第二六五話 皇都にて 陸
「こんな事になるなんてなぁ……」
ザムエルは硝子杯を煽り、机に伏す。
トウカが行方不明となった。
戦争は終結した。
少なくとも統制を維持した帝国軍部隊は国内に存在しない。一部が河川を利用して共和国経由で撤退したという事実が明らかとなったが、二個戦術爆撃航空団が迫撃して相応の被害を与えている。
全ての局面で皇国軍は勝利を掴んだ。
しかし、最後で吝嗇が付いた。特大の吝嗇である。
皇国は帝国に対して有効な軍事戦略を展開できなくなる可能性がある。
ベルセリカが動揺する皇州同盟軍と〈北方方面軍〉を一喝して沈静化させた。それによって存在感を示して、彼女の権勢は大いに高まった。
ザムエルもベルセリカを評価している。
古の剣聖としての実績に依る所ではなく、堅実な戦略家としての一面がある事を理解しているからである。それは保守的である事を意味せず、敵の漸減に対しての効率性を基準に政戦を判断できるという点にあった。彼女は騎兵の時代が終わった事を受け止め、装甲部隊や砲兵部隊の時代をさも当然の如く受け入れた。
誰しもにできる事ではない。
己の価値観や実績に基づいた諸々を、投げ捨てて忽ちに教順するというのは、高位種であっても容易い事ではない。そうした人材は北部に在って、少なくともザムエルの脳裏に浮かぶ限りの面子に於いては、僅有絶無と言えた。
しかし、外征に関しては肯定的とは言い難い。
ザムエルは帝国南部に於ける衛星国成立が必要不可欠であると考えていた。
戦力投射は航空戦力だけでなく、陸上戦力も相応に行うべきだと確信している。帝国に対する防波堤を作る必要があるのだ。その為に捕虜を取り、難民を作って混乱を招いた。食糧の重要性を跳ね上げ、それを利用する事で衛星国国民を統制する。少なくとも、難民を押し付けられた事で食糧事情が逼迫した他地方の年若い民衆の流入が期待でき、高齢、或いは身体の弱い者は長い移動に耐え切れない。国家にとって有益な労働力となる若年層のみを難民として迎え入れる事ができる。
可能である筈であった。
否、失敗しても良い。
帝国人が幾ら凍土の肥料になろうとも、皇国の懐は痛まないのだ。失敗と成功を繰り返して成功の道を模索しても問題はない。
空白地帯が成立し、それを国際社会が承認すればいいのだ。
そうした動きをベルセリカは厭うていた。
ベルセリカは騎士である。
敵国とは言え、積極的に民衆を漸減する事に忌避感を抱いていた。軍人としても健全な姿と言え、本来であれば、そうあるべきなのだが、ザムエルはそう考えない。
トウカの様に残酷であるべきだと確信していた。
彼が行方不明……或いは戦死したのは、残酷になり切れなかったからであろうとすら見ていた。残酷さが郷土を救う瞬間をザムエルは幾度も見た。
元来、軍事力の行使そのものが残酷さを伴っているのだ。
残酷さの規模と派生について議論するのは時間の無駄であるし、状況が許すなら敵国の全てに打撃を加えるのは、国家や郷土に勝利を齎す役目を負った軍人の義務ですらある。
敗北は全てを奪われる。生命も矜持も財産も常識も……
今の妥協が後の敗北に繋がるのであれば、それは妥協ではなく批難と罵声を向けられるべき怠惰に他ならない。
騎士であるベルセリカには、それが分からない。
己の矜持や美学が国家在ってのものであると理解していないのだ。封権国家の騎士らしい発想である。彼女は、未だ軍人ではない。
――困った事だぜ。とは言え、他に優れた軍総司令官が居るはずもなし、か。
ラムケの様に敵国の一切合切悉くを焼き尽くせと声高に叫ぶ者であっても困るが、同時にそうした人物が有用とされる時節もある。
我々は街を焼いた時、沢山の女子供を殺している事を知っていた。やらなければならなかったのだ。我々の所業の道徳性について憂慮する事は――巫山戯るな!
