であると認識を変えつつある。民衆の、已む無し、という心情と、現在起きている事件を根拠にした大規模摘発は可能であった。


 ――ですが、左派を煽動した者が気になりますね。


 先鋭化した左派集団の人員は、皇都擾乱で真っ先に“戦死”した。


 そうした者達であるが故に、進んで示威行動(デモ)の先頭に立ち、或いは出資者(スポンサー)の顔色を窺って過激な行動に及ぶ傾向がある。


 悲惨な結果……苛烈な反撃を想定していなかったからこそ(精々が骨折と逮捕)彼らは良く斃れた。トウカもその辺りを見越して苛烈な反撃に転じたのだ。


 敵を良く殺せる機会に躊躇していては軍人など務まらない。


 当然、そうした急進的な者達が割合として多く武器弾薬を保有しているが、それらが極短時間で壊乱し、拠点や団体本部が摘発を受けた。備蓄されていた武器弾火薬も押収され、報復を行えるだけの装備が残存左派集団に再分配される余地などない筈である。


 しかし、実情として残存左派団体は十分な装備(練度は兎も角として)を有して報復に転じている。


 ――内戦や戦役で遺棄された武器弾火薬を回収したのでしょうが……


 製造番号が削り取られていたが、皇国製武器が大部分であり、押収された武器弾火薬の類に行方不明となったものはなかった。寧ろ、陸海軍が装備不足を理由に部隊に部隊へと再供給する準備を進めており、安易に転用できるものではない。


「閣下、閣下は失礼ながら疲れておられます」


「そうですね。疲れています。これからは定時で帰る事にします。舞踏会も捨て置けばいいでしょう」


 クレアは既に皇州同盟と他勢力の連携に意味を見い出せなくなりつつあった。


 ヨエルが政権確保の姿勢を見せつつあるからであった。


 皇州同盟軍、参謀本部情報大佐であるリシア経由で、皇州同盟軍情報部による探りを入れたが、僅か二日で事実は明らかとなった。情報部が本格的な調査を開始するよりも早く、天使系種族が各選挙区での立候補を表明したからである。それも、全てが軍役経験者からなる者ばかりで、相応の実績や背景を持つ。特に今回の戦役で投入された、天使系種族の後押しと資金で編制された二個装甲擲弾兵師団出身者が多く、選挙戦で大いに有利に働く事は疑いなかった。


 最大の問題は、北部選挙区からの立候補も存在する事であった。


 皇州同盟との連携と、トウカと共に帝都空襲に参加した事実を携えての立候補である。選挙制度に興味を示さない皇州同盟や歩み寄りを名目に立候補した議員、急進的な思想を掲げる右派……諸々を押さえ付けて優位を確保できる事は疑いなかった。


 天使が議席を相応に確保し、政府衆議院を影響下に置く。貴族院の龍種などの有翼種と連携すれば、政府で多大な影響力を行使できる可能性が生じた。


 そうなれば、順当に考えて皇州同盟と連携して中央貴族を抑え込む事が天使系種族の権勢拡大に繋がる。


 皇州同盟と敵対しても、陸海軍と皇州同盟の連携を容易に阻めるものではなく、皇国内の兵権の大部分を手元に引き寄せられなくなる。


「やはり、捨て置けば良いのです。右派も反撃に転じるでしょう。どちらも派手に過ぎる者を検挙して増長を抑える。その程度に済ませます」


 クレアとしては、背後に居る者の思惑など、然して興味を引くものではなかった。


 現状で自滅する道を選択する程度の左派集団であれば、遠からず壊滅状態となっていた事は疑いない。その程度の集団の為、現状でも治安維持に不足している人員を裂く意義を見い出せなかった。


「天使達の様子見ですか?」


 クレアが消極的になった理由をアヤヒが察する。


 然して秘密にしている訳でもない為、クレアとしては彼女の意見を聞きたいところであるが、アヤヒは苦笑と共に肩を竦める。


「熾天使の御心は、照魔鏡(しょうまきょう)に照らしても(つまび)らかになるものではありませんので」


 化けた狐の姿を明らかとできても、とアヤヒは嘯く。


 その一言に、クレアは笑みを含んで口元を隠す。


 照魔鏡(しょうまきょう)とは、神代の世に在って真実をあばき立てる鏡であった。狐の変化を見破り、真理を明らかとするという意味を後世に遺し、そうした慣用句として扱われる。


 照魔鏡の狐の変化を見破るという点を以てトウカを示し、そのトウカですらも熾天使の意図は見破れなかったという言い回しに、皇国臣民らしい感性を見たクレアだが、実情としてはあ様子見以外の選択肢がない。


 既に早朝より大規模防空演習が始まっている。


 時期を見ても天使系種族と龍系種族の選挙宣伝に等しい。


 両議院から批難が相次いだが、法的には禁止されておらず、大規模防空演習に関わる予算も政府が承認したものであり、陸海軍も演習の予算通過に尽力した者達に十分な配慮をした。


