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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第三章    天帝の御世    《紫緋紋綾》
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第二六二話    皇都にて 参




「航空歩兵や憲兵には誰を捜索するかは示されていないしょうが、直前には開示するかと」


 容姿を知らぬ者を捜索せよと命令する愚を期待できる相手ではない。


 間違いなく機略戦の常識(セオリー)に従い、開示後は大規模で即応的な行動による対象の確保を指向する筈であった。


 皇州同盟の動揺を最小限に抑え、尚且つ動きを利用するならば、先んじて皇州同盟から公式発表を行ってセラフィム公と連動している様に“見せかける”必要がある。それには動揺を抑えるという意味以上に、対象の確保がなされた後の安全に繋がるという意味もあった。非公式な対象確保であれば隠匿される可能性があり、引き渡し要求自体も難しい。確認できても白を切られる真似を避ける為、対象の確保は広く知られるべきであった。牽制と成り得る。


「防空演習前に皇州同盟から公式発表をするしかないでしょう。見つからないと期待する真似はできません」


「その必要はない。憲兵も航空歩兵も天使系種族で統一されたものだ」


 アーダルベルトの断言を以て伝えられた言葉の意味に、リシアは戸惑う。


 天使系種族の紐帯が他種族から見た場合、些か度を越したものである事は語るべくもないが、それでも情報統制の原則から逃れ得るものではなかった。関係者の増加と情報漏洩の危険性(リスク)は比例する。


 気難し気な神龍に、紫苑色の少女は窺う様な視線を投げ掛ける。


 私の知らない要素がある。そうリシアは確信した。


 そうした無言の問い掛けに、アーダルベルトは溜息を一つ。


「国家機密なのだがな……光輪だ」


「光輪? あの天使が能力を発揮する際に頭上で光る輪の事ですか?」


 白翼は他にも類似したものを持つ種族が存在する為、唯一無二として天使種の代名詞とされている光輪。原理や能力は不明であるが、然したる効果のあるものではないと一般的には噂されている。天使系種族の見解では、高位魔術行使の際、増幅効果を齎すものと説明されていた。端的に言えば、周辺魔力を高効率で集束させる効果がある。


 少なくとも、そうした評価が一般的であった。


「あれは、ある種の通信装置……あの男の言葉を借りるなら戦域統合情報処理機構(システム)……らしい」


「戦域統合情報処理機構(システム)? あのサクラギ元帥が妄想していた高度な戦場統制を行う仕組みですか? 冗談でしょう?」瞬時に否定するリシア。


 軍に於ける画期的な情報処理、情報統制、情報伝達を担う一連の機構(システム)の呼称が戦域統合情報処理機構(システム)と呼称する。


 指揮官の意思決定に必要とされる諸情報を視覚的、数値的に一元化して統制。その結果として発令される命令を隷下部隊に伝達するというそれら全体を指す指揮機構(システム)である。軍という組織が歴史に成立して以来の問題点である意思決定速度を技術的迅速化によって達成するという目的のものであった。


 敵軍に対し、不利な戦況を強要して主導権獲得を図る戦術行動……俗称で機略戦(Maneuver warfare)と称されるそれを、支援する為の装備である。部隊運用や火力投射の効率化を高度な次元で発揮する為のものであり、軍事組織を効率運用すべく積み上げられた概念の総算と言えた。


 現在の通信技術の発達を踏まえた上で、更に踏み込んだそれは、あらゆる情報を通信網(ネットワーク)の下に一元化するが、その際に重要なものが演算装置であった。


 トウカの要求する規模での情報処理はヒトでは成し得ず、明らかにヴェルクマイスター社で開発が行われている電子技術と魔導技術による演算装置を前提にしたものであった。将来的には大型艦艇に搭載されている全天球型投影技術を併用しての指揮が想定されている。


 皇州同盟軍技術廠が現状では雛形が完成するまでに三〇年は必要と判断したそれは、参謀本部でも疑問視されている。陸海空の一体運用ですら始まったばかりの中で、全情報を自動で入力し、選別、解析、処理して眼前に画面表示するというのは夢物語に過ぎなかった。


「天使系種族を基幹戦力に据えた装甲擲弾兵師団が異様な連携を発揮しているのは知っているな? 誰しもが年の功だと嘯いているが、実際は違う」


 阿吽の呼吸で済ますには瞬発的に過ぎる連携は帝国陸軍の戦線を混乱させた。


 通信よりも尚早く連携するそれに既存の指揮系統が対応できる筈もなく、異様な連携は胸囲の突破力を齎した。


 陸軍〈北方方面軍〉に抽出された〈第二三五装甲擲弾兵師団『ノーラ・ヴォルフェンビュッテル』〉師団長であるエルネスティーネ・フォン・マイントイフェルを始めとした天使系種族が師団長を務める装甲擲弾兵師団は異様の一言に尽きる戦果を挙げている。航空歩兵の直協支援は地上部隊の要請よりも早く、精密であった。それは帝国軍の形成した戦線を熱した軍刀で雪像を貫徹するかの如く突破している。


