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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第三章    天帝の御世    《紫緋紋綾》
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第二六三話    皇都にて 肆





「行方不明……情報部は何か掴んでいますか?」


 クレアは皇州同盟軍総司令部からの正式発表に流麗な眉を顰める。


 皇州同盟軍憲兵総監の頭上で政治的暗闘が行われている事は間違いないが、それはクレアの情報網には引っ掛からなかった。或いは、極少数の有力者による機略戦染みた争い故に、把握と伝達が間に合っていないという可能性もある。


「九課のマリエングラムならば……或いは」


 副官のアヤヒは可能性を口にするが、元より独立独歩著しい皇州同盟軍情報部九課など当てにできる筈もない。九課の拠点すら所在不明である。人員を捕捉する事は更に難しく、捕まえても九課全体を把握している可能性は低かった。


「誘拐か逃亡か……どちらであるとも書かれていませんね」


 行方不明とのみ宣言されているが、基本的には誘拐や拉致と見られている。


 公式発表では、同時に皇州同盟軍は残敵掃討後の順次動員解除を延期し、戦時体制を維持するとの宣言がなされたからである。外敵に奪われたものを取り返すべく、軍事力を保持しようとしている様に見えた。そして、保持する理由としては十分なものがある。


 寧ろ、概要を客観的に見れば、軍事力を保持する理由を正当化する為、トウカが身を隠した様に取る者が大多数を占める事は間違いない。


 クレアですら、そう思うのだ。


 ヨエルによる防空演習の意図は明らかに捜索任務に適したものである。クレアは天使系種族がいかなる種族であるかよく理解していた。憲兵隊への協力要請も不明確な形であるが、その配置は明らかに皇都の交通の要衝を押さえていた。憲兵が要衝に展開する事で捕捉対象は動きを制限される。


 経路を絞る意図がある事は間違いなかった。


 ――地下構造内への捜索はどうするのでしょうか?


 地上を入念に探したところで複雑怪奇な地下構造内に逃げ込まれては、天使系種族の飛行性能を生かせない。とは言え、トウカを捜索すべしと憲兵に命じる気配はなく、他の動員が成されている報告もない。皇都地下構造という巨大で複雑怪奇な地形で個人を捜索する以上、人海戦術とならざるを得ず、それは防空演習の目的が捜索であると広く知られる結果となる。


 ヨエルはそれを避けようとしているように、クレアには見えた。


 既に行方不明と周知された中でも体面を取り繕う必要性に、クレアは疑問を抱いた。


 ――閣下が皇都に居る事を知られたくない?


 クレアはヨエルの防空演習の動きを見て、何かしらの懸念事項があるのだと察する。


 そして、己の権限の範囲内でトウカの捜索を憲兵隊に命じるべく命令書の作成を始める。無論、北部全体に分散配置している皇州同盟軍憲兵隊に対しての命令書であるが、陸軍憲兵隊にも要請という形で捜索協力を仰がねばならない。無論、皇国全域での捜索活動である。


 ヨエルは皇都にトウカが居ると確信しつつも、他勢力には知られたくないと考えている事は明白だった。矛盾している様に思えるが、疑われる程度は許されても確信される事は望まない、或いは危険視しているのか。


 詳しい事はクレアにも分からない。


 ――渡すことを躊躇う勢力が存在する? あの熾天使に?


 熾天使ヨエルの影響力と権勢を以てすれば、中央貴族の専横とて容易く退けられるだろう。七武五公もヨエルに対しては舌鋒鈍いものがある。


 そんなヨエルが警戒する勢力が国内に存在するという話は、クレアも寡聞にして聞いた事がない。最悪、勢力ではなく個人である可能性もあった。


「やはり、九課が隠している可能性はないでしょうか?」


 アヤヒの指摘に、クレアは虚を突かれる……振りをして見せる。


 情報部内でも秘匿性の高い九課であれば、有り得る話である。


「……私を情報部の権力争いに巻き込まないで下さい」


 皇州同盟軍情報部内での課毎の軋轢は激しいものがある。予算配分からなる軋轢に他ならないが、九課だけは別系統の使途不明金によって運営されている為、他課からの風当たりが強い。尤も、同じ情報部関係者にすら滅多と姿を見せない九課の面々が相手では皮肉をぶつける事すら困難であった。


