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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第二章    第一次帝国戦役    《斉紫敗素》
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第二五七話    戦野の酬い





「閣下、敵が……後退を……」


 キュルテンの言葉に、トウカは黙したままに頷く。


 戦闘兵種の聴覚が捉えた敵軍の遠ざかる音。重装備の軍人達が大地を踏み締め、草を掻き分け、木々を押し退けて進む音は容易に隠せるものではない。魔術的に隠蔽できても、それを行使する事で魔術的な痕跡が生じる事になる。大軍の移動を隠蔽できる魔術を行使できる魔導士や種族は限られた。


 ――追撃を諦めたか……早い。


 焼け落ちたライネケを占領する意味があるとも思えず、その戦術行動や戦略背景にも一貫性が見られず、トウカはミユキを追いつつも疑問を感じていた。皇州同盟軍総司令官であるトウカを誘い出したにしては粗が目立ち、帝国軍兵士の質は低い。無論、数ある計画の一つとして講じられた程度のものであるならば話は変わるが、ミユキを害するという行為も実は危険性(リスク)の高い行為である。


 歴史上から姿を消した建国に携わる一族であり、ヴェルテンベルク伯マイカゼの娘。次期天狐族の族長であり、順当に行けば次期ヴェルテンベルク伯となるミユキを害するというのは政治的冒険と言えた。ヴェルテンベルク領と皇州同盟軍は、その装備調達や人員策源地から見た場合、一心同体であり、一方が攻撃を受ければ報復せざるを得なくなる。軍閥である以上、攻撃を受けた際、軍事力行動を伴わない報復は主に内部から誹りを受ける。そうした方向に誘導し続けている事は、察しの良い有力者や政治家は気付いていた。だからこそ国内勢力は皇州同盟への接触に消極的なのだ。狂犬の頭を撫でるが如き真似を進んでする者が権力を握るのは容易ではない。


 辻褄が合わない。


 しかし、理論はミユキの生命に優先するものではない。


 進むしかないのだ。


「龍の嘶き……航空部隊です」


 トウカからすると異様な全高を持つ針葉樹林乱立する森林を歩く中、空など殆ど見えない。しかし、トウカにも聞こえる龍の嘶きは弱く、少ない。有効な航空攻撃を行える規模ではない。散発的に聞こえる機銃と思しき銃声も数は少なく、決定打とはなり得ない。航空攻撃の提案者であるからこそ、トウカはその航空爆弾や機銃掃射の命中率をよく理解していた。未だ皇国軍は、航空攻撃手段と戦術の模索段階にあるのだ。幾度の実戦投入と訓練や技法の大系化の連続で改善傾向にあるが、在りし日の《大日本帝国》海軍航空隊と比較すれば海鷲と蜻蛉である。


 経空脅威対象の発生に対し、対応策がないからと無秩序に逃げるというのは無様を示すに等しい。


 森林に潜めば高確率で避けられるからこそライネケを襲撃したのではないかと、時を同じくして疑い混乱するリシアとは裏腹に、トウカはミユキの捜索に思考の総てを傾けつつあった。


「閣下、この辺りです」


 トウカは木々の間から河原と渓流に視線を巡らせるが、ミユキの姿は窺えない。帝国軍兵士の遺体が若干転がっているだけであった。


「あれは……」


 遠目に窺える帝国軍の暗緑色の軍装とは違う遺体を認める。


 自らの腰を探るが双眼鏡はなく、キュルテンを一瞥するが所持している様子はない為、トウカは森林から足を踏み出す。キュルテンが短かな制止の後、已む無しと続こうとするが、トウカは「支援しろ」と留め置く。負傷に加え、二人して飛び出して狙撃されては反撃の余地を失う。攻撃を受けた際、キュルテンの小銃に応射を期待するという意味もある。


 キュルテンに様子を見に行かせるという選択肢はない。負傷の問題ではなく、トウカが戦場を歩き回る事に否定的で虚偽報告をしかねないという懸念があった。


 何より、トウカは己の目で全てを確認しなければならない。


 駆け足で河原を進み、遺体の下へと辿り着く。


 周囲を警戒しつつ、腰を落として遺体を確認する。


 初老の天狐の遺体であろうが、トウカは一瞬判断に迷った。狐耳と尻尾が切り取られ半裸にされた遺体ともなれば判別し難いものがある。(うつぶ)せの身体の顔を覗き込み、その顔がかつてライネケに訪れた際に目撃した顔立ちであるからこそ気付けた。罠が仕掛けられている可能性を考慮して遺体を仰向けにして確認する真似はできないが、付近には他に天狐とみられる二人の遺体が転がっている。


 総てが執拗なまでに刺突を受けた痕跡がある。銃剣であろうそれは、常軌を逸した数の敵兵に群がられた事を示している。一人は鼻を切り取られ、もう一人は銃床(ストック)で殴打されたのか頭蓋骨が陥没している事が遠目にも気取れる。


 帝国軍兵士の遺体も数多く転がっている事から、周辺で交戦が行われたのは間違いない。銃殺に斬殺、撲殺と様々な種類の死因が見受けられるのは、高位種が交戦した戦場でよく見られる光景である。魔導資質や膂力に優れた高位種は、低位種には困難な戦技を数多く持ち、多彩な攻撃手段を用いる傾向にあった。


 ――近い。


 キュルテン達が交戦した地点がこの辺りであるならば、付近に何かしらの痕跡が見て取れる筈である。


 トウカは周囲を歩き、痕跡を探す。


 最早、警戒心などなかった。


「閣下、これ以上は……」


 見かねたキュルテンが近付き、トウカに言い募る。


 トウカは下流へと歩き出す。


 そこに軍神は居らず、ただの若者の姿だけがあった。










 ―― 一体どうしろ言うのか……


 キュルテンはトウカの姿に途方に暮れる。


 砲兵の曳火砲撃を受けて放心状態で周囲を彷徨する新兵の如き有様に、いかな言葉を掛けたものかと躊躇せざるを得ない。新兵であれば塹壕に引き摺り込んで、頬に平手打ちの一発を以て目を覚まさせる事も叶うが、元帥閣下を相手にそれを行う度胸をキュルテンは持たなかった。ミユキを守り切れなかった負い目もその躊躇を助長させる。


