閑話 彼の居ない世界で 後編
刀旗は憤る。
戦争を望んだ国民だが、それに伴う責任の一切は軍に押し付けられた。戦後の裁判でさも当然の如く変わり身を見せた国民の先兵となった政治家の蠢動によって裁かれた軍人は八〇〇名を超える事からも分かる通り、その点こそが三島中佐の武装蜂起の原点であったとも噂されている。そうした経緯から軍人達にとり不遇の時代を過ごした者達が、現在の軍の上層部を占めていた。国民という無責任で主体性のない潜在的な政治暴力主義者への警戒を怠らず、憲兵隊の拡充と権限強化が続けているのはそうした理由がある。
国民が軍を信用せず冷遇した様に、軍人もまた国民を信頼せず疑問を抱いた。
その行き着く先が再皇軍化であった。
軍は叫んだのだ。
国民を主として仕えるのは御免被ると。
「御爺様もそうなのですか? とてもそうは見えませんでした。……でも、軍人達の遣る瀬無い心情は、少しは分かります」
「儂は最早、国民に興味などない。法的義務と納税義務を果たすのであればそれでよい。我らは最早、国民軍ではなく皇国軍なのじゃ」
刀旗は屈託のない笑みで告げる。本当にそう考えているのか、その表情に陰りはない。
国民軍……即ち、国民の為に動く軍。
皇軍……即ち、天皇の為に動く軍。
それは依って立つところを国民ではなく天皇としたという事に他ならない。確かに文屋に踊らされ、与えられた権利すらも興味がないと行使しない国民ではなく、経済と科学技術を先導し、公明正大な主君を主と仰ぐ事は当然の帰結と言える。
『国民の総てが戦人を慈しまなくとも、朕が国民の数だけ汝ら戦人の戦果を慶び、その死を嘆こう』
時の天皇はそう口にして矜持を失いつつあった軍を激励し、多くの軍人に御尊顔を拝する栄誉を与え、今日にまで続く気配りを見せた。それは国民と軍の間を取り持とうとの配慮であったが、軍は戦前への回帰を望んだ。主君が望んだ歯車は狂う事になる。
無論、法的には国民軍のままであったが、その思想や理念は完全に嘗ての皇軍となり、国体護持に邁進した。当代天皇が病に臥せた弟が回復するまでの代わりに特例として即位した麗しの内親王殿下であった事もそれに拍車をかけている。
しかし、再皇軍化は兎も角として、民主主義への疑義は民間にも生じつつある。政治家を経済界の重鎮が操り、民衆に対する政治的公平性は失われ、富の再分配能力の欠如した法案と税制を押し通す状況が続いていた。民衆の利益を最優先しない民主主義を否定する者は増えつつある。
明日香は世界史の授業を思い出す。
紀元前からそうした出来事はあり、民主主義が否定される局面は多々あった。
歴史的に見て、決して民主主義はすべての局面で優位を誇っていたわけではない。
遥か歴史の彼方、歴史家のヘロドトス曰く、アケメネス朝ペルシャに於いてダレイオス王の即位……前王カンビュセスの没後(紀元前五二二年)の王位継承争いを制したダレイオスの同志七人の議論が成されたとされる。
議論の内容は、以降のペルシャはいかなる政治体制を選択するべきかというものであった。
パルナスペスの子オタネス民主制を主張し、対するメガビュソスは優秀な少数者による寡頭政治を主張した。
民主制は、民衆が平等の権限を有している為、個人による独断と専横を抑制できる。全ての事柄を議会によって公平に議論し、安定感のある決断が期待できた。大多数の不満を吸収する形で政治を進められるという利点もある。
無論、民主制にも問題点がある。知識と視野に乏しく、感情に流される大多数の大衆に権力を預ける事は多大な危険を伴い、それを諫める者が議会で多数となる事は酷く難しい。一度動き出せば、転がり落ちるように悪政が継続する恐れがあった。
対する寡頭制は、優秀者を選別して主権を与え、議論を行えば知識に乏しい民衆による衆愚政治を抑止できる。各地を統治させて経験を積ませた上で、優秀者を更に選別した上で国政に関わらせれば人選の確実性も期待できた。
反面、独裁制は意思決定の速度に優れるが、法的拘束を受けない絶対者の決断と言動は安定せず、法律は個人的決断によって容易く捩じ曲げられてしまう。責任を追及する者なきまま個人の感情と決断で国政が行われる可能性を抑止できず、制度と秩序が個人の資質に大きく依存する点も問題視された。
そうした議論の中で、ダレイオス王は最終的に独裁制を選択した。