そう言い放ったラムケに、ザムエルは呆れたものであるが、それを成すべきだという絶対的確信と、立場に妥協しない発言の強さを改めて思い知らされる。
皇都の動き次第であるが、少なくともベルセリカは北部の復興と繁栄を重視した政策を優先するだろう。強固な軍事力と防空網による皇国北部の聖域化を謳いながら。
近代戦では盾より矛が勝る。
嘗て、トウカが言い放った言葉の意味が正しければ、防御手段より攻撃手段の発達が優位となるが、その顕在化の時期までは、ベルセリカの方策の綻びも生じないだろうと、ザムエルは見ていた。
ザムエルは干された硝子杯に当たらなウィシュケを注ぐ。
もしゃもしゃと揚げ菓子を咀嚼しながら、ザムエルは机に無造作に投げ置かれた新聞紙を一瞥する。
「防空演習ねぇ……あの天使もよく分からねぇな」
未だに続いている皇都での防空演習。
戦闘航空団の参加や対空砲部隊の展開は理解できるが、二個航空歩兵聯隊の動員が防空戦闘に役立つとは思えない。天使系種族は皇国のみに存在する種族で、そもそも世界的に見て有翼人種は大部分が皇国に住まう。対抗する有翼人種による航空戦力が他国で成立したという話は聞かなかった。
「恐らくは敵の空挺降下に対する阻止行動の一環だろうか……」
帝都空襲に於ける空挺降下作戦は、その問題点などが抽出され、参謀本部で効率化と迅速化、確実性を求めて議論されている。その中で空挺降下への阻止行動にも言及はあった。常に自軍が攻勢の側にある訳もなく、対策もまた立案されて然るべきである。
その阻止行動で有力視されているのが天使系種族を始めとした有翼人種による航空歩兵による近接航空支援である。航空騎よりも低空で地上部隊と連携可能で、降下部隊の頭上を押さえ得る航空歩兵の有用性は語るべくもない。航空騎よりも小型で、建造物による制約を受け難いという長所も大きい。
しかし、最大の長所は、諸外国の空挺降下作戦に於いて主体となるであろう落下傘降下を効率的に撃破できるという点にある。
低空を飛翔し、軽機関銃や魔導杖で落下傘を破り、落下傘兵を射殺する。それは降下時は無防備に等しい落下傘兵にとって絶大なる脅威となり得た。
「あの熾天使が軍事演習とは……動き出したって事か?」
意図は不明だが、帝国軍の本土侵攻すら座視した熾天使が、皇都での軍事演習を性急に推し進めた意図。ザムエルには想像も付かない事であった。
〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉司令部の置かれたエッセルハイムの行政府庁舎地下一室の片隅で、ザムエルは唸る。
軍神は何処かへと去り、熾天使と剣聖が台頭する御世。
想像も付かない時代が到来した。
残敵掃討を終えつつあるが、住民不在となった北部の一部地域に於ける匪賊の跳梁跋扈に備えて複数の歩兵師団の展開が予定されている。一両日中の引継ぎが発令されており、〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉は、策源地であるヴェルテンベルク領への再配置が決まっていた。
ウィシュケを煽り、歳若い戦友との過去に想いを寄せるザムエルを他所に、執務室の扉が開く。
「閣下、装甲部隊の再建計画についてですが……軍務中ですよ?」
副官にして妹のエーリカが、ザムエルの飲酒を咎める。
ザムエルは背中越しに、その姿を一瞥すると、再び硝子杯を煽る。
その背中に妹にして副官の溜息が投げ付けられるが、これは献杯の類であると言い訳する気も起きないザムエルは沈黙を守る。
ザムエルの沈黙に何かを感じたのか、エーリカも隣へと座ると、トウカの為に置かれていた硝子杯を手に取る。勿論、ウィシュケが注がれている。
