表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第三章    天帝の御世    《紫緋紋綾》
273/429

第二六一話    皇都にて 弐




 ――軍事都市として設計されているな………


 トウカは重たい足取りで皇都の中央大通りの人混みに流されていた。


 幾度の都市改造を受けて日本皇国の首都であり続ける帝都・京都の規模には及ばないものの、皇都もかなりの規模を持つ都市であった。


 尤も、京都はその地形的、歴史的制約などから外周の拡大に重きを置いた都市改造をしている。中央部が碁盤の目の如く道路や建造物を配置している事に対し、外周部は幾何学状に通りや幹線道路、環状線を配置していた。人口は千百万人を超えるが、日本皇国の人口が二億人を超える事を踏まえれば、過剰な集中と言える程ではない。


 都市構造は、どちらかと言えば副首都にして軍都でもある東京に類似している。円状を意識した都市計画に地下への居住空間拡大は来たるべき核戦争に備えたものであった。太平洋の玄関口として聨合艦隊主力が停泊する事もあり敵対勢力による攻撃への対策に重点を置いた都市構造を重視したのだ。


 沿岸である事も軍都である東京と類似している。首都圏の鼻先を護る皇海艦隊の策源地であり、巨大な軍港を擁していた。


 とは言え、通りを歩く限りに於いて、面影は見受けられない。西洋寄りの文化に神州国からの東洋寄りの文化は独特な変化を感じさせた。


 皇都擾乱に於いて足を踏み入れたものの、移動は安全を考慮して航空騎か装甲車輌であることが常であった。皇都の情景を目にする機会も時間もなかった。戦車上からの光景は暴徒に遮られて然して印象にも残らない。


 散見される退役軍人や傷痍軍人の姿が窺えるが、トウカもその一人として不審なく紛れ込んでいた。見知らぬ年寄りに肩を叩かれて親し気に話し掛けられる年若い傷痍軍人の姿などを幾度も見かけたが、右派の者達が退役軍人達を賞賛しているに過ぎない。肩を組んで昼下がりから酒場に引き摺り込んでいる姿は微笑ましい光景である。敗戦国には見られない光景と言えた。


 残念ながらトウカは瞳を隠匿するべく胡散臭い遮光眼鏡を掛けている為、話し掛けられることはない。多くの軍人が居る中、すき好んで胡散臭い者に声を掛ける者など居はしない。


 トウカに行く当てなどなかった。


 大通りから外れ、橋桁に背中を預けると、トウカはずるずると座り込む。


 皇都までの疲れと人混みによる疲れが倦怠感となってトウカの身を竦ませた。そして、それを叱咤するだけの意欲と目的も彼にはない。


 橋の下の影に佇む姿を気に留める者は居ない。


 優し気に(そよ)ぐ春風と、人肌に包み込まれる様な暖気は酷く眠気を誘う。川沿いに整然と立ち並ぶ桜の木々が咲き誇り、桜華の花弁交じりの春風は浮世離れした光景を見せる。


 そうした時節に態々、橋の下に訪れる者などいるはずもなく、トウカは惰性に身を任せて好機を眺め続けた。


 瞼の重みに抗しきれず、トウカは春の精に誘われる様に眠りに就いた。



 ………………………

 ……………………

 …………………

 ………………

 ……………

 …………

 ………



 トウカは、己を揺さぶる手に意識を浮上させる。


 眠り込んでしまったと眩む眼でぼやけるヒトの輪郭を捉えた。


 昼寝など異世界に来てから初めてではないかと、彼方に逃れようとする思考を繋ぎ止め、トウカは橋桁に手を突いて立ち上がる。


 眠り込んでしまったと自覚したトウカは、己を心配した憲兵や警務官が居たのであれば面倒だと意識を忽ちに覚醒させた。


「済まない……貴官は……いえ、失礼しました。准尉」


 陸軍兵士であると軍装で察したトウカは、踵を打ち付けて敬礼する。


 その姿に准尉が苦笑する。


 そして背後の一個分隊は居るであろう兵士達が無邪気に笑う。子供の様に。否、実際に子供と思える身形の者達も混じっていた。しかし、階級章から見て分隊にしては偏りのある編制をしている。無論、戦時下の消耗による再編制に次ぐ再編制で既存の編制から逸脱した部隊は然して珍しいものではなかった。