 アーダルベルトの言葉が正しければ、天使系種族の人間離れした指揮能力にも一応の説明が付く。リシアはトウカがセラフィム公に消極的姿勢である理由がそこにあるのではと邪推すらした。


「集合的無意識をヒトの身体構造を残しながら可能な限りに最大化させた存在が天使なのだ。だからこそ天使は神代に在って多種多様な種族の戦列を纏め得た」


 その為に創造された種族なのだと、神龍は語る。


「確かに歴史的経緯からすると納得できますが……」政争に神話まででてくるのかと、リシアは天を仰ぐ。


 神話を現代軍事学的に解釈すると、天使系種族がそうした能力を持っていなければ不自然なところが多々ある事は確かである。無論、虚実入り乱れる神話に真実を求める無為を成そうとする者は歴史学者のみであるからして、そうした意見が脚光を浴びたことはない。大前提である神話の歴史的信用性を確保できない以上、当然の帰結である。


「投入した天使系種族全ての視覚情報をセラフィム公に伝達し、彼女がそれを確認するのだろう」


「ちょっと待ってください! それは不可能です。数千名規模の視覚情報を個人が一元的に管理して処理するなんて……」


 門外漢であるリシアからしても、脳科学的に可能であるとは思えない。


 ヒトの脳がそれほどまでに高性能ではない程度の事は科学的にも魔導的にも判明している。例え、優れた身体構造をしている高位種であっても例外はなく、限界値は判明している。旧文明時代の設計仕様書が現存している種族すら存在するのだ。


「俺もそう思いたいが事実だ。天使共は現世に然して興味を示さなかったからこそ表面化しなかった事実だが、あの女がサクラギ元帥に興味を示した事で判明した」


 どうも天使からすると当然の事らしい、とアーアルベルトは溜息を一つ。


 問い詰めた結果、さも当然のように返された言葉に、アーダルベルトを始めとした他の公爵は天使系種族という特殊な立場を再認識した。それが、一人の少年に“好意的”であるという恐怖も合わせて。


「実情としては、上位個体が優位の四角錐(ピラミッド)型の集合的無意識だ。視覚共有などを含めた大部分の能力は上位個体に優先権がある」


「……大部分の能力ですか?」


 それは、つまり能力が一つではない事を意味する。


 アーダルベルトは沈黙して答えない。知るべきではないと見たからか、無意味だと考えたからかリシアは、その意図を図りかねた。


 だが、逆説的に言えば集合的無意識に関わる情報開示がなされたという事は、天使系種族と皇州同盟が連携して敵対しないと見ている事を示している。何かしらの合意があるのであれば別であるが、存在しない場合は別の意味を持つ。


 ヨエルが皇州同盟との関係を重視しているのではなく、トウカ個人との関係を重視していると見ることができる。少なくともアーダルベルトが連携を危険視しなくなる程度には。政府や中央への影響力に乏しい皇州同盟としては、好意的な公爵位保有者の存在は大きい。今後の政治戦略は変更を迫られる事は疑いなかった。


 二人の遣り取りには、国家戦略を左右する内容すらも含まれているが、然して気負う事もなく応酬が続く。


「……嘗て我らを創造した支配種族は正しかった」


 神龍を製造したのは旧文明時代の“人間“である。多次元世界の支配者として栄華を誇った単一種族。その総てを欲しい儘にした種族が滅亡した理由は、神々が支配する上位世界との接触から始まる軍事衝突であった。


 神龍族や現在の人間種も旧文明時代に製造されたそれらの生き残りの子孫でしかない。


 そうした者達にとって“人間”という存在への感情は複雑なものがあった。


「その心は?」


 リシアは遥か過去など脅威身を抱かないが、アーダルベルトがどの様に捉えるかという一点には興味が湧いた。



「神々と肩を並べるにはたった一つの遣り方しかない。神々と同じ様に残酷になる事だ」



 神々が闘争の為に数多の種族を創造した。


 それは当時の人間達にとって大きな衝撃であった。踏み込む事を躊躇する領域として見做されていた部分に神々が触れる事に対する衝撃と恐怖、そして危機感。そして、そうした領域への禁忌に蓋をする理由を神々に求めていた歴史的経緯からなる矛盾。


 軍事的必要性から、人間側も遅ればせながら多種多様な種族を創造する事となった。


 結果として、双方共に壊滅的打撃を受けて衰退の道を辿るが、神々……厳密には旧文明の人間達と敵対した神々は、アーダルベルトにとっても複雑な相手である。敵とする事を宿命付けられた存在であり、同時に神々がいなければ製造される事もなかった。そして、神々との戦争で旧文明が崩壊したからこそ多くの種族は支配種族である人間を指導者とした戦争から解放されたのだ。