 無論、トウカの放心を放置しているのは、自慢の聴覚が他者の存在を捉えていないからである。ライネケへと後退したと思われる帝国軍部隊の意図は不明であるが、渓流周辺から距離を置きつつあった。


 下流を捜索する事は可能かも知れないという打算がキュルテンの胸中にも渦巻いていた。


 キュルテンは、立場が違えどもミユキを友人であると考えているし、ミユキは常々キュルテンを友だと口にしていた。帝国軍部隊がライネケに固執するのであれば、相応の縦深を持つ森林を挟んだ渓流にまで戦力投射を行う可能性は低い。歩哨を立てるにしても、戦力分散と不案内な土地である事を踏まえて哨戒網は密にする公算が高い。渓流にまで進出する可能性は低かった。追撃であったからこそ帝国軍部隊は渓流にまで進出したのだ。


 トウカの歩みは危険だが、帝国軍兵士との遭遇の可能性も低下した。


 キュルテンはトウカの後に続く。


 ミユキが生きているとは思えない。キュルテンとしては、生存確率は皆無であると考えていた。トウカがそれを察していないとも思えず、認めるまでに時間が必要である事も理解している。キュルテンはトウカに時間を与えるべきであると、彼の彷徨に付き従う覚悟を決めた。


 もし、運悪く……運良くミユキの遺体が見つかれば、トウカがどうした方向へ振り切れるか想像も付かないが、キュルテンの手に余る点だけは確かである。


 ただただ下流へと進むトウカ。


 渓流に足を取られながらも進むトウカの足は水に濡れ、体温を相当に奪われている筈であるが、それを感じさる事はない。憤怒と悲哀の感情は痛覚の主張すら押し潰した。


 どれ程に歩いたのか、寧ろ種族的に強靭なキュルテンが心労もあって耐えかねる程の時間を経ても尚、トウカの歩みは止まらない。


 空に輸送騎や滑空機が飛来し、戦闘爆撃騎や戦術爆撃騎が乱舞しても尚それは変わらない。


 キュルテンは、戦闘爆撃航空団と思しき航空部隊を見上げる。


 部隊章を確認して〈第三〇二戦闘爆撃航空団『ハルハナミア』〉……皇国軍合同司令部直轄の戦闘爆撃航空団であると察したキュルテンは遅い到着だと悪態を付く。


避難が遅れている、或いは避難を拒んだ市町村を帝国軍が攻撃を仕掛けた際は、各種排除行動を行う想定が成されていた。無論、キュルテンもそうした余裕はミナス平原会戦以前に喪われていると理解している。


 航空部隊も機動的な陸上部隊も大兵力を漸減する事に注力しても尚、戦力不足に喘いでいた。臣民の生命を守るという建前は、政治思想(イデオロギー)的に受け入れ難い敵国の侵攻から祖国を防衛するという大義の前に潰えて久しい。


 国在りてヒト在り。


 特に多種族国家として多種多様な種族の揺り籠という概念を担う絶対的な聖域としての自負心が、国家と国軍に一部の臣民よりも国家という枠組みの保全に傾倒せざるを得なくした。職務の必要性から歴史や過去を学ぶ者達は理解しているのだ。国家という寄る辺なき者達の末路を。


 共同体の剣にして盾が国家であり、それがなくば国際社会では弱者の立場に甘んじなければならない。歴史の表舞台の一翼を担う事すら赦されないのだ。主張も権利も国家がなくては、保障を担保される事はなく、酷く流動的で列強の思惑次第となる。


 ――全力で国防に応じた男の対価がこれか……


 キュルテンは、神という存在も存外見る目がない、と毒突かずにはいられなかった。


 ヒトとして欠けた部分は多大に有れども、トウカはそれを上回る軍事的才覚と、それに基づいた魅力がある。国軍に抗し、敵国を退け得るだけの軍閥を短期間に成立させ、廃嫡に龍姫の継承者としての肩書は理論と道理を超えた信頼と信用を、一地域に留まるとはいえ彼に与えた。


 しかし、その壮麗で華麗な流血に彩られた道を舗装する葬列に恋人まで加わるという悲劇。


 ――いや、だからこその英雄なのかな?


 英雄の傍には悲劇が在る。


 結末として、或いは始まりとして、若しくは通過儀礼として。いかなる形かは千差万別だが、英雄という生き物には悲劇が寄り添う。彼らが完全無欠ではないと示す為か、或いは有為転変の理からは逃れられないと示す為か。


 英雄という称号を忌避したトウカの意図もそこにあるのかも知れないと、キュルテンは考えた。軍神という称号は、飽く迄軍を神の如く統率する者という意味に過ぎず、英雄程に多面性のある称号ではない。


 トウカは英雄になったのだ。


 マリアベルが喪われ、ミユキも喪われた。


 英雄という罪深い生き物に相応しい悲劇を携えた彼は、一層と英雄としての(みち)を押し進むだろう。


 悲劇もまた使い様なのだ。悲劇すらも求心力や話題の一部として羽搏く。何時の時代も、英雄の両翼は悲劇と暴力で出来ているのだ。


 ――友人は英雄の肥やしになったのか……


 キュルテンは涙が零れぬ様に空を見上げる。


 嘗ての祖国よりも制度と道徳の面で優越する国家であっても犠牲は出るが、友人が犠牲となるとは考えていなかった。戦争の犠牲者に貴賤などないと知る己が、友の死に理不尽を感じるという人間らしさに、キュルテンは溜息を一つ。