「小官は皇州同盟軍、〈第三五二聯隊『リュカオンセル』〉所属の――」


「あ~、いいぞ。名前だけで。俺らも全員退役した身だからな」


「ヒジカタです、准尉」


 咄嗟に祖国の忌々しい現役将官の姓を借りたトウカの名に、准尉は首を傾げながらも鷹揚に頷く。神州国があるとはいえ、日本の姓が全て一般的であるという保証などないと遅まきに気付いたトウカだが、今から訂正する訳にも行かず沈黙を余儀なくされる。


「その眼鏡……」


「失礼を。実は目が――」


 遮光眼鏡(サングラス)を掛けたまま上官と会話するのは礼を失した行為であると気付いたトウカだが、おいそれと外す訳にはいかない事情がある。


「なに、あの戦いに出てそれを咎める奴は居らんさ。御前は砲兵の御守りだったんだろ? 目が眩む様になって遮光眼鏡(サングラス)を使い始めた奴は多い」そんな感性(センス)のない形のものを使う奴は初めてだが、と快活に笑う准尉。


 トウカの軍装の兵科章は歩兵科であるが、火力戦の御世に在って、それを護るべく歩兵が歩兵の周りに配置される状況は数多くあった。砲兵火力の重要性が認識されている以上、両軍は敵軍の歩兵火力を漸減するべく、持ち得る限りの戦略や戦術を以てそれを成そうとした。


 当然、それを阻止する動きもある。


 特に兵力差から混戦に陥りがちな皇国軍は、比較的射程の短い軽砲に護衛を兼ねた歩兵部隊を随伴させた。そこには、短射程から混戦に巻き込まれ易いという問題もあるが、敵軍からの対砲迫射撃で砲兵は負傷、乃至戦死し、操作する者が不足した場合、それを補うという目的もある。


 攻撃目標となりがちな砲兵の傍に展開する役目を負う歩兵。当然、砲火の閃光で視覚や聴覚を損なう事は珍しくなく、降りしきる榴弾雨の中、泥濘に足を取られた軽砲を砲兵と共に押して陣地転換する彼らの死傷率は高い。実戦経験のある歩兵は、その任務が過酷である事を知っているが、実戦経験のない歩兵は射程のある火砲の傍であれば、敵の攻撃が散発的であると誤解しがちであった。


 トウカは、そうした事実を知らない。有効な手であったが、歩兵参謀と砲兵参謀の連携の結果に過ぎず、それも各師団長の上申が発端であった。総司令官であるトウカの耳に入るべき規模の話ではなかった。全軍で火砲の傍で斃れた数千の歩兵が居たとしても、それは変わらない。それが軍隊という巨大組織の戦時下に於ける効率的運用の果てである。


「感謝します……ところで、小官に御用でしょうか?」


「いや、用と言えば様だが……我々の宴会場で気持ち良く寝ている御前さんに声を掛けただけだ」肩を竦めて見せる准尉。


 細波(さざなみ)の様に准尉の後ろに続く兵士達が苦笑する。嫌味のない笑声。


 トウカは周囲を見渡す。


 宴会場の姿は見受けられない。


「???」


 曖昧な笑みを浮かべたトウカ。准尉は苦笑を一層と深くして、トウカの肩を組む。


「ここが宴会場だ。立派な屋根があって国民の皆様にも見え難い。そして、無料(ただ)だ。そう、無料(ただ)なのだ」


 無料である事が重要であるという事が良く分かる解説に、トウカは曖昧な声音を漏らして応じるしかない。国民に対する配慮であるならば酒場にでも行けばいいのではと思えるが、そこもまた国民に対する配慮があるのかも知れなかった。或いは、軍人だけで盃を傾ける事を望んているのか。


「では、小官は立ち退くと致しましょう。砲兵の殴り合いもない。屋根は必要ないでしょう」


 砲兵が敵砲兵と壮絶な砲撃戦を演じれば、周囲の歩兵が巻き込まれる事も少なくない。自走砲という機動性のある火砲を手に入れた事で、命中率を向上させるべく塹壕線近くまで陣地転換してくる勇敢な砲兵とているのだ。歩兵からすれば堪ったものではない。


 屋根付きの塹壕からの転身も吝かではない、とトウカは地面に置いた雑嚢を手にする。


「いやいや、何かの縁だ。御前さんも飲んでいくといい」トウカの両肩を掴む准尉。


 面倒に巻き込まれたとは感じつつも、トウカは断る事も角が立つと了承する。


「なに、負け犬同士の傷の舐め合いだ。飛び入りの負け犬も歓迎だよ」酒癖は悪いが勘弁してくれ、と准尉は破顔する。


 あれよあれよという間に退役軍人達の宴が始まる。


 茣蓙を敷き、多種多様な酒瓶……軒並み安酒を並べ、乾物や屋台で仕入れてきたと思しき簡素で濃口の味付けをしているであろう料理が用意される。練石で固められた床に座る退役軍人達は手慣れたもので、幾度もこうした宴を行っている事が窺えた。