 そうしたアーダルベルトの立場から見て、旧文明の人間の行動は政戦の面からみて不手際の目立つものだった。


「倫理や論理に邪魔されて最善を尽くす事に遅れた。間に合わぬ正しさが国家を滅ぼしたのだ……そうした部分から我々も脱却できていない」


 内戦中の判断か、トウカとの連携か、歴代天帝の軍縮路線か。リシアは、その全てであろうとみていた。


「ただただ、陣営の為に一切合切悉くの禁忌と規範を踏み越えて運営する指導者や指導者層……そうした者が時代を動かす時代は確かにあるのだ」


 確かめる様な口調に、リシアは皇国が長く平和を享受していた事を思い出す。


 北部は厳しい情勢が続いていたが、他地方は基本的に太平の世と言っても差し支えない情勢を享受していた。禁忌と規範を踏み越える必要性を感じる者達は北部にのみ存在したのだ。


「言ってしまえば、だ。結局、神々に製造された天使系種族に禁忌も規範もない」


 政戦の都合など無視して事を成そうとする姿勢はトウカに近しいものがある。


 今、彼女達が武装蜂起染みた行動によって皇都を制圧下に置かないのは、トウカが逃亡する可能性や他勢力に意図を気付かれる可能性を考慮した結果である事は疑いない。トウカに好意的ではない勢力は少なくなかった。


 逆説的に言えば、ヨエルはトウカが皇都に潜伏していると確信しつつも、正確な位置は把握していないとも受け取れる。


「今の我々に選択肢なんてないじゃない……」


 リシアの歯噛みに、アーダルベルトは鷹揚に頷く。


 天使系種族が政戦に積極的に関与したのは、公式記録上は今次戦役が初めてである。水面下の政治闘争では、噂される程度のものがあったが、噂に出る程度の不始末をヨエルが犯すと考える程に二人は無能ではない。


「私は北部に戻ります。ヴァルトハイム元帥に上申して、公式発表を行わねばならないでしょう」


 リシアは長椅子から立ち上がる。


 軍刀長外套(ロングコート)を翻して男装の麗人という佇まいを其の儘に、肩口で切り揃えられた紫苑色の髪を煩わし気に振り払う。


「……此方でも可能な限り防空演習に干渉しよう。日取りを遅らせる事も可能かも知れん」アーダルベルトも立ち上がる。


 急遽、実行に移される防空演習だが、短期間の準備では可能な演習内容も限られる。一週間も伸ばせば、前線に展開している戦闘航空団の一部も皇都近郊に再配置される予定であった。作戦参加騎の数の増加は陸海軍にとっても望ましい事であり、寧ろヨエルからの防空演習を急遽押し込まれた事で戸惑いと準備期間が押している事は容易に想像できる。


 二人は夜空の下、視線を交わすと背を向けて己の目的の為に歩み始めた。











「あー、何だったか……」


 トウカは隣の年老いた呑み助の言葉を曖昧な言葉で避ける。


 立ち飲み居酒屋……赤提灯と暖簾という既視感のある居酒屋。覚えのある匂いにも釣られて暖簾を掻き分けて訪ねてみれば、そこには故郷を思わせる出汁(だし)の匂いが濛々と立ち込めていた。


 トウカは串に刺さる筋肉を噛み締める。


 赤身部分の旨味は長時間煮込まれる事で失われているが、代わりに脂身の部分の旨味が際立っている。


 眼前の大鍋では、多種多様な具材が魚介出汁で煮込まれている。


 おでん。


 店主に聞けば、驚いた事に皇国東部では関東煮と呼ぶらしい。何処かの誰かが下らぬ論争を異世界に持ち込んだ様子であるが、トウカとしては懐かしの味に舌鼓を打つ機会に恵まれたので異論はない。


 玉子……トウカの知るものより三割増し程度の大きさのそれに、彼は齧り付いた。実はトウカがおでんの具材の中で最も好物とするのが玉子である。


 噛り付くと、中から半熟の黄身…・・・というには些か緑がかったそれが溢れ、トウカの唇を汚した。それを舐め取り、トウカは醤油出汁に別で漬けられた玉子の容器を見やる。


 おでんとして煮てしまうと半熟とはならないが、別で濃い口の出汁で半熟卵を作り、それをそのまま漬け置きし、提供する際におでんの出汁で少し煮て提供するのだ。そうする事で味の染みた半熟玉子という相反する旨味を併せ持ったおでんの玉子が現れる。


 トウカは升に並々と注がれた米酒を啜る様に口へと含んだ。升の縁が玉子の黄身に汚れ、水面に広がった脂が赤提灯の朧げな光を受けて輝きを増す。


 故郷である京都伏見の銘酒を思わせる辛口端麗な味わいが、舌上の玉子の余韻を押し流す。


 既に五合は胃に収めているが、口に含めば料理の味を妨げずに忽ちに掻き消える為か、余り印象を残さない。おでんという強烈な個性を相手に米酒が争うのは難しい。ましてや出汁は濃い口である。酒の個性と値段を抑えるのは正しい。


 トウカは残り少なくなった升の米酒を一息に飲み干す。


 そして、机に銅貨を一〇枚程置き、端材による安普請の椅子から立ち上がる。


「旨かったよ、大将」


 トウカは返答を聞かずに暖簾を掻き分ける。


 遮光眼鏡(サングラス)をしたままで飲食に勤しむ姿は、幾ら魔術的に視界を遮らないという魔導技術を有する世界であっても特異なものであると認識したトウカは、長居は無用とばかりに足早に立ち去る。多めに支払ったが、それは口を堅くさせる事を期待しての事であった。金払いの良い客を憲兵隊や警務隊に進んで差し出す店主は少ないはずであった。少なくとも場末であれば有効であるかもしれないという期待からである。