寡頭制は利害から複数勢力の争う舞台として議会が機能しなくなる恐れがあり、民主制は知識に乏しい者が大多数を占める主権分散によって国政が機能しなくなる恐れがある。特に国家権力と財産を蝕む勢力というのは連携して悪事を為す。
そして、それらと戦うべく現れるのは、絶対的な能力と人望を兼ね備えた人物……英雄に他ならない。
事が決着した後、英雄が国民の支持を受けて指導者となる事は歴史が証明している。国家を正して頂点に立った者は、為政者とならざるを得なくなる事が多々ある。問題解決の為に振るわれた強権の行使者が容易に立場を降りられるはずがない。それを為せば新たなる混乱を招く。
行き付く先は独裁制である。
独裁的に強権的に解決した以上、以降はその成功体験に基づいて統治がなされるべきと周囲の大多数は考える。英雄を信じ、そう考える者達こそが集まる以上、当然と言えた。後に続く者達は英雄の背中に理想を夢見る。その背中に繁栄を保証する余地などないというのに。
結末として独裁制に帰結する以上、独裁制が最善の統治体制と言えるのではないか。ダレイオス王はそう判断した。
――民主制は見限られつつある……民衆を顧みない民主主義に意味なんてないものね。人類最高峰の帝王の言葉は正しかった。
愚かしい程に歴史は繰り返す。
だが、それは果たして悲しむべきことなのだろうか?
刀華は軍国主義者であるという評価が一般的だが、実は明日香は彼の「主義や思想など季節毎の衣替え程度に考えておけばいい」という発言を耳にしていたからでもある。刀華が現状で軍国主義という衣服が最も扱いやすいと考えているに過ぎないと明日香は確信していた。
現在までの歴史で試行錯誤された全ての統治体制には欠点があり、それが理由で滅亡した国家も少なくない。
しかし、それが政治形態による問題ではなく、運用する人間側に欠点があるのではないか?
刀華曰く、凡その政体はその主義に忠実で有能な人間のみで実施すれば十全に機能する。あの穢らわしい共産主義ですら例外ではない。
だが、連綿とそうした人物を収集し、配置し続ける事が困難であることは歴史が証明している。最初から失敗している例とて散見された。
それ故に国家や民族……勢力は、其々の時節に於いて、新たなる政体を選択し、過去を否定した。大凡の国家は過去の否定から生まれる故に、政体は過去のものとは違う政体を選択する傾向がある。
人の世は、その連続に過ぎない。
政治に進歩はなく、ただ輪廻の如き循環があるだけなのかも知れない。時折、共産主義の様な盛大な社会実験が行われるが、その結果は常に芳しくなかった。一部の数字だけが人を惑わす程度の成果しかなかった。
民主制国家の滅亡から独裁制国家が誕生し、独裁制国家の滅亡から民主制国家や寡頭制国家が誕生する。
それは果たして国家制度の不健全や衰退によるものだろうか? 統治を担う指導者層が知性や知能の面で致命的に劣化したからこそ、新たなる指導者層を擁立する他なかったのではないのか。指導者層の変更とは即ち、政体の変更である。指導者資質を持つ者の払底した層から再び指導者や指導者層を選出する事は難しく、理解を得難いという部分もあった。無論、見せしめや過去との決別を印象付ける必要性もあるが、何よりも既存権力に対抗する勢力が敵対勢力と同様の主義主張を掲げるはずもなかった。それは、大衆に旧指導者層への迎合と取られかねない。
民主制の屍を苗床として独裁制や寡頭制が誕生する事は必然に過ぎなかったのだ。それは、現在や未来に於ても例外ではない。
「旭日会は民衆を主とした政治を望んでは居らん」言い切った刀旗。
衝撃の一言である。
国民の内から民主制に対する失望が出るよりも遥かに重大な事態である。
「だが、じゃからこそ刀華を危険視する者は多くあった」
「危険視?」
ここで刀華の身についての言及があるとは思いもしなかった明日香は、間の抜けた声を上げる。しかし、考えてみれば旭日会についての話が出た時点で軍や政治が関与していないはずがなかった。
しかし、皇軍、否、天皇に対しての言葉が飛び出すとは、明日香も思わなかった。
「彼奴はの、陛下を国家の象徴に留め、決して間違わぬ者達に政治を任せるべきだと抜かして、今まで人類が提唱してきた主義全てを否定しおった」
面白くないという感情が表情から滲み出す刀旗に対して、決して間違わぬ者など居るはずもない、と明日香は刀華らしからぬ浪漫主義的な主義主張に違和感を覚えた。