 合計で一〇名の退役軍人達。准尉以外は下士官ですらない。


 准尉に聞けば街中を徘徊している内に集まったのだという。人望と取るべきか、負け犬が徒党を組んだと見るべきか判断に迷う話であるが、自身も周囲から見れば同類であろうと気付いて沈黙を余儀なくされる。


「何故、この様な場所で? 酒場を借りれば宜しいかと。馳走してくれる者も多いでしょう」


 退役軍人や傷痍軍人達を歓迎する者は右派を筆頭として少なくない。命懸けで国防の責を全うした者を貶す程に、皇国は腐ってはいない。無論、トウカがそうした意見を皇都擾乱で封殺したという部分が大きかった。


「どうも、戦争から帰ってきたら居場所がなくてな。まぁ、俺はもう歳だ。どこかで野垂れ死んでも納得できるが…ああした連中は好かん」


 准尉の嘲笑に、周囲の退役軍人達が苦笑する。彼ら曰く、良くあるぼやきらしい。


「戦野を知らぬ輩の賞賛なぞ要らん。屁理屈を捏ねて戦場を選ばなかった連中の愛国心なぞ聞きとうない」


 ない奴よりかは救いがある上に、そうした連中を口車に乗せて軍事費を捻出するのが己の役目であったトウカは苦笑する他ない。将官と兵士の視点は違う。無論、心情的には同様であるが。


「……あの決戦を生きて終える事ができるとは思わなかった。だから後の事なんて考えても居なかった。だが、戦野はそういう奴に限って生き残る。そういう訳で飲んだくれるしかない。飲んでりゃその内、次に遣りたい事でも見つかるさ」


 気楽な物言いだが、そうした考えができなければ精神的に追い詰められて身投げでもする事になる。皇都に訪れる道中で退役軍人の自殺者を目撃したトウカは、誰しもが過酷な戦場から心身共に帰還できるとは限らないと実感した。数字の上では理解していても、実際に目撃するのでは大きく違う。特に、そうした事実が周囲に与える心理的影響というものを軽視していた。


 死者は書類上の数字以上のナニカを、その場に居る者達に与えるのだ。


 特に軍人以外が死を可能な限り遠ざけた近代で、周囲へ無造作に撒き散らされる死は彼らに戦争への忌避感を与えるだろう。なれど忌避感を理由に否定しても、敵国が滅亡する訳でもない。国防は成されねばならないのだ。国内外で死を撒き散らしても尚、断じて成されねばならないのだ。


 国家は軍人達の屍の上に、未来の安寧を担保する。


 それは、避けようもない事実なのだ。


 国民から軍人を育成し、国家の繁栄と防衛の為に軍人を消費する。近代に於ける摂理であった。


 その兵士達が今、トウカの眼前に伏している。


 国家を支える屍に成り損ねた者として。否、幸運にも生還を果たした者として。


「しかし、准尉ともなれば退役せずとも……」


 准尉と言えば、下士官の元帥と呼ばれる存在である。


 軍大学を経ずに昇格が可能な階級、部隊勤務一筋で二等兵から昇格し続けた先、最上位の階級である。皇国軍では中隊一筋で叩き上げの准尉が中隊で重用されている。優秀者(エリート)出身の中隊長を補佐する役目を負い、階級以上の存在感を持つ。影響力もあり、部隊運営にも多大な影響力を持つ階級でもある。容易に育成できる存在ではなかった。


「留意はされたが……些か疲れた。上官も部下も軒並み戦死したからな……それに戦時動員された残りの連中も心配だしな」


 生き残って一般市井へと戻る部下達の面倒を見る名目で准尉は退役した。


 内戦勃発と共に政府は有事法を発動。大規模な志願兵の受け入れを開始した。帝国軍侵攻と共に祖国防衛の熱意に駆られた若者達で志願兵は爆発的に増大したが、内戦勃発と共に志願した者達は半年間の練兵を終えて部隊序列に組み込まれている。対帝国戦役は誰しもが予想しない短期決戦を以て集結した為、対帝国戦役の開始と共に志願した者達は大部分が実戦投入されていない。