 人間らしさなど、遠く昔に何処かの戦場で落としたと思ってたが、失くしていなかったと気付いた時には友人を代わりに失くしていた。皮肉以外の何ものでもない有り様に、キュルテンは言葉がなかった。尤も、英雄に召し上げられた友人は、そこまでは考えていなかったよ?と嘯くであろう事だけは確信してもいた。


 トウカが不意に進路を変える。


 渓流の岸に膝を突き、石に引っ掛かり流れから取り遺された軍帽。


 皇州同盟軍……旧ヴェルテンベルク領邦軍の軍帽。天頂部(トップ)が高く作られている鞍型(ザッテルフォルム)のものだと気付き、キュルテンは顔を蒼白にして周囲を見回す。


 随分と下流に来た所為か、周囲に戦火の傷跡は見受けられない。弾痕や遺体、武器等は見受けられず、ただ軍帽だけが取り残されていた。


 ミユキの軍帽であると、キュルテンは一目で看破した。


 旧ヴェルテンベルク領邦軍の軍装が皇州同盟軍の正式採用軍装として制定されたが、実情としては未だ皇州同盟軍の三割程度にしか行き渡っていない。被覆製造は優先順位として高くない事もあるが、兵器と弾火薬の製造に人員を手当たり次第に呼集している影響が生産数に影を落としていた。


 そして、天頂部(トップ)が高く作られている鞍型(ザッテルフォルム)のものは基本的に特注品で、トウカが普段使用しているものでもある。皇国人男性の平均身長に届かないトウカが、自らを大きく見せる為に用意した特注したもので、ミユキも同様のそれを望んだ。ミユキの軍帽には狐耳の為の切れ目(スリット)が追加されている。


 近付いたキュルテンは、トウカの手にした軍帽に切れ目(スリット)がある事を認めて息を呑む。最早、疑いようもない。


 トウカは両膝を突いて軍帽を抱き締めた儘に動かない。


 まだ当人が見つかっていないと言うべきとも脳裏を過ったが、キュルテンですら生存は絶望的と見ている以上に、トウカ当人が歩みを止めたのだ。彼の行動がミユキの生存の可能性を端的に示していた。キュルテンに見えぬものがトウカに見えていても不思議ではない。


 キュルテンはトウカの腕を掴んで岸へと進む。


 戦闘兵種としての膂力は、然したる反応を見せないトウカを岸にある一際大きい石へと腰を下ろさせた。


「閣下、御体を乾かします」


 キュルテンはトウカの脚に触れ、温風を発生させ、水滴を衣類より分離させる術式を展開する。生活魔術と呼ばれる極一般的なものに過ぎない。トウカの軍装は特注品で複雑な防御術式や体温調整を担う術式が組み込まれているものの、渓流を歩いて流水に晒されては能力限界値を超える。


 ミユキの軍帽を抱えて肩を震わせるトウカの身体を乾かす次いでとばかりに短機関銃と軍刀を取り上げる。万が一を考えての事であった。トウカは抵抗を見せない。


 キュルテンはトウカに背を向ける。


 矜持を持つ男が泣き顔を見られる事を恥じ入る生き物であるという事は、キュルテンも理解していた。


 小さな何かに亀裂が入る音が響いた事に二人は気付かなかった。










「閣下を発見した? 下流? 部隊を移動させる。下流へ進出する」


 報告を受けたリシアの決断は早い。


 リシアの号令の下、短機関銃を構えた鋭兵を前衛に小銃を構えた鋭兵が続く。


 短機関銃が正式採用された皇州同盟軍に於いて採用された警戒序列を以て進む姿に隙はなく、それでいてかなりの速度での移動である。戦闘兵種で構成された鋭兵科の脚力ゆえに、リシアが移動速度に焦れる事はなく、寧ろ追従する事に注力する必要があった。


 既にライネケ周辺の帝国軍部隊に対して烈火の如き航空攻撃が行われている。


 戦闘爆撃航空団には、皇州同盟軍総司令官の危機であるという程度の概要は伝えられているのかも知れない。〈第三〇二戦闘爆撃航空団『ハルハナミア』〉は、内戦で活躍した飛行兵を中心に編制された最精鋭航空部隊であり、ミナス平原会戦では総司令部直轄の火消し役として活躍した。


 低空まで降下して執拗に航空機関砲や機銃で攻撃を続ける以上、相応の情報は伝達されているはずである。情報伝達の不備は誤爆を招きかねない。無論、現状ではトウカの居場所が不明である為、誤爆の可能性は付き纏うが、彼が離脱し損じる事はないとベルセリカは考えたのだ。


 リシアは推測を重ねつつも歩を進める。


 果断の結果、早々に兵力は集まりつつある。航空輸送される陸上戦力は鋭兵ばかりで、後詰めには神殿騎士団がいる。ライネケまでの道程を魔導車輛すら優越する速度で進出している筈であった。連絡騎の巡航速度が戦闘爆撃騎の五割程度である事を踏まえると、かなりの距離を詰めている事は疑いない。魔導騎兵の統一編制による移動速度は、陸上兵科の中では最速である。


「大佐。あちらを」


 目元以外を頬当てで隠した鋭兵の表情は読み取れないが、離脱者も多い過酷な訓練を経て任官した精鋭の言葉は震えていた。


 トウカの権勢は北部に於いて他者の追随を許さず、ベルセリカの上位に立った事に否定的な意見を口にした者すら殆ど居なかった事からも、その異常性は窺える。歴史の一部となった郷土の英雄を極短期間で圧倒する程の名声と権威を手にした彼の恐ろしさを、鋭兵という兵科はよく理解している。配備された短機関銃や携帯式対戦車擲弾筒や、空挺を含めて専門性を増した実戦的訓練からトウカが以前までの指揮官と一線を画する人物であるという理解もあった。


 しかし、最大の違いは残虐性にある。


 軍人の視野を持ちながら、民衆の如き残虐性を併せ持つ彼の命令は常軌を逸したものが多い。歩兵科が躊躇う戦線後方への浸透任務は主に鋭兵科の任務となった。本来であれば輜重線の擾乱という任務以上の意味はなかったが、トウカは残虐である事を執拗に求めた。