「その帝国の捕虜……獣系種族の兵士を殺害した一件が露呈した様です」
硝子杯に口を付け、眉を顰めたエーリカ。その理由がウィシュケの酒精によるものか、或いは口にした内容になるものか、ザムエルには判断が付かなかった。
ザムエルは、酒がまずくなる、と吐き捨てる
「だからどうしだんた? どうせ左巻きの連中が査問会だとでも息巻いてるんだろ?」
「皇国議会による査問要請ですよ。そう簡単には避けられません」
諸種族の揺り籠たる皇国へ獣人が攻撃を仕掛けたという意味を左派は理解していない。同胞意識に目が眩んだか、或いは右派への反撃の好機と見たのか。どちらにしても国家統制の危機である事を理解していなかった。帝国との共存の余地でも夢見ている可能性も有り得た。
「右派議員は抵抗しなかったのか?」
「どうも虐殺という言葉に動揺した様子で……」
ザムエルは、莫迦共め、と吐き捨てる。
諸種族の揺り籠という大義名分が揺れているのだ。
例え強制されて皇国と争ったとしても許容してはならぬ事である。特に今回の対帝国戦役では、敵国は人間種優位の価値観を有し、皇国の価値観との衝突という一面があった。帝国に与する獣人系種族が存在するという事実は、皇国建国の理念を毀損する。
人間種との共存が真の意味で可能な国家として成立した皇国に、人間種の優越を掲げる国家の尖兵として人間種以外の種族が望んで参加しているという事実。
それは、存在してはならない事実なのだ。
皇国の存在意義が揺らぐ。
諸種族保全の大義が揺らげば、軍人が胸を張って戦野に立つ理由の一つが消え失せるのだ。国民が唯一と信じる皇国の矜持が消え失せるのだ。
帝国に与した獣系種族への配慮も踏まえれば、甘い対応とて許されない。彼らの名誉すら毀損されかねないのだ。それは諸種族の関係に軋轢が生じる事を意味する。
「……〈第一装甲師団〉で寄り道だな」
ザムエルは立ち上がると、一息にウィシュケを飲み干し、硝子杯を床に叩き付けた。
硝子による破砕音。
粉々に砕け散った硝子杯。
売国奴も、その様に砕け散るべきだと、ザムエルは信じて疑わない。
武装親衛軍、〈第一装甲軍団(Ⅰ.Schutz Wehr-Panzerkorps)〉所属、〈|第一武装親衛軍装甲師団、親衛部隊『サクラギ・トウカ』(SW-Panzer-Division Leibstandarte SW Touka Sakuragi)〉……それが〈第一装甲師団〉の正式名称である。
軍神の名を冠した装甲師団が、皇都の売国奴共に皇国の国是と武威を知らしめるのだ。
「そうだ、俺が彼奴の名を冠した部隊を率いているのは偶然じゃねぇ。この日この時、この瞬間の為にあったんだ」
ザムエルは、天命であると確信する。
彼がいなくなった。
だからこそ、彼に代わって売国奴を討たねばならない。
彼の名を冠した親衛隊を以て国事行為の壟断者に掣肘を加えねばならないのだ。それが託された者の義務だと、韋駄天の異名を冠する名将は信じて疑わない。
「それは……そうした意図と取って宜しいですか?」
「おう、そうだとも。我ら軍人、武を以て御政道を正す事に何の躊躇いがあるってんだ」
エーリカの多分な配慮の滲む曖昧な問い掛けを、ザムエルは一蹴する。
配慮などヴェルテンベルク領邦軍に属した軍人の振る舞いに非ず、という感情的な理由だけではなく、ここで引き下がればトウカの死が無駄になるという忌諱があったからに他ならない。
――もし、本当にくたばってたとしても、その死に意味を付けるのは俺の軍じゃないとな。
戦友として、上官として、嘗ての主君が希った者として、彼の死には相応の意味がなければならない。