「大体は次の就職先を見つけてやったが、残りと徘徊してる阿呆共の面倒を見る必要もある」


 じろりと他の年若い退役軍人達を睨む准尉。睨まれた者達は苦笑するが視線を逸らさない。そこには彼らなりの信頼があった。


「まぁ、今回の戦争はよくやったよ。国土に踏み込まれて半年足らずで追い散らしたんだ。これ以上、大規模動員された若い奴の面倒なぞ見切れん」


「低練度の年若い兵士の無駄死にを見たくはない、ですか?」


「まぁ、そうなる」


 低練度の兵士に悩まされたのはトウカも同様である。


 前線で部隊運用に関わる者達はその指揮統率に苦労した事は疑いない。トウカとしては運動戦を避けて陣地戦を主体にし、航空攻撃と火力戦の徹底によって敵兵力を事前に漸減したが、それで前線部隊の苦労が完全に消え失せる訳ではなかった。


 胸に迫る批判に対して、自己弁護をする訳にも行かないトウカは曖昧な笑みを張り付けて応じるしかない。米酒を雑嚢から取り出した金属杯で受け、口を付けるトウカ。安酒であった。


 戦場漫談に花を咲かせる退役軍人達。


 陸軍は規模拡大を行うものの、機械化や予算編成の都合から総兵力は大きく増加しない。特に対空兵器を含めた防空網整備や、航空戦術、機甲戦術の確立に時間を要する事から兵力増強は後回しにされている状況である。帝国の脅威が低下した事で、相対的に神州国の脅威が認識された為、海軍予算が拡充されたという理由もあった。


 最悪、傭兵になるか皇州同盟軍への転属があると考えて気楽な生活を続けていると思える発言が節々に滲む。


 トウカは苦笑するしかない。


 未だ戦争に忌避感を抱かない兵士達にも、それを是として軍事力を行使する姿勢を堅持する皇州同盟を成立させた己にも。


「まさか、航空騎があれ程に活躍するとはな。それなりの軍歴だが、ああした使い方があるとはな……いや、ああした戦いを納得させた軍神様の面目躍如か」


「? 納得させた、ですか?」トウカは眉を顰める。


 内戦中の航空部隊編制に当たり、龍種は然して反論する様子を見せなかった。少なくともトウカは戦略爆撃騎の整備以外では龍種の不満を耳にした事はなかった。


「ああ、そうだ。あの無駄に矜持(プライド)の高い龍と飛行兵共にだ、爆弾やら機関砲やらの重量物を付けて地べたを這う様に敵に追い縋って殺せと言えるか? 俺は無理だな。飛龍に尻を齧られるのが目に見えてる」


 准尉の言葉に同意する退役軍人一同。


 気が付けは周囲の退役軍人の数が二〇名程に増えている。宴の喧騒に寄ってきたのだ。


 龍種と飛行兵の我儘は珍しくないらしいが、トウカは初耳であった。


 しかし、帝国海軍時代の海鷲達を思い起こせば理解できなくもないと、トウカは唸る。


 喧嘩腰で操縦技能が全てだと言わんばかりに振る舞い、挙句に上空では上官の命令を“程々”にしか聞かない。大凡、そうした者達は戦闘機乗りに限られたが、彼らは空戦ともなれば護衛の任務を忘れて敵機に果敢に巴戦(ドッグファイト)を挑みかかる。


 そうした気性の荒い者達に未知のものを受け入れさせる余地が己にあったと、トウカは自惚れていない。当時のトウカはヴェルテンベルク領に突如として現れた実績のない佐官に過ぎなかった。寧ろ、行き成り佐官を拝命した事で風当たりは強いものがあった。


 ――マリィだろうな……


 トウカの命令や提言は、マリアベルの追認を以て発行されていた。領邦軍の組織編制に関わる部分も多分にあった為、マリアベルは混乱が起きる要素が無数にあると見て自らの名前を予め出すことで掣肘したと当時は納得していた。


 しかし、今になってみれば、トウカの意見が組織で通らず、隔意によって状況が遅滞する事を見越してという意味合いが大きかったと理解できる。飛行兵も露骨にマリアベルが背後に窺えるトウカを否定する事は出来なかった。航空戦術の転換に於ける抵抗を予想したマリアベルが先んじて言い含めていた可能性も高い。


 ――俺は守られてばかりだな。


 トウカは自嘲する。


 己の行動は多くの者に支えられてのものだった。それらを櫛の歯が抜けていくが如く失いながらも行うのが戦争であったというのに、トウカは常に己が攻勢の立場にあると錯覚していた。航空艦隊という長大な射程の矛を手にしたが故である。