決して間違わぬ者がいるならば、民主共和制は生まれなかった。そして専制政治と入れ代わり立ち代わり、時代という舞台で時に光となり時に影となって終わりなき円舞曲を奏でている。
いかなる政治体制であれ、生まれ墜ちた瞬間から腐敗を始める。誕生は腐敗と劣化の始まりであり、それは物質的なものに留まらず、精神的なものまで含まれた。形なきものもまた腐敗と劣化を免れ得ないのだ。森羅万象すらも栄枯盛衰の理からは逃れ得ない。違うのは腐敗と劣化の速度に過ぎず、永続的な健全性を担保できる程に人は万能ではなかった。
「なら……刀華はどのような思惑を? 政治だって人が行うものですよ」
「おう、誰もがそう思うし、儂もそう思っておった。じゃが、大前提の人という要素が抜けたらどうじゃ? そこに決して違えぬモノを組み込む」
刀旗の言葉に明日香は眉を顰める。制度は違えず、ただ人だけが違えるとはいえ、人が行使するものを政治と呼び習わすのだ。
神仏に縋って神権政治でも行う心算かと明日香は考えたが、実在性の不確かな神仏などに縋ることで安寧を得ようとする姿勢を唾棄していた刀華に限って有り得ない選択であった。
「分からんか? 分らんだろうな……機械じゃよ」
「機械? SFみたいに機械が人を管理するという事ですか?」
刀華が空想や妄想に縋りつく様な性質ではない事は、明日香が最も理解していた。そして、機械化率の向上を続ける文明に対して、一種の憧憬と遣る瀬無さを感じていた事も同様であった。
人々の想いや意志が、感情が交錯してこその歴史や時代である。
人々が日常的に自らの手で行っていた事を機械が代替するという事は、そうした機会を奪うという事に他ならず、刀華はそれを危惧するだろう。
それは進歩と繁栄を放棄した文明であり、表面上の豊かさ比例して人心は腐敗と堕落を続けるだろう。経験と教訓の培われない世界。人は何度でも愚行を繰り返す。それを機械が抑制すれば、人そのものの学習機会が失われるという悪循環。
「刀華が統治を機械に頼るなんて……」
過剰な機械化を忌避する刀華が、安易に機械の能力に頼るはずはないと、明日香は考えていた。
機械の能力に思考を委ねる事は、思考の停止に他ならない。
だからこそ。
「刀華が考えを改めるだけの何かがあった? でも、そんなはずは……」
「七六九二五名の犠牲と、三万名以上の戦争が、人殺しができる軍人候補を生み出したからこそ、彼奴は自信を得た。人心を機械で統制できると、のう」
軍属ですらない刀華がそれ程の大事を成したとは思えない明日香は、その言葉を受け入れる事ができなかった。元よりそれだけの数の人間が平時に失われれば、大きな事件となる上に、軍の候補生は一期でも二千人程に過ぎず、万を超える人員を受け入れる能力は軍大学と軍学校にはなかった。
だが、明日香は引っ掛かるものを感じた。
煙に巻く心算ならば、旭日会というある意味に於いて国家の暗部を口にする必要はなく、不要な機密漏洩でしかない。
――七六九二五名の犠牲と三万名以上の候補生……
つまりは七六九二五名の犠牲と三万名以上の者を軍へと追い遣った出来事。
冷戦が続き、辺境での任務の大部分を傭兵が構成する辺境軍が担う様になり、大日連での死者は限定的なものに留まるようになった。
故に、その事件に思い当たるまでに時間はそう掛からない。
「……あっ! でも、それはっ……」明日香は有り得ないと口元を押さえる。
公的には刀華には何の関わりもない事件であっても、旭日会という国家を動かし得る人材を幾人も擁した組織が関わってしまえば、公式見解というものは容易く捻じ曲げられる。
「……VRMMO事件」
大日連を震撼させた世界最大の電子事件。
一五万名もの民間人を以て最終動作確認に臨んだ体感式電子機器を利用した新機軸の次世代遊戯装置に於ける暴走事件。
元は軍用に開発された体感式電子機器を用いた電子潜航型電子遊戯の発達は多くの若者を熱狂させ、経済や産業分野への貢献も期待された。
だが、それは電子事件の発生によって横槍を入れられた。
二年間に渡り、剣と銃と魔法の仮想世界に閉じ込められた競技者達は、仮想世界内での死が現実に直結するという中で、全ての任務を終えて現実世界に帰還するまでに失われた人命は七六九二五。それは文字通りの激戦でであった。軍であれが、一個軍が失われたに等しい被害であり、小都市の人口に匹敵する。
主犯が自殺し、経営会社が倒産する事で一応の決着を見たかに思われた電子事件だが、人々が後になって新たな始まりであったのだと思い知る事になる。