 トウカは夜の皇都を歩く。


 羽織る軍用長外套が夜風を孕み、生暖かい気配が軍装の隙間より身体を撫でる。


 既にトウカが皇都に訪れて二週間の時が建つ。


 別段と何かをしていた訳ではない。


 何もかもが馬鹿らしく、何もかもがどうでもよくなってしまった。


 ただ、腹が減れば居酒屋を渡り歩き、朝方になれば何処か目立たない場所で眠るだけである。傷痍軍人などが徘徊する地区に紛れ込めば、トウカを追う事ができるものなどそうはいない。鼻が利く種族であっても、強い匂いが無数と入り混じる中での捜索は困難を極める。


 傷痍軍人と言っても、トウカの知るそれらとは事情が異なる。


 皇国は平和主義的な姿勢を長きに渡り続けていたが、匪賊討伐や他国の軍事衝突に対する監視活動を名目とした派兵を行っていた。傷痍軍人は持続的に生じ、その対策は手厚くなされている。


 だが、軍の今次戦役による被害は建国以来最大の規模であり、既に傷痍軍人の数は許容量を超過していた。それでも尚、相応の予算が割り当てられ、生活には困らない程度の配慮は成されている。


 しかし、金銭はあれども戦場帰りの粗忽な軍人が一般市井に馴染めるかは別問題であった。


 戦場はヒトを変えてしまう。


 時折通り過ぎる傷痍軍人達を見れば、未だに遮蔽物を求めて視線が彷徨している者は少なくない。四肢の欠損などの重大な負傷のある者は国内各地の病院に分散収容されているが、軽傷者などは僅かな診察を経ただけで放置されているのが現状である。


 本来であれば、転職の斡旋や心理的な補助を目的とした措置を取るべきであるが、皇国政府は未だ傷痍軍人達の派手な御乱行に悩まされた事などないのだ。大日連では傷痍軍人や傭兵崩れが非合法組織に吸収され、抗争が指揮統制の面で効率化された上で大規模化を見た。民間人への暴力や犯罪などという程度では収まらないのだ。自作した手榴弾や噴進弾を市街地で運用する暴力団など最早、叛乱軍である。


 皇州同盟軍は損耗甚大であり、退役する者も少なく、傷痍軍人への対応として軍病院の拡充が戦時中より推し進められている。元より戦時中の負傷者への対応能力が不足していたという事もあり、医療施設の増強は喫緊の課題であり続けていた。


 傷痍軍人の医療費は皇州同盟を将来的に圧迫し続けるが、それは決して削ってはならぬ必要経費である。傷痍軍人への冷遇は軍の士気に関わる。


 無論、捻出する為に、それ以上の利益を創出すれば良い。


 戦後の経済発展は、そうした金銭的支出を補う役目も担っている。


 柄の悪い傷痍軍人達が潜む路地裏を抜け、トウカは古惚けた通りへと足を踏み入れる。


 通りの横幅は三Mもなく、石畳の摩耗は激しく繋ぎ目は曖昧である。夜空は風雨に晒されて錆の浮いた看板が乱舞して僅か残るのみであった。両脇に立ち並ぶ石造りの建造物の細部には欠損や消耗が窺えるが、よく手入れされており風情と、ある種の気品が窺えた。


 華美ではないが、安易に踏み入れてはならないと思わず襟を正そうと思わせるだけの気品がある。


 或いは、初見の緊張感ゆえかも知れないと、トウカは略帽を雑嚢に押し込み、制帽を取り出して被る。


 薄暗い通り……看板には“ハルバー通り”と書かれているが、ヒトの姿は疎らで雰囲気の相まって時が止まっているかの様な印象を受けた。


 上京初日の若者の如く周囲を見回すトウカだが、性質の悪い客引きや仲介人は姿を見せない。通り一つ変えただけで驚く程の変わりようである。


 ハルバー通りに立ち並ぶのは魔術触媒を扱う商店や異国の料理を振る舞う飲食店。呪術効果すら感じさせる装飾品を扱う宝石商や用途不明にして前時代的な衣服を扱う服飾店……巷で言われる幻想浪漫(ファンタジー)と呼ぶに相応しい光景とは正にこれであると言わんばかりの光景。トウカは目を奪われた。フェルゼンにはなかった光景である。軍需都市でもあるフェルゼンは、極めて強く統制された都市である為、いかがわしい店舗は営業許可が下りないのだ。


 程よく酒精(アルコール)が思考を侵食した中、トウカは当てもなく通りを歩く。


 己は何をしているのかという疑問。

 己の先に何があるのかという疑問

 己が願う事があるのかという疑問。


 そして気が付けば酒に溺れている。


 そんな毎日である。


 女には手を出していない事が救いである。一度、ザムエルの先例に倣い遊郭に訪れたが、狐系種族の遊女を見かけ、そうした気は萎えてしまった。結局、有象無象に過ぎない女に触れる真似はできなかった。己が未だに夢見る若造に過ぎないと、トウカは理解する。