 近代戦に銃後がないという意味を、トウカは二人の女を失う事で遅まきながらに理解した。


 トウカは軍帽の上から頭を掻き毟る。


 涙が溢れそうになる。


 心配する兵士達を他所に、トウカは勢い任せに立ち上がる。



「よし、おい、そこの一等兵! こいつを売り払って美味いものを買ってこい!」



 トウカは懐から、いつかにベルゲンで購入した魔導具を一等兵の階級を付けた若人に投げ付ける。独立して魔術を行使する絡繰りなどトウカには最早、必要なかった。将校の際も使用しなかったものを逃げ出した先で使う必要性を彼は感じない。


 呆気に取られた一等兵だが、准尉が鷹揚に頷いた事で背を向ける。


 計画性のない酒盛りが始まる。


 次々とトウカの金属椀に注ぐ兵士達に、トウカは曖昧な笑みで応じる。


 一等兵が購入してきた……大きな包みに押し込まれた料理の紙製容器の群れに皆で一喜一憂しながらも、そこには笑顔が絶えなかった。トウカは矢守?の黒焼きを貪りつつも周囲の喧騒に身を委ねる。


 喧騒は悲哀を遠ざけ、酒精は現実を遠ざける。


 現実から逃げ出して飲む酒は味気ないという者も居るが、往時と変わらぬ味でトウカの舌を流れた。或いは、安酒に合うような生き様をしたが故に、舌もそれに合わせたのか。


 トウカは一息に残りの米酒を飲み干す。


 そして、眼前の酒瓶に手を伸ばす。


 一等兵は料理だけでなく、相応に上等なウィシュケも購入してきた。それなりの価格で売れたであろう魔導具の残金を以て、酒屋の棚の最上段にあったなけなしの一本を購入してきたらしく、中々の逸品である。


 酒瓶の張札(ラベル)を確認するが、トウカには見覚えのないものであった。首都圏だけあり他地方の酒も数多く流入するのだろうと、二杯目を注ぐ。金属椀では味気ないが、自由に注げる上、雑に味わえるというのは、それはぞれで好ましいものがあると、トウカは金属椀に口を付ける。


 そんなトウカに、律儀に一人ひとりに注ぎ回っていた准尉がトウカの横へと腰を下ろす。


「戦友か家族か、はたまた女か……どれだ?」


「……女です。そんなに顔に出ますかね」


 突然の問いにトウカはいたが、兵士の心を掴む事に秀でた姿は、ヒトの心情を酌む事など容易いものと納得もした。


「大体の兵士はその三つで思い悩むものだ。身持ちを崩すか退役する理由もな」


 御前だけの事じゃないさ、と准尉は苦笑する。


 その苦笑に従軍したにもかかわらず、その辺りの事を知らないのかという同情……恐らくは限定的な人間関係だったのだろうというそれが傍目にも見て取れる姿。


「この世の半分は女だぞ。星の数ほど居る」


「ですが、夜空に星は無数と在れど、月は一つしかありません」


 尤も、トウカの場合は月も二つあった。


 そして、二つとも砕け散った。


 戦争の対価か。

 無能の対価か。

 勝利の対価か。


 或いは、その全てが理由なのか。


 それは未だに分からない。


 しかし、己の無能と怠惰に呆れはしても、帝国に対する復讐心は抱けなかった。


 帝国は遠くない将来、無様に滅亡する運命にある。


 国内の全てを飲み込んで蚕食する共産主義が食い荒らし、その屋台骨すらも戦略爆撃の劫火に焼かれつつある。運命は決したのだ。


 対帝国計画は既に皇州同盟軍総司令部によって策定されており、北部の経済発展と結合されたものとなっている。脅威を取り除かなければ投資が期待できない以上、当然であった。


 帝国内の不和を助長し、分断し、撃破する。


 最上は、帝国南東部に衛星国を建国する事であるが、内戦激化によって群雄割拠となるだけでも十分であった。勢力が乱立すれば、資源を対価とした兵器売買が捗る事になる。


 五年待てば潜水艦も五〇隻を超える数が揃う事になる。その時までに帝国が国家の体を成しているのであれば、無制限潜水艦戦を展開する事も想定されていた。連太鼓作戦(オペラツィオン・パウケンシュラーク)とされるそれは、確実に国家の命数を削ぐそれである。


 知性という装飾品に裏打ちされた軍事力は、国家の矛である。


 軍事的知性の優越は、帝国の滅亡を実現する。


 帝国主義者を業火に()べるのだ。


 己が成さずとも何百、何千という規模の屍山血河が生まれるのだ。


 ――いや、俺が骨子を書いた計画か。俺が殺したことになるのか?