 敵兵士の遺体を木々に吊るし、串刺しにし、内臓を引き摺り出して撒き散らすのだ。遺体を解体し、遺体に彼らの神を侮辱する言葉を刻み、顔面を潰して判別不可能にする。


 輜重任務がより滞るようにとの意図と言えば聞こえは良いが、敵国との条約がない事を根拠として、人道に悖る行為を以て敵の士気を削いだのだ。実際、輜重兵が怯え、帝国軍の輜重は滞った。結果として輜重部隊の護衛にかなりの戦力を抽出せざるを得ない状況に陥っている。


 戦果確認として鼻を削いで回収せよという命令は、近代軍としての命令ではない。


 敵国が人間種以外の種族に対して極めて敵対的な国家である以上、妥協の余地はないが、それに対して同等の行為を躊躇せずに命令するトウカを畏れる者は多い。感情論に基づかない妥当性や効率性からの命令として体裁を整え、戦果次第で叙勲も用意した。


 妥当性や効率性を明文化し、それを根拠とした命令を下し、隷下の将兵も気が付けばそれが当然だと考えてしまう恐怖がトウカにはある。


 彼は一片の疑いなく部下に苛烈な命令を当然と受け取らせる。


 鋭兵はトウカの残虐性を示す戦野に積極的に投じられている為、トウカの戦略や戦術、戦闘教義を強く信奉していると同時に畏れを抱いている者も少なくない。行き過ぎて憧憬や尊崇の念へと転じた者も少なくないが、そうした彼らもトウカの前では萎縮する。


「鋭兵は周辺警戒を。後続の鋭兵は恐らくライネケの奪還を優先するが、こちらに指示を求めてきた場合、一個小隊を回せと伝えなさい」


 鋭兵はリシア命令に応じ、敬礼を以てその場を離れる。


 リシアは、大石に座り込んだトウカの背中に、軍帽を被り直そうと(ひさし)を手に取ろうとするが、騎乗前に投げ捨てた事を思い出して前髪を掻き揚げる。


 リシアも恐怖がない訳ではないが、それはトウカを喪うかも知れないという恐怖である。


 キュルテンがトウカのものと思しき軍刀と短機関銃を携えているところを見るに、自害でもするのではないかと懸念した事は推測できるが、リシアはトウカがそうした感性を有していない事を察していた。


 リシアはトウカの背に手を伸ばせるところにまで近づいた。困り顔のキュルテン。リシアは下がれとは言わない。一人で相対するだけの勇気は、リシアも持ち合わせていなかった。


 リシアはトウカが自害する筈がないという確信はあるが、喪われるものは確かにある。


 物質的な喪失ではない。精神的な喪失である。


 トウカは責任や問題を外部に求める傾向がある。


 絶対的なまでに己の非を認めない。


 己の弱さを見せれば付け入られるのがヒトの世である。悪意を知り、偽善を知る彼は、世の中が敵か味方か潜在的脅威かという色分けしかない。中立は存在しないのだ。


 政戦を知り、歴史を知ったトウカは、性悪説が罷り通るのが世界の現実だと理解している。そして、その姿勢を己の私生活にまで反映させている。公私共に性悪説や制限以外の全許容(ネガティブリスト)を振り翳す者など市井では性格破綻者に他ならないが、幸いな事にトウカは軍人であり政略家であり戦略家であった。


 世の中では珍しい卑怯や卑劣というものが賞賛される職業である。


 そうした結果のみを頑なに信奉する世界しかトウカは知らない。幼少の頃から政戦を学び、ヒトとして一般的な生活をする事を前提とした教育や素養などは教育されていなかった。


 リシアやベルセリカは、その辺りを朧げに察していた。


 若くして政戦や科学技術に関する異様な程の知識量と、それを行使する際の判断材料として歴史を軍事史への造詣を深める。それら以外の一切の可能性を塗り潰し、一人の戦争屋を創り出す意図に、リシアはある種の狂気を感じていた。


 トウカは、恋人を失う……恋に破れるなどという一般人が時折、出逢う感情を想定していない。


 それは大きな戸惑いであり、当人からすると過大な試練と感じる筈である。


「トウカ……あの仔狐は?」リシアは問う。


 直截な物言いにキュルテンが批難がましい視線を向けて来るが、リシアは動じない。高位種に囲まれた職場である総司令部に詰める内に、彼女の心根は強固となった。無論、最たる要因は時折顔を出すアーダルベルトであるが。


 暫しの無言。


 リシアはトウカの言葉を待つ。


 アリアベルの神殿騎士団が到着するまでに方針を確定する為、情報を望んでいたが、トウカが自らの言葉で事実を口にしなければならない、事実から逃げる事は時間を捨てる行為に等しい。


 一時間か二時間か。


 懐中時計を確認した訳ではないものの、少なくとも正確な時間が曖昧となる程度には過ぎ去った時間の先。トウカは口を開いた。


「……死んだ……その筈だ。……契約していた……その感覚が途切れた……」


 トウカの言葉に、リシアは息を飲む。



 契約。



 魔術的な夫婦契約を指すそれは、ある種の呪術である。法的に禁止されている訳ではないが、近代化に伴う多様性や低位種の権利拡大に連れて喪われたものである。近代化は離婚率の増加を齎し、その足枷となる契約が忌避されたという部分もあるが、最大の理由は、最愛のヒトの死で後を追う者が少なくなかったという理由に依る所であった。


 契約は魔術大系的に区分けした場合第三種精神感応系魔術に分類される。これは対象の感情からの感化を齎す魔術という事を意味し、干渉という強制力のあるものとは違うものの、軽度の影響を受ける。軽度と表現されるが、影響を受ける期間が長ければ、それは確実な感化を齎す。