「ハルティカイネン大佐が皇都からフェルゼンに帰還して直ぐに公式発表……何かしらの情報を握っているのでしょうね」


 トウカの行方不明が正しいのであれば、ベルセリカが公式発表を許容しない限り為されるとは考え難い。皇州同盟の次席に位置するベルセリカの権勢もまた絶大である。実情として、皇州同盟成立はトウカのものではなく、ベルセリカの権勢を恃んで為された側面があった。


 移動時間を踏まえれば、ベルセリカの判断は即決に近いものがあったと推測できる。無論、機密漏洩を覚悟で陸海軍の長距離魔道通信を利用して状況説明を行えば意思決定速度は向上したが、その危険性を情報将校のリシアが座視する考えるのは現実的ではない。


 憲兵中将よりも情報大佐がより多くの情報に触れる機会があるのは当然であるが、クレアは己の立場に歯痒さを感じた。


「不自然な部隊も確認しています。鋭兵小隊と神殿騎士団が混成で警戒行動に当たっている様子ですが……大御巫も一枚噛んでいるとか」


 宗教が有する戦力と軍国主義軍閥の戦力が共同作戦を展開している。


 クレアは眉を顰める。


 皇都に於ける皇州同盟の拠点である皇都擾乱の際に取り潰した商会の本社……その最上階の執務室。そこより見渡せる晴天は突き抜ける様な紺碧を湛え、皇都の日常を睥睨している。


 しかし、暗闘は氷雪降り(しき)る内戦の最中よりも過熱さを増していた。


 各貴族直属の諜報部隊に、政府情報室や陸海軍の情報部、近衛軍分析部……そこに帝国や共和国の間諜まで加わっての混戦状態となりつつある。二日に一度は沿岸部で身元不明の水死体が収容される有様であった。


 相手組織の諜報網や資金源、武器庫、協力者を潰し、時には二重間諜(スパイ)や非合法組織と憲兵隊の代理戦争すら起きている。


 形を変えた戦争がそこにはあった。


 編制が如何(いかが)わしい合同部隊が不審な行動をしていても不可思議とは思えない程度には、地方にも混乱がある。陸軍〈東方方面軍〉などは神州国を懸念し、充足と再配置が盛んになり、海軍〈聯合艦隊〉は主力艦隊を皇海近傍の軍港へ移動させていた。


 帝国との戦争で報復という声が抑えられたのは、それ以前に皇国の領有する島嶼を占領した前科のある神州国に対する警戒心が根底にあった。


 トウカは神州国を軽視していた。否、正確に現状を把握していた。


 商業国家の側面もある皇国は商用航路の保全に熱心であり、海洋戦力に劣る点を良く弁えていた。対するトウカは海洋での航空優勢を確実に確保できる二年程度のみの忍耐で済むと考え、現状でも迎撃を行えば敵艦隊に甚大な被害を与え得ると確信している。


 その差が対帝国戦役継続の明暗を分かつ一因となった。


 だが、現状で大星洋の覇権を賭して神州国が挑戦してくるとは、クレアには思えなかった。


 既に海洋優勢の確保の算段は為されており、皇国には航空母艦と戦略爆撃騎がある。艦隊決戦で戦術的勝利を得ても、本土空襲によって戦略的敗北を喫する余地は少なくない。軍事的に見て相打ちでも、外交的に見れば神州国が敗北となるのだ。そうした危険性を犯してまで神州国が冒険に興じるとは思えない。


 しかし、それは神州国が戦略爆撃騎と航空母艦の有用性を正確に推し量っていた場合に限る。


 或いは、戦略爆撃騎部隊や空母機動部隊の増強が行われる前に、攻撃するしかないと考える可能性もある。経過と共に勝算が乏しくなるならば、打って出るというのは可能性として有り得た。


「動きたいところですが、予定が立て込んでいますね。我が憲兵隊は北部での治安維持主体に戻りつつありますが……」


 クレアは明日の予定を思い出して嘆息する。


 副官の気遣わし気な視線すら煩わしく感じる程の激務であるが、それは軍務ではない貴族社会を相手にするという部分からなるものであった。本来は想定してすらいない上品極まる遣り取り……舞踏会に夜会に晩餐会などを梯子するというものは、憲兵となった当初には想定していなかった事態である。


 ――思えば内戦辺りから想定外ばかりが続きます。


 どうにかした命令が乱舞し、既存戦略が突然変更され、忽ちに敵を殴り付けたのだ。それも迅速に過ぎ、情報を得るのは全てが終わった後という事が立て続けに起きた。


 秘密主義というものではなく、機略戦に迅速な戦術行動が加わり、情報共有の時間差を優越したのだ。無論、そこにはトウカの北部に相応の間諜が居るであろうとの予測があったと見て間違いない。