「御前はいいのか?」
「……それは」
エーリカも中々どうしてトウカに想いを寄せていたと知るザムエルとしては、彼女の沈黙の意図を気にした。ザムエルは、妹が憤怒を垂れ流す兄に遠慮する程度の女ではないと知っている。
「行方不明です。決して戦死なされた訳ではありません」
軍人の行方不明が戦死ではなかったなどという事は希有である。
そうした状態から数週間も経過しているとする公式発表が真実とするならば、生存は絶望的である。特に三日を過ぎれば生還率は極端に下がる。人間種であれば尚更。
「航空優勢を見い出した奴が、航空移動の最中に行方不明になるなんてな」
皇国軍事史に於ける最大の皮肉に他ならない。
この国を救うべく奈辺から現れ、救国をはした後に奈辺へと消えゆく。
吹き荒ぶ寒風の如く荒れ狂い、春の雪解けの如く消え去る。実に物語的であり、後世の歴史家の好みそうな現実であった。
しかし、ザムエルは彼が斯様に儚いだけの生き物ではないと知っている。
「閣下、参謀達が……」
部屋へと団体で入室してくる参謀達。
公式発表とザムエルの皇都召喚を聞き、混乱する中、皆で相談して〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉司令官であるザムエルの下へと駆け付けた。そう見当を付けたザムエルは、根性なし共め、と吐き捨てる。
妹一人では御諫めできないとばかりに群がって駆け付けたと見たザムエルは、参謀達を一瞥する。
しかし、彼らの思惑は違った。
「閣下、出撃命令を! 今こそ、我らで国府を焼き討ちにすべきかと!」装甲参謀が叫ぶ。
呆気に取られたザムエル。
諫めるどころか皇都侵攻を促してくる装甲参謀を、ザムエルは睨み付けるしかできない。
だが、それを逡巡と見て取った他の参謀達が騒ぎ出す。
「そうです。このまま虚仮にされても尚、引き下がるのですか!」「皇都を、議会を制圧しろと! 政治屋共を殺せと! 御命令を!」「我らの、北部の挺身に報いるもなく、斯様な仕打ち、赦せるものでは!」「臆されましたか! 装甲部隊は如何なる闘争でも先鋒を担うべきかと!」「輜重線は何とでもなりましょう! なければ中央貴族から奪えば宜しい!」「陸海軍とて同調しましょうぞ! 烈士に汚名を押し付ける政治屋など不要かと!」
諫める声は一つとしてなかった。
彼らは彼らの責任と義務と才覚に於いて戦野に在り、そして隷下の将兵を失っている。皇州同盟軍という枠組みの中で、それを成した以上、その枠組みを毀損するが如き振る舞いをされては、散っていった部下に神々の御許で顔向けできない。
ましてや必要な汚れ役を進んで成したという覚悟が彼らにはある。
政治家の批判に臆する筈もなく、寧ろ彼らの綺麗事を憎悪してすらいた。
「俺は虐殺者らしいぜ? お前らが付き合う必要はないだろうが」
参謀達が笑止と唸る。鼻を鳴らす音もあった。
「死んで当然の奴らが死んだだけです。不都合を是正する剣の切っ先が軍に御座いましょう」
「然り。誰かが御国の為に成さねばならなかったのです」
「評価しろとは申しませぬ。しかし、座視するべき時節すら分からぬ奴らなど」
軍人である彼らは、国防の大前提である“多種族国家”という概念の重要性を理解している。政治的建前などではなく、軍旗を掲げるという事は、その思想を掲げて戦火に身を晒すに等しい。それが同族によって毀損されるという混乱の芽を事前に摘み取るという行為は、彼らにとって何ら非難されるべきものではなかった。
だが、それだけではない。
――そうか。此奴等は公式発表と俺の査問要請が連動してると見たか?
