閑話 彼の居ない世界で 前篇
ブクマ三千件記念です。実は書き上げたのは二年前なのですが、そのせいで色々と齟齬があって修正に時間を要する事となりました。しかも、追記してかなりの長編になってしまった。
軍国主義全開です。
敗戦でなかったが故に泣き寝入りする訳ではない軍人も多い訳ですね。
「ふむ、今日も来たか……。刀華はもう帰っては来ぬぞ」
居間に足を踏み入れた明日香の耳朶を、多分に呆れを含んだ声音が打つ。
居間の先……縁側で大太刀の手入れをしている老人の背を、明日香はその愛らしい瞳で精一杯に睨む。
元来、人を嫌うという行為に疎い明日香の姿は、見る者によっては、その可憐さを掻き立てる要素にすら見える。
本質的に善である明日香に、人そのものを憎悪するという行為は難しい。
だからこそ、明日香は、一つの策を携えてこの場にやってきた。
刀華が行方知れずとなってから既に四か月が経過しており、明日香の不安と孤独は日増しに増大し続けていた。言い知れない徒労感と大きな喪失感が、極普通の大日連の何処にでも居るような少女の心を蝕んでいく。
明日香は老人の横まで進むと、筒衣に皺が寄らないように正座する。
縁側で老人と少女が二人。
隣で胡坐を掻く老人は言葉を発さない。
桜城・刀旗。
大日連が救国の英雄。
齢百を超えて尚、鋭さを失わない眼光に、衣服の上からでも見て取れる巌の如き身体。六〇歳程度と言われても差し障りのない姿は、正に近代の怪物と評して差し支えないものがある。現に彼は軍から理屈と理論を超えた存在として扱われていた。将官を拝命した者達は、必ず彼に“参内”する。
米帝を中心とした関東上陸作戦(連合軍呼称・コロネット作戦)に対応する為、時の天皇から御聖断を以て陸海軍の指揮権を一手に預けられた人物である。本土決戦軍として神武軍を編制し、その指揮権を預けられるというのは近代史では類を見ない事である。度重なる戦勝による急な昇進が続いたとはいえ、少将に過ぎなかった陸軍将校に六〇万を超える軍勢の指揮権を委ねるのは異例であった。
例え、それが神国日ノ本建国以来、皇室の忠臣であり続けた武門として君臨する一族の者と言えど、彼は当時三十路を過ぎた程度の若造に過ぎなかった。
御聖断と言えども、これに水面下で反発する者は多く、武装蜂起紛いの事件まで起きている。今では時の天皇が停戦工作を行う前に排除しようと試みた一環であるとされているが、刀旗も最終的には多大な犠牲を払いつつも勝利した。
この際の一連の戦闘は陸戦兵器の開発で後塵を拝する日本側が不利と見られていたが、刀旗の立案した不正規戦と陣地防御を行いつつ、大規模航空攻勢と近海展開用小型潜水艦による輜重線寸断。そして、何よりも大都市東京を中心とした関東地方での交戦を避け、民間人を連合国側に押し付けた。
現在でも外道の戦略と名高い敵軍に食糧消費を増大させる手段で、連合国軍は国家社会主義者からの解放を大義名分とする以上、占領地民間人の最低限の生活を保障する必要があった。輜重線への執拗な攻撃と、関東地方の食糧事情を一手に引き受けなければならなかった連合国軍。
そして、捻出された五カ月の時間で昭南島に集結を終えた連合艦隊主力と、各基地航空隊が万全の態勢を整えて日本近傍海域で陸上支援を継続していた連合国艦隊に襲い掛かった。
後に東日本大海空戦と呼称される事になるこの戦闘で、〈大日本帝国〉と〈アイヌ王国〉を基幹とした大東亜同盟軍は、連合国軍に大打撃を与えた。
連合国軍は陸上戦力を二八万名近く喪い、海上戦力は、戦艦一四隻と正規空母一八隻を喪う被害を蒙った。無論、大東亜連盟軍も大被害を受けた。特に〈アイヌ王国〉海軍などは新鋭戦艦〈シャクシャイン〉などを喪失している。
被害比率に加え、本土防衛に成功した点を見れば、紛れもなく救国の英雄。
布哇沖海戦での大敗を糊塗する為に行われた日本本土強襲での更なる大敗によって追い詰められた連合国軍は、終末兵器による攻勢で辛うじて名目上の引き分けという停戦に持ち込んだが、その点は刀旗の戦功を何ら霞ませるものではない。
そうした相手に明日香は一歩も引かない。引けない理由があるのだ。
「刀華は何処に行ったのですか?」少女は救国の英雄に問う。
刀旗は呆れと憐憫を宿した瞳で明日香を一瞥する。