 それはそれで一向に構わないと、トウカはウィシュケを嚥下する。鼻腔から抜ける香りは血の気配がする。金属椀の鉄分によるそれであると気付いたトウカは苦笑した。


「喪われた月を求めて徘徊しようとも思わなければ、新しい月を探そうとも思えない。……疲れたんですよ」


「ならば今は休むといい。成したい事ができれば、その時に立ち上がればいいのだ。貴官は若い。それが許される。そして国家もそれを許すだろうよ」


 トウカの肩を叩いて、感傷を滲ませる笑みで受け入れる准尉。それは幾度も見てきた若者を受け入れるかの様なそれであった。事実、それは正しかった。


 心身を傷付いた者達が国家の隅で蹲っている。


 別段と語る程もない戦後の光景であった。


「惑う若者に何かしらを強制する程、この国は追い詰められても居ない。危機には大人が立ち上がるさ」今回の戦争の様にな、と准尉が胸を張る。


 トウカは曖昧な笑みで頷く。


 北部はトウカなくば、侵攻を受けて現状以上の被害を受けていた事は間違いなく、北部の為に立ち上がったのは北部の者達だけに過ぎなかったと知っていたが故に同意はできない。


 ただただ、大多数の者達の善意は、権力者の望む戦略の前には路傍の石に過ぎなかった。









「失礼、もう一度、お願いできますか?」


 リシアは真っ青な表情を自覚しつつも尋ね返す。


 長椅子の隣に座るアーダルベルトの表情も冴えない。咎める言葉はない。それが心からのものであるかは別として、不本意であるという雰囲気を以て、再度言葉を口にする。


「セラフィム公がサクラギ元帥を捨て置けと言い放った」


「……知っていると? 漏れたと?」


 僅か三日で情報漏洩するとは何事か、とリシアとしては叫びたいところであったが、相手を踏まえれば得体の知れない情報収集手段があっても驚くに値しない。魑魅魍魎が跳梁跋扈する皇都の中でもセラフィム公爵家だけは実情が不明確であり続けている。内戦中の情報収集ですら実情を把握できなかった事から、皇州同盟軍情報部が放置したという実情があった。放置できる程に動きを見せないという点もある。


 だが、動きを見せないからと、全てを知らぬとは限らない。


 全てを知った上でこれを座視している可能性もある。今回の一件はそれを示す事例の一つとしてリシアの中で扱われた。


「まさか、セラフィム公が匿って……監禁している可能性は……」一層と端的に言い直したリシア。


 捜索は未だ進んでいない。リシア直属の〈北部特殊戦部隊(ゾンダーコマンド・ノルド)〉が単独で捜索を開始しているが、人員が少ない事に加え、元は破壊工作や敵地潜入を主任務とする部隊である為、捜索行動に練達している訳ではなかった。


 しかし、信頼の置ける人員で統一された部隊など数が限られる上、動員規模では怪しまれる可能性もある。そうした経緯もあり、クレアへの協力依頼は最終的に見送られた。そこには皇州同盟軍憲兵隊の特殊な事情もある。


 皇州同盟軍憲兵隊は、情報部の統制を強く受けている。


 クレアの副官であるアヤヒが情報部出身である事からも、それは理解できる。


 マリアベルが憲兵隊の肥大化を恐れ、統制する事に腐心したのは、ヴェルテンベルク領黎明期の敵対勢力排除からであった。強権を以て事を成す者は、隷下の叛乱を覚悟せねばならないという統治の基本をマリアベルは良く理解していたとされるが、実情としては猜疑心の賜物に過ぎない。


 参謀本部に於いて情報大佐の立場にあるリシアは、情報部という魔窟を警戒していた。以前からの実績で皇州同盟の為に行動している事は疑いないが、同時に何処へ繋がっているか不明確な部分がある。二重間諜(スパイ)というものだけではなく、他勢力の情報機関と鎬を削る都合上、情報部は常に諜報活動の最大目標となり、扱う情報の規模と質も勢力最大であった。