 ――愛がなくても男は女を抱けるんだろう? なぁ、神州男児。


 装飾店の展示硝子(ガラスウィンドウ)に映る己に黙して問い掛けるトウカ。


 当然、虚構の己は言葉を投げ返さない。


「?」


 己の姿の移る横に、仄暗い裏路地……その最奥に頼りない光が滲んでいた。


 誘う様に揺れる光。


 トウカは振り向く。


 そこには陥穽の如く伸びる闇と、その先で怪しく誘う暖かな光があった。


 ヒトを誘う青い鬼火の如き姿。


 トウカは遮光眼鏡(サングラス)を右手で押し上げると、軍帽を被り直した。


 ――お呼びらしい。


 直感的なものであり明確ではないものに惹かれ、裏路地へと誘われる。誘蛾灯の妖しい光に誘われる蛾の様ですらある。そこには、最早、生命を惜しむ状況にはないという諦観と開き直りがあった。それでも尚、懐の自動拳銃は重量を主張する。危機に際しての実力行使を人造の殺意は尚も期待していた。


 先程まで存在しなかったはずの路地があるというのは摩訶不思議なものであるが、魔導国家ともなればそうした演出を行う地域があっても不思議ではない。裏路地という臭いモノへ視覚的に蓋をできると見れば批難だけを以て語ることはできなかった。


 魔術的操作による違和感……風景の齟齬や稼働物の可動範囲や速度の変化、風雨などによる形状変化や不規則性の演出には莫大な演算能力を必要とする。魔術は奇跡ではない。術式を演算能力によって展開し続け、魔力を動力源とする事で事象を具現化する技術に過ぎない。電力を動力源とし、機械的に演算する機械と本質的には然して変わらなかった。依って立つ技術に依存するという大前提に変わりはない。


 トウカは、裏路地へと足を踏み入れる。


 不自然な要素は見受けられない。


 魔術的擬装による風景とは思えない。


 左右の建造物の壁は赤煉瓦を積み上げて造られており、表通りの外観の一翼を担うそれと同材料であった。


 圧迫感のある程に狭い赤煉瓦の外壁は五階相当の全高が見て取れ、その側面を彩る様に非常階段や空調管が這いずっている。その中央を進むトウカは非常階段の手摺を掴むが、手には経年劣化による錆が付着し、光景が幻覚ではない事を教えていた。


 トウカは、妖しい光の前に立つ。


 それは洋灯(カンテラ)だった。


 青い鬼火の様な色が着色によるものなのか、或いは魔術的燃焼の結果によるものなのかは不明であるが、表現し難い暖かさを感じた。


 そして、その鬼火に照らされる様に一つの古惚けた木製扉が赤煉瓦の外壁に設えられていた。表面を撫でれば年代を感じさせる程度に油脂を喪った表面であり、擦り硝子か経年劣化の曇りか判別できない硝子越しには中の様子を垣間見る事は叶わない。


 倉庫か商店と当たりを付け、トウカはその想像以上に重量のあった扉を押す。


 そこは酒場(Bar)だった。


 巨大な一枚板による個人席机(カウンターテーブル)に、酒瓶が僅かな隙間のみを以て無数と立ち並ぶ棚……団体隻を用意していない。二〇畳程度の広さの店内は薄暗く、磨き上げられた木材は柔らかな光に照らされて鈍く輝いている。


 そして、個人席机越しに硝子杯を磨く老人。


 トウカは眉を跳ね上げた。


 外観にそれらしい表示もなく、経路も定かではない場所で営業している事に対する驚きと、初老の酒守(バーテンダー)が一瞥して座席を示したからである。一見を拒絶する様な雰囲気だが、酒守が磨き上げた硝子杯を個人席机(カウンター)に置くと、ひとりでに中央の座席が椅子を引く。


 トウカは、棚の酒瓶を一瞥し、懐事情に釣り合わぬ訳ではないと、酒守の前を抜けて中央の座席に腰を下ろす。遅まきながらに二軒目を探していた事を思い出して、丁度良いと考えた事もある。背を向ける理由はなかった。


 店内は薄暗く、他に客の姿も見受けられない為、トウカにとっては好ましい要素が揃っているが、営業利益が出ているとは思えない光景には心配すらしてしまうが、元より趣味で営んでいる可能性もあると一人で納得する。そうでなければ看板一つ用意しないという営業努力の欠如を説明できない。


「何に為さりますかな?」


 意外と柔らかな声音の酒盛は、燕尾服を一分の隙もなく着こなした姿でトウカの前に立つ。手には引き金(トリガー)跡もなく、耳が押さえ付けられた様に変形している事もなければ、一方の肩が下がっている事もない。種族的特徴も窺えず、人間種の民間人としか思えない佇まいであると、トウカは見た。