競技者達によって巻き起こされた数々の犯罪。
考えてみれば、それは当然起こり得る事である。そして、先手を打つこともまた難しい。軍とて将兵の不祥事に悩まされ、全力で統制を維持戦せんと日夜全力を尽くしているのだ。
何千もの集団に分かれて徐々に攻略を目指していた競技者達を纏め、現実世界でも統制できる者など居よう筈もない。仮想世界の最終決戦で統率力に優れた者が軒並み死亡していた事も影響している。
「嘘よ。刀華は意味もなく人を死なせる真似なんてしない……」
「意味があったのじゃよ。参謀本部と軍令部が唸る程の、のぅ」
刀旗の言葉に明日香は息を呑む。
戦慄の思惑が次々と明らかになり、そのどれもが刀華を中心として巡らされていた。
VRMMO事件の被害者は、設定されていた目標の達成と共に戦者以外は解放されたが、彼らは二年に渡り殺伐とした世界で戦争を続けていたのだ。無論、相手は幻想浪漫に満ちたものばかりではなく、人工知能が生成した人間も多数存在した。
事件からの帰還者が問題を起こすまでの時間は一週間と必要なかった。
その事件を原因で虐めが起き、その反撃で一二名を殺害するという事件を筆頭に、彼ら彼女らの好戦性が世間に流布したのだ。
生き残る為、殺伐とした世界の基準に対応し、仲間と共に血縁よりも濃い絆を結んで戦い続けた者達が大多数である。その実態を知った時、民衆は恐怖した。
後に残るのは、帰還者と一般民衆の根深い対立であった。
若者達は不遇に泣き寝入りすることはない。全力で戦った。法律も道徳も無視して。彼らは仮想世界の教訓から武力こそが最終局面で全てを決すると理解していた。埒が空かない議論を早々に打ち切り、忽ちに方針を転換したのだ。最終局面への準備が整っていない敵を無理やり最終局面に引き摺り込む事の優位性を感覚的に理解していた。
示威行動を行う民衆に対して武器を持ち出した彼ら彼女らは、二年間に渡り病床にある事で衰えた身体を癒した後で打って出たのだ。
認めさせるには戦うしかない。
彼らの居た仮想世界はそうした世界だった。旗色が明確で敵の撃滅こそが肝要であると彼らは猛進していた。殺伐とした仮想世界で戦う中、幾人もの英雄が現れていた事も大きい。
統率の取れた戦場還りの若者と言っても過言ではない。
「帰還者達による騒乱は大本営情報部によって仕組まれたものじゃよ。刀華の計画の一部としてな」
「何故……そんな事を……」
乾く喉は無機質な声音を吐き出した。明日香は、落ち着く為、自らが淹れた茶を口に含む。
「事態の収拾に動いたのは軍で、競技者達は今、軍の管轄する学校に通っておる……大いに共感され、慈しまれ、愛されての」
刀華が大本営情報部と関係していたという事実だけでも、心臓を圧迫するかの如き事実と言えた。
大本営情報部は、第二次世界大戦に於ける陸海軍の諸外国との情報戦の落伍を重く見て陸海軍の情報組織の一本化に踏み切った。陸海軍の垣根を乗り越える……という麗しい建前は別としても、海軍は暗号解読されて作戦計画が漏洩し、陸軍憲兵隊は共産主義者の間諜に苦労を重ねた為である。無論、最大の理由は核兵器開発の漏洩を疑った故の協力であるが、今となっては欧米列強の核兵器開発が同時期であった事は全くの偶然であると証明されている。
当時は最重要機密の漏洩が疑われ、犬猿の仲となった陸海軍すら協力する事態となった。その産物が大本営情報部である。
大本営直属の情報機関であり、陸海軍の情報機関の指揮統率を行う組織として映画にも敵や味方として人気のある為、知名度のある組織だが、その実態は酷く不明確であった。
刀華は軍人ではなかったが、既に国家の軍事戦略に関与していたのだ。
「一般社会から拒絶された彼らは、そのまま軍に入隊しような。仮想世界とはいえ、実戦経験のある若者を数万人。志願者が年々減少しつつある軍としては福音であろうて」
その一言に明日香は全てを理解した。
不足する軍人の確保を目的とした事件だったのだ。
しかも、過酷な仮想世界による選別を経る事で、運用に耐え得る者達を探し出すという意図が透けて見える。民衆に対する配慮もなく、ただ軍事力の保全の為に民衆を強制的に協力させようという意図は怖気すら振るう事実と言えた。
「軍は戦争神経症などへの知見があるが、近代戦にその辺りが有効か確認するという目的もあった。まぁ、あの仮想世界は皇軍の実験場じゃったと言えような」