 間諜から情報を得て対応を講じるよりも早く、敵を殴り付けるのだ。


 控ええ目に見ても咄嗟的な軍事行動であり、事前準備に乏しいそれは成功するとは思い難かった。それはトウカも承知で、それを補う要素として機甲戦や近接航空支援が行われた。本来は相応の準備と期間を以て行われる筈の砲兵による予備攻撃を思い切って大幅削減してまて対応される事を避けた事で成功する。広域戦線からなる戦線の薄さもそれを助けた。


 彼は情報面での不利を理解していた。


 それは、作戦準備を偽装、誤解させる為に幾多もの偽の作戦計画や陽動が行われた事が裏付けている。クレアもまた攻勢時期を誤解させる為に間諜の一斉摘発時期を前倒しにした。


 迅速な指揮と準備で機先を制すると野戦将校は考えているが、情報部や憲兵隊は防諜の面からトウカの軍事行動を評価している。無論、最大の評価は予算増額に伴うものであったが。


「明日の衣裳はどうなさいますか?」


「……軍装にします」


 クレアとて育て親が公爵位を持つ熾天使である。貴族を相手にする際の衣裳は理解しており、着こなす事も容易い。そうした教育は受けており、礼儀作法も同様であった。


 しかし、それを好んでいる訳ではない。それを好むならば貴族令嬢として安楽な生活を送っていただろう。


 クレアが皇都に駐在しているのは連絡将校という意味に加えて、皇州同盟の協力者や理解者を獲得する為の宣伝や情報共有という意味もある。憲兵総監とは言え、熾天使と関係のある立場を利用した人事であると周囲は見ており、トウカが組織運営をそれなりに行える人物と見做す要素となった。


 クレアは、ミユキを利用した点をトウカに危険視され、北部に置いたミユキから距離のある立場に押し込まれたのだと理解している。そうした部分が露呈せず、懲罰人事とも思われない立場を与えたのは、セラフィム公ヨエルとの関係を重視した結果であった。


「私も随伴せねばなりませんかね?」


「軍人としての義務を果たして貰います」


 軍閥という政戦の垣根が曖昧な組織の軍人の義務とは、単純明快である。


 大凡の国家で禁忌とされる政戦の結合を無視しても尚、利益を齎す事であった。










「そう、ミユキが……」


 母狐の言葉に剣聖は首を垂れる。


 蘭州藺草の薫りが滲む神州造りの一室で二人は相対していた。


 ミユキの戦死を伝える為、ベルセリカがヴェルテンベルク伯爵家を訪れたのだ。


 中尉という階級に過ぎないミユキだが、貴族や政治という立場から見れば、一介の中尉として戦死通知を郵送して遺族年金の手続きをして済ませるという訳にはいかなかった。狐系種族筆頭の天狐族の姫君にして、今第ヴェルテンベルク伯の娘、当代シュットガルト=ロンメル子爵……そして、皇州同盟総司令官であるトウカの恋人。あまりにも複雑怪奇な立場は、周辺が政略や謀略に担ぐ事すら躊躇する程である。


「申し訳御座らん」


 そうとしか言えず、ベルセリカは歯痒さを感じるものの、それを表情に出す事はない。


 既にベルセリカの指揮統率の下で、幾多の若者が戦野に赴いて戦死している。遺体すら見つからない事は珍しくなく、見つかったとしても効力射で四肢が喪われた者や、春先に駆け回る獣達に食い荒らされた者も少なくない。帝国軍兵士に種族的な部位を切り取られた者や、雪解けに晒されて水分で膨張した者など……遺体には様々な死に様があった。


 その蛮行は酸鼻を極めている。


 本来、戦争それ自体が蛮行にも等しいのだ。


 国を護る為、家族を護る為、愛する者を護る為……聞こえが良い建前と本音を胸に抱いて戦場に出た若人達は、今際にその様な事など露ほども考えなかったに違いない。或いは考える時間的余裕すらなかったか。


 多くを殺し、或いは生還の望めない戦野に送ったベルセリカだからこそ理解している。


 戦野に赴く前と戦野から帰還した後では、そうした感情は逆転するものである。国家や銃後などは戦野以外での方便に過ぎない。逆に戦野で殺し殺される最中であっても国家や銃後の為だと信じて疑わぬ者は、良くも悪くも歴史に名を残す者が多かった。