 距離に関係なく影響を受け続ける以上、喪われれば、それを直ぐに察する事ができる。


 トウカが飛び出した理由を理解したリシアは血の気が引く感覚を覚えた。


 それでは万に一つも生存の可能性はない。生存の可能性を示して、一先ずトウカを立ち直らせるという手段は選択できなくなった。


 魔術に疎いトウカが契約を望んだとは考え難く、トウカとミユキの関係が一年程度である事を踏まえると、ミユキが押し込んだ契約であると予想できる。


 短兵急に恋愛を押し進めるミユキを、リシアは眩しく感じていたが、その結末がこれでは、己は今後、恋愛に於いて積極性を発揮する事を躊躇せざるを得ない。リシアは胸中奥深くに、ミユキへの罵声を押し込んだ。


「閣下、あと数時間もすれば神殿騎士団が戦域に到着します。ライネケで閉塞作戦を開始します。残敵掃討を以て支配権の奪還を行いますが宜しいですね?」


 トウカが頷く事を確認……したふりをすると、リシアはその背に敬礼する。


「可能であれば、遺体は取り戻します」


 死して尚、帝国主義者に辱めを受ける真似は許容できない。皇国軍人としての義務である。帝国主義者に鉛玉以外にくれてやるモノなどありはしないのだ。


 リシアは、キュルテンに事後を任せ、トウカに背を向ける。


 ミユキの死が確定してしまった事で、敵の撃滅を最優先せざるを得ない状況にリシアは追い遣られた。










 夜の帳が降り始めた中、トウカは目元を袖で拭う。


 胸板に僅かな痛みを感じ、紐を引っ張る形で御守りを取り出した。


 御守りには袈裟懸けに罅割れており、辛うじて形を保っている状態に過ぎなかった。


 ミユキが齎したものが消えていく気がしたトウカは、新たに流れる涙が零れぬ様に夜空を見上げた。


 都市光がない満天の星空は酷く現実離れしている。


 遠い歴史の残骸である星河が夜空を縦断している光景もあり、祖国の夜空とは似ても似つかない月がある点は同様であるものの、月面には地上から肉眼で見ても分かる程の隕石孔(クレーター)が幾つもある。大質量兵器による痕跡であると、トウカは見ていた。


 祖国を離れ、異世界に投げ出された挙句、戦争に参加した結果、女を二人喪った。


 戦争は控えめに見たとしても辛勝でしかなく、己の才覚はその程度だったと突き付けられたトウカは、抜き差しならぬ現実に直面した。現実という壁は高く、一地方で蛮声を張り上げる程度の活躍しかできなかった。


 己の武勇は女二人を喪って尚、地方軍閥で諸勢力に抵抗する程度のものに過ぎなかったのだ。


 陸海軍の将星達が政戦両略を願って生み出された己の実力を、トウカは信じて疑わなかった。否、投じられた労力と資金に見合うだけの実力がなければならなかったのだ。斯くあれかしと望まれ、そう在るべきであるとトウカは確信していたが、己の実力はそれに似合う程ものではなかった。


 異世界での武力闘争は、それをトウカに突き付けた。


 少なくとも、トウカはそう考えた。


 祖父程に軍という組織を運用するだけの才覚があれば、皇州同盟の身代は今以上に拡大し、帝国軍を悠然と迎え撃てたに違いなかった。


 皇州同盟には先がない。


 トウカは、それを理解している。


 身代が小さいという事もあるが、皇州同盟という組織が非常時に於ける緊急的措置の連続によって形作られているという点が弱点となる。


 帝国の継戦能力は損なわれたと言っても過言ではない。脅威は去ったのだ。それに対し、トウカは皇州同盟軍を摩耗させただけで、想定していた程の権威を手にできなかった。陸海軍はトウカを認め、連携が進みつつあるが、帝国侵攻には肯定的ではなく政府も形骸化した。


 中央貴族にも権威があったのだ。


 彼らが居れば帝国軍にも抗する事が出来るという根拠なき確信を中央地域の民衆は抱いていた。彼らには、建国以来、他国の軍勢に一度たりとも中央地域への進出を許さなかったという実績がある。その実績は、長い時を経て歴史となり伝統となった。それは酷く強固な権威へと転じた。


 事実として、彼らの領邦軍を糾合すれば強大な戦力となる事は確かで、種族として戦争に適した者達も数多く存在する。それ故に帝国という国家への危機感は、北部を喪っても尚、致命的なまでに高まらなかった。


 中央地域に皇州同盟の影響は未だ浸透していない。


 皇都で右派政権が成立しても意味はない。


 ヴァリスヘイム皇国という国家は政権という統治機構に重きを置いていない。天帝不在の御世に在って国家権力の多くを握っている様に見えるが、封権主義的な統治体制が続く皇国では、各貴族領に統治の裁量が分散している。


 政府の政治姿勢が各貴族領の領民に浸透するには時間を要すると、トウカも考えていた。


 しかし、想像以上に浸透しなかった。


 各貴族領に於ける統治は開明的であり、領民の繁栄を重視していた。然したる不満も生じず、寧ろ諸問題に当たっては公明正大に対応する彼らを支持する者は多い。例え消極的であっても広く支持されているのだ。


 長きに渡る善良な統治を実績とした信頼。


 その岩盤にトウカの影響力は遮られた。不満のない者達に主張を認めさせる事は難しい。何時の時代も、何処の世界でも、短期間で政治的主導権を得るには不満に付け入る形で民衆の支持を得るしかない。


 トウカは、敵国の軍勢に対応できないという不満を用意したが、それは中央貴族の敵に在らずという言葉の前に敗北したのだ。



 国民の憎悪心は、その文化が低ければ低いほど強いものである。



 皇国の国内情勢をトウカは正確に見積もる事に失敗したのだ。


 力ある貴族を前提とした文化が各貴族領で根付いている。


 歴代天帝が苦悩した国民の国家への帰属意識の薄さは、そこから来ているのだ。中央集権を前提とした近代国家が大多数を占める世界で生きたトウカは、封権主義的な皇国の状態を正確に推し量れなかった。