「二軒目です。磯臭いものが欲しいですが……」


 酒精(アルコール)が入っている事と、好みを伝える。一杯目から高価なものを勧めるならば、それだけを飲んで席を立てば良く、大抵は相手の好みと懐事情を探るべく無難なものを用意してくる。ザムエルから又聞きの話であったが、以前までは将官の階級章を其の儘に飲みに出ていたトウカは、酒守(バーテンダー)にとって上客であった。そうした探り合いはなく、常に価格を踏まえない酒瓶(ボトル)の紹介を受けた。


「ほぅ……」


 白髪である事よりも、眉毛が伸びて目元が窺えない点に視線が誘導される酒守の表情は読み難い。そうした身形とは裏腹に、迷いのない足取りで棚の一角へと進み、酒瓶を手に取って舞い戻る。


 トウカは酒瓶の張札(ラベル)を見て、高価なものではないと確認し「それを」と促す。フェルゼンで口にした事のあるものであり、トウカの好みに“近い”ものであった。


「ふむ、違いますな。では、此方ですかな?」


 表情に出ていたのか、個人席机(カウンター)の正方形に掘り込まれた酒瓶を並べる為の箇所へと酒瓶を置くと、次の瞬間にはその皺が刻まれた手に新たな酒瓶が用意されていた。置かれた酒瓶が元より並んでいた他の酒瓶との硝子の接触音に、トウカが視線を向けた刹那の出来事であった。


 無駄のない酒守の所作というよりも、ヒトを詐術(ペテン)を試す奇術師の如き動作である。


「……それは?」諸々の感情を押し込み、トウカは訊ねる。


「バルバローゼンの二一年です。あまり有名なものではありませんなぁ。なに、予算は気になさらずとも宜しいですぞ」


 さも当然の様に硝子杯へと注ぎ始めた年老いた酒守。


 トウカの注文(オーダー)を聞かずして用意する辺り、偏屈な性格が窺える。ウシュケを好み、|酒屋(Bar)を切り盛りする者が、我が強いのは驚くに値しない。そして、計量もなく片手で瓶底を掴んで直截に注ぐ辺りに妙な自信と自負を感じさせた。


 否、表情にそれらは窺えず、彼にとっては当然の事なのだろうと思わせるものがある。


 予算を気にせずともよいという発言が安くするという意味か、或いは無料(ただ)であるのかと思案を巡らせる真似はしない。今更である。素寒貧で放り出されたら、その時はその時である。護るものがない以上、宵越しの銭など斟酌する必要はない。


 ただ、眼前のものを愉しめばいい。


「まぁ、どちらも旧酒瓶(ボトル)ですがの」にたりと笑う年老いた酒守(バーテンダー)


 生産中止されたものや、今では製造されていない古いものを称して旧酒瓶(ボトル)と呼ばれるが、基本的に旧酒瓶(ボトル)とは高価なものである。嗜好品にして消耗品である酒類は基本的に製造されれば消費される一方で、製造中止となれば、市場の残存品は値段が跳ね上がる。製造中止の理由が、塾生が間に合わず熟成年数が足りていない原酒を嵩増しに使いたいという理由や、生産が間に合わず持続的な提供ができず、生産数拡充と熟成期間確保という理由であれ、需要がある中での生産中止となれば価格は跳ね上がる。


 古い型式(モデル)でも張札(ラベル)が非常に似ているものは少ないながらも存在する。大抵は、張札(ラベル)も一新するが、中には然して変わらぬ場合もあった。


 ――想像以上に毟られそうだな。


 苦笑しつつ、トウカは硝子杯に注がれた一杯に口を付ける。


 磯の香りを鼻先に感じさせつつも、口に含めばぬめりの様な油っぽさ(オイリー)を思わせる。焙煎した大麦を強く感じつつも、後に引く際は種実類を思わせる香ばしさを残していく。年数の所為か角が取れて刺激は減じているものの、それ故にウィシュケとしての完成度は高い。高い酒精(アルコール)度数からなる刺激性や鼻に付く自己主張を好むトウカの趣味からは些か外れるが、それでも完全に外しているとは言い難い部分がある。


 際どいどころを攻めてきたというのが、トウカの感想であった。


 確かに一杯目から個性のある酒精度数の高いものを口にした場合、二杯目の味が曖昧になる。それ故に酒守(バーテンダー)は基本的に盃を重ねる毎に個性のあるものを勧めていく。


 しかし、これが難しい。


 選択の仕方が間違えば、印象には残らずに一度きりの来店で終わる事もあれば、頼る事を止めて自らの選択のみで判断するようになりかねない。


 挙句に酒場(Bar)でありながらも混合酒(カクテル)よりもウィシュケを集中的に棚へと並べている酒守は、一様に矜持(プライド)が高い。しかも職業意識的なものではなく、自らの好みと趣味の範疇としての矜持である。彼らが棚に置く酒瓶(ボトル)は、彼らの好みと趣味に依る所なのだ。個人席机(カウンター)に座るという事は、彼らの趣味に付き合うと言っても過言ではない。