 アーダルベルトは盛大に顔を顰める。


「不敬な意見だと咎めたいところだが……あの執着を見ればな」


 同じ七武五公としても否定できないアーダルベルトの沈黙。


 ヨエルのトウカに対する執着は異常の一言に尽きる。


 種族的特徴として対象に執着する強さを天使系種族は持つが、それは大抵が対象を廃滅させる慈愛である。代わりに全てを成すという屈折した愛情。嘗て仕えた主神が大層な気狂いであった事は疑いないが、それは度々、問題を起こす。


 全てを受け入れ、全てを赦す存在。


 男達にとっては、これに勝る女性像はない。


 健気に相手に合わせ、溺れていく様に従う彼女達は男達の理想であるが、女狐と並んで傾城と呼ばれる理由はそこにある。


「天使の翅に絡め取られたならば、それはそれで幸せであろうな」


 満ち足りて溺れるに任せる事を赦す天使。ある種の毒であった。


 毒を毒と自覚しない儘に現世で微睡に囚われるのであれば、それも一つの幸福である。周囲がどの様に見るかは別として。


「あの執着だ。溶けて消えていても俺は驚かぬ」


 無論、天使種に溶解液を扱う身体構造を持つ者は存在せず、例えに過ぎないが、天使種の男の扱いはそうした表現を使うに不足ない狂気染みたものがある。狂愛の類であった。


 リシアからすると、鳥類の親戚の餌になるなど許容しかねる事態であるが、同時に喪って逃げ出した先が天使の狂愛であるなば、過去を忘却するだけのナニカを期待できる。そう考えたリシアは次の瞬間、自らの両頬を叩いて正気に戻った。


 禄でもない結末である。


 トウカだけでなく国家すら溺れる事態となりかねない。


 尤も、実情としてトウカは今現在、天使ではなく酒に溺れていたが、二人はそれを知る由もない。

「ハイドリヒ憲兵中将にも伝わったと見るべきでしょうか?」


 天使に囚われているか否かは別として、ヨエルがトウカの行方不明を知っている点だけは確かである。それを踏まえた場合、クレアへの情報伝達がなされているかという点が焦点となる。


 もしも、漏洩していたならば事態は急速に悪化する。


 つまりは皇州同盟軍憲兵隊への情報漏洩である。それは皇州同盟軍情報部への情報漏洩をも意味した。


「ハイドリヒ憲兵中将は聡明な女性だ。事前に言い含めておくべきだろうな」


「既に漏洩していたならば、(いたずら)に知っている者を増やす結果になりかねません」


 ヨエルがアーダルベルトに言い放った時点で、クレアにヨエルが実情を伝えていても不思議ではない。二人の関係もあるが、皇州同盟の皇都での玄関(ロビー)活動先としても動くクレアに皇州同盟の現状を伝える、或いは確認するというのは不自然なものではなかった。


 リシアとしては、伝えずに実力で排除してしまった方が良いかと思案するが、憲兵総監という要職の後任を決める上で、公式上は未だ皇州同盟軍総司令官であるトウカの発言や承認が必要となる事を踏まえて思い留まる。要職を巡る人事の中でトウカの不在が露呈しては本末転倒と言えた。


「知りはしても、未だあの男を見つけてはいない。俺はそう判断する」


 アーダルベルトの所見に、リシアは眉を顰めた。


 根拠なく嘯く人物ではないが、同時に気を許せる相手でもない。リシアを座視に追い込む程度の真似は躊躇う筈もない。高位種の消極性は時に謀略の切先と成り得る事を、情報将校となったリシアは学んだ。


「三日後に皇都防空演習がある」


 現状では陸海軍に属していないアーダルベルトであるが、航空兵種の主力を成す龍種の最上位に立つ彼が、例え突発的なものであっても防空演習の情報を知っている事は不思議ではない。


「? 初耳ですが?」リシアが首を傾げる。


 都市に対する航空攻撃の有効性が確認された以上、防空演習を行う事は軍にとり急務であろう事は疑いない。


 初の試みである故に失敗や問題が無数と生じるであろうが、その失敗や問題の把握を兼ねた演習とも言える。陸海軍にとり統制の取れた都市防空戦は未知のものである。内戦時のベルゲン強襲による対空戦闘は城塞都市外縁の防護壁上部に展開する対空砲部隊による散発的な攻撃に過ぎなかった。


 しかし、それを踏まえても急な防空演習である事に変わりはない。


 部隊移動や準備が万全とも思えなかった。


 爆発的に増大する対空砲の要求数に全く対応できていない状況で、皇都に有力な対空砲部隊はある筈もなかった。代わりに錬成中の三個戦闘航空団を基幹戦力とした〈皇都航空団〉が編制されているが、その訓練だけならば普段通りの航空演習で済む。防空演習とする以上、地上部隊の展開が考えられる。