 英邁な貴族が形作る揺り籠の中で外部への無関心を選択し続ける民衆に、トウカの言葉は届かなかった。新聞社を影響下に置いて尚、影響力が浸透できなかったのは、所詮は銭儲けの為に事を騒ぎ立てるに過ぎない新聞という情報媒体の本質を民衆が見透かしたからではなく、安寧という実績を持つ領主貴族の言葉を信じたからである。


「無駄な事をしただけか……」トウカは星空に呟く。


 開戦初頭で航空戦力をエルライン回廊に集結させ、要塞保持を強行するだけで良かった。


 皇州同盟の影響力拡大を実現する為、そして軍事面での危機感を煽動する事で権力拡大を意図した北部での後退戦であった。


 トウカには悲劇が必要だったのだ。


 しかし、ミユキという悲劇は必要なかった。


 しかも、トウカが演出した悲劇では北部の意思統一が限界であった。


「……何をしているのだ、俺は」


 挙句に共和国を抱き込んで未だに出兵を計画している。平和という軍閥存続の危機を避ける為、組織を生かす為に戦争を続けるのだ。将兵を養うべく将兵を戦地に送るという矛盾を押し込み、トウカは戦争の必要性を声高に叫び続ける。


 事実として、帝国が脅威として存在する以上、帝国打倒という主張は一定の妥当性を持つ。


 無論、その妥当性は北部地方で激しく燃え上がるだけである。


 中央貴族は最小限の動きでトウカを北部という折に閉じ込めた。少々の乱暴は北に番犬を繋いでおく為の必要経費と割り切ったとも採れる。彼らはトウカの思惑を利用し、自らの身銭を切るのではなく、政府と北部に国防を押し付ける方向に舵を切った。否、トウカの到来以前より北部を盾とする事が中央貴族内で取り決められていたのかも知れない。


 既定路線となった方針。その為に長期間を掛けて準備された予算や人員、体制の中にトウカは飛び込んだ。急増の組織と焚き付けた者達を糾合して立ち向かったが、中央貴族からすると、それすらも許容範囲内の出来事に過ぎなかった可能性すらある。


 戦略次元でトウカの敗北は決まっていた。


 対処できるだけの時間を与えられていなかった以上、事前に知っていたとしても結末に変わりはない。寧ろ、事前に知っていたならば、軍事行動は最小限として、軍備拡充を時間を掛けて行いつつ、機会を窺う途を選択したかも知れない。


 否、マリアベルの余命を踏まえれば、それでも一戦交える可能性が高い。


 勝機はなかった。少なくともトウカには見い出せない。


 全てが馬鹿らしい。


 目を瞑れば、瞼の裏には一年程度の期間が走馬灯の様に駆け巡る。


 ミユキがいてマリアベルがいた。


 左右に二人が居て、己の才覚を以て皇国を統率し、大陸統一を成し遂げる。


 そうした現実は、夢幻は泡沫と消えた。


 長期的に見れば、既に大陸統一を遂げた他大陸国家の草刈り場や代理戦争の舞台となる事は明白であるにも関わらず、皇国は微睡の中に居る。何もかもが変わらないと妄信し、ただただ変わらぬ現状を強固なものと成さしめようとしている。


 他大陸統一国家の軍勢は最低でも三〇〇〇万の将兵を有する戦闘国家である。


 《ローラシア憲章同盟》と《エルゼンギア正統教国》。


 地上で荒れ狂う政治思想(イデオロギー)という名の怪物(リヴァイアサン)


 終末兵器のない世界で相互破壊確証はなく、延々と戦争を繰り返す世界。


 戦火は広がり続ける。


 種族的優位など押し潰す数の軍勢で恭順や隷属を求めてくるであろう未来をトウカは確実視していた。


 トウカでなければ退けられないのだ。


 その為に己は居るのだ。


 そうでなければならない。


 ミユキの生存圏を護持するという事は、その点を含んでいる。


 しかし、トウカはミユキを喪ってしまった。


 戦う意義が消え失せた。


 瞼の裏に描かれた仔狐は変わらぬ笑顔を湛えているが、瞳が映す世界には最早、その姿は居ないのだ。


 トウカは立ち上がると、恋人の姿を惜しむ如く瞑目したままキュルテンに手を差し出す。


 躊躇いながらも恭しく軍刀が差し出されるが、キュルテンの物憂げな表情には瞑目しているが故に気づけないまま、トウカはそれを受け取って佩く。


 背後からの無数の足音。整然とした足運び。行進訓練を省いて実戦的な訓練に絞った皇州同盟軍部隊のそれではない。振り向く必要も瞼を開く必要もない。


「閣下、神殿騎士団騎兵が到着。大隊ですが強行軍であった為、展開兵力は一個中隊になりましたが、騎兵突撃で敵は壊乱状態です」リシアの声。


「ライネケへと続く道を掃討しました。鎧袖一触です。今は森林に逃げ込んだ敵兵の掃討を進めています」アリアベルの声。


 魔導騎兵でライネケへと至る道を強襲したのだ。隘路を魔導騎兵の練度と突破力で強引に突っ切ったと容易に想像できた。極めて危険で無理のある判断であった。成功したのは、帝国軍の練度不足と指揮系統の瓦解によるところである。


 烏合の衆と成り果てて隘路を撤退する敵軍に騎兵部隊が突入したのだ。


 阿鼻叫喚の地獄絵図となった事は疑いない。アリアベルは内戦でも騎兵突撃に参加している。馬上では果断に富むのか、平素の決断には見られない拙速さが滲む。騎兵将校としては、間違ったものではない。