 酒の趣味と気が合えば驚く程に意気投合するが、合わなければ表面上の提供者と消費者という関係に留まる事になる。


 酒守(バーテンダー)とは、そういう連中である。


「好みです。このまま樽出し原酒(カスクストレングス)の方向かな?」


 ほぅほぅと何度も会釈する年老いた酒守(バーテンダー)。梟の様な声と仕草である。白髪である事もそうした印象を助長した。


「まぁ、あまり高いものは無理ですが……」


「金なぞ取りませんぞ。久方ぶりの話し相手ですからの」


 常日頃から無謬を託つ様を飄々と断言する姿に、トウカは口を開けてぽかんとする。芳醇な香りが逃げ出す程に大きく口を開けている姿に、年老いた酒守は一層と梟染みた笑声を零す。


「客とは言わないので?」


「何分、趣味でやっておりますゆえ」


 金持ちの道楽か、とトウカは頭を掻く。軍帽の感触に思い出した様に脱帽した。序でに遮光眼鏡(サングラス)を外してしまいそうになるが、その程度には眼前の年老いた酒守(バーテンダー)をトウカは好ましく感じた。縁側で自堕落に火酒(ウィスキー)を手酌する祖父の気配がある。


 無論、無料(ただ)酒も重要であるが、小技の利いた選択を突き付けてきた点はトウカにとって新鮮であったのだ。棚一杯に戦列を形成する酒瓶(ボトル)張札(ラベル)を見るに酒の趣味があるという点が大きかった。見知らぬ張札(ラベル)が示している。


 ――若い頃は尖っていたんだろうな。


 性格は酒の趣味に出るというのがトウカの持論である。ザムエルは工業用酒精(アルコール)以外であれば基本的に全てを愛しているという類の者なので大雑把な人物である。医療用を候補に外さない点が彼の性格をよく表していた。


「それは知性と素養に溢れた趣良い味ですね」呑み助を罵る口をトウカは持たない。


「当店の扉は、そう口にする者以外は見えませぬからな」梟の様な笑声で応じる酒守。


 そうした魔術なり呪術があるのかと、トウカは感心する。呪いの類がのさばる国家である以上、客……話し相手の選別が摩訶不思議なものであっても驚くに値しない。


 相手の好みを看破するという事は制限著しい精神性の術式ではないのかという疑問を、トウカはウィシュケと共に飲み込む。心中を除かれたとしたならば手遅れであるという諦観もあるが、眼前の年老いた酒守は己が趣味にしか興味はなく、周囲で騒がれる事を望まないと見たからでもある。


 互いに相手の立場を詮索しない。


 飲食店では良くある事である。


「しかし、貴方の様な若者とは珍しい……否、初めてですな」


 年寄り臭い酒と思われがちなウィシュケを嗜む若者は極めて少ない。軍人という職業は比較的多い職業だが、それでも尚、麦酒(ヴァイツェン)葡萄酒(ワイン)が圧倒的な威勢を誇っている。それは異世界でも大日連でも変わらぬ事実であった。大抵の若者はいつの時代も甘くてのど越しの良い安い酒を好む。


「若さ故の過ちが重なりましてね。全てから逃げ出して来たのですよ」戦勝の中にも敗残兵は居る訳です、とトウカは自嘲する。


 そう、敗残兵なのだ。


 何よりも優先すべき戦略目標を達成できなかったトウカは敗残兵に他ならない。


「良く在る事ですな……大いに逃げるがいいでしょう。人生なにも常に戦わねばならぬ訳でもありますまいて」


「世の大人達は軟弱者と謗るでしょうね」


 尤も、自身の槍働きに遣り過ぎとの評価をする者が少なくない現実を見れば、一概にそうとも言えないのではないかと、トウカは頭を掻いた。


「なに、そうした意見からも逃げればよいかと思いますがのぅ。時折振り向いて追い縋ってきたモノのみを殴り付ければ良いかと」


 人生に於いて逃げの姿勢を常態とすると言わんばかりの発言に、トウカは不正規(ゲリラ)戦の発想だ、と苦笑する。利益の出ない争いで消耗する愚を犯すよりかは幾分か真っ当な発想と言えるので否定する余地もなかった。


 ミユキの生存圏を錦の御旗に、戦争をより大規模化し続けたトウカとしては耳の痛い話でもある。対帝国戦役は限定的で良かった。トウカは己の野心と才覚を行使する方便としてミユキの生存圏を扱ったのだ。


「さて、逃げ出した先に何があるのか……」


 何かを見つけたいとも思わない心根の男が彷徨した先で得られるものがあるとも思えないトウカは、言葉を選べなかった。


「歩いていれば、いずれは当たるでしょうな。或いは、躓くか」


「現実に?」心の病であれば夢幻(ゆめまぼろし)にも躓こうが。


「さて、それは運次第」にたりと笑う年老いた酒守。


 自分次第と言わないところが良い年の取り方をしていると、トウカは苦笑するしかない。行動を突き詰めても、最終的には運という余地が残る。トウカは今次戦役を、戦争に勝って政治に負けたものであると見ているが、同時に己の実力不足であると認識していた。


 実権を得た時点で不利であった事もあるが、皇国の複雑怪奇な封権制度からなる政治体制を把握できていなかった事が致命的であったのだ。無論、知っていたならば北部を疲弊させる帝国軍の誘引など行わず、航空艦隊で共産主義者宜しく帝国南部の諸都市に洋餅(パン)を投下するという慈善事業に勤しんでいただろう事は疑いない。