普段は見られる事のなかった厭世的な佇まいは、刀華の行方が知れなくなって以降のものであり、刀旗自身も大きな喪失感を感じている様に、明日香には思えた。
――なら、なぜ行方不明の届けを出さずに死亡扱いにするの。
交通事故扱いでの死亡という工作すら行われた。彼の権威は孫一人の死を覆い隠す程度は容易い。その真実に時間を掛けて辿り付いたからこそ明日香はここに居る。
「御爺様、教えてください!」
「…………予定されていた事じゃ」
明日香の憤慨に、刀旗は小さく溜息を吐いた。
明日香は左手で縁側の床に平手を叩き付ける。
救国の英雄は動じない。
だからこその一振り。
懐に納めていた短刀を右手で取り出すと、振り払う様に鞘を抜き捨てる。名のある一振りではなかったが、十二分に人を殺傷できる鋭さを持ち、昼下がり陽光を受けて禍々しく輝く。
明日香は逆手に握った短刀を振り翳す。
老英雄は動かない。全てを諦め、全てを受け入れるかの様に。
少女は躊躇しない。日常の大部分を占めた男を取り戻す為。
振り下ろされる白刃。
刀旗は、短刀に手を伸ばす。
彼にとり、自分に刺さるというならば、それはそれで構わないが、その刃が、明日香が床に置いた左手に迫るというのならば看過はできない。明日香もまた刀華と同じ様に孫も同然と考えている刀旗にとり、身を挺する事など躊躇するものではない。
振り下ろされた白刃の切先が明日香の左手の甲に触れんばかりの距離に在って、刀旗の右手は辛うじて白刃を掴む事が叶った。
驚愕の表情を浮かべた明日香。刀旗は深い溜息を一つ。
「人を傷付ける様に調律されておらんとは言え、想い人への思いの縁に在っても他者を傷付ける事を考えんとは……」
その言葉の意味は、刀旗の右手の平から流れる血の前に過去へと流れる。
「御爺様っ!」
「気にするでない。痛みには慣れとる」
短刀の柄から離れた明日香の右手を確認した刀旗が、短刀を庭へと投げ捨てる。短刀は離れた池の水面を揺らし、水底へと沈んでいった。
刀旗は溜息を一つ。
最近は溜息ばかりであった。
大日連に在って最も武力や暴力に縁遠い少女は、恋という感情が揺れ動く最中に在っても他者に暴力を振るう事を良しとしない。
優しいというには些か度を越している。故に深く政戦に傾倒する刀華と本質的には同等であり、相違点はその慈しむ対象でしかない。
泣きながら許しを請う明日香の頭を、血塗れではない左手で撫でる刀旗。
――話さねばなるまい。
桜城・刀華の宿命を。
桜城・刀華の意義を。
桜城・刀華の定義を。
それは、決して明日香も無関係ではないのだ。
何故ならば、二人は生まれた時点で既に計画に組み込まれていたのだ。
「さて、どこから話したものか……」
刀旗は、左手から零れ落ちる鮮血を気にも留めず立ち上がると、明日香を促して居間へと進んだ。
「昔、儂はこの国の英雄じゃった……」
刀旗の独白に明日香は首を傾げつつも頷く。
昔話になると覚悟していたものの、そこまで遡るのかと驚いた……げんなりした明日香の心情を察した刀旗は「関係のある事じゃ」と少女を嘗て幾十万の将兵を睥睨した視線で射竦めた。
「米帝との大戦に在って、儂は多くを喪った。そして、国家も国民も軍人も官僚も……時の皇族でさえ喪った。そういう時代じゃった」
懐古と悔恨の入り交じった瞳で見据える先にあるのは、額に納められた幾枚もの白黒写真。セピア色の過去である。綺羅星の如く日の本が近代史に燦然と輝く、将星達の在りし日の姿。
明日香でさえ知っている桜城、東郷、土方の名門軍人家系の俊英達だけではない。
海軍では、布哇空襲を実現した山本・五十六に、布哇沖大海空戦で烈将の山口・多聞。大戦末期の戦線縮小の立役者木村・昌福に、水雷の神様と謳われた田中・頼三。艦隊運用の達人と称された南雲・忠一。
陸軍では、猛将の異名をとる山下・奉之や、仁将の呼び声高い宮崎・繁三郎。硫黄島の太守の異名で知られる栗林・忠道、関東機甲戦を指揮した百武・俊吉。
他にも陸海軍の明日香が知らぬ将星達、其々の表情で額に収まっていた。
圧倒的であった。
今は明日香も良く利用しているが、改めて眺めると日の本の近代戦史そのものであり、歴史の教科書に記されている者達が刀旗と共に数多く写真に写っており、暗に桜城家の権勢を示していた。
「多くの烈士が鬼籍に入った。……だが、それは良い。我らは武士。死の淵に在って尚も戦い往く者なれば……しかし、あの第二次世界大戦(WWⅡ)は違った。人の戦ではなかったのじゃよ」