 トウカは瞼を開き、星河を睨む。


 栄華を極めた科学技術の墓標は語らない。


 思考は纏まらない。


 だが、それでも成さねばならない事がある。


 ミユキの軍帽を被り、今一度、目元を拭う。




 トウカは己の言葉を待つ……現実へと振り向いた。




 リシアにアリアベル、キュルテン……神殿騎士団魔導騎兵に皇州同盟軍鋭兵。三〇名程度の人員がトウカの言葉を待っている。


 握り締めた御守りを一層と強く握りしめ、トウカは言葉を放つ。


「諸君、御苦労。多くは語らない。引き続き残敵掃討を継続せよ」 


 皆が沈黙している。


 蒼白の表情で口を開こうとして断念したリシアが、アリアベルを見やる。


 アリアベルは片膝を突いて沈黙する。


 大御巫の後に続く神殿騎士団騎兵の面々。


 トウカは眉を顰める。


「貴官の責任ではない。誰の責任も問わない。我々は勝利している」


 鋭兵やリシア、キュルテンまで片膝を突いた中、トウカは眉を顰める。


 誰の責任でもない。


 敵がいて味方がいる。前線があり銃後がある。そして、生と死がある。それが戦争なのだ。


 暴君としての振る舞いが板に付いてきたのか、或いは癇癪を起す戦争屋と見られたのか。トウカは言葉に窮した。


「閣下、閣下……紫水晶(アメジスト)の瞳は……」


 キュルテンが呻くように呟く。顔は上げない。河原に敷き詰められた小石の群れに視線は張り付けられている。


 トウカは渓流の端、流れが緩やかな水面を一瞥する。



 そこには、紫水晶の瞳を持つ己の姿が揺れていた。












 ミユキの(まじな)いの効果が切れたか、とトウカは呟く。


 気味の悪い瞳。今の今迄忘れていた程度の問題に過ぎない。トウカはミユキと旅する中、早々に己の瞳の変化など忘却していた。意図的なものではなく、ミユキとの日々や目新しいモノに満ちた異世界への興味が些事を押し潰したに過ぎない。視力に変化がなく、変色程度の問題であり、ミユキが、そういう事もある、と興味なさげに言い捨てた事もあり重要視しなかった。


 アリアベルが一層と首を垂れる。


「紫水晶の瞳は、天帝陛下となられるべき御方が印に御座います」


 トウカはある程度を察した。


 紫という……紫苑色という色が、何を指す色であるか察した為である。


 歴代天帝の招聘に関する項目は口伝として初等教育で国民に伝えられ、文章化する事は不敬であるとされている。歴代天帝の御真影は偶像崇拝に当たるとして一般に流布する事はない。神性の担保として神秘性を保持しようという努力であるが、それ故にトウカは己の瞳と天帝の関係性に気付く事はなかった。ベルゲンの図書館の書籍にも、天帝に関する項目は成した業績のみを以て記録されている。


「そうか」


 トウカは軍帽の(ひさし)を下ろし、目深に被る。


 ――御前は……望まなかったというのか?


 よくも騙してくれた、とトウカは胸中で、ミユキの奇襲に狼狽していた。


 涙を拭いトウカは下唇を噛み締める。


 己が統治機構に組み込まれる事を避けたいというミユキの意向があった事は疑いない。トウカは確信している。そして、二人が離される事を恐れたと容易に想像できた。


 行き成り到来した定かならぬ者に皇位を与えるなど狂気の沙汰と思えるが、己の権威以外に影響力を持ち合わせない主君が、ある意味に於いて安心できる存在でもある。縁故や交友関係によって法治や治世を湾曲させる可能性を低減し、縁戚による新たな国内勢力の誕生を防ぐ。


 天帝となった者は周囲の情勢や人員を理解し、信頼を築かねばならない。よって常に当初の政策は以前のものを踏襲したものとなり、既定路線から大きく外れない。


 積極的な動きは己の立場を危うくし、協力者を失う結果となりかねない。


 盤石な立場を築くには時間を要する。招聘された時点で信頼に値する後ろ盾のある歴代天帝など僅かしかいない筈であった。


 そうした中でミユキを侍らせる我儘を押し通す事は難しい。影響力の増大を狙い、或いは協力関係や信頼関係の構築の延長線上で有力貴族から皇妃を娶る必要がある。例え、天帝がそう考えなくとも、権勢や権力拡大を求め、間違いなく有力貴族は令嬢を皇妃の座にと望むだろう。


 そうなれば、ミユキの立場は危うい。


 ミユキは察したのだ。


 至尊の頂に侍る者達が、どの様な肩書を手にしていたか知る事は容易い。爵位に権力、財力……強大な外戚のない者に務まる程、皇妃は単純な立場ではない。天帝の権威が諸勢力を優越し、権威が不動のものとなって初めて可能なものであった。


「閣下は、何故、至尊の座を……」言い淀むアリアベル。


 啜り泣く神殿騎士団の一部を背にしたアリアベルは、躊躇いが窺えるにも関わらず、異様なまでの威風があった。大御巫としての立場がそうさせるのか。或いは、国難に在っても尚、沈黙を護る絶対的権威者への反抗心か。


「与り知らぬし、直ぐに忘れた。気味の悪い瞳だと、ミユキに魔術で隠させた」


 ミユキの責任にさせてはならない。寧ろ、その機転には感謝せねばならないのだ。


 天帝となる利点などトウカにはない。


 諸勢力の思惑の狭間で実力を発揮できぬ様になるだけで、一分の利益すらない。己が意思で行使できぬ権威など無価値ですらある。


「俺はマリィにもミユキにも天帝とやらとして望まれた事はない」


 己の意思と実力に依って立つ事を望まれ、トウカは斯く在れかしと振る舞った。トウカは皇国に対する義務などないのだ。


國民(くにたみ)は! 望んでおります! 在るべき玉座に在るべき皇尊(すめらみこと)御座(おわ)す御世を!」


 よくも好き勝手に喚くものだ、とトウカはアリアベルを見下ろす。


 自国の一部である北部の防衛にすら消極的な程に国家への帰属意識の低い国民が望む天帝など御飾りに過ぎない。歴代天帝の方針も天帝自身ではなく、周囲の宮廷雀共のものとすら思える。