 垂れ幕や言葉による露骨な宣伝を行っている訳ではない。


 ただ、街頭演説をする天使系種族と龍系種族の立候補者の上空で編隊飛行が“偶然”行われるだけである。


 航空主兵の威力と国難への団結を訴える彼らが、明確な軍事力を背景に安全保障の約束を宣言するのだ。経済に関する明確な指針も示されるだろう。天使系種族の運営する企業は莫大な内部保留を種族の予算として保持している。龍系種族も各貴族領から予算を拠出するであろうし、それによる積極財政を約束するだろう。大蔵府も同意せざるを得ない。自前の予算を用意するとしているにも関わらず拒否した日には、民衆の暴動で大蔵府は焼き討ちにあいかねない。


 この機に巨大な勢力を忽ちに作り上げる動き。


 しかも、皇州同盟との連携の公算が高い。


 ならば、クレアの努力や泥臭い動きなど容易く補い得る天使系種族の紐帯が期待できる。彼女が動く必要性は限りなく低下した。何より、大規模防空演習には憲兵隊も参加しており、余剰戦力もない。成せる事は限られている。


「そろそろ、北部に戻る時期かも知れません。その辺りの見極めも必要でしょう」


 本来、憲兵総監が他勢力の拠点に出向している時点で異常事態である。侵略を跳ね返した時点で憲兵隊間の連携の必要性は薄れた。連絡会や連携手段の確認、勢力を跨いでの調査協力の条項が取り交わされた事もある。


「天使達の動向が定まったならば、北部への帰還準備を始めます」


 皇州同盟軍総司令部の許可は容易に降りるはずである。北部は帝国軍残党が匪賊となり跳梁している状況であった。師団増強の一環として訓練を終えた部隊による実戦の対象として討伐されているが、対帝国戦役で最後の増派となった貴族連合軍の残党は数が多く、統制が取れていない事もあって広域に拡散している。匪賊討伐などの治安維持活動の専門家と言える憲兵隊の指揮官が司令部諸共に他勢力圏に展開している事自体が非常識と言えた。


 ――あのヒトも連れ帰りたいですね。


 天使の跳梁跋扈する皇都で潜伏を続けるにも限界がある。


 何より人口が多いという事は生じる問題も相対的に多いという事である。否、加速度的に増大するものがあった。膂力の問題から、人間種でしかないトウカが不利な場面は少なくない。


「この期に及んで、政治屋の茶番に付き合う必要もないでしょう」


 それなりに政治の都合に合わせて踊って見せたが、クレアとしては皇州同盟軍軍人の立場として十分に義務を果たしたと考えていた。


 ベルセリカも、憲兵隊の指揮系統が非効率を抱えたまま運用され続ける事を望まない。現状に至って尚、帰還命令が出ないのは、トウカの命令によって成されたクレアの皇都進出に別の意図があると考えているのか、或いは皇都情勢を掴む情報源の一つとしてクレアを放置しておくべきと考えたのか。


 ――その辺りの御伺いも立てる必要がありますね。


 軍神は喪われた。


 そうでなければならない。


 クレアの軍官舎に居るのは、ただの傷付いた若者である。


 ベルセリカには、相応の軍総司令官であって貰わねばならない。何時までも古の騎士である事を許容できる程に皇州同盟に余裕はなかった。


 皇国の為にも、北部は有力な軍事力を保持し続けなければならない。


 歴代天帝の呪縛が軍事力を弱体化させるのであれば、常に国内に軍事的緊張を用意し、軍備低下に歯止めを掛ける必要がある。


「軍人が政治に口を差し挟む。陸海軍より見れば、我らは真に狂人かと」アヤヒが苦笑と共に呟く。


 それが彼女の忌憚なき意見であろうと察せる程に付き合いの長いクレアだが、最近の彼女ははそれとは違う所感を抱いていた。


「今更でしょう。軍は国家、組織の暴力装置であり軍人の使命は戦闘に戦争。そうした立場に望んで成った時より我々は悉く狂っているかも知れません」


 軍人に望んで成る時点で、その者達はある種の狂人ではないのかという疑念。


 平和の為、理想の為、防衛の為、他者を殺める事を目的とする軍人という酔狂者。


 大義名分があれども、同族と殺し合うという行為に崇高な意味や目的があるなどと嘯くのは、自らの所業を覆い隠さんが為の、自己正当化に縋ろうとするが故の弱さに過ぎない。


 挙句に軍隊とは、殺せば殺す程に評価と称賛を受ける特異な環境で、そこに居る者達が正常であるなどと嘯くのは、少なくとも絶対的多数の世間から見て異端である。


 ――狂った様に戦争を楽しんでいた彼の感性は、軍人としてはある意味正気だったと……


 自己正当化ではなく、愉快だと叫んで大いに殺した彼の姿勢は、言い訳を並べ立てる事もない点を踏まえると清々しさすら感じる。


 合法的と言えど人殺し。それを誰憚る事なく喜び、(はしゃ)ぐそれは、ある種の純真無垢であった。


 無論、世間的に見れば、狂人の開き直りに過ぎないが、憧憬を抱く軍人も少なくない。


 ――どうも彼と共に居ると、あの無邪気な酷烈さを肯定してしまう。


 それは麻薬に近いものがある。親和性の問題はあるが、トウカには軍人の心を捉えて離さない……強制力とでも形容すべきものがある。一度、指揮下に加り戦火に身を晒せば、その指揮に疑問を抱かなくなるのだ。秀でた指揮能力や新兵器、新機軸の戦闘教義……そうした複合的な特徴を優越したナニカが彼にはある。