「……武士の望む戦争ではなかったという事ですか?」明日香は間を置いて呟く。
武士が古の時代の様に正々堂々と名乗りを上げて干戈を交える時代は戦国の世に在って既に廃れていた。〈アイヌ王国〉の開発した火縄銃を中心とした火器は、日本から武士という概念を一掃する程に強烈で、織田・信長がそれを多用して天下統一を果たし、東南亜細亜を次々と勢力圏に加えていった事からもそれは窺える。
刀旗は苦笑を零す。
「武士……それが叶えば、これ以上なかろうが、軍人としてそこまでの夢は見れぬよ。答えは兵器じゃ」
「兵器……の戦い?」明日香はその真意を図りかねた。
戦争で兵器を使うのは当然の事であり、その性能は勝敗を決める大きな要素である事は、明日香でも理解できたが、刀旗の真意までは理解できなかった。
「戦争は人の意思によって引き起こされ、人の意思によって殺し合う……しかし、あの戦争から変わり始めた。人すら兵器の一部であるかの様に扱い、人ではなく血も涙もない兵器が戦争を行い始めた」
「確かに兵器は進歩して兵士の代わりになったりしていますけど……」
最近、放送されていた番組では、無人戦闘機や自動駆逐艦なども就役し始めており、兵士の生命が大きく損なわれる可能性のある任務は、少しずつだが確実に減少し続けている。人命の価値が上昇し続け、少数の死が政権を揺るがし得る以上、それは順当な進歩の形であった。
「違う。兵士の死に場所が減ったのは兵士を戦場で扱う必要性が薄れたからに過ぎぬ。人が機械部品の発達で性能に劣る部品となったからじゃ」
明日香とて無知ではなく、寧ろ刀華が偏った話ばかりするので、大日連の同年代の少女達よりも詳しいと言えるが、刀旗の言葉を理解するには至らない。
「分からんか? 分からんじゃろうな? ……なに、簡単な事じゃよ」刀旗は小さく笑う。身体つきの割に、その好々爺然とした笑みは何処か似合っている。
「敵国の戦意と国力を削ぐのに最も効率的な手段が民衆への無差別攻撃だと知って……否、思い出してしまったのじゃ」
「……核兵器のような?」
明日香とて核兵器が面制圧に最も有効である事くらいは知っていた。同等の面積を破壊しようと思うのであれば、桁違いの弾火薬が必要となる上、多数の人員も投入せねばならなくなる。核兵器は開発と配備で多大な予算を必要とするが、敵地に大規模な火力と人員を投射する時間的余裕と手段の準備を含めれば話は変わる。
「核はその極致と言えよう。無論、生物兵器や化学兵器も忘れてはならんが、儂が体験したのは核だけじゃな」
第二次世界大戦中、大東亜同盟軍勢力圏に投下された核兵器は合計十二発。その内、日本本土に投下されたのは七発だが、それらは甚大な被害を齎した。
「あの日、軍官民の関係なく無数の者が炎と絶望に飲み込まれた……民間人への攻撃は条約で禁止されておったが、米帝はお構いなしでな、儂はそのとき誓った」
「復讐ですか?」
明日香は当初聞きたかった話とはぶれ始めている事を知りつつも、刀旗の言葉に引き込まれていた。刀華もまた刀旗によって育てられ、その思想に大きく影響されているという事も見逃せない。
「ああ。だが、米帝だけではない。……評や人気取りの為ならば、如何なる外道でも許される民主共和制という衆愚政治を、民主主義を根絶やしにする為に儂は戦い続けていた。そうするべきだと思ったのじゃ」
刀旗の瞳に凄絶なまでの憤怒が渦巻く。
終末兵器とも言われる核兵器の投入地域が悲惨の一言に尽きる。学校教育でも、その悲惨な過去を忘れなないようにと、特別に時間を取らせて授業が組まれているが、救国の英雄にとっては未だ過去ではないのだ。
「刀華も、その闘争に於いて重要な位置を占める、その為だけに製造された“兵器”だ」
「彼が……兵器? ふざけないで!」
明日香の怒声は、刀旗が机の天板に亀裂が走る程に叩き付けられた拳によって遮られる。
刀旗の瞳は憤怒に彩られている。
「この国には時間がない! 小娘には! 無知で恥知らずな国民には分からぬだろうが、今この時も我が国の国益は民主主義に蝕まれておる!」
「それでもっ! 刀華は貴方の孫でしょう!」
「ああっ! 孫じゃ! 可愛くも捻くれた儂の孫じゃ!」
それは本心なのだろう。
俯いた刀旗。
しかし、次の瞬間には顔を上げて断じる。