 硝子杯の黄金色が消え、底を見せた事を見て取った酒守。


 手早く硝子杯を下げ、次の硝子杯を置くと、次の瞬間には新たな酒瓶(ボトル)が握られている。大道芸染みた早業であるが、そうした部分を含めての営業とする飲食店は少なくない。尤も、酒場(Bar)の場合は酒守(マスター)の趣味や美学に傾倒した場合が多かった。客や周辺環境、営業形態を押し退けてでも彼らは己を貫く。


 さも当然の様に二杯目を注ぐ酒守。


 トウカの注文(オーダー)はない。寧ろ、信頼の置ける知識と舌に裏打ちされた専門家の任せる事は新たな出逢いを齎す。


「これも良いな……文明の味だ」


 酒造は文明の精華である。


 嗜好品として歴史の彼方より確固たる地位を築いていた酒は、文明の発展と在り方に合わせて形を変えて存続し続けていた。宗教や法律が否定しようとも途絶える事はなく、合法的なヒトを惑わすモノであり続けている。


 酒守はトウカの賞賛に梟の如き笑声を零す。


「ほっほっほ、違いますな酒こそが文明を作りたもうたのですぞ」


 大胆な意見にトウカは苦笑するしかない。


 酒瓶に拝んでも、神には絶対に頭を下げぬと言わんばかりの意見は、実に偏屈な酒守らしいものがある。


 しかし、酒守としては論理の伴う意見であった。


「酒造をするにはですな、狩猟民族としての生活を捨て、農耕民族へと転身しなければなりませぬ」


 問題のなかった狩猟よりも、試行錯誤の余地が残る農耕に舵を切らねばならなかった。その理由に酒造を求める酒守の意見は大胆な仮説である。人口増加に対し、敷地面積上の食糧生産量に優れる農耕に転じざるを得なかったと見るのが現実的であった。


「飲酒という娯楽に興じるのは色々と大変なのですぞ? 最低でも所属集団の大規模化と分業が必要でしょうなぁ」


 泥酔状態では何一つ成せない無防備な状態となる。よって分業化でそうした状態の者達を護る戦力が必要となり、そうした戦力を揃える為の食糧や鍛冶なども必要となる。それは街や国家の始まりである。


 人口増加と分業化が相応規模の集団を形成し、それがやがで街になり国家となる。


 そうした理由にまで酒を飲みたいが為というの理由をこじつけるのは、早計に過ぎるものがある。


「酒があるところにヒトが集まる。自然の摂理に在りましょう」


 さも歴史的事実を語るかのような口振りに騙されてしまいそうになるトウカだが、現状が矛盾を示している事もまた事実である。


 トウカは店内を見回す。


 随分な酒があるにも関わらず客はトウカ一人しかいない。


「……当店は客を選んでおりますゆえ。近代ゆえの贅沢ですな」


 客が多様化しようとも、当店は客を選ぶので無関係と言わんばかりの姿勢は、自営業の首を絞める矜持としか思えない。正に金持ちの道楽と言えた。


 しかし、歴史と伝統ある国家には代表する銘酒があるのもまた事実である。紡いだ歴史が長くとも高度な酒造文化を形成できない国家もある。そうした国家は、トウカの所感として何処か信の置けないものがあった。


 ――どことは言わんが。


 高度な酒造の歴史を持つ国家は技術的に秀でている場合も多い。酒造技術は木材や鋼鉄、硝子の加工技術に影響する。それらの発展は商業や軍事の面での優位を意味した。酒造りに熱心ならば付随する技術も向上するので国力も上がる……かも知れない。


 ともあれ、酒造を文明の示準と見るのは斬新な意見である。


 風土や環境、宗教や思想の影響もあるとはいえ、酒造という分野から他国を理解する事は方法として有り得る。口に含まずとも、相互理解の潤滑油となり得るというのは、トウカの興味を引いた。


「ちなみに私の故郷には酒の神様が居ますが……」


 京都の松尾大社などは、国内の複数ある酒造に纏わる神の中でも特に著名であり、伊勢神宮皇大神宮所管社に祀られる御酒殿神(みさかどののかみ)などは国内酒造業繁栄を祈念している。


 松尾大社の祭神を酒神とする信仰の起源は明らかではないが、狂言である”福の神”曰く、神々の酒奉行であるとされている。現代に至るまで神事で狂言”福の神”が奉納され、酒神として酒造関係者が神輿庫に奉納の菰樽を山脈の如く積み上げており、信仰の篤さを物語っている。


「それは良い国ですなぁ」


 その言葉に、トウカは酒精に包まれた意識の中、祖国へと想いを馳せた。

 






神々と肩を並べるにはたった一つの遣り方しかない。神々と同じ様に残酷になる事だ


         《仏蘭西第三共和政》 哲学者 ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル



 うん、酒が飲みたいと酒の話になっちゃうね。週末は名古屋で味噌おでん食べながら日本酒かな?

 

 このバーテンダーのおじいちゃん、実はあの人なのです。


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