 武士として胡坐の儘に両の拳を畳に突いて首を垂れるベルセリカに、マイカゼは首を傾げて訊ねる。


「行方不明ではないのね?」


「トウカとの“契約”が切れたとの事であるが……」


 魔術的な契約の途絶は死を意味する。


 遺体未発見、或いは友軍将兵からの報告なき場合、行方不明扱いとなるのが通例であるが、今回の戦死に関してはトウカの証言が大きな意味を持っていた。将兵の証言に関しては確証を求められる場合も多いが、今回は契約の途絶という要素が加わった事で確固たる確証ありと判断される。


 その事実に、皇州同盟軍総司令部は紛糾した。


 トウカの行方不明と合わせての事であるが、差し迫ってミユキの戦死をどう扱うかという点は大きな紛糾を齎した。


 マイカゼの勘気に触れる真似を避けるべく、当面は行方不明扱いで済ませるという意見もあれば、積極的に喧伝して帝国軍への復讐を煽動するべしとする意見もあり、会議は紛糾した。無論、〈北方方面軍〉総司令官という指揮系統が違う筈のベルセリカが、関係者だからと伝達する役目を負わされるという点は全会一致で承認された。誰とて当代ヴェルテンベルク伯の不興を買いたいとは思わない。


 しかし、マイカゼは然したる動揺を見せない。


 極最近に貴族となったとは思えない程に貴き者として振る舞う母狐。


「そう……でも、問題はトウカ君でしょう?」


 ミユキの問題を脇に置いて、トウカの状況を訊ねる。負い目のある状況で訊ねれば、機密事項も聞き出しやすいとの意図がある事は明白であったが、ベルセリカとしても事実として断り難いものがあった。


「それは……此方でも足取りは掴めておらんが……皇都の可能性が高かろう」


 ベルセリカは率直に現状を告げる。


 リシアから得た情報も含むそれは、皇州同盟や北部の今後を左右しかねないものであったが、どちらからしても中心的な部分を構成するヴェルテンベルク領の領主を軽視する事はできない。


「困るのよね。マリィの代替品として不足がある事は自覚しているけれど、情報共有を疎かにされるのは政治に響くもの」


 マイカゼ曰く、トウカ行方不明の一報後に、マイカゼへと今後を相談する北部貴族は少なくない。皇州同盟の不安定化と主導権争いを予想する者はベルセリカが居る為に少ないが、軍事行動に於ける劣化を不安視する者や、中央への迎合がなされるのではないかと危険視する者。其々が其々の不安を抱いてマイカゼへと相談に訪れた。


「私と皇州同盟の連携がそれ程でもないと見た者もいるんじゃないかしら?」


 そうした貴族との遣り取りで情報不足は、良からぬ印象を与える結果になってしまう例もある。マイカゼも然るもので、それを悟らせないだけの知性と品性と兼ね備えていた。しかし、老練な貴族が相手となれば一方的に誤解させることは難しい。


「ダルヴェティエ侯辺りは、恐らく察したわよ?」


 政務卿として辣腕を振るう相手に善戦できる程に、マイカゼは交渉術に優れている訳ではない。貴族重鎮としての経歴に差が在り過ぎた。ある種の妖怪を相手にできる者は少ない。トウカの如く割り切って露骨に軍事力を背景として交渉を迫る真似はできなかった。一応は同胞なのだ。


 ベルセリカとしては、今一度、頭を下げるしかない。


 北部の地力を試すかの如き武力行使が続いた為、権力が皇州同盟軍に酷く偏っている現状の弊害である。軍部が総てを決する状況になりつつある。そうした部分でも皇州同盟は均衡(バランス)を取らねばならない。政治が拡大させる経済規模は軍事力と比例する。


「兎にも角にも探す他あるまいよ。情報部の人員を其方に振り分ける事は決定したが……実際に捜索が始まる迄には時間が掛かろうな」


 各地での諜報や工作を中断して皇都に集結させるだけでも相応の時間を要する。現状の業務を中止する事に、情報部部長であるカナリス中将が難色を示したが、こればかりは選択肢がない。