大本営情報部が平時では行えない各種実験を行う隠れ蓑としての側面があり、非公式の軍事作戦として予算編制が行われ、実体のない企業によって作られた仮想世界は軍国主義者の箱庭だった。
「刀華は、戦略の展開に私情を挟まん。そして、謀略家の資質もあった。……儂が思う以上にな。儂が気付いたのは事が終わってからじゃよ」
大本営情報部の部長が宮城参内の際に小声での感謝を伝えてきた事で、恐るべき計略を刀旗は知った。己の名を使わずに大本営情報部と連携し、三年の期間と莫大な予算を掛けて成された謀略は軍令部と参謀本部にすら隠されたものであったが、気付いた者達は刀華の実力を理解した。
そして、同時に神将計画は頓挫する事になる。
VRMMO事件に於いて後の国軍司令官や総理大臣として育成中であった若者の全てが“戦死”したからである。軍事に於いては、あらゆるものに予備が在って然るべきであり、当然、神将計画には刀華の予備も存在したが、それすらも“戦死”させていた。
刀華は、計略の一環として邪魔者を排除したのだ。
国家繁栄の部品に甘んじるのではなく、国家の影で主導権を握る腹積もりだった彼にとり、他の部品は須らく邪魔な存在でしかなかった。権力の分散によって国営の非効率を蒙る中で、将来の権力の構造的分散を許容できないと言い放ち、旭日会に神将計画の是正を迫ったのだ。
即ち、自身への資源と権力の集中である。
刀華はその実力を見せ、多くの者がそれに賛同した。
だが、それを懸念する者も少なくなかった。
平時であっても許容し得る損害として七六九二五名の犠牲を計上した刀華の国営を不安視するのは至極当然であり、余りにも軍事分野に偏りが過ぎる点を懸念するのは不自然なことではない。先制核攻撃で地球上の主導権を握るなどと言い始められては堪ったものではないというのが、彼らの主張である。
「あの事件の流れを作った刀華は確信しおった。民意は統制できる、とな。事件を利用して電子情報への関与を合法化させ、その流れを作ろうと試みおった。最近の個人携帯端末の情報を抜き取る部品が搭載された案件も、刀華が推進したものじゃよ」
「それは……」
明日香も第三者に自らの情報が覗かれている事に不信と不安を抱いた一人であるが、それが刀華の計略の一つであったと知り、言葉に詰まった。
「挙句に大本営情報部や憲兵隊を味方に付けて、既存の政治勢力の切り崩しを図りおった。水面下の内戦じゃよ」
刀華の計略は民衆を気付かぬままに操作するというある種の情報統制であり、情報部や憲兵隊が望んで止まぬ要素と合致する。何時の時代も官憲は、民衆の統制を望んで止まない。それが健全な社会の構築に繋がると信じて。
「故に幾度も命を狙われておった。当然じゃ。それだけの事をやりおった」
明日香は、そうした出来事を全く認識できなかったが、刀旗は苦労を語る。
刀華は既に戦争の只中に居たのだ。
「だから刀華を異世界に逃れさせた」
「ちょっと待ってください! 話が飛び過ぎです! 意味が分かりません!」
明日香は卓袱台の天板を叩いて立ち上がる。
この期に及んで最も肝要な部分を惚け老人の振りをして語らぬなど許される事ではなかった。要らぬ国家の闇を聞かされて、自らの生命に危険が及ぶかも知れないという不安だけを得て終わるのは明日香にとって不本意極まりない事である。
「心配するな。儂も異世界の事はようわからん」
刀旗は頬杖を突いて視線を背ける。
「いや、一〇年程前に親不孝の倅がふらりと還ってきてな。刀華を然るべき時になれば寄越せと言う。聞けば異世界で斜陽を迎える国家を救うべく為政者にすると抜かしおった」
言い訳をする様に言葉を重ねる刀旗に明日香はどうしたものかと座り込む。
現実が見えていない中学二年生の如き発想を垂れ流して恥ずかしくないのかと罵声を浴びせたい気持ちもあるが、実は明日香はそれを完全に否定できない理由がある。
「う~ん……」
「儂は断った。孫を訳の分からぬ場所に追い遣るなど論外だ。しかし、彼奴は必ずそうせねばならぬ時が来ると抜かして、御神刀に世界を渡る力とやらを付与して再び姿を消しおった」実際、そうなったがの、と刀旗は毒突く。
刀華の父でもある刀護が生存していたという話も眉唾だが、明日香はそれらの話を否定しつつも、自らが持ち合わせている情報との整合性が取れつつある事に内心で驚愕していた。
そんな事があるものなのか、と明日香は内心の動悸を、胸元を押さえて宥める。
自身の夢見る虚構が彼の足跡であるなどという現実を受け入れろというのか!