政府と中央貴族が連携しているのは、内戦中の振る舞いからも明白である。
ならば、トウカの死もザムエルの査問も政府と中央貴族による謀略と取るのは自然な事であった。否、そうでなければならないという心情があるのだ。
軍神と韋駄天が自ら躓く真似などあってはならず、それは敵からの攻撃によるものでなければならない。奉じた者が奉じるに値する者である事を望むのは人間の性である。
「此度の戦役に於ける皇国防衛に於ける最大の活躍は我が皇州同盟軍に他なりません! これを粗略に扱うが如き真似を許せば、国防の任に就こうとする者が後に続く筈もない!」
その辺りを政治家は理解できなかった。
政敵の批判ばかりに熱中して国体や国防の何たるかを理解していない。事を起こしたのが臣民で構成される衆議院である事がそれを示している。所詮は大多数の政戦の視野を持ち得ない民衆によって選挙で選ばれた素人なのだ。高度な教育と領地運営による実績を持つ貴族院の政治家に対し、質に於いて圧倒的に劣る。
大多数の素人が選択し、素人が行き成り国会議員になれる民主主義という制度。
素人が国家の最善を知るだけの能力と才覚を有する者を、選出できる筈もない。選出された者が相応の能力を身に付けるまで待てというのか? 国家の権力を左右する権能を持たせたままに? 国政で最善を選べない者に任せるというのか?
冗談ではなかった。
この時、ザムエルは民衆を含めた議会制度……民主主義という制度を見限った。
無論、彼は専制君主制などに対して期待している訳ではない。
だが、必要に応じて専制君主制は少数に権力が集中するが故に、容易く劣化した権力者の首を挿げ替えられるという長所がある。国民の劣化を是正する事に比して、極めて迅速で労力の少ない方法であった。
機略戦に機動戦と、迅速にして急進的である事を旨としてきた彼は、現状の政府はどちらをも満たしていないと断言できた。それを掣肘すべき貴族院も同様である。
挿げ替えるべき時が来ただけなのだ。
「御前等の決意。嬉しく思う。往くぞ!」
手を振り払い、咆える韋駄天。
参謀達が野太い応じる声と共に敬礼する。
熱に浮かされた様に出撃準備の為、退出しようとする参謀達。エーリカは沈黙している。
ザムエルは机に置かれていた軍帽を被る。
そして、壁の宣伝紙で拳を振り上げる軍神の姿を見据え、ザムエルは酒と憤怒……天命に喘ぐ様に吐き捨てた。
「俺達の戦争は終わっちゃいないぜ。なぁ、戦友?」
この日、この瞬間、後の行動は皇国の政治体制を決定付ける事になる。
「皇都に我らを、祖国を脅かす売国奴が居る!」
〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉司令官、ザムエル・フォン・ヴァレンシュタイン上級大将の激が飛ぶ。
その意味するところを誰もが察し、遂に来たのだと察して息を呑む。
帝国という脅威に対抗すべく、政府や中央貴族との内戦を終結させたという見方が大勢を占める内戦終結。帝国という脅威がなくなれば、再開されても不思議ではなく、再戦の時期については諸説あれど、必ずあるというのが識者の見解であった。
しかし、対帝国戦役で多大な被害を受けた皇州同盟軍は、陸海軍の積極的協力がなければ中央貴族の領邦軍には劣勢であると見ていた。七武五公の領邦軍も大部分が健在である。
故に復興を暫くは優先すると見る者が大多数であった。
しかし、再戦は数週間後に宣言された。
皇州同盟軍の総意ではない。
総司令官であるベルセリカ・ヴァルトハイムの命令ではなかった。
しかし、ザムエルの檄文に交応し、二個航空艦隊が北部南の飛行場へと再配置を始めた段階になって、ベルセリカはザムエルの宣言を容認した。
動員兵力は皇州同盟軍と陸軍〈北方方面軍〉の六割であった。大凡の予想に反して海軍府長官が賛同した事で海軍、〈皇海艦隊〉や〈第一艦隊〉、〈第二艦隊〉が皇都沖合に遊弋している。