「しかし! それ以上に桜城なのじゃ! 神国日之本開闢以来、唯一、皇家に桜を冠する家名を下賜され、血統の続く限り国体護持を宿命付けられた一族のな!」
大音声に明日香はたじろぐ。
桜城家。
藤見、風椿、蘭堂、梅郷などの家系と共に皇家が自前の軍事力を整備する最中に生まれた一族である。現在の近衛軍の要職を占める者達が、それらの一族が大半である事からも、その過去と歴史、使命が窺える
桜城家の全容を知る者は少ない。有名になったのは、刀旗が第二次世界大戦で活躍してからの事であり、その成立が天皇家である扶桑之宮家に次ぐ程に古いとされている。その事からも分かる通り、桜城家は長きに渡り日本と共に在った。隣国の〈アイヌ王国〉のシャクシャイン朝もその血族に連なるという噂もあり、日本の危機を幾度となく打ち破ってきた。
正に国家鎮護と国体護持は宿命である。
明日香も最初、その話を聞いた際は眉唾物だと感じていたが、歴史的価値があるものが無数に転がっている屋敷と官僚や軍人、財界人などのなかでも著名な者達をよく見かける事から、全てが違えている訳ではないとも考えていた。
「避け得ぬ運命……。元より、あれが眼を付けられておったのは、儂の孫であったからじゃが……刀華はな、才能があった」
「戦争の?」
明日香の皮肉を、刀旗は鼻で笑う。
話の流れからすると刀華に軍事的勝利を求めている様に聞こえたのだが、違っていたのか、或いはそれは占める役割としては大きくないのか。明日香は目を眇める。
「人々を操る才能じゃよ。否、駆り立てる才能かの。己の意思の儘に、思想の儘に、効率の儘に……じゃからこそ、陸軍大臣や近衛軍長官は、今こそ再びとと気色ばんだ」
先の全く見えない話に、明日香は思考の限界を悟りつつあった。そもそも、現職の軍高官の行動に言及した時点で機密に抵触するのではないかと不安を感じる。
無論、日本海海戦の立役者である東郷平八郎が、軍務から離れても尚、皇国海軍に在って大きな影響力を持っていた様に、刀旗もまた同様であった。東郷が認めなければ軍内で意見は通らず、逆に認められれば大きな力を付ける事となっていた点を見ても分かる通り、軍にとって生ける英雄とは、例え退役しても英雄なのだ。それが軍組織にとって有益であるか否かは別として。
兎にも角にも、少々の事では刀旗の権勢は揺らがない。
刀旗は、明日香の内心など知らぬと言わんばかりに皮肉に満ちた笑みを零す。
「桜城・刀華は軍神と成れる資質を持った者であった」
「それは……軍人達も刀華には好意的でしたけど……」
屋敷に訪れる将官達との会話は、刀華の楽しみでもあり、数少ない心からの笑みを見せる瞬間でもあった。
だが、よく考えてみれば、三日に一回という来訪者数は度を越している様にも思えた。しかも、退役将官だけでなく、現役将官も多数おり、任務に支障が出ないのかと思える程に回数を重ねている。退役将官と現役将官の社交場という扱いとなっていた屋敷だが、その中心には必ず刀華が居た。
明日香は、度々、御小遣いと称して一万円札を投げて寄越してくる老将達の姿を思い起こす。
「刀華が操っていた? でも、それは……」
「流石にそれはなかろう。経験不足で、何より相手は老練な宿将ばかりじゃ。当時の刀華では叶うまい……逆じゃよ」
刀旗は、机の煙管に手を伸ばしながら口元を皮肉に歪める。
逆という事は将官達が刀華を操っていたという事になるが、刀華が対逸れた行動を取った過去など明日香の知る限りではない。
「刀華に思想を植付けたのじゃよ」
「それは教育の事でしょうか?」
思想の植付けと言えば聞こえは悪いが、実情として国営教育機関による子供達に対する教育もそうした側面があると、刀華が語っていた事を明日香は思い出す。
学校教育も極論をすれば思想の植付けである。大多数の思想や方向性を画一化する事で統治に於ける費用対効果を向上させるのだ。知識と知能に欠く無頼漢が増えれば、治安維持や経済への負担は大きくなる。無論、それは最低限の部分であり、技術者などの専門職の育成なども理由に含まれた。学校教育程に多面的な理由を持つ教育制度はない。
だが、刀華はそうした教育制度こそが国家の存続と繁栄に必要不可欠で、同時にそれらの迷走こそが国家を腐敗させ、滅亡へと追い遣ると笑っていた。
――今の政治家を見ると、真っ当な教育を受けている様には見えないし……そういう事かしら?