明日香は、眼前の英雄を超える存在の意図を感じた。
或いは、倅……刀護がそうした人類を逸脱した存在に成り代わった様にも思える経緯であるが、現行の科学技術では不可能な行いを為す存在の関与は確実であった。
明日香には、心当たりがある。
否、虚構に過ぎぬと考えていたものに、現実感の伴う根拠が生じた。
「その国の名前は何と言ったか……」
「……ヴァリスヘイム皇国ですか?」
今度は刀旗が驚く番であった。
一拍の間。
「……何故、分かるのじゃ? 何を知っておる?」
窺うような視線。明日香はそれを鼻で笑う。
「さぁ? 御爺様の耄碌が伝染したみたいです」笑顔の明日香。
寝惚けた事を口にする相手に皮肉をぶつける体であるが、それは刀旗が現状の刀華を確認する手段を有しているかの確認という意味もあった。訊ねるという事はトウカの現状を確認する術を持たないという事でもある。
さりとて、明日香としては隠す必要のない事でもあった。
両親に伝えれば遂に心を壊してしまったと精神科の診断を受ける羽目になるのは確実であるが、相手が刀旗であるならばその心配はない。寧ろ、事に当たっては精神科に道連れにする腹心算ですらあった。
どこから語れば良いかと一拍の思案を挟み、明日香は口を開く。
「最近夢を見るんです。もう一人の私……|飛鳥(明日香)の夢。彼女はとある国家の重鎮の娘で、内憂に心を痛める御姫様。そんな彼女は、最近、隣国の戦争で台頭した軍閥の指導者に関心を寄せます」
厳密に言えば、明日香と飛鳥は相手の夢を通して会話ができる。
――あの十二単を着た善意なら、刀華との遣り取りを取り持ってくれるはず。
蝶よ花よと育てられた姫君であるが、意外と強かな部分があると、夢を通して彼女の行動を見て明日香は判断している。
飛鳥も刀華との邂逅を望んでいる。
最低でも相手と同等乃至、無視し得ない程度の武力あってこそ、対等な交渉が叶うと飛鳥は理解している。善意だけでは押し通せないものが政略であると彼女は理解しているのだ。
とは言え、神州国の情勢は宜しくない。
弱体化した皇国の東部地域に進駐すべしという意見が神州国政治の中で急速に台頭しているのだ。海洋国家が大陸国家の内陸深くに進出する不合理を知る明日香としては、半世紀以上前の祖国の失敗を再び見せられるようで羞恥心すら覚える状況である。実施するならば皇国侵攻時の帝国と歩調を合わせる形で奇襲的に上陸するべきであり、既に残敵掃討の段階である中の皇国を相手に陸戦を行うなど素人の明日香をしても正気の沙汰ではなかった。
飛鳥も画餅であると納得したが、深窓の姫君の言葉に周囲が納得するはずもない。実績なき者の意見を受け入れる程に国家とは柔軟ではないのだ。そうした例は極僅かであり、巷に流布するそれは極一部が過大に喧伝されているに過ぎない。
だが、同時に刀華と連携の好機でもある。
意思疎通が叶えば、開戦阻止に向けた政略を提言できる。刀華も明日香の言葉であれば拒否しない筈であり、彼自身の情勢も新たな敵を許容し得るものではない。そうした軍事的根拠なき確信を彼女は抱いていた。それは往々にして悲劇を生み出すとも知らずに。
「指導者の名はサクラギ・トウカ。皇州同盟軍元帥にして、悉くを打ち据え、権勢を成した軍神。軍事力の体現者にして、怒れる軍国主義者」
「それは……」二の句を告げない刀旗。
明日香も当初は自身の心の奈辺にある妄想の産物と考えたが、それにしては妙に現実的であり、幻想浪漫にしては無慈悲なまでに大系化されていた。そこには幼少の砌に抱いた憧憬を差し挟む余地などなく、唯々、人が積み上げた歴史という名の下で育まれた効率性があった。
挙句にそうした夢が連日続けば虚構であると断じる真似はできず、眼前の英雄の言動はその乾いた幻想浪漫の存在を肯定する要素に転じた。
「刀華は元気なようですよ。敵国の首都を焼き、機動戦で敵野戦軍を撃滅し、首都で民兵を率いて左派を弾圧するという大活躍」薫陶の賜物ですね、と明日香は苦笑する。