其々が、其々の思惑と危機感を以て、最悪の事態へと身を投じようとしている。
だが、檄文によって諸勢力が動き始めた瞬間、彼らは皇都近郊に姿を現した。
武装親衛軍、〈第一装甲軍団(Ⅰ.Schutz Wehr-Panzerkorps)〉所属、〈|第一武装親衛軍装甲師団、親衛部隊『サクラギ・トウカ』(SW-Panzer-Division Leibstandarte SW Touka Sakuragi)〉。
軍神の名を冠する装甲師団を先鋒とした〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉の進出である。
韋駄天の名に恥じぬ疾風迅雷の用兵を以て彼は皇都へ迫った。
民間を含むあらゆる通信網を長距離索敵軍狼兵で寸断し、中央貴族の穀物倉庫や領邦軍の駐屯基地を“武装解除”しながらの進出は、北部を進発してから皇都近郊到達まで僅か六日間で実現された。
「戦争は暴力的状態である。無制限にそれをせよ。さもなくば、家に帰れ。…我々は、とことんまで、皆殺しをしなければならない」
余りの行軍速度に車両故障が相次ぎ、苛烈な宣言に離脱した将兵も若干居たものの、それでも彼らは意表を突く事で敵の漸減に成功した。
敵兵力が多数であれど、決戦地になくば、それは意味を成さない。
機動戦と機略戦。
準備の整っていない敵を圧倒的速度で殴り付ける。
韋駄天は、その利点を本能的に知悉していた。
立場と即応性に優れる友軍航空艦隊ですら間に合わぬ急進に、皇都の防衛戦力は皆無に等しい。
否、天使系種族の派閥に属する二個装甲擲弾兵師団が展開していたが、それらは憲兵隊と共に皇都各所に分散配置され、治安維持に忙殺されていた。混乱に交応した左派系集団の巻き返しを意図した襲撃などへの対処に忙殺されている。
斯くして、政治に於いても軍事理論を振り翳した韋駄天は機先を制する事になった。
「敵は皇都に在り!」
叫ぶ韋駄天はⅥ号中戦車の天蓋上に在った。
ザムエルが檄文を放つ二週間前。
迫りくる悲劇を知る由もない皇都の一角で、トウカは覚えのない天井を見上げていた。
「軍需規格の天井だな……」
覚えのない天井であるが、建材としては見覚えがある。
皇国陸海軍は苦しい軍事費の中から共通規格化による量産効果を求め、様々な物品を共通化させた。銃弾や砲弾は勿論の事、野戦砲と駆逐艦の砲身まで共通化されており、陸海軍の垣根を超えたそれは、他国から見れば狂気の沙汰である。
当然、兵器類だけではなく、糧秣や日用雑貨に至るまで共通化、一括発注、集中管理する事で予算削減を図った中に、兵舎などの建材も含まれていた。最近では、皇州同盟軍も陸海軍との共通規格化を予算削減の都合から協定を締結している。そこには、皇州同盟傘下の軍需企業の兵器が陸海軍に大規模採用される事に伴う不均衡を軽減するという目的もあった。
ベルゲン近郊に続々と建築された兵舎と同様の建材に、トウカは目を眇める。
ーー高級士官……将官向けの官舎だな。
顔を傾け、部屋の内装を一瞥したトウカは判断する。
内装も階級毎にある程度、規格化されており、その片鱗は素人でも容易に見付ける事ができる。殺風景は規格化の弊害とも言えるが、官舎に住まう高級将校というのは独り身である場合が多く、内装に頓着する者は少ない。そして、気にする者達は自ら装飾する。
しかし、無機質とまで言える室内には何もない。
否、彼女がいた。
視線を寝台横へと向ければ、そこには清楚可憐な憲兵総監が、椅子の上で寝息を立てていた。こくりこくりと舟を漕ぐ姿に、様子を見ている内に寝込んでしまったのだろうと見当を付ける。
――逃げるか。