「違う。全く違うのぉ。まぁ、刀華が小中学校に通う事を認めんかったのは、下らん教育に毒されては堪らんという理由と時間がないという理由の産物であるがの……そんな事は纏めて心底どうでもよい」
「どうでもいいって……」
刀華が学校に通い始めたのは高等学校からで、小中学校には一切通っていない。子供は、特に多感な幼少に身に付けた考えや出来事を起点に指向を発展させていく。故に刀旗は、刀華が彼の言うところの平和主義や平等主義、民主主義を騙る堕落と腐敗に、理論武装なく触れる事を恐れた。それは屋敷に情報端末や新聞などがなく、書物と戦闘詳報のみが巨大な書庫に押し込まれていた事からも察する事ができる。刀旗は、好ましくない情報に歴史や戦史、思想などの理論武装を経てから触れさせるべきだと考えたのだ。
「何故、そこまで……」
己の孫に歳相応の生活をさせなかったのか。偏った人間関係から、偏った歪な対人姿勢と死生観を基本とした刀華。孫の幸福よりも国体護持と国家鎮護を優先できるのか、明日香には分からない。或いは、そうした常人の及ばない思想を掲げ、思考する者達こそが英雄と呼ばれるのかも知れない。
「理由に意味はない。変わらんさ。儂が何を言おうともこれは潮流じゃ。あの大戦後、旭日会の議決で確定した。今ではそれこそが旭日会の存在意義と言えような」
「旭日会……あの武装蜂起鎮圧の」
それは大日連にとって大きな意味を持つ名であった。
陸海近衛の将官の有志によって戦後に作られた組織で、軍高官の中でも実力と実績がある者達だけが所属を許されるという軍事研究会の名でもある。
成立当時は見向きもされず、寧ろ非公式なものであったが、ある事件を切っ掛けに脚光を浴びる事となった。
陸軍将校、三島中佐による武装蜂起の折り、時の陛下の御聖断が下されることを避ける為、〈霞ヶ関守備隊〉と名付け、統帥権干犯を避けようとした参謀本部に対し、旭日会は皇族将校……閑院宮大佐が憲兵隊を率いてそれを牽制した事で一躍有名となった。彼もまた旭日会に属している。
結末としては、刀旗率いる帝都駐留の〈第一師団〉による鎮圧部隊が御聖断の下で投入。その戦闘……御聖断で英雄が投じられるという事実の前に銃声一つ響かなかったが、その最中に三島中佐は刀旗と果し合いの末に討ち果たされた。
「やはり、旭日会の名が出ればあの事件が浮かぶか。まぁ、近代で果し合いが公共放送に流れるなど前代未聞であるからの」明日香の胸中を見透かしたのか、刀旗は思案の表情と共の呟く。
「あれはの……旭日会の自作自演のようなものじゃよ」
「それはっ!」
迂遠に武装蜂起事件を企てたとも、知りつつも見逃したとも取れる発言に、明日香は絶句する。民衆に知られれば国家統制に不都合が生じる事は疑いない。
「軍によって製造された英雄……それが三島中佐じゃ。そして、そんな人造の英雄を製造……調律したのが旭日会に他ならん」
「軍が育てた、ですか?」要領を得ない言葉に明日香は首を傾げる。
刀華と同様に、製造と評された事に違和感を覚えたが、孤児として軍出資の孤児院で育てられたならば、軍が作った、という表現は決して当て嵌まらない訳ではなく、或いは人を兵器の如く扱わんとする決意の表れとも取れなくはない。
「分からんか? 分からんだろうな。軍は望んだんじゃ。完全無欠の軍総司令官を」
「だから製造……調律を?」
財閥の後継者が特殊な環境で何一つ疑いを持たずに特別教育を施され、高い知能と知識を身に付ける様に、三島中佐は愛国心と軍事行動に於けるあらゆる知識を叩き込まれた。
人権などないに等しい状況だったのかも知れないが、先の大戦での陸海軍指導部の無能ぶりを考えれば理解できなくもなかった。優秀な軍指導者を求めるの当然の流れと言えよう。
「あの悲劇を繰り返さぬ為、平和主義と平等主義に神威の如き決意を以て掣肘を加える者が必要じゃった」
「それが作られた英雄ですね?」明日香は問う。
英雄。
それは、奇跡という事象を武力と鋼の如き意志を以て地上に顕現させる者。
歴史を振り返れば、〈共和制羅馬〉の終身独裁官、ガイウス・ユリウス・カエサルから、世界の三分の一を征服した〈マケドニア王国〉のバシレウス、アレクサンドロス大王。都市国家〈カルタゴ〉の名将、羅馬史上最強の敵と称された将軍、ハンニバル・バルカ。混乱の祖国を瞬く間に掌握し、複数の皇帝を打ち破りながら破竹の快進撃を成した〈共和制仏蘭西〉のナポレオン・ボナパルト。日本でも天下布武を成し遂げ、外洋進出を果たして、その版図を大きく広げた征夷大将軍、織田信長などが存在する。
そして、明日香の眼前に居る刀旗もまた英雄である。率いた軍の規模と、米国への核攻撃も含めた場合の敵に齎した人的被害だけで言えば、彼らに勝ってすらいる。