 皇州同盟の憲兵隊は帝国軍残党や軍事的混乱を見越して流入した犯罪者などによる治安悪化への対処の為、北部に展開し始めている。人的余裕はなかった。


「世を儚むには些か若輩に過ぎると思うのだけど……何処かの剣聖の如く厭離穢土を決め込んでいるのかしらね」


「……さて、どうで御座ろうか」


 迂遠な、自らの過去を鑑みて捜索してみてはどうか、という意見をベルセリカは黙殺する。詳しく口にする無駄を望まないが、前提条件に差が在り過ぎて参考にならなかった。


「人口密集地に隠れ潜むのが上策であろう。捜索があれども複雑な都市と人口が阻害しような。なにより諸勢力の思惑が交錯する皇都ならば制約も多い」


「でも、公式発表したのでしょう?」


 一所に留まる事を危険視して他地方に逃れる可能性を暗に示したマイカゼだが、ベルセリカはそうであれば有り難いとすら考えていた。


「向こうの協力者が皇都から出る者を見張っているとの事らしい。驚いたことに」


 まさか膨大な数が居るであろうそれを可能とする手段が存在するとは、ベルセリカは夢にも思わなかった。アーダルベルトの提案として、リシアを経由して提案されたそれに、ベルセリカは皇国を支配する権力者の底力を見た気がする。


「しかし、良いのか? ミユキの事は……」


 シラヌイの気落ちを知る身としては、ベルセリカは引っ叩かれる程度は覚悟していた。


 ミユキによるライネケの防衛には失敗した。


 だが、それは拠点防禦という視点から見た場合であり、住民の大部分を逃れさせた点を鑑みれば作戦目標は達成していた。


 誇るべき事をした。


 民衆を守って戦死したのだ。軍人の本懐ですらある。


 しかし、両親から見れば戦死も死である。そこに特別な理由を差し挟む事は慰めとはならない。


 ベルセリカの言葉に、マイカゼは瞑目すると首を横に振る。


「その為に三人も仔を成したのよ」


 要らぬ感傷だとマイカゼは嫣然一笑を以て切って捨てる。


 彼女は高貴なる者の義務を良く理解していた。絶やされた血筋は二度と戻らないのだ。


 次期伯爵の予備はある。貴族としての問題は生じない。


 貴族ではなかったが、狐系種族の頂点に立つ種族の族長婦人である以上、その血族の保全は最優先事項である。今は名実共に貴族として国家権力の一翼を担う立場となり、マイカゼは娘達を貴族の娘として扱わねばならくなった。高貴なる義務とは、見方を変えれば悲劇に過ぎない。


 斯く振る舞わねばならないのだ。


 それが(とうと)(やから)の在り方である。


 ベルセリカは話題を変える。二人に取り愉快な話題ではない。ベルセリカにとっても、ミユキは娘の様なものである。


「御主は、サクラギ元帥が……その……至尊の立場への資格があると聞いて驚かぬのだな」


 情報を口にする最中に、マイカゼは然して驚きを示さなかった。


 相応の顔触れである総司令部や参謀本部の取り乱し様を知るベルセリカとしては、マイカゼの沈黙を訝しく思えた。幾らトウカが蛟竜雲雨の体現者と思しき片鱗を見せていたとはいえ、至尊の戴にまで上り詰める資格があると考える者など、総司令部には居なかったのだ。


「契約までして相手を繋ぎ留めるんですもの。焦る理由としては、その辺りが妥当でしょうし……あの娘、それらしい事も言っていたから」


「……それは」


 マイカゼがトウカの正体に思い当たっていたという衝撃の事実に、ベルセリカは言葉がなかった。軽々に言えるものではないが、それを聞けばマイカゼがトウカに妙に協力的であった事も納得できる。突然現れた人間種の若者にくれてやる程に天狐族族長の娘は軽い存在ではない。


「その内、人間種なんて柵に囚われて無様を晒して終わると思っていたのだけど……ああ言われては引き離せないわ」


 トウカがライネケに初めて訪れた際、マイカゼとミユキの水面下での遣り取りが行われていたのだ。


 ――あれも一端の女狐であったか。


 天真爛漫にして純真無垢な姿ばかりが思い起こされるが、マイカゼに絞って掣肘を加える動きを見せるというのは女狐と呼ぶに相応しい動きである。シラヌイではなく、マイカゼという事実上、天狐族で主導権を有している相手を抱き込もうとした点は大いに評価できた。


「まぁ、想像以上に雄飛したからあの子を取り上げる訳にもいかないし……マリィがあんなに容易く軍の指揮権を預けた以上、無視できなかったもの」


 最悪の場合、トウカの指揮権の範疇に於いてライネケ侵攻とい事態も有り得た。殺戮ではなく、駐留と自治権の剥奪はヴェルテンベルク領内である以上、正当性を確保し易い。名目は税収の明確化とでもしておけばよい。隠れ里というのは税収の不明確化を招く。近代に在って隠れ里というのは、領主の温情を前提とせねば存在し得ない。