刀華に然したる説明などせず、着の身着のまま「男ならなんとかせい」と放り出した事が容易に想像できる明日香としては、彼が自重するなど有り得ぬ事だと確信できた。無論、言い含めれば、それはそれで激発して陰惨な結果を招く事は疑いない。
「あの阿呆め……」額を押さえる刀旗。
国内勢力の間で激しい軋轢を巻き起こした孫を異なる世界へ逃がしたかと思えば、その世界では戦争の只中に在ったと知れば、祖父としては嘆息するしかない。明日香も全く反省の色を見せない刀華に物申したいとすら考えていた。
だが、帝国や神州国の様な隣国が存在するのであれば、致し方ないのもまた事実である。
そもそも、神州国は軍神たる刀華を向こうに回して勝利できるなどと考えているならば、どの道、国家の命数を使い果たしているに等しい。航空戦力の充実ぶりを報じる新聞をみれば、対艦兵器の搭載を想定していない筈がないのだ。
刀華ならば間違いなく想定しているだろう。
海洋国家大日連の者が通商航路を遮断しかねない仮想敵国への対応を怠るはずがない。
神州国よりも遠方である帝国首都を航空攻撃で攻撃した時点で航空母艦の存在は明らかであり、広域で泊地空襲を行われると神州国海軍の決戦主義著しい艦隊編制では対応できない。
明日香にも分かる程度の話であるが、航空戦力による対艦攻撃の危険性を断じれる者は、異なる世界では皆無に等しいのだ。特に戦艦や重巡洋艦などの大型艦艇が撃沈されていない事が大きい。頑迷なる者は悲劇と血涙を以てのみ、人の意見に耳を傾けるようになる。
飛鳥の盟友たる平安時代に活躍していたかの如き名を持つ陰陽師の協力を得て、海軍内での工作が行われているが、刀華がそれに気づいて接触してくる事を祈るしかなかった。
「あれは無事か?」
「今のところは、ですが」
明日香としては、皇国政治の混迷の度合いが魔窟と評しても差し支えないと口にする飛鳥の盟友を信じるならば、刀華は政治的に見ても致命的な状況ではない。政治的混迷の中に在って確固たる基準として軍事力が存在感を示すのは歴史的事実である。
混乱が続けば続く程に刀華の価値は増大するのだ。
「政治に於いて肝要なのは孤立しない事であるが、あれはそれをせんからな」どこかで躓く、と刀旗は唸る。
政治に於ける優位とは、同胞や協力者の拡大に努め、勢力的に多数派となる事を意味する。困難な状況であっても可能な限り敵対的な人物や勢力を作らず、致命的な齟齬を避けつつも、可能であれば最終的に自勢力に組み込む事が望ましい。
それが政治の王道であるが、刀旗曰く刀華は、状況を軍事力や謀略で逆転させる事に固執している部分がある。それは若輩で自勢力を持たず、強大な勢力と相対せざるを得ない刀華の歪みと言えた。
不利を覆すと言えば聞こえは良いが、そこには必ず無理が生じる。
その点を補填できるかという点こそが、刀華の指導者としての真価が問われる。
刀旗は鼻柱を掻いて、眉尻を下げて何とも言えない表情を浮かべている。
救国の英雄にも予想し得ない状況への戸惑いもあるが、限定的ながら刀華の居る異なる世界に干渉し得る手段が見つかったのだ。
「血縁の成せる技……業か」
深い唸り声を発した刀旗が腕を組んで考え込む。即決即断を旨とする英雄としては珍しい光景に、明日香は眉を跳ね上げる。
刀華……桜城家に対する言葉でないならば、それは孤児である筈の明日香に対する言葉となる。それは明日香の血縁上の両親を知っているという事に他ならない。
「……血縁……ですか?」
喉に張り付いたかの様に言葉が出ない明日香に、刀旗は一瞬の逡巡を経て頭を掻く。その仕草は何処か刀華と似ていた。
「これから協力し合う仲じゃ……真実を語っておくのも良かろう」
協力とは?と尋ね返す前に、刀旗は一気呵成に言葉を重ねる。
「御主は孤児という扱いであったが、実際は公家ととある社家の巫女と駆け落ちした末の結果じゃよ」
呆気に取られる明日香を面白くもなさげに見据え、刀旗は言葉を重ねる。