しかし、眼前の刀旗は首を横に振る。
「違う。違ごうておるぞ。どいつもこいつも英雄を特別視し過ぎておるわ。御主は儂が英雄に見えるか?」
「いえ、呑んだくれの老人です」間髪容れずに明日香は応じる。忌憚なき本心。
嘘偽りなき本心で、昼間から刀華と歴史考察をしながらの酒盛姿などは日常茶飯事で、明日香はよく酒瓶を取り上げていた。無論、机下に隠している二本目も取り上げる。
「ま、まぁ、そういう訳じゃ、所詮、英雄も人に過ぎん。故に、それを理解せなんだ我らは三島中佐の葛藤に気付かなんだ。何のことはない。儂らが調律した英雄は、誰よりも祖国を愛し、誰よりも危機感を抱いておったのじゃ。儂もあの阿呆の遺書を見ねば気付かなんだが、今の祖国を見るに彼奴の懸念は正しかった」
英雄が、英雄として製造されながらも反逆者として散った者の意思を肯定する。
刀旗が現職の地位に留まっていたのならば、国家を二分する議論となったであろう一言。
「なら……刀華も……」
それだけは認められない。あってはならない。
製造された英雄という救国の兵器ならば……
「そうじゃ。次なる英雄を作らねばならん。過去の失敗を踏まえた上でな……その一つが刀華じゃ」
「そんな……」明日香は呻くように呟く。
英雄という言葉と三島中佐の名が出た辺りから、もしやとは思っていたが、実際にそれが真実であると語られると冷静ではいられない。
そして、その一つという言葉から、それが刀華の身だけに起きただけには留まらない可能性に思い当り、その小さな拳を握り締める。
――でも、私というただの民間人の接触は見逃された……もしかして私も何かしらの……
「目敏いの……気付きおったか。まぁ、あの刀華の枷として選んだんじゃ。その程度の察しはなければな」
「私が枷……なら刀華が居なくなったのは……」
枷が枷たる務めを果たさなかったからではないのか。
枷という内容は分からないものの、それがナニカから繋ぎ止めるものであるという事は容易に推し量れる。
しかし、刀旗は呆れた様に笑い、首を横に振る。
「別にこの国、この場所に繋ぎ止めるものではない。人としての領分に繋ぎ止める為じゃ」
「人として……三島中佐はそうでなかったという事ですね?」
刀華の調律は、前世代の三島中佐の教訓が取り入れられたはずであり、裏を返せば改良点そのものが三島中佐の弱点、或いは失点と考えられる。
「あの武装蜂起は失敗した、しかしな、あれは僅かな理解者しか作らなんだ、否、作れなんだ三島中佐の失敗であった。国家を……時代を動かすのは、多くの同調者を得た“人”なのじゃ。人ではない兵器として調律した三島中佐にそれが叶う筈もない」
刀旗の言い様に、次の英雄に軍事以外の要素を求めていると明日香は気付いた。軍を率いるべき英雄が政治体制の打破に軍事力“のみ”を用いた時点で、刀旗が、旭日会が求めた英雄とは掛け離れていたのだ。
「じゃから刀華は英雄として調律される事はなかった。英雄は確かに軍を勝利に導くが、それが祖国を良い方向へと導くかは別問題じゃからな」
その言葉は、明日香も理解できなくはなかった。
愛国心ゆえの行動であっても、それが国家にとっての国益となるとは限らない。逆に亡国への第一歩となる事とて有り得る。文屋が御国の為と謳い、それに押された民意による大東亜戦争。政治家達は現実から目を逸らして、軍人はそんな劣悪な民意によって戦場に投じられて死んでいった。それを考えれば、旭日会の英雄を求める風潮は、民意という主体性のない暴君に対する不信感の表れとも捉えられる。
「なら刀華は……」一体、何か?
英雄の後継者に英雄を求めない。なれば何を求めるというのか。明日香は徐々に色褪せつつある刀華の横顔に問い掛ける。
「…………軍神」
それは、刀華が度々と口にしていた称号。
英雄が勝利と正道を以てして人々を導く者であるのに対して、軍神とは軍を神の如く統率して勝利する者に過ぎない。両者は類似している様で全く違う。
明日香には、その差異は理解できないが、刀華がそう語った以上、相応の違いがある事は疑いなかった。
「刀華がそう言っておったのか? ふん、知っておったか。儂に相談せなんだのは自信の表れか? 信頼されておらなんだのか?」面白く無さげな表情で煙管を回す刀旗。
始めて主導権を手放した様にも見える程に呆気に取られた形の刀旗に、今が好機とばかりに明日香は言葉を掛ける。
「それで、刀華は何処に?」
一瞬の逡巡。
そして、溜息。
「……異世界じゃよ」
刀旗は茶を啜り一息入れている。
――この人、ここまで惚けていたかしら?