 マリアベルが看過していたとはいえ、書面化された協定があった訳ではなく、トウカが説得に成功した場合、進駐軍の展開は有り得た。当然、トウカはミユキにライネケ防衛の戦力であると言い募るに違いない。


 ――尤も、その方が良かったのであろうが……


 ライネケに一個鋭兵小隊が襲撃当初より展開していれば状況は大きく変化していたに違いなかった。否、天狐族が高位種である事を踏まえれば、確実を期して一個中隊は必要である。そうなれば、戦況は皇国軍優位に推移していた事は間違いない。ライネケに攻め寄せた帝国軍を叩き出す事とて容易であった。


 マイカゼとトウカの関係が今少し険悪であったなら、ミユキが命を落とさなかった可能性。


 有り得たかも知れない可能性を、ベルセリカは一笑に付す。


「歴史に“もしも”はありはせぬか」


「……そうね」


 死者は何も語らず、歴史は過去を押し潰していく。


 だが、長命種は、その長命ゆえに永くそれを記憶に留める事になる。長い永い一生という牢獄で後悔を続けるのだ。何時の日か寿命を迎えるか、或いは積み重なる後悔に圧し潰されるその日、その時、その瞬間まで。


 マイカゼは瞑目する。


 激動の時代で立場を得るという意味を彼女は思い知ったのかも知れない。ベルセリカは五百年前に幾度も経験したが、マイカゼは政略家としての能力をマリアベルが認めた程の人物であるとはいえ、ライネケという閉ざされた安息地に逼塞していた者に過ぎなかった。


 実体験が現実とマイカゼの認識の齟齬を埋め合わせつつある。


 代償は娘。


 歴史を見た場合、権力を振るう代償としては希覯なものであると言い難い。


 ただ、誰しもが当事者になるとは思わない。確率論として低いと考慮しないか、耳を塞いで目を逸らすかの違いはあれど、誰しもが当事者となると真には考えていない。


 ――じゃから(いくさ)が起こる。


 失う当事者となる事を自覚すれば戦争などできないのだ。


 その自覚を有して尚、闘争を躊躇しない者は皆無に等しい。立場を得た者が持たざる者であり続けた例など歴史上、存在しないのだから。


「あの仔は姫様という幻想に憧れていた。でも、それは権力の名称の一つでしかなかったわ。……止めるべきだった」


「座して愛する者の帰還を待つ……あれにできるとは思えぬが」


 二人は苦笑するが、マイカゼのそれは寂寥感を伴う笑みであった。



 往くものは風の如く容易い。されど残る者の心情には不帰鳥の慟哭がある。



 若者は遺される者の事など考えずに死地へと飛び込んでいく。自爆行為を為す者が若者ばかりであるように、熱意と感情に浮かされた若者は有事に若く幼い正義感を発露させて従軍した。それを知った上で、或いは誘導する国家は、最大多数の幸福という大義名分の下、若者を効率的に前線へと投じる殺戮機械へと転じる。


 軍隊が暴力装置なのではない。国家そのものが暴力装置なのだ。


 より効率的に、より効果的に国民を犠牲にしながらも敵国を殴り付けて最大多数の幸福を希求する。


 時に矛盾したそれに全力で取り組む狂気を、ただ機械的に為す統治機構。


 それもまた国家の側面の一つである。


「ミユキもトウカも現実を現実と考えておらなんだ。その若さゆえに確証なき確信を抱いておったという事で御座ろうな」


「……年相応だったという事ね」


 ミユキは兎も角、トウカは子供と扱うには政戦に於いて智略縦横に過ぎた。子供として観る者こそが誹られる人物となった相手に、ベルセリカもマイカゼも彼の年齢を忘れて優秀な指導者として扱ってしまう。


 年若いトウカに国防という負担を押し付けるべきではなかった。あくまでも責任と主導権は大人達が担うべきだったのだ。


「トウカ君の若さを危険視した事はあるのよ。でも、既に彼は北部の統治機構に欠かせない人物になっていたわ。選択肢なんてなかった」


 トウカの過激な姿勢を背景に、周辺勢力に対する条約などの政治的不利を跳ね返したマイカゼの言い様に、ベルセリカは僅かな反発を覚えるが、年長者としての義務を果たさなかった立場は同じである。詰る真似をできる筈もなかった。