無機質な部屋の衣文掛けにはトウカの軍装が綺麗に熨斗掛けされて吊るされている。軍刀や自動拳銃も二つ目の衣文掛けに拳銃嚢と軍帯で吊るされており、武器を取り上げられた訳ではない。
そこに拘束の意図はなく、自身の目覚めを誘った陽光の差し込む窓には鉄格子すらない。川辺の桜華が窺える立地に、細く開けられた窓からは、幾枚かの花弁が迷い込んでいる。春風から寒風の気配が消え失せて久しいとは言え、身体に触るものがあった。
トウカは溜息を一つ。
「起きたか……」
桜風に頬を撫でられた憲兵総監が薄っすらと瞼を開ける。
詰まらぬ思考を巡らせている内に、抜け出す機会は喪われた。
初見で感じた氷像の如き貌は、就寝の最中にはあどけなさが残る。寝起きもそれは変わらない。
宿酔の鈍痛を抑え込み、トウカは曖昧な笑みで挨拶をする。
皇州同盟軍という巨大な軍事機構に属したトウカだが、軍事機構であるが故に、朝の挨拶が敬礼や答礼がそうした扱いを受ける事が多く、トウカの場合は言葉を紡ぐ事を厭うて挨拶にも答礼で済ませていた。無論、独裁的な指導者という看板を維持する事に余念がなかった故であるが、それは最早、癖となっている。
しかし、今のトウカは個人に過ぎない。
軍装を纏っていたとしても退役軍人という立場を取っており、軍人として振舞おうとの気概もなかった。
「あっ……閣下?」
長い可憐な音色の呻きの後、首を傾げた憲兵総監。
未だ思考の半ばまでが夢の世界にある様子で、頻りに首を傾げている。隙のない憲兵という佇まいを往時は見せる彼女も、私生活では乙女と見えた。軍装が性格を形作るのだ。
トウカは、憲兵総監の前髪を右手で掬う。
「ハイドリヒ憲兵少将、息災で何よりだ」
トウカ個人としては、近くに置くにはヨエルという存在が強大にして未知に過ぎる為、クレアを遠ざける他なかった。無論、ミユキの立場を利用したという点こそが最大の問題であったが、それは見せしめという意味もある。ミユキを担ぐ真似を一度、許してしまえば、二度目がある可能性があった。
――だが、今となっては、その方が良かっただろうな。
政治に近くあれば、ミユキが軍事情報に触れる時期が遅れた可能性もある上に、指揮系統から外れるので、軍用騎で駆け付けるという真似もできなかった筈である。
「ああ、閣下……その実は……」
再び途切れがちな声音を完全に打ち切り、頻りに瞼を右掌で揉むクレア。
トウカの気付く。
――ああ、そうか。遮光眼鏡をしていなかったな。
寝台横を見れば机上に置かれていたものの、今となっては後の祭り。
「夢だ、寝るといい」トウカは睡眠を勧める。
「流石に、それは無理があるかと……」クレアは呻くように呟く。
トウカは、クレアの言葉に応じることもなく、寝台から降りる。
衣文掛けから軍装の上衣を手に取り、羽織るトウカは、軍刀を佩き、拳銃嚢を軍帯と共に纏うと、寝台横の机上に置かれた軍帽を被ると、遮光眼鏡を手に取る。
「貴官に感謝を。栄達を祈っている」トウカは、遮光眼鏡を掛ける。
クレアの未来は明るいものだろう。
皇国全体が防諜を疎かにしている状況が顕在化しつつある。軍事行動の漏洩を前提に拙速を選択し続けなければならなかった皇州同盟軍。天帝招聘の儀を妨害された近衛軍と陸軍。軍港警備で警務府の手を借りざるを得ない状況の海軍。専門家たる憲兵は大きく不足しており、その指揮官や統率者ともなれば更に少ない。政治を見越した上での判断が可能であるという点も評価できる。
ヨエルが憲兵隊に影響力を及ぼすかも知れないが、元より国体護持や皇国防衛に対して熱心な彼女が憲兵隊への影響力拡大を行うのは時間の問題であり、天使系種族の特性を踏まえれば、それは避け得ないものであった。
ヨエル以外の公爵もクレアが防諜面で要職に就く事を望むはずである。他に有力な憲兵将官がいない以上、選択肢がないのだ。実戦経験がある事も大きく、後方勤務というのは実戦経験を必要としないが、実戦経験を有する者が重用される傾向にある。意見は経験者の者として見られ、軍という実戦組織に於いて武功ある者の言葉は軽視し得ない。