思想的に危ない発言は日常茶飯事であったが、脳機能的に危ない発言は今の今までなかった。されども、見た目はそうは思えないが、齢百を超える翁である。国史の教科書の項目が正確であるならば、であるが。
そもそも、刀旗は隠居と評して表に出る事はなく、公式記録上では位置すらも判然としないようになっている。存在自体が半ば軍事機密となっていると言えば聞こえはいいが、無位無官で国家に多大な影響力を及ぼす存在である。国家権力に潜む妖怪と言えた。胡散臭いと言える。
明日香のそんな内心を察した刀旗は眉根を寄せる。
刀華も出会った頃は胡散臭い人物であったので、胡散臭いのは桜城家の宿命という疑念も明日香の中にはあった。
明日香は溜息を一つ。
「私、良い養護施設を知っているので……」
学校帰りに配られていた紙片を衣嚢から取り出す明日香。
「かぁぁぁぁっ! 儂は惚けとらんわ!」
親切心からの言葉に噛み付いた年老いた軍神に、少女は血圧が上がると老人扱いを重ねる。
「まぁ、あれじゃ。刀華の立場は悪い。どの道、選択肢などなかったしの」
「立場が悪い? 刀華はまだ子供ですよ? たいそれたことなんて……」
英雄か軍神の孫かは知らないが、未だ軍大学にすら入学していない子供に過ぎない以上、行政や組織に対する命令権など持っているはずもない。為せる事は限られる。
「彼奴はただ提案しただけじゃ。国家にとっての最善を、の。考えてみよ。この屋敷には軍高官や政治家……権力を持つ者共がようよう訪れよる。あれの調律の為にの。まぁ、軍神創造と知っておるのは極一部じゃが……」
「それは……刀華が御爺様の作った状況を逆手に取った、と?」
権力を持たない者が権力を最短で行使する事を願うならば、権力者を共感させ、同調させる事が最も効率的である。
「旭日会が刀華を調律した様に、旭日会の者達もまた刀華に影響される者が出てきおった」
「自業自得でしょう。刀華がそう簡単に操られるものですか」
刀華は臆病で怖がりで周囲に怯え、だからこそ苛烈で傲慢で容赦がない。人の悪意や思惑に敏感であり、旭日会の軍神調律に関しても、全容を推し量れてはいなくとも、その一端程度は察していたかも知れない。
国情に関して嘲笑交じりの皮肉を口にしていた刀華だが、他の愛国心溢れる若者の様に声高に己の主張を叫ぶこともなければ、一部の革新的な主張を提唱する政治家に同調する事もなかった。
「そうじゃな。儂も気付くべきであった。彼奴に儂らが思想と思惑を押し付けた様に、彼奴の発想や主義も儂らに浸透しておった」
木乃伊取りが木乃伊に、という展開に明日香はやはり自業自得であるという感情しか抱かない。刀華がそう容易に人の思惑に流されるままであるはずがないのだ。
「その結果、若者ばかりが死におった。七六九二五名も、の」
大きな、とても大きな溜息と共に吐き出された一言。
明日香は、その言葉の意味を図りかねた。
いや、理解してはならないと考えた。
刀華について最も理解していると自負し、斯くあらんとしている明日香は、刀華が意味もなく人を殺すという労力と手間、危険性を負うはずがなかった。
決して殺害しないとは考えない。
刀華は必要に迫られれば、必ず斬り捨てるという確信があった。しかし、その時は既に殺人という行為がその時点での最善にして最短であると判断を終えている筈である。
しかし、刀華がそうした状況にまで追いつめられるまで座視する筈もなく、また対応を間違えるとも思えない。刀華ならば、最悪の状況に陥る前にそれを回避しようとするに違いなかった。
「刀華はそんなこと一言も……いえ、追い詰められていなかった」
明日香は頭を掻き毟るって否定する。
狂気に彩られた瞳と、憤怒に満ちた表情に対し、刀旗が表に出した感情はなかった。
百歩譲って刀華に己の知らない一面があるのは許せるが、自身の知らない罪があるのは断じて許容できるものではない。
刀華は初めて自身を深く理解してくれた人。
刀華は初めて自身が恋をしようと思えた人。
刀華は初めて自身の心根を癒してくれた人。
決して優しい訳ではなく、厳しい訳でもない。しかし、怖さと寂しさの中に抗い難い安らぎがある。初めて邂逅した時、頑張る必要はない。努力もしなくていい、と手短に告げると、肩を優しく叩いて呆れと皮肉の入り混じった微笑を湛えた姿。明日香もそれに曖昧な笑みを返したことは忘れられない思い出であった。彼女を悩ます問題は翌日には忽ちに解決した。
優しい訳ではなく、甘い訳でもない。
だが、自身を真に理解し、護り、共に墜ちてくれる。あるがままの自身を否定せず、寄る辺となる刀華は明日香にとって還るべき場所であり続けるはずであった。
「私が刀華の苦しみを! 苦悩を見逃すはずがないわ! 刀華なら私に――」
「――言えまい。そのように調律はしとらん。そもそも、御主の役目を逸脱しておる……御主もまたその様に調律されておる」
「私は誰の影響も受けていません!」即座に否定する明日香。
無論、明日香の家は軍人の家系でもなければ、政治家の家系でもなく、政戦に関する者を輩出した経歴などない。至って普通の一般家系と言える。