「リシアはあれを探して居るが……今はそっとしておくのが良かろうな」


 追い詰められたトウカが何をしでかすかという疑念をベルセリカは振り切れないでいた。


 皇都は魔窟であるが、トウカを担ごうとする者が居ても不思議ではない都市でもある。非合法組織を含めれば群雄割拠と評して差し支えない数の勢力が鎬を削る政治的要衝。トウカの名声と遺恨は使い様を過たなければ大きな力となる。


 挙句に熾天使が居る。


 ベルセリカにとっても無視し難い相手であるが、トウカを異様なまでに優遇している事は水面下でしか動かなかった天使系種族が政戦で表面化を躊躇しなくなった事からも窺える。


 数千年に渡って堅持していた姿勢を変えるだけのナニカがトウカにあるのだ。


 政戦両略のトウカに期待したなどという理由であるはずがない。現状のトウカの政戦を覆せるだけの才覚と組織力をヨエルは有している。それだけの影響力が彼女にはあった。


 熾天使が軍神をどの様に扱うか、剣聖は図りかねていた。


 リシアが危機感を示すところの突然な大規模防空演習が、実際にトウカの確保を前提としたものであるか、ベルセリカは疑念を抱いている。魔導資質を全く有さないトウカは魔術的な探知を受けず、屋内に居れば発見は難しい。防空演習である以上、民間人の大部分は屋内に退避するであろう事は容易に想像できる。屋内の全てを探索するなど不可能であった。屋内に兵士を突入させて隈なく探すなど現実的ではない。無論、兵数の問題だけでなく、民衆の反発という部分もある。


 ベルセリカの懸念を他所に、マイカゼは彼女の発言を別の意味で捉えた。


「あら? 皇都と教えたのは擾乱目的だったのかしら?」


 首都という政治的要衝に自ら飛び込むのは発見される確率が上昇すると見る事も出来る。人口も多いが、防諜に携わる要員もまた多い為であった。


 ベルセリカとしては、選択肢として皇都が最も確率が高く、次点で神州国であると考えていた。


 皇都の都市構造が追撃の手から逃れ易い構造をしているというものではなく、生きる為には何処かに身を寄せざるを得ないからである。霞を食べて過ごせるはずもない以上、働き口は必要であった。当然、正体が露呈し難い非合法な仕事である。そうした仕事は人口密集地に集中する傾向があった。


 ――極道の食客にでもなっていれば安泰なので御座ろうが……


 非合法でトウカの才覚をそれなりに生かせる職業である。


 トウカには銭儲けの才能があり、気に敏い人物である事は皇州同盟の誰しもが知る事実であった。商才ではない。銭儲けである。法律の抜け穴を狙い、時には武力を背景にした金銭の収集である。無論、当人は提案や指導だけで表には顔を出さないようにせねばならないが、トウカの才覚に気付いたものであれば、厚遇を以て迎え入れるだろう。次点で退役兵士に紛れて右派団体というものもあるが、軍組織に所縁のある人物が多く属する都合上、相応の危険性(リスク)が伴う。


 対する神州国であればトウカの容姿は目立たず、防諜が雑であるという長所がある。植民地を求めず、海洋の要衝の保持に留めるという国家方針を採用していた神州国は、伝統的に諜報戦に疎い。進出してきた敵国の艦隊を、近傍海域で大艦隊という棍棒で殴り付けるという方針を採用している海洋国家が防諜に熱心である筈もない。古来より大海に浮かぶ孤島に等しい神州国への外国人の立ち入りは難易度が高く、それに伴う姿勢が現在に至るまで続いているのだ。


「尤も、自殺して何処かで屍を晒している可能性もあるが」ベルセリカは溜息を一つ。


 無論、ベルセリカはその可能性が極めて低いと見ていた。


 世を儚んで……というには彼は責任や問題を外部に求め過ぎる傾向にある。個人の人格としては大いに問題だが、だからこそ能動的で主導権の確保に固執し、敵と認めた相手を殴り付ける事に何一つ芳心を示さなかった。


 軍事戦略に必要不可欠な酷烈なまでの積極性を人格に滲ませたトウカ。


 容易く自害するとは思えなかった。


 特に諸問題の根源たる帝国を放置して自らの生命を断つという真似をトウカが行うなど、ベルセリカには及びもつかない事である。無気力と後悔から然したる動きを見せていないだけに過ぎず、遠くない未来に燃え上る復讐心を胸に政戦を行使し始めるだろうと確信していた。