 政治的に見れば、他国の大使館や行商人も多い皇都、その上空で大規模な航空部隊を堂々と展開する事で軍事的優越を見せつけるなどの効果を期待できるが、現状でその行動に効果があるかは疑問符が付く。


 帝国の侵攻を退け、共和国は熾烈な本土決戦、神州国は海洋国家、部族連邦は往時から変わらぬ纏まりのなさ。少なくとも皇国の四方に防空演習を以て掣肘を加え得る相手がいるとも思えない。


「神州国への牽制……ではないですね」


 航空母艦らしきものが就役したとの噂もあるが、皇都はその立地上、元より不意の航空攻撃を受け難い。加えて戦闘騎では海洋国家の海軍力に打撃を与え得ない。


「まさか皇海で対艦攻撃訓練でも?」


 そうなれば神州国への牽制としては絶大なるものがあるだろうが、陸海軍は未だ対艦攻撃装備が一定数確保できていない中で御披露目する事を避けていた。兵器とは数が在って初めて効果を発揮する。単独での勇戦は予備と損傷、修理、補充を考慮しない愚策ですらあった。


 皇海は、シュットガルト湖と同様に大部分を閉じた内海という特殊な地形をしている。


 艦隊運動が制限される海域で、空を縦横無尽に飛び回る航空騎による対艦攻撃の訓練。


 神州国は重大視するに違いなかった。


「まさか、数も揃わん上に練度も足りん。挙句に訓練では海に突っ込む連中も要るらしい」


 海に突っ込んだ航空騎と飛行兵は「海蜥蜴」と嗤われているが、同時に対空砲火を受ける事を避ける為に果敢に低空飛行へと挑んだ屈折した賞賛もそこには潜んでいる。飛行兵の果敢さを摘み取る批判や否定をする程に皇州同盟軍も陸海軍も無能ではないが、そうした危険性や不確実性を織り込む困難に頭を痛めているのも事実であった。


 未だお披露目をできる段階ではない。


 無論、必要とあらば戦火に投じて悉くを喪う容易と覚悟はあるが、技能職でもある飛行兵を安易に失う愚策を許容する真似を厳に戒めるべきであるというのは皇国軍共通の意思であった。内戦と本土決戦による消耗戦……総力戦を経験した皇国は、その体制を整えるべく邁進している。


 確かに戦後は始まった。


 だが、戦後が続くとは限らない。否、国際情勢や国際関係に永遠はない。


 共和国の劣勢が続けば、派兵せざるを得なくなる状況に陥る可能性はあり、現状でも共和国からの武器供与や派遣軍の催促は行われている。


「表向きは牽制や首都防衛を謳っているが、陸海軍の性急な計画を大いに肯定したのは、他ならぬセラフィム公だ。皇都周辺に展開している航空歩兵聯隊も投入するらしい」


 アーアルベルトの言葉に、リシアは叫び声を上げそうになる。


 航空歩兵聯隊の投入。


 大部分は速度の問題から防空戦闘に役に立つとは思えない天使系種族を主体とした有翼種による編制。その意味するところは明白である。


「地上偵察ですか?」


「ああ、表向きは地上の被害の把握。迅速な情報伝達による被害地域への派遣……まぁ、建前だろうな」


 地上索敵。


 間違いなくトウカの捜索である。


「挙句に陸軍から三個憲兵大隊も動員されるらしい。目的は空襲に際して生じるであろう狼藉や混乱の収拾だが……」


「それは……建前でしょう」


 皇都地下構造内での捜索を意図している事は明白であった。


 大規模な捜索ともなれば、事前に広く捜索対象を開示する事になる。それは事実上の公式発表に等しく、忽ちに朝野を駆け巡る事は間違いない。関係者が増大すれば、情報隠匿や情報統制は早晩に瓦解する。そして、皇州同盟に確認がなされれば、皇州同盟にも動揺が奔りかねない。ベルセリカであれば押さえ得るとはいえ、動揺が起きない訳ではなかった。


 皇州同盟は決断を迫られつつあった。






作者もヨエルさんに甘やかされたいなぁ……酒を飲んで現実逃避。


ポイントをいただけたので頑張って早めに投稿しました。というか、今まで放置していた者達の諸々を皇都の話に盛り込んでしまおうと考えております。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
レビュー、評価などを宜しくお願い致します。 感想はメッセージ機能でお願いします。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