国史の一節を飾る機会とてあるかも知れない。
「そうですか……そうだったのですね……」クレアは囁く様に独語する。
彼女が一拍の間を見せる。
トウカは、想像しているよりも、クレアは多くの情報を得ているのかも知れないと察する。目まぐるしく変化する政治情勢を嘗てのトウカは捕え切れなかったが、現在は全くと言っていい程に知らない。
だが、僅か二週間程度に過ぎないが、それでも自身の不在による混乱と陸海軍の不満がどう転じるかは、トウカにも容易に想像できた。
波及する混乱に、武断的な皇州同盟。戦後を理由に再び軍備縮小に奔ろうとする政府。
火種は四方に燻る。
しかし、彼女はそうした懸念を口にしない。
「納得しました。全てを。そして、私は天命を得たのです」
片膝を突き、トウカの手を縋る様に取るクレア。
家臣の礼というには近しい距離の振る舞いにトウカは咄嗟に言葉を返せない。
「閣下は……貴方は国の為、死生を超え、戦野を戦い抜かれました。
榛の瞳が彼を捉えて離さない。
妖精系種族の瞳に拘束力がある訳ではない。それは精神的なものであり、彼女の不退転の決意にトウカが臆したというだけに過ぎなかった。
「此れよりは私が貴方を護ります」裂帛の意思を見せるクレア。
「馬鹿を言え……御前、死ぬぞ?」吐き捨てる様に呻くトウカ。
皇統資格者を隠し立てする事に対する法的罰則はなく、そもそも想定されていないというのが実情であるが、それでも反国家的な姿勢である事は明白である。
それを承知で逃亡した……とは言い難いトウカは、全てが嫌になって逃げだしたに過ぎず、計画的なものではないが、逃亡幇助や隠蔽ともなると、当人を罰せない事情もあって周辺に罪が転化されかねない。
幾ら帝国主義者の陰謀という建前を嘯いても、責任の所在というのは明確化させねばならない場合もある。
「国家の為、十分に戦われました。これ以上、国防を個人に負わすべきべきではありません」
当面の国難を脱し、国家は救われた。
再度の内輪揉めを始めつつある点を忌諱する者が多いのは当然であるが、それ自体は、同時に余裕が生じている事を示している。それを収集し得る指導者の到来や権力集中が実現できるか否かは別であるが、余裕がある以上、各勢力の蠢動は避け得ない。
「だが、貴官が何かを施す必要はない。俺は何者にも囚われない」
誰かの紐付きで自由を謳歌する事は容易いが、それはその誰かの都合で喪われる自由に過ぎない。
そうした建前もあるが、それ以上に、トウカの矜持が女に縋って生きる事を良しとしなかった。二度、それを成して悲しみと屈辱を得た。三度目を求める程にトウカは勇敢ではない。
「彼女達の様に……先代ヴェルテンベルク伯やロンメル子爵の様に……」
涙を湛えた瞳が見上げ、トウカの腕に縋る。
トウカは、それを振り払えなかった。この期に及んで、まだ女の頬を濡らさねばならないのか、と思えば、宿命の存在を思わざるを得ない。
今のトウカに二人の名を出す事が如何に危険を伴うものであるか、クレアが理解できないはずがないが、それでも尚、口にするそれは覚悟の発露に他ならない。
「貴方が求める安寧を私が捧げます」
トウカは、拒む言葉口にできなかった。
我々は街を焼いた時、沢山の女子供を殺している事を知っていた。やらなければならなかったのだ。我々の所業の道徳性について憂慮する事は――巫山戯るな!
《亜米利加合衆国》 空軍中将 カーチス・ルメイ 皇国臣民の敵
「戦争は暴力的状態である。無制限にそれをせよ。さもなくば、家に帰れ。…我々は、とことんまで、皆殺しをしなければならない」
《仏蘭西共和国》 勝利の組織者 ラザール・ニコラ・マルグリット・カルノー