 彼の人間的に欠けた部分がそうさせるのだ。


 負の感情。

 悪意の権化。

 不信の前提。


 それらは、人間性を歪める代償に闘争心と野心からなる積極性を与え、彼の知識がそれを補強した。


 それこそがサクラギ・トウカという男の本質であると、ベルセリカ・ヴァルトハイムは信じて疑わない。嘗ての主君が臆病を滲ませる事も少なくなかった事に対し、臆病という要素を残しながらもトウカは積極性を失っていない。否、積極性を支える要素としている。


 マイカゼはトウカが既に失われた可能性に対する言及に眉を顰める。


「それ、次の戦争の引金になるんじゃないかしら?」


 まさか女を喪って絶望した挙句に自害しましたなどという公式発表などできる筈もない。犯人を帝国という都合の良い敵に押し付けるのは目に見えていた。皇州同盟の保全のみを踏まえれば、それが最上に他ならない。


 しかし、それは皇州同盟による帝国への姿勢を懲罰一辺倒にさせるだろう。


 戦略爆撃航空団と航空艦隊を持つ軍閥による報復。


 それは紛れもなく殺戮の饗宴となるだろう。


 航続距離圏内の帝国諸都市を無差別爆撃するという決断が下されかねない。軍閥という武力に依って立つ実力組織が指導者を殺害されて泣き寝入りするなど武名の失墜を招く。彼らは握り締めた武力で周辺諸勢力に権利を主張するのだ。


「いや、それが目的やも知れぬな」


 トウカの死を公式見解とした皇州同盟の報復論への傾倒。


 自らが身を隠す事で、トウカの目的は叶うのだ。


 遺体不在の中で死亡を公表しても信憑性は低いが、その辺りの偽装は容易い。何より指導者が表舞台から去る事を前提にした報復感情の醸成など意図する筈がない。権力を手放す真似をできる者などそうはいないのだ。


 ――こそこそと司令部の片隅で謀略を巡らされるのも不安であるが、居なくなればそれはそれで不安が増すというのも……


 帝国本土侵攻に皇国諸勢力が慎重な姿勢をして好機を逃しつつある中、皇州同盟単独での攻撃に正統性を齎そうとしているのではないか?


 ベルセリカは次々と生じる疑念に喉を鳴らす。


 トウカは、皇国を業火に()べる事を躊躇しないだろう。


 ベルセリカは岐路にある。


 皇州同盟の行く先を示す者として。盟主はアリアベルだが、トウカ不在が公式見解となった以上、ベルセリカは〈北方方面軍〉と皇州同盟軍の両軍を統率する立場に就かざるを得ない。そうでなくては皇州同盟は分裂する。


 図らずとも、ベルセリカは皇国近代史に於いて稀に見る大兵力を束ねる立場と言える。


 降って沸いた大権にベルセリカは頬を歪める。


 嘗て疎んじられて逃げ出した己に、大権が転がり込んでくるという皮肉。


 歴史が嘗ての報復を成せと叫んでいる様にすら彼女には思えた。


 そうしたベルセリカの葛藤や懊悩を尻目に、マイカゼはどこか楽し気に首を傾げる。ミユキの事など露ほどにも感じさせない。謀略の女狐の姿がそこにはあった。彼女もまたマリアベルの後継者なのだ。


「でも、トウカ君……なんて呼べばいいのかしらね? 皇太子? 神祇府が承認していない以上、立場に名前なんてないものね」


 基本的に次期天帝資格者というの者は皇太子としていずれかの公爵家に預けられて国家と国政について学ぶ事になる。同時に各公爵家と面識を持つ事で即位後の意思疎通や信頼関係醸成を意図したものである事は間違いない。


 もし、即位するならば、トウカは各公爵家よりも皇国北部に所縁のある天帝として即位する事になるだろう。皇国史に於いて初の事である。同時に公爵家と衝突した過去のある人物の即位として見る事もできる。


 政治的混乱は避けられないだろう。


「聖上でも主上でも殿下でも……好きに呼ぶが良かろう。某は知らぬ」


 政治という面倒を武辺者に求めるなど堪らぬわ、と顔を顰めたベルセリカ。


 だが、名称など気に留める者が居なくなる程の嵐が待ち受けているという点だけは、二人揃って確信していた。






往くものは風の如く容易い。されど残る者の心情には不帰鳥の慟哭がある。


                  《大日本帝国》陸軍少尉 第二七振武隊 原田栞


                


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