両親は付近の小料理屋を営んでおり、明日香はその看板娘を務めている。裕福ではないが、嘗てトウカが言い寄ってきた地上げ屋を潰して以降は一般的な生活をしていた。大日連内を探せば数えきれない程に見つかる程度の境遇に過ぎないのだ。
「御主もまた刀華と同じ様に役割を与えられておった。それは、決して闘争や波乱を招く為のものではない」
「それは……」明日香は言葉に詰まる。
旭日会は、軍が十全に能力を行使できる環境を求めている……来るべき第三次世界大戦に備えているものとばかり考えていたが、それだけではないと言わんばかりの物言いである。想像していた以上に大日連に深く根差している旭日会の影に明日香は絶句するしかない。
「御主の役目は聖母じゃよ。厳しくも優しく、心身共に疲れ果てて帰ってきた軍神や英雄に微笑む現代の聖母」
「私が聖母……」
確かに近頃の若者がしている様な髪染めや華美な衣服を身に纏う事はないが、決して絵画に描かれるような聖母然とした佇まいをしている訳ではない。地合いも慈しみの心も人並み程度にしかなかった。無論、信仰心も同様である。明日香はそう自負していた。
「俗世に塗れた私が聖母? 面白い冗談ですね。では、話を度々、脱線させる御爺様には磔の殉教者などはいかがですか?」
明日香の苛立ち交じりの言葉に、刀旗は呵々大笑する。儂は既に旭日旗に張り付けられておるぞ、と。
「聖母の務めはただ一つ。傷付き、戦争に意識を引き摺り込まれた、我らの生み出した者達に日常を思い出させること。例え、引っ叩いてもの」
「それが枷の意味ですか?」
或いは、三島中佐は、人ではなく国家しか見ていなかったからこそ、無謀な血気に身を投じたのかも知れない。あの時、国民ではなく軍人と政治家、そして時の天皇に演説で語り掛けた事からもそれは分かる。
「違うのぅ。枷ではなく、赦しじゃよ。そして還るべき寄る辺。彼奴を一人にさせてはならん。孤独は人を頑なにしおる」
戦争神経症や三島中佐の如き叛乱となる事態を避けるべく、大切なモノを、愛するモノを以て繋ぎ留めるという方法は古来より有効な手段である。ましてや幼少の砌より斯く在れかしと仕向けられていたのであれば、後になって気付いてもそれは枷であり続けた例もあった。
明日香は呻く。
赦しという建前であっても本音や実情は枷なのだ。そして、何よりも全てが仕組まれたものであると言うのであれば、二人の邂逅もまた偶然や奇跡ではない。
「私と刀華の出会いも……」
「予定調和に過ぎん……否、御主を引き取った今の父母も旭日会に誘導されて今がある」
刀旗は鼻で笑う。御前の総てを我らが用意したと言わんばかりに。
明日香は怖気に襲われて自らの肩を抱く。
孤児であった明日香は、今の父母に引き取られ、大河内という姓を与えられた。父母の暖かさを、家族の暖かさを知らなかった明日香は、その極当たり前な日常と家族愛を携えた事で、普通の、一般的な少女の日常生活を歩み始めた。
それすらも筋書きに基づいたものだったのだ。
一体、どれ程に人の心を弄び、操るのか。国家の為とあらば総てが赦されるというのか。
怒りに強くこぶしを握り締め、奥歯を割れんばかりに噛み締めた明日香に、刀旗は盛大な溜息を吐く。
「国民の意識は腐敗し、仮初の平和に耽溺しておる。政治家は人気取りの為にそれを是とした。平和が、それも仮初でしかない平和を得る為に半世紀前に流された血涙を忘れて。故に我らは国民に足りぬ要素を補わねばならん。軍官民の内、二つが腐敗した以上、軍まで腐敗する訳にはいかんのだ。……軍にはそれらを跳ね除け、国民と政治家に気付かれぬ様に奴原めらを誘導できる人材が必要なのじゃよ」
納得も理解も要らぬ、と刀旗は口元を曲げる。
明日香は、軍が無責任な国民や政治家を護る事に疑問を抱いているのだと悟る。国民を守るのが軍の務めであるならば、国民もまた軍に守られるに値する存在でなければならない。憲法や法律を超えた観念上の問題としてそれはある。そこに将兵が疑問を抱けば、有事の際の士気と動員に大きな問題が生じる事になるのだ。
命を賭して護るのだ。それに見合うものでなければならない。軍人であるから価値に疑義の生じた心情を押し殺せる訳ではない。
――そう言えば……
明日香は、嘗て刀旗は何百万もの国民が残る東京を放棄した事を思い出す。今では抗戦せずに明け渡した事で犠牲者を最小限に留める事ができたと高評価を受けていたが、当時は大きな非難を受けた。しかし、古参の将兵からの非難は少なかった。それは戦略を理解しているとされているが、明日香は当時もまた現在と同様の意識を国民に対して抱いていたのではないかと考えた。
「国民が軍人を蔑ろにしている様に、軍人もまた国民を護る事に疑念を抱いている」
呟かれた明日香の言葉に、刀旗が頷く。
「そうじゃ。戦争だと世論で騒ぎ立てておきながら、戦後になれば一転して平和の建前の下に、我らを不要だと……貴様らが国民を無駄死にさせたと叫ぶ輩の多いことよ。軍人を大量虐殺者と罵るのであれば、選挙で選ばれた政治家に決断をさせて戦場に軍人を投じた民衆は大量虐殺教唆者であろう」
軍人達の怨嗟。
明日香は、それを感じて息を呑んだ。