 戦略爆撃への肯定が、その最たるものである。


 クレアは帝都への戦略爆撃の効果が初見故であると判断していた。反復せねば、都市を灰燼に帰する真似ができなくなるのは、遠い未来ではない。可燃物対策や防空戦術の確立、消火方法の効率化……多くの対抗手段が講じられる事は疑いなく、そもそも命中率とて高くはない。極低空からでなければ、司令部や軍需工場への一点(ピンポイント)爆撃など現実的ではなかった。


 大型騎の負担も大きく、実際の被害も時間経過と共に低下する事は疑いない。空襲を知らぬ者達の市街地を無差別に焼き払う事と、防空準備を終えている軍需工場を爆撃する事には大きな隔たりがある。


 クレアの予測は、一度戦略爆撃騎部隊を率いた経験と、ノナカ大佐の所感に依る所であったが、概ね間違ってはいなかった。


 トウカの世界に於いて、伊太利王国陸軍少将のジュリオ・ドゥーエは第一次世界大戦の国力を蕩尽する総力戦を避ける為、航空爆撃のみで敵国の戦意を挫く戦略爆撃を提唱した。それは、第二次世界大戦で実演される事になるが、終末兵器の実戦配備後でなければ不可能であり続けている。戦略爆撃は民意を挫く決定打にはならず、戦略爆撃を受けた諸国は寧ろ戦争末期に近づくにつれて軍需生産が増大してすらいた。


 それでも尚、トウカが戦略爆撃に固執したのかと言えば、民衆の歓心をこれ以上ない程に買えるからである。


 誰しもが一度は耳にした事のある大都市を攻撃する。それは極めて衝撃的な出来事であった。内情は差し置くとしても。


 参謀本部でも軍事的合理性がそこにない点が挙げられていたが、トウカの提案の否定に回ることはなかった。


 ――やはり勝利を重ねたからでしょうね。


 彼らの軍事的合理性は、トウカの勝利の連続によって生じた権威の前に雲散霧消した。


 紛れもない権威の成立である。知性の牙城たる参謀本部の軍事的妥当性が、トウカの権威の前に膝を屈したのだ。


 無論、戦略爆撃による政治的戦果を以て勢力としての優位を喧伝する意図があった事は明白だが、その辺りの説明をトウカは一切しなかった。彼は政治分野に対して極めて厳しい姿勢で臨んでいるが、それは決して敵にだけではない。


 ――兎にも角にも、彼の指揮下に在ると残酷であらねばという強迫観念が生まれます。


 人間種が急かされる様に一度きりの人生を駆け抜けていく姿を、追い掛ける無数の種族。あたかも建国神話の其れであるかの様な光景に、クレアは神々の意図を感じずにはいられなかった。


 居心地悪げなアヤヒ。


「どうしましたか?」


「いえ、憲兵総監の立場に在る方が狂気を肯定なさるとは思わなかったもので」


 狂気や正気への評価ではなく、一般人からみた客観的な軍人に対する評価であった心算だが、周囲はそうと受け取らない。


「当面の間は戦勝の評価が我らを守ってくれるでしょう。しかし、戦前の如く失態が続けば、風潮は容易く途切れる事となります」


 軍神が引き締めを図った皇州同盟軍は憲兵隊や情報部の権限が強く、腐敗や不正に関しての引き締めに余念がないが、陸海軍は別である。その上、皇州同盟軍領域内にも陸海軍基地の造成は決定しており、憲兵隊の活動領域が重なる場合もある。


「腐敗と不正を見逃さない。そして、緊張と練度の維持が国防を盤石ならしめるのです」


 弛緩した軍事力が天帝招聘の儀への乱入を許し、帝国軍による本土進攻を助長させた。その事実は不変であり、真実に他ならない。


 二度目はない。


 軍神は去ったのだ。


「その為なら狂気とて動員すること躊躇してはなりません」


 皇国が危機に陥っていると知れば、止む無し、と再び軍神が戦野に赴くかも知れない。


 子狐も廃嫡の龍姫も、屈折した部分はあれど皇国を愛していた。


 故に座視するとは考え難い。


 彼女達の残照が染み着いた国土を彼は見捨てられない。


 ――そう、そういう事ですか。天使達が強気の姿勢で戦争を厭わないのは……


 クレアは気付く。


 軍神が再来すると確信しているからに他ならないのだ。




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