 天帝というものにトウカは幻想を抱かない。


 ある種の幻想を以て今尚君臨する現人神の国に生まれたトウカであるが、天帝という存在には乾いた現実しか感じなかった。


 そして、トウカは気付いた。気付いていしまったのだ。今更ながらに。


「御前が……御前が俺を呼んだのか……」


 あの日、あの時、あの場所で耳朶に触れたトウカを招く声。


 一年近くも時を過ぎれば、その声音も不明瞭な記憶となり果てているが、脳裏に眠る記憶の残骸はアリアベルの声音と類似していると叫んでいた。


「私が招聘を取り仕切りました」


 それは咄嗟の行動だった。


 右足を半歩下げ、右腰に佩いた軍刀の柄を掴み、一息に抜き放ったままに振り上げる。刹那に勝る速さであった。


 しかし、リシアがアリアベルの前に進み出た事で、トウカは軍刀を振り下ろし損ねる。


「退け」


「なりません。今、殺せば皇州同盟は遠からず滅びましょう」


「退けッィ!」


 振り下ろす軍刀。


 しかし、それはリシアの乱雑に切り刻まれた紫苑色の髪の毛先……首筋で止まる。


 震える切先。


 憤怒が手先を過つ事はなく、リシアの首筋に僅かな深紅の線を引くに留まる。


 リシアは投じなかった。目を瞑る事もなく、ただ一心に現実……トウカを見据えている。恐るべき胆力と言えた。直截的な生存本能を組み敷いて、己の主張を貫き徹したのだ。


「呼ばれなければ俺は変わらぬ日常を送っていた! ミユキも戦死しなかったかも知れない……斬らねばならん!!」


 絞り出すような声音。トウカ自身も驚きを隠せない。ヒトはこれ程までに憤怒に身を窶せるのか、と。


 祖父はどうしているのか。祖父まで奪われたのだ。トウカの小さな世界は奪われたのだ。見知らぬ国家の斜陽を支える為に。


「復讐や報復に意味はないとは言いませんが、戦略的意義のない私刑には反対します」


「総てを失って尚、戦略が意味を成すというのか! 目標なきそれは戦略ではない!」


 マリアベルを喪って、ミユキも喪った。その時点でトウカの戦略は破綻している。元来、ミユキの生存圏確保を目的とした軍事行動だった。


 ミユキが居ない中で、尚も不利が決まっている戦略を推し進めなければならないのか。


 トウカの叫びは、正にそれであった。


「皇位など要らん! この期に及んで尚も国の為に戦えだと!? 今尚、静観を決め込む連中を統率しろというのか!」


 今まで築き上げた、或いは続いた者達総てを打ち捨てるという身勝手をトウカは厭わない。トウカにとり自身の行動は、許されるか許されないかではなく、成すか成さぬかという基準しかない。社会的観念や社会的常識というものは、為政者が国民を画一化すべく築き上げた幻想の産物に過ぎないのだ。


 故にトウカは己を押し徹す。


 己が既存の体制と停滞を打破して、新たな秩序を築くべく育成されたと知るが故に、観念や常識から外れた行為に及ぶ事を躊躇しない。



 戦略史では善意が罰せられる。



 トウカは非常識を求められて造られたのだ。


 リシアは立ち上がる。


 それが対等であるという意思表示であると、トウカは気付いた。


 畏れ多いと左手を掴むアリアベルを振り払い、リシアはトウカの正面へと立つ。


「皇位を、皇位を望まないならば! 亡命が最善! 私もヴァルトハイム卿も御供するわ! ……トウカ、貴方次第よ!」


「大佐、何をッ!」慌てるアリアアベル。


 リシアは「煩い!」とアリアベルの脇腹を軍靴で蹴りを加えて黙らせると、トウカに詰め寄る。


「貴方が至尊の座ではなく! 軍神という武名を望むならば北部で即位すればいいわ! 我が軍の正統性は貴方と共にある」トウカの両肩を掴んだリシア。


 貴方の後に続くという裂帛の意思が宿る瞳は狂気に等しい。


 トウカ自身は予期していないが、彼の命令で戦火を潜り抜けた者達の中には北部を護るという大義以上に、トウカの元で戦うという事に意義を見い出している者も少なくない。


 軍人が勝てる指揮官を渇望するという以上に、革命に於いては革命家の主張に共感する者だけでなく、革命家自身に魅せられて革命軍に加わる者も少なくないという面がある。革命家一人の存在が複数の民族を纏め上げ、建国に至った例もある。そして、革命家一人の死でその国家は六つに分裂した。


 トウカもまたそうなりつつある。


 奇蹟的勝利の連続が、トウカを瀟洒に装飾していた。


 それは実態を押し潰す程の栄光を纏いて目にした者を狂わせた。行動と実績を以て評価するという至極当然の振る舞いが、良き結末を齎す根拠など何処にもないというのに。


「貴方次第よ! 貴方が総てよ! 理屈も大義も!貴方が語れば真実になる! 私達がそうさせる!」


 それが皇州同盟軍本来の責務であると断言するリシア。


 軍事力を以て理論を超越するという宣言。


「……ミユキはもう居ないのに、か?」


「そうよ」


 トウカの問いに、リシアは端的に現実を返す。


 流れる涙。


 リシアはトウカを抱き寄せる。


「今、答えを直ぐに出す必要はないわ。今は休みなさい」


 薄れていく意識。


 月夜を背にしたリシアの笑みだけが酷く印象に残った。





 喪っても尚、政戦は止まらない。統治機構と組織にとり一個人の死が然したるものではないと言う様に。







国民の憎悪心は、その文化が低ければ低いほど強いものである。


    《愛蘭(アイルランド)共和国》 詩人 オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド




戦略史では善意が罰せられる。


    《大英帝国》 国際政治学者 コリン・S・グレイ



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