「その巫女の生家である社家は、時量師神を主祭神とした神社として知られておる。詳しくは不明であるが、時や時空……内と外の概念に纏わる神であるらしい」
そうした主祭神を祀る巫女と摂家の血縁から生まれ落ちた明日香が異なる世界に干渉できるのは正に業と言えた。
時量師神は現世と黄泉の境界を司る一柱として古事記に登場する神である。
投げ棄つる御裳に成りませる神の名は時量師の神。
僅かな記述に過ぎない神であるが、伊邪那岐神が黄泉国から戻って禊祓をした際、身に纏う衣類などを抜き捨てた折に誕生した神の一柱である。御裳とは腰に下げる袋を指す。
御名を踏まえると時間を計ると取れるが、『時』という字が『解く』であり、袋……つまりは御裳の開封を指すという見方もできる。袋を開けるという事は旅を終えて、禊を行って穢れを払う状況とすれば伊邪那岐神の禊祓とも符合した。
旅人……彼らが持つ御裳というのは、当時の者達にとって穢れ……疫病を齎す存在の象徴だったのかも知れない。無論、忌避するばかりでは、旅人による交易の恩恵を受けられない為、禊による祓を以て防止しようと試みたのだ。
しかし、それらが転じて集落と外界を司る神であると定義する勢力があった。
それが、時量師神を主祭神とした神社である。
所在も氏子も不明な奇妙な神社であり、だが確かに存在する神社であった。
知る者は少ないが、日本にはそうした神社が……宗教勢力が少なくない。
野山を徘徊する修験道よりも強力な機密性と排他性を持つ宗教勢力は無害であるならば放置されている。
無論、大本事件の出口王仁三郎の様に政府や陸海軍にまで影響力を見せた新興宗教を叩き潰す事は桜城家の義務ですらあった。宗教の自由は政戦に影響力を行使しない範疇に留まる。近年でも“投票すれば徳が溜まる”などと嘯いて選挙に参加した新興宗教団体を憲兵隊で解散させたばかりであった。突入口の確保に憲兵隊が加農砲を用いた光景が放送されて民衆に強い印象を残している。
「そうですか……神が実在する世界もある訳ですから……」
信仰が力となり、神を生み出す。
そうした世界を知ってしまった以上、己の住まう世界にもそうした神が存在しても不思議ではない。否定する根拠はなかった。科学技術がいかほどに闇を照らそうとも、人が人であり続ける以上、心の闇は消え去らない。そこに宗教や神々は生き続ける。
まさか、トウカの転移に胡散臭い神社がかかわっているのでは、と明日香は刀旗に視線を向けるが、英雄はそれを鼻で笑う。既に踏み込んで自白剤なりを打ち込んで背後を洗ったと言わんばかりの笑顔だが、内情を聞けば明日香は同情してしまう気がした為に黙殺する。
「本来の両親の事を訊ねぬのか?」興味深げな刀旗。
「……今生では逢えぬでしょう」
間違いなく“事故死”しているというのが、明日香の出した答えであった。公家が醜聞の余地を放置する筈がない。駆け落ちという言葉が出た以上、相応の対処が成されたと見るべきで、明日香が孤児となった事を踏まえれば答えは容易に想像できた。
明日香は未来を考えねばならない。
零れ落ちたモノを悲しむ暇などないのだ。
「協力とは一体何を協力するのでしょうか?」
「彼奴を助けたいのじゃろう? 或いはあちらに行きたいか……まぁ、色々と試す価値はあろうな」
彼是と口にしたところで、その点だけは明日香も変わらず、刀旗も容易に想像できてしまう。
悠揚迫らぬ態度で刀旗は主導権を握ろうとする。
明日香による異なる世界の観測という急転直下の情報を飲み込み、己の目標を定義して利用しようとする姿勢は有難いものであった。
無論、油断できない相手であるが、知識量も然ることながら政戦での場数は国内で追随する者がいない事も確かである。刀旗の政戦への助言は棍棒の如き一撃を齎すだろう事は疑いない。
明日香では飛鳥を支え切れないのだ。
儂も行けぬのか?と呵々大笑する刀旗に、明日香は頼もしさと、一抹の警戒心を抱いた。




